【血縁関係シリーズ③】徳川秀忠の男系子孫は現代でも続いているのか?

みなさんは徳川秀忠をご存じでしょうか?1579年に徳川家康の三男として生まれ、戦国時代には父である家康ほど多くはないですが、戦にも参加しています。

そして、江戸幕府が開かれて2年後の1605年に、家康から将軍職を譲られ第2代征夷大将軍になります。(そして家康は大御所となって実権を握ります)

将軍として幕府の基礎を固めることに力を注ぎました。

1623年には自分の息子である徳川家光に将軍職を譲り、自分も家康と同じく大御所になって実権を握りました。

そして1632年に亡くなりました。

簡単にいうと秀忠の人生はこんな感じです。また今度、秀忠の人生の細かい内容についてふれた記事を書きたいと思います。

さて、タイトルにもある通り、秀忠の男系子孫は現代でも続いているのでしょうか?


結論から言ってしまうと残念ながら現代までは続いていません。江戸時代に途絶えてしまっています。

秀忠の血を引く7代将軍である徳川家継が子供を残さずに亡くなったため、8代将軍は秀忠の血を引かない徳川吉宗になりました。
この出来事は1716年になります。

これを聞くと秀忠の男系子孫は1716年で途絶えてしまったのかとも思いそうですが、実はそうではありません。

家継の父である徳川家宣には弟である松平清武という人がいました。この清武の息子に松平清方がいるのですが、この清方が1724年まで生きています。

ただ清方には子供がいなかったので、1724年をもって徳川家光の男系子孫は途絶えることになります。

しかし、まだ秀忠の男系子孫は途絶えてはいません。秀忠の息子には家光とその弟で家光と仲が悪かった徳川忠長がいます。しかし、忠長の子孫は続きませんでした。

実はこの2人以外に、もうひとり秀忠の息子がいます。それは保科正之です。この人は会津藩の初代藩主であり、幕政においては徳川家光と徳川家綱の補佐をしたことで知られている人物です。

この正之の男系子孫がかなり続きました。

今からウィキペディアを参考にして家系図にしてみたいと思います。

前の代の人物と姓が同じ場合は、名前だけを書くことにします。
 
徳川秀忠
  ↓
保科正之(会津藩初代藩主)
  ↓
松平正容(会津藩3代藩主)
  ↓
 容章
  ↓
 容詮
  ↓
 容住(会津藩6代藩主)
  ↓
 容衆(会津藩7代藩主)


松平容衆(かたひろ と読む)が1822年に子供を残さずに亡くなったため、ついに徳川秀忠の男系子孫は途絶えることになってしまいます。

ちなみに会津藩ではその後、水戸徳川家から養子が迎えられることになります。水戸徳川家は、秀忠の弟である徳川頼房を祖とする家です。

血筋は約200年間続いたのですから子孫はかなり繁栄したとみて良いでしょう。

ただ、個人的には明治時代になっても残ってほしかった気持ちは正直あります。

まとめ

・徳川秀忠(1579~1632)は江戸幕府の第2代将軍で、功績はできたばかりである幕府の基礎を固めた。

・徳川秀忠の男系子孫は1822年まで続いた。⇒約200年間続いたことになる

・徳川秀忠の男系子孫で最後の将軍となったのは、7代将軍の徳川家継である

今回は徳川秀忠について取り上げました。

家康と家光の間に挟まれているため、あまり目立たない人なのですが、個人的に好きな人物の一人なのでどうしても紹介したかったです。

これからも歴史に関することを取り上げるのでよろしくお願いします。

ではまた!




 



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