西田幾多郎 「自覚に於ける直観と反省」の現代的改定+補足

このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。

※筆者の独断により、“~”、「~」等の記号を付け加えています。
※西田自身が補足としてつけているかぎ括弧は、【】で表しています。
※筆者が分からない部分は?をつけています。お判りになられる方がいたらご指摘いただけると幸いです。

前著 思索と体験
https://note.com/kind_murre555/n/naf385d84545e

次著 意識の問題
https://note.com/kind_murre555/n/n5e16c4d64b74?sub_rt=share_pb


自覚に於ける直観と反省



 この書は大正二年九月から今年の五月に至るまで、数年にわたって、その前半は「芸文」に、その後半は「哲学研究」に掲げた私の論文である。初めは簡単に論決するつもりであったが、どこまでも徹底的に考えてみようとした結果、疑問の上に疑問を生じ、解決の上に解決を要し、いたずらに稿を重ねてついに一冊の書を成すに至ったのだ。私がこの論文の稿を起こした目的は、私のいわゆる自覚的体系の形式によってすべての実在を考え、これによって現今哲学の重要な問題と思われる価値と存在、意味と実在の結合を説明してみようというのであった。無論、私の自覚というのは心理学者のいわゆる自覚というようなものではない。先験的自我の自覚だ。フィヒテのいわゆる事行のようなものだ。私がこのような考えの示唆を得たのはロイスの「世界と個人」の代一巻の付録であったと思う。「思索と体験」の中に収めた「論理の理解と数理の理解」という論文を書いた時、すでにこの考えを持っていた。その後この考えをどこまでも徹底的に追及してみようとしたのがこの書の起源だ。もしこの目的を達することができたら、フィヒテに新しい意味を与えることによって、現今のカント学派とベルグソンを深い根底から結合することができると思ったのである。
 「一」から「六」まではこの論文を起草した時の大体の見当を述べたものだ。まず私のいわゆる自覚の意義を明らかにし、意味即実在にして無限の発展を含む自覚的体系によって、価値と存在の根本的関係を説明し得る予想を述べた。しかしこれには考えれば考えるほど様々な問題を生じた。私は正直にこれに対する疑問を挙げたつもりである。当時、私は単に実世界が当為の意識に基づいて成立するというような理由によって、大まかに意味の世界と実在の世界の区別を相対的と考えた。そして「六」において一般と特殊の区別を説明しようと試みた。しかし今にして思えばその思想も言表も極めて不十分であった。この考えの十分な理解は本書の終わりに求めなければならない。
 「七」から「十」までの間においては、この書の議論の基礎を築きあげるつもりで、自同律の判断のような極めて単純な論理的思惟体験について、それが極めて形式的な一種の自覚的体系であることを明らかにし、最も一般的な形において当為と存在、対象と認識作用、形式と内容の対立及び相互の関係などが既にその中に含まれていることを論じ、具体的経験におけるこれらの各範疇の意味及び関係を、最も根本的に明らかにしようと努めた。「十一」においては一度翻っていわゆる経験界というものが右のような形式的な思惟体験と同一体系として説明し得るかを反省してみた。そしてこの両者の間には超え難い多くの間隙があることを考えざるを得なかったのだ。「十二」においては、単に形式的と考えられる論理的思惟の体験から内容のあるいわゆる内容的経験体系への内面的必然の推移を明らかにするため、かつて「論理の理解と数理の理解」において論じたところを基礎として、論理から数理に至る道行によって、形式が内容を得、抽象的なものが具体的なものに進み行くとはどのようなことを意味するかを最も根本的に論じてみた。すなわち最も抽象的な思惟体験について経験の内面的発展、すなわちエランヴィタールが何物であるかを明らかにしたのである。これもこの書の根本的思想の一つである。私はここに多少の曙光を認めたものの、思惟の世界からいわゆる実在の世界に移るのは容易ではなかった。「十三」において、思惟に対峙する経験の非合理性とか客観性とかいうことを、経験自身が思惟と同じく独立の自覚的体系であるということに帰したが、それがどのような体系であるか、また思惟体系とどのように結合するかは未だ明らかになっていない。要するに、「十一」から「十三」までの間は思惟体系の研究からいわゆる経験体系に至る推移の部分と見られるべきである。
 右に述べたようにいわゆる経験の体系も思惟の体系と同じく自覚的体系と見なし、全ての体験を同一の体系として意味と実在との内面的結合を企てるには、まず知覚的経験のようなものもそれ自身にて発展する自覚的体系であることが明らかにされねばならない。「十四」から議論はこの問題の方へ向けられたのである。私はその時右の問題を考える上において、「知覚の予料」に関するコーヘンの創見に深い興味を見出した。しかしコーヘンは意識状態を説くも、意識作用の起源についてなお深い思索を欠いている。そしてこの点が意味の世界と実在の世界との分岐点として深い考究を要するものと思う。私は認識論を以って止まることはできない。私は形而上学を要求するのである。
 意味の世界から実在の世界に移る難点は、意識作用の起源にあることが明らかとなった。「十七」以後、議論は主として意識の問題の方に向けられた。そしてこの問題に関しては私は「十七」のおいて言ったように、それ自身に無限な理念が己自身を限定するのが意識作用であり、無意識と意識との関係はコーヘンのdxとxのようなものであるという予想を持っていた。ある一直線を意識するということは無限級数というようなものが己自身を限定することであると考えた。しかしプラトンの理念はどのようにして現実に堕し来るか、右の考えを十分に徹底するのは容易ではなかった。私はこれにおいて心理学者のいわゆる精神現象というものについて深く考えてみる必要を感じた。「十八」においてのように私は心理学者が意識現象として特殊の実在と考えているものはどのようなものであるかを考えてみた。心理学的分析の意義などを考えたのもこれが為である。私のこれに対する考えは後に詳論したように、精神現象と物体現象を各自独立の実在とは見ないで、具体的経験の相関的な両方面と考えるのであった。直接の具体的経験は心理学者のいわゆる意識のようなものではなく、それぞれのアプリオリの上に立つ連続であって、その統一作用の方面が主観と考えられ、これに対峙する被統一的対象の方面が客観と考えられるのである。しかし真の客観的実在は連続その物であるという考えであった。「十九」「二十」においては、フィードレルの考えによって知覚的経験もその純な状態においては形式作用であるとなし、連続的直線の意識というようなものによって創造的体系における主観客観の対立及び相互の関係を論じてみようと試みたのだ。まず心理学者の意識範囲の考えに批評を加え、我々が有限なある一直線を意識するのは、思惟対象である無限な連続的直線の一限定として意識するので、我々の直線の意識というのは一般者が己自身を限定する自覚的体系であると考え、この限定作用の源を明らかにすることによって意識の性質を明らかにすることができると思った。しかし一般的な思惟対象に対して、その特殊的限定は外から加えられた偶然的出来事としか思われない。どのようにしても思惟対象として直線その物の中に限定の内面的必然を見出すことはできなかった。私はこれにおいて逆に純粋思惟の対象の意識は作用の体験を含むと考えることによってこの難点を避けようとした。真の主観はかえって客観の構成作用であると考えた。このようにして大なる統一の立場から見て、小なる立場の統一作用がいわゆる主観的と考えられた。一つの立場から統一されたものが客観的対象であり、この立場をさらに大なる統一の立場から反省してみたものが主観的作用となる。そして主客合一の動的統一は真の主観ということもできれば真の客観ということもできる。しかしこれにおいて問題となるのは、大なる立場から反省された小なる立場というのはすでに客観的対象ではないか。真の動的主観は反省することはできない。反省されたものはすでに動的主観ではないということである。私はこれにおいて「二十四」において言ったように、また深い問題に到達した。私は当時未だこの書の終わりにおいて明らかにしたような絶対自由の意志の立場というようなものを意識していなかった。従って何物かを求めて得ず、議論が紛糾したのはやむを得ない。「二十五」において反省可能の問題を棄てて、作用の性質の議論に転じ、ついにこれらの考えを極限概念によって解釈してみようと思った。そしてこの極限概念の考えはこの書の重要な思想の一つとなったのである。
 「二十六」から以後は極限概念によってさまざまな経験のアプリオリを考えてみようとした。極限とはある一つの立場から到達することのできない高次的立場であって、しかもこの立場の成立の基礎となるものだ。すなわち抽象的なものの具体的根源と考え得るのである。「二十六」においては現代数学における極限の意義によって右の考えを明らかにし、様々な極限の意味を作用の性質と考えようとした。「二十七」において思惟の対象と直覚の対象との区別に多少の顧慮を加えた後、「二十八」において極限概念によって思惟と直覚の結合を考えてみようとした。そして解析幾何学におけるように数が直覚に結び付くというのは、数学者の考えるように単に偶然的ではなく、知識客観性の内面的要求に基づくものと考えた。知識は無限の発展進行であって、知識客観性の要求とは初めから与えられた具体的全体の要求である。思惟と直覚との結合も、この具体者において元々結合されてあるのである【このような意味において、真の具体者は後にいう絶対自由の意志の統一である】。これ故に思惟が直覚と結合することによって知識の客観性を得るのである。「二十九」において初めてこの考えを明らかにし得たと思う。
 「三十」から「三十二」までの間においては、右の考えを純粋数学の対象である数と幾何学的空間との関係に当てはめて論じてみた。そして前者から後者へ移る間にも、前と同様の意味において生命の飛躍(エラン・ヴィタール)があることを明らかにしたつもりである。右両者の具体的根源としては解析幾何学の対象のようなものを考えなくてはならないと思った。これにおいて純粋思惟の体系に関する議論はひとまず終わったのである。これから進んで思惟の体系と経験の体系との接触点を考えるに先立ち、「三十三」において自覚的体系としての幾何学的直線の意味を考え、ついで「三十四」においては直線性の心理的性質を考えて、直線の意識によって精神物体の対立及び関係を論じてみた。しかしその考えはなお極めて曖昧であった。
 「三十五」から以後はいわゆる内容ある経験、すなわち知覚的経験も、すべて思惟体系と同じ自覚的体系と考え、同一原理によってすべての経験を統一して、精神現象と物体現象の意味及び関係を根本的に明らかにし、この書の最初の目的であった価値と存在、意味と事実の結合を論じる基礎を作ろうとした。しかしこれには身体を以って意識の基礎とする普通の考え方を打破しなければならない。そしてその根底には時間的順序と価値的順序の関係の問題も潜んでいるのである。「三十六」においては、感覚が物体から生じると考えることが不可能であることを論じ、「三十七」においては、いかにして我の身体と我の意識が結合するかを論じてみた。私はこれをテレオロジカルに結合すると考えたのだ。「三十八」においては、この考えをなお一層詳論して、それ自身に目的を有する者が真の具体的実在であって、物体よりも生物、生物よりも精神が一層具体的な実在である、物体現象は精神現象の射影であり、物体界は精神発展の手段であると考えた。「三十九」に至って私はついにこれまでの議論を清算した。知り得べきもの、知り得べからざるものを区別して、ただ超認識的な意志の立場によってのみ経験を繰り返し得ると考えた。理想と現実との結合点は実にここにあるのである。この節は私がこの書において達し得た最後の立場である。
 「四十」以後は「三十九」において達した立場から、翻ってこれまでの問題を考えてみたのだ。「四十」においてまず意志の優位を論じ、「四十一」においては私の絶対自由の意志というのは、単に決断というような無内容な形式的意志ではなく、具体的人格の作用であることを明らかにして後、「四十二」において、私が最後に達し得た立場から、翻って思惟と経験との関係を見、「四十三」においては同一の立場から反省の可能を論じ、すべて経験を一体系に統一して、精神物体など様々な実在界の性質及び相互の関係を論じた。このようにして久しく論じ来った問題につき私の解決の態度を定めて後、「四十四」においてまず時の順序を論じ、ついにこの書の最初の目的であった価値と存在、意味と事実との結合の問題にも言及した。どのようにしてある時ある場所において、ある個人が一般妥当的真理を考え得るかについても考えてみた。跋は私が今年四月東京の哲学会において「種々の世界」と題して話したものであるが、この書の終わりにおいて達し得た考えを簡単にまとめたものであるから、この書の巻尾に附することとした。また読者の理解を助けるため、巻頭に目次を付けてみたが、前に言う様に、元々この書は初めから目次のような計画を立てて書いたものではないから、この目次に拘泥すれば、かえって理解を妨げることがあるかもしれない。
 この書は私の思索における悪戦苦闘のドキュメントである。幾多の紆余曲折の後、私はついに何らの新しい思想も解決も得なかったと言わなければならない。刀折れ矢尽きて降を神秘の軍門に請うたという譏を免れないかも知れない。しかし私はとにかく真面目に一度私の思想を清算してみた。もとより大方の瀏覧に供すべきものではないが、私と同様の問題を有し、私と同様に解決に苦しむ人あらば、この書はたとえ、何らの光明を与えることなくとも、多少の同情を買い得るでもあろう。
大正六年六月 洛北田中村に於いて

改版の序


 この書は私が高等学校の語学教師から始めて大学の講義に立った頃のものである。私の思想の傾向は「善の研究」以来すでに定まっていた。その頃リッケルトなどの新カント学派を研究するに及んで、この派に対してどこまでも自己の立場を維持しようとした。価値と存在、意味と事実との峻別に対して、直観と反省の内的結合である自覚の立場から、両者の総合統一を企てた。その時、私の取った立場はフィヒテの事行に近いものであった。しかしそれは必ずしもフィヒテのそれではなかった。むしろ具体的経験の自発自転というようなものであった。その頃ベルグソンを読んで、深くこれに同感しこれに動かされた。だからと言って、無論ベルグソンでもない。最後の立場として絶対意志の立場というのは今日の絶対矛盾的自己同一を思わしめるものでもあるが、なおそれに至らざること遠いものである。マールブルク学派の極限概念によって極力、思惟と経験、対象と作用の内的統一を考えたが、真の最後の立場というものが把握されていない。したがって問題は未解決のままで残されていると言われても致し方はない。色々の方角から最後の立場が示唆されてはいるが、それが真に把握されてそこから積極的に問題が解決されていない。序文の終わりにおいて、刀折れ矢尽きて降を神秘の軍門に請うたと自白せざるを得なかった所以である。今日からは、私の思想発展の一段階として意義を有するものにすぎないでもあろう。改版に臨んでこれを読み返してみても、もはや筆を加えることのできないように、今日の私を遠ざかったものである。しかし回顧すれば、この書は三十年前、数年間にわたる私の悪戦苦闘のドキュメントである。為君幾下蒼龍窟の感なきを得ない。
昭和十六年二月

序論 

一~三(自覚の意義・種々の疑問)



 直観というのは、主客の未だ分かれない、知るもの(主)と知られるもの(客)が一つである、現実そのままな、不断進行の意識だ。反省というのは、この進行の外に立って、翻って直観を見た意識だ。ベルグソンの語を借りて言えば、純粋持続を同時存在の形に直して見ることだ。(反省は)時間を空間の形に直して見ることだ。どのようにしても直観の現実を離れることができないと考えられる我々に、このような反省はいかにして可能だろうか。反省は直観にどのように結合されるのか。直観は反省に対してどのような意味を持っているだろうか。
 私は、我々にこの二つのものの内面的関係を明らかにするものは、我々の自覚であると思う。自覚においては、自己が自己の作用を対象として、これを反省すると共に、このように反省するということが直ちに自己発展の作用だ。このようにして無限に進むのだ。反省ということは、自覚の意識においては、外から加えられた偶然の出来事ではなく、意識そのものの必然的性質だ。フィヒテは「我」ということは「我が我に働くこと」であると言っている。そしてこのように(自覚において)自己が自己を反省するということ、すなわち自己が自己を写すということは、単にそれまでのことではなく、この中に無限の統一的発展の意義を蔵しているのだ。ロイスの言う様に、自己の中に自己を写すという一つの企図から、無限の系列を発展させなければならないのだ。例えば英国にいて完全な英国の地図を写すことを企図すると考えてみよ。ある一枚の地図を写し得たということが、すでにさらに完全な地図を写すべき新たな企図を生じている。このようにして無限に進み行かねばならないことは、鏡の間にある物影が無限にその影を写していくのと一般(同じ)だ。自己が自己を反省する、すなわち自己を写すというのは、いわゆる経験を概念の形において写すというように、自己を離れて自己を写すのではない。自己の中に自己を写すのだ。反省は自己の中の事実だ。自己はこれによって自己にある物を加えるのだ。(ある物とは)自己の知識であると共に自己発展の作用だ。真の自己同一は静的同一ではなく、動的発展である。我々の動かすことのできない個人的歴史の考えはこれに基づくと思う。
 自己が自己を反省するということを心理学的に考えれば、第一に自己とこれを反省する第二の自己は、時間上異なった二つの精神作用であって、両者の間に類似を認めることはできるだろうが、同一ということはできないと言い得るだろう。ジェームスの言ったように、自己同一の感情は同一の所有者に属する家畜の烙印のようなものと考えることも出来るだろう。しかし私の自覚というのは、このような心理学の考え方よりも、一層根本的な意識の事実だ。我々が我々の過去を想起し、過去を歴史的に結合して考えることができるのは、時間を超越する自覚の事実によって可能であるのではないだろうか。個々の意識を超越する統一的意識(自覚の意識)があって、個々の意識(例えば、昨日と今日の意識)の統一が可能であると思う。二つの精神作用を比較し、第一の自己(の意識)と、これを反省する第二の自己(の意識)が異なると判断するものは、自己そのものでなくて何者であるか。心理学的見方は我々の意識を間接に見た、第二次的見方だ。このような見方の背後に、超個人的自覚の事実があることを忘れはならない。カントのいわゆる純粋統覚の統一のようなものがあって、自然科学的見方が可能になるのだ。自覚において、第一の自己と、これを反省する第二の自己が同一であるというのは、心理学者が考えるように、この二つのものを思惟の対象として見て(抽象化、対象化して)この二つが同一であるということではない。考えられる自己が、直ちに考える自己そのものに同一であるということだ。自己の超越的同一を意識するのだ(昨日の私と今日の私を同一と見なすことは、時間的に“超越”している)。二つの意識の根底に横たわる統一的意識の表現だ。内面的当為の意識だ。
 私の自覚というのは、右に言ったような、「全ての意識統一の根底となる統一作用の自覚」のようなものであるとするならば、このような能動的自己(自覚)は、到底我々の意識の対象となることはできない。我々が反省した自己というものはすでに能動的自己そのものではない。自己が自己を反省するという意味において、自覚の事実は不可能であると言わねばなるまい(自覚という能動的自己そのものを意識することはできない)。しかし我々が意識を反省するとか、これを知るとかいうようなことはどのようなことであるだろうか。我々が我々の意識を反省し、意識を知るということが、普通に考えられるように、鏡の前に物を置いてその形を映じるように、過去の意識を心前に浮かべて見るようなこと(模写)であるなら、我々は我々の自己を反省しこれを知るということは到底不可能だろう。このような意味(模写)においては、我々は我々の自己を反省することができないばかりでなく、恐らくはどのような過去の意識も反省することはできないだろう。なぜなら、我々がこれ(自己)を反省した時は、それはすでに過去の意識であって、現在の意識ではない。厳密な模写の意味においては、我々は一瞬前の意識も繰り返すことはできないのだ。普通に考えられているような意味の反省ということは、模写主義の認識論の独断から来る結論ではないだろうか。知るということは、カント以来多くの学者、特に目的論的批評哲学の人々の言う様に、先天的形式によって、我々の意識の内容を統一し、組織することだ。知るということは働く(構成する、組織する)ということだ。我々が過去の意識を回想するとか、反省するとかいうことは、ある意味において、これ(過去の意識)を構成し、組織している(働いている)のである。どのような場合においても、反省するということは構成すること、すなわち思惟することだ。目的論的批評哲学の人々の言う様に、知るということは、すなわち思惟するということだ。こう考えてみるなら、我々(自己)が我々の自己を反省するとか、自己を知るとかいうことは、これ(自己)を思惟するということでなければならない。フィヒテもこれを自己が自己に対して働くといっている。そしてまたフィヒテの言ったように、我々の自己とはこの働き(思惟)の外にないのだ。それでは、自己が自己に対して働くということ、すなわち思惟(自己)が思惟する(自己を知る)ということはどのようにして可能だろうか。
 我々は普通に、知るものと、知られるものがまず別々に存在し、知るということは知るものの知られるものに対する働きであると考えている。従って思惟(自己)が思惟(自己)を思惟する(知る)というようなことは不可能であると考えられる。しかしフィヒテも言ったように、我の存在ということがあって、我が思惟するということがあるのではない。かえって後者(我が思惟する)によって前者(我が存在する)が成立するのだ。我が思惟する前に我が存在しなくてはならないと主張するのは我自身であって、この主張は我の思惟だ。リッケルトの語をもって言えば「存在の前に意味がある」ということができるだろう。リッケルトに従えば、我々の認識の対象というものも超越的存在(物自体)というようなものではなく、超越的当為である。価値(≒意味)である。我々が認識するというのは、この当為、すなわち価値を承認することだ。この超越的当為が我々の意識内の事実として現れたものが、我々の知的作用だ。従って我々の知的作用というのは(当為を表す)判断の外にない。認識主観(?)というのはこのような判断の意識の最後の主観となるもので、すべての経験界を意識内容と見なす最後の立脚地というような限界概念に過ぎない。すなわち何らの実在性を帯びたものではないのだ。以上のように考えると、我々の認識の根拠は超越的当為(価値)にあるので、判断の必然性とか論理的明白の感情とかいうようなものが内在的標準として、心内の経験においてこれ(当為)を現すものとなる。我々が知るということはこのような当為の意識に基づくのであって、普通に考えられているように知るものと知られるものがあって、前者が後者に対して働くというようなことによるのではない。主観客観の存在というようなことは、かえってこの価値意識(当為)によって考え得るのだ。さて、知るということが右のようにして可能であるとするならば、前に問題として思惟(自己)が思惟(自己)を思惟する(知る)と見るべき自覚ということは、どのようにして可能だろうか。知るということを右のように考えてみると、自己が自己を知る、思惟が思惟を思惟するということは、価値意識が価値意識自身を承認するということとならなければならない(自己=思惟作用=判断意識=当為、価値の意識)。それでは、価値意識が価値意識自身を承認する、すなわち、当為が当為自身を承認するということは果たして可能だろうか。私は当為が当為自身を承認するということは自明のことであると思う。当為は当為自身によって立つのだ。他によって立つのではない。他によって立つものは当為と言うことはできない。当為ということは己自身を承認するということと同一だ。ヴィンデルバントが規範的意識(当為)はそれ自身の存在を仮定している、このようなことを言うのは循環論証のようだが、ロッツェの言ったように、避けることのできない循環論証は明らかにこれを為さねばならないと言い、リッケルトが疑うということはすでに規範的意識(当為)の存在ということを仮定しているというのも、また反対論者のネルソンが知識の客観的妥当性は証明ができないというのも、皆同一の理由(当為は当為自身によって立つ)に基づいているのであると思う。
 以上論じたように考えてみると、自覚ということは、心理学的に解釈すべきことではなく、また主観と客観が対立して前者が後者を写すというような模写主義の認識論から考えることも出来ない。批評哲学の立場から当為が当為自身を承認するとして、その意義と可能を明らかにすることができると思う。フィヒテはこのような自覚ということが、我々に直接で説明のできない根本的事実であることを論じて、これを知的直観と言っている。氏に従えば、我々が我々の自己を意識するには、考える自己と、考えられる自己を区別して見なければならない。しかしそうするには、その考える自己がさらに考える自己の対象とならなければならない。こうして無限に到って、ついに自覚ということを説明することができない。しかし自覚という事実がある。それで自覚においては主観と客観が合一していなければならない。これがすなわち直観であるというのである。もしこのような意味において、自覚を直観と言い得るならば、直観ということは価値意識が価値意識自身を承認する、当為が当為自身を承認するということでなければならない。フィヒテの直観するということは働く(知る、思惟する)ということだ。


 私は以上述べたところによって、私の自覚というものの意義と、その可能である所以を明らかにし得たと思う。フィヒテは自覚ということは説明のできない、直接な意識の事実であるとして、自己が自己を知るのは、ただ思惟するにあるのだ。すなわち働くにあるのだ。自己を直観するというのはその働きを実行することであると言っている。氏がここに思惟するというのは、思惟する主(主観)なき思惟だ。働くというのは働く主(主観)なき働きだ。これを現代の目的論的批評哲学の見方から言えば、価値意識が価値意識自身を承認するというのが適当ではないだろうか。そうでなければ、氏の議論も(意識内容という)事実から価値を論じようとする心理主義を混じているという非難を免れることができないだろう。しかし自覚ということをこのように、単なる「当為の意識」と見てしまえば、自己は完全に非実在的のものと考える外なく、我々の現実における反省の事実とは、何らの関係ないものなってしまう。自己そのものの中に何らの活動の意義を含むことができないこととなる。ヴィンデルバントなどはフィヒテの自己をこのように(自己は完全に非実在的のものと)解するのが正当であると考えている。だが我々は自己というものを、一方においてカントのいわゆる純粋統覚とかいうような客観的知識成立の根拠と考え得ると共に、一方において現実の活動の根本と考えている。すなわち自己がそれ自身において現実に働きつつあるのだ。この現実における反省とか、思惟とかいうものが自己の活動だ。この活動の外に自己というべきものはないと考えている。我々が自己以外のある物を考える場合には、考える物と考えられるものが別になっている。すなわち判断作用(自己)とその内容(判断の内容)が異なったものである。ただ自覚においてはこの両者が一つであると考えなければならない。自己が自己を考えるのだ。内容が内容自身を考えるのだ。このような意味の自覚において、はじめてこの書の目的である直観と反省の深い内面的関係を求めることができると思う。しかしこのような考えは(純論理派から)知的価値(真理)と知的作用の混同に基づく誤った考えであると見られるのは勿論だ。
 真理は我々がこれを考えると否とに関せず真理だ。価値意識は単なる一般妥当性の意識であって、我々の現実の知的作用とは何らの関係もない。こういう考えから見れば、価値意識が己自身を承認するという自己意識(当為の意識)と、現実の活動における自己意識(現実の意識活動)はその間に何らの結合の紐を見出すことはできない。前者は後者を超越して、全ての他の現象と同じように知的対象として、静かにこれを見ることができるものと考えなくてはならない。私はここで、遡ってリッケルトなどの言うような知的価値と知的作用を峻別する考えについて吟味してみよう。リッケルトは「判断と判断作用」と題する論文において、判断について三様の見方を区別している。まず判断は単なる一種の心理的作用として見ることができる。こう見れば、他の心理的現象と同じように、(判断は)個人の意識に起こる時間的経過を有する一事実に過ぎない。しかし論理的には、判断は一種の意味を持ったものだ。判断という心理的作用は一種の意味を現しているのだ。そしてこの意味は二様に分かつことができる。すなわち客観的と主観的、または超越的と内在的という様に分かつことができる。氏は前者(客観的意味、超越的意味)を後者と区別して判断の内容と名付けている。超越的意味というのは氏の超越的論理学のいわゆる「価値」(真理)と同一のものであって、心理的な判断作用とは何らの交渉のないものだ。例えば2×2=4ということは何人が何時考えるという判断作用とは何らの関係もないものだ。このような超越的意味が、判断作用の意味、目的として内在的となったものが内在的意味だ。すなわち我々の論理的当為の意識だ。このように判断をその存在、目的、内容と三方面から見ることができ、これらの三様の見方は混同してはならないと言っている。
 リッケルトの言うような見方の区別は学問的考究の上において十分尊重すべきことは勿論だが、我々の当為の意識と現実の意識活動は、このように没交渉のものだろうか。当為の意識とは我々の現実の意識活動を支配する力を持ったものではないだろうか。我々を内から動かす活動力ではないだろうか。そうでなければ、当為ということは我々にとって完全に無意義なものとなると思う。例えば、我々がある一つの数学の問題を考える場合、数学的必然性というものは我々の観念連合を動かす力を持ったものだ。すなわち事実上の力だ。我々の直接経験の上においては、こう考えなければならないということから、こう考えるということが起こってくるのだ。現実を動かすことのできない理想は真の理想ではない。勿論このようなことを言えば、これに対して様々な非難が起こるだろう。まずこのような考えは原因と理由を混同した大きな誤謬であると言うことができる。しかしこのような非難が起こる基には、なお一つ吟味して見なければならない独断があるのではないだろうか。多くの人は真理というものはそれ自身において実現の力を持ったものではなく、ある個人がこれを考えることによって現実の活動となると考えている。すなわち理想というものはそれ自身によって現実となることができるのではなく、事実的原因(この場合、ある個人がこれを考えること)によって現実となるのであると考えている。しかしこのような考えを主張する人のいわゆる個人とはどのようなものだろうか。事実的原因とはどのようなものを言うのだろうか。いわゆる個人とか、事実的原因とかいうことは、時間、空間というような形式によって、我々の経験界を統一した後に考え得るものではないだろうか。もしそうであれば、我々はこれらのもの(個人、事実的原因)を考える前に、すでに当為の意識を仮定していると言わなくてはならない。我々は後者(当為の意識)によって前者(時間、空間という形式から成る個人、事実的原因)を考え得るのだ。すべて真理はそれ自身において我らの意識を動かす力を持ったものだ。他によって働くのではない。例えば我々が2×2=4ということを考えた時、それは動かすことのできない現実的要求の事実だ。この要求の力は他から来るのではない。これをある個人がある時、ある場所において考えているということ(事実的原因)は、外から付加された思想に過ぎない。そしてこのような思想の基にはまた、当為の意識が働きつつあることを忘れてはいけない。すべてある一つの意識体系がそれ自身において内から発展する場合においては、当為すなわち現実の事実であるが、そうでない場合においては、空間、時間、因果というような外面的形式によって、外から統一する必要が起こってくるのだ。普通には空間、時間、因果の形式によって統一されたものが実在的であって、いわゆる真理の体系というようなものは理想的であると考えられているのだが、後者(真理の体系=当為の意識)が実在的でないというならば、これに基づくと考えなければならない前者(空間、時間、因果の形式)は尚更、実在的でないと言わなければなるまい。
 我々の経験を空間、時間、因果の形式に当てはめて考えること、すなわち「存在の範疇(最も基本的な、認識論上の概念のこと)」に当てはめて考えるということは、すでに一種の当為、すなわち価値に基づいたもので、自然科学的真理は我々の思惟の作為に過ぎないということは、カントの認識論を継承する人の誰もが許す所だろうと思うが、このような理想的真理と、これを考えるということは、どこまでも区別されねばならないように思われる。すなわち真理が現実に働くというようなことには、なお多くの議論を要することと思われる。例えば二に二を加えて四となるという数学的必然性(当為の意識)から、ある人が、ある時、ある場所においてこれを考えるということ(現実の意識活動)を導き出すことはできない。たとえ物理的知識が完全の域に達し、ラプラースの神のようなものがすべての出来事を予言することができるとしても、このような物理的真理と物理的事実は別物と考えなくてはならない。論理的当為と事実はどこまでも混同することはできない。時間、空間、因果の考えは当為によるものとするも、当為が事実を創造すると考えることはできない。これらの難点を明らかにするには、深くこれらの思想の根底に立ち入って考えて見なければならないと思う。


 上に言ったような難点を明らかにするため、私はまず真理とその認識作用の関係を論じてみようと思う。論理的知識について考えてみると、リッケルトなどは論理的意味あるいは価値と、心理的判断作用を厳密に区別しようとするが、厳密に意味(価値)から区別された、単なる時間上の出来事である判断作用はどのようにして意味を考えることができるだろうか。氏の言う様に、超越的意味が判断作用の意味として内在的となることがどのようにして可能だろうか。氏のいわゆる当為の意識というようなものはどのようにして成り立つことができるだろうか。例えば、「甲は甲である」という自同律の真理を考えた場合に、たとえ同一の性質のものにせよ、二つの異なった独立の心像の連続ということから、どのようにしてこのような判断(当為)が成り立つことができるだろうか。ヴントの言う様に再認ということは単なる同一の意識の繰り返しではない。新たな一種の意味を持った意識だ。氏が心理的因果関係は創造的総合であるというのもこれによるのだ。我々の直接の意識は意味を持ったもので、意識の事実としては、意味は実在的なものであると言わなければならない。勿論この意味の意識というのも、これを単一な感覚とか、感情とかいうものに分析して考えることができるだろう。しかしこのように分析することは、すなわち意味を無くすことである。例えばある一つの芸術作品について、その材料を分析してみると一般だ。時間、空間、因果によって厳密に限定された意識現象(例えば上で言う材料)が一般的な意味の意識を持つということは到底不可能だ。ある一つの芸術的作品が意味を持つというのは、その物が意味を有するのではない。我々の当為の意識が芸術的作品について意味を創造するのだ。意味の意識(当為の意識)というようなものが幻想に過ぎないというならばとにかく、仮にも意味の意識が直接な意識の事実として実在的であるというなら、その起源は因果律から説明はできない。意味の意識(当為の意識)が実在的であるということは何人も否定することはできない。これを否定するということは、すでに意味の意識(当為)を許しているのだ(否定すること自体が「そうでなければならない」という当為の存在をすでに仮定している)。このような当為の意識は、リッケルトの言うような意味において実在的ということはできないだろう。しかしこれ(当為の意識)は明らかに氏の言うような超越的意味、すなわち価値そのものではない。価値が存在の形において現れたものだ。自然現象においては、その目的というものは外から与えられたものと考えることも出来るだろう。しかし意識現象においては、目的は直ちに能動的作用だ。すなわち実在的であると言わなければならない(実在的≒能動的)。
 以上述べたように意味(当為)の意識の起源は意識成立の因果律から説明ができず、この両者の間に超えることのできない間隙があるとすると、我々が普通に考えるように、ある人がある時、ある場所における意識がある意味を持つということ、すなわち我々がある意味を考えるということはどのようにして可能だろうか。意味の意識が実在的であると考える裏面には、これ(意味の意識)を存在の範疇に当てはめて考えることができるということを含んでいると言わなければならない。意味と存在の事実はいかにして結合することができるだろうか。私が先に言ったように、時とか、場所とか、個人とか、考えるとかいうことは、すでに一種の当為によって我々の経験を統一したものであると考えてみると、我々がある意味を考えるということ、すなわち意味と存在(我々)の結合ということは、一つの意識を種々の方面の関係において見ることができるということだろう。我々に直接な具体的意識は何らかの意味において他との関係において起こるものだ。すなわち様々な意味を持ったもので、(我々の具体的意識は)様々な意味において他と連絡を保ち、様々な方面から統一することができると考えることができる。例えば、私の現在の意識は真、善、美の意味を持ったものとして、これらの当為(真善美という当為)の関係から見ることができると共に、時間的、個人的意味を持ったものとして、この方面(時間的、個人的方面)から統一して見ることができるのだ。しかし意味と存在の結合を右のように考えてみると、このように種々異なった意味の見方がどのようにして一つの意識において結合されるだろうか。これらの見方は、互いに関係のない各々独立したものとも考え得るではないだろうか。「我が考える」という様に、ある一種の存在とある一種の意味の結合は、どのようにして可能であるか。私は無造作に一つの意識を種々の方面から見るというが、何によってこれを一つの意識ということができるのだろうか。存在ということを考えるのは意味の意識には相違ないが、もし存在ということまでも意識が有する意味に過ぎないと考えてみると、すべてが意味となってしまって、存在とか実在とかいうことは無くなってしまう。我々は何物について意味を考え、何物が意味を考えるのだろうか。意味が意味について意味を考えるのだろうか。たとえ意味は直接な意識の事実として実在的であるとしても、意味のみによって実在的となることができるのだろうか。意味はそれ自身の力によって個人の意識に現れ得るのだが、意味の意識が存在から説明できないように、存在ということも意味のみから説明はできない。それとも存在という意味が他の意味を存在させるのだろうか。それでは、我々に存在ということを考えさせるものはなんであるか。存在の意味が己自身を存在せしめるのか。他の意味については、我々は意味と、その意味の意識ということを考えれば足りるのだが、存在という意味については、存在する物と、この物が存在するという意味と、このような意味の意識を考えねばなるまい。ある物が存在するということが意味の意識として真理である以上は、ある物が存在しなければならない。しかしこのある物は意味から導き出すことはできない。以上種々の疑問を明らかにした上でなければ、意味と存在の結合を企てることはできないだろう。

四~六(意味と存在)


 意味と存在の関係を考えるにあたり、まず普通に両者の結合と考えられている符号とか象徴とかいうものについて考えてみよう。我々の言語というようなものは、その指示する意味と、指示されたもの(存在)の性質の間には、何らの内面的関係はない。言語は意味の符号にすぎない。十字架がキリスト教を顕すというのもこれ(言語)と同一だ。このような符号的関係においては、この両者を結合するものは外にある(外から結合される)と見なければなるまい。これに反し、百合の花が清浄無垢の象徴であるというような場合は、その指すところの意味とその花の性質の間にいくらかの内面的関係があると言わねばならない。すなわちこの場合において、百合の花の姿と清浄無垢という感情の間には、我々の直接経験上いくらかの必然的関係があるのだ。我々の直接経験の上においてこの両者(意味と存在)が渾然な一者を形成しているのだ。芸術的作品における意味と作品そのものとの関係は、すべてこの種に属するのだろう。このような象徴的関係の場合では、我々は普通に百合の花が清浄無垢の感情を起こすとか、持つとかいっている。しかしなお一層分析して考えてみると、一種の色とか薫りとかいうものと感情との間に、必ずしも不可分離の関係があるのではない。すなわち(感情と)対象そのものの間に関係があるのではない。色に結び付いた感情は音にも結び付くことができる。このような感情は単なる我々の主観的作用に伴う感情であって、外から結合されるものと見ることができる。我々の心理的判断作用が論理的意味または真理を表わすという場合でも、やはりこの種に属するものと考えねばなるまい。我々がある真理を考えるという場合、単にこれ(ある意味または真理を考えるという行為)を心理作用として見れば、若干の観念の時間上における連続に過ぎない。その表す意味(または真理)というものは、これらの観念と意識中心との関係、すなわち統覚作用というようなものによって外から付加されたものと見なければなるまい。さて以上のように考えてみると、存在と意味を結合するものはすべて我々の主観的作用、すなわち我の働きによると見ることができるだろう。最初の考え(言語、十字架の例)では、存在と意味との結合が偶然的で、我の随意的結合によると考えることができ、次の場合(百合の花の例)においてはその結合が必然的と見ることができる。そしてこのように必然的と考えられるのは、我を必然的性質をもったものと考えて、物の必然性(例えば百合が持つ清浄無垢なイメージ)と我の必然性の間に必然的関係があると考えるのよるのだろう。しかしこの場合において必然的関係とはどのようなことを意味しているのだろうか。普通に必然的関係といっているものには二種ある。一つは意味の上の必然的関係であって、例えば論理的必然のようなものであり、もう一つは因果律の必然であって、例えばある原因には必ず結果を伴うというようなものだが、右に言ったような物の必然性と我の必然性との間における必然的結合というのは、普通の心理学者などが考えるように、意味を表している我というものも一種の存在と見なし、これ(我)と他の存在との間に因果的必然を認めるのだろう。このような考え方では、その意味を心理的自己の作用に直して考えるということが、すでに意味と存在の結合を仮定してる。しかのみならず、このように二種の存在を結合する者は何者だろうか。物と物との間における因果的必然の関係は、どこからその必然性を得来るのだろうか。我々が物と物との間に因果的必然の関係があるというのは、現在の経験において二つのものが不可分離に結合しているからだ。そして幾度繰り返されてもこの結合が不変であった場合には、この二つのものの間に因果的必然の関係があると信じるようになるのだろう。このように考えてみれば、意味と存在を結合するものは、「同時存在」という「時の形式」であるということができる。判断作用と意味の結合ということも、若干の観念連合(判断作用)に、意味を代表する意識が同時的に伴うということだろう。我が考えるということはジェームスのいわゆる烙印のようなもの(この場合、意味)が、これ(判断作用)に伴うということだろう。そしてかく意味と存在との結合は時の形式によって可能であるというならば、「時」というものはどのようなものであるだろうか。言うまでもなく「時」というのは“我々の経験を統一する形式”であって、このような形式によって経験を統一することができるのは、我々の超越的統覚の統一作用によると言わなければならない。すなわち私が上に言ったように「時」は我々の当為の意識に基づいて成立するのだ。このように考えてみれば、存在視された意味と存在を結合するものはまた意味の意識(当為の意識)であると言わねばならないこととなる。普通に考えられているような意味と存在の結合というのは、要するに意味を存在の形に直し、存在と存在との時間的結合を考えているに過ぎない。このような考え方では到底意味と存在の結合の真意義を明らかにすることはできない。


 私はこれにおいて普通に存在と言っていることの意義について考えて見なければならない。ある物が存在するということはどのようなことを意味するのか。ある物が存在するということは、厳密な経験の事実として、ただ同一の経験が幾度も繰り返し得るということに過ぎない。さらに厳密に考えてみれば、時間上繰り返された経験が果たして同一の経験であると言い得るか否かも疑問だ。単に相類似した経験が繰り返されるというより外はないだろう。意識以外における物の存在ということは、我々の思惟によって作為されたもので、唯心論者の主張するように、我々の主観的自己というものの外に疑うべからざる直接の存在というべきものはないと言わなければならない。しかし翻って考えてみると、自己の存在ということも同一の経験、厳密には類似した経験の繰り返しにすぎない。我々は我々の心理的自己の存在に対して、物の存在以上の理由を与えることはできない。もし存在ということが厳密にそれ自身に同一であること、それ自身において不変であることを意味するとして、我々の直接経験の中において、このような性質に当てはまるものを求めれば、我々が普通に考えているような物とか我(主観的自己)とかいうようなものではなく、かえって論理的当為の意識のようなものであると言わなければならない。論理的当為の意識はそれ自身において同一不変なものでなければならない。もし時間的に異なった意識は同一の意識でないというならば、このようなことはすでに同一不変である論理的当為の意識(こうでなければならないという意識)によって考えているのであると言うことができる。しかしリッケルトなどはなおこれに反対して、それ自身において同一不変なものは当為の意識ではなく、当為そのもの、すなわち価値そのものであると言うだろう。すでに心理的現象として時間上に表れた当為の意識は、厳密に言えば同一不変ということはできないだろう。厳密にそれ自身において同一不変なものを存在というのなら、もっとも疑うことのできない存在というべきものは、純粋な価値、すなわち理そのものというようなものであって、かつてプラトンの考えたようなこの現象界ではなくて、かの理想界(価値の世界)であると言わなければなるまい。しかし我々は普通に価値とか当為とかいうようなものを存在とは考えていない。リッケルトの如きはこれ(理想界)を超越対象の世界として厳重に存在の世界から区別している。物が存在するということは単に同一不変ということ以上の意味を持っていなければならない。
 よく考えてみると、同一の経験を幾度も繰り返し得るということ、すなわち同一の性質を持った、厳密に言えば類似の性質を持った経験を繰り返すことから、直ちに存在という考えは起こってこない。我々は単にこれを同種類の経験と見て一つの普通名詞によって統一するまでだ。ヴィンデルバントは「同一」ということと「同等」ということを峻別し、この両者は根底的に異なった概念であって、同等は反省の範疇(あらゆる事象をそれ以上に分類できないところで包括する一般的な基本概念)であり、同一は実在の範疇であると言っている、それでは、経験の性質の同一、すなわち同等ということと、物の同一ということは何処から区別が起こってくるか。同等の範疇と同一の範疇はいかに異なっているのだろうか。ヴィンデルバントが「範疇の体系に就て」と題する小論文において論じるところによってみると、意識の現象においてはその意識内容と、これ(意識内容)を総合統一する作用を分かつことができる。同一の内容が異なった関係において現れることができ、また同一の関係が異なった内容の間に成立することができる。すなわち我々は与えられた意識内容を自由に結合することができる。そこで結合作用によって我々が自由に結合できる意識内容の関係と、そうでない意識内容の関係との区別ができる。ここに主観的意識と客観的存在との対立がある。存在ということはこのような意識内容の独立を指すのだ。「意識内容の結合がすでに独立した意識内容の中に含まれており、意識の総合作用がこれ(独立した意識内容)を繰り返すにすぎない場合」は、その関係は客観的であって、これに反し「総合作用における自由に結合することができる意識内容の関係」が主観的であると言っている。それでヴィンデルバントの言う様にすれば、我々の意識の根本的性質である総合作用の範疇が、“総合作用から独立した意識内容”を統一する範疇として現れた時は実在の範疇となり、意識の総合作用において自由に結合することができる意識内容を統一する範疇として現れた時は、反省的思惟の範疇となるのだ。このように考えてみると、物の存在ということは、「要するに独立した意識内容それ自身における統一」ということに帰すのではないだろうか。そして独立した意識内容と、自由に結合のできる意識内容の区別は、つまるところ「与えられた直覚的経験の内容」と「随意に反省することのできる意識内容」との区別に過ぎないのではないだろうか。
 性質の同一ということと物の同一ということを右に言ったように区別しようとするなら、ヴィンデルバントのいう様な独立した意識内容と、自由に結合のできる意識内容との間には、果たして明瞭な境界線を引くことができるだろうか。直覚の統一と思惟の統一との間に絶対的区別を立てることができるだろうか。このような区別をなす人は、主観的自己の自由な総合作用というものを考えているのだろうが、我々の意識内容はこのような外面的作用(主観的自己の自由な総合作用)によって統一されるのではなく、ことごとくそれ自身の内容によって統一されるのだ。例えば、我々が物の性質を比較してこれを同一と判断する場合に、この判断は意識内容そのものの性質によって成り立つのであって、他の力によって成り立つのではない。二つのものを比較しその異同を判断する前に、性質の同一の直観がなければならない。それ自身に(性質的に)同一な意識があって、判断の総合が成立するのだ。この点においては独立した意識内容の結合として物の同一を考えることと、何らの違いもない。ただ我々は与えられた経験を自由に分析し得ると考える故に、「内容そのものの独立の総合作用」を忘れているのだ。もし真に我々の自由に動かすことのできない意識内容の連結というものを求めるなら、数理のような内面的必然(論理的当為)の関係を有するものがかえって最もよくこの性質を具えているものではないだろうか。だが我々は数理のようなものに存在の範疇を当てはめないで、ただ時間空間の上における意識内容の結合にのみこれ(存在の範疇)を当てはめるのは如何なる訳だろうか。たとえ意識内容の結合が我々の主観的選択によって自由に動かすことのできないものであっても、その結合が意識内容そのものの内面的必然の結合、すなわち意味の結合であった場合(数理のような場合)は、我々はこれを物に基づく客観的結合とは考えない。従ってこれに存在の範疇を当てはめない。これに反し、その結合が(意識)内容そのものの中に求めることのできない外面的結合であった場合は、我々はこれを自己の主観から独立した、物に基づく結合と考えるのだ。時間、空間というのはこのような外面的結合の形式だ。以上のように考えるならば、ヴィンデルバントの区別もつまるところ意識内容の内面的結合と外面的結合ということに帰するのではないだろうか。


