文久の改革の説明文から幕府の衰退具合がわかる!?
幕末期になると幕府の力はだいぶ衰えてしまいました。
そんな状況下で、幕府の力を回復するための様々な改革が行われました。
そのなかの改革の一つで1862年の文久2年に行われたものが文久の改革と呼ばれるものです。
文久の改革によって参勤交代の緩和や、数年前の安政の大獄で謹慎処分をくらっていた一橋派の復活などの人事、制度面での変化が見られました。
※一橋派⇒1858年の将軍継承問題で一橋(徳川)慶喜を推薦した派
文久の改革の主導者については、
というふうに書かれています。
※公武合体⇒幕府と朝廷が協力して一緒に国難を乗り切ろうとする考え
実はこの説明文だけで、すでにこのとき幕府の力が衰えていたということが読み取れます。
それをよく表している部分は
「薩摩藩主の父・島津久光および朝廷の公武合体派公卿らの主導」
この部分です。
江戸時代の安定期に幕府の政治や改革において、幕府の役職についていない藩の藩主や朝廷が関わったことはこれまで一度もありませんでした。
これは幕府の政治は将軍をトップとした幕閣で行うということが決められていたからです。
そして藩内の政治は藩主をトップとした藩の役人が行うということも決められていました。
これが幕藩体制であり幕府内のことは幕府がやり、藩内のことはその藩がやるというように徹底的に分けられていました。
この幕藩体制の掟は200年以上守られていました。
また幕府の将軍つまり征夷大将軍は天皇から任命されたものですが、その天皇すら幕府の政治に関わることは江戸時代の安定期には認められていませんでした。
それが文久の改革のときには薩摩藩の人物である島津久光と朝廷が幕府に改革を命じるという形になったのです。
今まで幕府の政治に関われなかった層の人たちが、なんと幕府の政治のことに対して幕閣たちに指図するというふうになったのです。
長い江戸時代安定期間の状況から考えてこれは完全に異常事態だったといって良いでしょう。
この説明文の状況は幕末という秩序が乱れた時代だからこそあり得た話でした。
さらに注目してほしいところがあります。
それは「薩摩藩主の父・島津久光」という部分です。
ここから何がわかるでしょうか?
実は島津久光自身は藩主(大名)ではないということです。
このときの藩主は島津茂久であり、そのお父さんが島津久光でした。
薩摩藩の実力者は島津久光だったのですが、このときまだ官職はもらっていなく、無位無官でした。
幕府側からみれば、無位無官で大名ではない人の命令を聞くということに、ものすごく抵抗があったでしょう。
抵抗どころか屈辱を味わうレベルだったかもしれません。
しかし、時代の流れに逆らえず、幕府自体が数年後に滅びることになってしまいます。
終わりに
時代がどんどん移り変わっていくにつれ、今までの常識などが通用しなくなっていくことはあります。
時代の変化を止めようと頑張っても、無常という言葉の通りいつかは必ずかわってしまうものなのです。
今までの常識を変えるということに最初は必ず抵抗があると思うのですが、
いかに早く今までの考えから、アップデートするかがこれからの時代でもやはり大事になっていくのではないかなと思います。
僕自身が新しい考えを取り入れるのが苦手なタイプなので、これは自分に向けてのメッセージという意味合いが強いです。