邪馬台国は見つかっていた【18】「会稽東冶の東」は重要なヒントだった
ゆい:
それで、佐賀平野を出航して大隅半島で東に方角変更した船はどこに向かったの?
おじ:
それは「船で30日」がどの位の距離なのかによって、大きく左右されるんだ。次の投馬国は「船で20日」だが、距離が短ければ九州域内かもしれないし、長ければ中国地方も含まれる。
おじ:
投馬国と邪馬台国を探すためには、正確な距離の算出が必要不可欠だ。邪馬台国までの「船で30日」が具体的に何kmだったのかを解明しなければならないんだ。
ゆい:
けど、「船で30日」だけでどうやって距離を算出するの?
おじ:
倭人伝には邪馬台国までの距離を示した一文があるんだけど、どれだか思い出せるかい?
ゆい:
「南に船で30日」は解決済みだし、「萬二千餘里」はもう判明したし……。
レン:
残るは「会稽東冶の東」ですね。
おじ:
そのとおり。倭人伝にはこのように書かれている。
計其道里 當在會稽東冶之東
(その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし)
訳:邪馬台国までの道程を計算してみると(その位置は)会稽の東冶の東に相当する。
おじ:
一見有り得ないようにも思えるが、この場所に断定した根拠がわかれば、投馬国と邪馬台国までの距離もおよその見当が付くはずだ。倭人伝には「計算した」と書かれているので一体どのような計算をしたのかも気になる。ここからは帯方郡使が「会稽東冶の東」と書いた根拠と、その計算方法を究明していこう。
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