 以上述べたように、物の存在ということが、意識内容の内面的結合に対する外面的結合、すなわち時間、空間の形式による結合と考え得るなら、このような意識内容の外面的結合とはどのようなものだろうか。それは内面的結合とどこまでも区別されるべきものだろうか。この両者の関係は如何。すなわち時間、空間の結合とはどのようなものだろうか。それは当為の意識とどのような関係において立つか。これらの問題を明らかにすることによって、意味と存在との関係を見出すことができないだろうか。
 我々が数日を費やしてある一つの数学の問題を解し、またはある一枚の画を完成したとせよ。内から見れば、一つの意味によって結合された一意識の発展(内面的結合)と見ることができるが、外から見れば、すなわち意味を離れて単なるいわゆる心理作用として見れば、切れ切れの意識の時間上における結合に過ぎない。しかし上にも言ったように、このような外面的結合(切れ切れの意識の時間上における結合)というものも、一種の意識統一として、やはり一種の内面的意味によって成り立つものと見ることもできる。時間、空間の長短、大小というようなことも見方によっては性質的なものであって、時間上の先後とか、空間上の上下、左右とかいうようなことも、一幅の画中における景色の配列のように、一種の内面的意味に基づく配列と見ることができる。内面的結合ということが、ある一つの意味によって他の意識内容を統一することであるなら、空間、時間の結合(外面的結合)もこれと異なるところはない。ただその異なるところは、意味そのものの相違だ。すなわち空間、時間の結合というのは、意識内容を最も一般的な性質(時間、空間という性質)から見た意識内容の統一だ。連続的であって、一々異質的な我々の経験を、出来るだけ(時間、空間という性質により)同質的に見た場合の結合だ。内面的結合と外面的結合の区別は、つまるところ異質と同質とか、特殊と一般とかいうような程度の差に過ぎないと考えることはできないだろうか。勿論、我々の経験を同質的に見るということと、これ(同質的に見た我々の経験)を時間、空間によって結合するということ(一般的概念を作るということ)は、直ちに同一視することはできない。我々が(時間、空間という)一般的性質によって主観的に経験を統一して一般的概念を作るということと、経験そのものの関係と考えられる時間、空間の関係(経験の同質性)ということの間に、何らかの内面的関係を見出すことは困難だろう。経験を一般的に見ること(同質的に見ること)ができないのであれば、時間、空間によって結合すること(一般概念を作ること)はできないとしても、後のように見る(一般概念を作ること)には前の見方(同質的に見ること)に、ある何者かが加わらなければならない。一般ということと同質ということは直ちに同一視することができないのは勿論だ。
 しかし一方から考えてみると、一般的見方と同質的見方、すなわち経験を一般化して一般概念を作る考え方と、時間、空間の関係によって経験を結合する(経験を同質的に見る)考え方との間に、必然な内面的関係があると考えることも出来る。我々の直接の経験は、ベルグソンの純粋持続(一切の言語・概念・記号を振り払って自己内界に深く深く沈潜するとき、そこに直覚的に感得される生動そのものとしての自我・人格の存在形式)といったように、各部分が特殊な位置と意味を有し、内面的に結合された一つの経験だ。このような経験の連結に対しては、その間に一般概念の結合を容れるべき余地はない。芸術品の各部の間に、一般概念的結合を試みることが無意義であることと同様だ。ただ右のように連続的にして一々異質的な経験を、同質的媒介者(論理の理解と数理の理解を参照)の上に写して、(経験の)各部を分割して独立のものと考えることによって、その類似によりこれを統括(結合、統一)した一般概念というものが成立するのだ。しかし単にこのように言うだけでは、たとえ一般化的見方(一般概念を作ること)と同質的媒介者によって経験を統一すること(同質的見方)は、その間に必然的関係を認めることができるとしても、なお両者の内面的関係を明らかにしたものということはできない。私はこれにおいて、同質的媒介者によって経験を統一するということ(経験を同質的に見ること)はどのようなことであって、どのようにして可能であるかを考えて見なければならない。カント以来、空間、時間は直観の形式として、思惟と完全に異なった根源を有するものと考えられている。勿論カントは純粋統覚の統一をすべての統一作用の根本として考えたのではあるが、どこまでも思惟と直観を区別し、直観の形式は別の根拠を有するものと考えている。リッケルトも「一者、統一及び一」と題する論文において、数の概念を得るには純論理的概念に非論理的要素を加えねばならないと論じ、純論理的対象である一者と数の一は完全に異なった概念である、一者と他者を性質的に区別する異質的媒介者に代わる同質的媒介者を以って、初めて数の概念を得ることができると言っている。しかし私がかつて「論理の理解と数理の理解」において論じたように、数の概念の基となり、兼ねて時間、空間の基となる同質的統一というものは、多くのカント学徒の考えるように完全に思惟の中に含まれていないものだろうか。我々の判断作用とは、ヘーゲルの考えたように一般的或者が己自身を発展する作用だ。「甲は甲である」というようなことすらも、単なる同語反復ではなく、特殊なものを一般なものの中に包摂すること、すなわち一般なものが己自身を発展する内面的必然の作用を言い表したものだ。甲を乙から区別するという裏面には、乙を甲から区別するということが含まれている。このように両者を区別するにはこの両者を統一する一般的或者がなければならない。我々はこの一般者(統一の直観)によって甲から乙を区別するように、乙から甲を区別するのだ。思惟の根底には統一の直観がなければならない。同質的媒介者の考えもこれ(統一の直観)に基づいて起こってくると考えなければならない。
 勿論右のように言うものの、線の連続とか数の系列とかいうことを、一般と特殊との関係に基づいて考える(一般なものが己自身を発展したものとして考える)というのには、異論の多いことだろう。カントは空間が直観であって概念でないということを論証するため、空間においてはある一つの空間と全空間との関係は、部分と全体の関係であって、一般と特殊の関係ではない。前者は後者の限定されたものだ。幾何学の原理は一般概念から導き出すわけにはいかない。また空間は無限大と考えられるが、概念はその中に無限の観念を含むと考えることができないと言っている。しかし厳密には、一つの幾何学的直線を理解するということも、決して普通に考えられるような単純な直覚によるのではない。我々が直覚的に見ている直線というものは、ただその象徴にすぎない。ポアンカレはいわゆる直覚的空間と幾何学的空間を区別して、後者は同質的であると言い、空間の同質性ということを解して、感覚【A】から感覚【B】まで外界変化【α】によって移っていき、そして後この【α】変化が有意運動【β】によって【B】から【A】に復することができるとする。次にまた他の外界変化【α´】によって同じく【A】から【B】に移り行くと想像し、そして後この【α´】変化がまた有意運動【β´】によって【B】から【A】に復することができるとする。そしてこの【β´】運動と前の【β】運動が相応するとすれば、いわゆる空間の同質性というものが成り立つと言っている。ポアンカレがこのように幾何学的空間の基である同質性を、ある外界変化を元位置に復えす有意運動の相応に基づくと言ったのを、なお一層深く考えてみると、つまるところ我々の自己が翻って自己を認める自覚作用に基づくと言うことができるのではないだろうか。厳密な意味において同一の運動というべきものがあるはずはない。同一の運動によって元の位置に還るというのは自己同一の要求(自覚作用)に基づいているのだ。幾何学的空間の基である同質性がポアンカレの言うようなものであるとするなら、その根底には我々の自覚作用があると言わなければならない。そして私がかつて「論理の理解と数理の理解」において論じたように、数の秩序とか、無限とかいうことが体系の中に体系を写すということ、すなわち自己が自己を写すということによって成立するものとするなら、幾何学的直線の秩序とか、無限とかいうことも、これ(自己が自己を写すということ)に基づくと考えなければならないだろう。
 以上のように考えてみると、一つの思惟対象を一つの思惟対象から区別する異質的媒介者の裏面には、同質的媒介者がなければならない。数量的関係(量別)はこれに基づいて起こってくるのだ。マールブルク学派の言う様に「種別(性質的)」と「量別(数量的)」は雑多の統一である思惟、すなわち判断の離すことのできない二方面だ。抽象的にはこの両方面を分けて考えることができるかもしれないが、具体的思惟においてはこの両方面を離すことはできない。ナトルプはこの両方面の関係はあたかも内向的方向(種別)と外交的方向(量別)のようなものであると言っている。カントは外延量(質量・長さ・体積などの同じ種類で加え合わせることのできる量)と内包量(温度や速度のように、加え合わせても意味のない量)を区別して、前者においては部分が全体に先立ち、後者においては全体が部分に先立つ、すなわち前者においてはまず分離してそして後内面的に統一し、後者においてはまず(全体の)内面的統一があってそして後分離するという風に考えているのだが、このような区別はそのいずれの方面に重きを置くかという相違であって、いかなる意味の大きさもこの両方面(外延量…量別と、内包量…種別)を具えていなければならない。すべて数量的関係の根底には性質的関係が含まれている。すなわち一般(性質的)と特殊(数量的)の関係が含まれている。ただこの性質的関係がいわゆる無内容な場合、すなわち普通の意味において極めて一般的な場合、正しく言えば単に思惟対象であるだけという性質を帯びた場合、この関係の具体的統一の立場から反省して、純数量的関係が現れてくるのだ(性質的である一般なものが内面的に発展して、数量的である特殊なものが現れる)。数量的関係の基である同質性とはこのような性質を指すのだ。カントは上に引用したように「純理批判」の始まりにおいて空間、時間が非概念的であることを論じているが、空間の一般概念を知覚的空間の性質である延長の感覚というようなものによって考えるならば、このような一般概念からは何の幾何学的原理を導き出すことはできない。しかし直覚的空間と幾何学的空間は明らかに区別されねばならない。もし幾何学的空間の一般的性質ということを、以上述べたような純論理的なもの(単に思惟対象であるだけという性質)として考えてみるならば、このような一般的性質によってさまざまな幾何学的原理が成立し得ると考えることはできないだろうか。一般と特殊の関係といえば、普通には純性質的なものと考えられている。特殊というのは一般なものにある性質が加わったものだ。例えばある特殊な色というのは一般な色にある特別な性質が加わったものであるという風に考えられている。アリストテレス以来の因習的推論式はこれに基づいて構成されているのだ。しかしロッツェなども言ったように、全ての推論式の根底には体系がなくてはならない(ボサンケーなどもこの考えを承けて、推論の根本的条件は体系にあると言っている)。すなわち推論の根底となる一般なるもの(統一の直観)は体系であると言わなければならない。一般と特殊の真の関係は、体系(一般なるもの)の内面的発展の上に求めなければならない。真に特殊なものは、一般なものが内面的に発展したものだ。純性質的見方から考えられた一般と特殊の関係も、この定義の外に出ないと思う。例えばある特殊な色を一般な色の中に包摂して考えるということは、色一般(代表的な色?)という様な経験内容、すなわちフッサールのいわゆる「直観において与えられた本質」というようなものの、内面的発展として考えることができるのではないだろうか。様々な色自身の体系はこれ(色一般という体系の内面的発展)によって成立すると思う。あるいはこのような考えは概念(この場合色一般)を実体化したものだと言われるかもしれないが、我々が直観の上において色一般というものを他から区別し得る以上は、このような独立の経験内容を認めなければなるまい。もし色一般ということが抽象的概念であると言うならば、青とか赤とかいうことも同一の理由によって抽象的概念であると言わねばならないのではないだろうか。こういえば遂に際限がないのだ。すべて物の性質ということは経験の一体系を静止的に考えること(静止の相において見ること)であって、経験を性質的に統一することは経験を一つの中心に結合すること、すなわちナトルプのいわゆる内向的方面(種別)に結び付けることではないだろうか。どの経験の体系もこのように考えること(経験の一体系を静止的に考えること)によって性質的(種別的)に考えることができる。数の体系のようなものでもこの方面から考えることができると思う。普通の意義における一般化ということは、各自独立で静止的と考えられた経験の体系を一つに結合することだ。元々(性質的であり)数量的に分割することのできない経験の体系を数量的に分割して、そして後またこれを一つに統一する考え方だ。このような考え方は、思惟の両方面(種別と量別、性質的と数量的、一般と特殊)を別々に見る抽象的見方の結果として生じる中間物ではないだろうか。真の経験の体系は、無内容と見るべき思惟対象の体系、すなわち数の体系及びこれに基づく空間時間の体系のようなもの(外面的統一)から、段々と内容が豊富になるに従い、直ちに内容そのものによって考えられた純なる内面的統一の経験に至るまで、同一形式の体系の程度的差異と考えることはできないだろうか。

経験体系の性質

七~十(純粋思惟の体系)


 前説において論じたように、物の存在ということは、我々の直接経験を時間、空間というような形式によって外から結合する見方であって、このような見方と、我々の経験を直ちに内から結合する(当為により結合する)内面的統一の見方の相違は、むしろ程度の差だ。普通に考えられているような絶対的区別があるのではない。存在と当為は離すことのできない経験の両方面だ、という考えを根本的に明らかにするため、まず単純な判断作用について考えてみよう。
 「甲は甲である」という自同律の判断は何を意味しているのか。我々がある一つの思惟対象を定めて、その思惟対象がそれ自身に同一であるということだ。すなわち思惟対象の不変性を言い表したものだろう。このように判断するということは単に「甲」というものを思い浮かべるということでもなく、「甲」という意識内容を明らかにするということでもなく、また「甲がある、すなわち存在する」という意味でもない。(判断は)我々の判断作用の根底となる一種の論理的当為を言い表したものだ。それではこのような論理的当為とはどのようなものだろうか。「甲が甲である」ということは単に時間上における同様な意識の繰り返しではない。ヴントが創造的総合という様に、新たな意識が想像されるのだ。単なる時間的連続で表すことのできない高次的な意識の発現だ。時間上に去来する意識(単なる時間的連続)の上に現れることのできない、一層深い意識(当為の意識)が現れてくるのだ。しかしこのような当為の意識は時間的意識に表すことはできないとしても、意識の上に現れる場合は時間的連続の形をとって現れるのだ。(時間的に連続しない)ただ一つの意識では判断の意味を現すことはできない。判断は二つの意識の関係の上に成立するのだ。どのようにして元々時間的に表すことができない意識(当為の意識)が、時間的過程の上に現れ得るかというと、ディルタイの言ったように我々の心像は固定した事実ではなく、それ自身に衝動的勢力を持った生きた出来事だ。成立し、発展し、消滅する者だ。判断はこのような意識流動の上において経験される一種の体験である。我々は意識の内面的必然の発展作用において、内から直ちにこれを経験するのだ。このように意識が内面的に発展すること、すなわち意識の意味、目的が実現されることが「働く」ということの真意義であるとするならば、判断は働くことによって意識されるのだ。
 右のように考えてみると、我々が「甲は甲である」という判断を意識する場合にまず思い浮かべられた「甲」は単なる「甲」ではなく、次に「甲である」を伴うべき「甲」だ。すなわち単なる「甲」ではなく「甲は」である。判断に表されるべき同一者(判断作用の根底となる一種の論理的当為)が自己を顕現する手段だ。いや同一者そのものを構成する要素であると言わなければならない。判断とはヘーゲルの言ったように一般者(同一者と同義)が己自身を分化発展することである。ヘーゲルは判断を定義して特殊相における概念と言い、連辞(命題の主語と述語との関係を表わす語。たとえば「である」のたぐい)がこれを現すと言っている。単に相互の関係と言えば関係させるものが外にあると考えることができるが、判断においては関係させるものが内にあるのだ。内部的必然の関係だ。生きた者の自ずからなる発展だ。我々が論理的当為を意識する場合、すなわち判断の意識について考えてみると、以上のように言わなければならないと思うのだが、他の一方から考えてみれば、リッケルトの主張するように、純論理的価値すなわち超越的意味というようなものは、意識の内面的発展という様な意識の作用とは何らの関係もない。このような意味(価値)が意識される場合にどのような形をとるかは、意味その者に何らの関係もない。リッケルトはこれらの区別を明らかにするため、「認識論の二途」において当為と言わず価値という語を用いるべきことを主張している。
 これにおいては問題となるのは、リッケルトの言う様な純論理的価値すなわち超越的意味というようなものと、意識それ自身の内面的発展すなわち判断作用との関係だ。いわゆる純論理的価値は完全に判断作用を超越しているものだろうか。リッケルトが前者(価値)あって初めて後者(判断作用)の当為を理解し得ると言うのは、一面の真理には相違ないが、他の一面から見れば後者を離れて前者が成り立ち得るだろうか。勿論ある個人がある時、ある場所において、ある意味を考えると言う様な、いわゆる心理的作用は意味そのものとは何らの関係もないことは言うまでもない。しかしこのようなものは真の判断の意識とは言えない。真の判断の意識とは我々が直ちに内から体験する意識それ自身の内面的発展の経験だ。このような判断の現象学ともいうべきもの(内面的発展)と、意味その物との間には不可分離の関係があることを認めなければならないのではないだろうか。判断の意識は意味の表現と言うよりはむしろその(意味の)活動だ。(判断は)意味を特殊化する或物ではなく、意味そのものに必然な特殊化的作用だ。この活動、この作用を離れて意味を考えることはできない。我々は普通に判断の意識を、時間上の出来事である心理作用と考える故に、意味その物はこれ(心理作用)を超越すると考えるのだが、(判断は)二つの思惟対象の統一、正しく言えば一つの物の分化発展と見なさなければならない。判断の体験は時間の範疇に属すべきものではなく、むしろこれ(時間)よりも遥かに根本的な意識の事実(当為)だ。リッケルトは超越的意味が時間上の出来事である心理作用の意味、目的となることによって、合目的的な内面的発展作用を考え得ると言っているが、意識の内面的発展ということはこのような両者(超越的意味と心理作用)の混合形ではなく、時間的関係よりも更に一層直接な根本的なものでなければならない。時間的関係のようなものはかえってこれ(意識の内面的発展、当為)によって成り立つのだ。意識の内面的発展の経験、すなわち論理的判断作用の意識(当為の意識)は、時間を超越した体験だ。判断の意識と言うのはいわゆる心理作用に属すべきものではなく、むしろ直ちに意味そのものと不可分離の関係を有し、これとともに具体的な一論理的意識を成すものではないだろうか。ヘーゲルが判断を特殊相における概念というのはこれを意味するのだろう。
 「甲は甲である」ということは、上にも言ったように「甲」というものの意識内容を明らかにすることではない。「甲は甲である」と言う代わりに「乙は乙である」といっても同一の意味を言い表すことができるのだ。「甲は甲である」ということは、物はそれ自身に同一であるという、物の実在的同一を言い表したものと見ることも出来るが、純論理的には単に我々の意識内容を指示し固定する(抽象する)意味に解さなければなるまい。意識内容を固定するとはどのようなことか。例えば「黒」という意識内容を抽象し固定するということはこれを一般化することであって、一般化するということは種々の特殊な「黒」を「一般的黒」の分化と見なすことだ。意識していると否とは別問題として、包摂作用とか分化作用とかの体験がなくては「黒」という意識内容を固定することはできないのだ。次にある唯一の意識内容を固定する場合、例えば「是は是である」と言うような場合を考えてみると、「是は是である」ということは我々が幾度考えても「是は是である」ということだ。「是」という語によって指示されたもの、すなわち対象そのものは客観的に唯一不変と考えられなければならないだろうが、「是は是である」ということは我々の思惟に対する要求だ。すなわち当為だ。「是」と指示するものは唯一であって、繰り返すことのできない事実であるとしても、我々の意識内容として思惟対象となった上は、右に言った「一般的黒」と同様に、幾度も繰り返し得る我々の思惟経験の内面的当為として、一般的意味を持たなければならない。意識の内容としては両者(意識内容における「是」と、一般的黒)の間に区別を認めなければならないかもしれないが、判断作用の内面的当為として一般的妥当性の根拠となる点においては同一だ。
 以上述べたようなわけであるから、「甲は甲である」という自同律の意味は、意識の内面的発展すなわち思惟体験と離して考えることはできない。カントのいわゆる「統覚の総合的統一」とかマールブルク学派の「多様なるものの統一」とかいうような体験がなければ、論理的意味を理解することはできない。意味とこの体験(意識の内面的発展=思惟体験)は一つだ。ただ、思惟体験というものを時間の範疇に当てはめて考えるから(時間上の出来事として考えるから)、意味は完全に心理作用を超越すると考えられ、従って思惟体験はリッケルトの言う様に第二次的なものとなってくるのだ。勿論我々がある意味を考えている場合、これ(思惟体験=意識の内面的発展)を反省しない限りは、超越的総合というような思惟体験を自覚しないだろう。数理を考えている数学者は必ずしも数理を成立させる認識の性質を自覚しているわけではない。数学や物理学はカントの認識論をまたずして発達したのはこれによるのだ。しかしこれが為にこの両面(意味と判断作用)の意識が本質上独立するものと考えることはできない。一つの体験の離すことのできない両面だ。リッケルトは「白」という知覚と「白」を知覚する作用は別であると言うが、「白」という知覚は我々の知覚の体験の上において成り立つのだ。この体験を離れて「白」という感覚は成り立つことはできないのだ。いわゆる純論理派の人は、真理は人がこれを考えると否とによって変じるものではない。真理はそれ自身において真理であるというが、勿論真理は時間上の出来事である思惟作用とは何らの関係もないだろう。しかしカントのいわゆる純粋統覚の総合というような直接な思惟体験を離れて(真理を)考えることはできない。真理が我々に対して意味を持つには思惟されるものでなければならない。真に思惟を超越する真理は我々と没交渉なもの(無関係、考えることができないもの)だ。


 思惟体験と論理的意味とか価値とかいうものとの関係が以上論じたようなものであるとするならば、さらに進んで客観的思惟対象とかまたは存在とかいうものと思惟体験との関係はどのようなものだろうか。私は「甲は甲である」というような極めて単純な思惟体験の中にこれらの概念の根本的関係を見出し得ると思う。
 普通には思惟対象とは我々の主観的思惟作用の外に超越し、それ自身に同一不変なもので、これに適合することによって知識の客観性、すなわち真理が成立し得ると考えられている。しかしこういう考えの背後には主観、客観の分離独立というような独断が潜んでいるのではないだろうか。我々が自己の主観から独立するいわゆる客観的対象を考えるには、まず主観が個人的主観を超越しなければならない(主観が個人的主観を超越しないと、そもそも客観を考えることはできない)。カントが知識の客観性を純粋統覚の総合に求めたのもこれによるのだ。カントは「純理批判」の第一版において、対象が要求する統一は、つまり雑多な表象を統一する意識の形式的統一に外ならないことを論じ、我々が直覚の雑多なものを統一した時、対象を認識すると言っている。リッケルトなどの言う様に、真の思惟対象は超越的当為であるということとなるのである。
 主観、客観の分離独立というのは我々の頭に深く刻まれた独断だ。しかし私は何処までも主観、客観の対立というのは、積極と消極とか左と右とかいうような相対的なものであって、一つの経験の見方の相違に過ぎないとするナトルプなどの考えに同意したいと思うのだ。対象は経験を対象化する事によって生じ、対象化すなわち客観化ということは経験の統一またはIdentification(識別?)である。例えば我々がある一つの色、赤とか青とかいうものを見た時、普通には赤とか青とかいうものがそれ自身に同一な客観的存在と考えられる。しかしなお一層高い統一の見地、すなわち客観的知識(科学的知識)の立場から見れば、これらのもの(赤とか青とかいうもの)はなお主観的にすぎない。すなわちなお厳密な統一に達していない。今日のところではエーテル(光の波動説で光を伝える媒質として仮想され、光の電磁波説以後は電磁波の媒質とされた物質)の振動というような考えによってまず最高の統一に達したと考えられているのである。しかしこのような考えも決して最終の統一ではない。このようにして客観化は無限に進むことができるのだ。客観的というのを以上のように考えてみると、主観的と言うのはこれと反対の方向を示すことになる。客観化されたものに対し、客観化されるべきもの、すなわち具体的な原経験の方面を現すものが主観的ということになる。絶対に客観的というものもなければ、絶対に主観的というものもない。客観化の程度の低いものは高いものと比較してどこまでも主観的だ。主観と客観の対立は要するに相対的であって、一つの経験の見方の相違によって主観的とも客観的とも見られるのだ。
 思惟対象を以上のように見て、主観客観の対立を以上のように考えるならば、「物がある」「物が存在する」などということも、普通に考えられるように我々の直接経験を離れて超越的に存在するというのではない。存在界は思惟対象界の一部分だ。いわゆる存在界というのは時間、空間というような形式によって統一された、永久にかく考えなければならない世界だ。勿論かつて言ったように、数理というような単なる思惟対象と、自然科学的存在を直ちに同一視することはできないのだが、後者(自然科学的存在)における客観性は前者(数理というような単なる思惟対象)の客観性に基づくものと考えなければならない。存在の客観性は当為の客観性に基づくのだ。ある一つの数理的真理を我々はいつでも同様に考えねばならない時、我々はこのような真理があると言うことができる。このような意味において「ある」ということは、自然科学的に「物が存在する」ということと直ちに同意義でないことは言うまでもないが、それ自身において独立不変なものを「ある」ということの根本的意義であるとするなら、数理的真理のようなものもこのようなものが「ある」ということができるだろう。リッケルトは当為は存在の前にあるというが、右のような意味において当為があるということもできるだろう。当為も反省された時、広義の存在の中に入る。自然科学的存在の独立性は、これ(当為)に基づくのだろう。
 客観的対象とか存在とかいうことを以上のように考えておいて、さて「甲は甲である」という極めて単純な判断の体験の中に、どのようにして様々な根本的概念が含まれ、従ってこれらのもの(様々な根本的概念)の必然的関係を明らかにすることができるかを考えてみよう。「甲は甲である」という思惟体験は、前節に言ったように直接経験の内容、すなわちいわゆる意識内容が己自身を発展することだ。この思惟体験を離れて論理的意味とか価値とかいうものを解することはできない。これらのものが我々の経験を超越しているというのは、思惟体験を時間の形式に当てはめて考えるからだ。私の考えでは、このように「甲は甲である」というようないわゆる当為の意識というようなものが、我々に最も直接な具体的体験であると思う。何故直接というかと言えば、ここ(甲は甲であるという当為の意識)には考える人もなく(主)、考えられるもの(客)もなく、この両者(主と客)はかえってこれ(当為の意識)によって考えることができるからだ(当為の意識の後に改めて考えることにより、考える私という主と、甲という客が分かれる)。何故具体的であるかと言えば、この中に様々な根本的概念の関係が含まれているからだ。フィヒテが「全知識学の基礎」の始まりにおいて、すべての意識の基礎として事行(自我の存在は、自己自身を定立するはたらきそのものに他ならない。この自己定立という行為があらゆる事実存在の根底にあって、そこでは「行ない」と「なされた事」とが一つになっている、というもの)というものを考えたのもこれによるのだろう。
 「甲は甲である」という具体的体験から「甲」という意識内容を離して考えてみると、「甲」という意識はそれ自身に独立のもので、「甲は甲である」という当為の意識とは関係のないもののように見える。すなわち「甲」というものが独立であると考えられる。このことは、甲というものに何らかの内容を入れて考えてみると益々明らかだ。例えば赤とか青とか言う内容を入れて考えてみると、これらの内容と、「これらのものがそれ自身に同一でなければならないという意識」とは明らかに区別され、赤とか青とかいうのはただ思惟体験と関係のない独立した思惟対象、あるいは存在とも考えられるのだ。しかしこのようにある意識内容を独立不変のものと見るということは、一方から見れば直ちにまたこれ(ある意識内容)を我々の客観的当為の根底として考えることだ。赤とか青とかいうものがそれ自身に独立不変であるということは、“一面においてこれらの意識内容がそれ自身に同一であると考えねばならない当為の意識”を含んでいる。意味とか対象とかいうことと、思惟体験は離すことはできない。例えば「赤は赤である」という判断は、「赤」という意識内容に「物は己自身に同一でなければならない」という当為の意識が外から加わって成立するのではなく、「赤」という意識内容そのものの力によって(同一であることが)成立するのだ。ただ、我々は普通は、一般的な関係(物は己自身に同一でなければならない)に対して特殊的な内容(赤という意識内容)を考え、前者によって後者が結合されるように考えるから、特殊な内容(赤という意識内容)はそれ自身において何らの関係を成立させることのできない孤立的断片と考えるのだ。いわゆる知識の質料と形式(古代ギリシアの概念。例えば、「家」という知識において、家の機能や構造が形式で、その素材となる木材が質料)の区別はこのような考えに基づいて起こるのだ。直接な具体的経験においては、これに反し意識と意識との関係(物は己自身に同一でなければならない。赤は赤だ)は意識内容そのものの力(赤という意識内容の力)によって成立するのだ。ナトルプが(関係ではなく)性質を根本的統一として定義するのもこれによるのだろう。すべて自同律の判断の根底として考えられたもの(意識内容)は性質的だ。たとえ普通に関係と考えられている事であっても(赤は赤だ)、これを一つとして考えた時(自同律の判断の根底として考えた時)は、これを性質的と考え得るのだ。関係と性質の区別も意識内容の見方の相違に過ぎない。
 以上のように考えてみると、ある意識内容を独立不変のものと考えることと(赤という意識内容を独立不変なものと考えることと)、当為の意識(物は己自身に同一でなければならないという当為の意識)は元々同一経験の両面であって、一つの物の異なる両面に過ぎない。我々に直接な具体的経験では、ただある意識内容の自ずからなる発展あるのみだ。この意識発展の根底が静止の相において意識された時、超越的存在(客観的存在)と考えられ、これに反してその発展の相において意識された時、当為の意識と考えられるのだ。例えば「甲は甲である」という場合に、「甲」という意味あるいは対象を、その静止の相おいて見れば客観的存在と考えられ、その発展の相において見れば主観的思惟体験、すなわち心理作用と考えられるのだ。しかし主観的統一を離れて客観的対象がないように、対象の客観的不変性は直ちに超越的統覚の作用となるのだ。具体的全経験、すなわち真実在としては、「甲は甲である」という自ずからなる事行あるのみだ。
 普通には主観的意識と客観的対象または存在を峻別し、後者(客観的対象、存在)が前者(主観的意識)に現れることで知識が成立するように考えられているのだが、すでに述べたようにこれらの区別は、事行という一体験の中に含まれた種々の相にすぎない。主観と客観が相対立し、両者相互の働きによって我々の思惟体験が成立するのではなく、これらの区別、相互の関係などということは、かえってただ一つの体験の中に含まれた種々の相に基づいて起こるのだ。物心の区別及び関係などというのもこのような考え方の発展にすぎないのだ。これらの根本的概念(主観的意識、客観的対象など)が唯一活動の相に帰することは、「甲は甲である」というようないわゆる無内容な思惟体験において、最もよく明らかにすることができると思う。この体験(無内容な思惟体験)においては思惟対象(客)と思惟体験(主)が同一であると共に、全体が直ちにフィヒテのいわゆる事行だ。リッケルトは「ある」ということよりも「当為」とか「意味」とかいうことが前にあるというが、「ある」ということを時間空間的存在の意味にのみ解さないで、物それ自身に同一という極めて根本的な意義(自同律の意義)に解するなら、「当為」とか「意味」とかいうものが“ある”と言うことができるだろう。「ある」ということと「当為」ということは一つの経験の両面だ。そしてこのように「ある」と「当為」が一つであるということがフィヒテのいわゆる事行だ。すなわち最も深い意味における、我々の自覚だ。氏は「全知識学の基礎」の始まりにおいて、Wenn A sey, so sey A.(Aであるならば、Aであれ?)と言う場合、Wennとsoの必然的関係の基を自覚の事実に求めているが、一層深く考えてみれば自覚の事実というのは、かえって「甲は甲である」という論理的当為の意識に基づくと考えなければならない。そして氏の言っているように「我は我である」ということが「我がある」という事実であって、「我は我である」という判断すなわち当為の意識(働き)が「我がある」という事実(結果)を生じるのだから、働きと結果が一つであって、これを事行ということができるように、「甲は甲である」という当為は一面に「甲がある」ということを含み、「甲がある」ということは一面に「甲は甲である」という当為を含むから、この具体的全体を事行ということができるのだ。普通には形式と内容を峻別しているが、「甲は甲である」という形式は「甲」という内容を生じ、「甲」という内容は「甲は甲である」という形式を生じる。ここに事行の根本的性質があるのだ。そしてナトルプの言う様に、この事行が我々に最も直接な具体的体験であって、この経験の統一の方面が対象となり、さらに進んで存在とも考えられ、これに反する方面、すなわちこの原体験の方面が心理作用と考えられるのだ。この両方面の真の関係は右に言ったような事行の中においてのみ、直覚的に理解し得るのだ。もしこれを疑う人があったならば、すでにこれによって疑っているのである。


 前節において述べたように、我々に最も直接な具体的真実在は「甲は甲である」というような“意識内容それ自身の内面的発展”だ。この中に様々な範疇及びその相互の関係が含まれているのだ。単にこれ(意識内容それ自身の内面的発展)を存在を離れた当為、内容を離れた形式と見なすのは実在の一面を見て他面を見ない抽象的見方の結果に過ぎない。
 我々が普通の語にて単にある意識内容を「思い浮かべる」と言う場合、すなわち意識内容が(その内容において)無反省の状態、孤独の状態において立つ時、ベルグソンの語を以って言えば純粋持続が同質的媒介者によって個々独立の形に切られた時、客観的には我々はこれを存在と考えることができる。いわゆる自然科学的世界(一般的概念)はこのように存在を時間、空間の形式によって結合したものだ。そして主観的にはこれ(自然科学的世界=一般的概念)を現識ということができるのだ。しかし存在としての意識内容と現識としての意識内容は別物ではない。同一の意識が一たびはその個別的独立の相(静止の相)において見られ(存在、客観)、一たびはその内面的発展の相において見られたまでだ(現識、主観)。主観客観の区別というのもこのような意識に必然な両方面(静止の相と発展の相、存在と現識)に過ぎない。
 ある意識内容が意識内容としてそれ自身の性質を持つには、その意識内容はそれ自身に同一でなければならない。すなわち甲は甲でなければならない。意識内容と思惟対象を完全に区別する人もあるが、それは同一物を見る立場の相違であって、何らの意味においても完全に思惟対象となることのできない意識内容と言うものを考えるのは無意義であると思う。意識内容がそれ自身に同一であると意識するのは他の力によるのではない。外から何物かが加わるのではない。意識そのものの力によるのだ。意識自ずからの発展だ。同一ということはヘーゲルの言ったように自己内反省である。我々がある意識内容(存在)をそれ自身に同一であると考えねばならない(当為)というのは、その意識がそれ自身の中に還り行くということだ。ベルグソンの語を以って言えば同時存在の形から純粋持続の形に移り行くのだ。抽象的存在から具体的存在に遷ることだ。単なる存在は当為を伴うことによって己自身に還るということができる。前に言ったように我々が単なる意識内容を主観的には現識と考えるというのは、このような具体的方面からみるということだ。主観的とはこの意味において意識が己自身に還ること(静止の相から発展の相に還ること)だ。
 「甲は甲である」ということを、主観的にはこれを判断の意識というが、客観的には超越的対象の独立自存を意味することとなるのだ。この立場(超越的対象の立場)から見れば、前に言ったような現識の対象である、単なる思い浮かべられた意識内容というようなものは、かえって主観的と考えることができる。「甲」という意識内容は「甲」という本体(超越的対象、客観)の現象(主観)、または「甲」という意味の標徴であると見做すことができる。なぜ前に(静止の相において)客観的と見られたものが新しい立場(超越的対象の立場)からは主観的と見られなければならないかというと、前に個々独立と考えられたものは、後の立場(超越的対象の立場)からはもはや真の独立ではない。ただある体系の中にその客観性を保つことができるのだ。真に客観なものは関係の統一者である超越的実在(超越的対象、物自体)とか意味とかいうようなものとなるのだ。このように「甲は甲である」ということは客観的にも主観的にも見られるのだが、具体的経験としてはただ「甲は甲である」という意識内容それ自身の発展、すなわち一つの働きがあるのみだ。主観、客観の区別はその見方の相違にすぎない。その統一の基礎となる方面が客観的と考えられ、統一の働きの方面が主観的と考えられるのだ。このように判断意識の根底となる客観的世界を抽象的に考えたものが自然科学的世界となり、主観的作用の方面を抽象的に考えたものが心理的現象界となる。ナトルプの言う様にいわゆる心理作用とは、経験を一つの中心に統一する客観的方面を逆に考えたものだ。カントのいうように自然科学的世界は超越的統覚(純粋統覚、真の主観)の総合によって成立するというならば、超越的統覚の総合というのは、逆に自然科学的世界と原経験を結びつけるものだ。いわゆる主観的精神作用というのは、超越的なもの(純粋統覚)が、己自身を実現する過程(意識を発展させる過程)のみを切り離して考えたものと見ることができる。
 「甲が甲である」ということを我々は「甲」を反省するという。しかし「甲」そのものから見れば、「甲」という意識が己自身の根底に還り行くことだ。換言すれば、一層深い実在である統一的「甲」が己自身を顕現することだ。「甲」を反省するということはその根底である統一的「甲」を直観するということとなる。孤立的なものに対して反省ということは、統一的なものに対して直観となる。この場合我の働きというものは、一層大なる統一の働き(更なる意識の内面的発展)を言うのだ。反省ということはさらに大なる統一の直観、さらに大なる生命の発展を意味している。客観的に“大なる実在の発展”ということは、主観的には反省を深めることだ。反省は実在発展の過程(意識の内面的発展の過程)だ。我々が「甲」という意識内容を反省した時、我々は普通にこれを意識するという。この場合意識するということは大なる統一の立場から見るということだ。すなわち大なる統一が働きつつあるのだ(意識が内面的に発展しつつあるということだ)。無論このように“現在に働きつつある統一”を更に一層大なる統一の立場から見れば、“この統一自身”がまた反省され意識されることとなる。この意味において意識というのは、ベルグソンの言う様に縦線的な純粋持続が対立的横断面に触れる(反省する)ところに現れると言うことができるだろうが、このような反省の裏面には一層深い意識が純粋持続の形において働いている。すなわち一層深い意識が己を創造しつつあるのだ(一層深い意識が内面的に発展し、一層深い統一を完成させようとしているのだ)。
 「甲」という意識内容を反省するということは、上に言ったように「甲」が己自身の根底に還り行くことだ。そして「甲」が己自身に還り行くということは、一方から見れば「甲」が己自身を実現することだ。「甲」が己自身を実現するのは他の力によるのではない。「甲」そのものが己自身を発展するのだ。真の「甲」はむしろこの発展そのものであると言ってよい。いかにして静的な自己同一の「甲」と動的な「甲は甲である」という当為の意識が一つの思惟体験に結合することができるのか。主観的に「甲は甲である」ということが、直ちに客観的に甲の自己同一を意味し、客観的に「甲」の自己同一ということが、直ちに主観的には「甲は甲である」というようなことは、いかにして可能か。この両面の統一というのは単に、一つの物の異なる両面という様な関係ではない。なお一層深い意味を持った統一だ。すなわちそれ自身に生きた統一だ。主観的に「甲は甲である」ということが、直ちに客観的に甲の自己同一であるということ、すなわち「甲がある」という事実であるということは、我々の意識の事実においてこれを証することができる。意識においては知るということがすなわちその存在だ。働くということがすなわちその事実だ。そして意識の働きそれ自身が事実であり、存在であるということは自覚によって可能である。“自覚されない働きは意識の事実となることはできない”のだから、当為と事実の真の内面的統一は、ただ我々に最も直接な自覚の事実においてのみ、これを求めることができるのだ。自覚においては「我が我を知る」ということ(働き)はすなわち「我がある」ということ(事実)であって、「我がある」ということ(事実)はすなわち「我が我を知る」ということ(働き)である。「我が我を知る」ということは「我が我を維持する」こと、すなわち「我が存在する」こと(事実)である。なぜなら“我が我を知らない”我(自覚しない我)は、我(がある)ということができないのだ(自覚されない我は、“ある”ということができない)。これと同じく「甲が甲である」と反省することは「甲」が「甲」を維持することで、「甲」が「甲」を維持することはすなわち「甲がある」ということとなるのだ。ただ我々は別に特殊な「我」というものがあって(その特殊な我が)「甲が甲である」ということを考えるという因習的思想に囚われているから、全ての意識成立の根底においてこの自覚の形を認め得ないのだ。勿論いわゆる自覚の場合と違って、一般の意識では再認ということがその成立(“ある”ということ)に必要でないと考えることができるだろう。心理学者のいわゆる再認(過去に経験した事柄が現在の事態に再び現れた時、これはあれだと認知すること)という意味においては、再認なき意識というものがあるということ、またこのような意味において再認ということは意識成立に何らの関係もないというのは言うまでもない。しかし心理学者のいわゆる再認の意識というのは再認作用の結果であって、再認作用そのものではない。真の再認作用というのは“意識それ自身の維持発展の作用”だ。このような再認作用、すなわち真の自覚がすべての意識の根本的形式だ。例えば我々が数学の問題を考えつつある場合、数理そのものが自覚しつつある(数理それ自身が維持発展しつつある)のだ。我々が後からこれ(数理)を想起するというのはこの働き(維持発展する働き)を想起するのだ。そして想起するということはこの働き(維持発展)が再び活動を始めることだ。真の自覚というのは受動的な感覚とか、感情とかいうような意識ではない。意識それ自身の活動の体験だ。自覚においては、反省ということ(働き)が自己そのもの(事実)であると共に、それは単に元に還るという自己同一の働きではなく、反省したという事実が直ちに一方においてそれだけ自己の発展を意味しているのだ。反省という働きは、自覚においては、一方において自覚の上の事実であると共に、一方においてその創造的発展の作用である。事実が発展を生み、発展が事実となる。存在が当為となり、当為が存在となる。自己は自己を反省し発展することによって自己を維持するのだ。ベルグソンが「過去は己自身を保存す」と言うように、働きが働きを保存し更に発展するところに、当為が当為を維持し更に発展するところに、自覚の統一、自覚の存在があるのだ。“自覚はそれ自身による無限の内面的発展”だ。真の創造的進化だ。我々の人格的歴史もこれによって成り立つのだ。右に述べたような自覚の統一的発展(意識の無限な内面的発展)は、いわゆる自覚という特別な意識に限られているのではなく、それ自身によって立ち、それ自身によって発展する“すべての具体的意識の真相”であると思う。ただいわゆる自覚というような無内容の意識においてこの形式が最も明らかに意識されるまでだ。例えば芸術家の直観のようなものも決して無反省(無自覚)な単純な直観ではない。苦心惨憺たる反省の結果として発展する直観だ。我々は深く反省するだけそれだけ進むことができる。厳密な意味において単なる繰り返し(再認)というものはない。意識の動的統一というのは。統一そのものが発展的活動を意味しているものでなければならない。


 以上述べたように、すべての具体的意識は見方によって客観的存在と見られ、また主観的当為の発展作用とも見られるので、この区別は一つの実在の異なる方面に過ぎない。具体的意識におけるこの両面の統一は、主観が直ちに客観であり、存在が直ちに当為であり、事実が直ちに働きである自覚の形において与えられるのだ。自覚は具体的意識の真相だ。
 すべて実在は己自身を認識することによって独立な真実在となることができる。真の自己原因(?)は己自身を認識するものでなければならない。ヘーゲルも言っているように「汝自身を知れ」ということは単に実践的に意味ある事ではなく、哲学的に意味あることだ。自然界においては知るものと知られるものは別の実在と考えられている。ヘーゲルの語を以って言えば、理念(純粋に理性によって立てられる超経験的な最高の理想的概念。プラトンのイデアに由来)が己自身の外にあると言うべきだろうが、このように主と客が分かれるのは、知るものも知られるものも共に対象化された場合のことだ。すなわちこの場合における主観と言うのは心理的主観(抽象化され、対象化された主観)であって、真の主観ではない。真の主観はカントのいわゆる意識一般というような超越的主観でなければならない。このように分かたれた主も客も共に独立の実在ではない。心理学者が無反省の意識と考えている感覚とか知覚とかいうようなものでも、独立の意識として存在するときは、己自身を認識するもの(自覚するもの)でなければならない。これ(感覚、知覚など)を自覚の伴わない意識と見るのは、これを対象化した場合のことだ。自覚というのは、普通に考えられているように、後の意識が前の意識をそのままに写すということではない。意識内容の内面的発展を言うのだ(自覚=意識内容の内面的発展)。反省が直ちに発展の過程となり、知る事が直ちに事実となるのが自覚だ。前に言った現識の場合でも、具体的意識としてはその中に認識者(知るもの)自身を含んでいなければならない。すべて意識内容は認識者をその中に含むことによって具体的となる。そして認識者をその中(意識内容)に含むということは、意識内容がそれ自身に発展することだ。現識は一層深くされることによって当為の意識となり、当為の意識は一層深くされることによって自覚の意識となると言えるが、具体的意識は本来、自覚の形を有するものであって、前の二つのもの(知るものと知られるもの)はその不完全な形に過ぎないのだ。
 それで独立自存な具体的意識、すなわち直接経験はいつでも右のような自覚の形において成立し自覚の形において進行するのだ。いわゆる知覚の世界のようなものから科学的世界に至るまで、その具体的状態では皆この形において成り立っている。主観を離れた客観界はない。精神界を離れて物体界はない。我々の世界は常に自覚を中心として成立し、自覚の形において進行するのだ。例えば「甲は甲である」という当為の意識は、単なる「甲」という無反省の意識が自己の根底に還った形、換言すれば「甲」が己自身を発展した形だ。すなわち(「甲は甲である」という当為の意識は)「甲」という意識の具体的状態だ。あるいは単なる「甲」という意識と、「甲は甲である」という当為の意識は別物であるとか、また単なる「甲」という意識に何物かが加わらなければ「甲は甲である」という当為の意識とはならないとも言えるだろう。勿論“抽象的に考えた単なる「甲」の意識”は当為の意識(「甲は甲である」)とは別物であって、前者(抽象的に考えた甲の意識)から直ちに後者(当為の意識)が出てこないことは言うまでもない。しかしこのような考え方は抽象的見方の結果であって、いわゆる直覚的意識の内容(甲)とその思惟された内容(甲は甲である)は、直接に内面的関係を持っていると考えなければならない。模写説の言う様に後者(思惟)が前者(意識内容)を写すということはできないとしても、この二つの意識は一つの統一を保っていなければならない。具体的には一つである実在の異なる方面にすぎない。一つの意識が静止の相において見られた時が客観(甲)で、その発展の相において見られた時が主観(甲は甲である)だ。そして真実在は“この両方面を統一する自覚的発展”だ。
 例えば、論理的意識の発展について考えてみると、「甲」の自己同一ということは、一方から見れば「甲は甲である」ということだ。「甲は甲である」ということは「甲」を「非甲」から区別する事であって、その裏面には「非甲」を「甲」から区別する働きを含んでいる。すなわち「非甲」の措定(定立と同義。ある事物・事象を存在するものとして立てたり、その内容を抽出して固定する思考作用)と見ることも出来る。このように見るということはこの二者(甲、非甲)の根底にさらに統一的同一者(同質的媒介者)があって、この二者はその分化と見なすことができるということを意味している。そしてこのように分化発展するのは外からその力を得るのではない。同一者(同質的媒介者)が自己(同質的媒介者)の中に自己(反省される自己、甲、非甲)を写すのだ。同一ということはヘーゲルの言ったように一方に区別を含んでいる。そして同一が直ちに区別であるということは、“反省される自己と反省する自己が同一であるという自覚の形”においてのみ可能であるのだ。論理的自己同一の真相は自覚の意識にあるのだ。このように考えてみると、「甲」という意識内容が孤立的に静止の状態においてある場合が客観的と見られ、これに反し「甲」が「非甲」と対立する場合、すなわち他との関係において立つ場合、正しく言えば「甲」が包容的「甲」の上において見られたとき、すなわち発展的流動の状態においてある時が主観的と見られるのだ。勿論包容的「甲」(甲という意識内容の分化発展の過程)は更に包容的な「甲」の発展的流動の上において見ることができる。この場合、前者はまた客観的となるのだ。また逆に考えてみれば、意識の流動は統一を求めつつあるのだ。その流動は統一を求める過程(主観的)と見ることも出来る。このようにして、前に客観的といったものはかえって主観的とも言うことができるのだ。すべて我々の意識そのままの状態においては、全体がまず含蓄的に起こって己自身を発展完成するのだ。すなわち意識は潜在的全体(同一者)が己自身を発展する過程だ。勿論潜在的一者(同一者)と顕現的一者(この場合、甲や非甲)は直ちに同一とは言われないかもしれないが、我々の直接経験はこのような意識流動の不断進行であって、その統一の状態がいつでも客観的と見られるのだ。ナトルプの言う様に統一の方向が客観的で、これに反する方向(発展の方向)が主観的だ。潜在的一者と統一的一者(顕現的一者)の関係は最も明らかにいわゆる推論式(=三段論法。 二つの前提命題から一つの結論命題を導く論理的推理をいう。たとえば、「すべての人間は動物である」(大前提)「A氏は人間である」(小前提)「故にA氏は動物である」(結論)とする推論の類)において見ることができる。推論式とは一般的或者が己を分解し、またその統一に還る形式だ。ヘーゲルのいわゆる判断における概念の回復だ。そしてまた氏の言う様に、推論式は単なる我々の思惟の形式ではなく、すべての実在の形式だ。このような推論式において、その根底となる一般的或者が客観的と考えられ、その発展の過程、すなわちいわゆる推論式というものが主観的と考えられるのだ。ただこの両面が独立と考えられたとき、客観的対象と主観的作用が相対立するようになり、主観的作用というものがさらに対象化されて心理的主観のようなものができるのだ。知識とか感情とか意志とかいうような心理学のいわゆる精神作用とは、客観的内容から離れてこのような発展の相のみを考えたものだ。これに反し体験というのは、全体が己自身を発展する経験、すなわち主客合一の経験だ。
 我々の直接経験は無限な全体の自ずからなる発展だが、その中である一つの中心を固定してこれから経験を統一した時、いわゆる客観界というものが成立する。そして主観的作用というのは全体から一体系を分立させる働きであると共に、逆にこれを見れば(主観的作用とは)分立した体系と全体を結合する働きであるとも言える。例えば線というものはそれ自身の中に分離と連結を含む無限の発展だ。私は線の中に我々の自覚の相が含まれている、線は我々の自覚の体系によって成立すると思う。このような無限な線において有限な線を考えるのが、無限な発展の中に一体系を固定することであって、すなわち経験の客観化だ。そして無限の中に有限を限定するのが主観的作用だ。主観的作用というのは、一般なもの(この場合無限な線)が己自身を限定する過程だ。無限の中に有限なものを限定するといっても、その働きは外から来るのではない。経験が己自身を限定するのだ。そして限定されたものが客観的であって、己自身を限定する働き、すなわち分離作用が主観的だ。デデキントなどの言う様に、無限ということが体系の中に体系を写すということであって、数はこのような無限の系列であるとすれば、有限数が客観的対象で、体系の中に体系を写す働きが主観的作用で、有限の中に無限を見るという現実的無限の理解が体験であるということができるだろう。
 以上の所論は極めて粗雑ではあるが、とにかく私は単純な論理的自同律の意識というようなものの中にも主観と客観の対立とか、存在と当為の対立とかいうもの、及びその相互の関係というようなものが含まれており、これらの対立及びその相互の関係はいずれの経験の体系の中にも存在するものであることを主張したいと思うのである。「甲は甲である」という自同律の如きは単に形式的と考えられるのだが、形式と内容というようなことも同一の経験の見方の相違によるのではないだろうか。普通には「甲は甲である」ということは単に論理的形式と考えられているのだが、このような形式の意味も、我々に直接な意識発展の体験を離れて理解することはできない。前に言った自覚的体験においては、限定されたもの、すなわち思惟対象となったものが内容と考えられ、質料と考えられるので、これに反したもの、すなわちその発展の相において見られたものが形式と考えられ、関係の意識(判断の意識)と考えられるのではないだろうか。意識の形式と内容または質料ということは意識そのものの性質によって区別されるのではなく、いかなる意識でも形式として見ることも出来れば、内容または質料として見ることも出来るのだ。普通に単なる感覚の内容として考えられている赤とか青とかいうこと(単なる意識内容)も、「これは赤である」というような判断の根拠として、関係の意識と見ることも出来る。勿論このような意識体系(これは赤である)は論理的意識の体系(甲は甲である)に比べれば特殊的なものだろうが、赤という感覚もさらに特殊的なものに比べると一般的ということも出来る。一般とか特殊とかいうことは相対的区別に過ぎない。このような議論に対しては、感覚の「赤」と概念の「赤」は別物であるという人もあるだろうが、具体的な赤の体験の中には赤の概念が働いていると考えなければならない。「これは赤である」という判断はこれによって成立するのだ。「赤」の体験が己自身を限定した時、(判断の根拠となる意識内容の赤が)特殊な赤となるのだ(これに反して根底に働いている「赤の概念」が一般となるのだ)。

十一~十三(純粋思惟の体系から経験体系への推移)

