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暁美ほむらに脳を焼かれてキャラクター心理(text論的内面読解)が主食になりました。👻…

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暁美ほむらに脳を焼かれてキャラクター心理(text論的内面読解)が主食になりました。👻推し ¦ https://odaibako.net/u/kino_n

マガジン

  • オタク的、あるいは哲学的な十篇

    2023年末に何か達成感を得る為の。

最近の記事

『新しい哲学の教科書』日常系論からのメモ

割と前に読み終わっていたが、正直プロローグが一番ハマった印象で全体としてあまり熱量が湧かなかった。ので面白かったところなどを単にメモしておく。 神の意味。「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)が近代以前の「信仰の時代」にそれぞれ実存(生きる意味的な話)と秩序を支えていた。「大きな物語」の失権とも言える超越性の喪失は理解できるが、普遍性についてはどうだろうか。世界が同じ神を信じたことは一度たりとも無いし、同じ宗教の中でも争いは起こる。個人的には超越性の方に大きな重みを感じる。

    • 観念論化する能力バトル

      能力バトルのある種の集大成として『HUNTER×HUNTER』の念能力があり、その完成度は少なからず系統による6分類の存在に支えられている。この系統間の強い相性が『BLEACH』のような力比べ(砕蜂の「弐撃決殺」が力量差の前に無効化された例がある)にならず、一方何でもありでもなく系統を軸とした推測と対策が可能になる。例えば操作系は実際の物品を扱うことから目に見える物を警戒すれば良く、またそれを逆手に取り操作系に見せ掛ける(具現化系で常に具現化をし続ける)ことで不意を突くような

      • 規範の内在化とその病理

        20世紀まで「無意識」というものは存在していなかった。精神(魂)に見えざる部分は無く、不意の行い、過ちや狂気は中世ヨーロッパで言えば「悪魔」のような「外部」が原因とされた。それを精神の内部に持ってきて「無意識」と呼んだのがフロイトだ。 フロイトの意識・前意識・無意識という三層構造(局所論)を唱えた後、それらの相互作用をより明確にする構造論、つまりエス(イド)・自我・超自我の三者を新たに提示した。エスは欲望や衝動の源であり、また超自我は良心や道徳を司る。この2つは大まかに言っ

        • にじ高の夏2024 決勝

          英アカ戦、ここにはにじ高で見たかったもの全てがあった。 (決勝というか順位決定戦だが、題は配信タイトルに従っておく) 育成編 リーグ戦 7位・5位決定戦 ふれ高♡対銀河立、観戦中も「日頃の行い」と言いつつ銀河立を煽りまくったり、例年のようにミートF理論などオカルトを話し合ったりする椎名監督。フレン監督が本戦初勝利を飾る一方、ルンルンを逃したチャイカ監督は「宇宙って愛でできてるんだ」などと何故かにじ高以上に愛を語った。 願ヶ丘対レインボール、キャッチャーBのナリから替

        『新しい哲学の教科書』日常系論からのメモ

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        • オタク的、あるいは哲学的な十篇
          10本

        記事

          にじ高の夏2024 リーグ戦

          Aリーグ 8月10日、まずはAリーグ。初戦の1回6失点は例年通り「打線は水物」、不振もあれば打ち崩してのビッグイニングも常にありうることを示した。英アカの苦戦は下馬評的には意外だが、ステータス差がある一方で打撃系の青特を見るとそうでもなく、打力について青特の重要性を示唆しているように思われた。 またリリーフ・レオスの活躍は、CPU対戦の最適解と言われていたフォーク一点集中の軟投派の強さを改めて知らしめた。ここは更にその道を突き詰めたKOTOKAの活躍を期待させる。一方でイ

          にじ高の夏2024 リーグ戦

          にじ高の夏2024 育成編

          それは意外な参戦だった。昨年のにじ甲では★999の二刀流・葛葉(大谷転生)を育て上げ、感想配信ではかなりやり切った感を出していた椎名監督。舞元氏の休止が続いていることもあり、例えば椎名・レオスなどの布陣で主催に回ることも予期されていた。ただ春のV甲では天開氏の恐る恐る出したオファーを快諾するなど、心境の変化(リセット?)も窺われるところではあったかもしれない。 ドラフトでは(例外的なことに)予告通り社築を一位指名。「やししぃ」は発端の告白こそ2023年の6月だが、にじ甲20

          にじ高の夏2024 育成編

          虚数は存在するか

          ネットで定期的に出てくる話。 数学数学的には確かに「存在する」。ただこれは日常語とかなり意味合いが異なる。 数学とは前提から何が言えるかという学問だ。自然数で言えばペアノの公理というものがあり、自然数がどういうものかを説明している。その公理が正しいと考えて、色々ロジックを展開して4n+1型の素数が無限に存在するだとか、そういうことが正しい・間違っていると証明するのが数学である。 しかし、それでは公理が間違っている可能性もあるのか? いや、数学ではペアノの公理などを証明で

          虚数は存在するか

          映画『ルックバック』、未来ではなく過去によって

          同作者の『チェンソーマン』を愛読しているのもあり映画『ルックバック』を観た。元の読み切りにも興味はあり、読んでから観る選択肢もあったが、原作と比較して差異がどうこうというのは如何にも安牌というか、「何事か」を言うには良いが真に劇的な体験からは程遠く思えた。まぁそんな事情はよくて映画をいきなり観に行ったという話。 観終わった初めの印象は「孤独」であった。それは確かにif世界(解釈は色々できるがこう呼んでおこう)でも最終的に二人が出会う訳だが、(特に京本は)それまで非常に長い間

          映画『ルックバック』、未来ではなく過去によって

          需要と供給の一致する部分が価値として実現するのであって、供給側からすれば労働価値説で需要側からすれば限界効用価値説になる。我々は対価なき生産にも対価なき消費にも価値を認めない。それだけの話ではないか?

