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クライマーの私に心理学が必要になった理由

■ クライミングと心理学の関係

クライマーが心理学を勉強する意義…私の個人的な意図は、

  自分を殺しそうになった相手をいかにして許すか?

です。

具体的に言えば、白亜スラブ。私はあの登攀で、

 自己効力感(セルフエフィカシー)

を失いました。記録はこちらです。(個人ブログで、専門的なので、すでに専門的に登られているクライマーにしか意味が分からないと思いますが。)

この出来事は、クライミングにおける私の甘さと自己防衛の欠如を浮き彫りにしました。

■ リスクを乗り越えた歴史が全否定された

それまで、いろいろな人に、本格的な登山は危険だ、クライミングは危険だ、と、非常に大雑把に盲目的に言われても、具体的にリスクに対応する能力が自分には備わっているから、大丈夫だ、と感じてきました。これは、生い立ちからきた自信です。私は若いときにほぼお金も持たずに単身で海外に働きに行ったりしています。

そして、その外野の指摘が間違っていたことは、実際、事実であり、雪山初心者で登っていた八ヶ岳権現岳や積雪期の金峰山からスタートし、何とか自力で沢の師匠を見つけ、初級の沢であればリードで行けるようになった沢登り、そして、3年で海外へ単独で登攀に行くようになったフリークライミングと、かなり自己効力感がある活動でした。具体的な事例としては、単体でラオスに行き、現地でクライミングパートナーを見繕って、楽しんで登れたこと、台湾の岩場に一人で行き、同様に楽しんで登れたこと、などに結実しました。

すべて、あぶない危ないの大合唱を、自分自身でリスクを詳細分析しながら、進み、成功を収めてきました。

■ 敵は隣だった…

ところが、その登攀の傍ら、日ごろ、同じ方向を向いて互いの登攀に協力し合っている、助け合っている、と私が感じてきた…、いや、信頼すらしていたクライミングパートナーの、きわどいルール違反…具体的には、

 ”敗退ロープなし”で出かけるという行為

の危うさを事前に予期し、自分をリスクから守ることができなかったのです…。

それは、ほんの小さな、うっかり…から、です。この「敗退なしで!」という言葉の傲慢さ、つけあがり、無知、などのもろもろの悪徳を見抜くことができなかったのです…。

私はクライミングの危険から、身を守れていない…。その事実が自分の目の前に突き出されたのでした。

こうなってしまった理由は、私の中にも、まぁ大丈夫だろう、とか、まぁいつも敗退しないで済んでいるからなぁ…という甘さがありました。もしかしたら、無知や傲慢も自分の中に持っている資質なのかもしれません。心理学では、そう考えることが多いからです。

この資質を自分が乗り越えられなければ、私は今後、クライミングで起こる危険に巻き込まれ、一つしかない自分の命を守っていくことができないでしょう…

あの何でもありの移民社会のアメリカでの貧民街での暮らし、銃を含む、様々なトラブルからさえも、自分を守ることができたのに、日本の田舎で、お友達と言えるようなクライマー相手に、のんびりとした環境で行われる、一見問題ないクライミングでのリスクから、身を守れないとは…。

■ 言い訳

言い訳は、若くして亡くなった弟に、自分より年が若い、そのクライミングパートナーを重ねてしまっていた、ということが考えられるかもしれません。

しかし、考えてみれば、弟には、逆に、遠慮なくずげずげと指摘ができるのが、姉の特権かもしれません。

■ 場面緘黙

私は、場面緘黙、と言われる状態が、あの時ありました。そう、あの岩場の、あの場所で、です。

その場面緘黙は、「やっぱロープは60だね!」と言われたときに、は?と言えなかったことです。

25mと35mのピッチをつないでしまったミスを、60mロープが救えるか?というと救えません。25+35は、ぴったり60mだからです。それでは、セカンドを上げるための支点を作る分のロープが足りません。

■ 秘策を使った

私はあの時、ビレイ中に、「ロープいっぱい!」と叫んでも、まだぐいぐいとロープが引かれるので、この終了点制作分、程度のロープが足りない場合の秘策として師匠から教わった、ビレイヤーが少し上がってやる、という技を使いました。