十一
 私はこれから「七」から「十」までの間に述べたところを基として、「五」から「六」の間に述べたことを考えてみようと思う。「五」「六」において述べたことは、存在とは直接経験を時間、空間というような形式によって外から結合して見た場合を言うので、このような外面的結合と、意味そのものによって結合する内面的結合は、絶対的に区別されるべきものではない。純論理的意識の統一から時間、空間の統一、または芸術的意識の統一のようなものに至るまで、統一的内容の一般とか特殊とかいうような程度の差異と見ることができると言うのである。「七」から「十」までの間においては、この考えを根本的に明らかにするため、論理的自同律の意識の中にも、具体的には存在と当為の対立及びその相互の関係を含んでいる、論理的自同律のようなものも体験を離れて考えることはできない。自同律の体験のようなものの中にも、意味の他面にすでに存在の意義を含んでいることを論じたのだ。今「七」から「十」までの間に論じたところによって、「五」「六」に述べたところを考えてみたなら、どのようなこととなるだろうか。
 「六」において述べたように、我々の経験の統一は次のように区別することができる。まず純粋な内面的意味の統一として、芸術的直観のようなものを考えてみると、これに対し経験の外面的統一として単なる時間空間の統一と、自然科学的法則の統一を考えることができる。時間空間の統一というのはいわゆる事実的知識であって、自然科学的知識はこれ(事実的知識)を統一して出来たものだ。このほかなお一種の内面的意味の統一として、論理的意識の体系を考えることができる。例えば数学的知識のようなものだ。もちろんこの種の知識は普通には先天的知識とか、形式的知識とか言われているもので、経験を統一したものとは考えられない。この点において前の二種の統一とはその類を異にするものと考えることも出来る。これらの統一を系統的に分けてみると、普通に考えられるように、まず純粋に先験的当為に基づくものと、ある先験的形式によって経験の内容を統一したものに分けることができ、先験的当為を論理的、倫理的美的という様に分け見れば、これらの形式によって統一された経験の体系の上にも三種の区別をなすことができる。数学的知識のようなものは論理的当為に基づいたものとなり、時間空間の統一及び自然科学的法則の統一は、これによって経験の材料を統一したもの、芸術的統一は美的当為に基づいて経験を統一したものということとなる。しかし芸術的直観の統一と自然科学的法則の統一は、ある先験的当為によって経験を統一するという点においてその類を同じくするのだが、芸術的直観の統一は単なる主観的意味に基づき、自然科学的法則の統一は客観的事実に基づくという点から考えれば、芸術的直観の統一はかえって数学的知識の統一などと共に内面的統一と考えることができる。数というのは客観的に存在するものではない。我々の思惟の創造だ。芸術的直観の統一というのは美的当為によって経験を統一するというも、その材料を経験から得ると言うまでであって、客観的経験そのものに従うというのではない。これらの種々の統一の性質及び関係を明らかにするには、まず当為に対立するものがどのようなものかを明らかにしなければならない。当為に対立するものとして、我々はいわゆる直接経験とか純粋経験とかいうものと、時間によって構成された事実の世界というようなものを考えることができる。普通には後者のようなものを(当為に対立するものとして)考えるのだろうが、後者のようなものは前に言ったように、時間空間の形式によって経験を構成したものだ。そして時間空間の形式というものが、マールブルク学派が論じるように論理的に導き出すことのできるものとするならば、構成原理である時間空間は当為と対立すべきものではない。もし後者のような意味の経験の中に当為に対立するものがあるとするならば、それは時間空間の形式によって構成される内容そのものの中に求めなければならない。それでは経験内容が当為に対立して、いわゆる非合理的であるというのは、どのようなことを意味しているか。まず経験の内容の変化について考えてみると、三角形のようなものなら正三角、二等辺三角、不等辺三角に分かつと言い得るが、色は幾種に分かつことができるかを(三角形のように)先験的に求めることはできない。すなわち前者(三角形の内容)が必然的と考えられるのに反し、後者(色の内容)は偶然的と考えられる。次に内容と内容の結合について考えてみると、当為に基づくものでは内容と内容の間に必然的関係があると考えられるが、経験に基づくものでは一つの内容と他の内容との結合は偶然的だ。例えばある一つの物においてある色、ある形、ある香等がなぜ一つに結合するかは不可解と考えられる。経験的知識は当為に基づく形式(時間、空間の形式)によって構成されるものとしても、形式から内容を創造することはできない。どのような意識内容とどのような意識内容を結合するかは、ポアンカレのいわゆる感官の証明のようなものによらなければならない。これらの点において我々は当為に対立する経験内容の非合理性を認めなければならない。右のように考えてみると、内面的統一から外面的統一に至る等級は、数学的知識のように完全に(論理的)当為に基づいてその内容もこれ(当為)によって創造されるものと、芸術的直観のようにその結合は(美的)当為の自由によるが、その内容を経験に仰ぐものと、自然科学的知識のようにその(内容の)結合も内容も共に経験に基づくと考えねばならないものに分かつことができる。
 以上述べたように我々は当為に基づくものと、いわゆる経験の内容に基づくものの間に、超えることのできない間隙を感じ、意識統一の様々な区別を考えねばならないのだが、「七」から「十」までの間において、最も単純な論理的意識について、当為と存在、形式と内容等の根本的関係を論じたところから見て、これらの区別はどのように考えられるだろうか。

十二
 「七」から「十」までの間において、私は論理的自同律というような純粋な当為の意識について、どのようにその中にすでに存在と当為、対象と認識作用、形式と内容というような対立及び相互の関係が含まれているかを論じ、これによってこれらの対立及び関係を根本的に明らかにしようと務めた。その議論のなお不十分であったことは自分も認めているのだが、今しばらく前に論じたところを基礎として歩みを進めてみたいと思う。
 まず知識の形式と内容の関係、すなわち統一するもの(形式)と、されるもの(内容)の関係について考えてみよう。ある材料が形式に当てはまって知識を構成するとか、ある当為によって経験内容を統一するとかいうことはどのようなことを意味するだろうか。我々が最も形式的と考えるもの、すなわち純粋な当為として何人も異論なきものは、論理的当為だろう。数学的知識のようなものでも、無論形式的と考えられるのだが、これを論理的知識に比較したら、(数学的知識は)材料とか内容とかいう位置に立つものと言わなければならない。論理は直ちに数理ではない。数理の構成には論理にある物が加わらなければならない。論理は数理よりも一般的だ。形式的だ。数理の法則は論理の法則に当てはまることによって成立するのだ。このようにして我々は形式と内容の第一の対立を、まず論理と数理との間に見出すことができる。それでは数理が成立するために論理に加わってこなければならないものは何物だろうか。カントはこれを理解力とは完全に異なった純粋直覚の形式に求めた。ポアンカレはこれを同一の働きを無限に繰り返し得るという我々の精神の想像力に帰した。近時、リッケルトは「一者、統一及び一」においてカントの考えを一層深く論究して、論理の基礎である異質的媒介者に対して数理の基礎として同質的媒介者というものを立てている。私はこれらの人々の所論に十分な理由を認めるものだが、このように論理から数理を分かつある物は、論理に対して完全に外から与えられたものだろうか。もしくは論理に対して必然的関係を持っているものだろうか。リッケルトのいわゆる異質的媒介者と同質的媒介者はどのような関係において立っているか。私は全然ナトルプなどの諸説に同意するものでもないが、私はむしろナトルプなどの考えのように、質と量は相関的なものであって、一つの思惟作用の両面であるという議論に同意したいと思うのである。かつて「論理の理解と数理の理解」において論じたように、「甲は甲である」という性質的な自己同一(質)は、その裏面に「甲」を「非甲」から区別することを含んでいる。そして「甲」というものが無内容なとき(純論理的対象であるとき)、「非甲」から「甲」を区別することは直ちに「甲」から「非甲」を区別することになる。ここに1=1というような数学的一の考え(量)が成り立ち、このように定立(甲)と反定立(非甲)を交換することによって生じる論理的対象の交互的対立の統一が、リッケルトのいわゆる同質性であって、これによって1+1=2の関係が成り立つのだ。このように交互的対立を統一する働き(同質性)は、一方から見ればそれ自身(同質性)が数学的一と考えられるので、このように区別すると共に統一する働きは、(数学的一から成る数の体系のように)自己の中に自己を写す自覚の作用と見ることができ、これ(数学的一)から数の無限の系列というものを構成することができるのだ。もし数理と論理の関係を右のように考え得るとするなら、我々が第一に遭遇する形式と内容の関係はどのように考えることができるだろうか。数理を構成するために論理に対して考えられたある物は、論理に対して外から与えられたのではない。判断の内容が無(純論理的対象)であってこれを翻し得ると考えた時、リッケルトのいわゆる同質的媒介者が成り立つので、数は無内容の場合における思惟対象の体系と見ることができるだろう。我々の直接経験は、意識それ自身の発展だ。この発展を内容に関係なく、純形式的に考えたものが論理、数理の体系だ。「甲は甲である」すなわち、ある意識内容はそれ自身に同一だ。このように見られた時は論理的だ。しかしこの自己同一的「甲」はさらに大きな統一の上において反省することができる。このように「甲」の立場を超越して、さらに大きな統一の立場から「甲」を対象化して見るということは、「甲」を「非甲」に対立させ、またこれを翻して見るということであって、これにおいてリッケルトの同質的媒介者というような数学的立場が出てくるのだ。数理の立場は論理の立場に比べて一層具体的であるということができる(論理の立場は数理の立場に比べて抽象的)。数理を構成するために論理に与えられるある物、すなわちカントのいわゆる純粋直観とか、リッケルトの同質的媒介者というようなものは、論理的意識がそれ自身を発展する想像作用だ。かつて言ったように、具体的なものは抽象的なものの基であり、抽象的なものが具体的なものに発展するのはその基に還るのだという考えから見れば、論理は数理の一面だ。論理の背面に数理があるとも言える。我々は数理に対して、論理は主観的形式であるという様に考えている。リッケルトの如きも右の論文の終わりにおいて、論理的なものは単に妥当なもの(主観的なもの)、数理的なものは存在するもの(客観的なもの)、と言っているが、前にも言ったように大なる統一から見て、その統一の過程であるものが主観的形式と見られるのだろう。この場合において主観的形式が内容を得るということは、己自身を発展することだ。内容は外から与えられるのではなく、それ自身の背後に横たわる創造的統一によって与えられるのだ。「十」の終わりに言ったように論理的意識では論理的意識で、数理的意識では数理的意識で、いずれも静止の相と発展の相に従って形式と内容の二つの見方が出来るかもしれない。ボルツァーノは知識を形式と材料(内容)に分かつことに反して、形式的とはそれ自身で解せられるものと言うに過ぎない、と言っているが、翻って論理と数理を構成する成分を考えてみれば、互いに没交渉のものではない。一つの体系において大なる統一から見て小なる統一を主観的形式と見ることができる。
 数理を構成すべく論理に加えられなければならないある物と論理の関係が以上述べたようなものであるとするなら、論理と時間、空間との関係はどのようなものだろうか。時間、空間は知覚によって与えられるものではなく、経験の材料を統一する我々の思惟の形式に過ぎないことは言うまでもない。カントの言ったように時間、空間の形式によって数理が立せられるのではなく、かえって数理の基礎であるリッケルトのいわゆる同質的媒介者のようなもの(当為)によって時間、空間の形式が成立するのだ。数学者の考えるような各方向すべて同等な空間、時間は実際に存在するのではない。空間の同質性ということも要するに、「甲」を「非甲」から区別して肯定する定立を翻して両者を統一する同質的媒介者と、同性質なものに基づくものだ。だが物理学者のいわゆる空間、時間というものが単に思惟の産物とは考えられないで、一種の実在性を帯びてくるのは、いわゆる経験の内容と(時間空間が)結合され、一体系を構成することによると思う。ナトルプも数は単に思惟の所生に属するが、時間と空間は全然思惟の産物ではなく、非思惟的要素すなわちカントのいわゆる直覚を含んでいると言い、また時間空間の秩序は、一面において数の秩序と合一すると共に一面において存在と関係を有する点において、数の秩序と区別される。数学的判断は直ちに存在の判断ではないと言っている。それでは時間空間の秩序を単なる数の秩序と区別するため、加えなければならない新しい要素とはどのようなものだろうか。単なる数の秩序は経験の内容と結合することによって、何故一種の実在性を帯び来るのだろうか。
 数の体系が完全に思惟の所生と考えられるのに反し、時間、空間の形式は経験の内容と結合することによって一種の実在性を得るのだ。すなわち数の体系が経験されることによって、換言すれば経験によって限定されることによって、一種の実在性を得るのだ。この考えの裏面には、思惟に対する経験の客観的独立ということが含まれているのだろう。時間空間に与えられる一種の実在性は、これ(経験の客観的独立)に基づくのだ。これにおいて考えて見なければならない問題は、いわゆる経験はどのような意味において、思惟に対して客観的独立と考えられるか。経験の客観的とはどのようなことを意味しているか。思惟が経験に当てはまるとか、思惟が経験によって限定されるとかいうのはどのようなことを意味しているか。ナトルプは存在ということは純粋な思惟の概念であって、どこまでも限定されることを要求する思惟対象の性質から来るのであると言っている。勿論時間空間の上に限定された存在という形式は、思惟の要求(当為)によると考えなければならないだろう。しかしその限定される内容は内から出るのではなく、外から来るのだ。我々はこの外からくると考えるものを究明しなければならない。

 十三
 私はこれから思惟に対する経験の非合理性とか客観性とかいうことについて考えてみよう。経験という物には、前に言ったように何らの思惟の作為を加えないと考えられる直接経験というようなものと、思惟の範疇によって経験の内容を構成したカント学派のいわゆる経験というようなものを考えることができる。カントに従えば、我々の経験的知識は二つの要素から成り立つのだ。すなわち「それによって対象が考えられる概念」と「それによって対象が与えられる直覚」から成り立っているのだ。相応する直覚のない概念は知識ということはできない。すなわち直覚の拘束(限定)によって、客観的知識が成立するのだ。それではこのように概念を拘束する直覚の拘束力は何処から来り、どのような性質のものだろうか。厳密な批評哲学の立脚地から言えば、客観的実在性の基は、これを超越的統覚の総合というようなものに求めなければならない。カントは「純理批判」第一版において、我々の知識の客観性は先験的法則に基づくと言っている。前にナトルプの語を引用したように、マールブルク学派などでは存在というようなことは、完全に思惟の要求に基づくものと考えている。しかしこれにおいて考えるべきことは、経験的知識は思惟の構成作用によって成立するとしても、その内容もこの作用から生じると考えることができない以上は、内容の拘束条件を無視することはできまい。勿論知識の内容というようなものを考えるのが既に思惟の要求(当為)に基づくと考えることができるとしても、内容そのものもこれ(思惟の要求、当為)から出るものと言うことはできまい。経験的知識が思惟の構成作用によって成り立つものとして、内容に何らの権利を認めないというのは、内容自身は何らの統一なき単なる雑多であって、思惟が自由に使用し得る建築の材料のようなものと考えているのだろう。しかしたとえ知識の材料となる内容が完全に秩序なきものとしても、知識を構成する一要因として材料そのものの性質を無視することはできまい。ただ、その材料は形式に合うように作られたものとしても、内容の基礎が形式から独立である以上は、このように作られること(材料が形式にあるように作られること)に対して何らかの拘束(限定)がなければならない。どのような方面から見、どのような方式によって切り取るかは自由であるとしても、かくかくの方面から見れば、かくかくに現れ、これこれの方式によって切り取れば、これこれの形を呈するということは、内容そのものの性質によると考えねばならない。カントが直覚の拘束的条件を立てたのも、これによるのだろう。
 それではこのような拘束力の性質はどのようなものか。例えば「この物は黒い」というようないわゆる事実的判断について考えて見えると、「この物」という主語は時間空間の形式的限定によって成立し、「この物は黒い」という判断は了解の範疇に当てはまって成り立ったものと考えることができるだろう。独りこの「黒い」という意識内容、及び「この物」という内容と「黒い」という内容の結合は、ポアンカレのいわゆる感官の証明にまたなければならない。しかし翻って考えてみると、「黒い」という内容とはどのようなものであるか。「この物は黒い」という判断はどのようにして成立するのだろうか。判断は形式的論理学において考えられるように、二つの表象の結合によって成立するのではない。判断の根底にはいつでも総合(統一された直覚、一般なるもの)がある。判断はこの総合を分析することによって生じるのだ。「この物は黒い」という判断のようなものも、まずその総合的全体が与えられ、これを分析して生じるのだ。その客語である「黒い」という内容は主語の外に立つ固定した概念ではなく、直接経験の構成力だ。ヘーゲルの言う様に単に動的な生命の脈動点のようなものでなければならない。判断はカント学徒の考えるように形式と内容が完全に別物であって、内容が形式に当てはまることによって成立するのではない。「この物が黒い」という判断は「黒い」という内容そのものの力によって成立するのだ。すなわちフッサールのいわゆる本質(上記の色一般)のようなものの力によるのだ。ここに事実的判断の客観性の根拠がある。事実的判断がそれ自身に客観性を要求し得るのは、このような我々に直接な事行に基づくからだ。すなわち論理的形式の知識が事行に基づくように、これ(知識の内容)も同様の事行に基づくからだ。知識の内容が形式に対して自身の権利を要求することができるのは、これ(事行)がためだろう。我々に与えられた真の直接経験は、意識内容それ自身の発展だ。すなわち事行だ。そしてこのような内面的発展が判断の真相であるとすれば、ヘーゲルの言う様にすべてのものは判断だ。いわゆる論理の形式という物は単なる主観的理解力の形式ではなく、具体的経験そのものの形式だ。我々の具体的経験の内容を零(経験の内容がない)と考えたものが論理的意識であって、その発展の体系が論理及び数理の体系となるのだ。論理的意識の体験を基として論理、数理の体系が成立するように、色や音の体験を基として色や音の体系というようなものが成立することができないだろうか。物理学者には世界は力学の体系と見えるように、画家や音楽家には世界は色や音の体系とも見えるだろう。感官とは普通に完全に受動的と考えられているのだが、感官が物を感じるというのも思惟のように自発的なものではないだろうか。抽象的概念の形において考えられた感官的性質は何らの活力を有しないのだが、直接経験上の感官的性質は生きた力だ。一種のアプリオリ(経験に依存せず、それに先立っているもの)の内面的発展だ。我々が感覚の発展と言っているものがそれだ。感覚は外から与えられるものであるとか、肉体的感官の発達によって生じるとかいう考えは、外物が感官の上に働いて感覚が生じるという因習的前提によって間接に考えたものに過ぎない。直接経験の上では具体的一般者(アプリオリ)の自ずからなる発展と見なさなければならない。このような感覚的知識の根底となるアプリオリは、論理的知識の基礎の基となるアプリオリに相当すると考えることができる。いわゆる内容と没交渉な、最も一般的な、純粋思惟のアプリオリから論理数理の体系を構成するように、ある感覚的性質のアプリオリから感覚的知識の体系を構成することができる。我々が感官によって物の性質を定めるというのは、背後にこのような体系(アプリオリ、具体的一般者)が基となっているのだ。内省によって組織された、心理学者のいわゆる感覚の体系というようなものがそれであると考えることができるだろう。意識内容それ自身の発展を離れて意識作用を考えるのは、能力心理学(心はさまざまな心的活動を引き起こすことのできる複数の生得的能力によって構成されているとする心理学)の考えに囚われているのだ。かつて言ったようにすべての主観的作用というのは、一般なるものが己自身を限定する過程だ。いわゆる思惟作用というのは、論理的アプリオリが自己を限定する過程であるように、いわゆる感覚作用というのは感覚的アプリオリが自己を限定する過程と見ることができるだろう。我々の感官というのは、物質的にこれを表す表徴にすぎないのだ。すべて意識現象は感覚のようなものでも、単なる要素の数量的総計ではない。一々がヴントのいわゆる創造的総合だ。カントのように感覚を雑多な要素と考えるのは思惟のせいであって、感覚そのものの真相ということはできない。
 カント学派の人は、我々の経験的知識は先天的形式によって内容を構成することによって成立すると考えている。このように考えるのは、いわゆる形式的知識といわれるもの(論理、数理など)はそれ自身によって成立するが、経験的知識というのは形式的知識に当てはまって初めて成立するものであるという考えが基となっているのだろう。例えば、論理とか数理とかいう様なものはそれ自身によって成立するのだが、自然科学的知識のようなものはこれら(形式的知識)の法則によって成立すると考えるのだ。経験的知識が論理の形式に当てはまらなければならないことは言うまでもないが、このために形式と内容は独立であって、形式の統一によって経験的知識が成立するのであると限ることはできない。形式というようなものは、かえって具体的経験の抽象的一面と考えることができるのだ。正しく言えば、いわゆる形式的判断というようなものも決して無内容ではない。論理的知識は思惟対象性というような性質によって、数理的知識は数理的対象の性質によって成立するのだ。我々は判断は形式によって成立するという考えを逆にして、判断は経験内容の発展と考え、内容によって判断が成立すると考えることも出来る。我々は普通にある内容に形式が加わって判断が成立すると考え、三角形は四角形であるということも形式上は正しいと考えているが、「甲は甲である」という論理的判断は正しいが「三角形が四直角(360度)をもつ」という判断は正しいとは言えない。ボルツァーノのいうように単なる形式的真理などということは無意味だ。判断は内容によって成立するのだ。内容がその基となるのだ。単に孤立の意味において考えられた主語とかの意味は、判断の内容ではない。判断の真の内容はこの両者(主語と客語)を結合する、いや両者分立以前の統一でなければならない。判断はこの内容によって成立するのだ。形式と内容は別物ではない。ヘーゲルの言う様に、本来的にはただ形式と内容の絶対的関係、すなわち相互の転化(?)あるのみだ。我々がある意識内容を理解した時、それは単なる内容ではなく、一種の当為だ。すなわちすでに判断を構成する力を持ったもの(当為)でなければならない。理解するというのは外から働きが加わるのではなく、内容そのものの発展だ。
 以上述べたような見地から考えてみると、いわゆる思惟の統一に対する直覚の拘束力、すなわち思惟の合理性に対する経験内容の非合理性の根拠は、無形式な経験内容にあるのではない。形式と内容の対立は、知識を構成するアプリオリとアプリオリの対峙にあるのだ。経験の体系と体系との対峙に基づくと考えなければなるまい。経験の内容に基づく事実的判断が、形式に基づくいわゆる先天的知識(数理など)に対して独立の根拠を有すると思われるのは、いわゆる経験内容という物がそれ自身に体系を成しているからだろう。それ自身に体系を成し、しかもいわゆる形式的知識の体系と一体系の中にあるが故に、後者(先天的知識、数理など)に対して拘束力(限定する力)を有するのだ。このように考えれば、思惟に対する経験の非合理性を明らかにするには、思惟対象の体系と経験内容の体系の異同、及び関係を考えてみなければならないと思う。

十四~十六(知覚的経験の体系)



十四
 右に述べたようなわけだから、思惟に対する経験の非合理性の問題を論じるためには、思惟の体系と経験の体系の異同及びその関係について考えてみなければならない。そしそれには、まず様々な経験の体系の性質、及びその相互の関係を明らかにする必要があると思う。
 まずある色とかある音とかいうような感覚的経験について考えてみよう。感覚的経験というような独立したものはないということも出来るだろうが、まずこのような独立の経験があるとして考えておく。我々がある感覚を感じるということは、これを識別することだ。識別には質的と量的があるが、感覚の量的区別ということは外界刺激から得た考えであって、直接には質的区別だけだ。いわゆる量的区別も質的区別の一種に過ぎない。すなわち感覚するということ、感覚を識別するということは、質的に区別することだ。それから最も重要な問題は、感覚と感覚に基づく判断の区別だ。ある一つの感覚と、この感覚を他の感覚と比較して異同を判じる意識は別物ではない。純粋な感覚は判断以前のもの(アプリオリ)でなければならない(ヴントがヴェーバーの法則を以って統覚的比較の法則とするのもこれによるのだ(?))。それではこのような判断以前の純感覚というようなものがあるのだろうか。それはどのようなものだろうか。シェトゥンプの言うところによると、我々はある範囲内においては全く感覚の差異を識別しないように刺激を変じることができる。例えば空気の振動を変じることによって音の高さをP1P2P3P4という風に段々と変じることができる。この変化が極めてゆっくりな場合はP1からP4に至るまで全くその区別を覚ることはできない。しかしP1とP4ha無論区別される感覚であって、そうでない場合(変化がゆっくりでない場合)には明らかに区別することができのだから、識別されない感覚という物があると考えなければならない。スタウトはこれに付加して、このようなことは我々が普通に経験するところであって、例えば自分が今心理の問題を考えつつあるとき、光の明暗には注意しない。しかし光の明暗は必ず自分の意識に影響していなければならないと言っている。スタウトはまたsensation as cognitive state (認知状態としての感覚?)とsensation as cognised object(認識対象としての感覚?)の区別を論じて、我々の網膜に映じる肖像は物の遠近によってその大きさを変じるのだから、視覚もこれに伴って変じるのであるが、我々は普通これらの変化を覚らない。これらの微細な変化に注意しこれを表すのは、芸術家の仕事である。我々の普通の生活では単に感覚の実生活上の意味にのみ注意しているが、芸術家はその内面的性質に注意すると言っている。心理学者はこのような、完全に認識作用の川割らない感覚的経験というようなものがあって、これを認識してその性質を概念的に言い表したものが赤とか青とかいう感覚的知識であると考えているのだ。右に言ったのは、認識に対する無認識の純感覚的経験というようなものだが、なお一種異なった無認識の意識状態というものを考えることも出来る。例えばジェームスの意識の縁暈(※辺縁とも訳される。心像を取り囲んでいる光背、あるいは半影部。分かりやすく言えば、意識の周辺部あるいは半意識的部分をいう)というようなものがそれだ。このような無意識の状態があって、我々の意識に影響することは誰も認めなければならないのだが、我々は到底これ(意識の縁暈)を明瞭な意識状態に持ちきたすことはできない。勿論、心理学者はこれを微細な感覚の結合というようなものとして考えるだろう。しかし意識の縁暈というようなものがジェームスの言うような意味のものならば、単なる感覚の結合と見ることはできない。これらの感覚は関係の意味を含んだものでなければならない。そうでなく、単に感覚と見られた場合は、縁暈の意味は無くなるのだ。
※引用 善の研究 全注釈 小坂国継 p33
 それでは右に述べような無認識の意識状態とはどのようなものだろうか。これらの意識状態と、これに対する認識は、どのような関係に立っているか。シュトゥンプのいうような純感覚とその認識の関係はどのようなものだろうか。我々が氏の言うような純感覚の性質を識別する場合に、直接にこれを認識する場合と、何らかの方法によって間接に判断する場合を考えることができるが、まず我々が自分で自分の意識を直接に認識する場合について考えてみよう。無認識な純感覚の性質を認識するとは、どのようなことを意味するだろうか。またどのようにして可能だろうか。例えば、我々が感覚「赤」を認識して「赤」という時、普通には感覚「赤」を表象「赤」の形に写すかのように考えている。後者(表象「赤」)は前者(感覚「赤」)の微かな心像であるかのように考えている。しかし我々が前の意識を後の意識によって写すということは、果たして可能だろうか。また認識ということは普通に考えられるように物を写すということだろうか。ベルグソンの言う様に我々の意識が流転して、一瞬前の過去にも還ることができないものとするなら、厳密な意味において後の意識が前の意識を写すということは不可能だ。またリッケルトなどが言う様に、認識は構成作用であるとすれば、我々が自分の意識を認識する場合にも、認識は模写であると言うことはできない。ブレンターノの系統をひくフッサールなどの考えによれば、判断でも、表象でも、感覚でも、すべて意識作用の指示する対象は、意識作用そのものの中にはない。意識の対象は意識作用に超越的だ。対象は体験に属しない。「白」の知覚は白くない。直線は二点間の最短距離だ。しかし直線の表象が二点間の最短距離であると言えば、これより無意義なことはない。右のような考えから見て、我々が感覚の性質を認めて性質的判断を下すということはどのようにして可能だろうか。このような判断はどのような意味において真理だろうか。概念的知識はベルグソンの言う様に実在の真の知識ではないとしても、両者の間に何らかの交渉あることは認めなければなるまい。またリッケルトなどの立場からは、認識は実在との一致ではないとしても、性質的判断が感覚の性質を認識する者として真理であると言うには、その間(感覚と性質的判断)に何らかの関係があることを認めなければならない。感覚とその認識の真の関係はどのようなものだろうか。
 時は不断の推移だ。我々は一瞬の前にも還ることができないという理由から、感覚の認識は難しいという説について考えてみよう。まず「時」を単に形式的なものと見て、内容と形式を厳密に区別することができるとすれば、ある意識内容とある意識内容は、時間上における位置の変化は形式上において異なるとしても、内容の上からは同一ということも出来る。すなわち同一内容を繰り返すことも強ち不可能ではない。時は繰り返すことができないと共に内容も繰り返すことができないと考えるのは、前の意識内容が後の意識内容に何らかの影響を及ぼし、概念的には同様と考えることができるとしても、厳密には同一でないと考えられることによるのだろう。しかし前の意識が後の意識に影響を及ぼすと言っても、物理学者の考えるように機械的因果律によるものならば、同一の要素が再現しないと断言することはできない。意識が繰り返すことができないというのは、多くの心理学者も言うように意識現象は出来事であるから、一度過ぎ去ったものは再現することができないと言うのか、またはベルグソンの言う様に我々の意識は内容的に一歩一歩創造的進化であるから、同一内容の意識は再び繰り返すことはできないというのだろう。しかし右の理由によって感覚の認識に反対するには、まずその議論の根拠とするときの推移とか意識内容の変化とかいうことについて考えて見なければならない。時の推移、意識内容の変化ということを理解するには、その背後に超時間的、超変化的意識がなければならない。このような意識があって初めてこれらのもの(時の推移、意識内容の変化)を理解し得るのだ。カントの考えから見ても、時間空間というような直覚の形式も、超越的統覚の統一によって成立するのだ。ただ我々の意識現象を時間上に起こる出来事として、時という形式によって意識内容を配列してみた時、ある一瞬間に限定された感覚は、その瞬間が時の系列上もはや繰り返すことができないと共に、繰り返すことができないと考えられるのだ(時の系列上繰り返すことができないと共に、我々は時を繰り返すことはできないと考えるのだ)。すなわちその繰り返すことができないというのは、すでに(長時間的意識により)反省された感覚であって具体的な感覚そのものではない。意識は繰り返すことができないと主張する議論の根拠には、超時間的意識の可能を許しているのだ。あるいは「時」の意識も時の中に限定されていると言うかもしれないが、時の超越性を含まない「時」の意識というのは矛盾だ(超時間的意識がなければ「時」という概念を考えることすらも出来ない)。
 次にリッケルトなどが主張するように認識は当為の承認であるということから、感覚とその認識(作用)を区別する説について考えてみよう。氏は「認識の対象」において表象作用と判断作用の相違を論じて、我々が日中において「太陽が輝くか」と問われて「そうだ」と答える時、この「そうだ」というのは「太陽」「輝く」及びこの両者の関係などという表象のいずれかを承認したのではない。すでにその中(「そうだ」)に含まれている第四の要素、すなわち判断の意識(当為)を承認したのだ。意識内容の表象とその判断は混同すべきものでないと言っている。勿論厳格にこの見方を区別する立場としてはこのように論じるのが至当だろうが、具体的実在としては氏のいわゆる第四の要素を全然含まない意識というものがあるのだろうか。氏自身もそうは考えていないのだ。完全に当為の要素を含まない意識内容という考えは、元々当為の対立として生じたものだ(時間空間の上において対象化されたものだ)。厳密な意味において一方に当為を立するから、他方においてこのような対立を考えなければならないのだ。マールブルク学派の言う様に、思惟に対して与えられたものは外から与えられるのではなく、内から要求されるのだ。思惟自身によって要求されるのだ。与えられたものは限定すべきものだ。数学のxのようなものだ。ある一つの問題を構成するための条件だ。与えられたものは見出されるべきものだ。純論理派の立場から意識と思惟(判断作用)を峻別する人は、意識を時間空間の上に限定されたものと考えている。しかし時間空間の上に限定されたものは、真の意識ではない。心理学者のいわゆる意識というものは、物体現象と同じく意識の対象であって、意識そのものではない。厳密にはいわゆる個人的意識というようなものはない。このようなものは机とか木とかいうものと同じくすべて意識の対象だ。論理派が当為の承認となす認識作用について考えてみても、このような意識が成立するというのは、すでに意識が時間空間の上に限定されるべきものではないということを証明している。(当為の承認の意識、つまり判断作用は意識内における認識対象の内面的発展であるため、)認識対象の内在を許さなければ、純論理派の議論も成立しないのだ。

十五
 以上述べたようなわけであるから、単に時の推移とか認識の構成とかいう理由によって、感覚そのものの認識に反対することができないとするならば、感覚とその認識の真の関係はどのようなものだろうか。
 私の考えでは、すべて意識はその対象が内在的であって、感覚も意識である以上は時の意識と同じく、対象をその中(意識の中)に含むと考えなければならないと思う。普通に感覚と言えば、時間空間及び性質の上に限定された、一あって二なき特殊な意識であるかのように考えられる。しかしこのような感覚は考えられた感覚、思惟によって要求された感覚(思惟によって対象化された感覚)であって、感じられた感覚ではない。すなわち具体的意識と言うことはできない。具体的意識としての感覚、すなわち経験としての感覚はある具体的一般者が己自身を限定する過程だ。一種のFieri(?)だ。与えられた感覚というのは、マールブルク学派の言う様に限定されるべきものだ。限定された感覚というのは、このような限定(限定されるべきもの)の極限をいうに過ぎない。例えばある人がある時ある場所において感じた一つの感覚は、これよりも限定されないものにたいしては限定されたものだが、なお一層限定されたものに対しては限定されるべきある物だ。限定された感覚というのは、ロイスの言う様に数理の極限のようなものだろう。1+1/2+1/4etc.という級数は随意に2に近づくことができるが、2は到底達することのできない極限だ。我々が普通に感覚と言っているのは、ある項までの算術的総計のようなものにすぎない(さらに限定されるべき余地を残している)。
 右に述べたような考えから、前に言ったシュトゥンプやスタウトのいうような純感覚というようなことを考えてみたなら、どのようなこととなるだろうか。マールブルク学派の言う様にすれば、我々がある感覚を認識するということはこれを限定することだ。前にも言ったように与えられるというものは、非思惟的なものではない。思惟によって解決されるべきxだ。ユークリッドが幾何学において用いたDataの意義が「与えられる」ということの真の意義だ。思惟に与えられたものと思惟によって見出すものは同一だ。要するに与えられるということと限定するということは、正の方向と負の方向というような相関的な意識の両方面に過ぎない。絶対に与えられたものもなければ、絶対に限定されたものもない。いわゆる思惟によって限定できないという感覚も、意識である以上は、すでにある意味において限定されているものと見なければなるまい。すべて知識は何らかの仮定の上に立っている。しかしこの仮定は空虚の上に立つものではない。仮定の前の無はoὐΧ ὄν(?)ではなく、 μὴ ὄν(メー・オン…ギリシア語で on (存在) に対する「非 (存) 在」「非有」の意)である。是認の重い忠告(?)である。思惟はどこまでも連続的にこれを基礎づけることを要求するのだ。この要求がマールブルク派のいわゆる「根元の法則」だ(?)。右のような見方からして、一つの感覚的性質を認識する場合においても、その認識の基となる一般なるものがなければならない。しかもそれはリッケルトやフッサールの言うような超越的なものではなく、経験に内在的なものでなければならない。数学においてxに対するdxのようなものでなければならない
(※ 引用  積分の最後のdxって何のためにつけるのかhttps://www.youtube.com/watch?v=aIcY5li3LxI )
マールブルク派が実在の基礎として極微を考えるのもこれによるのだろう。解析においてdxを有限なxの基礎として見るように、我々はある一つの感覚的性質を、連続的全体の限定として認識するのだ。カントが「知覚の予料」において、すべての現象において実在的なものは内包量(温度や速度のように、加え合わせても意味のない量、この場合連続的全体)を有すといったのは、これによるのだろう。
 今私が感覚の性質を認識するとせよ。私が一瞬前の意識を認識すると言うのは、普通に考えられるように、前の意識と後の意識が単に時間上に連続した互いに独立の作用であって、後者が前者を写すというようなことではない。もしこのようなことならば認識は不可能であると考える外はないだろう。だが、与えられた感覚と言うものを右に言ったように考えてみるなら、後の認識を成立させるものは前の感覚を成立させたものだ。思惟に与えられたものは思惟と異なるものではない。思惟は己自身によって構成したものを認識するのだ。思惟によって限定されない具体的意識はないということとなる。このように言えば、後の意識によって前の意識が成立するというようなことは、背理のように思われるかもしれないが、認識ということは時間を超越して意識の根底に行くことだ。「甲は甲である」という場合の、後の「甲」が前の「甲」を知るのではない。その根底である当為を意識するのだ。ある一つの感覚の性質を認識する場合にも、これを一層深い立場(根底である当為)から統一するのだ。ある具体的一般者が己自身を限定したものとして見るのだ。認識の意識(判断の意識)と感覚の意識は別物ではない。後者(感覚の意識)は前者(認識の意識)の特殊なものだ。時間上後と考えられる認識の意識は、価値の上においてはかえって高次的意識だ。我々は普通に時間の順序を実在の唯一の形式と考えているから、右のようなことが背理と思われるのだが、時間的関係の成立の基にも性質的統一(内包量、連続的全体)がなければならない。いわゆる時間空間の統一も感覚的性質の秩序と同じく、内面的性質の統一(具体的一般者の内面的発展=当為)によって成立するのだ。我々の経験が時間の形式に当てはまって発展するというのは第二次的見方であって、最も根本的な経験発展の形式(時間、空間の形式)は内面的意味(具体的一般者)の発展でなければならない。我々の種々の経験はそれぞれの中心を以って発展し、これらの中心はまた更に根本的中心によって(更に深く)発展するのだ。我々がこの根本的統一の上に立つとき、時間を超越することができる(「時」という形式から脱することができる)。すなわち「永久の今」の立場に立つことができる。この立場から見れば、感覚も認識も同一の根拠に立つものと考えることができる。我々が記憶を遡って現在の感覚と過去の感覚を比較することができるのも、これ(時という形式から脱した「永久の今」の立場)によるのだろう。
 右のような考えを明らかにするため、まずコーヘンがカントの「知覚の予料の原理」について論じた感覚に関する深い考えをなお一層明らかにしておきたいと思う。コーヘンの言うところによれば、思惟に対して「与えらえる」ということは、外から与えられるのではない。思惟によって要求されるのだ。感覚と言うのは未だ「実在的なもの」ではない。感覚そのものが直ちに対象ということはできない。感覚は単に「実在的なもの」の指標だ。要求の指標だ。実在的なものは感覚の対象だ。カントの言う様に「雑多なるものの統一」の意識において、感覚を客観化してその対象である実在的なものとなすには、「内包量の原理」によらなければならない。すなわち感覚を内包量と見なすことによって、物理学者の対象である「実在的なるもの」に移り行くことができるのだ。カントではまだ内包量の考えが十分に明らかになっていないのだが、これと外延量(質量・長さ・体積などの同じ種類で加え合わせることのできる量)を区別してその意味を明らかにし、認識論上における重大な価値を認めたのはコーエンの卓見と言わねばならない。外延量では部分から全体に行く。一から多に行き、これを統一して総体となる。だが内包量では反対に、全体から部分に行く。その一は多の一ではなく、統一的全体を限定したものだ。すなわち(内包量は)限定によって考えられるべきものだ。内包量と言うのは連続的生産の量だ。すなわち微分量に外ならない。上に言ったように、感覚が与えれるというのは、問題として与えられるのだ。思惟によって見出されるべきものとして与えられるのだ。思惟が感覚を客観化するにあたり、一面において「直覚の公理の原理」(?)によって外延量として客観化することができるが、外延量と言うのは同様なものの比較から成り立つ比較量だ。その基礎には比較されるべきある物(性質的なもの)がなければならない。例えば、「赤」という知覚の対象は、延長を有すると共に、延長を有する「赤」という性質的なものがなければならない。このような知覚の基礎となるある物(性質的なもの)が、実在的なものだ。我々の知識はこれ(性質的なもの)によって実在の知識となるのだ。カントの言ったように了解の形式と直覚の形式だけではまだ経験的知識を与えない。ただその可能を示すのみだ。空間のようなものも、現象の制約と見なければ空想に過ぎない(空間は形式だけでは成り立たない)。経験的知識は経験内容と結合することによって成立することができるのだ。それではこのある物(性質的なもの)とはどのようなものだろうか。これを外界の物自体から来ると考えるのは、先験論的方法を破壊するものだ。この物が思惟によって要求されたものとして経験的知識の体系に入るのは、性質的統一としてでなければならない。すなわち内包量と見なされることによって、思惟されることができ、経験の根拠として実在性を要求することができるのだ。もし感覚が一々その性質を異にしたもので、その間に何らの連続的統一もないならば、実在的なものとして経験体系の中にその権利を要求することができないのみならず、恐らくは単なる心理的性質として考えることもできないだろうと思う。「赤」という一感覚は「赤」という性質的統一の限定として見て、初めて独立性を有し客観性を要求することができるのだ。例えば「重さ」の感覚というようなものは、重力という生産量の限定と見て、初めて実在的なものとして物理学の対象となることができるのだ。そしてこのような性質的統一は、すなわち内包量でなければならない。内包量というのは、前にも言ったように全体から部分に行くのだ。全体の限定として成立するのだ。すなわち集合ではなく、連続だ。カントの、いずれの部分も最小と言えないものが連続であるという意味において、連続的なものは性質的なものでなければならない。カントが「実在的なものは程度をもつ」と言った程度の意味は、内包的なものでなければならない。性質的なものを不連続のように考えるのは、外延量の考えを混じるからだ。以上述べたようなわけだから、カントの言ったような「雑多なるものの統一」の意味において、感覚が認識の対象として、実在的なものとして、経験体系の中においてその権利を要求し得るには、性質的統一としてでなければならない。すなわち内包量としてでなければならない。性質的統一、内包量及び連続ということは一つだ。このような統一がすなわち実在性であって、これによって我々の経験的知識がその客観的基礎を得るのだ。この基礎のない外延量のみの空間というようなものは、前にも言ったように空想に過ぎない。我々の経験的知識は超越的主観の統一によるというが、その統一は単なる了解の統一でもなく直覚の統一でもない。形式と内容を結合した統一でなければならない。すなわち「総合原理の統一」でなければならない。

十六
 コーヘンに従えば、前に言ったように、感覚は「実在的なもの」ではない。「意識とその内容との関係の一種」に過ぎない。この点においては直覚とか思惟とかいうものも同じだ。「純粋知覚の論理」においては、これを意識状態として、意識と区別している。そしてこのような意識内容を限定して、すなわち客観化して経験体系の中にその権利を認めるのは、上に述べたように内包量の原理によるのだ。すなわち感覚内容を連続的統一の限定と見なすことによって、知識の要素として経験体系の中にその権利を認めることができるのだ。
 右のようなコーヘンの考え方によってみると、感覚の状態とその客観化された実在の知識、すなわちBewusstheiとBewusstsein(?)の区別は経験の発展上における程度的差別であって、経験内容そのものの上においては、純主観的というものもなければ純客観的というものもない。正しく言えば、指標(感覚の状態)としての意識と実在者としての意識は、一つの具体的意識の両方面と見るべきもので、異なった二つの意識があるのではない。意識の発展は無限だから、ある一つの問題に対する答案は、その問題に対しては答案であるが、さらにこの答案が問題となるのだ。コーヘンが連続を以って、思惟をその根源を見出す羅針盤と考え、「連続によって思惟のすべての要素が根元から生ぜられる」というのもこれによるのだろう。例えばある問題がある過程の上において説明されたとするなら、この仮定は何物の上に立っているのか。この仮定は虚無の上に立っているのではない。この仮定の前は(?)ではなくμὴ ὄν(メー・オン。非存在、非有)だ。我々はなお一歩前の仮定に進んで、これ(この立場)からこの仮定を是認しなければならない。このようにして、思惟が無限にそれ自身の基に進み行くのがコーヘンのいわゆる連続の原理だ。すなわち連続の原理は、思惟がそれ自身から働く法則だ。ライプニッツが「各本体はその性質の中に自分で働く連続の法則を含んでいる」と言った中にも、すでにこの意義が含まれているのだ。純論理的に連続というのは、様々な概念をある一つの見地から統一することだ。例えば楕円と放物線は全く異なった概念だ。しかし楕円の一焦点を無限に遠ざけることによって、楕円は放物線に近づくことができる。すなわち焦点の距離という見地を除去すれば、両曲線の性質は完全に一致するのだ。円、楕円、双曲線、放物線、直線、点など、皆円錐曲線として同一の根本原理から無限大(直線)、無限小(点)の極限として統一することができる。コーヘンによれば思惟は「多の統一」であるが、この統一は多を排斥する統一ではなく、多を生じる統一だ。この両面(多を排斥し、多を生じるという両面)の統一がすなわち判断の統一であり、かねてまた知識の統一、対象の統一であると言う。しかしこのような統一は、一つの立場を定めた上でのことであって、この統一は右のような連続の法則によって無限に進むことができるのだ。
 以上述べたようなコーヘンの考えは、カントの批評哲学の立場から感覚を解釈したものとしては深い考え方だろうが、私は氏の根本的思想である能生即所生(能生…事物の生ずるその本になるもの。所生…生み出したもの。また、作り出したもの)という創造的思惟の考え方になお徹底しないところがあり、従って主客の対立及び関係の真意が明らかでなく、感覚とその対象との関係の考え方にも不十分なところがあるのではないかと思う。コーヘンは思惟は創造的であって、その能生が所生であり、その一はすなわち多であるというが、いかにして一が多を生じ、能生が直ちに所生となることができるだろうか。それ自身に独創的な思惟は外から動かされると考えることができないとするならば、思惟はどのようにしてそれ自身において創造的となることができるだろうか。私は「九」及び「十」の間において論じたように、思惟の創造作用というものは、自覚の形において最もよくその真相を理解することができるのではないだろうかと思う。自覚においては反省ということが事実であると共に創造的発展の作用だ。事実が発展を生み、発展が事実となる。自己は自己を反省し発展することによって自己を維持するのだ。すなわち能生は直ちに所生、所生は直ちに能生であって、一なる我は反省において分裂する我であり、反省において分裂する我はすなわち一なる我であるということができる。どこまでもカントの位置に留まろうとするコーヘンはフィヒテの自覚を形而上学的として、(フィヒテを)カントの立場からデカルトの立場に逆戻りしたものと考えている。自覚の必然性から、かつてデカルトが「我考える故に我あり」と言ったように、自己の超越的存在を主張するならば、カントの批評哲学の立場から独断論の立場に逆戻りしたものと考えられるのは無理ないことだろう。しかしかつて論じたように、存在と当為は一つの事行の両面であって、自覚はその具体的な真相を表したものではないだろうか。リッケルトなどが存在と意味を峻別し、意味は存在以前にあるというのは、独断的実在論に対する批評としては無論同意しなくてはならないのだが、「ある」ということは独断論的意味においてのみ考えられると限ることはできまい。「ある」ということをなお一層深い意味に考えてみれば、純論理派の言うような、意味が意味自身を維持するということが、「ある」ということの根本的意義ではないだろうか。いわゆる「ある」というのは、このような意味(意味が意味自身を維持するという意味)において「ある」ということの特殊な場合と見ることができるだろう。意味の背後に維持者があってこれを維持するのではない。意味が意味自身を維持するのだ。我々に最も直接な意識現象はこのような意味において(自覚の形において)成立するのだ。いわゆる自然科学的存在というものは、第二次的存在に過ぎない。ある物が存在するということは、ある物が不変的に現れるということだ。意味の不変性によって存在の不変性が成り立つのだ。私は強いてフィヒテの自覚を弁護しようというのではないが、氏が自己の存在ということは「汝自身によって汝自身が定立されること」に外ならないと言い、自己と「自己に還る働き(当為)」を同一と見なす所に、すでに右のような意味が言い表されているのではないだろうか。もし新カント学派の人々のように、厳密に批評哲学の立場を守って、価値の世界に留まろうとするならば、現実の認識作用というものはどのようにして起こって来ることができるだろうか。プラトンの理念はいかにして現実に発現し来ることができるだろうか。
 我が我の同一を知る、知る我と知られる我は同一である。このように自覚することが我の本質であり、我の存在理由であって、このような一々の自覚作用が我において事実であり、我の歴史だ。我は我を反省することによって発展するのだ。純論理派の立場から言えば、認識の対象と作用は何らの関係もない。我の超越的同一性ということと、これを意識する自覚作用は何らの関係もないというだろう。また存在の前に意味がある、不変的自己の心材ということよりも、意味の同一ということを一層根本的と考えるだろう。しかし意識現象においては意味の内在ということがその本質だ。何らかの意義において意味を有しない意識はない。意味の統一、意味の同一ということが意識成立の要件だ。一方から見れば、かつて言ったように、意味の超越的同一性ということも、かえって意識内容それ自身の発展ということを離れて考えることはできないとも言える。無論こう考えても、純論理派の議論のように、意味の同一性と時間空間の上に現れる心理的な意識作用は、何らの関係がない。同一の意味を幾度意識しても、意味そのものに何らの変化もないと考えることができるだろう。我々はこれにおいて、ある意識内容と、その内容が意識されるということの関係を考えて見なければならない。普通の意識内容については、三角形の表象は三角ではないと言い得るように、無論内容そのものと、これを意識するということは無関係と考えることができるだろう。しかし「時の意識」というようなものにおいては、フリッシュアイゼンケーラーの言う様に、時の意識は時の中に起こらなければならない。時の意識においても、私が自覚に於いて、我が我において我を意識すると言ったと同様の関係を見ることができる。このように時の意識や、自覚において見るような意味と作用と存在の合一は、単に異なる立場の混合に過ぎないのだろうか。もしくはそこに何らかの深い意味があるのではないだろうか。この問題を明らかにするため、私はまず、意識するとはどのようなことであるか、意識と無意識の区別及び関係について考えて見なければならない。

十七~二十(意識の問題・主客の関係)



