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父の死

1ヶ月ほど前、大腸がん末期で入院していた父親が危篤状態で余命数日かもしれないと母から連絡がありました。私は、どうしたら良いのか少し迷いましたが、元々親戚に角が立たないようにお葬式には参加するつもりでいたのと、1週間くらいだったら実家に帰ってもよいかなと思ったので、葬儀が終わるまで遠方の実家に滞在しようと決めました。実家に帰ると、母と妹が家におり、父親は病院にいました。私と母と妹は何度か父のお見舞いに行きました。病院にいた父は息をするのも苦しそうでベッドから自力で動くことのできない状態でした。私が実家に帰省して数日後、父親は最期の時を自宅で迎えることを希望していたため、介護タクシーを使って家へ帰り、看護師である母が在宅看護をすることになりました。このとき私は、父の自宅で最期を迎えたいという希望が叶って安心していました。父親は、住み慣れた自宅に帰り、母の献身的な看護を受けることができるようになったからか、少し元気になったように見え、病状は安定していました。

 父が病院にいた頃は、余命数日しか無いように見えましたが、在宅医療に切り替わったことで、病状が安定し1週間以上が経過しました。そんな中、私は正直に言うと実家に滞在する期間が想定よりも長くなったことで心が消耗してしまいました。まず、今まで心身の不調のせいで満足に好きな研究ができなかったので、早く戻って自分の研究をしたいという気持ちがありました。また、私にとって実家はトラウマの多い場所です。私が小学生から中学生だったころ、父親がアルコール依存で常に酔っ払っていて、父母はよく喧嘩をしていました。そして、母から父の愚痴をよく聞かされていました。それから両親の期待に必死で応えようと創価高校にまで行ったあとに組織を離れ信仰をやめるに至るまでに負った心の傷を抉るような、仏壇、新聞、公明党のポスターが目に入ります。それに加えて、父と母は様子が少しずつおかしくなっていったことも、私の心をさらに追い詰めました。

父は、母に何でも言いつけ、何度も何度も、ベッドから「おかあさーん!おかあさーん!」と呼び、なかなか来ないと鬼電をかけていました。また父親はそのとき、排泄の介助が必要で、数時間に一回母が行っていました。母はなかなか睡眠時間確保できなくてやつれていってるのに、何一つ文句言わずにただお世話していました。私の目からは、まるで産まれたばかりの子どものお世話をしているように見えました。私は、母がどんどんやつれていく様子を見るのが辛く、母に「お母さんの生活もあるのに、それはおかしいよ。介護用おむつを使うとかした方がいいんじゃないの?」と言ってもあまり聞いてもらえませんでした。そんな中、私は心身の疲労が限界に達し、だんだん父親に対する苛立ちを隠せなくなり、母と喧嘩になりました。私は、「早く父が死んで欲しい」とさえ母に口にしてしまいました。私は正直、心身が限界で早く自分のアパートに帰りたいと思っていました。それでも、父は母に何でもやってもらえる環境が心地良いのか、父の病状は変わりませんでした。私は、父親の部屋から大声で「おかあさーん!」と呼ぶ声が聞こえるたびに私はとてもうんざりしたのを覚えています。ストレスが限界に達したとき、私の心の中の希死念慮が大きくなっていきました。緩和ケア用の麻薬で楽に死ねる父がとても羨ましく感じました。そして、麻薬が家にある今、自分自身が楽に自死できるチャンスは今しか無いと思うようになりました。

ある日の夜、母と喧嘩していると、辛い感情が爆発し、私は父母が子どもを育てる能力もないのに子どもを産んだことを許してないし、今まで父と母が辛いのを宗教とかお酒とかで誤魔化してきたツケが全部私に回ってきていること、私は父母の期待に応えたくてこれまで壊れるほど頑張ってきたこと、父親が楽に死ねるのが羨ましいし、生きるのが辛すぎるからいっそのこと責任を持って殺してほしいと叫びました。そして深夜、私は死のうと決めました。苦しみや絶望は今まで何回も味わったし、もうこれ以上辛い思いをするのはゴリゴリだと思ったからです。

