構造主義の夢

構造主義の「構造」とは何か?
構造主義は高校の現代文にも出現するほど膾炙していながら、困ったことにこの問いへの簡潔な答は存在しない。(私の中で)定評のある「リベラルアーツガイド」でさえ、その表現は謎めいている。

人間の社会的・文化的現象の背後には目に見えない構造があると考える思想

リベラルアーツガイド

例えば中華思想やヨーロッパ中心主義(単純に「中東」「極東」といった言い方に現れる意識という意味で)も「構造」なのか? マヤ暦の独特な周期性や仏教の輪廻転生はどうか?

ここで正直に勉強するならばソシュールの言語学、ヤコブソンの音韻論、レヴィ゠ストロース、ラカン、バルト、アルチュセール、フーコーなどを学ぶことで構造主義の実例から雰囲気を掴む流れになる。

それらの特徴は「差異性(同一な実体への否定)」「無意識性」「科学性(没主観性=没視点性)」(岡崎文明他『西洋哲学史』第2版 p.373)とされ、実際フランスの思想史上ではそうなるだろうが、思想家ごとに実態は随分異なる。
「科学性」は反ヒューマニズム(人間性を大切にする考え方の批判)という点でアルチュセールに顕著と思われるし、「差異性」は後のデリダが最も強調している。
だが当時の「構造主義」への熱狂は、そうした内実を反映したものだったのか? 特に「差異性」への強力な関心などというものがどういう社会情勢ならば醸成されるのか、中々想像がつかない。

そこで鍵となるのがレヴィ゠ストロースにおける「構造」ではないか。
一般にソシュールが最初の構造主義者とされることも少なくないが、恐らくそれは「構造主義」が確立してから事後的に認定されたものであって、レヴィ゠ストロースにこそ構造主義は始まった。
岡本裕一朗『フランス現代思想史』は「「構造主義者」と呼べるのは、もしかしたらレヴィ゠ストロースだけかもしれない。」とまで言っている。

レヴィ゠ストロースは何をしたか。
『親族の基本構造』のタイトル通り様々な民族の親族体系を分析したのだが、ただあれこれの特徴があると分析したのではない。厳密に構造があると論じたのだ。
(以下、ある程度説明するが「とにかく」まで読み飛ばしても良いと思う。)

群とは数学における一種の構造であり、集合(何らかの集まり)と演算(集合の要素のペアに何かを対応させる操作)に対する次の条件を満たすものを言う。

0. 演算が閉じている(演算の結果が集合内にある)
1. 結合法則を満たす(演算の組み合わせが計算方法に依らず一致する)
2. 単位元が存在する(「何もしない操作」がある)
3. 逆元が存在する(「元に戻す操作」がある)

要するには集合をはみ出さずに行われる操作を扱っている。整数での足し算、0でない実数の掛け算、様々な物の回転など。

親族体系の分析では、集合の要素となったのは婚姻パターンだった。
ある民族にABCDという4つの集団に分かれていて、許されている婚姻パターンが次の4つしかない。(&の左が男性、右が女性と固定して、→で子供の集団を示す。)

① A&B→D
② B&A→C
③ C&D→B
④ D&C→A

注意すべきは①で男児が産まれた場合、その子は&の左側でなければならないから④のパターンの婚姻をするというように、許される婚姻パターンは選択の余地がない点である。男児の場合の婚姻パターンの移行をf、女児の場合をgとすると、この演算によってABCDという集合は群となる。

ここでf◦g(これは右から読み、gの次にf、つまり女児→男児のパターンを指す)とg◦fが等しいと計算でき、交叉いとこ婚が許されるということが説明できる。
①から考えるとf◦gではA&B→D、C&D→B、B&A→C、またg◦fではA&B→D、D&C→A、B&A→Cと婚姻パターンが移っていく。A&Bで産まれた男女DDが同胞(きょうだい)なのでB&Aが交叉いとことなる。
この辺り、詳しくは以下を参照されたい。

とにかく、複雑な婚姻の規則を厳密に数学として記述できたことが重要であった。
厳密な証明や実験が難しい人文・社会科学の人間にとって、これは強烈に魅力的だったはずだ。「構造主義」であれば、自分の考えも科学的に証明ができるのではないか。この期待こそが「構造主義」への熱狂を巻き起こした根源であったように思われる。

ラカンにおいてその傾向は既に甚だしい。謎めいた数式やトポロジー(位相幾何学)による比喩。「差異性」「無意識性」「科学性」の特徴はあってもレヴィ゠ストロースの「構造」、即ち群は無いのだ。他の思想家にしても同様である。

レヴィ゠ストロースは「「構造」とは、要素と要素の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変換過程を通じて普遍の特性を保持する。」と述べた。これが上述の群の定義をはっきり意識しているのは明らかである。
また心理学者ピアジェは、フーコーを批判して「構造なき構造主義」と呼び、「フーコーの構造は形象的な図式に過ぎず、自己制御によって必然的に保存される変換体系ではない」と述べた。「変換」とは演算であり、「必然的に保存される」とは条件0.と解釈できる。
(二人の発言については前出『フランス現代思想史』に拠っている。)

先に並べ立てたラカン、バルト、アルチュセール、フーコーは、レヴィ゠ストロースの意味での「構造」を活用などしなかったのだ。
そこには構造主義の夢だけがあった。厳密な人文・社会科学という夢が。
構造主義者の「構造」が一貫した意味合いを持たないことは、この夢によってこそ理解できる。

そんなフランスの構造主義者達よりも、むしろピアジェや言語学者チョムスキーなどフランス外の学者こそ数学的「構造」を厳密に活用したように見える。

デリダのレヴィ゠ストロース批判を嚆矢として「ポスト構造主義」「ポストモダニズム」の時代が来ても、構造主義の夢は続いた。相変わらず「最新の思想」には難解な数学や物理学の引用が鏤められており、だからこそ1995年、ソーカル事件は起きた。

「物理を専攻する学生なら誰でもすぐに指摘できるような数学・物理学上のでたらめの数々と、生半可な科学知識からの短絡的一般化とをつなぎ合わせた粗雑なパッチワーク」(きみはソーカル事件を知っているか?より)を一流学術誌にまんまと通してしまったソーカルにより、構造主義の夢は粉々に砕かれた。

ただこれを衒学者の恥辱と笑って済ますべきではない。「シュレーディンガーの猫」の誤解と俗用だけを見ても、同じ危険性が我々の中に潜んでいることは明らかだろう。
構造主義の夢が破れても、また別の夢が人々を惹き付けている。


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