十七
 意識現象は大脳の皮質における生理的刺激に伴う付属物に過ぎないという考えから見れば、我々の意識は単に脳細胞の物質的痕跡として保存されるもので、無意識と意識の関係は唯物論者の言う様に、物体とその現象の関係のように考えられるだろう。しかしこのような考えを認識論上許すことができないのは言うまでもない。また意識現象と物体現象を区別し、後者から前者が起こることができないとすれば、モーベルチュイやディデローなどの考えたように、原子の裏面にも意識があって、我々の意識もこのような意識から成り立つものと考えるか。あるいはライプニッツなどの考えのように、我々の意識は「極微知覚」というような程度のモナドの意識から発展したものと考えねばならないだろう。すなわち意識と無意識の関係は、発展上における程度の差異というようなものとなるだろう。しかしこのような考えに対しては、無意識の存在ということは一種の仮定に過ぎないとか、または無意識の意識というようなものは自家撞着(矛盾)であるとかいうような非難もできるだろう。
 それでは上に述べ来ったような認識論の立場を十分に顧慮して、意識と無意識の関係を考えてみたなら、どのように考えることができるだろうか。私はかつて「十」の終わりにおいて示唆したように、この関係を有限と無限の関係から考えてみたいと思う。コーヘンの言うところによれば、古代の定義では点は線の終わりと考えられていたが、ケプラー以来切線における点の性質を考えることから、点を曲線の能生点(曲線を生むだすもの)と考えるようになった。点は単なる点ではなく、その位置によって方向を含む点だ。曲線はこのような点から生じるのだ。すなわち「切線点」の全体だ。有限な曲線は無限小な点から生じると考えることができる。dxをxの根源として考えることができるのだ。このような有限と無限の考え方は十分正確と言えないかもしれないが、まず有限と無限の関係が右のように考えることができるとして、我々の有限な意識とその根底である無意識の関係も、右のような意味における有限と無限の関係から考えることができないだろうか。我々の有限な意識の背後に横たわる無意識は、xに対するdxのように考えることができないだろうか。カントによって洗練されたライプニッツのモナドの発展上における意識と無意識の関係は、このように考えねばならないのではないだろうか。
 例えば今幾何学のある問題を考えるため、一直線を書いたとせよ。この直線の意識は心理学的には眼筋運動の知覚と解せられるだろう。しかしこの場合の意識が、単に心理学者の言うような眼筋運動の意識に過ぎないならば、我々はこれによって幾何学の問題を考えることはできない。この意識(直線の意識)の中に幾何学的直線の意識が含まれていなければならない。我々は普通に運動の知覚によって幾何学的直線が代表されると言っている。運動の意識がいかにして幾何学的直線を代表することができるか。代表することはどのようなことであるのか。これらの論はしばらく置くも、我々が幾何学的直線を意識しこれについて論じ得る以上は、とにかくここに運動の知覚と異なった幾何学的直線の意識というものがあるということは、拒むことはできまい。この意識とはどのようなものか。私の考えでは、この場合における幾何学的直線の意識というのはdxに対するxのようなものではないだろうかと思う。詳しく言えば、xはdxから生じると考えることも出来るが、またxを離れてdxはないとも考えることができる。この二つのものは、無限級数というような全体の物の両面だ。我々がある一つの幾何学的直線を意識するのは、このような意味において無限級数(無限)を基としてこれ(有限)を意識するのだ。意識された曲線というのは、このような意味において限定された曲線だ。これを逆にして言えば、我々がある一曲線を意識するということは、このような意味において無限な全体を限定することだ。意識するということは無限な全体が己自身を限定することだ。勿論このようなことを言えば、心理学者は哲学者の思弁的空論として直ちにこれを一笑に付し去るかもしれない。心理学者の感覚の分類表の中には、このような意識の要素はないというだろう。thought-element(?)というようなものを主張する一派を除いては、いわゆる感覚というものから独立した幾何学的直線の意識というようなものを認めないだろう。幾何学的直線の意識というようなものは、必ず運動の知覚というようなものによって代表され、そしてこの運動の知覚というようなものは、圧覚とか筋覚とか関節感覚とかいうような、いわゆる感覚の分類表中に見いだされるべき要素に分解し得るものと考えるだろう。具体的意識は必ずいわゆる感覚という要素から成り立つものと考えるのだ。しかし心理学者はどのような根拠によってこのような考えを主張し得るのだろうか。心理学者のいわゆる感覚というのも、ある一つの色とか音とかいうものを性質的統一の上において限定したものではないだろうか。ある一つの感覚を意識するということは、ある一つの全体が己自身を限定することではないだろうか。このような点から見て、いわゆる感覚の意識と幾何学的直線のようなものとの差異はどこにあるだろうか。
 普通の心理学者は、我々の意識は純粋感覚とか単一感情とかいうような、いわゆる精神的要素の結合から成り立つものと考えている。無論これらの人の考えでも、いわゆる精神的要素が直ちに具体的意識であるというのではない。精神的要素というものは化学的分析の結果であって、具体的意識ではない。具体的意識はこれらの要素の結合したものだ。すなわちヴントのいわゆる精神的化合物のようなものが、具体的意識として最も簡単なものであると考えるのだ。このような考えから見て、意識というのはどのようなことだろうか。我々の意識が尽くいわゆる精神的要素に分解することができ、我々の意識がこれらの結合であるというならば、結合ということが意識成立の要件であって、意識は結合によって成立すると考えるべきだろうか。具体的意識として成立することのできない精神的要素の結合から、どのようにして具体的意識が成立すると考えることができるだろうか。心理学者が意識をその要素に分解するというのは、どのような意味だろうか。単に概念的分析を意味するのか。それとも実質的分析を意味するのか。意識現象は一々が出来事であって、心理的分析は単に概念的分析に過ぎないというならば、心理学者において意識が要素の結合によって成立するというのは、自然科学において物がその要素から成立するという意味とは完全に異なったものと考えなければなるまい。このような考え方から意識の成立とはどのようなことであるか。意識と無意識との関係はどのように考えることができるだろうか。厳密にこのような考え方を徹底していけば、かえって心理学者が自ら標榜する科学的考え方とは相容れないではないだろうか。もし心理学者のいわゆる分析が(概念的分析ではなく)実質的分析の意味であるとするならば、このような意味においてどのようにして意識的要素の結合から意識が生じると考えることができるだろうか。無論自然科学界の現象においても、物と物との結合から新たな現象が生じると考えられることがある。例えば酸素と水素の結合から水ができるという類だ。しかし酸素と水素を化合してこの両者と完全に異なった水という現象が出来るというのは、我々の感官的性質の上から見てのことだ。厳密な自然科学の立場から言えば【たとえ現在にてはなお十分でないとしても】電子の数とか位置とかいうような量的関係に還元されるのがその理想だろう。プランクが物理学の目的は「擬人主義からの解放」であると言うように、すべて自然科学の目的は異質的なもの(性質的なもの)を、同質的なものの量的関係に還元することだ。自然科学が同質的なものを基となすのは、質を除去することだ。いわゆる経験的法則というものも決して事実そのままではない。一種の仮定に基づいて構成したものだ。すなわち数学的物理学の法則と同種の仮定に基づいて構成された同一意義の知識だ。このように考えることができるならば、物の結合から新しい性質を生じるというのは我々の意識内の事であって、自然科学的知識の傾向はかえってこれと反対の方向に進むものであるということができる。
 無論、現今の心理学者は感覚というようなものを何らの意味においても実在的なものと考えていないだろう。単に学問的分析と抽象の産物に過ぎないと言うだろう 。このような考え方からして、意識とはどのようなものであるか。意識の成立とか意識と無意識の関係とかいうことは、どのように考えることができるだろうか。私はこれらの問題を詳しく考えて、前に言った意識の考えとどのようにして結合し得るかを論じてみたいと思う。

十八
 心理学者のいわゆる精神的要素とはどのようなものであるか。ヴントに従えば、我々が直接に経験する意識現象はすべて複雑なもの、組み立てられたものであって、単純な精神適用というようなものは、分析と抽象の結合に過ぎない。aという一要素が第一の場合においてb、c、dと結合しており、第二の場合においてb´、c´、d´と結合しているとすれば、aだけを抽象して一つの要素と考えることができるという。そしてヴントはこのような要素の属性として性質と強度のみ考えているが、ティチェナーなどは延長持続もその属性として考えている。このような要素はどのような性質のものか。もし何らかの意味において実在性を有するとすれば、どのような意味においてこれを有するのか。もし完全に実在性を有しないものとすれば、意識の実在性はどこにこれを求めるべきだろうか。
 意識とその要素の関係、すなわち意識分析の意味は種々に考えることができる。前にも言ったようにまず自然科学者の考え方にならって要素の方に実在性を置き、いわゆる精神的要素は、たとえ我々の内省において直接にその独立の状態を経験することができないにせよ、時間上に起こる具体的経験の一部分として、我々の意識はこのような要素の同時的、または連続的結合から成立するものと考えることができる。例えば赤とか青とかいう純粋感覚はその物だけを独立に意識することができないにせよ、具体的意識の成分として物質現象における原子とか分子とかいうような意味の実在性を有する者と考えることができる。次に今日多くの心理学者の言うように、意識現象を一々の出来事と見なし、一々の意識現象をそれ自身に個性を有するものとして、全体の上に実在性を置いて考えてみると、いわゆる精神的要素というものは単に思惟の分析によって生じる抽象的概念に過ぎないとするか、そうでなければ右と異なった何らかの意味において実在性を有するものと考えなければなるまい。ヴントは精神的要素を純粋感覚と単一感情の二種に分かち、その各々が性質と強度の両属性を具備するものと考えている。しかし勿論この二種の要素(性質と強度)は各自独立なものではなく、氏も言うように一つの経験を構成する両因子であって、極めて単一な精神現象も感覚と感情の両因子から成り、その各々(感覚と感情)がまた両属性(性質と強度)を具えているのだ。そしてこの強度というものは、心理学者自身も認めているように、物理学者の言うような数量的差異ではない。やはり一種の性質的差異だ。ティチェナーが要素の属性と考えている延長とか持続とかいうことも、物理学者のいわゆる空間、時間(量的なもの)と同一のものではない。例えば意識現象が時間上ある連続を有するということ(量)と、ある時間を意識するということ(質)は同一ではない。厳密に言えば意識現象はすべて性質的であるということができる。このような要素はどのような意味において実在性を有するか。もしこれらの要素が実在的なものでないとするならば、意識の実在性とはどのようなことを意味しているだろうか。
 右に言ったように物を自然科学的に分析すると言うのは、物を独立した若干の要素の結合と見て、これ(物)をその要素に分析するのだ。例えば化学的分析のようなものがその一例だ。勿論今日の科学者のある人は、このような要素を独立の物体とは考えないのだろう。単に説明のために設けられた仮定とも見るだろう。しかしとにかくある現象を更に単純な要素的現象の量的関係に還元するのが自然科学的分析だ。もしこのような意味の分析ができないとすれば、科学的分析が出来ないのだ。次に概念的に分析するというのはどのようなことを意味するだろうか。これを実質的分析に比較して考えてみると、その分析の立脚地すなわち着眼点の取り方が自由なこと、したがって分析されたもの、すなわち要素が必ずしも存在することを要しないということだろう。換言すれば物をその実在的であると否とに関せず、一つの意味と見て、意味の要素に分析するということだろう。例えば我々が物を分類するため、物を概念的に分析するにあたって、いずれの立場を取るかは自由だ。またその分析されたものが実在的であるか否かは問う所ではない。今私が机上にある書籍を概念的に分析して、その色、その形、その大きさなどというように分けて見ることができる。しかしこのように分かたれた要素は物理的実在であることを要しないのは言うまでもなく、心理的実在であることも要しない。ただ一つの概念として考えることができれば足りるのだ。この点から見たら、実物を分析するのも、三角形というような概念を更にその概念的要素の分析するのも同一だ。何故なら実物であってもこれを複雑な概念と見なすことによって、初めてこれを概念的に分析することができるからだ。
 心理学者のいわゆる分析とはどのような意味の分析だろうか。その精神的要素とはどのようなものを言うのだろうか。心理学者の分析ということが物理的分析(実質的分析)の意味でないとするならば、三角形をその概念的要素に分かつというような概念的分析を意味するのだろうか。心理学者はその分析を物理的分析と区別するだろうが、またこれを概念的分析と同一とは考えないだろう。したがって精神的要素とは点とか線とかいうような非実在的なものとは考えないだろう。精神現象は実在的なものであって、これを構成する要素も物理現象とは異なった意味において実在的なものでなければならない。ヴントのいわゆる精神的要素というものも、独立に現れないとしても、心理的実在として直接経験の上にその成分として現れ得るものでなければならない。それでは直接に経験し得る心理的実在とはどのようなものだろうか。例えば我々は直接に赤とか青とかいう色を識別し、またこれらの色の種々の色合いを区別することができる。我々は普通にこれを心理現象と言い、心理学者はこのような現象を研究すると考えられている。しかし物理的にはこれらの現象はエーテルの振動と見ることができる。同一の経験がこのように二種の現象と見られるのはどのような見方の相違によるのだろうか。物理現象と心理現象の相違はどこにあるか。心理学者は直接経験の被経験性ということを心理現象の特徴と考えている。しかし素朴的実在論のような立場から言えば、物理現象も直ちに被経験的であるということもできる。例えば赤いもの青いものがあると考えることも出来る。いかに物理学的見方が進んだとしても、完全にこのような見方(物理現象を被経験的に見る見方)を脱することはできまい。同一の経験内容がどのようにして一度は物理現象と見られ、一度は心理現象と見られるのだろうか。
 心理学者は常に心理現象は直接経験の事実であると言う。しかし直接経験の事実は心理的と見ることも出来れば、物理的と見ることも出来るのだ。このような考え(常に心理現象は直接経験の事実)は、意識内容は意識作用の中にあるという素朴的思想に基づいたものだろう。ラッセルなども指摘しているように、the thing of which we are aware(私たちが意識するもの=意識内容)とthe actual awareness itself(現実の意識そのもの?)すなわちthe mental act of apprehending the thing(物事を把握する精神的行為=意識作用) は同一ではない。意識作用は心に属するとしても、意識されたものが意識の中にあるということはできない。いわゆる感覚的性質は心理的と見ることも出来れば、物理的と見ることも出来るのだ。赤とか青とかいうことはそれ自身において心理的でもなければ物理的でもない。普通には赤とか青とかいうものが性質的に区別されることを心理的といい、これを直接の経験と考えている。しかしある特殊な赤が他の特殊な赤から区別されるには、その根底に包容的全体がなければならない。区別に前に総合がなければならない。特殊な性質の区別の前に、一般なるものの意識(この場合、いわゆる一般的赤)が働かなければならない。このように考えてみれば、特殊な性質の区別と共に、全体の意識も直接であるということもできる。いわゆる質的区別も量的区別も共に経験の成立上欠くことのできない両面であって、いわゆる客観界の知識も主観界の知識と同じく、経験の成立上直接ということができるだろう。いわゆる心理的現象のみを直接と考えるのは、精神と物体の両界を独立した実在と考えるか、または感覚を思惟よりも根本的と考えることから起こる推論の結果だろう。
 意識内容そのものの自ずからなる発展とも見るべき直接経験は、物理的に解することも出来れば心理的に解することも出来る。前者はその(意識の)統一の方面であり、後者はその(意識の)発展の方面だ。例えば「甲は甲である」という判断意識において、「甲」の自同的方面がいわゆる客観的対象となり、「甲は甲である」という発展の方面が主観的作用となり、孤立的に考えられた主語「甲」というようなものが心理学者のいわゆる感覚となるのだろう。「赤」というような一つの具体的経験の中にも「赤」という性質、フッサールのいわゆる本質のようなもの(一般的赤)と、「赤い物」すなわち赤の性質を持った客観的存在と、感覚「赤」及び「赤」を意識する作用すなわち感覚作用というようなものを区別して考えることができるのだ。純論理派の人々は内容と作用を区別し、「白」の知覚は白ではないと言うが、いわゆる精神作用というのはある経験内容の発展の相を抽象したものにすぎない。ナトルプの言うように我は我の聴覚作用を聴かない。我はただ音を聴くのみだ。そして音を聴くということは音が我の体験の統一に属するということだ。精神作用というのは単に、部分的内容が全体の統一に結合される方法の一種に過ぎない。普通の心理学では一つの感覚及び運動の中心を我と考え、この中心から経験内容を統一して考えるのだ。いわゆる精神作用というのはこのような統一の仕方に過ぎない。ある経験内容がこの中心(我)に属するものとして考えられた時、ある個人の意識と考えられるのだ。「赤」そのものは心理的でもなければ、物理的でもない。「赤」が意識されるといっても、「赤」そのものの性質に何物も加えない。常識では我々の意識が「赤」という性質を生じると考え、エーテルの振動が我々の眼に赤として感じるのであると考えている。しかし意識によって新たな性質が生じるのではない。「ある人に意識される」ということは後から付加された考えに過ぎない。

十九
 現代の絵画を論じているマックス・ラファエルは、芸術家の表現手段としての直線は数学的直線とは異なっている。芸術家の直線は各々の点において直線と曲線の錯綜を表すものだ。すなわち様々な次元の緊張だ。芸術的手段としての色にも同様のことが言えると言っている。ブローデル・クリスチャンゼンもゲーテの言った色の感官的道徳的結果(?)の考えに基づき、色の印象はいわゆる感覚において尽きるものではない。各々の色はそれぞれ特殊の情操を起こす。この二次的印象(情操)は自己をただ一つの色に没してみた時に最も強いのだ。いわゆる感覚に対しては我は受動的だが、右のような情操的要素においては我は能動的だ。青は黄を要求し紫は緑を要求する。情操的印象は一つの勢力であり、努力であると言っている。芸術家の動作を視覚作用の発展となし、芸術的作品をその表現となすコンラット・フィードレルは、我々が視覚に純一な時、たちまち視覚表象の発展的可能性を感じ、自ら表現作用に移り行くと言っている。マックス・ラファエルの言によれば、マチスは物が創造されるように自分に強迫し来るまで、何週間でも何月間でも同一の物を見ているといったということだ。私はこれらの人々が芸術的直観について言っていることがすべての経験の真相ではあるまいかと思う。純粋な科学というものも、芸術家が視覚に純一になるように、学者が思惟に純一になることによって成立するのではないだろうか。プラトーの理念、マールブルク派の仮説、または「純なもの」というようなもの(先験的或者)によって、純粋科学が成立するのではないだろうか。科学は弁論的であり、芸術は直観的であるというが、科学成立の基には創造的な先験的或者があり、これに純一となることによって科学が純化されるのだ。このように科学の根底に芸術的直観(創造的な先験的或者)があると言い得ると共に、芸術的直観は必ずしも一気呵成的とは限らない。ヒルトは芸術的作品が意志的思惟の努力によってモザイックのように出来上がった多くの例を示している。アルベルト・デュラーの凱旋門のようなものもその一例であるという。要するに、その差別は創造的な先験的或者の性質の相違に過ぎない。
 私はすべての経験は右のような方式に従って成立し、実在はこのような創造的体系であると思う。我々が実在として信じるものは皆先験的或者によって組織された体系だ。この体系が純化されればされるほど、動かすことのできない実在と信じられるのだ。この意味において芸術家が創造する世界も、自然科学者のいわゆる自然界も、同一の権利を以って実在性を要求することができる。かつて述べたようにコーヘンは極微を実在の基礎と考え、感覚が内包量と見なされることによって実在的となることができると言うが、極微とか連続とかいうことは右に述べたような、それ自身の中に矛盾(限定される側面)を有し、それ自身に動的な創造的体系(自覚的体系)についてのみ言うことができるのだ。連続とはどのようなことだろうか、ラッセルは連続的運動を説明して In a continuous motion, then, we shall say that at any given instant the moving body occupies a certain position, and at other instants it occupies other positions, the interval between any two instants and between any two positions is always finite, but the continuity of the motion is shown in the fact that, however near together we take the two positions and the two instants, there are an infinite number of positions still nearer together, which are occupied at instants that are aiso still nearer together.(連続的運動においては、任意の瞬間に移動体がある位置を占め、別の瞬間には別の位置を占め、任意の二つの瞬間及び二つの位置の間隔は常に有限だが、二つの位置及び瞬間をどんなに近接させても、さらに近い位置が無限に存在し、その位置はまたさらに近接した瞬間に占有される、という事実を示している? )と言っている。連続を右のように考えるということは、連続を分析の無限な可能と解するのであって、連続ということは思惟分析の無限な課題を表すものだ。我々の一種の理想的要求だ。そしてこのように思惟の分析が無限に可能であるということは、内からそれ自身に発展することのできる創造的体系(自覚的体系)にして、はじめてかくあることができる。それ自身に内から働く真に独立な実在にして、初めて右のような意味において連続的であるということができる。スピノザの自己原因がライプニッツのモナドに移り行くのはこれ故だろう(?)。有限なものは他によって考えられるものだ。依他的だ。死物に過ぎない。ポアンカレは物理的連続からどのようにして数学的連続が出てくるかを論じて、例えば我々は十二グラムと十グラムは識別することができるが、その中間の十一グラムをとこれらを識別することはできない。すなわちA=B、B=C、A<Cというのが物理的連続だ。この式をどこまでもA<B、B<C、A<Cの形に直していくのが数学的連続であると言っている。このように数学的連続によって構成したものが科学的実在だ。このようにして、それ自身に独立な経験の体系(この場合数の体系)が己自身を発展するのだ。例えば力であっても、不連続な有限な力は外から加えられた力だ。それ自身に独立な生きた力は連続的に働く力でなければならない。加速度を有する力でなければならない。普通には不連続な有限な経験が具体的な直接の経験であるかのように考えられているのだが、ベルグソンなどの考えのように、無限に連続的なものがかえって直接の実在ということができる。氏はケプラーやガリレーによって始められた近世科学の特点(特徴)を論じて、古代の科学はその対象のある特別な瞬間における状態を観察し、それで十分その物を知り得たと信じていたが、近世科学ではその対象の何の瞬間において物の状態を考察するかにあると言っている。つまりガリレーは運動そのものを考えたのだ、いわゆる不連続な有限な経験の体系というものは、普通に信じられているように直接の経験そのままではない。真に不連続な有限な経験はあたかも夢のようなもので、我々は実在としてこれを信じることはできない。いわゆる経験というのは、一種の範疇によって構成されたものだ。我々が実在として信じるのはこれ(範疇…最も基本的な、認識論上の概念のこと)によるのだ。物理的実在というのも、この見方を推し進めたものに過ぎない。このように一つの見方を推し進めていくということは、カント学派の考えるように与えられたものから遠ざかること(直接経験から価値へと遠ざかること)ではなくて、ベルグソンがガリレーの物理学について言っているようにかえって真実在に近づいていくことだ。以上のように考えてみると、コーヘンなどが極微を以って実在となすのは、その裡面に自発自転的体系(自覚的体系)の考えが含まれていると思う。そしてこのような体系が実在と信じられるのは、それが最も直接な具体的な体系であるからだろう。このようにある見方によって一方で科学的実在のようなものが立せられると共に、またある見方によって一方で芸術的実在というものを立することができると思う。芸術も前に挙げた人々の言うように無限の進行だ。マックス・ラファエルは画家に何時画が完成されるかと問えば、冷笑を以って答えられるだろうと言っている。芸術はいつも新たに始めるのだ。そして内からの発展進行は微分的だ。数学者や物理学者の言う如き厳密な意味において、連続的でなければならない。

二十
 我々に最も直接な具体的実在は自発自転的経験の体系だ。コーヘンが極微とか連続とかいうことを以って実在性を表すのも、このような体系に近づく意味に解することができる。しかし単に他によって考えられた連続(思惟によって抽象化され対象化された連続)はなお死物だ。依他的であることを免れない。未だ独立自由の実在ということはできない。真に独立自由な実在は、それ自身において連続的なものでなければならない。それ自身の中に発展の動機を蔵すものでなければならない。換言すれば己自身を知る物でなければならない。自覚的なものでなければならない。普通には、ラッセルが連続的運動について定義しているように、連続ということを外から消極的に考えて、分析の無限に可能な対象と考えているが、これを内から積極的に考えてみれば、自己を反省することが自己の存在であり発展であるもの、すなわちそれ自身に完全なものにして、初めて真に連続的ということができる。真に連続的なものは自覚的でなければならない。対象となって現れるもの(例えばラッセルの連続的運動の定義)はなお分かつことのできるものだ。真に分かつことのできない統一(真に連続的なもの)は反省する自己そのものだ。独り反省する自己(反省された自己?)のみ無限に分かつことのできる統一だ。
 いわゆる物体界というものは、我々の主観から独立に存在すると考えられている。我々がこれを知ると否とに関しないことは言うまでもなく、我々の存在と否とにも関係なく、永遠に存在するものと考えられている。しかしいわゆる客観的自然界も主観を離れて存在するのではない。自然界はカントのいわゆる純我(純粋統覚)の統一によって成立するのだ。これに反し、いわゆる個人的意識というものでもそれに相当する客観界を持つことができる。少なくともブレンターノなどの言うように、意識には必ず内在的対象が含まれていると見なければならない。いわゆる客観的自然界は個人の客観界を推し進めたものに過ぎない。ポアンカレが物理的連続と数学的連続の関係について言っているように、後者は前者を合理化したものだ。ポアンカレなどは前者を経験的と考え、後者を単に理想的と考えているようだが、私は物の重さを比較してみるということの裏面に数学的連続に進むべき仮定が含まれていると思う。物理学者の数学的物理界に進むことは一般に、直接の経験から遠ざかることと考えられるのだが、一方から見ればかえってある一種の経験を深くしていくこと、すなわち進めていくことであると思う。いわゆる経験界というも決して単に与えられた世界ではない。かえってある一つの立場から見られた不徹底な世界と見ることができる。例えば、我々が赤とか青とかいう色を識別するにあたり、現在においての我々の視力では無論ある程度までの区別ができるまでだ。しかし実在としての色の経験はそれ自身の中に無限の発展性を含んでいなければならない。すなわちいわゆる微分的なものでなければならない。視覚に純一である画家が直線の中に曲線を見、全ての色の中に白と黒への傾向を見るというのはこれ故だろう。限定された色の感覚というのは、単なる抽象的概念に過ぎない。勿論刺激の方から言えば赤の刺激の極微は赤ではないということもでき、またある色の感覚はある程度以上に発達しないということも考え得るだろう。しかし直接な実在としての赤の経験の中には、赤の極微が含まれていなければならない。量は質の発展の要求だ。質が己自身を維持し発展するには量を要求するのだ。独立の経験は量と質の内面的結合だ。生きたものは質の中に量を蔵するものだ。いわゆる知覚の予料(ある感覚が確かに対象に関係づけられ、当のその対象 の感覚である、という信念を支えるリアルなものが、個々の感覚に先立つ「感覚一般」としてアプリオリにとらえられる、ということ)において、新しい知覚を予期し得るのはこのような意味における経験の内面的発展に外ならない。ポアンカレは法則と原則を区別し、光学的現象についてフレネルの説が正しかろうが誤っていようが、フレネルが光学的現象の関係を言い表した微分方程式は何時でも正しいと言っているが、私が右に我々の経験界を推し進めた数学的物理界といったのは、このような関数(函数)的関係(この場合微分方程式)において言い表された世界を言うのだ。例えば物理学者が運動をベクトルによって考える時、運動が極微の各瞬間に連続的なものとして考えるのだ。このように考えなければ昔ツェーノの言ったように運動は不可能となる。普通に経験は非連続的であるというが、連続的なものの意識がなければ非連続的なものを考えることはできまい。経験を非連続的であると言う人はすでに自己の連続を意識しているのだ。ある物体がt1の瞬間においてp1の場所にあり、t2の瞬間においてp2の場所に移り行ったとせよ。我々は普通に非連続的な各瞬間における物体の位置を意識することはできるが、連続的運動は考えられるだけで意識することはできないと考えている。しかしこれらの各点が断続するものではなく、連続的運動の各点であると意識された時、すでに連続という体系が直観的に意識されているのではないだろうか。数学者の考える連続の公理のようなものは、連続というものが直覚的に与えられたものとして(与えられたものとしたうえで)、初めて理解し得るのだ。ベルグソンの言うように我々は内から直接に運動を意識するか、そうでなければ完全に運動というようなものを認めないという外はない。三角形は産直戦から成り立っているというが、単なる三直線の意識は三角形の意識ではない。単なる三直線を意識した時の意識の立場と、三角形を意識した時の意識の立場は同一ではない。普通には三角形の意識の立脚地から見て、単なる三直線の意識を統一のない材料と見るのだが、我々が単に三直線を意識した場合にも、単なる三という計算的意識の立場を考えなければならない。ただこの意識の立場は三角形の意識の立場に比して、一層一般的であるというに過ぎない。いわゆる非連続的経験というのは考えられた経験であって経験そのものではない。経験そのものは何らかの意味において何時でも連続的だ。なぜなら経験そのものの中には、理想(一般なるもの)がいつも内在的に含まれているからである。
 右に述べたように、いわゆる自然界も主観を離れたものではなく個人的意識の対象界を推し進めたものであって、個人的主観とカントのいわゆる純粋統覚の主観というようなものとの間に絶対的区別はないという考えを明らかにするため、私はまず主観とはどのようなものであるかを考えておかなければならない。主観客観の語は中世と近世によって意義が異なっている。中世においては主観という語は(?“ギリシア文字”)の訳語として基礎とか本体とかいうことを意味し、客観とはこれに反し「意識において対象化されたもの」すなわち今の表象を意味するのであった。だが近世においてはこれに反し客観が実在的と考えられ、主観はかえって現象的、幻影的と考えられるようになった。中世においては現象の所有者が実在者と考えられ、近世においては現象の不変的関係が実在的と見られるようになったからでもあろう。またボルツァーノに基づく今の純論理学派は、客観的対象を完全に実在性から離して純認識論的に考え、いわゆる主観的作用を超越する永久不変の意味とか価値とかいうものと考えている。このように中世と近世とでは、主観という語は反対の意味に用いられるのだが、近世の考え方でもブレンターノ一派のように意識の内容と作用を区別してみると、意識内容は非実在的で主観的と考えねばならないとしても、意識作用は実在的で客観的と考えることができるだろう。またこれらの作用の主である我というようなものも客観的実在と考えることも出来るのだ。トゥヴルドフスキーの「表象の内容と対象」においてのように、作用と内容と対象を区別してみれば、内容だけが主観的と考えることができる。作用は実在的であり対象はリッケルトなどのいわゆる意味の世界に属するのだ。主観と客観の対立は、認識作用の上においては見るものと見られるものとの対立と考えることができ、認識の内容の上においては現象と本体とか偽と真との対立と考えることも出来る。近世哲学のはじめ、ガリレーが物の一時的性質と二次的性質を区別したのは、主観と客観を因果関係の上において現象(偽)と本体(真)との対立に考えたのだ(主観と客観を認識の内容の上において考えたのだ)。中世哲学において主観の内容であった客観は、今は独立の実在としてかえって主観を包容するものとなったのだ。これに反しもしバークレーなどの「意識すなわち実在」というような立場を徹底すれば、今の意識一元論者の言うようにいわゆる物体界というものは観念の不変的結合というようなこととなり、客観と主観は意識内容の統一と不統一の対立ということとなるでもあろう。観念論の立場に立ちながらしかも相対主義から脱しようとしたカントは、知識の客観性を認識の先天的総合に求めた。このようにして客観と主観は超越的主観の統一と、時間空間の上に限定された個人的主観の統一との対立と考えられるようにもなった。今日の新カント学派はこの考えを徹底的に進めて実在と心理を峻別し、客観性とは超越的当為に基づく一般的妥当性と考えている。しかし一方から考えれば、何らかの仮定の上に立ち何らかの立場(一般的妥当性など)から経験を統一したもの(純論理派の意味や価値)は、その立脚地が超個人的であるにせよ、実在の抽象的一面として内容の上からは主観的ということもできる。時間空間の上に限定された存在に比べて、当為は根本的であるかもしれないが、具体的経験の全体に対しては、ある一つの立場から見たものはその(具体的経験の全体の)抽象的一面に過ぎない。勿論その全体は我々の知識の範囲外にあるにもせよ、どこまでもこの全体を真の客観的実在と考えねばなるまい。このように考えれば客観と主観は、経験の全体とか部分とか、具体的と抽象的とかの対立ということとなるだろう。私は以上述べたような様々な主観客観の意義が、私のいわゆる直接経験の創造的体系(自覚的体系)においてどのように考え得るかを論じ、いわゆる主観界と客観界の対立及び意義を明らかにし、進んで物理的実在と心理的実在の区別及び関係に論及したいと思う。

二十一~二十三(直線の意識)

二十一
 直接経験の創造的体系における主観客観の対立及びその相互の関係を明らかにするため、私は再び連続的直線の意識というようなものについて考えてみよう。直線の意識といえば、前にも言ったように心理学者には眼筋運動の感覚と視覚の結合というようなものと考えられるだろう。しかし数学者のいわゆる連続的直線とはこのようなものを言うのではない。現今の数学者が厳密な意味において連続と考えるものは、その要素の全体が相属(互いに関係すること、むすびついていること)的で、すなわち一つの「集合」を成すものであって、しかもこの集合は以前の学者の考えたように、単にいかに小さな間隙にもなおその要素を含むということ、すなわち単に「各処密」であるばかりでなく、無限に近づくことはできるが到達することのできないすべての極限が集合自身に属し、そして集合のすべての要素がこのような極限となり得るものでなければならない。すなわちカントルのいわゆる「完全集合」でなければならない。我々の視覚における直線はアルヒメデスの公理に当てはまるものとして、以上の条件を具備した厳密な連続と考えることができるのだ。
 心理学的には右のような数学的連続の意識というようなものを一つの意識というのには異論があることだろう。心理学者は時間上の出来事である注意作用を中心として意識の範囲を定め、一つの中心によって照らされる意識内容の多寡によって意識の範囲の大小を定めようとするのだ。このような見方から言えば数学的連続というものは一つの意識といえないことは言うまでもない。しかし心理学者のいわゆる意識の範囲というものは、意識を外から見て定めたものだ。実験心理学者から見た被験者の意識とは考えられた意識であって、真に具体的な生きた意識ではない。生きた具体的な意識は外からその内容の多寡によって量的に範囲を定めるべきものではない。生きた具体的な意識はたとえ、時間上一瞬間の意識であっても人格的経験の一部分だ。意味の関係上において成立するのだ。意味がその構成的要素となっているのだ。実験心理学者はタキストコープなどによって瞬間的に知覚し得る資格印象の数によって、注意の範囲の最大限を六と定め、また同様の実験により意識の範囲を六ないし四十と定めている。しかしこのような意識の範囲は我々の意識をある条件の下において試験したものだ。無意義な線とか数字とかを瞬間的注意にて意識し得る範囲を定めたものだ。心理学者はこのような実験において、できるだけ意味を除去しようと務めている。このようにして初めていわゆる客観的に不変な意識の量的範囲が定められるのだ。もし意識の中に含まれている意味というものを考えてみれば、このような方法によって意識の範囲を定めることはできない。若干の文字はその組み立て様によって種々の意味を表すのだ。無意義な印象としての文字は量的にその範囲を定めることができるかもしれないが、その中に含まれている意味はこのような量的限定の中に入れることはできないのだ。それでは実験心理学者の考えるように、完全に意味を除去した意識の範囲が真の意識の範囲だろうか。ブレンターノのように言えば、対象の内在、すなわち意味を含むということが精神現象に欠くことのできない性質と考えることも出来る。心理学者の方からは、意味その者は心理学の対象ではないとでも言うだろう。意味の連結を考えるのは論理学とか物理学とかのことだ。心理学は単に意識作用の学であると言うだろう。しかしいわゆる心理学者が意味を除去して純心理学的に意識の範囲を定めたと信じる時、果たしていかなる意義においても意味を除去しているだろうか。我々が注意の範囲を経験するにあたり、六つの線とか数字とかを意識した時、その意識はやはり「ある物の意識」ではないだろうか。すなわち六つの線とか数字とかいう様な内在的対象、すなわち意味を含んでいるのではないだろうか。思惟の対象となるものが意味であるとすれば、知覚の対象となるのも一種の意味ということができる。心理学者が意識の範囲を定めるには、我々の意識を時間空間の上に制限された断片的なものとしているのだ。しかし具体的意識は連続的だ。全体の上に関係を持ったものだ。何時でもある歯畏敬の上に立つものだ。ある物の意識だ。すなわち対象とともに主観を含んだものだ。対象は量的に定めることができるかもしれないが、主観そのものは心理学的実験の対象となることはできないのだ。
 右に述べたような訳であるとすれば、心理学者のいわゆる意識の範囲というのは、意識をある条件の下に置いてみた場合の意識の範囲だ。例えばここに一つの文章があるとする。これを見たところでは若干の印象から成る視覚表象だろう。これを読めば若干の音声の連続から成る聴覚表象に過ぎないだろう。しかし文章全体として一つの意味を成しているのみならず、一々の語が意味を持っている。ボルツァーノの語を用いれば文章は命題自体を言い表し、これを構成する各語は表象自体を言い表していると言わなければならない。視覚や聴覚の範囲は意味の意識の範囲を限定することはできない。前者と後者は互いに量的に比較するべきものではない。意識現象としては聴覚や視覚のように、意味の意識も実在的だ。ただその対象を異にするに過ぎない。心理学者のいわゆる知覚的意識は決して具体的意識そのままではない。その背後に意味の意識があるということができる。
 以上述べたような訳だから、数学者の言うような厳密な意味の直線の意識というようなものは、心理学者のいわゆる意識の範囲においては一つの意識ということができないかもしれないが、一つの意味一つの対象を有する意識として一つの意識ということができるだろう。コーヘンのいわゆる知識の統一が真の意識統一だ。ただ知識と意識を区別するところから、両者の範囲が全く別種のものと考えられるのだろう。我々が視覚表象においていわゆる直覚的に直線を意識した時、その具体的意識は心理学者の言うような要素の結合というようなものではない。その根底には数学者のいわゆる連続の意識が含まれているのだ。シャップの言うように我々は色の世界において物を知覚することができる。現実に見る窓の十字架は、残像において見るような色のちらちらする十字架ではなく、しっかりと重く見えるのだ。我々の視覚に現れる空間は有限であるというのが普通の考えではあるが、このような視覚の世界は考えられた視覚の世界であって、真の視覚の世界はその独特の意味において無限ではないだろうか。コンラット・フィードレルも芸術家及び芸術を理解する人の前には、思想の世界における無限と関係のない視覚的世界の無限(芸術の世界における無限)が横たわると言っている。そしてこのような無限の世界は氏の言うように我々が視覚に純一となることによって展開されるのだ。我々が視覚的直線を数学的直線の象徴として見た時、後者(数学的直線)がすでに意識されているのではないだろうか。すなわちコーヘンなどのいわゆる方法として働いているのではないだろうか。勿論シャップやフィードレルなどが直覚の世界と概念の世界を明らかに区別しているように、視覚的直線(直覚)と数学的直線(概念)を同種のものと見ることはできないだろうが、両者の根底に同一である何物かがなければなるまい。そうでなければ直覚的或物が直線として見られることはできないのだ。そしてフィヒテが「働く我を見る我は己の働きを線を引くとして見る」と言ったように、私はこのような連続的直線の根本的意識として、それ自身に動く具体的経験の創造的体系(自覚的体系)というようなものを考えることができると思う。今日の数学者が考えている厳密な意味の連続というようなものは、このような体系(創造的体系)を最も厳密に言い表したものではないだろうか。それではこのような連続的直線の意識において、どのように主観客観の対立及び関係を説明することができるだろうか。

二十二
 例えばいわゆる直覚的にある一直線を意識したとせよ。このような直線の意識は直線の意識として不純粋なことは言うまでもない。しかし上に言ったように、我々が有限な一直線を意識するのは、無限な連続的直線の一限定として意識するのだ。この線は無限に延長することができ、また無限に分かつことができる可能性を含むものとして意識するのだ。今この様ないわゆる意識内の有限な直線と、無限である連続的直線そのものを対立させて考えてみると、前者は後者の偶然的に限定されたものとして主観的ということができる。この場合、主観的というのはどのような意味だろうか。普通には超個人的な思惟対象の世界と、いわゆる経験的個人に属する意識内容の世界を分かち、視覚とか聴覚とかによって意識された線は思惟された線と完全異なったものであるという理由から、前者(視覚とか聴覚とかによって意識された線)を主観的と考えるのだ。しかし我々の意識の中にも意味的対象が含まれている。そして意識の内在的対象(意識内における意味)と超越的対象(個人を超越した意味、価値)の間には絶対的区別があるのではないというように考え得るならば、思惟対象である数学的直線(客観性を有する超越的対象)に対して、意識された有限な直線(内在的対象)の主観性は外から偶然的に与えられた限定そのものにあると見る外はない。このような偶然の限定はどこから起こるのだろうか。あるいは数学的直線そのものの中に限定の要求を含んでいるということができるだろう。連続的直線そのものに任意に限定されるべき可能性、いや要求を含んでいると考えることができる。しかし厳密に考えてみれば、限定の可能ということと、限定の事実ということは同一ではない。事実上の限定は限定の可能性の上に、なお何物かが加わらなければならない。それでは何物がこれ(限定の可能性)に加わってくるのだろうか。純粋思惟の対象である数学的直線を任意に限定して主観的たらしめるものは何物だろうか。
 純粋思惟の対象である数学的直線その者は、必ずしも意識されることを要しない。純論理派の人々の主張するように、意識されると否とは純粋思惟の対象に何らの交渉もないと考えることができる。しかし一方から考えてみれば、思惟の体験を離れて思惟の対象はない。思惟の体験を離れて思惟の対象を考えることはできない。我々の直線の意識の中にすでに数学的直線の意味が含まれている。数学的直線とはこの意味を推し進めたものに過ぎない。かつて言ったように連続ということは我々の体験の中に含まれた理想的要求だ。数学者のいわゆる厳密な意味の連続ということも、それ自身に創造的な自発自転的体系(自覚的体系)の体験として、初めてこれを理解することができるのだろう。このように考えてみれば、限定された直線の意識を離れて数学的直線を理解することはできない。純粋思惟の対象として数学的直線の理解は、我々の体験における作用の体験に基づくということができる。意味は意味作用の一能率(一つの契機)だ。最も直接な具体的実在は、フッサールのいわゆる有意味体験というようなものだろう。コーヘンの言うように、古代において点は線の限界と考えられたが、ケプレル以来「曲線の能生点(曲線を生み出す点)」というものが考えられ、曲線はその(点の)総体と見ることができるならば、曲線は能生点というような意味的体験の中に含まれていると考えることができるだろう。ただ抽象的に考えられた有限な直線というようなものは、数学的直線そのものの意識とは何らの関係もなく、両者を相離して考えることができるのだ。すなわち心理学者のいうような抽象的意義の意識の上に現れた直線と数学的直線その者が、単に外面的関係において立つのだ。外面的関係に立つものは考えられた有限の直線と考えられた数学的直線だ。これに反し、意識の性質をブレンターノなどのように考えれば、意識成立の根底として意味がなければならない。意味は意識作用の体験を離れて考えることはできないということができる。我々は普通に純粋思惟の対象を、それ自身何らの働きもない抽象的一般であるものとして考えている。しかしこのようなもの(考えられ対象化されたもの)は真に一般なものではない。真に一般なものは、それ自身の中に発展の動機を含む創造的体系でなければならない。すなわち自覚的体系でなければならない。我々が今この紙上に引かれた一直線を無限に分かつことができ、無限に伸ばすことができると考える時、この意識の働きはすなわち数学的直線の理念の働きだ。フィヒテの言ったように壁に遮られることを知るによって、これを超越するのが数学的直線の理念の働きだ。思想が純化されるということは経験内容がそれ自身に動的となることだ。動的一般者なるもの(善の研究における統一的或者)、すなわち具体的一般なるものは、知られるものの中(自己)に知る働き(自己)を具したものだ。純粋活動だ。我々は普通に知るものと知られるものと別々の実在であると考えているから、一般的なるもの(客)と個人的なるもの(主)は互いに独立し(主客が分かれ)、一般的なるものは個人的なるものと無関係と考えられるのだが、このような意味における個人(主と客に分かれた、主)は真の主観ではない。すでに客観化された(思惟によって対象化された)主観だ。考えられた主観に過ぎない。真の主観は反省することのできないものでなければならない。客観視することのできないものでなければならない。すなわち(真の主観は)意識の構成的統一作用というようなものでなければならない。カントのいわゆる純粋統覚の総合作用というようなものがそれであるとも考えることができるだろう。
 主観客観及びその対立の意義はかつて言ったように色々に考えられるのだが、主観をカントのいわゆる純粋統覚の総合というようなものと考えるならば、主観は客観の維持者であり、その中心であると考えることができる。数理の世界は数理的主観によって、物理の世界は物理的主観によって、芸術の世界は芸術的主観によって成立するということができる。つまりこれらの客観界を成立させるコーヘンのいわゆる「純なるもの」が主観であるということができるだろう。こういう意味において主観は中世哲学の考え方のように、客観界の基礎として考えることができる。しかしカントにおいてはなお統一作用そのものと被統一の内容は別々のものと考えられている。フッサールの語を借りて言えば作用と性質が別々のものに考えられている。このような抽象的な見方に反し、我々に直接な具体的経験の立場において、意識内容そのものが動的であるとして考えてみれば、いわゆる総合作用というのは意識内容それ自身の内面的発展の作用と考えることができる。すなわち主観的作用というのは、このような(意識内容それ自身の)内面的必然の創造作用を指すこととなるだろう。例えばある有限な一直線を意識する場合にも、その真の認識主観は普通に考えられるような時間空間の上に限定された心理的主観ではなく、右のような理念それ自身だ。直線そのものを意識させるものは理念そのものの内面的努力であって、物質力でもなければ他の心理作用の力でもない。そしてこのような主観は真に動的発展であるから、真に直接な具体的経験の世界では、知る物の中に知られるものを具し、主観と客観が合一するのだ。真の主客合一は主観が直ちに客観となり、客観が直ちに主観となる動的統一でなければならない。今このようなフィヒテの事行といったような自覚体系において、主客対立の意義を考えてみると、もしその内容と作用を対立させて考えれば、総合作用の方が主観と考えられ、総合される内容の方が客観と考えられる。しかしこのように抽象的に分かたれたもの(総合される内容)と動的発展そのもの(総合作用)を対立させて考えてみれば、前者(抽象的に分かたれたもの)はいずれも主観的ということができる。真の客観的実在は動的発展そのものの外にないと言わなければなるまい。前に連続的なものが実在的であると言ったのもこれによるのだ。ヘーゲルの論理学によって言えば、まずその規定から区別された単なる統一としての一般概念と、その分化の状態である判断を対立させて客観と主観の対立を考えることも出来るのだが、真の実在は両者(一般概念と判断)の統一としてすべて真なるものの基である“推論式そのもの”でなければならない。いわゆる主観客観の対立はこのような真実在の能率(契機)に過ぎない。中世哲学の意味においての真の主観は、いわゆる主観客観の対立を没した活動そのものでなければならない。「二十」において言ったように、具体的経験としては個人的意識というようないわゆる主観界にも客観的内容と言うべきものがあり、いわゆる超個人的客観界にもその背後に主観的統一がある。ただ後者の立場(主観的統一)において前者(超個人的客観界)を見る時、前者は主観的と考えられるのだ。包容的統一(主観的統一)の立場から見て小なる統一(意識内容、この場合客観界)は、発展の過程にあるものとして近世哲学の意味において主観的と考えられるのだ。統一の立場によって主観客観の関係も変わってくる。例えば自然科学的には直観の世界は主観的であるかもしれないが、芸術的には自然科学的世界がかえって主観的と考えることができる。要するに、ある一つの立場から見て不徹底なもの、不純粋なものが主観的と考えられるのだ。フッサールの考えによって言えば、意識の自発性によって種々の世界がある。我が算術的立場に立つ時、我に対して数の世界があり、自然科学的立場に立つ時、我に対して自然界がある。そしてこれらの世界はすべてデカルトのいわゆる「我考ふ」によって包容されているのだ。このような種々の世界のよって立つある一つの立場を純粋に徹底したものが、いわゆる客観界だ。しかしこのように客観界に属することは主観を離れることではない。数学者が厳密な意味の直線を考えるのは超主観的となるのではない。数学的主観が純化されるのだ。客観を純化することは主観を純化することだ。このように考えれば不純粋とか主観的とかいうことの起源は、立場の混合にあるとも考えられるのだが、これらの考えについては精密に考究して見なければならない。

