河井継之助は無理をしていたのかもしれない【幕末の話】
幕末に河井継之助(1827~1868)という人物がいました。
継之助は長岡藩の家老(藩の重役)として実権を握り、長岡藩の藩政改革に務めました。その後、戊辰戦争のうちの一つである北越戦争という戦いにおいて長岡藩は旧幕府側として戦いました。
継之助はもともと中立派だったので戦おうとはしていませんでした。新政府軍が会津を攻めようと長岡藩まで近づいてきたので継之助は会津と新政府軍を仲直りさせようとするのですが、新政府軍からこれを断られてしまいました。そのため継之助は旧幕府側として新政府軍と戦うという経緯になったのです。
最終的に北越戦争は継之助が戦死したことにより、長岡藩は降伏したため新政府軍の勝利で終わりました。
つまり継之助の軍は負けたことになるのですが、それでも激戦を繰り広げたため、新政府軍から恐れられたと言われています。
激戦と言われる理由はこの戦いが3か月も続き、新政府が奪った長岡城を一度は取り戻しているからです。
このため最終的に負けてしまった長岡藩ですが、新政府軍とかなりいい勝負をしたといえるでしょう。継之助が生きていたら戦いの結果ももしかしたら変わった可能性もあります。
継之助は外国から様々な武器を購入していました。
その武器の中には当時の最新兵器であるガトリング砲もありました。
継之助はガトリング砲を2つ購入しました。
当時の日本にはガトリング砲は3つしかなくそのうちの2つを長岡藩が所持していたことになります。
ただこれらの武器購入において継之助は大変無理をしていたのではないでしょうか?
確かに幕末において最新武器を購入すること自体は珍しいことではありません。
薩摩藩や長州藩は最新武器を購入しています。また幕府も最新武器を購入して軍備の拡充を行っています。
しかし、継之助の長岡藩はこれらとはまったく状況が違います。
なぜなら長岡藩が大藩ではないからです。
幕府はこのときいくら衰退していたとはいえ天領(幕府の領地)は400万石でした。
薩摩藩は72万8000石です(77万石という説もあります。)
長州藩は36万9000石です。
それに対し、長岡藩は7万4000石でした。
最新武器を購入していた他藩とは経済規模が全く違ったのです。
大藩ではない長岡藩が最新武器を購入したのはかなり無理をしていたんじゃないかと思ってしまいます。
確かに新政府軍に対して善戦した長岡藩はすごいのですが、財政的にかなり負担になり、その負担が農民に回ってきてしまったのではないでしょうか?
もしそうだとすると長岡藩の最新武器の購入や北越戦争での善戦には悪い側面もかなりあったのではないかと思います。
やはり自分的には継之助はかなり無理をしてなんとか武器を購入したのではないかと思います。
そう考えると長岡藩は大変な状況ながらこの戊辰戦争をなんとか切り抜けたのではないでしょうか?
今回はこの辺で
ではまた
参考にしたもの
幕末・維新人物大事典 西東社
新幕末史 NHKスペシャル取材班
Wikipedia
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