この”技”は、教科書には載っていません。一般クライマーは、もちろん教わっていません。

これは、私がクライミングで起こりうるリスクから、身を守れるように、と親心から教えられていた特殊な技です。

私は所定のビレイ位置から、3mほど上がったのですが、それでもロープがぐいぐい引かれつづけるので、上がるのを辞めました。

なぜなら、これは、ほんの少し足りない程度で使う技であり、ずっとやり続けると、これはコンティニュアス(通常コンテと略す)技になってしまうからです。

コンテはトップクライマーや、水平面でのビレイなどのリスクが少ないときに行うもので、通常はスタカットが普通です。スタカットから離れることは、一人が落ちれば、もう一人も巻き込まれることを意味します。

それで、終了点を作るには十分であろうという長さをクライマーに提供したのちは、ロープを出すために上がるのはやめました。

その程度の支援では、リードクライマーが、25mと35mのピッチをコネクティングしてしまったというミスは救済できず、その結果、一つの支点に2名がぶら下がることになりました…。

この支点は、強度が十分ないカットアンカーと呼ばれる支点で、抜けなくてほんとに良かったです。

相方のリードクライマーは、1点しかないボルトに2名がぶら下がってしまったという事実には、多少恥ずかしさを感じた様子でしたが、リスクそのものには、全く無頓着に、結果的には

 自分はほとんどちゃんと立派にリードできた、

と結論付けたようでした。この結論付けの在り方にも、かなりのショックを受けました。

なぜなら、普通の理性で考えると、成功どころか、トンデモクライミングと言っていい内容のクライミングだからです。

このクライミングがトンデモと分からないなら、何がトンデモなんだろうか?というレベルの低さなのです。しかし、これが成功体験になっている…。

このクライマーが、クライミングする個人的意味は、いったい何にあるのか?ということが、いやおうなしにも透けて見えてしまいます。

その後、このクライマーには、自省や反省の様子は見られず、相変わらずのクライミングを続けているようでした。そもそも、クライミングの成否の判定に内的基準を持っていないようでした。それが驚きでした。

従って、私だけがこのクライミングから教訓を得た、ということになります。

一般にクライミング事故に限らず、5件の深刻な事故の裏には、300件のヒヤリハットがあると言われています。しかし、ヒヤリハットをヒヤリハットと認識できなければ、5件を予見することはできません。このケースはヒヤリハットどころか、成功体験とカウントしています。つまり、より事故を招きやすいということです。

自分でこのことを予見できなかったことは、私に何か深いところでの傷つきをもたらしました…。

この深い傷つきから、立ち直るのに、コロナ禍の期間を加えて、だいぶかかっています。そして、心理学を勉強することになりました。

自分自身に何か、不具合がある、としか思えないからです。

■ 鬱へ

一般に、人が危険な行動に駆り立てられるのは、

 背後に死への希求がある、

と言われています。

私は生い立ちが、母子家庭で3人兄弟の長女と、一般の子供よりも、背負うものがとても大きかったので、幼少期の7歳から希死念慮がありました。

その希死念慮が復活したのは、もとより、この白亜スラブのクライミングにより、父親に赤ん坊の時にプールに落とされたというトラウマもフラッシュバックするようになりました。

これはまずい…という事態です。子供のころのトラウマに関しては、水を避けて避けまくるという行動で、回避してきたみたいです。

しかし、なんで、トラウマが復活してきたのか?

人生が私に教えようとしていることは何なのだろうか?ということが、私にはまだ見えていません。

クライミングは、山梨時代に余暇を活用して始めただけで、私にとっては、特に思い入れがある活動ではありませんが、活動そのものに、命がかかるために、安全に楽しみたいという思いから、多くのリソースを割いてきました。

具体的には、山岳総合センターにてリーダー講習に出たり、都岳連の岩講習に行ったり、クライミングガイドについてクライミングを習得したりです。吉田和正さんというすでに故人になっていますが、トップクライマーと言える方から、トラッドを教わったりしました。一時は年間の山日数が128日を超えました。積雪期ガイドステージ2も、取得しました。

しかし、このような努力が水泡と化した、一瞬のあやまち… 

  敗退ロープなしでマルチピッチのクライミングに行く行為

の見逃し…。これは、パラシュートなしでスカイダイビングに行くってくらいの危険行為です。

ギリギリボーイズと言われる著名なトップクライマー集団が日本にはいますが、かれらだって敗退ロープなしなんてやっていません。逆に言えば、敗退さえできていれば、どこへだって言ってイイのです。

そのトンデモな行為を見逃してしまった私自身への深い深い失望…

絶望と言っていいかもしれません…

が、今期の希死念慮の再発ということではないか?と現時点では自己判断しています。

さて、分子栄養学以外にどうやってここから回復していけばいいでしょうか…?

自分自身の内面を大改造する必要があるのかもしれません…

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