二十三
 事実としての直線の意識は数学的立場からは不純粋であるにせよ、われわれがこれを(数学的)直線として意識する以上は、その背後に数学的認識主観が働いていると見なければならない。すなわちある意味において数学的直線の理想が(事実としての直線の意識に)含まれていると考えなければならない。マールブルク学派の言うように、思惟に対して与えられたものは外から与えられるものではなく、内から要求されたものであるということができる。無論このような考えに対しては直覚上の直線(事実としての直線)と思惟上の直線(数学的直線)は、どこまでも区別すべきものであるという反対も起こるだろう。例えば「真っすぐなということ」でも、知覚の内容として意識されたものと、数理的に思惟されたものは、完全にその類を異にすると考えることができる。フッサールなどの言うように、ある色の知覚は不明瞭であっても、これが為にその色についての概念的意識も不明瞭であるとは言えない。我々が黒板上の一線(直覚上の直線)によって幾何学的直線を考える時、その線が多少曲がっているにせよ、真っすぐであるにせよ、幾何学的直線の意識には何らの関係もないのだ。しかしこれらの議論は後にして、事実上数学的直線というものが意識されるからには、数学的直線の理想は直覚的直線と現実の意識の中において、何らかの意味において相触れていると言わなければなるまい。もしこの二者(数学的直線と直覚的直線)が完全にその性質を異にするものならば、数学的直線を意識するということは不可能だろう。
 マールブルク学派のように考えてみれば、与えられたものは限定すべきものだ。認識の対象とは思惟に与えられた問題だ。我々が物を認識するのは何時でも理想の基礎においてこれを認識するのだ。このような考え方から見れば、限定されるべきものが主観的で、限定されたものが客観的と考えることができる。ナトルプの言うように統一の進み行く方向が客観的方面であり、統一されるべきものの方向(理想の方向)が主観的方面であって、主観と客観の対立は左右とかいう様な意識の両方面であり、どのような内容を主観的となしどのような内容を客観的となすかは見方によって定まる相対的区別に過ぎないと考えることができる。私が前に大なる統一の立場に立って小なる統一を見た時、(小なる統一が)主観的と考えられると言ったのもこれと同様の考え方によったのだ。なお一層これらの考え方を正確にするため、トゥヴルドフスキーなどのように意識の作用と内容と対象を区別してみると、このような主客対立の考え方は、意識の中に含まれた内容と対象の関係上において最もよく当てはまるということができる。対象との関係において見た意識内容について言えば、ある一つの立場から統一されればされるほど、客観的ということができる。しかし作用とか単に内容とかいうものに、いかにしてこの考えを当てはめることができるだろうか。かつて言ったように、意識内容は主観的であるとしても意識作用そのものは客観的であると考えることができる。また内容について考えてみても、時々刻々に推移する直接経験の内容は、その時々刻々において客観的であるということができるだろう。ただ意識内容が対象(客観)を表すものとして、主観的と言わなければならないのだ。それではボルツァーノやブレンターノを源とする墺国(オーストリア)派が主張する作用と内容の区別はどのようなものだろうか。ナトルプなどは内容と対象の絶対的区別を否定し、作用ということを単に意識内容の統一の仕方に過ぎないと考えているのだが、これらの考えにはなお十分究明すべき余地があると思う。
 黒板の上に引かれた一つの直線は、上にも言ったように種々の立場から見ることができる。我々がこれによって幾何学の問題を考える場合には、この線は幾何学的直線の象徴として意識されるのだが、直覚上の直線と数学的直線はその類を異にしたものだ。後者(数学的直線)は到底前者(直覚上の直線)を実現することは不可能であるのみならず、直覚上の延長性と数学上の延長性ということは、根本的にその性質を異にするものと考えることも出来る。それだけでなく、黒板の上に引かれた直線には幾何学的性質とは何らの関係もない、色というような性質も具わっているのだ。普通には数学的直線のようなものは意識現象となることのできない純粋な超越的対象と考えられ、色というようなものは意識上の性質として単に内在的と考えられているのだが、色の意識についてもその対象として、マイノングの対象とかフッサールの本質とかいうものを考えることができる。これに反し数学的直線のようなものも意識される以上は、何らかの意味において意識内容として現れ得ると考えなければならない。トゥヴルドフスキーの言うように判断についても、表象についても、同様に作用、内容、対象の三つの物を区別することができるだろう。このように考えれば、黒板上の一直線の体験は種々の本質に分析することができ、フッサールの言うように知覚や想像は「統一された意味の組織」であるということができるだろう。そして我々の意識は様々な客観的意味の意識の偶然的結合となり、どこにも主観性を容れるべき余地がなくなってくる。もしここに主観性を容れるとすれば、それは対象を意識内に持ちきたす意識作用によるとするか、そうでなければ様々な客観的意味の偶然的結合に求めるか、または様々な見方の混合に基づくものと考える外はないだろう。
 見るとか聞くとかいう、いわゆる意識作用とはどのようなものだろうか。普通にはこれを時間空間の上に限定された心理的主観の作用と考えている。しかしこのように考えれば、我々の意識作用も物体現象と同じく、自然科学的世界に属することとなり、意識作用ということも自然科学界における作用と同一の意義と考えなければなるまい。自然科学的に考えれば、作用ということは物と物の間における関係であって、物とか力とかいうことはこれらの不変的関係の統一に名付けたものと考えなければなるまい。そして意識作用ということも心理学者の考えるように、経験的自我というようなある一つの中心に統一された現象間の関係ということに過ぎないだろう。しかしこのように考えられた意識作用は、光とか電気とかいうものと同じく、すでに対象化された物の作用であって、主観的意識そのものの作用ではない。厳密に言えば真の主観は反省のできないものでなければならない。反省されたものはすでに対象であって主観そのものではない。それでは真の意味において主観とはどのようなものだろうか。真の意味においての意識作用とはどのようなものだろうか。例えば今2+2=4ということを考えるとせよ。純論理派の議論から言えば、2+2=4ということは思惟作用に何らの関係もない、不変の真理であると言うだろう。我々がこれを思惟すると否とはこの数学的心理そのものには何らの関係もないと言うだろう。しかしこのような意味の作用というのは、すでに対象化された時間空間上に起こる出来事を指すに過ぎない。直接経験の上においての作用は、意味の体験、すなわちフッサールのいわゆる有意味体験というようなものでなければならない。我々が2+2=4ということを考えた時、この意味の意識に二つの方面を区別することができる。2+2=4ということと3+5=8ということは互いに異なった意味内容を有する別々の真理であると共に、同一の数学的原理の上に立っている。すなわち同一のアプリオリ(経験に依存せず、それに先立っているもの)の上に立っている。そしてこのように共通な原理は単なる包摂的原理ではなく、構成的原理だ。我々が2+2=4とか3+5=8とかいうことを考えるのは、これ(構成的原理)によるのだ。我々の直接の経験は意味の意識だ。我々は心理的自我によって考えるのではない。このような自我は考えられた自己(思惟によって対象化された自己)であって、考える自己ではないというように考えてみれば、我々が反省のできない自己の作用というのは、右のような構成的原理(アプリオリ)そのものでなければならない。しかしなお一層深く考えてみれば、構成作用とかいうのも意識の対象として反省されたものは、すでに真の構成作用ということはできない。このような作用と心理的自我の作用の区別は相対的に過ぎないと考えることも出来る。真の構成作用は何らの意味においても反省することのできないものでなければならない。そして真に反省のできないものについては、我々は何事も言うことはできまい。反省のできない構成作用(真の主観)とはどのようなものだろうか。

二十四~二十五(反省の不可能)

二十四
 現今の哲学において考えられているように、我々の直接経験は一瞬の過去にも還ることのできない創造的進化であるとすれば、我々の知識の世界というのはある立場に立って、すなわちあるアプリオリ(経験に先立つ構成的原理)からこの経験を統一して見たものだ。勿論直接経験の世界と概念的知識の世界の関係については、後者(概念的知識の世界)を超越的と考えることもでき、また一層深く、知的作用そのものがすでに創造的進化であると考えることも出来るだろう。しかしこれらの議論はしばらく置き、とにかく様々な立脚地、すなわちアプリオリ(経験に先立つ構成的原理)によって様々な世界が成立すると考えることができる。数学的対象界のようなものを一つの世界となすには異論があるかもしれないが、自然科学的立場によって自然科学的世界ができ、歴史学的立場によって歴史学的世界ができ、芸術的立場によって芸術的世界ができるということができるだろう。そしてこのような様々な世界を成立させるものが、カントのいわゆる先験的主観の総合作用(純粋統覚?)でなければならない。我々が普通に心理的自己を、ある一群の経験の中心として、これを主観と考えるのも同様だ。このような主観とはどのようなものだろうか。無論(真の)主観は(上記で説明したように)反省のできないものでなければなるまい。しかし我々は明らかに対象界の知識と、対象界を成立させる統一作用(思惟作用など)の知識を区別することができるならば、このような区別はどこに求めるべきだろうか。例えば数学とか物理学とかの知識(対象界の知識)と、これらの知識そのものを反省した知識(対象界を成立させる統一作用の知識、この場合は思惟作用)との区別、フッサールの考えによって言えば、(対象界の知識と、)これらの知識の立場を除去して純現象学的に見た知識(作用の知識)の区別は、どこにあるか。
 フッサールによれば、トゥヴルドフスキーの考えのように作用、内容、対象は互いに区別すべきもので、その中で内容と作用は我々の体験し得るものだが、対象は体験のできないものだ。例えばいわゆる外界知覚において、具体的視覚の一部を成す色の能率(契機?)は、知覚作用の特徴や物の知覚的現象などとともに体験し得る意識内容だ。これに反し対象そのものは、たとえ知覚されても“体験された意識内容”ではない。またこの対象において知覚される“色の性質”もその通りだ(色の性質は対象であり、知覚されたとしても、体験される意識内容ではない)。内容と対象の区別は、被体験的か否かにあるので、これを見方の相違となすのは誤っているという。氏は進んでいわゆる内在的“内容”について、単なる意味的内容と、体験の一部を成す真の内在的内容を分かち、後者は実在的であるが意味的でないと言っている。後者は我々が対象化することのできないものだ。我々は色(意味的内容)を見ることはできるが、色の感覚(真の内在的内容)を見ることはできないというのだ【※氏が近頃「現象学年報」においてNoema(ノエマ)とNoesis(ノエシス)を分けているのはこの区別に相当するものだろう】。
※ノエマとノエシスは今後西田が多用する、西田哲学における重要概念となる。
氏はこのような区別をなすのみならず、さらに有意味体験(意味を有する体験、具体的体験)、すなわち氏のいわゆる作用について、その性質と質料ということを区別している。作用の性質とは、表象される、判断される、問われるなどという“対象的関係”を意味し、作用の質料とは、全くこれと異なった“対象的関係の変化”を意味するのだ。例えば表象作用というような同一の作用が、様々な対象に関係することができる。このような(対象の)変化が質料の変化だ。しかしなお一層精密に考えれば、質料というのは単なる対象的関係だけ(で定まるもの)ではない。同一の性質(対象的関係)を有し同一の対象(質料)に関係する作用であっても、その意味的本質において一致しないものがある。例えば等辺三角形の表象と等角三角形の表象は同一の性質(対象的関係)を有し、同一の対象(質料)に関係するということができるが、同一の内容(意味的本質)を有するということはできないのだ。フッサールのように分析してみれば、普通の心理学で作用というのは、氏の作用の性質(対象的関係)というものに相当するだろう。作用とはどのようなものであるかという問題は、作用の性質(対象的関係)とはどのようなものであるかということとなる。すなわち作用の質料(対象)と性質(対象的関係)の差異はどこにあるかという問題となるだろう。無論このようなことを論じる前に、具体的体験、すなわちフッサールの作用というようなものは、そのままの状態において反省することができるか否かという根本的問題を論じなくてはなるまい。フッサールは無雑作に物の世界は直接に体験することはできないが、意識の世界は直接に体験することができると言っている。勿論フッサールのいわゆる意識の世界というものは、単なる内証の世界(?)をいうので、氏もいわゆる物心両界の独断的区別に囚えられている訳ではない。
 それでは作用の性質(対象的関係)とはどのようなものだろうか。今しばらく精細なフッサールの分析に従ってみよう。フッサールは、ナトルプが我は音を聞くが、音を聞くことを聞かないと言うのに対し、我は一つの物、例えば一つの入物(いれもの)を見るが、我は我の感覚を見ない。この入物をどのような方向に置くも、我は同一のものを見る。しかし位置の変更に従って意識内容は変わらなければならない。体験される意識(内容)は色々に変わっても、同一の対象が知覚されるのだ。すなわち体験される内容と知覚される対象は同一でないのである。だがこのように体験される内容が変わっても、同一の対象を知覚するということが、また我の体験の領域に属している。すなわち意識内容は異なるも同一の意味において解せられるということが体験されるのだ。そしてこのような“同一の意識”が、すなわち作用だ。我々が知覚作用とか判断作用とかいうのは皆、このような意味の体験に外ならないのだ。作用の性質の様々な区別は、このような同一の意識の区別に基づくと解することができる。フッサールはまたブレンターノの、表象をすべての意味的体験の基となす説を評して、我々は表象することなくして判断することができないから、表象作用が一見判断作用の基となるように考えるが、実際は、判断作用とは表象作用を材料としてこれに判断作用の性質が加わるのではない。表象作用は表象作用として別にその質料と性質を持っているのだ。表象作用が判断作用の基となるように考えられるのは、二つの作用が同一の質料を有するということに過ぎない。どんな作用も具体的である以上は、質料と性質の両面を区別することができると言っている。氏は更に精密に対象と質料を区別して、対象というのはどこまでも作用(意味的体験)に超越的なものだ。これに反し質料とは作用(意味的体験)の成分だ。作用すなわち意味的体験の特徴は、対象に関係することであって、その(作用の)区別は対象との関係の仕方にあるとすれば、作用(意味的体験)の内容を定める質料は、この(対象との関係の)仕方も含んだものでなければならないと論じている。前にも言ったように、例えば等辺三角形と等角三角形という二つの表象は、同一の物(質料)を対象とする同一性質の作用だが、表象としての内容は互いに同一でないことは明らかだ(表象としての内容=質料は、対象との関係の仕方=作用の区別を含む)。
 作用(意味的体験)と性質(対象的関係)と質料(≒対象)の区別は右のように考えるとして、作用の性質(問われる、判断されるといった対象的関係)はどのようにして反省することができるだろうか。反省された作用(見た、判断した、など)はすでに作用そのものではない。フッサールは内的明瞭を以ってこれ(作用)を体験することができると言うが、この問題は果たしてそのように簡単なのだろうか。この派の思想の源とも見なすべきブレンターノの考えによれば、精神現象は「ある物の意識」であるのみならず、全ての精神現象そのものの意識だ。我々は表象を持つのみならず、表象の表象(精神現象そのものの意識=作用の意識)を持っているのだ。前者(表象)は一次的対象であり、後者(表象の表象=作用の意識)は二次的対象だ。そして氏は内的表象において、対象と表象自身が結合して一つの作用を成すこと、すなわち作用の反省が可能であることは、我々はこれを仮定しなければならないと言い、この二つのもの(対象と表象?)を分けて考えるのは、対象によって精神的作用を分かつからだ。すなわち一たびはこれ(対象)を物質的対象に関係して考え(対象?)、一たびはこれ(対象)を精神的現象に関係して考える(表象?)からだと言っている。ブレンターノは右のように、作用に対する反省の可能を自明としているが、フッサールに至ってもこの根本的思想においては変わりがないようだ。これはあるいは避けることのできない仮定であるかもしれないが、避けることができないならばできない所以をなお一層明らかにしておかなければならない。

二十五
 作用は反省することができるか否かの問題を後にして、まずフッサールのいわゆる作用の性質について考えてみよう。フッサールの“体験された内容”と“知覚された対象”を結合する“作用の体験”というものは、どのようなものだろうか。我々が一つの入物を様々な位置において見た時、その体験的内容は異なるにもかかわらず、これを一つの入物と見るのは何によるのだろうか。今これを私が「十八」において述べた、我々の直接経験は意識内容それ自身の発展であり、その自同的方面が客観的対象となり、その発展の方面が主観的作用となり、いわゆる意識内容というのは発展の過程を形成する材料に過ぎない、という考えと比較して論じてみよう。
 例えば「甲は甲である」という判断意識において、「甲」の自同的方面が客観的対象となり、「甲は甲である」という発展の方面が主観的作用となり、孤立的と考えられた主語「甲」というようなものがいわゆる意識内容と考えられる。しかもこの判断意識は一つの体験だ。一つの具体的作用(有意味体験)だ。今我々が一つの入物を種々の位置において見た時、その意識内容は異なるに関わらず、これを一つの入物として見る。この“同一の意識”がいわゆる視覚作用だ。この(視覚作用という)意識統一は判断意識(判断作用)のそれと異なるが故に、特殊な作用と見なすことができるのだ。シャップの言うように、知覚された窓の十字架は自らしっかりと重く見えるが、それは「これ(十字架)に伴う知識」によるのではない。(視覚作用による)特殊な直覚によるのだ。学者は物体が原子から成ることを信じるが、物体において原子を見ない(視覚作用という意識統一が働いていない)。人は砂糖の甘いことを知るが、砂糖において甘味を見ない(同上)。「見る」ということは「考える」ということと異なった「根本的意識」だ。普通の心理学では前者(見る=視覚作用)のみ与えられたものと考えるが、後者(考える=思惟作用)も同じく与えられたものだ。等辺三角形と等角三角形は同一であるというようなことは、思惟意識の統一によるのだ(思惟作用による意識統一により与えられたのだ)。もし右のように考えることができるならば、前に思惟について言ったことは直ちにすべての体験についても言うことができるではないだろうか。フッサールなどの有意味体験(作用)というものは、私のいわゆる“意味そのものの発展”とも言うべき直接経験だ。(有意味体験=作用は)意味即事実、事実即意味であるフィヒテの事行のようなものでなければならない。見る(視覚作用)というのは、色とか形とかいうものの自ずからなる発展だ。純粋視覚においては、かつて言ったように直線は直線と曲線の錯綜であり、青は黄を要求し紫は緑を要求するのだ。見るというのも、聞くというのも、このような意識内容そのものの発展とも言うべき事行であるとすれば、フッサールのいわゆる作用の性質(対象的関係)というものは、このような意識発展の相、すなわち創造的或物の性質(意識発展の相における性質)と考えることはできないだろうか。フッサールが知覚(作用)とか思惟(作用)とかいう作用の間に見る性質の相違は、創造的な先天的所与の相違と見ることも出来る。そして我々の直接経験は、ベルグソンの言うように創造的進化であるとするならば、創造的発展の相においてあるということは、直接経験の状態においてあるということで、ナトルプの、作用とは部分的内容を全体の統一(創造的発展)に結合する“仕方”に過ぎないという考えに一致することができるだろう。ボルツァーノ以来フッサールに至るまで、内容と対象の間に絶対的区別を主張しているのだが、私はむしろナトルプなどと同じくこの区別(内容と対象の区別)は相対的に過ぎないと考えたいと思うのだ。
 内容と対象を峻別する人々は、その例として等辺三角形と等角三角形は異なった意識内容だが、対象においては同一であるとか、また円という一つの対象を不変的曲率の線として表象することもでき、あるいはまた(x-a)2+(y-b)2=r2の線として表象することも出来るというようなことを挙げている。しかしこれらの例において意識を超越する対象(この場合、円)というのも、要するに意識内容それ自身の内面的統一ということを意味しているのではないだろうか。対象に対して内容というのは、単なる一つの対象の種々なる限定の仕方を意味しているのではないだろうか。内容と対象の差は、単に統一の相対的差異に過ぎないと考えることができる。例えば等辺三角形とか等角三角形とかいう意識内容は、その統一である対象に対しては内容というべきだろうが、更に特殊な意識内容から見れば、これらのもの(等辺三角形、等角三角形)も逆にその対象と見なすことも出来るだろう。様々な位置において見た入物の意識内容は、様々な瞬間における意識内容から見れば、更に対象と考えることもできるのだ。リップスなどはどこまでも内容と対象を区別すべきことを論じて、注意作用と思惟作用が異なることを主張し、後者(思惟作用)は前者(注意作用)の結果として生じるもので、あたかも「線の終点」とか「西洋小刀の鞘への躍入」とかいうようなものだ。前者(注意作用)には程度の差異というものがあるが、後者にはそのようなものはない。ある物(対象)が考えられるか、または考えられないかの何れかであると言っている。リップスの言うような区別は果たして何を意味したものだろうか。
 私は右の考えを「十六」において述べたコーヘンなどの連続原理によって考えてみたいと思う。マールブルク学派の言うところによれば、我々の意識は発展的だ。主観と客観の区別は、ナトルプの言うように相対的区別に過ぎない。ある一つの問題に対する答案は、その問題に対しては答案(客観的)であるが、さらにこの答案が問題(主観的)となるのだ。例えばある問題がある仮定の上において説明されたとすれば、この仮定は更に一層深いものから説明されなければならない。このようにして思惟が無限にその基に進み行くのが、コーヘンのいわゆる連続原理だ。そして純論理的に連続ということは、様々な概念をある一つの立場から統一することだ。解析幾何学の例によって言えば、円、楕円、双曲線、放物線等、それぞれ異なった概念ではあるが、尽く円錐曲線として同一の根本的原理から無限大、無限小の極限として統一することができるのだ。もし我々の意識がこのような連続的原理によって成立するものとすれば、μὴ ὄν(メー・オン、非存在、非有)を背景としてまとまったある一範囲の意識を維持する立脚地がいわゆる作用であって、これらの立場(作用)は連続原理によってさらに深い根本的原理から統一することができるのではないだろうか。いわゆる作用の性質(対象的関係)というのは、このような大きな立場(この場合、メーオンの方向)から見た小さな立場の性質であると考えることができる。メーオンの背景に尚一歩進んで反省してみたものが、作用の性質(対象的関係)であると考えることができる。円とか楕円とかいうのは、幾何学において論じられるように、それぞれ無限の性質を有する一つの発展的統一(創造的発展)であって、あたかも見るとか聞くとかいうような一つの作用とも考えるべきものだ。そして更に円錐曲線の根本原理から極大、極小として見たこれらのものの性質が、それぞれの作用の性質(対象的関係、この場合、円の性質、楕円の性質)となると考えることができる。見るとか聞くとかいうことも、我々の直接経験をある立場によって限定した一つの領域、すなわちフッサールのいわゆる一つの「領域」に過ぎないと思う。ある一範囲の意識が具体的経験の背景から離された時、それが部分的なるが為に、その内容は主観的と考えられる。しかしなお一歩μὴ ὄν(メー・オン)の背景の中に進んで基礎付けられた時、この経験はかえって客観的となる。詳しく言えばある一つの立場が問題として、更にその根源から証明された時、前に孤立して主観的と考えられたもの(問題となったある一つの立場)は、客観的に全体の上から基礎付けられたこととなる。すなわち問題として考えられた時、主観的であったものが、基礎付けられた時、客観的となるのだ。いわゆる作用とは、ある一つの意識の領域と、全体の具体的経験の連結だ(ある一つの意識の領域を客観的となすものだ)。意識内容は主観的と考えられても、作用はいつも客観的に考えられるのはこれによるのだ。色とか音とかいうようないわゆる二次的性質のものが意識内容として作用の中にあると考えられた時、すなわち(色や音などが)作用そのものの成分と考えられた時、(色や音が)実在的と考えられるのは、これらのものが全体の上における原状態において見られるためだろう。ボルツァーノなどが作用を超越するが故に客観的と考えている表象自体とか命題自体とかいうものは、その非実在的であるためかえって主観的と考え得るのだ。「意識において対象化されたもの」が真に客観的と考えられるのは、統一作用として働く時、すなわち作用としての場合だ。作用をその中(対象化されたものの中)に含んだ時だ。種々の円錐曲線(円、楕円、放物線など)もそれぞれの領域においては、円錐曲線という一般的具体者に対して主観的と考えられるだろうが、連続原理によって一般的具体者(円錐曲線)の上に統一された時、各々の領域は一般的具体者の上において基礎づけられて、客観的となる。等辺三角形と等角三角形は異なる意識内容ではあるが、対象においては同一であるという。しかし等辺三角形と等角三角形が同一であるというのは、これらの意味の中に含まれた必然の要求であって、いわゆる異なる内容というのは、同一である対象の必然的限定と見ることができる。

経験体系の連結

二十六~二十九(種々のアプリオリの統一・知識客観性の発展)


二十六
 私はマールブルク学派の人々が、解析幾何学において種々の円錐曲線を円錐曲線の根本的公式から極大、極小として統一するという例によって、連続原理の進行、換言すれば思惟体験における部分と全体を結合する過程を説明しようという考えについて、今少し考えてみよう。この考えは種々のアプリオリの統一を、極限概念によって考えることであって、これによって私の前節に述べた考えを一層明らかにすることができると思うのだ。
 微積分の問題は遠くその源をアルヒメデスに発し、ケプレルはアルヒメデスの考えに基づき「桶の体積測量」において、円はその中心を頂点となし、円周を底辺となす無限小の三角形から成立すると考えた。しかし今日から見れば、このような考えが粗雑であることは言うまでもない。仏人フェルマーが「極大及極小の方法」及び「切線の方法」を見出すに至って、初めて微分学の基礎が置かれたと言われる。円と多角形は元々異なった概念だ。多角形の辺長をいかに小にし、その辺数をいかに多くしても、多角形は依然として多角形たるを失わない。多角形はただその極限においてのみ、円と合することができるのだ。例えば普通の微分学において説かれるように、ある線をy=f(x)にて表すとすれば、この線の方向はその差商 Δy/Δx=f ( x + h ) − f ( x )/h によって表される。この線が直線であれば、この数はこの線がx軸との間に成す角の正切となるが、曲線であればその正割となる訳だ。しかしそれでは未だ真の曲線とは言えない。この差商が一つの極限価値を持つとき、即ちf(x)がxにおいて誘導を持つとき、この誘導は丁度曲線の方向を表すこととなるのだ。
 多角形と円は、点と線のように元々異なった概念だ。互いに異なった立場の上に立つ。すなわち互いに異なったアプリオリ(経験に先立つ構成的原理)によって構成された概念だ。我々の直覚の上から見ても、この二つの形は互いに相異なった直覚だ。我々の直覚においては、厳密な意味において連続的直線とか円とかいうものはないだろう。しかしこのように言えば、厳密なる意味において、点とか多角形とかいうものもない。真に我々の直覚における直線は、マックス・ラファエルが直線と曲線の錯綜というような、種々の可能性を含んだある物だろう。我々はいつでもこれを円とか線とかとして、必ずある立場から見ているのだ。いわゆる直覚とは概念の要素を混じたものでなければならない。だが多角形はその極限において円に移り行くことができる。点の集合は、その誘導集合、すなわちその極限点の集合と一致することによって、一つの連続(連続的直線)となる。このように一つの立場から一つの立場への移り行き、アプリオリとアプリオリを結合する極限概念とは、どのようなものだろうか。近代の数学において、連続の概念を明らかにして解析論に基礎を与えたものとして、まず指をデデキントとカントルの研究に屈しなければならない。連続を考えるには、先ず直覚的に与えられた全体(例えば、上で言う円錐曲線の根本的公式)というものがなければならない。すなわち全体の直覚というものが基礎とならなければならない。全体は部分(例えば、種々の円錐曲線)の結合ではない。かえって部分は全体を限定したものとして考えられるのだ。コーヘンが連続ということを、全体から部分に行く性質的統一、内包的大きさとして考えたのも、これによるのだろう。しかし厳密な意味において連続ということは、以前の解析家が考えたように、線のいかに小さな部分でも無限に分かつことができるということではない。無限小と零は同一ではない。極限点とは分かつことによって達することのできない点だ。点の集合がその極限において連続的直線に移り行き、多角形がその極限において円に移り行くには、新しい直覚がなければならない。極限の考えの根底には、新しい立場(アプリオリ)の直覚がなければならない。しかもこの新しい立場は前の立場とは無関係のものではなく、前の立場をその中に完全に包容したものでなければならない。ある一つの立場の究極するところ、新たな高次的立場が要求され、後者によって前者が包含されるのが極限の考えだ。極限点は到底到達することのできない点、導来(導来圏?)は高次的立場の集合だ。ここにはリップスの躍入、ベルグソンの躍進がなければならない。勿論点の集合とか多角形とかいうものは、それ自身の立場においては完全な一つの体系であって、別にそれ以上の立場を要求する必要はないとも言えるだろう。しかし我々の具体的体験は、抽象的体系の立場において満足していることはできない。抽象的思惟の背後に横たわる具体的体験、すなわち我々の生命そのものは、更に一層具体的な立場を要求するのだ。このようにして我々の思惟は無限に具体的に進むのだ。数学者が実在を説明するにあたって解析論を発見したのはこれによるのだ。この移り行きは私がかつて、論理から数理に移り行く場合に論じた動機と同一と考えることができるだろう。それだけでなく、一方から考えれば、順序点の集合とカントルのいわゆる完全集合は、順序という同一の概念の基礎の上に立ち、後者は前者の目的と考えることもできる。前者は順序作用の未完のもので、後者はその完成の状態と考えることもできる。多角形と円の間においても同様の考えを持つことができるだろう。単なる点の集合と順序は別の概念であるかもしれないが、すでに順序点の集合という一つの具体的体験においては、その要素は単なる要素ではない。意味を持っていると考えなければならない。その要素と結合の法則は、具体的な順序作用の両面であって、完全集合においてその全体がヘーゲルのいわゆる(※)即自且つ対自の状態に達することができるのだ。
※ 引用 即自、対自とは https://kotobank.jp/word/即自・対自・対他-1556692#goog_rewarded
ベルグソンはパリの写真を幾枚合わせてもパリそのものを知ることはできず、断続する位置の結合から運動そのものを組み立てることはできないというが、我々は極限概念によってこの移り行きを理解することができる。すなわち思惟と直観、抽象と具体の連結を考えることができると思う。
 私は「十九」において、連続的なものは事即行である創造的体系でなければならない。すなわちそれ自身の中に発展の動機を蔵し、自己を反省することが自己の存在であり、かつ発展である自覚的体系でなければならないと言った。数学上真に連続的なものにして、初めて極限を持つことができるのだ。極限点とは上にも言ったように我々が到底達することのできない点だ。無理数すなわち切断は、我々の到底到達することのできない理想点を示すものだ。一つの要求だ。これに反し有理数によって表される分離点は、我々が分かつことによって達することが可能と考えられる、いわゆる実在点だ。そして極限点をそれ自身の中に含む連続は、実にIdeal+Real(理想点+実在点)だ。すなわち具体者だ。我々の自己(真の主観)は、我々が反省によって到達することのできない極限点(理想点)だ。これに反し、一々の反省作用はいかに反省の上に反省し得るとしても、一々我々に実在的な作用の連続だ。すなわち有理数(実在点)だ。そして反省作用即自己である自覚、すなわちフィヒテのいわゆる事行はIdeal+Real(理想点+実在点)だ。このように考えてみれば、数学上における極限の考えも、反省が自己であると共に、反省によって到達することのできない自覚の特殊な一つの場合に過ぎないと考えることができる。我々の自己(真の主観)は自己を無限に反省することができると共に、また到底自己(真の主観)に達することのできない極限点だ。一つの連続を形成する極限点は、我々が到達することのできない点であると共に、単なる点ではなくコーヘンの言うように方向を含んだ点だ。いや、方向を含むが故に、すなわち自動的であるが故に、連続の極限点ということができるのだ。コーヘンが曲線の点を能生点(点を生み出す点)というのはこれによるのだろう。そして我々の自己もこれと同様の意味において能生点だ。働くということは時間上、甲現象が乙現象に先立つということではなく、内面的必然の発展が真に働くということであって、スピノーザのいうように本体は「それ自身にて存在しそれ自身にて理解されるもの」であるとすれば、かつて言ったように連続的なもの、すなわち極限を持つものは、己自身の中に作用(=行)を含むものだ。極限において事と行が合一するのだ。
 以上のように考えることができるとするならば、種々の円錐曲線を円錐曲線の根本的公式から極大、極小として統一するということは、線とか円とかそれぞれ独立な内面的発展の働きを、更に包括的な内面的発展の作用(根本的公式)から統一するということだ。そして様々な極限の意味が、いわゆる作用の性質となるのだ。例えばax2+2hxy+by2+2gx+2fy+c=0という一般的二次方程式において、h=0、a=bが円の立場であって、この特徴の理解が円という体験の性質となるのだ。多角形はいかにその辺を多くしても遂に円となることはできず、点の集合はいかに密であっても遂に線となることができないというように、今日の数学ではコーヘンなどの考えのように種々の円錐曲線が単純に互いに移り行くという風に考えることはできないだろう。それぞれの根底には達することのできない直観があると考えなければなるまい。しかしいわゆる円錐曲線はすべて二次方程式の曲線という具体的全体の中に含めて考えることができる。あたかも有理数によって表される点が連続的直線の中に含まれるのと同様だ。そして前に言ったように、各自の有する指示的意味が、各自の作用の性質となるのだ。例えば円、楕円及び放物線は、その焦点の距離の無限小、有限、無限大によって区別することができるが、焦点の距離という考えを除いてみれば、右の三曲線の性質は一致するのだ。これらの曲線の各自自覚的な能生点は、焦点の連続ということによって、一つの統一に結び付けることができる。各曲線の特徴が連続的な一つの体系の極限と考えることができるのだ。すなわちある一つの全体の限定として考えられるのだ。これを我々の自覚の事実に比べてみると、我々の一生は全体を通じて一つの自覚であるばかりでなく、時々刻々に独立の自覚だ。我々の自己は自己の統一だ。円錐曲線の各自が達することのできない各自独立の極限であるにもかかわらず、円錐曲線の公式によって統一されるのは、右と同様に考えることはできないだろうか。我々の経験も、その最も直接な具体的全体においては自覚的体系だ。部分部分が一々自覚的だ(自覚的=それ自身の中に発展の動機を蔵し、自己を反省することが自己の存在であり、かつ発展であるということ)。コーヘンの語を以って言えば、一々が能生点(点を生み出す点、極限点)だ。体系の体系(極限点)だ。我々が有意味体験の作用の性質というのは、このような自覚的体系の中における自覚体系の性質と見ることができるだろう。

二十七
 前節において私は種々のアプリオリの統一を極限概念によって考えようと試みた。多角形と円は元々異なった概念であるにも関わらず、円が多角形の極限として考えられ、円、楕円及び放物線はそれぞれ異なった概念であるにもかかわらず、円錐曲線の焦点の距離の極大極小によって互いに移り行くように、我々の経験の種々のアプリオリは、数学者のいわゆる極限概念と同様の考え方によって互いに相移り相結合することができないかと考えた。しかし右のような考えに対しては、知覚の対象としての円とか線とかいうものと、思惟の対象としての円とか線とかというものは、完全に異なったものだ。すなわち我々が直覚する円とか線とかいうものと、数学におけるそれらは全然別物であるという反対が起こるだろう。従って概念上における種々の曲線は、極限概念によって統一することができるとしても、これによって直覚におけるアプリオリの統一を考えることはできないと言うこともできる。
 我々の直覚する円とか線とかいうものと、数学上のそれらは完全に異なったものであるというのには、二つの理由があるだろう。一つは前節にも言ったように我々の直覚には数学者の言うような完全な連続的線とか円とかいうものはないということだ。まず幅のない線というものがあるはずはなく、いかに連続的と見えても極めて精密な顕微鏡で見れば不連続的であることを免れることはできず、またいかに正確な両脚規(コンパス)を用いても真に中心から等距離の円を描くことは不可能だろう。次にフッサールなどが主張するように、我々は一つの三角形を見、また考えると言うが、表象上の三角形と思想上の三角形は異なったものだ。質料においては同一であっても作用としては異なったものだ(表象作用と思惟作用は異なったものだ)。完全に異なった精神現象であると言うこともできる。シャップは形とか運動とか物とかいうものが、ほとんど色や音のように直覚されると言いつつも、「見て思う」と「判断して思う」は異なることを論じ、例えば陶器の欠片として見ていたものが、実際は豚の脂皮であったとすれば、始め陶器の欠片として見た時にも、このように見て(陶器の欠片として見て)このように考えたのだ。後の豚の脂皮として見た時にも、このように見て(豚の脂皮tとして見て)このように考えたのだ。しかし始めの場合は単に見て思ったのであって、後の場合は判断して思ったのだ。前の場合では我々は対象に対して単に関係している。すなわち陶器の欠片であるということと対象が一つの状態において立つが(見たものと思ったものが同一だが)、後の場合においてはこれ(陶器の欠片と見たもの)を認識し判断する(豚の脂皮と判断する)のであると言っている(対象が二つに分かれている)。
 まず第一の考えについて論じてみよう、なるほど我々のいわゆる直覚には、厳密な意味において連続的線とか円とかいうものはないだろう。まして幅のない線などというものはあるべき筈はない。しかし翻って考えてみて、それでは厳密な意味において不連続というものがあると言えば、また決してこのようなものもあるのではない。我々が一見連続と考えているものは、精細に見れば不連続であるかもしれないが、その断片はいかに小であってもやはり多少の延長を有する連続と見なければなるまい。要するに直覚は全然不連続でもなければまた全然連続でもない。前にも言ったように両者の錯綜だ。あるいは線の連続とか不連続とかいうような幾何学的性質はすでに概念上の事であって、真の直覚は色とか音とかいうものに過ぎないと考える人もあるかもしれない。しかし我々の具体的直覚は元々色もあり形もあるものだ。単なる色とか音とかいうものは直覚の対象でなく、かえって思惟の対象であるのだ。
 次に第二の議論について考えてみよう。見るということと考えるということは、異なった精神作用であって、我々は見たものを考えると言っても、その内容は直ちに同一と考えることはできない。例えば我々の「見た直線性」と「考えた直線性」は異なったものと言うこともできるのだろう。しかしまた翻って考えてみれば、いわゆる同一の対象を有すると考えられる表象、思惟、想像などの間には、何らかの意味において結合があると考えなければなるまい。それではこれらのものは、いかなる点において相同じく、いかなる点において相異なっているのだろうか。ブレンターノでは、表象がすべての精神現象の基礎として考えられている。我々が表象したものを考え、または欲するのであると言っている、このように考えれば表象というものが種々の精神作用の結合点となる。しかしフッサールはこれに反対し、すべての精神作用は質料と性質(対象的関係)に分かれ、表象作用にもこの両方面があり、思惟作用にもこの両方面がある。ブレンターノのいうように表象が思惟の質料となるのではなく、表象が思惟と質料を同じくするのであると論じている。この点に関しては、フッサールの考えの方がブレンターノよりも正しいのだろう。フッサールのように考えてみれば、種々の精神作用を結合するのは同一の質料であるということとなる。すなわち同一の質料を中心として、種々の作用が結合しているのだ。それではこの質料とはどのようなものだろうか。質料の同一とは何を意味するのだろうか。質料の同一とは、意味の同一ということだ。すなわち同一の対象に関係するということだ。永遠に不変な本質がその基だ。同一対象に関する思惟の内容と知覚の内容が異なるというのは、作用の性質(対象的関係)というようなものを独立の存在と考えることから来るのであって、全ての具体的経験、すなわちフッサールのいわゆる作用は質料と性質の両面を有し、二つの作用はただ性質(対象的関係)の方向においては異なっているが、質料の方向においては同一であると考えることができる。そして我々に直接な具体的経験においては、本質(対象の基となるもの)が実在的だ。作用は本質から成立するとすれば、二つの作用(思惟作用と知覚作用)は実在的に(本質的に)同一の要素を持つと考えることもできるだろう。無論フッサールなどはどこまでも超越的と内在的とを区別しているが、具体的経験には絶対に超越的なものもなく、絶対に内在的なものもない。このような区別は動的体験の左右というような区別に過ぎない。フッサールは(超越的な)「物」は無限に影を映じ、物の知識は不十分であるというが、(内在的な)心の知識であっても絶対に十分とは言えない。発展的経験の核(本質)が、フッサールのいわゆる同一の質料となるのだろう。
 我々が見る連続的線と数学的に考える連続的線は、完全に異なったものであると言われる。それだけでなく、太陽の表象は輝かないなどと主張される。しかし数学的に連続ということを考えるには、上にも言ったように与えられた全体の直覚というものがなければならない。また我々は視覚においてとにかく一種の連続を経験するのだ。実際に延長を見るのだ。絶対に不連続の経験というものはないのだ。運動ということについても、ベルグソンのいうように、我々は単に甲点から乙点へ手を動かすことによって、これ(運動)を内から直覚することができるのだ。このような連続とか運動とかいうものを、時間空間上に限定された個人的経験であるというような独断を除去して、純粋に現象学的に見たなら、数学上に考えられたそれらのものと何らの関係もないものだろうか。我々の知覚という事実を構成する連続の本質は、数学的思惟の対象となる連続の本質と同一のものではないだろうか。もし思惟の対象と知覚の対象の間には何らの交渉もないと言うならば、我々の経験は何故思惟の法則に従うと考えなければならないのか。知覚の予料(予想すること)はどのようにして可能となるか。私はカント学徒の考えるように、我々の知覚はかえって思惟によって構成されるものと考えざるを得ない。無論感官の証明と思惟の証明は同一ではない。数学者は直覚的図形を手段として幾何学の問題を考えることがあっても、直覚を以って証明の根拠となすことはできない。二等辺三角形の頂角を等分する線が、その底辺を等分するということは、尺度によって知る(感官の証明による)のではなく、幾何学的に(思惟により)証明されなければならない。しかし尺度によって二つの線を比較しその等、不等を定めると言うのは、もはや純然たる直覚によるのではない。すでに線そのものの中に意味を含んだものとして見ているのだ。勿論なお一歩進んで解析幾何学においてのように、我々はいわゆる直覚を離れて幾何学的性質を考えることもできる。連続的直線が実数の系列として考えられた時、いわゆる直覚的線は単なる符号に過ぎないと考えることもできる。しかし数の順序の基礎となる順序の本質(思惟対象の本質)と、アルヒメデスの公理が当てはまると見られる線の順序の本質(知覚対象の本質)の間には、何らの関係もないのだろうか。我々が極めて抽象的に数の順序を考え、その大小を比較する時、その根底には一つの直覚がなければならない。数の連続はこれによってのみ考えることができるのだ。我々が尺度によって直覚的に長さの大小を比較する時、その厳密と不厳密の論はしばらく置き、やはり同一の根本概念(本質)が働いているのではないだろうか。数学者は我々の直覚的直線は、アルヒメデスの公理に当てはまるものとして、初めて数学的に論じることができるという。しかしアルヒメデスの公理に当てはまらない線というものはどのようなものだろうか。それは果たして普通の心理学者の言うように、それ自身に延長性なき筋覚の集合というようなものだろうか。私は前に言ったように、このようなもの(この場合、アルヒメデスの公理に当てはまらない線)は心理学者によって構成された概念であって、実在的なものではないと思う。心理学者は心理的な感覚の強度と、物理的な刺激の強度は全く異なったものであると言う。しかし一層深く遡れば、感覚を強度的関係において考える時、その根本原理は物理現象の基となる根本概念と同一のものではないだろうか。物理現象も感官的経験を離れては何物もないのだ。直覚的延長と数学的延長の差異は、要するに(同じ本質を有するので)純粋と不純粋とか、厳密と不厳密とかの差異と考える外はないと思われる。例えば無限というようなことであっても、フィードレルの言うように、概念的世界における無限と純視覚の芸術界における無限は元々異なったものでもあろう。しかし一層深く考えてみれば、二種の無限の根底には、自己の中に自己を写す創造的体系の自己同一というような共通性を考えることができるだろう。あるいはこのような共通性は単なる類似にすぎないと言われるかもしれないが、同等(類似)の基にはかえって同一がなければならないと思う。太陽の表象は輝かないということも、太陽の表象が輝かないならば、太陽の知覚も輝くのではない。輝くものは太陽そのもの(本質)だ。これに反し太陽の表象も無内容な単なる表象ではなく、太陽の表象だ。その内容においては知覚のそれと同一なのだ。シャップは「見て思う」と「判断して思う」ということまでも区別するが、それは要するに一つの本質に対する脈絡の相違ではないだろうか。

二十八
 私は前節において、思惟の対象と直覚の対象、すなわち考えられたものと見られたものを区別する議論に対し、本質としては両者が同一なるべきことを論じた。今種々のアプリオリの移り行きを極限概念によって考えるにあたって、まず思惟と直覚の結合について考えてみようと思う。
 複素数(実数の組〈 a , b 〉を、虚数単位 i を使って a + bi と解し、これを一つの数と見た場合の呼び名)は従来直覚と結合することのできないものと考えられた。この数の理論に大功績のあるコーンすらそう考えていた。だがガウスが平面によってこれを表すことを明らかにしてから、これに直覚的可能性が与えられた。純粋数学の立場から言えば、これは単に応用に過ぎないと考えられるだろう。しかし認識論の立場から見て、知識の性質上どのような意味を有するだろうか。ハンケルによって数の体系の中に取り込まれた複素数が純粋の数の立場に止まるのと、それがガウスによって始められたように空間的直観に結合されることの間にどのような差異があるだろうか。後者においては前者に何物が加わるだろうか。コーヘンの語を以って言えば、思惟と意識の間に、どのような関係があるだろうか。勿論この種の結合は複素数と平面の結合において始まったわけではない。デカルトが解析幾何学を始めた時、すでにこの結合に基づいたのだ。
 コーヘンはその「純粋知識の論理」において「総体の判断」を論じるにあたり、「総体」を「多の統一」と考え、空間をその範疇(最も基本的な、認識論上の概念のこと)としている。空間において我々は有限と無限の統一、内と外の統一、流れるものの静止を見るのだ。要するに我々の経験の根底を形成する空間は、このような思惟の範疇だ。コーヘンが空間、時間を以って「方法」としたのは深い考え方であると思う。あるいは我々の見る空間はこのような思惟の対象ではないと言うかもしれない。しかし、「我が見る」ということによって、思惟的に構成された空間(抽象的な空間)はこのようなもの(動的な有限無限の統一)ではないかもしれないが、具体的な空間はそれ自身に動的な有限無限の統一でなければならない。フッサールも我々の具体的知覚の本質には無限に多様な知覚に移り行く可能性が含まれていると言っている。かつて「六」において論じたように、空間の同質性ということが自覚の相(発展の相)に基づくものであるとするならば、現前に見る具体的直線も自覚的なもの(発展的なもの)でなければならない。我々は直線性を見るのではなく、「真っすぐなもの」を見るのだ。いや見るということはこのような意識内容の発展をいうのだ。翻って数学的連続を見ると、その根底にはやはりこのような「全体」の直覚(発展的全体の直覚)がなければならない。「全体」の直覚があって数学的連続が成立することができるのだ。
 それでは純粋思惟の対象である数学的連続というようなものが、直覚的空間というようなものと結合することによって、何物を得るだろうか。純数学的立場から言えば、前者(数学的連続)はそれ自身に完全なものであって、後者(直覚的空間)によって何物も付加することはできないと考えられる。ガウスのように空間的直覚によって複素数を論じることは、今日の数学の要求に合わないと言われる。勿論直覚と結合するということが、心理学的分析の産物である(思惟によって抽象化され対象化された)感覚的性質と結合するという意味ならば、思惟は直覚と結合することによって何物も得ないだろう。思惟が直覚と結合することによって何物かを得るとするならば、それはどのような意味においてだろうか。
 直覚的線が実数の系列と一々意的対応に置かれるとか、複素数が平面の直覚と結合するとかいう場合においては、直覚との結合は数そのものの体系に何物も加えない。かえって我々の直覚は「知覚の予料」の公理(ある感覚が対象に関係づけられ、その対象の感覚であるという信念(思惟)を支えるものが、個々の感覚に先立つ「感覚一般」というアプリオリとして捉えられること)によって言われるように、思惟によって成立するということができる。このような場合においては、直覚の根底は数の体系の根底と同一だ。数学的連続はいわゆる直覚的直線が純化されたものに過ぎない。また数学において種々の公式が更に一般的な公式から統一されるとか、種々の物理学的法則がある一つの根本的法則によって統一されるというのは、これまで個々独立と考えられたもの(特殊的なもの)が、ある一つの一般的なものの中に包摂されることだ。この場合においても個々の中に含まれていた意味、換言すれば個々の思想を構成した根底的アプリオリの性質については、何らの変化もない。ただその進歩完成と見るべきだ。これらの場合と異なって、算術(計算の方法)と解析(微積分や級数の操作により関数などの性質を紐解く数学の分野)の関係のような場合においては、今日の数学では両者は互いに異なった根底の上に立つものと考えられている。解析には連続の公理が加わらなければならないと考えられている。勿論、両者ともに数の体系であって、実数の体系の中に有理数も無理数も含まれるのだが、両者の体系は異なったもので、一つは分離点の集合であり、一つは切断の集合だ。実数の体系の中に有理数が含まれるとしても、それは算術的全体の要素としてではなく、解析的全体の要素としてだ。すなわち全く異なった意味を持つと考えなければならない。新実在論者は部分は全体から独立であるかのように言うが、1,2,3...ということでもこれを算術的に考えたのと解析的に考えたのは同一とは言えまい。そして何らかの意味において全体がなくては何物も考えることはできない。このように二つのものが異なったアプリオリの上に立つに関わらず、その一つがその他の中に部分として統一されるということができるとすれば、それはどのような意味においてだろうか。無論、たとえ両者が相異なった立場の上に立つものとしても、両者のアプリオリはともに量という同一の基礎を有するものであって、後者(解析)は前者(算術)の完成と考えることができる。連続というのは数の系列の完成と見ることもできる【現今の数学者はこのような言を承認しないかもしれないが、認識論上の意味において】。連続の公理は量に対して偶然的に外から与えられたものではなく、その中(量)から要求されたものと見ることができる。量という概念そのものの要求から起こると考えることができる。すなわち潜在的であったものが顕現的となったと考えることができる。しかし今日の数学者の考えるように、両者を異なった基礎の上に立つものとして両者の関係を考えるとすれば、私は知識体系の性質というものによってこれ(量と連続の公理の関係)を考える外はないと思う。知識の目的が客観的ということにあるので、主観客観の合一ということがその(知識の)理想であるとすれば、単なる形式的な抽象的な知識はそれだけ不完全(主観的)と言わなければならない。こういう立場から見れば連続的全体は不連続的全体に比べて、一層具体的(客観的)と言わなければならない。かつて言ったように、それ自身にて連続的な自覚的体系は実在そのものを表すものであって、不連続的なものは依他的であり主観的だ。後者(不連続的全体)においては主観と客観が分かれているが、前者(連続的全体、自覚的体系)においては(主客が)合一しているのだ。すなわち前者(連続的全体、自覚的体系)は分裂をそれ自身の中に含む統一であるということができる。これと同様の意味において、思惟の対象と直覚の対象の結合、すなわち純数学的連続と直覚的線の結合も考えることができないだろうか。