          需要と供給の一致する部分が価値として実現するのであって、供給側からすれば労働価値説で需要側からすれば限界効用価値説になる。我々は対価なき生産にも対価なき消費にも価値を認めない。それだけの話ではないか?

          蓮實重彥『表層批評宣言』

          最近「表層」への興味に関連してこの本を読んでいる。 著者は聞いたところでは「映画は画面に映っているものが全て」「表層の向こう側を読み取らない」といった風で、思想性・テーマ性など俗な意味での「文学性」を否定する批評家という印象だった。 しかし『表層批評宣言』を読む限りではそうでもなく、「社会と個人」だの「近代的自我」だのの主題には軽蔑を隠さないものの、ただ表層の分析をするには終始しない姿勢も読み取れる。「批評」における言葉の不自由を暴こうとしたり、「作品」を表層と遭遇する事

          蓮實重彥『表層批評宣言』

          アンディ・ウォーホルと表層を愛すること

          マルセル・デュシャンが小便器を『泉』なる作品として提示して以降、アートにとって「美」が本質的だという見方は永久に失われてしまった。 そこに反ブルジョワ的なダダイズムの潮流を見出すにせよ、ただ選ぶことを芸術表現として宣言するデュシャンの思想を読み取るにせよ、『泉』はアートが感性というより理性の領域に移った象徴的事件と解されている。見た目ではなく内容、言いたいことを理解するのが「鑑賞」の実態となった。 ただ現実はどうだろうか。どんな現代アートの巨匠にしても、写実主義だとか印

          アンディ・ウォーホルと表層を愛すること

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑥

          概念的な分析を求めていたのでこの辺りは個人的におまけの部分だが、折角なので全編やっておく。 第四章応用編なので気になった話題を扱うに留める。 フィクション装置の一つとしての身体的アイデンティティの入れ替わり。古典的なフィクションにおいては演劇の役者などがこれを実践しているが、デジタルゲームは受容者が同時に行為者となることを可能にした。「異なる主体への心的かつ行動的な同一化」(p.218)がここでは起きている。 メタフィクション・ゲームの話でも触れた、ゲームをプレイし、選択

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑥

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑤

          『鳴潮』で忙しく先週は飛ばしてしまった。 第三章第五節 フィクション的モデル化について。前回述べたようにそれはフィクションを理解&体験すること、没入により「フィクションの中へと導き入れ」(p.172)られることを意味する。没入は手段であり、モデル化、「フィクション世界」へ触れることこそが目的だ。 フィクション的モデル化はどういうものか、つまりフィクション理解がどうなされるのか。これまで見てきたようにフィクション性とは語用論的、つまり使い方の問題以外ではありえないのだが、

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑤

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む④

          「メイク゠ビリーブ」について触れられており、簡単に知りたい身からするとお得。正確な理解かは知らないが。 第三章第三節 この節は「フィクションとは何か」という観点にはあまり関わらない気がするが、心理学的には非常に重要な事実を指摘している。それは自他分離の後天性、そして睡眠時の筋脱力(REM atoniaと言うらしい)だ。 この節のタイトルは「フィクション能力の個体発生—―ミメーシス的自己刺激について」で、その通りに個体発生、つまり進化的にではなく個体の成長の過程でどうフィ

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む④

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む③

          ここで「遊戯的偽装」の素性が明らかになる。 第三章第一節 この章はドイツの作家ヒルデスハイマーによる『マーボット。ある伝記』の話から始まる。この著作は同氏のモーツァルトの伝記に続いて出版され、ゲーテを始めとする多くの著名人との交流を豊富な引用で描き出していた。批評家からも高く評価された「伝記」だったが、実のところこれは全くのフィクションで、アンドリュー・マーボットとはどこにもいない架空の人物だったのだ。 ヒルデスハイマーは多くの読者が騙されたことに驚き、いくつかのフィク

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む③

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む②

          今更だが、この手の本の例に漏れず訳者解説が研究史や本文内容の優れた解説になっているのに気づいた。先に読んだ方が良い後書きというものも実は世の中には存在する。 第二章(続)アリストテレスを参照しつつ「模倣による表象」をフィクションの心理機構として考える。(p.91-)これは再実例化、偽装のどちらとも違うミメーシス的事象(ミメーシスは要するに模倣)として先に挙げられていたものでもある。(p.72) 表象とはつまり心の中のイメージだが、重要なのはそれが単一の能力であることだ。「

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む②