「もう希死念慮を持ちながら生きるのに疲れました。大学の先生に、セミナーには参加できないと連絡してください。私は今死なないと後悔すると思いました。」と遺書を自分の部屋に残し、私は麻薬があるはずの父親の部屋に忍びました。一生懸命薬を探しましたが、頭がぼんやりしているのと部屋が暗いのとでなかなか見つかりません。薬を探していると、父が起きてしまい、「どうしたの?」と聞かれました。私が「お父さんの鎮痛剤を見せて」と言うと、「だめだよ。それは困る、自分の薬あるでしょう」と言われてしまいました。そう言われたとき、私は平然を装うために一生懸命抑えていた感情が溢れて、「でも、私の持ってる薬じゃ死ねないの」と言うと、涙がこぼれてしまいました。父親は私が死のうとしていることが分かると「夜は気分が落ち込みやすいけど朝になったら治るから」と言い、いつものように、「おかあさーん!」と大声で叫んで助けを呼びました。その反応を見て、私はさらに絶望してしまいました。私は3年近くずっと希死念慮と戦いながら生きてきていて、希死念慮は朝になったら治るようなものじゃないのに、何を言っているんだろう。私は今死にたいのに母を呼ばれたら止められてしまうじゃないか、と思いました。すぐ母がやってくると、「それで死ぬのはできないよ」と懸命に私を諭しました。父と母に自死を止められてしまった私はパニック状態になり、何故か自分の持っている抗うつ薬を大量に飲んでしまいました。

その後、母は驚いて、私を病院の救急外来へ連れていきました。その時は特に目立った症状はなかったので、病院では血液検査や尿検査、点滴を受け、医師から「意識もはっきりしているし命に関わることはないので大丈夫です」と言われ、帰されました。そう言われて、私はやっと我に帰りました。本当に何をやっているんだろう。どうすればこの事態を防げたのだろうと考えました。母が病院に連れていってくれて、少し母と仲直りできたけど、良かったのか悪かったのかよくわかりませんでした。その後私は、実家で過ごすのは自分の心身の負担が大きすぎるのと、麻薬の鎮痛剤が手に入る環境から離れた方が良いと思い、次の日から、近くのビジネスホテルで4日間すごすことにしました。

お薬を大量に飲んだ次の日、手足の震えや痺れ、聴覚の異常などの症状が現れました。ホテルに行く途中、母から、症状が落ち着くまで実家で過ごすのはどうか、と言われましたが、私は実家が一番危険だから嫌だと拒否しました。ホテルへ滞在を始めて、1人で落ち着ける環境で過ごすと、心が少しずつ楽になりました。滞在中、地元を散歩したり、親子関係に関する本を読んだりして、少し心の整理ができました。過去を振り返ってみて、両親が精神的にとても未熟で、アルコール依存や宗教依存の問題を持っていたということ、父と母は共依存状態だったということ、母にとって父が一番大切で、子どもに心の傷を癒してもらおうとしていたということ、私は両親のために壊れるまで頑張ってきたけど、結局両親はお互いのことを一番大切にしているから、私が報われることは親に期待しない方が良いということ、今まで父は自分のことで精一杯だったし、母は父のことや宗教のことで子どもを見る余裕がなかった。自分は今まで精神的なネグレクトをされていたのだと気づきました。そして、ホテルを出る頃には、すっかり希死念慮は消えていました。

私は、もう父のお葬式まで待てないと思い、その日は実家で一泊してから自分のアパートに帰る予定でしたが、実家に着いてすぐ、心が緊張して辛い気持ちが押し寄せてきたので、すぐ実家を離れることにしました。そして、自分のアパートに帰ってから2週間くらいして、母から父が亡くなったことを聞きました。59歳でした。訃報を聞いて、正直に言うと私は少し安心しました。もうこれ以上父のことで心を振り回されなくて済むと思ったからです。私はお葬式には行きませんでした。なぜなら、お葬式には地域の学会員の人が来るだろうし、親戚のほとんどが学会員であまり会いたくないし、遠方の実家と自分のアパートを行き来するのも体力的に負担が大きいからです。母は「無理して来なくてもいいよ」と言っていて助かりました。母には周りの人に、私はコロナにかかったから来られないと説明してもらいました。

これまでの生い立ちや辛い経験を通して、私の心と体は壊れてしまいました。それでも私には研究への情熱や信頼できる友達が残っていることが心の救いとなっています。今まで両親のために必死に頑張ってきた副産物として、研究という道を見つけることができました。勉強とか色々頑張ってきて、頑張りすぎて心と体がボロボロになったのは良くなかったけど、その中で研究者になりたいという夢を見つけ、なんとか今も持ち続けることができています。

父の死後、ふとした時に小さい頃遊んでもらって楽しかった時のことを思い出します。私は父親と母親のせいで、この世に生まれてきてしまって、大変な苦しみを味わいました。それでも私は両親のことを憎みきれずにいます。

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