二十九
 算術と解析の関係は右に述べたようなものであって、数の体系は有理数と共に無理数を取り入れることによって連続を表すことができ、そして実在(連続)を数学的に取り扱うことができる。算術と解析は純数学的立場からは互いに別物であるとしても、認識論から見て後者(解析)は一層具体的であるということができる。更に深くこれらのものの成立の根本に立ち還って考えてみると、数の成立の根底にはリッケルトのいわゆる同質的媒介者のようなものがあり、このような同質的媒介者の基にはまた自己自身を反省する自覚的同一があるとすれば、自覚そのものを具体的に言い表す実数の体系は、単なる有理数の体系より一層完全な数の体系ということができるだろう。後者(有理数の体系)は自覚的体系の消極的な表現であって、前者(実数の体系)はその積極的な具体的な表現であるということもできるだろう。なお一層深く考えてみれば、数が実在(連続)を表すというよりも、むしろ実在(連続)は数だ。有理数的実在(連続)は実数的実在(連続)の抽象的一面と見なすこともできる。右のように有理数と実数というような純思想間の関係において考えられたことが、思惟といわゆる直覚の結合についても考えることができないだろうか。
 思惟と経験の関係については色々に考えられるだろうが、普通には前者(思惟)は抽象的で後者(経験)は具体的と考えられ、前者が後者と結合することによって客観的真理となると考えられている。カントも純粋悟性概念は、先験的直覚と結合されただけでは数学的知識のように未だ知識とは言えない、純粋悟性概念はただ、経験的直観と結合することによって、経験すなわち客観的知識となることができるのであると言っている。それではこのような思惟と経験の結合は、思惟そのものに何物を加えるのだろうか。この場合において、往々、感覚的内容そのものが思惟に具体性を与えると考えられている。しかし感覚的内容そのものが思惟に何らかの客観性を与えるものとは考えられない。単なる感覚的内容はボルツァーノのいわゆる表象自体というようなものであって、客観的知識の体系において何らの権利を要求することはできない。コーヘンの言うように(感覚的内容が)内包量の原理に当てはまって、初めて知識体系の中に客観性を要求することができるのだ。しかしこのように考えてみると、我々は再び深い疑問に陥らなければならない。知識に客観性を与えるものは思惟だ。しかも感覚的内容を離れた単なる思惟は主観的だ。カントのいわゆる直覚なき思惟は空虚であると言わなければならない。この矛盾(知識に客観性を与えるものは思惟だが、感覚的内容を離れた思惟は主観的であり、直覚なき思惟は空虚で、知識に客観性を与えることができないという矛盾)はどのようにして解決することができるだろうか。この矛盾を解決する途はただ一つあるのみだ。すなわちヘーゲルの言ったように思惟即有、有即思惟(事行)という外にない。マールブルク学派もこの点においては同様だ。ただ私はこれらの人々と議論の出立点を異にしたいと思うのだ。私は従来の合理主義のように、思惟というものから出立しないで、与えられた経験というようなものから出立したいと思う。コーヘンは与えられたものは思惟によって要求されたものであるという。しかしそれは思惟そのものから起こるというよりも、思惟即経験であるが故に、このような要求が起こるのだろう。その要求は単にὄν(オン。存在。メー・オンの対義語。有理数に相当)から起こるのではなく、ὄν+μὴ ὄν(オン+メー・オン。存在+非存在、無。メー・オンは無理数に相当)の全体(実数=連続=実在に相当)から起こるのではないだろうか。もし単に理性(≒思惟)から(与えられたものに対する要求が)起こるということを言うことが可能ならば、同一の権利を以って非理性(≒非思惟)からも(与えられたものに対する要求が)起こると言うことができるだろう。真に要求するものは理性(≒思惟)にあらず、非理性(≒非思惟)にもあらず、理性即非理性、オン即メーオン、経験即思惟である純粋活動(内面的発展である経験体系の発展的全体)でなければなるまい。このような意味において我々の背後には何時でも全体がある。ヤコブ・ベーメの言ったように、我々の立つ所、行く所そこに神があると言うことができる。かつて数理と論理の関係を論じた場合に言ったように、論理が数理を要求するのではない。しかし論理を成立させる背後に、数理を成立させるものが潜んでいるのだ。「甲は甲である」という(論理的)自己同一を考えさせる根底を明らかにすれば、それは数理の基である同質的媒介者でなければならない。こういう意味において論理が数理を要求するのだ(論理の発展が数理になるのだ)。正しく言えば論理プラス数理の全体がこれを要求するのだ。すなわち知識そのものの性質である客観性がこれ(この場合数理)を要求するのだ。価値(質)の中には存在(量)があり、存在(量)の中には価値(質)がある。両者(価値と存在、質と量)の統一が客観性であって、両者互いに相要求するのだ。あるいはこのような要求は感覚とか感情とかいう様なものに過ぎないというでもあろう。しかし今日の心理学での感覚とか感情とかいう語は、いずれもこれ(要求)を言い表すのに適しない。感覚とは考えられた(思惟によって抽象化された)知識の内容、感情とは抽象された(対象化された)苦楽の意識内容に過ぎない。ここで要求というのは、哲学的なものだ。具体的なものだ(思惟などによって対象化されないものだ)。心理学者の感覚とか感情とかいうのは、その一面(具体的なものの一面)を抽象したものに過ぎない。またこの要求は普通の意志と同一視することもできない。かえっていわゆる意志の根底とも考えるべきものだ。
 数理は、論理に対して与えられたものとして、考えられるべく要求する。論理が客観的となるには数理を取り入れなければならない。この要求は、論理プラス数理の全体から起こって来るのだ。数の基礎は経験論者の言うように、経験によって外から与えられるのではない。このような議論は事実(経験)の問題と価値の問題を混じたものだ。無論、抽象的論理(思惟によって抽象化され対象化された論理)は数理を要求しない。しかし考えられたものは、考える作用を仮定しなければならない。カントのいわゆる対象は、総合作用を仮定しなければならない。論理の背景となる具体者は、論理そのものの反省を要求する。フッサールの語を借りて言えば、論理の立場の除去を要求する。これがコーヘンのいわゆる要求だ。もし論理学が数学を仮定すると言えば大きな誤りだろうが、実在的なものの知識としては、前者(論理)が後者(数理)を要求するのだ。知識の性質(客観性)が実在と関係がないと言うならばとにかく、そうでないのであれば、知識の性質がこれ(実在=連続的な自覚的体系)を要求するのだ。この意味において数理は論理の極限だ。無論この実在というのは、超越的実在(超越的物自体)という意味ではない。知識が実在の知識となる(この場合、論理が数理となる)とは、カント学派の意味において知識が客観的となるということだ。更に適当に言えば、自覚的体系となるということだ。右のような要求は、一種の感覚とか感情とかいう形において、何時でも我々の背後に従っている。我々の背後に何時でも一種の無意識(要求)が影のように随っている。しかしこれを心理的に感覚とか感情とか無意識とか言ってしまえば、大きな誤りだ。それは先験的な(経験に先立つ)感覚、感情、無意識だ。否むしろ具体的な感覚、感情、無意識と言った方がいい。要するに一種の宗教的感情だ。正しく言えば未だ感情とも感覚とも名付けることができないものだ。ここに我々の知識と実在(連続=自覚的体系)の接触点がある。ベルグソンのエラン・ヴィタールの先端がある。我々の知識が実在に接触していくのは、この点から進んで行くのだ。心理学者は感情を苦楽の二種に分かち、一々の内容に一々異なった感情の性質が伴うと言う。しかしこれは同一の内容を一度は知識として考え、一度は感情として考えたのに過ぎない。具体的にはただ一つの生きた意識があるのみだ。心理学者はこれを無意識とでも言うだろう。しかしこれは具体的内容を有する無意識だ。このような(具体的)意識は、抽象的対象のみを考える自然科学的心理学の取り扱うべき対象ではない。
 真に直接で具体的な空間的直覚は、心理学者の言うような眼筋運動から起こる延長の感覚というようなものでもなければ、また数学者が考えるような純粋思惟の対象である連続というようなものでもない。右に言ったような意味の具体的意識だ。すなわちὄν+ μὴ ὄν(オン+メー・オン)だ。数学者は一方に実数の連続というものを考え、一方に直覚的線というものを考え、後者(直覚的線)がアルヒメデスの公理に当てはまるものとして、数学的に取り扱われるという。すなわち両者の間に一々意的対応があると考える。そして実数の体系が幾何学的に応用されるか否かは、数そのものには何らの関係もない。両者の対応は単に偶然的と考えている。しかし私の考えでは、純正数学からはこのように考えるのが当然でもあろうが、認識論から見て数理が直覚に当てはまるということは、そのように無意義なことだろうか。ちょかっく的空間が数学的に考えられるというのは、地理を地図に表すというような偶然的関係ではない。数学的思惟は直覚的空間に対して構成的意義を持っているのだ。数理が直覚に応用されるというのは、非思惟的なものに応用されるのではなく、コーヘンの言うように直覚は思惟によって要求されたものであるが故に、直覚が思惟によって予料されるのだ。我々は線の直覚において、実にこの要求(思惟から直覚への発展)を見ているのだ。この要求は一方から見れば思惟の要求であって、一方から見れば経験内容の要求であるということができる。我々が直接に感じる直線(直覚的直線)とは、このような先験的感覚(=思惟の要求、経験内容の要求)だ。心理学者の考えるような直線性は、純粋思惟の直線(数学的直線)と同じく、その抽象された(思惟によって対象化された)一面に過ぎない。我々が直線を見ると言うのは元々この先験的感覚(要求)を意識することだ。否、この要求が我々の具体的意識だ。我々が眼で線を見るとか手の運動によって線を感じるとかいうことが、右のような意識(先験的感覚、要求)が視覚的内容とか触覚的内容とかいうものと結合されているということに過ぎない。数学が幾何に応用され解析幾何学のようなものが成立するというのは、我々がこの先験的感覚(要求)の基に還って見るということだろう。互いに異なった独立なものが偶然的に結合するのではない。無限の μὴ ὄν(メー・オン)を包容する具体的体系に還って見ることだ。ここにおいて意識内容的な直線性は客観的実在性を得る(数学的直線と見なされる)と共に、数学的直線もまた一種の主観的実在性を得ることとなる(一方から見れば解析幾何学の立場がより客観的であり、数学的直線の立場は相対的に主観的である)。前者(意識内容的な直線性)は肉体を得、後者は精神を得る。すなわち一つの具体的生命を持ったものができる。空間的知覚はこのような(※)エラン・ヴィタールである。
※ 引用 エラン・ヴィタールとは
https://kotobank.jp/word/エラン・ビタール-37515#goog_rewarded
私は数学が幾何と結びつけられるということは、数学が工学に応用されるということと同一ではないと思う。後者(工学)のような場合は完全に他の目的のために用いられるのだろうが、前者(幾何学)においては、知識の目的がこれ(幾何学)を要求するのだ。知識の客観性がこれを要求するのだ。算術から解析に移ったように、数学が幾何に移るのだ。解析の場合では分離数を成立させる自覚の体系がこれを要求すると考えることができるが、幾何の場合ではこのような単なる無内容な自覚の体系ではなく、内容的な一層具体的な自覚の体系(数学)がこれ(幾何)を要求するのだ。知識の目的が客観的となることであって、客観的となるということは具体的経験に近づくということであるならば、数学から幾何に移るのは知識のそのもの内面的目的がこれを要求するということができる。
 コーヘンの「知覚の予料」ということを、数が幾何学に応用されるという場合に当たって考えてみると、数学的連続が直線的線を予料するのだ。思惟の方から言えば、思惟的連続が直線的線を要求すると言えるだろう。与えられたものは要求されたものであるということができるだろう。しかし我々が知覚を予料し得るのは、直覚そのものが自覚的体系であって、一つの連続体であるが故だ。思惟によって知覚が予料されるというよりも、むしろ先験的感覚(要求)が己自身を発展して行くと言うべきだろう。抽象的思惟の体系はそれ自身において独立なものではない。抽象的思惟の体系は、具体的な直接経験の体系上において意味を持ったものだ。直接経験の体系と思惟の体系の結合点が「意識状態」だ。数学的連続が具体的経験の体系に触れた所が“直線性の意識”と考えることができる。ここに我々の感覚作用があり、またいわゆる感覚があるのだ。フィヒテの自覚というようなものに内容を入れて考えると、ベルグソンの純粋持続というようなものとなる。知覚の予料ということは、主観が客観を予料するのではなく、具体的な自覚的体系がそれ自身を発展し行くことだ。思惟の体系が経験の体系に結合するというのは、コーヘンのいわゆる連続の原理によってその基(思惟の体系)に還り行くことであり、かくその基に還り行くということは大なる知識体系の発展だ。この発展の要求が先験的感覚として現れるのだ。この発展が真の時だ。コーヘンも「予料は時の特徴である」と言っている。我々の意識はこのような体系(思惟の体系と経験の体系)の接触点であるが故に、意識現象が時間的であると考えなくてはならないのだろう。コーヘンの言うように意識は「可能の様式」に当たるのだ(?)。しかしこれらの点は後に論じるとして、今一度数学と幾何の結合、すなわち解析幾何学が認識論上どのような意味を有するかを考えてみたいと思う。

三十~三十二(数から空間への発展)


三十
 分離的な算術数と解析の基である連続数は、思惟対象としては何処までも別物だろうが、連続は不連続に対して考えることができ、不連続は連続に対して考えることができる。この両者は互いに相仮定しなければならない。すなわち相関的だ。そしてこのように互いに相仮定しなければならないのは、(連続と不連続が)思惟の分かつことのできない両面であるが故だ。この両者(連続と不連続)を単に思惟の対象として見る数学者には、両者は全く別物であるかもしれないが、現象学的には両者の間には必然の関係があると言わなければならない。これと同様の関係を、数と幾何学的空間の間においても考えることができないだろうか(数と幾何学的空間は思惟の分かつことのできない両面であると考えることは出来ないだろうか)。我々の真の空間的直覚は、前に言ったように一つの先験的感覚(要求)というようなものだ。このような先験的感覚はどのようなものだろうか。
 空間知覚の本質を明らかにするためには、まず純粋な幾何学的空間とはどのようなものかを考えて見なければならない。純粋空間(純粋な幾何学的空間)とはどのようなものだろうか。純粋空間というものを明らかにするためには、一方において経験的要素の混入を防ぐのみならず、一方において厳密に「大きさ」の要素も除去しなければならない。数千年来自明の真理とまで信じられたユークリッドの幾何学がこれらの点において不厳密であったことは、近代の非ユークリッド幾何学の発展によって証明された。ユークリッドの平行線の公準は、我々のいわゆる経験界においてのみ妥当であって、必ずしも論理的に必然なものではない。また普通の幾何学の中には多く「大きさ」の考えを混入している。これらの不純なものを尽く除去して考えてみると、幾何学の絶対的所与は直線、平面、角というようなものの外にない。スタウトの射影幾何学で考えられるように、幾何学の根本的概念は点、直線、平面というようなものとならなければならない。ラッセルは氏の「幾何学の基礎」において、空間的関係の項というものを点と考え、二つの項によって定められた関係を直線と考え、射影幾何学(射影と切断とを基本操作として図形の性質を研究する幾何学)の根本的公理として次のようなことを挙げている。一つには、我々が空間の異なった部分を区別することはできるが、空間の総ての部分が相似であって、単に“They lie outside one another(それらはお互いの外に横たわっている)”ということによってのみ区別される。二つには、空間は連続的で無限に分かつことができる。そしてこのように無限に分かたれた結果、すなわち延長の零が点である。三つには、いかなる二点でも一つの唯一の形、すなわち直線を定め、いかなる三点でも一つの唯一の形、すなわち平面を定める。四点はまた一つの形(すなわち立方体)を、五点はまた一つの形を定め、このようにして多次元の形に進むことができる。しかしこの進行は無限であることはできない。なぜなら無限の次元を定めるということは不可能であるからだ。以上の公理は数学的には不厳密であるかもしれないが、まず大体において射影幾何学に必要な基礎を含むものと見てよいだろう。ラッセルはこれらの公理の根本的概念として、外界性の形式ということを考えている。空間的関係の基礎であるこの外界性の形式は、完全に内容的差別から抽象された形式だ。すなわち純粋外界性だ(?)。これ故に純幾何学的意味において、位置ということは完全に相対的でなければならない。すなわち位置の相対性という根本的公準が出てくる。そして位置の相対性ということは、直ちに一方において同質性ということを含むこととなる。なぜなら純粋に同質的でなければ、位置の相対性ということは出来ないのだ。右の二つのこと(位置の相対性、同質性)から無限的可分性ということを考えることができる。すなわち一つの関係の中に無限に同様の関係を考えていくことができるのだ。それでは方向という考えはどのようにして出てくるかと言えば、一つの位置は他の位置との関係においてのみ定めることができ、そしてこの関係(一つの位置と他の位置の関係)が方向となるののだ。しかしこのように位置を定め得るには、その関係の数は有限でなければならない。無限の関係からは一つの位置を定めることは出来ないのだ。ただし三次元というようなことは単に経験から来ったものであって、純粋空間においては何らの意味も持たないのは言うまでもない。
 右のようにラッセルが幾何学的公理の根本概念として考えている外界性の形式とか、純粋外界性とかいうのは、ヘーゲルが「自然哲学」において、空間は自然の自己外存在である。それで(空間は)完全に観念上の並列であるということと同意義と解することができる。そして自己外存在とか観念上の並列とかいうことは、静的統一の意義を含んでいなければならない。関係を翻し得るということ(同質性)を含んでいなければならない。すなわち同時存在の意味(空間において同時に存在するという意)がなければならないと思う。ここに時間と空間の区別がある。コーヘンは「数学の判断」を論じて、一から多に進み、そしてこの両者の総合として、総体というものを考えている。多は単なる一の無限の列だ。終結を持たない。これに反し総体は系列の完成だ。すなわち総括の概念だ。多数性においては無限は数え尽くすことは出来ないが、総体性においては無限を統一的に考えることができる。すなわち積極的に考えることができる。その単位は極限だ。これにおいて無限的求和法の無尽蔵力(尽きない力)が顕われる。多数性と総体性を右のように考えてみると、時間は前者(多数性)であり、空間は後者(総体性)だ。コーヘンの言うところによれば、時間は混沌から数によって純粋思惟のコスモス(秩序ある世界)を作るが、その内容はなお完全に内面的であることを免れない。空間はこれに反し内外の必然的相関を表すのだ。終極なき相対的時間を、その転変の運命(多数性)から救うものは空間(総体性)であるのだ。
 いわゆる経験の混合を避け、また厳密に「大きさ」の考えを除去した射影幾何学における純粋空間の概念が右に言ったようなものとするならば、このような純粋空間は認識論上、どのような位置と意味を有するのだろうか。解析幾何学においてのように、数の体系が幾何学的空間に応用されるということは、知識の発展上どのような意義を有するだろうか。私は空間的直覚の基である同時存在ということは、自覚的体系の欠くことのできない一面であると思う。「甲は甲である」という自同律の判断は、主語の「甲」と客語の「甲」とその位置を交換し得るということ、すなわち主語の「甲」と客語の「甲」の同時存在を意味するのだ。リッケルトのいわゆる同質的媒介者として1=1の成立の基であるものは、これ(同時存在)だ。無論ここに同時というのも、いわゆる時間上の同時を意味するのではない。単にある一つの関係を翻し得ること(同質性)を意味するに過ぎない。「甲は甲である」という自己同一は、一面から見ればこのような関係を翻し得るということ(同質性)を意味するのだ。このような自覚的体系(論理の体系)が一方において純粋時間というようなものの基礎(数理の体系)となると共に、一方においてはラッセルの外界性の形式というような純粋空間の基礎となるのだ。時間空間の先験性はこれ(論理という自覚的体系)に基づくのだ。それでは数の系列すなわち純粋時間というようなものと、純粋空間の区別はどこにあるだろうか。数すなわち時間はコーヘンの言うように終結なき相対であり、流動であり、不定である。数は自覚的無限である進行を表すと考えることができる。空間はこれに反し、関係の限定だ。無限な関係を成立させる内面的統一(自覚的体系の無限な内面的発展)の積極的顕現だ。自覚(的体系)の積極的顕現だ。二点によって一つの直線を定めるというのは、終結なき相対の中について一つの関係を限定することだ。ラッセルの言うように点は関係の項に過ぎない。二つの点によって定められた関係が直線で、三つの点によって定められた関係が平面だ。ラッセルの言うように空間の次元の数は有限でなければならないということも、全体の限定ということが空間に欠くことのできない性質であるからだ。我々の自覚は、反省即行為である無限の進行(時間)であると共に、一方においては無限の限定(空間)を要求するのだ。ここに自覚の矛盾性と共にその創造的動作である、絶対的実在性がある。時間は前の一方面(創造)を顕わし、空間は後の一方面(実在性)を顕わすのだ。空間はコーヘンの言うように定積分だ。推論式の根底に横たわる一般者とも見ることができる。空間は数とか純粋時間とかいうものに対して偶然的に加わったものではない。数の系列とか時間とかいうものの成立には、その根底に何らかの統一が仮定されなければならない。その統一が積極的に顕れたものが空間だ。あたかも分離数を考えるには連続が仮定されなければならなかったように、転化的な数とか時間とかを考えるには統一的空間が仮定されなければならなかったのだ。勿論純粋に対象のみを考える数学の立場から言えば、分離数と連続数が異なるように、数の系列と空間は相異なるものだろう。しかし前者(数の系列)において連続が主体として働いていたように、後者(空間)においては空間が主体として働いているのだ。この意味において数の体系から空間に進むのは、分離数から連続数に進むのと同じく、客観的知識の完成と言うことができる。抽象(数の体系)からその根底である具体(空間)に進むのであると言うことができるだろう。

三十一
 数学者の立場からは数の系列と幾何学的直線は相異なったものであって、数の系列が直線に対応するか否かは、数そのものに何らの関係がないということができるのだろう。しかし認識論上から言えば、数の体系が幾何学的空間と結合するのは、抽象から具体に進む(という)知識の客観性の要求と見ることができる。この要求はどのようなものだろうか。前に転化的数の系列の背後に、すでに統一的空間が仮定されていなければならないと言った。この統一はどのような性質のものだろうか。数の体系がそれ自身に独立で完全なものであるとするなら、このような(空間という)統一が仮定されなければならないとしても、この統一が特に新しい範疇として現れなければならない必要はないとも考えられる。前にも言ったように、新たな範疇の発展は単なるὄν(オン。存在)の要求によるのではなく、ὄν+μὴ ὄν(オン+メー・オン)の全体の上に求めてみなければならない。数の系列の根底として、後に空間的直覚として積極的に顕われるべき統一は、それ自身に独立したものではなく、この全体を背景として立つものでなければならない。この場合における真の主観は、単なる数の統一ではなく、数の統一を要素として包容する一種の連続体でなければならない。分離数(ὄν存在。オンに相当)を対象として考える背後に連続体(ὄν+μὴ ὄνオン+メー・オンに相当)が主体として横たわり、その(連続体の)全体が実数の体系として現れ来るように、数の統一を対象として考える背後には、すでにこの統一の統一である一種の連続体(ὄν+μὴ ὄν)が横たわり、それが積極的に現れて空間的直覚となるのだ。空間は様々な次元の連続だ。空間的統一は時間的統一、すなわち数の統一に比べて、あたかも無理数が有理数に対するような高次的統一だ。ここには新たな一種の直覚がなければならない。新たな一種のエラン・ヴィタール(生命の飛躍)がなければならない。無理数が有理数の極限であるように、空間は時間の極限だ。無論数学者は極限という語をこのような意義に用いることを承認しないかもしれないが、前にも言ったように、数学者のいわゆる極限というのは、自覚的体系の一つの特殊な場合に過ぎない。要素の各々を自覚的体系と見なすべきものの統一(前に挙げられた、円錐曲線の根本的公式のようなもの)が空間的関係と考えることができる。ラッセルの純粋外界性というのは、純粋時間すなわち数の体系をその要素として含む一つの自覚的体系でなければならない。
 遡って論理的と数理的の関係から考えてみれば、「甲は甲である」ということは、一般的なものが己自身を限定することであり、流動的なものが己自身を止めて見ることであり、理想的なものが現実的となることだ。すなわち自己が己自身を反省することだ。自同律の判断は、自己が己自身を限定する作用だ。この場合において、我はヘーゲルのいわゆる関自(自己自身への関係?)の状態においてある。その対象は純性質的だ【私が個々に我というのは、純粋思惟というようなもの(純論理的判断の意識のようなもの)である】。右のように「甲」を定立することは「甲」を他と区別することだ。そしてその内容が完全に無内容な時、区別と定立は一つの作用となる。これを対象について言えば、ある物と他物が純粋思惟の対象として完全に無内容である時、これを背後の具体的全体の立場から統一して反省してみたものが、自然数の「一」である。純性質的対象の動的方向(発展的方向)が論理的判断であり、後者の静的方面が前者(対象)である。数学的対象では、その動的方面はいわゆる純粋想像作用であると言わなければならない。肯定判断を翻して見るのが想像作用だ。そして後者の対象がすなわち数だ。このように対象と作用は相関的であると言うことができる。純粋に認識対象のみを考えようとする公理説の立場から見れば、論理的対象と数理的対象は異なるものと考えられるだろう。しかし具体的体験の上から見れば、その間に右のような(論理的なものが内面的に発展したものが数理的となるという)必然的関係があると考えなければなるまい。いわゆる論理派の主張するように、対象と作用を厳密に区別して考えてみれば、純論理的判断の対象である「ある物」というようなものも判断作用を超越して、これ(作用)と何らの関係ないものと考えることもできるだろう。しかし判断作用の体験を離れた、純論理的対象であるリッケルトのいわゆる「ある物」というようなものは、どのようなものだろうか。「赤は赤である」というように何らかの内容を入れてみれば、内容と形式の区別ができ「赤」という表象自体は判断の形式に対して無関係と考えることもできるだろう。しかし完全に無内容な純論理的判断においては、判断作用そのものを離れてその(無内容な)対象の意味を考えることは出来ない。肯定判断の対象は、肯定ということ以外に何物もないのだ。ここでは意味と作用が一つだ。すなわち意識内容がそれ自身を維持するというに過ぎない。性質なきものの性質は、単に性質と言う外に何物もない。このような純粋な肯定作用、あるいは純粋な「ある物」は、必然的に区別作用あるいは「他物」を含む。肯定も否定も共に無内容な時、すなわち「ある物」も「他物」も共に完全に無内容な時、地位の交換ができ、これを具体的全体の立場から統一反省して、「一」が出てくるのだ。ここではコーヘンの言うように、思惟そのものがその内容(「一」)を生じるのだ。またヘーゲルの言うように、すでに概念の中に含まれていたものが措定されるのだ。無論これらの範疇の発展についてはなお精密に論じなければならないのだが、地位交換の可能によって「一」ができるということは、自己が自己を反省して現実の自己を超越することによって(自己が自己自身により内面的に発展することによって)、自己の中に独立な自己の肖像(一)を見るということだ。ここに含むもの(具体的全体の立場)と含まれるもの(抽象的立場)の関係ができ、質的限定の意義から量的限定の意義に移り行くことができる。すなわち大小の関係ができるのだ。そして他に何らの質的限定がなければ、含むものと含まれたものは完全に同等であって、すなわち自己の中に自己を写すということとなり、デデキントの言うようにここに数の無限の系列を考えることができる。ポアンカレが数学的総合判断の基として考えている、同一作用を無限に反復することの可能を意識する精神的能力というのは、このような作用の意識を言うのだろう。以上のように考えれば、論理的に対して数理的はὄν+μὴ ὄν(オン+メー・オン。具体的全体)となり、純論理的対象である「ある物」が「意識において対象化されたもの」として考えられる時、数理的連続体は(?ギリシア文字)として、その主体となっている。この「ある物」がその主体(連続体)の上から関自(自己自身への関係)の状態として力学的に見られた時、判断作用となり、全主体(連続体)を見ないで作用だけを主観として(抽象して)見れば、いわゆる心理的主観となる。これ(心理的主観)に対して全主体(連続体)は客観的となるのだ。知識が客観的に進むと言うのは、この全主体(連続体)に向かって進むことだ。この要求が知識そのものの性質であり、目的だ。この意味において、論理は数理を要求し、数理は論理の目的となると言うことができる。すべて知識の新たな内容は、経験学派の言うように外から来るのではなく、内から出でるのだ。前から入るのではなく、後から現れるのだ。これらの関係を極限概念によって言えば、同一は、同等がその理想として到達することのできない、しかも同等の成立の根底として仮定しなければならない極限だ。同等の極限は同一だ。ヴィンデルバントが同等を主観的と考え、同一を客観的と考えているのも、これによると考えることができる。数の「一」は同性質(同等)の極限であると考えることができる。(数の「一」を)単なる思惟の対象として考えれば、リッケルトの言うように「ある物」と「他物」を区別する質的見方が量的見方よりも根本的であると考えられ、私の従来の議論の如きは合理的心理主義であると言われるかもしれないが、純粋思惟の対象(無内容な「ある物」の意識)から出立してみても、このような区別の背後には包容的全体(連続体)がなければならない。このような「(包容的全体という)統一」の媒介そのものがあって、「ある物」と「他物」の意味の区別が成立するのだと思う。勿論認識の時間的順序においては、このような(包容的)統一は反省によって後に意識されるかもしれないが、論理的順序においてはかえってこれ(認識の時間的順序)に先立つと言わなければならない。このような統一(包容的全体)が数理の基である同質的媒介者となるのだ。無論このような統一(同質的媒介者)は直ちに量的「一」と言うことはできない。かえって性質的一般者と見るのが至当だろう。「ある物」と「他物」がこの中(一般者の中)において反省され、あたかも有理数の要素から実数的体系の切断(無理数)の考えに進んだ後、後者(無理数)の要素は前者(有理数)の背後に横たわる具体的全体の性質を顕現するように、各々の中に統一者の全性質(連続体)を顕現する時、「ある物」は量的「一」となるのだ。単に ὄνの立場にあったある物が ὄν+ μὴ ὄνの立場において現れるのだ。すべて認識の背後には体験がある。 ὄνの背後にはὄν+ μὴ ὄνがある。前者が後者を負って(背中に載せて)未だこれ(オン+メー・オン。具体的全体、連続体)を前に射影しない時、即ちなお即自の状態(「二十六」の引用を参照)にある時、後者(オン+メー・オン)から言えば未だその全体を顕現しない時、すべての物が性質的だ。これに反し、背後に横たわった統一者(連続体)が認識の対象として射影された時、それが量的「一」として現れるのだ。無論、質的「ある物」の背後に横たわった統一が量的「一」として認識された時、すなわち量的「一」が対象として認識された時、その背後(量的「一」の背後)にはさらに統一者があるだろう。すなわち更に具体的な体験がなければならない。数がὄνとして現れるならば、更にその背後にὄν+ μὴ ὄνがなければならない。このような一層具体的な統一から見れば、数も質的であるということができる。数が質的であると言うのは一見甚だしい背理のようではあるが、数と言うものにも性質がないのではない。数の無内容ということが既にその性質だ。また種々なる数の体系を区別するのも、数の性質によるのだ。我々が数そのものを取り扱っている時、結合の法則は働いてはいるが、反省されてはいない。しかしフッサールの言うようにその立場が除かれた時、結合の法則そのものが意識されるのだ。具体的見方から言えば、量的対象にも質的方面があり、質的対象にも量的方面がある。質と量は具体的経験においては相関的だ。量は経験内容の発展の相であって、質はその即自の相(静止の相)だ。すべての経験はこの両方面(質と量)を具したもので、数学的量はその最も一般的な場合に過ぎない。すなわち純粋思惟の対象(無内容な「ある物」)というようなものの発展進行の相であると考えることができる。

三十二
 作用の方から言えば、論理的判断に対して生産的想像力が主体となり、対象の方から言えば純論理的対象に対して純数学的対象がその主体(連続体)となる。純質的なものに対して数量的なものがその極限となる。同等の極限は同一でなければならない。1=1というのはこの同一を言い表したもので、他との関係がいかに変わっても対象自身が同一であることを意味するのだ。論理的と数理的の間における右のような関係は、分離数と連続数の間においても見ることができる。連続数が分離数の集合に対して極限点の集合と見なされるのは、数理的なものが論理的なものに対して極限と見なされるのと同様の意味において考えることができる。数理を論理の主体と考え得るように、連続数を分離数の主体と考えることができると思う。ここには立場の変更がある。しかしそれは全然無関係な立場に移り行くのではない。すでに背後に予定された立場(主体)に移り行くのだ。抽象から具体に移り行くのだ。真の自己に移り行くのだ。認識対象としての分離数と連続数は、現今の数学者の言うように性質を異にするもので、前者(分離数)を後者(連続数)の部分と見なすことは出来ないだろう。しかし反省される意識作用が反省する自己の部分であるという意味において、前者は後者の部分と見なすことができる。スピノーザの語を借りて言えば、有理数は「その種類において無限」であるが、連続数はこれ(有理数)に対しては「絶対的無極」としてその本体であると言うことができるのだ。純論理的対象は質的と考えられ、その発展して「一」となったものが量的と考えられ、そして切断というようなものに至って更に質的傾向を帯びてくると考えられる。連続数はコーヘンのいわゆる内包量として質的と考えられるのだ。すべて経験内容が即自の状態においてある時、質的だ。他との関係においてある時、すなわち対自の状態においてある時、それが量的となる。連続において対自の状態からまた即自の状態に還った時、元の即時に還ったのではない。対自を含んでいるのだ。即自の状態においては常にその背後に具体的主体(連続体)がある。これが知識の目的であって、知識は常にこの方向に進むのだ。無論厳密に言えば、(抽象化された)知識の状態では我々はいつでも右のように背後の主体に対立して、対立の状態にあることを免れない。ただ意志の状態においてのみ、これ(背後の主体、連続体)と合一することができるのだ。背後の主体は知識の進み行く方向にして、また文化(分化の誤記?)の方向だ。
 以上述べたような純論理的対象の数に対する関係、更に転じて分離数の連続数に対する関係を、連続数と空間の間において見出すことができると思う。幾何学においてその要素として考えられているものは人によって多少異なるようだが、ヒルベルトに従えば点、直線、平面というものが要素として考えられ、これらの物の相互の関係が「位する」、「間に」、「平行」、「合同」、「連続」などという語を以って表される。その中で最も簡単な根本的対象は点と直線だろう。点は定義されていないが、直線は二点によって定められた唯一の関係というように定義されている。ヒルベルトはこれを、直線が二点を貫通すると言ってもよし、直線が二点を結合すると言ってもよし、また二点が一直線の上にあると言ってもよいと言っている。クーリッジは量的幾何学の根本対象として点と距離を考え、公理として次のように言っている。Axiom Ⅰ. There sxists a class of objects, containing at least two members, called points, Axiom Ⅱ. The existence of any two points implies the existence of a unique object called their distance.
(公理Ⅰ。少なくとも二つの点と呼ばれる要素を含む対象の種類が存在する。公理Ⅱ。任意の二点が存在することは、距離と言われる唯一の対象の存在を意味する?)
 幾何学の最根本的対象が右のようなものであるとするなら、幾何学者が定義できないと考える点というのは、認識論から見ればその内容の如何に関わらず単なる認識の対象となるもの、すなわち単に我々の認識の立場を与えるものであって、純論理的な定立作用の対象である「ある物」と見ることができるだろう。(点は)ὄν+μὴ ὄνの全体が己自身を限定する限定作用そのものと見ることができるのだ。そして直線とはこのような「ある物」と「ある物」の間、すなわち単に「立場」と「立場」の間に固定された、最も簡単な関係であるということができる。しかし単にこれ開けならその関係はいかなる関係でもよい。色と色の関係でもよければ人と人の関係でもよいのだが、幾何学者の取り扱う直線にはなお多少の性質が付加されなければならない。例えばヒルベルトの排列の公理のようなものがそれだ(1. Wenn A, B, C Punkte einer Geraden sind und B zwischen A und C liegt, so liegt B auch zwischen C und A. 2. Wenn A und C Punkte einer Geraden sind, so gibt es stets wenigstens einen Punkt B, der zwischen A und C liegt, und wenigstens einen Punkt D, so dass C zwischen A und D liegt. 3. Unter irgend drei Punkten einer Geraden gibt es stets einen und nur einen Punkt, der zwischen den beiden anderen liegt.)。
(1. A、B、Cが直線における点であり、BがAとCの間にあるとき、BはまたCとAの間にある。 2. AとCが直線における点であるとき、AとCの間には必ず少なくとも1つの点Bがあり、AとDの間には必ず少なくとも1つの点Dがある。3. 直線の任意の3点のうち、他の2点の間にある点は常に1つだけである?)
もし幾何学的直線が右のようなものであるとするならば、数の系列とどのような点において異なっているだろうか。例えば二点間を結合する直線と「二」という数はどのように異なるだろうか。「二」というものを同質的媒介者によって相互にその位置を交換することのできる認識対象の統一として考えてみれば、「二」という数と二点は何の区別もない。両者ともにラッセルのいわゆる外界性の形式によって成立するということができる。ヒルベルトの排列の公理も、論理的には数の排列と変わったものではない。ただこれ(数の排列)を「間に」とか「位する」とかいう語によって直覚に結合したまでだ。右のように考えれば、射影幾何学と量的幾何学的は異なったものとしても、その根底においては同一の基礎の上に立つものではないかと思う。数学が幾何に応用されるというよりも、むしろ両者はその同一の根底において結合されているのではないだろうか。幾何学者の考えるようなhomogène et isotrope(均質・等方?)の空間は理想の所作(産物)に過ぎない。一方においてこのような空間(幾何学的空間)を生じる理想は、一方において数の体系(量的幾何学)を生じるものだ。空間はこのような体系(数の体系)の限定的方面に過ぎない。純粋思惟の体系(数の体系)が自己を限定する(空間を生じる)ということは、(純粋思惟の体系が)経験内容に接触することだ。この意味において、空間は数の体系と経験の接触点だ。我々のいわゆる空間は、我々の有限的な経験内容と数の体系の結合と考えることができる。これによって、ポアンカレが幾何学の公理は先天的総合判断(数の体系)でもなければ、経験的事実(経験内容)でもない。単なる人為的習慣だ。そのいずれの幾何学を選ぶかは自由であって、ただ矛盾なきを要する、という意義も解せられると思う。私はクレモナが射影幾何学のfundamental operations(単位作業?)としたprojection and section(射影と部分?)ということは、純粋思惟の自覚的体系の限定作用のみを現したものであると思う。この意味において射影幾何学は純粋空間の学問であるということができる。
 自覚的体系が己自身を限定した時、それが幾何学的点だ。「甲は甲である」という論理的判断(限定)が点だ。このような点は自覚的体系の即自の状態においてあるが故に、点は性質的と言うことができる。数の系列と一々意的対応に置かれる点は(一々数の体系に対応されるものとして意識される点は)、あるいは単に量的と考えられるかもしれないが、厳密に言えば量的要素にも性質的方面がないのではない。上にも言ったように数にも性質的区別がある。完全に量的方面を除去した純粋幾何学の点は、数の要素の性質的方面を抽象したものと言うことができる。そして自覚的体系においては、当為が存在であり存在が当為である(事行)から、一つの限定(論理的判断=当為)はその中に自ら発展の方向を含んでおり、その発展の方向において一限定と他の限定の関係を固定して考えたものが、二つの点によって定められた直線と考えることができる。純粋幾何学の直線とは、自覚的体系における二つの限定の関係を抽象して考えたものに過ぎない。例えばヒルベルトが結合の公理において「互いに異なった二点が一直線を定む」というのはこのような抽象的関係を言い表したものに過ぎない。ヒルベルトはさらにこの関係を限定して、前に挙げたようなAxiome der Anordnung(排列の公理)を述べているが、これにおいて数の大小というような関係が抽象的に言い表され、さらに進んで連続の公理すなわちアルヒメデスの公理に至って、自覚の体系が完全に言い表されると共に、(自覚的体系が)実数の体系と一致してくるのだ。自覚的な具体的実在は、必ず量的方面を持ったものと思う。
 純粋幾何学において平面というのは、直線的でない三点によって定められた関係だ。ヒルベルトは「一直線上に位せざる三点は一平面を定む」と言っている。このような関係(一平面)を定めるには、単に右に言った自覚的体系の限定と限定(二つの限定)の関係(二つの点によって定められた直線)というようなものの外に、限定の方向の区別というものを考えなければなるまい。このように、自覚的体系の発展における発展の方向の性質的区別が次元の区別となるのだ。もし認識対象が単に純論理的であった場合は、このような対象(純論理的対象)の発展は数の系列を生じ、その性質的方面を取り出したものが幾何学的直線となるまでだ。しかし我々の自覚は一つの方向において無限に発展することができると共に、方向の変化(分化)においてまた無限であることができる。縦にすなわち量的に無限であると共に、横にすなわち質的に無限であるということができる。我々の自己はそれぞれ自覚的体系であると共に、更に大なる自覚によって統一されているのだ。自覚的体系における幾何学的次元の基礎はここ(更に大なる自覚、方向の変化)にあるのだ。これが幾何学のアプリオリだ。前に言ったように、自覚的体系が即自の状態においては性質的であるが故に、純粋幾何学は性質的だ。幾何学的アプリオリの基である統一は性質的統一だ。一方向における二点間の関係ということも、単に一方向のみならば数の「二」と変わりないようだが、限定と限定の結合と見られる時、それが幾何学的直線となるのだ。これに一つの限定から他の限定に移り行く自覚的過程を入れて、その具体的全体を見れば、量的直線となる。コーヘンが定積分と考えた空間はこのようなものだ。純粋幾何学の次元の数は、このような限定の数だ。それでその数は、ラッセルも言うように有限でなければならないということも理解されるのだ。
 以上述べたように、私は数の基礎である量的体系に対して、幾何学の基礎を質的体系と考えてみたいと思う。質的な純論理的対象に対して、量的な純数理的対象がその極限となり、量的な分離数に対して質的な連続数がその極限となる。純幾何学的対象はまた量的関係を超越した純性質的関係であって、解析幾何学の対象が具体的主体として連続数を統一する極限となるのではないだろうか。しかしこのような幾何学的対象はどのような性質のものだろうか。幾何学的対象の基である限定はどこから来るか。これらの問題はなお一層精しく考えてみなければならない。

三十三~三十四(直線の意識)


三十三
 私は前節において、純粋幾何学のアプリオリの性質について私の考えるところを述べ、かつこれと数の体系の関係を論じたのだが、今一度これらの点を明らかにし、そして後純粋思惟の体系と経験の体系の接触点を考えてみたいと思う。これによって、知識の形式と内容の関係の問題の方に進むことができると思うのだ。
 性質的と言えば、普通に赤とか青とかいう様な経験内容を考えるのだが、性質的とはすべて経験の体系で即自の状態においてある場合を言うのだ。独り感覚が性質的と考えられるのみならず、反省によって自己に還った我もまた性質的と考えることができるのだ。これに反し赤とか青とかいういわゆる経験的内容も、必ずしも性質的と限ったわけではない。これらの内容も概念として考えられた時、様々な経験の関係を意味すると考えることもできるのだ。純粋思惟の経験の体系(数の体系など)と色の経験の体系を比較してみれば、主観的作用の方では思惟作用は視覚作用に当たり、客観的対象の方では思惟の対象であるボルツァーノの命題自体というようなものは、視覚の対象である色の表象自体というようなものに当たり、これらを客観的存在の範疇に当てはめて考えてみれば、一方において命題自体は真理自体となるのに応じて、一方において色の表象自体は自然科学的存在のようなものとなると考えることができる。このように両種の体系の間に一々の対応を見出すことができ、しかもこれらの区別は各自独立するものの区別ではなく、一つの自覚的体系における異なる面に過ぎない。ある一つの具体的一般者がそれ自身の発展においてある時は、主もなく客もない(主客が合一している)が、この体験がその背後に横たわる包容的主体(連続体)の立場において見られた時、【この主体の連続として】その発展の相が思惟作用とか視覚作用とかいう様な主観的作用と考えられ、このような作用の起点、すなわち作用の経験と背後の主体の接触点が、心理的我と考えられる。これに反し、この体験が統一の相において見られた時、すなわち包容的主体の対象界の部分として見られた時、客観的対象は存在となる。例えば円とか楕円とか放物線とかいうものは、各々それぞれ一つの連続的主体と考えることができるが、これを二次方程式によって表される連続的主体から見れば、いずれもその特殊な場合として極限概念によって統一することができる。かつて言ったように一般的二次方程式においてh=0、a=bというようなものを、円という主体の作用の性質として考えることができ、そしてこのような(円という)作用の性質が極限概念によって統一され、大なる連続的主体の中に取り入れられて、円の様々な性質が一般的二次方程式の曲線の性質の中に統一して考えられた時、それが客観的となる。円とか楕円とかいうものが即自の状態において考えられた時は性質的だが、二次方程式の曲線というような包容的主体の上においてその極限として考えられた時は、量的と考えられる。連続数によって我々は質的なものを量的に考えることができる。連続は質と量の内面的統一だ。質を量化した質だ。主観を客観化した主観ということができる。
 自覚的体系が単に己自身を限定した時、すなわち関自の状態が論理的判断であって、すなわち性質的だ。しかし自覚的体系はそれ自身の中に発展の動機を蔵し、発展的限定は自ら還元的反省となり、還元的反省は直ちにまた発展的限定となる。自覚はヘーゲルの言うように関自と関他の統一だ(?)。関自の中に関他を含む故に、論理の立場から数理の立場に移り行くことができ、質的「ある物」は量的「一」となる。量的「一」というのは関自と関他の両面を具備する具体的対象だ。赤とか青とかいうように内容の性質的区別があればこのような統一は出来ないのだが、思惟対象の性質的無差別(対象の無内容)ということがこのような統一を内面的に必然たらしめるのだ。このような両面を内面的に統一する量的「一」、すなわちヘーゲルのいわゆる対自有というべきものは、数の要素「一」であると共に、幾何学的空間の要素「点」である。数学的対象の要素は右のような自覚的体系の顕現だ。それでは数の「一」と幾何学的空間の「点」の区別はどこから起こって来るか。私は対自有である数学的要素は、自覚的個人を完全に無内容に形式的に考えたようなものであって、自覚の発展は我々が内省的に自証するように両方面(縦と横)に発展することができることができると思う。一つは、我々の個人的歴史において見るように時間的に縦に発展し、一つは大きな自己の中心に向かって横に発展するのだ。前者は個人的発展であり、後者は普遍的発展だ。このような両傾向の発展は、無内容にして形式的な数学的発展の中にもすでに含まれていると思う。これ(個人的発展と普遍的発展の両方面を有すること)が自覚的統一の根本的性質であるのだ。我々の自覚はそれぞれ独立な自由な人格であると共に、大なる自覚(連続体、大なる主体)の部分だ。個人的発展の方面は時の基礎となり、数の基礎となる。コーヘンが「予料は時の特徴である」と言い、数の範疇はこれに基づくというのもこれによるのだ。これに反し普遍的発展の方面、すなわち人と人の結合(限定と限定の結合)の方面は空間の根底となり、幾何学的関係の基礎となる。要するに、右の両方面と言うのは自覚における進行の方面と反省の方面であって、この両方面の内面的統一が自覚だ。前者(個人的発展)は我々の精神であり、後者(普遍的発展)は身体であり、我々の行為は両者の自覚的統一であるとも考えられる。反省の方面が空間となり、心外の自然となるのだ。反省ということは過去に還ると考えられるが、実際はある一つの立場からその背後の大なる立場(連続体、大なる主体)に移り行くことだ。
 自覚的体系が自己の中に自己を写すということによって自然数の無限の系列が成立し、この系列を元に還ってみたもの、すなわち反省してみたものが直線だ。数学者は直線は二点間に定められた一つの関係であるというのは、このような自覚の反省を指すものだ。ある一個人の自覚の形式が一つの直線だ。純粋幾何学の直線と言うのは、極めて抽象的な個人の自覚だ。そしてある一人の個人が自覚するということは、他の個人の無限な自覚を許さなければならない。自分の人格を認めるものは、他の人格を認めなければならない。すなわち自分を認めるということは、自他の関係を認めることでなければならない。ある一つの方向において直線的関係を認めるということは、他の方向における同様の関係を認めることとならなければならない。二つの自由な人格の関係が二次元であり、三つの人格の関係は三次元だ。以上これに倣うのだ。ただ無限な人格の結合は、まだ元の反省なき無限の系列に還る外はない。私は道徳的社会と純粋空間は同一の根拠を持ったものと考える。二つの直線の結合点は二つの人格を結合する大なる一人格であって、三つの方向の結合は三つの人格を結合する一大人格だ。数学者は幾何と算術を厳密に区別するかもしれないが、私はある一つの定まった数を考えるところにすでに空間の考えがあると思う。この時すでに自覚の限定的作用の方面が働いているのだ。
 幾何学者は直線を定義するため、線分と延長ということを考える。→AB=→AC+→CBのCがsegment of A and B(AとBの部分)であって、Bがextension of (AC) beyond C(Cを超えたACの延長) だ。直線は the assemblage of all points of a segment and its extension(部分と延長のすべての点の集合)であるという。このような線分と延長というのは、自覚的体系が反省的(普遍的)と進行的(個人的)に発展することを意味するのだ。すなわち内と外に己自身を限定し行くことを言うのだ。数の系列はこのような自覚的体系を対象化したものであり、幾何学的関係はその(自覚的体系の)主観的作用の方面を現すものと考えることができる。このような自覚的体系が完全に言い表されたものが客観的には実数の体系であり、主観的には連続的直線だ。我々が直覚的に感じる直線性とは、このような無限に発展する自覚的体系の意識でなければならない。右のような自覚的体系がそれ自身を完成し、それ自身を自覚した時、己自身を否定して他に独立の自覚を要求することとなる。“All points do not lie in one line”(すべての点は一つの線に存在するわけではない)という幾何学的公理の根底には、右のような理由があると考えなければならない。一つの自覚的体系が(客観的には)実数の系列として、(主観的には)連続的直線として、それ自身を完成した時、自覚的体系の即自の状態、すなわちその性質的方面が積極的に現れることができ、純粋思惟の自覚的体系において性質的区別の考えが起こってこなければならない。すなわち一つの即自と他の即自の関係の考えが起こってこなければならない。変数と変数の間における種々の函数的関係も、これによって成立するものであると思う。そして種々の性質的関係が極限概念を通じて量的に統一された時、自覚的体系がその完全な形において具体的に現れるということができる。このような意味において解析幾何学の対象は、自覚的体系の具体的顕現だ。かつて客観的知識発展の目的とならなければならないと言った数学と幾何学の結合は、単に応用というような偶然的関係ではなく、自覚的体系の性質的方面の発展の要求に基づくと言うことができる。先験的感覚として直接に現れ来る空間の直覚は、解析幾何学的なものでなければならない。

三十四
 自覚的体系はその自己に還る反省作用と、自己を発展する進行作用の合一であって、その関自的方面、すなわち性質的方面がまず形式論理学のよって立つ所のアプリオリとなり、更に発展して純粋幾何学のよって立つ所のアプリオリとなる。解析幾何学の対象は、量的方面と質的方面を統一する自覚低体系の具体的顕現であると言うことができる。我々の知識の目的は抽象から具体に行くことだ。我々がある一つの立場に立った時、それが主観であって、客観を知るというのはその背後に横たわる具体的体系(連続体、真の主体)に移り行くことだ。解析幾何学の空間はこのような意味において知識そのものの性質から要求された認識対象と言うことができる。私は思惟の体系と経験の体系の接触点を論じるに先立ち、まず心理的性質として考えられる直線性というものがどのようなものかを考えてみようと思う。
 我々の意識内容として、客観的直線すなわち幾何学的直線から区別される経験的直線とは、どのようなものだろうか。我々が甲点から乙点に目を移すことによって見、手を動かすことによって感じる直線とは、どのようなものだろうか。心理学者はこれを運動の筋覚によって説明しようとする。例えばヴントは盲人の空間表象を分析して、外界触覚と、強度的に階級付けられた内界触覚の融合と言っている。この場合、我々に直線を意識させるものは、性質的にまたは強度的に階級付けられた感覚(内界触覚)だろう。このような直線の意識は、心理現象としてどのような性質のものだろうか。心理学者は客観的意識内容、すなわちいわゆる知識は尽く感覚の要素に分析することができると言う。それでは直線性の意識も一つの感覚と考えるべきだろうか。もしこれ(直線性の意識)を他の階級的感覚と同列の感覚と考えるならば、いかにしてこの意識が他の感覚を結合する統一の作用をなすことができるだろうか。これに反しもしこれ(直線性の意識)を他の感覚よりも一層高次的な意識とするなら、ここに感覚と異なった一層高次的な意識を認めなければなるまい。ヴントが心理的因果律の特色として、要素の結合の上に要素の中に含まれなかった特徴を生じるというのは、後者(高次的意識)の意味において理解することができるのだ。階級的感覚が一つの空間的知覚(この場合直線性の意識)として意識されるには、それ(階級的感覚)に意味の意識が加わってこなければならない。単なる階級的感覚の算術的総計からは、何らの高次的意識を生じることはできない。それでは階級的感覚を統一して一直線の意識を構成するものは、何だろうか。私はこれを自覚的体系の発展の意識であると思う。我々は内に省みて自己の発展の無限な可能性を自覚する。これが直線の意識だ。directed distance →ABの意識だ。真っすぐということは、このような体系の即自の状態を指すのだ。普通には「真っすぐな」ということは「赤」とか「青」とかと同じく、精神現象の性質として主観的と考えられるのだが、考えられた(思惟によって抽象化され対象化された)性質としての「真っすぐ」とか「赤」とか「青」とかいうことは、ボルツァーノのいわゆる表象自体というようなものであって、必ずしも精神的でもなければ、また物体的でもない。これらのものが精神的と考えられるか物体的と考えられるかは、その前後の関係によるのだ。真に直接な具体的実在は、前に言った先験的感覚というようなものであって、その見方によって物理学的ともなり心理学的ともなるのだ。すべて自覚的体系を即自の状態において見たものが性質的であって、心理学者の感覚というのはこの状態(即自の状態)を直ちに実在的と見たものだ。赤とか青とかいうことも関係の意識として見ることも出来れば、真っすぐというようなものも単なる感覚的性質として見ることもできるのだ。直接経験の物理的分析は量的分析であるとすれば、その心理的分析は質的分析であるということができる。そして質的分析というのは、自覚的体系の中心点の分析、すなわち即自の状態の分析だ。無内容な形式的自覚的体系、すなわち思惟体系というようなものが、一方において数の系列として発展すると共に、一方において幾何学的次元として発展するように、すべての自覚的体系はこのような両方面の発展を具えていると思う。赤とか青とかいう様ないわゆる心理的性質と考えられるものも、直接の具体的経験としては右の両方面を具備したもので、我々が赤とか青とかいう感覚を内省してこれを単純な感覚的要素に分かつというのは、このような体系(自覚的体系)における反省作用の立脚点を分析すると考えることができる。我々の現在においてもはやそれ以上に分かつことのできない立脚点が、心理学者のいわゆる単純な感覚となるのだ。
 それで、階級的感覚が融合して要素の中に含まれない一特色を有する空間的表象が成立するというのは、これらの感覚がその具体的状態である自覚的体系の形において意識されるということでなければならない。微細に階級付けられた感覚が一つに統一されると考えるのは、このような階級を成立させる連続体が意識されるのだ。要するに階級的感覚が融合して一つの空間的表象(この場合直線性)となるというのは、抽象的概念から具体的実在に移り行くことだ。階級的感覚というようなものは、心理学者が作為した抽象的概念に過ぎない。具体的実在はそれ自身において連続的な自覚的体系だ。精神的要素が結合するに当たって、結合が外から加わるのではない。元(具体的実在)に還って見るのだ。感覚は物質的原子のように独立の実在であって、その結合によって精神現象が生じると考えるのは誤りだ。直線性というようなことも一つの感覚として意識された時には、他の感覚と同様であって、他を結合する力を持たないのだ。心理学者は精神現象はすべて性質的に区別されるものと考え、精神現象における強度の差ということも一種の性質的区別と考えるのだが、厳密な意味において性質的に異なったものは、絶対的に異なったものだ(区別できない)。性質的階級というものが考えられるとき、すでに強度的差別の考えが含まれていなければならない。そして性質的なものが強度的階級において考えられるということは、性質的なものがその発展の相において考えられることだ。すなわち自覚的体系の具体的状態において考えられることでなければならない。なぜなら具体的実在は質的であると共に量的であるが故だ。感覚が結合されるというのは、このような具体的実在に還って見ることだ。生成上では全体が先となるのだ。
 我々がある一つの自覚的体系を反省してみた時、その体系の中心から具体的原形において見ることもできれば、その背後の更に大なる立場(連続体)から後者の対象中に入れて見ることもできる。自然科学的知識について言えば後者が機械的見方であって、前者が目的観的見方であるということができる。心理学的見方は更に前者の方へ一歩を進めたものだ。そしてこれらの見方は各々異なった現象とか実在とかいうものを見ているのではなく、皆同一の実在を見ているのだ。物理学的見方から心理学的見方に近づくにしたがって、実在の具体的見方に近づくのだ。ヴントは我々の直接経験の内容は繰り返すことのできる空間的結合のものと、そうでないものに分かれ、後者の体系が主観となるというが、後者の体系がすなわち直接の具体的体系であるのだ。自覚的体系は推論式的であり、推論式は自覚的体系の言表であるとして考えてみれば、その大前提である仮言命令は背後の大なる立場を現し、小前提である定言命令は体系の中心現し、結論においてこの二者が結合され自覚的体系の全体が現れると考えることもできるだろう(推論式=三段論法…例えば、「人間は死ぬ」(大前提、仮言命令)、「ソクラテスは人間である」(小前提、定言命令)、故に「ソクラテスは死ぬ」(結論))。そして推論式的な自覚的体系において、小前提の位置にあるものは、大前提に対して定言的な事実的知識であり、心理学者のいわゆる直接の心理的事実となり、これに反し大前提の位置にあるものは一般的知識であり、物理的知識であると考えることができる。フッサールのいわゆる本質というようなものは、物理的でもなければ心理的でもない。また単なる事実的知識というものも、この何れにも属しない。二種の知識の区別は一般と特殊の何れを重んじるかによって分かれるのだ。ある経験内容が意識されるか否かは、経験内容そのものに何物も加えない。意識とは経験内容の発展の程度を示すに過ぎない。経験内容の本質はボルツァーノの表象自体とか、命題自体とかいうようなものであって、それ自身に独立なものだ。ロックの二次的性質というようなものは意識に属するものと考えられるが、ボルツァーノなどの考えのように、色自体という(二次的性質である)ものでも、音自体という(二次的性質である)ものでも、意識作用を超越すると考えることもできる。 いわゆる物理的世界もこの経験内容を離れて考えることは出来ない。これ(経験内容)を材料として組織したものだ。普通には有機体というものを考え、いわゆる二次的性質(色自体、音自体など)というようなものはこれ(有機体)と外界の関係から生じると考えるのだが、かえって性質自体が根本的であって、有機体というようなものもこれら(性質自体)の結合から成り立っていると考えなければならない。要するに経験内容とその変化が直接の所与であって、物質自体とか有機体自体とか、または精神自体とかいうようなものは、これらの(経験)内容を統一する種々の中心に過ぎない。ベルグソンの考え方によって言えば、縦線的進行である純粋持続を、同時存在の平面に直して考えたものが物質界であって、これらの両方面の接触するところが我々の身体だ。そして純粋持続の尖端が同時存在の平面を押して進む所に、我々の意識が現れるのだ。脳の中に意識現象を生じる潜勢力を蔵し、外界刺激に応じて意識現象を生じるのではない。身体は単に運動の機関であって、脳は運動の中枢であるに過ぎない。我々の身体とは、(純粋)持続の横断面である物質界の上に投げられた記憶の影(射影)だ。緊張の裏面に弛緩を含み、前者(緊張)が純粋記憶すなわち精神の方面であり、後者(弛緩)が物質の方面だ。前者(緊張)は時間であり後者(弛緩)は空間だ。「過去は自ら彼自身を保存す」と言うように、己自身を維持して進む純粋持続の尖端が現在であって、そこに空間があり、物体界がある。この両面(純粋持続の尖端と同時存在の平面=物体界)の接触するところが我々の身体だ。我々の身体とは、持続が物質界を突破して進む運動の機関であって、いわゆる意識とはこの運動に対応する持続の一面だ。身体の運動が増すと共に意識の範囲も増すのだ。身体は物質界において持続を表し、意識は持続において運動を表すと考えてよい。物質にある物を加えることによって意識を生じるのではなく、意識からある物を減じることによって物質に到るのだ。以上のようにベルグソンが精神と身体の関係について言ったことは、論理及び数理の基としてすでに論じたような自覚的体系によって、一層深くかつ一般的に考えることができると思う。ベルグソンが内面的持続とか純粋持続とかいうのは、意味即実在、行為即事実である自発自転の自覚的体系だ。時間といえば実在的なものと考えらるが、氏の「流るる時」の概念を純化すれば、私がこれまで論じたような意味において自覚的ということに過ぎない【あるいは推論式的ということもできるだろう】。これに反し自覚的体系の静的統一の方面、すなわち推論式の大膳的が切り離されて考えられたものが、空間だ。限定作用から切り離された自覚的体系が、同時存在の物質界だ。ベルグソンは純粋空間は繰り返すことができないというが、繰り返すことができないというのは、その根底に時間を超越するある物があるからでなければならない。氏は時間の考えに捕われて、変化を超越する統一の方面を見逃しているようだ。我々が真にエラン・ヴィタールの尖端に立つ時、そこに空間もなければ時間もない。ファウストの言うように「太初に行為あり」である。しかもこの行為は時間的行為ではない。空間、時間よりも直接で、かつ根本的なものでなければならない。すなわち理そのものの発展というようなものでなければならない。ヘーゲルが「推論式は理性的で、すべてが理性的である」と言ったように、すべて実在は推論式的であって、その一般的法則を表す大前提の方面がベルグソンのいわゆる物質界であり、空間だ。これに反し事実を表す小前提の方面が意識界であり、現実だ。そしてここに精神と物体の接触点がある。すなわち我々の身体がある。大概念(大前提)が客観的物体の範囲を示すとすれば、小概念(小前提)は主観的自己の範囲を示すと言ってよいだろう。ベルグソンのいわゆる内面的持続の方面を、推論式の背後に横たわるアプリオリの連結と見て、コーヘンの連続の原理のようなものをそれ(アプリオリの連結、連続体、大なる主体)と考えることもできる。このようにして精神作用というのは、推論式の根底である一般者が己自身を限定する過程と考えることができ、大概念と小概念の間における種差(同一の類に属する多くの種において、ある種に特有で、それを他のすべての種から区別する特性。例えば、「動物」という類において、「人間」を他のすべての動物から区別する場合、「人間」に特有の「理性」など)というようなものが、作用の性質に相当すると考えることができると思う。

三十五~三十九(知覚的経験の体系・精神と物体・意志の優位)


三十五
 私は前節において、直線性の意識というものは自覚的体系が内に省みて、その無限な発展の可能を意識することであると論じ、あわせて意識ということは自覚的体系においてどのような役目を有するかを論じた。今赤とか青とかいう様ないわゆる内容ある経験の意識についても、同様のことを考えてみたいと思う。
 色とか音とかいういわゆる感覚的性質は、普通の考え方では外界刺激が神経の末端を刺激し、その刺激が脳皮質に伝わり、その結果として脳中枢の刺激に伴って起こる意識現象の性質であると考えられている。このようにして脳中枢において、あたかも魔術の棒によってのように突然生じる意識現象と、外界刺激は完全に異なったものと考えられる。これらの感覚の外界刺激は、エーテルの振動とか空気の振動とかいうような純機械的運動であって、色とか音とかいうものは(純機械的運動と)何らの類似を持たないと考えられている。しかし翻って我々の直接経験から出立してみれば、赤とか青とかいうものが直接に与えられた経験であって、いわゆる物体現象というのは、これらの経験の関係を統一した抽象的概念に過ぎない。そしてその直接に与えられた経験というものは、心理学者のいわゆる感覚というようなものではない。マックス・ラファエルの言うような「表現の手段として芸術家の見た感覚」というようなものが、かえって真に直接な経験というべきだろう。芸術家の表現手段としての線は、数学者の直線のようなものではない。そのすべての点において直線と曲線の錯綜を現すのだ。すなわち様々な次元の緊張だ。色についても同様のことが言える。芸術家の手段としての色は、その中に白と黒の傾向を蔵している。すなわち(我々に直接な)具体的な色はいつでも、心理学において言うような三次元的連続において成り立っているのだ。我々の直接経験はマイノングのいわゆるSosein(※客観的なもの、かくある)というようなものから構成されているのだ。
※ 引用 Soseinとは https://kotobank.jp/word/マイノング-135457
色とか音とかいう経験を純粋にこのような立場から見れば、これらの経験(色とか音とかいう経験)は時間、空間、因果の関係を離れて、それ自身の内容によって一つの体系を成すと考えることができる。マイノングの対象論やフッサールの本質学とは、このようなものと考えるということができる。このような体系におけるいわゆる経験内容は、完全に非実在的と考えられる。すなわち完全に仮言的(一つの判断が「もし…なら」という条件部を伴って表される立言であること)だ。これらの体系(経験内容)が実在と考えられるには、それ自身に発展的とならなければならない。これにおいて心理的実在というものが考えられてくるのだ。我々が視覚作用とか聴覚作用とかいうのは、経験内容(体系)の発展の相における統一を言うのだ。物理学者が経験を量的関係から統一して種々の物力を考えるように、心理学者はその質的統一から精神作用というものを考えるのだ。このようにして精神現象と物体現象の区別は、同一経験の見方の相違であるというように考えられ、しかも精神現象ががえって具体的実在であって、ベルグソンの言うように、物体現象にある物を加えて意識現象を生じるのではなく、かえって後者(意識現象)からある物を減じて前者(物体現象)に到ると考えることができるのだ。
 現今の心理学者の言うところによれば、我々が現在において有する種々の感覚的性質の区別は、元々一般感覚から分化発展し来ったものであるという。人類は元々下等動物から進化し来ったもので、下等動物には触覚の外、いわゆる特殊感覚というようなものがないとすれば、このように考えられるのが当然だ。かつ内耳の構造において、明らかにその発展の跡をたどることができるとさえ言われる。右のように考える人々は、様々な感覚的性質の区別は我々の神経組織の中に潜在的に含まれたものが発展し来ると考えるのだろう。あたかも胚種形質から様々な生物の種族が発展し来るように、神経の物質から種々の感覚が発展し来ると考えるのだろう。しかし元々我々の直接経験の内容である感覚的性質を、その外界及び内界の刺激といわれる物理及び生理的現象の性質から導き来るのは、不可能なことだ。かえって前者(感覚的性質)が後者(物理及び生理的現象の性質)より根本的でなければならない。我々が直接に知り得る動かすことのできない事実は、いわゆる感覚内容と言われるものの相互の関係、及びその変化だ。フレネルの鏡の実験によって光線がエーテルの振動であることが証せられるというのも、我々の知り得る動かすことのできない知識は、明暗の交互とその距離の量的関係(感覚内容と言われるものの相互の関係、及びその変化)に過ぎない。それ以上は仮説だ。仮説はフレネルのように考えても、またマックスウェルのように考えてもよい。ただ右のような事実の量的関係を表す微分方程式のみ、何時までも動かすことができないのだ。厳密な直接経験の立場から考えてみれば、我々の経験内容は何時でも一般から特殊に進んで行くのだ。一般的なものが分化発展して行くのだ。生理学者や心理学者はこれを神経組織の中に含まれたものから発展し来ると考えるかもしれないが、ベルグソンのように考えれば、身体は物質界における精神の代表者に過ぎない。(身体は)物質界という同時存在の平面における純粋持続の射影だ。真に直接な具体的実在は自覚的な色の経験そのものだ。直接経験の世界では、色の一般概念のようなもの(一般的赤、一般的黒など)が実在的だ。フレネルの鏡の実験のようなものにおいても、精細な明暗の識別作用というものが先ず与えられていなければならない。そして識別作用、すなわち判断は一般概念(一般的赤など)が与えられることによってのみ可能となるのだ。物理的にはこれがエーテルの振動と考えられるかもしれないが、直接には色はそれ自身に働く具体的一般者だ。一つの内面的連続だ。我々の直接経験の背後には何時でも創造的進化が働いている。色の経験の発展というようなものも、一つの創造的進化だ。一般的或物が己自身を限定していくのだ(例えば黒いものを見た際、我々の意識の中では一般概念である「一般的黒」が働いており、判断において「これは黒だ」と限定する時、その「黒」は一般的黒が発展し来った特殊的黒である、ということ。またその発展の連続の全体が「色」という自覚的体系の経験であるということ。「七」を参照)。色覚の原因として考えられる眼というようなものは、これ(色覚)と対応的に考えられた物質界における射影に過ぎない。眼とは色の経験と物体界の接触点だ。正しく言えば、色という自覚的体系の限定点と見ることができるのだろう。
 すべて一般的なものが己自身を限定し行くにあたって、すなわち自覚的体系の発展によって、我々は二つの方向を区別することができる。一つは一般から特殊に行く特殊化的方向であり、一つは特殊から特殊に行く同列的拡大の方向だ。前者において新たな内容を生じ新たな立場に移り行くのだが、後者においては同一の立場において発展し行くのだ。ベルグソンの語を以って言えば、前者は純粋持続の縦線的発展であり、後者は同時存在の平面上における発展とも言うべきだろう。円錐曲線の例によって言えば、種々の円錐曲線は極限概念によって互いに移り行くことができる一つの連続体だ。これを一つの連続体が直線、円、楕円、放物線、双曲線それぞれ異なった性質の立場へ内から発展すると考えることもできれば(一般から特殊に行く特殊化的方向)、またこれらの曲線を二次方程式の曲線という一つの概念に総括して、単にその種々の場合と考えることもできる(特殊から特殊に行く同列的拡大の方向)。右のように考えてみると、円錐曲線というような一つの連続体が種々の曲線に分化するのがいわゆる精神現象的発展であって、同一の立場において同列的に発展するのがいわゆる物体現象的発展だ。眼のない動物が初めて眼を得た時、その光覚は極めて朦朧たる明暗の意識のようなものであっただろう。このような光覚的意識が段々と分化発展して、今日我々が有する様な精細な色の識別ともなったのだ。この種の発展は円錐曲線の連続体が種々の曲線に分化する様な立場の分化(一般から特殊に行く特殊化的発展)だ。アプリオリの特殊化だ。その発展の背後には一々※エラン・ヴィタールが働いていたと考えなくてはならない。
※ エランヴィタールとは 引用(創造的進化の項を参照) https://ja.wikipedia.org/wiki/アンリ・ベルクソン
心理学者が精神現象を性質的に分析するというのは、このような立場(一般から特殊に行く特殊化的発展)の分析だ。内に省みてエラン・ヴィタールの飛躍点を求めるのだ。前にも言ったように、性質的分析は自覚的体系の立場の分析だ。これ故に性質的に異なったものは、互いに異種的でなければならない。これら(異種的なもの)は皆宇宙の生命であるエラン・ヴィタールの飛躍した足跡であるからだ。また一方からは、これらの単一な性質、すなわち自覚的体系の立場の一々(色、音など)は、いずれも一つの自己と考えることもできる。それぞれが一つの自覚的体系の中心と考えることもできる。そしてかく一々が自己と考え得ると共に、一々が一つの作用とも考えることができる。感覚的性質の分化発展に伴って感官の分化発展というものが考えられ、そこに特殊な精神作用というものを考えることができるのだ。音の経験とか色の経験とか経験の性質が異なるにしたがって、我々はこれに対してそれぞれの精神作用を考えるのだ。感覚作用に対して表象作用とか思惟作用とかいうようなものを、一層高次的なエラン・ヴィタールの飛躍の中心と見ることができる。作用というのはエランヴィタールの中心から純粋持続を統一して見たものと考えられるのだ。勿論以上のような考えに対しては、それでは意識はどこから生じてきたか、意識発生以前に世界は存在しなかったか、今日の科学的宇宙進化論の如きは完全に虚偽であろうかという疑問も起こるだろう。私は大胆な言い方ではあるが、自然科学の考えるような宇宙発展の順序は、経験界の一つの考え方に過ぎないと思う。物理学的アプリオリによって定められた物理的時間から見た順序は、必ずしもエランヴィタールの内面的創造の順序ではない。内面的創造の順序、例えばフッサールのいわゆる現象学的時間とかいうようなものは、物理的時間よりも根本のものであって、後者(物理的時間)はかえって前者(現象学的時間)の中において成立するのだ。宇宙の真の始まりは星雲の昔にあるのではなく、内面的創造の中心にあるのではないだろうか。現今物理学の相対性原理において論じられるように、元々絶対的時間というようなものは理想に過ぎないので、実際において絶対的時間というものを定めることはできまい。物理的現象における座標の取り方によって、時間上の前後も定まってくるのだ。我々の経験内容を空間の形式の中に配列し、その座標の取り方によって、時間上の前後が定まってくるのだ。しかし我々はこのような加工以前に遡って、経験の順序を考えてみなければならない。経験の秩序というのは種々の意味において考えることができる。例えば、空間的経験についても、まず我々の個人的歴史における発生的順序というようなものを考え、更に同様の考え方を人類全体または生物全体の歴史にまでも及ぼして考えることもできれば、また純論理的に見てすべての関係を理由と結論の関係によって考えることもできる。それだけでなく、更に進んで認識論的に知識成立の順序を論じて、フィヒテ、ヘーゲルのように、またコーヘンのように、空間範疇を創造的思惟発展の順序において考えることもできる(空間は思惟により要求されたものである、つまり空間の成立の前には思惟がある?)。これらの考え方の中で、心理学的または生物学的な考え方に対しては物理学的な考え方が根本的であるかもしれないが、後の二つの考え方はかえって物理学的な考え方よりも一層根本的であると言わなければなるまい。ここ(後の二つの考え方)では我々の経験内容は、(純論理派の言う)価値(≒真理)によって発展するのだ。無論私は価値的順序と時間的順序を混同する非を知らないものではないが、時間的順序ということは我々の経験の一つの見方に過ぎない。これに先立って、種々の価値的順序や経験内容の性質的差別というものが与えられていなければならない。このようにして時間的順序はかえって価値的順序に基づくと言うこともできるのだ。

三十六
 我々が普通に考えるところによれば、眼という感官が出来てはじめて光の感覚というものが生じるのだ。すなわち眼という感官の発生によって我々に光の世界、色の世界が開かれるのだ。眼を失うと共に、我々は光の感覚を失い、これと共に光の世界、色の世界は直ちに消え去るのだ。このように考えれば、眼が光覚の原因であるということは疑いないようだが、眼というのはどのようなものだろうか。眼はどのようにして、このような働きをなすことができるのだろうか。眼も物質界の一部分であって、いわゆる物質的元素以外の物から成り立っているとは考えられない。要するに若干の化学的元素の結合したものと考える外はない。だが今日科学者の考えるような化学的元素は、原子量というようなものを考えることによってのみ成り立ち得るのだ。すなわち質的なものを量的に考えることによって成り立ったのだ。勿論今日の化学的元素というようなものは、単に同質的なものではない。従って未だ純粋に量的に考えられたものではない。もし今日の電子論が発展して種々の原子がタムソンなどの考えのように原子の数とその結合から説明が出来て、はじめて物質の区別は同質的なものの量的区別ということになるのだろう。右のように考えることができるならば、同質的なものの量的関係というようなことから、どのようにして感覚的性質というようなものが出てくるかは到底説明はできない。何故波長の長い光線によって起こされた眼底の刺激が赤色と感じ、波長の短い光線によって起こされた刺激が菫色と感じられるかは説明ができない。そこにはヂュボァ・レーモンの言ったように自然科学的知識の限界があると言わなければならない。もし物理学者の考えるようなものであれば、光のエネルギーは無論生物発生の遠き以前に存在していなければならないわけだから、光のエネルギーを光や色の感覚と変じる力は、これを我々の視神経とその中枢に求めなければならない。生物の神経系統にこのような力があると言ってしまえばそれまでのことだが、それは何らの説明を与えないと同然だ。我々の知るところの事実は、単に真景刺激と称する一種の化学的現象に、何時でも色とか音とかいう精神現象が伴うというに過ぎない。もし生理現象というものを、機械論者の考えるように物理的または科学的に説明ができるとするならば、同一の物理的化学的現象でありながら、ある場合において精神現象を伴い、ある場合においてこれを伴わないというのは、これらのものの結合の仕方によると考える外はないだろう。しかしいかにしてある種の物質的結合にのみ精神現象が伴うのだろうか。やはり単にこのような平衡の事実があるという以上に何らの説明を与えることはできまい。物理学において熱をエネルギーの一種と考え、熱を機械的エネルギーに変じることもできれば、また後者(機械的エネルギー)を前者(熱)に変じることもできるというが、これは決して機械的運動が我々の熱の感覚に変じるというのではない。量的に考えられた熱と運動のエネルギーの間に、不変の関係があるというまでだ。生物があってこのエネルギーを熱を感じると否とは、熱のエネルギーそのものに何らの関係もない。また我々が今日熱と感じているものを光と感じ、光と感じているものを熱と感じても、全く差支えはないのだ。
 いわゆる物体界から出立して考えてみれば、右のような結論に陥らなければならないのだが、私は今この考えを逆にして我々の意識界から出立してみよう。意識界から見れば我々の身体も意識界の一現象であるにすぎない。光や色を感じる眼はまた、光や色の世界にも属するのだ。一方から見れば我々の意識は物質現象の付属物に過ぎないかもしれないが、一方から見れば物体現象と言うのは意識現象の一種の解釈に過ぎないと考えることができる。眼がなければ色や光の感覚が無いと言うが、上に言ったように眼と言われるものと光や色の感覚の間に普遍的結合があるというに過ぎない。ある一人の感覚の原因として考えられる眼というものは、他人の感覚界の一部分だ。全意識界の立場から見れば、ある感覚の消滅と共に、ある一個人の光覚という一群の現象が消失するというに過ぎない。生物全体の眼がなくなるとかまたは(生物において)未だ(眼というものが)発生しなかった場合では、光覚以外の感覚界の一部である生物の眼という一種の現象が掃滅すると共に、光覚界というものが消滅するということだ。このように意識界から出立してみれば、我々の身体もどこまでも意識界に属するので、我々の感官と神経系統が感覚の原因であるということは、ある意識現象の生滅に伴ってある意識現象が生滅するということだ。眼が完全に光や色の世界のみに属し、その他の感覚界と関係がなかったならば、光覚の原因と考えられる眼というものはない。いかに考え行くも、我々の感官そのものも外界刺激も、共に我々の感覚界に属することを免れない。我々は到底意識の範囲外に脱出することはできないのだ。感覚を生じる感官はまた感覚の中に属すると言わなければならない。完全に感覚的内容を離れれば、単に現象と現象との間の函数的関係というようなものの外、何物も考えることはできないのだ。物体から精神を生じるということは単に不可能であるのみならず、かえって本末転倒だ。
 我々は普通に触覚を以って実在の感官と考える傾向を有するが、これに代わって光覚を以ってしても何らの矛盾はない。触覚が光覚や音覚よりも物体自体の性質に一層接近しているはずはない。触覚的現象を物理的に解釈した物質と、音覚的現象を物理的に解釈した物質は同一の物質だ。同一の物質が種々の感覚的性質において現れるのだ。そして両現象の根底である物質が同一であるというのは、両現象の変化が同一のエネルギーの法則によって説明ができるというに過ぎない。光覚的現象は同一の法則によって説明ができなかったから、物質の外にエーテルというものが仮定されたのだが、電磁気のエネルギーによってすべての物理現象を説明し得ることができれば、物質は電気となってしまうのだ。物体はもはや触覚的なものではなく、かえって光覚的現象の基のようなものが物体の根本と考えなければならないのだ。生物発展の歴史から言えば、無論触覚が先ず発達して、光覚とか音覚とかいうようなものは後に発達したものと考えなければならないのだろう。しかし過去の触角が、現在の光覚や音覚の原因となったわけではない。触覚も光覚や音覚と同じく意識現象であって、後者(光覚、音覚)の原因である物質も前者(触覚)の原因である物質も同一の物質でなければならない。ヘルバルトがすべて感覚に対して「実在」というものを考えたように、我々の常識では触覚的内容を実在化して、これによって永久不変の物体界を考えるのだが、今日の物質電気観のようなものを真理とすれば、触覚を基礎として考えられた物質界というようなものは、真の物質界ということはできなくなる。触覚を基礎として考えられた物質観は粗雑であって、我々は光や電磁気の現象(光覚)によって、一層精緻な物体内部の構造を知ることができるということとなる。光覚などの発達によって、初めて物質の微細な作用を知ることができるのだ。光覚は意識発展上では後であるかもしれないが、ヘルバルトの「実在」のようなものから考えれば、かえって(光覚が)根本的であるということができるだろう。

三十七
 前節において述べたように、生物の神経系統というような純物質的なものから、どのようにして意識現象を生じるかは到底説明はできない。意識内から出立してみれば、脳とか感官とかいうようなものも、意識現象の一部にすぎない。単にある一種の意識現象とともにある一種の意識現象が生滅するというまでだ。それでは我々の身体、特に神経系統というようなものが、意識現象と特別の関係があるように考えられるのは、何によるのだろうか。
 ある一定の方向と速力を以って動いている球が同一の質料を有する球に衝突すれば、前者は静止して後者がほぼ前者と同一の方向と速力を以って動いていく。このような場合、我々は前者の運動の力が後者に移ったのであると考える。方向も速力も互いに相異なった二つの力が一つの質点に働いた時、その質点は誰もが知るように二つの力を以って作れる平行四辺形の対角線の方向に進んで行く。このような場合、我々は二つの力が結合して一つとなったと考える。右と同様の考え方によって、直覚的には完全に異なった現象ではあるが、熱が運動に変じ運動が熱に変じると考えられる。またこれらの場合のように厳密ではないとしても、燐が四十四度で溶けると言えば四十四度の熱が燐を溶かしたのだと考える。無論今日の自然科学者は、現象の背後に力というようなものを考えないだろう。キルヒホッフが力学は運動の記述であると言ったように、全ての自然科学は経験的事実の記述と考えられ、因果関係とは両種の現象の変化の間における函数的関係に過ぎないと考えられるだろう。自然科学的法則というのは、要するにある一種の現象の生滅変化と、他の一種の現象の生滅変化に一定不変の関係があるというに過ぎない。しかしこれと同様の考え方によって、脳とか感官とかいうものを様々な精神現象の原因と考えることができるだろうか。右のような因果関係の考え方には、まず我々の感覚的経験というものが与えられて、しかもこれ(感覚的経験)が対象として投射されなければならない。だが普通の考え方では、感官というものが出来て、はじめて感覚的経験というものが可能となるのだ。我々の感官(眼や耳などの感覚器官)は、一方において感覚的経験として現れるべきものであると共に、一方において感覚的経験の成立条件であると言わなければならない。すなわち二様の意味を有することとなる。第一の意味においては感官は他の物質現象と同一であって、その因果関係も他と同様に考えなければならないのだが、第二の意味においては感官は他の物体と異なった特殊の位置を有することとなる。例えば二種の光学的現象の間に不変的関係があれば、我々はこの二つの現象間に物理的因果関係があると考えることができる。しかしこのような関係を有する光覚的経験を成立させるものは感官でなければならない。すべて関係が成り立つには関係を成立させるものが外になければならないのだが、感官は一方において関係の中にあると考えられると共に、一方において関係そのものを成立させるものと考えられる。ここに心身関係の不可解な矛盾があるのだ。
 自然科学的考え方から出立してみれば、我々の感官が色々な感覚的経験の成り立つ物質的条件(成立条件)として考えられるには、単なる物質的結合ではなく全体において目的を有するものと考えなければならない。すなわち合目的的結合でなければならない(合目的的…ある物事が一定の目的にかなっているさま)。すべての有機的機能はこのようにして理解されるのだ。胃の消化、血液循環、呼吸等は、化学的または物理的現象の外、何物も認めることはできまい。たとえ、生気論者の言うように細胞の中に普通の化学的作用としての説明のできない力があるとしても、単なる因果律の考えから見れば、ただ一つの未知的自然力というに過ぎない。我々の身体が自然物と異なって特殊の意味を有する一つの統一、すなわち個体と考えられるのは、目的概念の統一によるのだ。現象を個々の要素に分析して一々の連鎖を一般的法則の下に還元する機械論的見方と、このような機械的因果の連鎖によって成立する全体の上において一つの意味を認める目的論的見方は、互いに相異なる傾向を持った見方だ。しかもこの二つの見方は十分その立場を明らかにするならば、互いに矛盾衝突すべきものではない。ある一つの大理石が芸術作品として見られるのと(目的論的見方)、化学的実験の材料として見られる(機械論的見方)のは全く衝突しない。我々の身体が精神と密接の関係を有するのは、このような目的論的統一と考えられた身体でなければならない。我々が生命というのはこのような統一(目的論的統一)を名付けるのであって、我々の精神生活はこれに伴うものと考えられるのだ。それではいかにして、我々はこのような目的論的統一である身体と自己の精神生活の不可分離的結合を信じるに至るのだろうか。私はこれを、我々の意志的運動に帰さねばならないと思う。我々の身体と精神を結合するものは意志的行為だ。心身相関の秘鑰(カギ)を探るには、我々の意志の深い分析によらなければならない。もし我々に意志的行為の意識がなかったならば、自分の身体も他の自然物も同一視され、特に自分の身体と精神が密接の関係を持つと考えられるべき理由はないのだ。
 普通には、我々がいかに純知識的立場に立ち、自分の身体を他の自然物と同様に見るとしても、感覚とか思惟とかいう「我」の知的作用と「我」の身体という一自然物の間に特殊な関係があることを認めなければならないと考えている。前に言ったように眼とか耳とかいう感官の生滅と共に、色とか音とかいう感覚が生滅すると考えられる。無論眼そのものが光の感覚を生じるのではない。これには光線という外界刺激がなければならない。光線が眼底の視紅に対して何らかの化学的変化を起こさなければならない。この化学的現象に我々の光覚が伴うと考えられるのだが、どのようにして、このような自然科学的現象に「我」の精神作用(光覚)が結合すると考え得るだろうか。感覚と感官を結合するには、我々は自然科学的実在の見方を変更しなければならない。生理的機能を持ったものを一つの実在として見なければならない。すなわち機能的統一というものが考えられなければならない。我々の手とか足とかいうものが単なる物理的実在ではなく、一つの目的を持ったものとみらっるのは、身体においてある一部の機能を司るものとして、そう考えられるのだ。光線が視紅に化学的変化を起こし、この刺激が視神経を刺激して、光の感覚を生じるというが、視紅は無論光覚の欠くことのできない要件だろう。しかし視紅だけで光覚が生じるのではない。全身体、特に神経中枢の結合においてこの作用を有すると考えなければならない。我々の身体は一つの静的統一ではなく、動的統一だ。かつ単なる機械的統一ではなく、目的論的統一だ。無機物と有機物の相違はその質料にあるのではなく、結合の形式にあるのだ。函数的差異だ。我々の精神は目的論的函数の統一と見るべき身体と結合し、この結合に基づいて眼が光線を感じると考えられるのだ。我々の形体は変わらないとしても、生命の統一がなかったならば、眼が光を視るということはなく、耳が音を聴くというようなこともないのだ。それでは、この生命の統一とはどのようなものだろうか。物体の統一とどのような点において異なっているだろうか。我々は普通にいわゆる生物現象を呈するものを生きているという。しかし厳密に考えれば、いわゆる生物現象は物体現象より高次的なものではない。物体現象と同じく自然現象だ。純粋対象の世界だ。生命の現象には必ずしも精神現象を伴うとは考えられない。ただ事実上ある一種の生命現象に精神現象が伴うということが確かめられて、はじめて眼が光を視、耳が音を聴くと考えられるのだ。それではこのように生命という客観的現象と、精神という主観的現象を結合するものは何であるか。すべて二つのものを結合するには、この両者に共通なものがなければならない。すなわち主観と客観を結合するものがなければならない。そしてこの結合を我々の内に証するものは、意志的行為だ。なお一層深く考えれば、自覚の意識と言うべきだろう。我々はこの(主観と客観の)結合(意志的行為、自覚の意識)を投射して精神と身体の結合を考え、これ(精神と身体の結合)を類推して生物のある部分を生きていると考えるのだ。
 我々が我々の肉体に結合して考える「我」の精神とは、(思惟によって抽象化され)対象化された精神だ。我々は我々の精神を身体に結合して考える前に、まず自分の意識を反省し、これ(自分の意識)を時間空間因果律によって組織された自然界へ投射してみなければならない。このような意味における自己が、心理学者のいわゆる心理的自己だ。ヴントはこれ(心理的自己)を我々の意志とか注意とかに伴う能動の感情、すなわち統覚作用の感情と考えている。ジェームスのいわゆる烙印のようなものもこれを意味するものだろう。心理学者はこのような感情(統覚作用の感情)を核として、これに身体の感覚や表象を結合するのだ。それではこの統覚作用とはどのようなものだろうか。これを内省的に、すなわち直接に見れば、意識内容そのものの内面的発展だ。すなわち意識の根本的事実であって、他によって説明することは出来ない。一層深く考えれば、これ(統覚作用の感情)は実在の根本的形式である自覚的体系の意識だ。我々の統覚とは実在の自発自転の相(発展の相)を言うのだ。自分の意識内容といっても特別に「私の」と言うべきものはない。意識された内容はすべて一般的だ。ただある意識内容の発展作用に伴う意識が、自己と名付けれらるのだ。
 我々はどのようにして右のような心理的自己を、純物質界に結合して、我々の身体というものを考えるのだろうか。我々の心理的自己の背後には、論理的自我がある。すなわち先験的自我(カントのいわゆる純粋統覚?)がある。物質界を構成するものはこの自我だ。自然界はその対象として現れ来るのだ。我々が知能によって外界を知り、意志によって自己を外界に実現すると信じるのは、我々の背後にこの一般的自我があるが為だ。我々はこの背後の自我を通して、自然界と結合するのだ。我々は純粋経験の世界から自己の意志に従うものを切り抜いて、自己の身体というものを考える。このように見れば、意志が自己の身体を作るのだが、また一方から見れば自己という一つの中心ができるのは、身体がある為であるとも考えられる。私が斯く手を出した時、内から見れば意志であるが、外から見れば身体の運動だ。意志は精神界の身体であり、身体は物質界の意志だ。我々の身体は心と物の合一として、一つの芸術作品だ。フィードレルが言語が思惟振興の最後の発展としてその表現であり、芸術は視覚進行の最後の発展としてその表現であるというような意味において、身体は意志の表現だ(身体は意志発展の最後の発展としてその表現だ)。心身を結合するものは内面的創造作用(意志作用)だ。我々が外物を知るというのは、自己の経験を(背後にある)一般的自我の立場に立って見ることだ。(外物を知るということは)一方から見れば自己の経験を一般化する事であって、一方から見れば、一般的なものが己自身を実現するのだ。右のような背後の一般的自我によって統一するということは、種々の自覚的体系の中心を一つに結合するということだ。種々の円錐曲線が極限概念によって一連続体の公式によって統一されるというような結合と考えることができる。例えば我々が円について考える時、円自体あるいは円の純粋意識というようなもの(一般的円とでもいうようなもの)が主体として働いているのだ。この場合、それ(円自体、一般的円というようなもの)は一つの自覚的体系であるが、翻って二次方程式の曲線の公式の立場から見れば、円とか楕円とかいうものは、特殊な場合としてその個性を失うようになるのだ。円とか楕円とかいう個々の立場を個人的意識の立場と見れば、一般的公式の立場は物質観の立場と見ることができるだろう。かつて幾何学のアプリオリを論じた場合に言ったように、自覚的体系は質的と量的の両方面に発展し、射影幾何学の対象はその質的関係のみを表し、解析幾何学の対象はその具体的全体を表すとすれば、各自の個人的意識区別は幾何的次元の区別に相当し、物質界とは単なる数の体系に相当すると考えることができる。物質界が単に仮言的な、可能な世界と考えられるのはこれ(数の体系との類似)によるのだろう。精神と物体の結合は解析幾何の対象において、数と幾何学体の基本結合と同一の理由に基づくものと考えることができる。すなわちその統一(結合)は、己自身を反省する自己そのものにあるのだ。「甲は甲である」という自同律の判断において、主語「甲」と客語「甲」を結合するものは、判断自身の動的統一だ。この両者(主語と客語の「甲」)が結合されなければならないのは、共にこの動的統一を仮定して(「甲は甲である」という自同律の判断が)成立している故だ。意識現象としては、主語「甲」と客語「甲」とは異なった表象だが、対象においては一つだ。抽象的には表象、対象及び二者の動的統一が別々に考えられるのだが、具体的には一つの自覚的体系だ。この三つのものはすなわち一だ。意味(「甲」)は判断(「甲は甲である」)を予想し、判断は意味を予想するのだ。ただ、意味即事実、事実即意味というように無限に発展する一つの自覚的体系において、しばらく対象の系列と作用の系列を離して考えてみると、対象の系列の方ににおいて、一々の対象を個々の物と見ることもできるが、これ(一々の対象)を一つの客観的自己の発現として見た時、この客観的自己は個々の対象の系列に対して目的論的統一(身体)となる。これに反し作用の系列の方において、一々の作用は個々の精神現象であるが、これらの(作用の)系列を統一したものが一つの意識統一、すなわち一個人の意識(精神)となる。対象の方における目的論的統一(身体)は、作用の方における意識の統一(精神)に相当し、ここに精神と物体の合一が成立するのだ。すなわち心身の結合は、一つの自覚的体系の中において成立するのだ。意味は作用を仮定し、作用は意味を仮定し、事行において両者の統一があるように、目的論的統一である身体は意識統一である精神を仮定し、後者はまた前者を仮定するのだ。両者の統一は意志においてのように、またその極致は芸術においてのように、宗教においてのように、自覚的発展にあるのだ。単なる対象的関係によって考えてみても、一つの球が他の球に突き当たって他の球を動かした時、前者が後者に働いたと言うが、このような作用は一方が一方に働くだけではなく、相互作用でなければならない。我々はその背後にこれらの関係を成立させる機械力というようなものを考え、これらの変化をその(機械力の)現象として考える。これに反し生物の衝動において見るように、種々の変化が全体として一つの統一、すなわち一つの目的を有すると考えられた時、我々はその背後に生活力というものを考え、これらの変化をその働きから起こるものと考える。連続的変化の一々の連鎖は機械的因果律によるとするも、、これ(連続的変化)を一定の順序に統一して働かすものがいわゆる生活力だ。もしロッツェの言うように相互作用を成立させる物の統一、すなわち自働的なものが実在であるとすれば、生活力は機械力よりも一層実在的であると言わなければならない。しかし有機体はロッツェの「物の統一」という意味において、未だ真の実在ではない。真の実在は自覚的なものでなければならない。そして物を働かせる真の力がその(生活力の)目的であるとするなら、精神と物体の関係は普通に考えらえるような平行論的結合ではなく、目的論的結合でなければならない。具体的全体が抽象的なものの目的であるという意味において、精神(具体的全体)は物体(抽象的なもの)の目的と考えられるのだ。

三十八
 私は前節の終わりにおいて、心身の結合を自覚的体系の統一に求め、かつ両者の関係を、手段と目的の関係として、目的論的に考えようとした。物質の目的は有機的生命であり、有機的生命の目的は精神だ。目的が物の本質であって、眼は光を見るために存在し、かつその実在性を有するということができる。私はなお少し精細にこれらの点を考えてみようと思う。
 それ自身において独立な真実在は、自覚的(体系)でなければならない。自覚的なものが真に具体的だ。ロッツェのような考え方によって見るも、真に自己の中に相互作用を成立させる絶対者は、自覚的(体系)でなければならない。実在は自覚的であることを要求する。すなわち(論理が数理を要求するように)物体は精神を要求するのだ。「イならばロ」、「ハならばニ」というような自然法は、単なる可能性を表す仮言的命題に過ぎない。このような法則の結合から成り立った一つの体系が、いわゆる物体界だ。無論物体界も独立の実在として考えられるには、それ自身に発展の動機と方向を有し、変化が変化を生む一つの自覚的体系と考えられなければならない。この(自覚的)体系の中心となる物が、客観的には物力と考えられ、主観的には思惟の統一と考えられるのだ。物体界もそれ自身の方向を有する一体系としては、一つの目的を有し、その実在性はこの目的論的統一によると考えることができる(目的論的統一により実在性が付与される)。ただその目的は物質そのものに対して偶然的だ。現在ある方向に向かって進みつつある物体界の変化が、反対の方向に向かって進むと考えても、物質そのものの性質と何らの矛盾を起こさない。この点において物質界は実在としてなお不定的であり、不完全であると考えねばならない。物体界の実在性はただ、直接の具体的経験(意識)と結合することによってのみ得られるのだ。物理的世界観は単に抽象的であって、これを以って具体的実在を表すことのできないのは、それ(物理的世界観)が直ちにアンチノミー(二律背反…相互に矛盾する二つの命題が同等の妥当性をもって主張されること。たとえば、カントが提出した「世界は有限である」と「世界は無限である」という矛盾した二つの命題同士のたぐい)に陥るのによって見ても明らかだ。空間時間因果が単に無限であって、終極のないということは、実在としてそれ自身に不完全ということを意味している。だからといって、これ(時間空間因果)を有限と考えることもまた、それ(時間空間因果)自身に矛盾せざるを得ないのだ。このようなアンチノミーを脱するには、無限の真意義は自己の中に自己を写すということ、すなわち自覚的ということであって、物体界のよって立つ所の真実在は、自覚的すなわち精神的であると考えなければならない。いわゆる空間時間因果の形式によって成る物体界というようなものは、それ自身に独立な真実在ではない。具体的実在の抽象的一面に過ぎない。この意味において空間時間因果は抽象的だ。「表象されたもの」(対象化されたもの)に過ぎない。真実在は「表象するもの」(対象化するもの…精神)だ。真実在としての空間は、表象主観が己自身を表象する作用でなければならない。ロッツェの考えのように空間性は外物の性質としては現象的だが、内界の事実としては実在的と考えられるのはこれによるのだ。空間は主観においてその実在性を有するのだ。空間は物の模写の形式ではない。物と共に流動的実在の一部を成すのだ。例えば言語と思想は普通には、前者(言語)が後者(思惟)の符号と考えられるのだが、フィードレルの考えのように両者ともに一つの内的生活の一部であって、言語は思想の最後の階段(階級)であると考えられるのと同様だ。
 物質界とか物力とかいうものが、それ自身の中に限定された方向を持たない時は(単に可能的な場合は)、(物質界や物力を)真実在として考えることは出来ない。真の実在は限定されたものでなければならない。単に可能なものは、真実在ではない。我々は普通に物体界を動かすことのできない一つの実在として考えるのも、実際は暗に物体界がそれ自身に一定の方向(限定される方向)を有すると考えるからだ。これ故に物質の実在性はその目的によると言うことができる。目的論的統一が物質界を一実在と考えさせると言うことができる。勿論物体界はそれ自身に完全な一体系であって、結合された二つの力はその合成力の方向に動くように、すべての出来事はかつてラプラスの考えたように数学的必然を以って説明することができると考える人もあるだろう。しかしこのような必然は、与えられたある配置から起こる(偶然的)必然に過ぎない。この配置そのものは物質界に対して偶然的だ。物質の内面的性質と(物の配置は)何らの関係もない。有機体ではこれに反し、その秩序原理それ自身が実在だ。機械的因果の連鎖はこの(秩序原理のための)手段に過ぎない。実在は己自身を限定するものとすれば、有機体は物質よりも一層完全な実在と言わなければならない。物質界を与えられた実在のように信じる人には、有機体の秩序というようなものは偶然的とも考えられるだろう。しかし物体界というのは実在の一解釈に過ぎない。物質界が実在と信じられるのは、単にそれ自身に矛盾なき体系というのではなく、現実の経験に基づくからだ。そして現実の経験がこれ(物質界)に実在性を与えるのは、我々は普通に現実の経験を限定の極致と考えているからだ。我々の実在の考えは現実の核心にかかっている。現実は単なる点ではなく、重力の中心点のようなものだ。過去は我の記憶に属し、未来は我の予想に過ぎない。我と実在は、ただ現在においてのみ接触しているのだ。我は現在においてのみ、我を没してそれ自身に独立な実在(自覚的体系)に触れることができるのだ。しかしこれを逆に言えば、実在(自覚的体系)が我に接触するところが現在だ。現在は実在の重心点だ。フィヒテの言ったように、我々の自覚においては知るものと知られるものと一つだ。自覚はすなわち知的直観だ(善の研究の一章を参照)。そして自己が自己を知るということは自己が働くことであって、真の自覚は絶対活動(絶対的な働き)であるとすれば、このような(絶対活動という)自覚の点がすなわち現在だ。現在が実在の核心と考えられるのは、これが為だ。
 現在の出来事が単に一般的法則の特殊な一例として考えられる物質界には、厳密な意味において現在というものがない。現在は限定の極致だ。唯一無二の点でなければならない。物質界における現在の限定は、その与えられた配置によるのだろうが、この配置は物質そのものには偶然だ。ある配置が唯一と考えられるのは、現在の経験が核心となっているからに過ぎない。生物学的現象(精神現象)では、これに反し現象そのものの中において唯一の活動、すなわち現在というものを考えることができるのだ。勿論一方から見れば、いかなる体系でも限定の方面の備わらないものはない。前にも言ったように純粋思惟の体系(例えば、数の体系)においてすら、限定の方向というものを考えることができるだろう。しかしいわゆる物体界というようなものは、かつて言ったように立体の平面図のようなものだ。射影図(平面図)は原立体に関係して意味を有するように、物質界は原実在(精神)の関係においてその意味を有するのだ。原立体の各頂点と平面図における対応点を結合したものが、物体界の合目的的関係を示すものだ。すなわち精神と身体の結合線だ。そして原立体(精神)が静止するものではなく、一定の方向に動くものとすれば、これによって物体界における変化の方向(限定する方向)も定まってくる。そして物体界において動かすことのできない現在というものが考えられるのだ。右のたとえをなお一層説明すれば、立体の各面は各々一つの心理的個人に当たり、各面の各辺は種々の精神作用の区別に当たると考えることもできる。そして原立体と射影面を結合する線は、一方(精神)から見れば心理作用を表し、一方(物質)から見れば生理作用を表す。すなわち精神物理的平行の現象を表すものと見ることも可能だろう。もしこの平面図を立体との関係から離してそれ自身に考えるならば、これらの線や面の射影も単なる平面上における線や形の関係と見る外はなく、すなわち唯物論者の説のようにすべての現象が機械論的関係によって説明されることとなるのだ。しかし射影図(物質)は元々原立体(精神)との関係においてのみ、その存在理由を有するのだ。射影図は(物質)原立体(精神)を表す手段に過ぎないのだ。物質界が以上述べたように立体の射影面のようなものであるとすれば、生物界の現象というような合目的的現象は、射影面に原立体との結合線を加えてみたものだ。目的観(目的論的見方)の基となるものは、我々の意志作用であって、意志の影を物質界に映じてみたものが生命だ。因果関係が「イがあるのならロが従わなければならない」というに対して、目的的関係は「ロがある為にはイが先立たなければならない」ということであるとすれば、前者の関係を翻す力(因果関係を目的的関係に翻す力、エラン・ヴィタール?)は、前者の関係(因果関係、機械論的関係)以外に立つものでなければならない。物力が平面的とすれば、生命は立体的だ。生気論者は物力から生命は出ないというが、物力といい、生命といい、別にこのような実在があるのではない。皆実在の様々な見方に過ぎない。ただ、目的観は機械観に比べて、一層具体的実在に近い見方ということができるのだ。生物の生命において現在というのは、自覚的体系が己自身を限定し行く発展の尖端に当たるのだ。すなわちエラン・ヴィタールの尖端に当たるのだ。生命は翻すことのできない順序(機械観的な時間とは異なる、秩序)を、己自身の中に蔵するものとして、唯一無二の現在を有し得るのだ。生物の生命も、繰り返し得る一つの完結した統一と考えれば、一つの結合した物力の体系と異なるところはない。生命の生命たるところは、無限な実在の流れに接触するところにあるのだ。無限な自覚に接触し、その面影(生命自身の面影)を寓する(限定する)所にあるのだ。目的論的因果関係における終局原因は、一つの物体面と自覚的体系の接触点を示すものだ。すなわち後者(自覚的体系、連続体)の立場から、前者(物体面)を見たものだ。すべて我々の対象界は、その中に没入して働くこと(限定すること)はできるが反省することのできない直接の流動的実在(自覚的体系の発展の方向)に接触することによって、それ自身が流動的となり、無限な大生命、大実在の一部となることができるのだ。前に空間は内界の事実として実在的であると言ったのもこれによるのだ。勿論以上述べたように、目的観が機械観よりも一層具体的実在を現すというも、直ちにいわゆる生物の生命というようなものが物理的力よりも実在的であると考えるのではない。いわゆる生物の生命というものは、物力よりも弱いものと考えねばならない。物力は不滅だが生物の生命には死というものがある。ロッツェは「形而上学綱要」において生命と自然の関係を論じて、ある一つの衝動が完全に自分自身にてその目的を達することができればとにかく、そうでなければ既に与えられたものを手段として用いなければならない。この場合、衝動がその目的を達するには、手段そのものの法則に従わなければならない。従ってその力は有限であると言わなければならない。一つの体系が外界の影響に対して合目的な反動を為し得る間は、生きているということができるが、その程度を超えれば、最早かかる反動をなすことはできない。すなわち死であると言っている。しかし生物の生命というのは、経験の一部分の目的観だ。実在の一部分の具体的見方に過ぎない。物力の破ることのできない、否物力をその一面として含めるロッツェのいわゆる自分自身にて目的を達し得るものは、自然全体の生命でなければならない。宇宙進化の目的力でなければならない。我々の個人経験の範囲内においては、我々の自己が実在の中心であって、我々の身体はその射影である「我の生命」を中心として働いていると考えることもできるが、我々の「我」はロッツェのいわゆる永遠の和泉から流れだす間歇的旋律に過ぎない(?)。従って大なる人格統一の一面である自然力に対しては、個人的生命は葦の如く弱いものと言うこともできるのだ(善の研究の第三章を参照)。
 物質界に比べて生命の世界は、一層具体的実在に近づけるものと言うべく、生命の世界に比べていわゆる意識の世界は更に一層実在そのものに接触していると考えることができる。元々これらの世界は各自独立の実在ではなく、一つの実在を色々の立場から見たものではあるが、今仮にこれらの世界を各自独立の世界と考えてみれば、これらの世界は「現在」の一点において相接触しているということができる。現在は種々なる対象界の接触点だ。我々は往々「現在」を無限な時の流れの一点のようなものと見て、線は点の連続と考えるように、「時」は現在の連続であるかのように考えるのだが、連続が分離的な点の連続と見ることができないように、「時」は孤立的な現在の連結ではない。真の現在は「時」という連続(極限)の切断でなければならない。すなわち現在という一点の中に全体の意味を具していなければならない。しかも現在は単なる可能的な直線の任意の一点というようなものではなく、質的に限定されたものでなければならない。質的連続の切断でなければならない。ここに「現在」ということの唯一無二なる意味があると思う。前に言ったように自覚的体系は、量的と質的の両方面を具えているとすれば、現在はこの両方面から限定されたものでなければならない。自覚的体系の全体から限定されたものでなければならない。すなわち現在は実在の全体が反射される焦点とも言うべきだ。我々は現在において宇宙の核に接するのだ。前にも言ったように現在は実在の重心のようなものだ。重力は物体の何れの部分にも備わっているが、全ての力が重心の一点において働くものと考えられてよいのだ。物体の重心は物質の配置というような単なる量的関係から定まるのだが、実在の現在は種々なる体験の体系、すなわち種々なる世界の質的関係によって定まってくるのだ。種々なる世界がそれぞれのアプリオリの上に立つものとすれば、現在はこれらのアプリオリの統一の中心、すなわち自覚的体系の幾何学的関係の重心とも言うべきだろう。すなわち(現在は)ベルグソンのいわゆるエラン・ヴィタールの尖端だ。このようにして現在は、自覚的発展である直接経験全体の重心と考えることができる。ここに動かすことのできない「現在」の絶対性がある。いわゆる物体の重心というような相対的なものと、絶対的に動かすことのできない現在の区別もここにあるのだ。私は理想的と実在的の区別もこれに基づくと思う。「現在」は我々に対して絶対に与えられたもの、限定されたものであって、我々がこれ(現在)を反省することは出来ないと考えられるのは、それが絶対無限である統一線上にあるが故だ。そしてこのような経験の無限な統一ということは、当為即存在で、純粋活動ということだ。すなわち創造的進化ということでなければならない。なぜなら無限とは自己の中に自己を写すということだ。これにおいて我は我を忘じ、主客合一、万物我と一体だ。知識の形式と内容の結合も、ここに求める外はない。我々の知識の新たな内容は、常にエラン・ヴィタールの尖端から入ってくる。いわゆる経験的知識内容のみならず、論理から数理に移り、算術から解析に移るにも、この点(エラン・ヴィタールの尖端)を通らなければならない。単に自然科学的知識について見ても、自然科学的知識ができるだけ憶測をすてて、事実に近づくにしたがって、この現実を中心として考えるようになるのだ。ヘルツが「力学原理」の序論において言っているように、遠達力の力学からエネルギーの力学に至り、更に氏の力学に至って、何らの世界観を設けず現実そのものを論じると考えることができる。現代の相対性原理のようなものが、恐らく最もこの意味に合ったものと言うことができるだろう。現実を中心として考えるということは、原理としては極めて一般的であると共に、最も具体的な実在を考えることができるのだ。あるいは無限の統一というようなものは考えることは出来ないと言われるかもしれないが、無限の統一を考えるということは、それ自身に動的となる(無限に限定される側面を持つ自覚的体系となる)ことだ。
 実在の重心、すなわち自覚的体系の中心とはどのようなものだろうか。自覚的体系の一例として推論式について考えてみても、一般者が己自身を限定する過程として一つの方向というものを考えることができる。勿論真理自体には何らの時間的後先もないと言い得るだろう。しかしこれら(真理自体)の間にもフッサールの現象学的時というようなものを拒むことはできまい。時間はかえってこれ(現象学的時…「三十五」において言われている内面的創造の順序のようなもの、秩序)に基づいているのだ。そしてこのような(一般者の)限定の方向は、どこまでも進み行くことができる。コーヘンの「根元の思惟」においてのように、どこまでも元に還って基礎付けることができる。実在はこのような自覚的体系の果てしない連続だ。一つの体系から他の体系に移るのは、このような内面的転化によるのだ。この内面的転化の刹那、すなわち主客が(合一して)一作用となり、一流道となった時、それが真の現在であって、そこに全実在の絶対的統一があるのだ。精神と身体の結合について考えてみても、前に論じたように、単なる物質界としてはこれ(物質)に精神の結びつき様はない。両者は完全に没交渉だ。物体が精神と結合するには有機的とならなければならない。すなわち目的論的とならなければならない。物体が目的論的に考えられ、一つの方向(限定の方向)というものが考えられた時、それ(目的論的に考えられた物体)は一つの中心を持たなければならない。この中心が自覚的体系の転化の点であって、この点において精神と身体が相結合すると考えられるのだ。すなわち精神の座というものが考えられるのだ。我々の動作が合目的的であって、我々の身体が一つの機能的統一と考えられた時、外界刺激を受けてこれに対して反動する中心、すなわち知覚神経と運動神経の接触点が精神の座と考えられるのだ。このようにしてベルグソンの言うように、心身の結合がエラン・ヴィタールの尖端(=精神の座)においてあると言うことができるのだ。精神と身体の関係は、普通に考えられるような単なる平行論的関係ではない。コーヘンのいわゆる「根元」の意味において精神は身体の根元だ。精神は身体に比べて一層高次的な具体的な立場だ。身体の実在性は精神にあると言ってよいのだ。もし以上のような関係を目的(精神)と手段(身体)の関係ということができるなら、身体は精神の手段であって、精神と身体の関係は目的と手段の関係であるということができるだろう。数理が論理の具体的根元となり、連続数が分離数の具体的根元となり、生命が物質の具体的根元となるというような意味において、精神は身体の具体的根元となり、後者(身体)は前者(精神)の為に存し、その手段ということができるだろう。単に認識対象として抽象的に考えれば、論理は数理から独立に、分離数は連続数から独立に、物質は生命から独立に考え得るだろう。しかし具体的には、対象と作用(連続体)は不可分離的だ。作用を離れて対象を、対象を離れて作用を考えることは出来ない。論理(対象)は数理(という連続体)によってその実在性を得、分離数は連続数によってその実在性を得、物質は生命の統一によってその実在性を得るのだ。抽象的なもの、仮言的なもの、依他的なものは、それ自身において不完全であり、それ自身において矛盾を持っている。己自身を完全にするには高次的立場(連続体)に移っていかなければならない。かつて言ったように、(推論式において)大前提において言い表されたものが蓋然的(その事柄の起こる可能性が、相当に大きい性質のものであるさま)であり、理想的であり、小前提において言い表されたものが事実的であり、現実的であって、断案(結論)においてこの両者を結合した自覚的体系の全体を見ることができる。
(推論式=三段論法…例えば、「人間は死ぬ」(大前提、仮言命令)、「ソクラテスは人間である」(小前提、定言命令)、故に「ソクラテスは死ぬ」(結論))。
すなわち事行である具体的全体が(断案において)現れるのだ。大語(大前提)は物体界を表し、小語(小前提)は心理的主観を表し、精神と身体は推論式の断案の形において結びつくと考えることができるのだ。もし自然科学者の考え方のように、一般的なもの(例えば、人間)を実在として考えてみれば、個人的精神現象というようなものはその特殊な一例に過ぎないと考えられるだろう。しかし推論式の客観性は、単にその大前提の抽象的一般性にあるのではない。客観的知識の根底となる真に一般的なるものは、具体的一般者でなければならない。すなわちそれ自身に創造的なもの(自覚的体系)でなければならない。知識の客観性はこれによって立せられるのだ。推論式の本質は単なる仮言的な大前提にあるのではなく、己自身を限定する具体的一般者(連続体)の想像作用にあるのだ。そして想像作用の本質はその背後の原因にあるのではなく、その行く先の目的にあるのだ。単なる一般的なものは実在の目的ではなく、かえって(実在の)発展の手段となるのだ。このようにして客観的知識発展の要求から言えば、論理は数理の発展の手段となり、分離数は連続数の発展の手段となり、物質界は精神界の発展の手段となる。このような意味において、我々の精神と身体は推論式の形において、目的と手段の関係によって結合すると言ってよいだろう。もし精神の座ともいうべき両者(身体と精神)の接触点を求めれば、小語(小前提)がこれに当たるということができる。物体界というのはそれ自身に独立した実在ではない。具体的な真実在の一方面に過ぎない。実在全体の発展の上から言えば、(物体界は)その発展の手段と考えるべきものだ。私はこれにおいてロッツェが知識の意味を論じて、我々の感官は外界を写すために存在するのではない。美しき光の輝き、妙なる音の調べ、何れもそれ自身の為に存するのだ。かれらは目的そのものだ。物体的運動は我々の精神をしてこの目的を達せしめる手段に過ぎない(我々の感官は、我々の精神に対して、この目的を達成するための手段に過ぎない)と言ったのに同意を表したいと思う。

三十九
 すでに論じたように、全て直接にして具体的な実在は自覚的(体系)だ。これを思惟の経験、すなわち論理的実在の型によって言えば、ヘーゲルの言ったようにすべてが推論式的であると言い得るだろう。私は思惟の経験というものも、普通に考えられるような単なる主観的作用ではなく、フィードレルの考えのように、言語をその表現とした内外の両面(内…精神と外…物体)を有する独立の一実在であると思うのだ。精神と物体は異なる二つの実在ではなく、自覚的な具体的実在の両面だ。推論式によって言えば、その大前提が物体界を表し、小前提が意識界を表すと考えることもできるのだ。物体界とは我々の直接経験、すなわち実在をどこまでも一般化した可能的世界だ。これに反し意識界とはその(可能的世界が)特殊化された、すなわち限定された現実の世界だ。我々は時々刻々に移り行く経験をまず自己の意識範囲内において一般化し、次にこれを社会的経験において陶冶(ねって作り上げること)し、最後にいわゆる理性によって純化し、完全に人格的要素を除去していわゆる物理的世界(物体界)というものが構成されるのだが、いわゆる物理的世界というのは実在の一方面であって、実在そのものではない。具体的な真実在は何時でもこの現実だ。現実がどこまでも全実在の中心となるのだ。物理的知識に客観性を与えるものもこの現実だ。精神界と物体界の接触点、あるいは精神界と物体界の分岐点は、実にここ(現実)にあるのだ。我々の自覚的経験について考えてみると、我が我を反省する所(限定する所)、すなわち我が働く所、そこが我の現在だ。普通には働くと否とに関せず、それ自身に不変な自己があって、現在の我の働きはこれ(不変な自己)から起こると考えられる。すなわち不変なものが実在と考えられる。しかし我の我である所以は、このように自己が自己を反省する所にあるのだ。省みる自己と省みられる自己が同一な所にあるのだ。この事行の外に我はない。ここに我の全体がある。過去の我も真の我ではない。未来の我も真の我ではない。真の我はただ現在の我だ。我々は現在の我を中心として過去の我を想起し、未来の我を想像するが、想起された我も、想像された我も真の我ではない。ただ現在の我の表象として、その一部分を成すまでだ。我々は行動において過去の我と接触することは出来るが、過去の我に還ることはできない。いわゆる「過去は過ぎ去ったもの」である。真の自己はこの現在の能動的自我(働く自己)である。考えられた我(不変な自己=思惟によって抽象化され対象化された自己)は限定された我だ。これからは何物も出てこない。これには何らの創造的作用もない。決定論者の考えは我を対象として考えるから起こるのだ(?)。
 現在が実在の重心であると考えられるのは、我々の経験の動き行く尖端であるが故だ。それ自身に動くもののみ実在ということができるのだ。しかし今もし無限な経験体系を与えられたもの(限定されたもの)として考えてみると、我々の経験の動くということは、立場の推移と考えることができるだろう。例えばある一つの立場によって統一された経験の体系を一つの円のようなものと考え、無限な経験体系の結合を無数の円がある一点において内接しているように考えてみると、この点の切線に垂直な直線、すなわち無数な円の中心を貫く直線が経験の動き行く方向であって、ベルグソンンのいわゆる流るる時ともいうべき真の時の方向と考えることができるだろう。経験の推移には二種あると考えることができる。一つは同一の立場に基づく経験の発展だ。すなわち一つのアプリオリに基づく発展だ。もう一つは立場の推移だ。一つのアプリオリから背後の大なるアプリオリに移り行くことだ。前者を一直線の延長のようなものと考えてみれば、後者はマールブルク派で考えるように、極限概念による一つの曲線から他の曲線への推移のようなものと考えることができる。すなわち創造作用の発展の方向だ。しかし前者(一直線の延長)の意味において無限の延長ということは数の無限と同じく、これ(無限の延長)を一つの体験にまとめて考えることができるのだから、経験全体の絶対的統一点は、体系と体系の無限な系列の統一点にあると考えねばならない。そして我々が実在と考えるものは統一された経験であるとすれば、このような統一の極限が絶対の真実在でなければならない。実在的と考えられるものは理想的なものの極限だ。数理は論理の極限となり、連続数は分離数の極限となるのだ。そして右のような無限なものの統一、すなわち絶対的統一とは、それ自身に独立し、それ自身に動く(働く)ということだ。すなわち自覚的(体系)であるということでなければならない。それ自身に動くものにして、はじめて真の無限ということができるのだ。止まるものは有限であり、動くものは無限だ。我々の現在とは、このような無限な実在の統一点だ。我々はこの現在において無限の実在と連結し、この点から無限の実在に移り行くことができるのだ。現在とは経験の一体系が己を統一する(限定する)と共に、己を超越して他の体系に移り行く点だ。すなわち己自身の根底に還り行く点だ(例えば、論理の根底には数理があり、論理が発展して数理に移り行くというような意味において、己自身の根底に還り行く、ということ)。右のような訳であるから、現在は創造的進化の動き行く尖端と考えられると共に、過去に還る反省の点と考えられるのだ。我々は意志によって未来に進み行くと考えると共に、反省によって過去を省みることができると信じている。現在は実にこの(過去と未来という)両方面の結合点だ。しかし翻って考えてみれば、前に言ったように、我々が過去を反省するというのは、我々は一瞬の過去にも還ることができないという考えと衝突せざるを得ない。ここに深い論理的矛盾がある。この矛盾はどのように解くべきだろうか。
 マーテルリンクは「過去」と題する小論文の中に、過去は過ぎ去りたるものではない。過去はいつでも現存している。過去は動かすべからざるものではない。過去は我々の現在に従属し、現在と共に動くのだ。ただ道徳的に死せるものにのみ、過去は固定したものとなる、と言っている。私はマーテルリンクの言を、目的論的に解釈してみようと思う。機械論的因果関係では過去は動かすことのできないものと考えられるかもしれないが、目的論的因果関係においては、現在および未来によって過去の意味を変じることができる。目的論的因果においては、過去は現在および未来の手段だ。将来に進み行く途によって過去の意味が変じると考えることができる。アウグスチヌスの回心以前の生涯は、彼の回心以後の生涯によっていかにその意味が変じられたかを見よ。オスカー・ワイルドはギリシャでは神も過去を変じることができないと考えられたが、キリストはどのような罪人にても容易に過去を変じることができることを教えた。例の放蕩息子が父の前に跪いて泣いた時、彼は彼の過去を最も美しき神聖なものとなしたと言っている。このような道徳的生活においてそう考えられるのみならず、すべての目的論的因果についても、そう考えることができると思う。「絶対時」というものがあるとすれば、我々は一瞬の過去にも還ることができないと考えねばならないのだが、絶対時というようなことは単なる思惟の要求であって、実在的なものではない。機械論と絶対時の間にも必然的結合があるのではない。物理学者の「時」とは単なる一種の座標に過ぎない。実態の方から言えば、機械論においてはかえって(繰り返すことのできない絶対時において)同一の現象を繰り返し得ると考えねばならない。我々が同一の現象を繰り返すことができないと考えるのは、体系の全体を与えられたものとして考えるためだ。我々が時計の盤面において時を知るように、時を空間化して(限定して)考えた時、全体系が固定されると共にその順序は動かすことのできないものとなる。機械観と絶対時が結合されるのはこれによるのだ。ベルグソンの言うような真に反省のできない「時」は、繰り返し得ると考えることもできないと共に、繰り返し得ないと考えることもできない。我々が経験を対象化してその全体の統一を想像する時、動かすことのできない「時」というものが考えられるのだが、このような統一(対象化された統一)は無論これ(真に反省のできない時)に達することは不可能だ。全経験の統一ということは、単なる我々の要求に過ぎない。たとえ全経験の内容が有限であって、意識され尽くされたとしても、これ(意識されたもの)を意識するということが既に新たな経験だ。このようにして無限に新たな経験がなければならない。しかし全経験の最終統一に達することができないということは、経験に統一がないということではない。統一の予想されない経験は成立し得ない。コーヘンの言うように与えられたもの(限定されたもの)は要求されたものだ。全経験の統一ということは要求の統一だ。作用の統一だ(要求という作用の統一だ?)。これ(全経験の統一)を知識の中に求めることはできないが、意志の中に求めることができるのだ。
 自覚という中には、単に自己を対象として意識するというばかりではなく、情意(感情、意志)の意識が含まれていると思う。自覚においては「知る」ということは「行う」ということであり、「行う」ということは「知る」ということだ。我々は普通には、意志を認識の対象とすれば最早(対象となったものは)意志ではなくなるというが、我々の自覚においてはそう考えることは出来ない。自覚においては知と意の区別は抽象的区別であって、具体的にはこの両者(知識と意志)は直ちに一つでなければならない。背理のようではあるが、我々が自己(対象化できない真の自己)を反省することができないと知るのは、すなわち自己(反省によって対象化できる自己)を知るからだ。単なる自覚の場合においてのみでなく、一つの連続的直線というようなものを意識する場合においても、その中に作用の意識というものが含まれていると思う。我々は一つの連続的直線というようなものを意識した時、我々はその中に表象することのできないもの(この場合、連続=無限)が意識されていると考えなければならない。すなわち思惟対象(この場合、連続)が直覚的に意識されると考えねばならない。我々が表象的意識(直線)から、厳密な意味における連続というような思惟対象の意識に達するには、その間に作用の意識が入ってこなければならない。そこには一つのエラン・ヴィタールがなければならない。連続の意識の中には作用の意識が入っている。すなわち意志が入っている。数学者のいわゆる極限概念の中に意志の意識が含まれているのだ。我々の意志の意識というのは、極限の意識だ。アプリオリからアプリオリに移る場合の意識だ。我々の意識がエラン・ヴィタールに接触する所、そこに意志があるのだ。意志が認識対象となった時、もはや意志ではないというが、我々が連続というもの(極限)を意識するからには、作用が意識されると考えなければならない。意識するといえば、我々は必ず認識対象として意識することであると考える。そしてその対象は実在の世界に属さず、単に意味の世界に属するものと考えられる。しかし意識するということは、認識するということのみではない。意志も感情も皆意識の一種だ。我々がある物を意志する時、その事自身(意志自身)が意識されていないと考えることはできまい。ブレンターノなどの考えのように、意識を我と対象の関係として考えてみると、意志とか感情とかいうのは知識と完全に異なった対象的関係と考えねばならない。知識においては我と対象は対立しているが、意志や感情においては我と対象(意志、感情)が合一していると考えねばならない。すなわち我と対象の一致した意識があると考えねばならない。我々は内省的経験の上において、明らかに「私が知る(知識)」、「私が欲する(意志)」、「私が感じる(感情)」ということを区別して意識することができる。私が欲するということを知った時、その意志は知識対象となることは言うまでもない。しかし我々は過去の意志を知るとき、意志としてこれを知るのだ。私が欲したとしてこれを知るのだ。反省によってこのような意識の意味(意志の意識)が(知識対象に)変わるのではない。過去の意志が反省された時、その性質が変じられるかのように考えるのは(意志が知識対象に変じたように考えるのは)、意識対象の性質を一様に考えるからだ(意識対象をすべて知識対象と考えるからだ)。知識対象となる、という語に拘泥する為だ。我々が意識するということは、必ずしも認識するとは限らない。認識対象は意識対象だが、意識対象は必ずしも認識対象ではない。芸術家のいわゆる「骨」というようなものも明らかに一種の意識ではあるが、芸術家はこれを認識対象として意識するのではない。ただ一種の力としてこれを意識するのだ。もしこれ(骨、一種の力)を認識対象として意識した場合には、「骨」ではなくなるのだ。このような意識(認識対象ではなく、意識対象としての意志、感情)は概念的に考えるとか、言語に表すとかいうことのできないものであるかもしれない。しかしそのために不明瞭な意識と考えるのは誤りだ。意志とか感情とかいうものも、知識と同じく明瞭な意識でなければならない。我々が過去の意志や感情を想起した時、それは既に知識対象であって意志や感情でないと考えるのは、どのような理由によるのだろうか。右に言ったように、意志や感情はそれ自身において明瞭な意識であって、これを想起した時、明らかに知識と区別されるならば、何によってそれが知識対象であって意志や感情ではないと考えられるのだろうか。知情意の区別を空間の三次元のようなものに比べてみると、我々は先験的空間の形式によって、個々の方向(例えば左右、上下)を意識し理解するように、過去の知情意を区別するのも、現在の知情意と共に知情意の基である先験的知情意の方式によって区別するのではないだろうか。我々が過去の意志や感情を想起するのは、つまり現在の意志や感情と同一方式において意識するのではないだろうか。意、意と接し情、情と感じるのであって、意志や感情が普通に考えられるように、知識対象となって意識されるのではない。我々は過去において斯く欲したと意識した時、これをして(意識したことによって)意志の性質を失わしめるものは過去という考えの付加であるとすれば、現在斯く欲すると意識した時も、この現在という考えの付加が、現在の意志の性質を失わしめる訳だ。意志はこれを意識し得たとすれば意志ではなくなり、何らの意味においても意識できないとすれば、意志というものはない。この矛盾は過去の場合でも、現在の場合においても同様だ。意志は直接に意識されるか、そうでなければ意志という意識はなくなるのだ。もし意志が直接に意識されるとするならば、過去の意志を意識するも、現在の意志を意識するも同様だ。換言すれば、意志には時間的差別はないということになる。意志は思惟と同じく、いわゆる時間的関係を超越した意識であると考えなければならない。そして時間的関係を超越するのみでなく、意志の統一は思惟の統一よりもなお一層深い意味の統一であると考えることができる。思惟の根底に意志があると言うことができる(「考えよう」という意志の統一(動機)の後、思惟作用を起こすと考えることができるなら、意志は思惟よりも一層根本的なものであるということができる)。経験体系を組織する真の一般者は、一般概念(思惟)ではなく、一つの動機(意志)だ。思惟ではなく意志だ。真に己自身によって立つ自動的経験体系は、意志の形であると言わなければならない。このように考えてみれば、意志の直感ということがかえって知識統一(思惟の統一)の基となり、(思惟によって要求された)時間的統一の前に意志の直感がなければならないこととなる。過去の思想を想起する場合について見ても、我々が過去の思惟を想起した時、心理現象としての思惟作用は過去の出来事として知識の対象に属する(「あの時あのように考えた」という思惟作用は、知識対象に属する)が、過去において思惟作用を思惟作用たらしめた意味は、自然界(知識対象界?)には属しない。そして過去において思惟作用を思惟作用たらしめた意味はまた、現在において思惟を思惟たらしめるものだ。我々は現在において過去の思惟を想起する時、このような意味の立場に立って見るのだ。二次元の世界にいるものは三次元の意味を理解することは出来ない。たとえ、二次元の世界における図面が三次元の射影であるとしても、到底これを(三次元の射影であると)理解することはできない。二次元の世界における図面を三次元の射影として理解するには、我々は一たびこの二次元の世界を離れてみなければならないのだ。我々は過去の思惟を想起するにも、一たび超時間的意識の立場に立たなければならない。思惟の内容は過去と現在において変わりはない。ただこれ(思惟内容)を意識する作用において異なるのみだ。意識したということは、思惟の内容そのものに何らの変化も与えない。(知覚において太陽は輝くにも関わらず)「太陽の表象」は輝かないというが、その変化(太陽が輝かないという変化)は想起の為に起こるのではない。知覚と表象は作用において異なっている為だ。意識するということは存在するということと同じく、意識の内容及び性質に何らの関係もない。物が何回現れても物そのものに何らの変わりはないのと同じく、同一の意志が何度働いても意志そのものは同一と考えることができる。すべて精神現象は一度限りのものと考えられるのは、意識されるということをその(精神現象の)本質と考え、そしてこれを時間上に起こる出来事と考えるによるのだが、厳密にこのように(精神現象は一度限りのものと)考えるならば、心理現象の間に何らの関係も統一も考えることは出来ない。このようなものは心理現象ではなく、純粋な事実というようなものだろう。従って物理現象とも解することができるのだ。心理学者が意識されるということを条件として、心理現象というものを考えるのは、すでに個人的主観によって現象を時間的に統一しているのではないだろうか。(心理学者の言うような)単なる意識というものがあるとすれば、それは物理的でもなければ心理的でもないと言わなければならない。
 以上に述べたように、意志とか感情とかいうような意識は、知覚とか思惟とかいうようないわゆる知識作用から根本的に区別され、我々がこれ(意志、感情)を想起した場合においても、意によってのみ意を解し、情によってのみ情を感じることができ、そして意志においては我と対象が合一し、意志は意識の根本的統一であるとすれば、知識において我は我と合一することができず、一瞬の過去にも還ることができないと考えられたが、意志においては時間を超越し、かえって時間を創造する絶対的自由の我に返ることができると考えることができる。意志においては対象界は単なる対象ではなく、手段だ。その対象が一つの活動(我の働き)となるのだ。我は我自身に還って対象界を支配する位置に立つのだ。「我が意志する」という時、我は時間的関係を超越するのだ。目的論的因果関係においてのように、意志は時間的関係を離れた原因だ。時間的関係はかえって意志によって成立するのだ。カントが定言的命令(無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法)を自然的因果の外に考え、フィヒテが知識的世界の根底に実践的自我を考えたのも、深い意味があることと思う。もし時間的語を以って言えば、意志においては、過現未を通じて、すべての対象界が現在であると考えることができる。マーテルリンクと共に我々の過去は完全に我々の現在に属し、絶えずこれ(現在)と共に変じるということができる。ベルグソンは純粋持続においては一瞬の過去にも還ることは出来ないと言うが、創造的進化の状態(時間を創造する絶対的自由の我の状態)においては、かえって過去全体が現在として働くと考えることができる。我々は創造的進化の純なる状態(意志の状態)に達することができればできるほど、我の深き根底に達し、過去を現在化することができると考え得るのだ。ベルグソンは「物質と記憶」において記憶の全体を円錐形に比べ、その底面を過去とし、その頂点を現在と考え、円錐はその底面から絶えず頂点に向かって集中すればするほど、過去全体が現実となると考えることができる。前に現在を物体の重心に比べたが、物体の重心というのはすべての力の働く点だ。物体を構成するすべての物質の重量が現在となる点だ。我々は知識においては反省によって過去に返ることができないと考えられるが、意志においては全過去を現在となすことができる。意志においてはすべての経験内容が動的状態において統一されるのだ。正しく言えば、すべてが動的となる時は過現未は消滅する。すなわち時間を超越するのだ。ロッツェの言ったように時間は動的実在の形式ではない。単に現象の形式に過ぎないのだ。我々は過去を想起する時、過去は記憶表象として我の現在に属すると言うが、斯く過去を現在たらしめるものは意志だ。想起作用という意志の形において、過去が現在となるのだ。現在において想起されたものは過去の我ではないと考えられるのは、認識的自我(心理的自己、対象化された主観)に対して全自我(真の主観、対象化する主観)を考えるからだろう。過去の我に返ることは出来ないと考える時、過去の我とはどのようなものを指すのだろうか。もし過去における直接経験の内容のようなものを指すのならば、現在においてのみならず、過去においても同じように反省ができなかったと考えなければならない。これに反し、もし過去において現在の我が我を知るという意味において己自身を知り得たとするならば、現在においてこれ(我)を知ることも可能と考えなければならない。反省された自己、即ち仮にも認識対象となった経験内容(この場合、認識対象となった我)は、一般的(なもの)でなければならない。すなわち作用を超越したものと考えなければならないのだ。真に反省のできないものは、意志そのもの(真の主観、対象化する自己)でなければならない。自己そのものでなければならない。そしてこのような意志(真の主観)は時間的順序を超越しているのだ。我々は過去に返ることができないと考えるのは、「時」を無限の直線のようなものとなし、自己をその線上に進み行く一点のようなものと考え、一次元の上に動く点は一瞬の前にも還ることはできないと考えるのだが、我々がこれ(点)を意識した時、すでに二次元の世界に立っている。知識対象としては不可還だが、認識主観としては過去を現在となすことができると言わなければならない。それで我々が一瞬の過去にも返ることができないという真の意義は、能動的主観(真の主観、対象化する主観)の背後に回ることは出来ないということでなければならない。自覚的体系において、自己が全自己を対象とすることができないという意味でなければならない。想起された過去の我は真の過去の我(能動的主観)でないということは、要するに我は不可測だ。我の底には、いかなる錘を以ってしても達することは出来ないということだ。過去であるから返ることは出来ないというのは、かえって時を空間的に考えたもので、斯く考えること(時を空間的に考えること)それ自身が、すでに過去に還り得ることを証しているのだ。我々の記憶というのは過去を現在化する作用だ。過去の経験内容を対象化する作用だ。要するに時間を超越する意識作用だ。故に過去を想起する(長時間的な)記憶は、直ちに未来を想像する作用だ。ベルグソンは一瞬の過去にも返ることができないと言うが、我々が時間を超越して円錐形の広い底面に返ることができればできるほど、そこに大なる創造があるのだ。創造するというのはかえって自己の根底に返ることであると考えることもできる。記憶作用において我々は現在の自己を超越して、個人的自己の全体を統一し、思惟作用において我々は個人的自己を超越して超越的自我の全体を統一し、意志において我々は認識の世界を超越して実在全体(個人的自己と超越的自己を合わせた全体)を統一すると考えることができる。記憶によって我々は個人の根底から働くことができ、思惟によって我々は客観界の根底から働くことができ、意志によって我々は様々な客観界を超越して、創造的進化すなわち純粋持続そのものとなるのだ。それで記憶から思惟に、思惟から意志に、段々と小なる立場から大なる立場に進み、浅い根底から深い根底に達するにしたがって、そこに自由の世界、創造の世界がある。記憶の立場すなわち表象の立場においては、そこに自由なる創造の世界、空想の世界があり、思惟の立場においては、そこに科学者の仮説の世界があり、意志の立場においては我々は自由に実在を創造することができる。すなわち自由意志の世界がある。(意志の立場においては)何の立場においてもὄνの外にμὴ ὄνを含んでいるのだ。我々が一瞬の前に還ることができないというのは、限定された対象界においてのことだ。すなわちὄνの上においてのことだ。ὄν+μὴ ὄνの高次的立場の上に立った時、我々は過去に返ると考えることができる。そしてこれが意志の立場だ。マーテルリンクは我々は道徳的意志によって過去を動かすことができると言うが、カントの定言的命令というような道徳的意志は、すべての世界を超越した立場だ。我々はこの立場においていかなる世界を取るかは自由だ。
 以上論じたように、意志はいわゆる時間的関係を超越して過去を現在となすことができるとしても、我々はなお意志活動そのものの順序というものを考えることができるだろう。意志の活動は一々事実であって、その間に動かすことのできない順序があると考えることができるでもあろう。ベルグソンの一々性質的に異なった繰り返すことのできない実時というのは、これを意味するのだ。しかし私の考えでは、意志は過去から直線的に歩み来り、また未来に向かって直線的に歩み去るのではない。意志の進行はある一点を中心として円状に広がり行く波動的進行だ。意志はいつでも同一の中心から働く。意志の中心すなわち真の自己は、いつでも現在であるのだ。意志の働いた足跡を反省してこれを直線的に連続してみれば、意志の動かすことのできない順序(実時)というようなものを考えることもできるだろうが、このように順序付けられた意志はすでに化石化された意志であって、生きた意志ではない。真に生きた意志は完全に自由でなければならない。自由に種々の経験の立場を取捨し、一つのアプリオリから他のアプリオリに自由に移り行くのが、真の意志の活動だ。過去を翻して現在となすのが意志の作用だ。意志は順序付けられるべきものではなく、順序を付けるものだ。意志はフィヒテのいわゆる単に動的なるものでなければならない。ある一つのアプリオリを立場として、これから進んで行くのが知識の立場であるとすれば、これらのアプリオリを超越するのが意志の立場だ。すなわち意志は絶対の反省であると言ってよい。意志は無限な可能性の結合点だ。コーヘンは与えられたものは求められたものであると言い、有に対する無は単なる無ではなく、μὴ ὄνであると言うが、私がかつて言ったようなὄν+μὴ ὄνの立場はすなわち意志だ。認識の立場(限定の方面)は消極的無限の立場であって、意志の立場(発展の方面)は積極的無限の立場だ。意志は知識の極限だ。一つのὄνの立場からそのμὴ ὄν(アプリオリ)の方向に向かって進んで行くのが知識だ。すなわち消極的無限の立場だ。このような無限な可能性、すなわちアプリオリの結合が意志だ。すなわち積極的無限の立場だ。ヘーゲルの語を以って言えば、理念それ自身の発展進行に当たって、抽象的立場が具体的立場の中に止揚(低い次元で矛盾対立する二つの概念や事物を、いっそう高次の段階に高めて、新しい調和と秩序のもとに統一すること)された所が意志だ。意志は何時でも具体的だ。これ故に意志は知識に対しては創造的だ。エラン・ヴィタールだ。論理から数理に、分離数から連続数に飛躍するにも、意志によると言うことができる。ベルグソンは純粋持続においては一瞬の過去にも返ることができないと言うが、この語はすでに意志の足跡を反省した言だ(一瞬の過去にも返ることができない、と仮定している時点で、意志により過去を現在となす作用がすでに働いているということ。過去に返ることができないならば、このような考えすらも浮かばないということ)。もしベルグソンの創造的進化がこのようなものならば、それは死物だ。生きた純粋持続ではない。真の純粋持続は一面において無限の発展であると共に、一面において「永遠の今」でなければならない。ベルグソンは後の方面を見逃していると思う。生きた持続は伸縮自在であって、何れの点にもその尖端を向け得ると考えなければならない。あたかも物体の位置によって重心が変じるのと同様でなければならない。
 意志は右に言ったように物理的時間を超越すると考えなばならないとしても、なお何らかの意味において意志の順序というものを考えることは出来ないだろうか。意志はどこまでも絶対自由と考えねばならないのかという疑問も起こるだろう。もし時間的順序と言うものを離れて、経験の内面的順序というようなものを考え得るとするならば、論拠と帰結の論理的順序というようなものか、またはフッサールのいわゆる現象学的時(エラン・ヴィタールの内面的創造の順序)というようなものだろう。意志作用はこれらの順序に制されるべきものと考え得るだろうか。ある一つの幾何学的定理を証明するにあたって、その間に動かすことのできない根拠と帰結の順序と言うものがあるだろう。しかし幾何学のような純理的関係においては、根拠が帰結を制すると考えられると同時に、後者(帰結)が前者(根拠)を制すると考えることもできる。自然科学的因果関係においても同様だ。原因と結果は左右の如く、その根底においては一つだ。内面的には(真の主観、意志のような動的統一ではなく)静的統一であると考えることもできる。証明における論拠と帰結の関係が右の如くなる(静的統一であると考えられる)のみならず、我々は一つの幾何学的低利の証明をいずれの一端から考えても、理そのものには何らの関係もない。真理の発見が往々偶然な端緒から始まるのを見ても明らかだ。右のように考えてみるならば、いわゆる思惟の内容というようなもの(真理のようなもの)と意志の作用の間には、何らの交渉もないと考えることができる。フッサールのいわゆる本質の体系というようなものについても同様だと思う。科学者はこれにおいて意志の背後に生理的素質とか、更に一層進んで化学的または物理的因果関係というようなものを仮定するかもしれないが、このような説明は前後顛倒(本末転倒)に過ぎない。意志の原因は到底不可能だ。意志は神秘だ。マックス・シチルネルが有名な「我とわが物」の終において、神について「名付くるに名なし」と言われているが、「私(意志、真の主観)」についても斯く言うことができる。いかなる概念も「私」を言い表すことはできない。いかなる性質も「私」を尽くすことはできない。「我」は創造的無から来って創造的無に返り行くと言っている。これらの語は意志の真相を言い得て最も深いものであると思われる。
 思惟の対象は右に言ったように意志作用とは何らの交渉もないのみならず、思惟作用すらも思惟の対象そのものとは関係ないものと考えられる。思惟の対象が思惟作用の中に入って思惟の内容となるのだが、思惟対象が思惟されるか否かは、対象そのものに何らの関係もないと考えられている。この考えを厳密にすれば、思惟作用とは単に思惟対象が意識されるということに過ぎない。意識されるということは受動的と能動的の二種に考えられるが、その能動的な場合が思惟作用と考えられているのだ。そしてこのような思惟作用は一方から考えれば、一種の意志作用だ。正しく言えば数学的真理のような思惟対象が意識されることが思惟作用であって、このような意識の生起、すなわち何の点からこれを始めるかというようなことが意志作用に属するのだ。それでは思惟の対象が意識されて思惟の内容となった時、思惟の対象に何物が加わって来るのか。意識されるということは意識内容に何物も加わらないと言うが、何者かが加わると考えなければ、意識されるか否かの区別は無意義だ(意識されるか否かという区別もできない)。ここに解き難き難問がある。私がかつて言ったように、思惟作用は思惟対象の動的状態、すなわちその発展の相に過ぎないと考えてみても、物が働くということは他との関係に入ることでなければならない。思惟作用というのは、思惟対象が種々なる体系の相互関係に入る点と考えねばならない。無論理想的なものはいかに密接に相関係してきても、それ自身によって実在的となり得ないと考えられるだろう。プラトンの理念がいかにして現実の世界に堕し来るかは、到底説明することは出来ない。あたかもある一つの有理数をいかに無限に分かち行くも、極限点に達することができないのと一般だ。我々は理想から出立しては到底現実に達することは出来ない。思惟対象の関係から思惟作用に到ることは出来ない。思惟の世界からは、現実は達することのできない無限の距離だ。しかし翻ってこれを考えれば、現実を離れて理想はない。作用を離れて対象はない。現実は無限な対象の統一、無限な思惟体系の極限だ。消極的には達することのできない対象の極限点は、積極的にはこの現在だ。この現在の意識だ。現在はすなわち意識、意識はすなわち現在だ。勿論普通に考えられる(思惟によって抽象化され対象化された)現在とか意識とかいうのは、このような豊富な内容を有するものとは考えられない。しかし普通に考えられるような現在とか意識とかいうのは、考えられた現在、考えられた意識だ。真の現在はコーヘンのいわゆる能生点(生み出す点)のようなものでなければならない。曲線によって点が与えられるのではなく、点によって曲線が与えられるのだ。自然的因果によって意識が生じるのではない。意識によって自然が与えられるのだ。意識の範囲を知る意識(意志、真の主観)は、意識の範囲の中にはない。刺激の数を識別した意識は、この数を超越していなければならない(でないと刺激の数を識別できない)。普通には現実の経験から抽象したものを実体化して、翻ってこの具体的現実をこのような(抽象された)実在の結合によって説明しようとする。自然科学者の考え方のようなものがそれだ。しかし現実は達することのできない海の底だ。ベーメのいわゆる無底だ。その底に達し得るものならば、現実ではない。実在の実在たる所以は、この達することのできない内容の無限にあるのだ。一方から考えれば何らの意味においても知ることの出来ない実在は無であると考えられる。しかしまた一方から考えれば、知り尽くされたものは実在ではない。要するに、実在とは我々の思惟の及ぶことのできない極限に過ぎない。カントの物自体はこのような意味の極限でなければならない。
 このような思惟の達することのできない深さ、思惟体系の統一の極限、すなわち積極的には自動不息なこの現在、それが意志だ。創造的無から来って創造的無に入り行く意志は実在であり、意識だ。思惟の体系から見れば、意志は測知し難き無限だ。これを合理的に説明しようとすれば、思惟に対して(意志は)偶然的と考える外はないだろう。しかし反省のできない意志は反省を超越して、かえって反省を成立させるものだ。否、それ自身(反省自身)がすでに一種の意志だ。この意味において、昔ディオニシュースが「神は一切であると共に、一切でない」と言った語は直ちに映して意志に当てはめることができる。もし意志の秩序を問うものあらば、意志は一方において無限の秩序を蔵すると答えなければならないと共に、一方においては何らの秩序も有しないと答えなければならない。なぜなら意志は順序付けられるものではなく、順序を構成するものであるが故だ。意志は因果には支配されない。なぜなら因果を構成するものであるが故だ。私はこれにおいてスコトゥス・エリューゲナの「定命論」において、神を絶対的意志となし、これに内面的必然すらも拒んだという考えに深い意味を見出さざるを得ない。意識されることは意識内容に何物も加えないとか、意志は知識内容に対して偶然的であるとか言われるが、これは意志が一切を超越して、しかも一切を成立させるが為だ。意志はすべての内容を実在的たらしめるものであるが故だ。あたかも「ある」という術語が主語に何らの内容を加えないのと同様だ。
 ベルグソンは実在は創造的進化だ。純粋持続においては我々は一瞬の過去にも還ることはできないと言うが、前に言ったように翻すことのできない順序として考えられるものは、すでに我々の対象界に属したもの(対象化されたもの)でなければならない。ベルグソンのいわゆる流れた時に属したものと考えねばならない。たとえ、それが性質的であるとしても、何らかの意味において順序というものを考えるからには、すでに対象界に属したもので、真に創造的な実在そのものとは言われない。この点に関しては、リッケルトなどの言うように個性を表す歴史的見方はすでに一般概念の上に立つものだ。自然科学的見方と共にすでに構成されたものであると言わなければならない。真に創造的な実在そのものは、スコトゥス・エリューゲナの考えのように、何らの必然を有しない神の意志のようなものでなければならない。自覚的体系において当為即存在として無限の発展を考える時、すなわち一つの人格的歴史を考える時、それは既に対象界に属している。我々はその背後にこの歴史的発展を超越して、しかもその基礎となる絶対的意志を考えねばならない。前者は哲学の領域だが、後者は宗教の領域だ。考えられた自覚的体系とは意識内のことであって、その背後には神秘の世界があるのだ。ベルグソンは「創造的進化」において、一人の画家が人物を描くとき、そのモデルや画家の性質や、パレットの上に延べられた色によって、いかなる肖像ができるかを予知することはできるが、真にいかなる画が出来るかは画家自身も知ることはできない。我々の生涯の一瞬一瞬において我々は芸術家だ。画家の才がその作者そのものによって形成されるように、我々の状態は刻々に我々を変じ行くのだ。これは一方から見れば与えられた我々の性質によると言い得るでもあろうが、一方から見れば我は絶えず我を創造するのであると言い、単なる機械論に反対するのみならず目的論も排斥しているが、ベルグソンの言うような真に我が我を没した創造的瞬間においては、何らの意味においても「時」というべきものはない。純粋持続の「持続」という語も、すでに蛇足だ。我は進みつつあるか退きつつあるか、右に行くか左に行くか、我は我を知らずと言う外はない。エピクテートが「汝の意志は我が意志なり、汝の欲する所に我を導け」と言い、キリスト教徒が「ただ御心のままになし給え」という深い宗教的情操のみ、よくこの気分を現し得ると思う。要するに知識の方から言えば絶対の統一は無統一だ。普通に(一般的に)無限は単に果てがないと考えられるのと一般(同様)だ。ただ知識を超越した絶対的意志の立場からこの矛盾の統一(絶対的統一)を体験することができる。スコトゥス・エリューゲナなどが考えたように、神の超越性はすべての範疇を否定した時、意識されるのだ。フーベルはエリューゲナが神の無限性と自覚を結合するに苦しんだというが、真に無限なものはすなわち自覚的でなければならない。自覚は無限の積極的体験だ。

結論


四十~四十一(絶対自由の意志)


四十~四十一(絶対自由の意志)
四十 
 多くの紆余曲折の後、私はついに前節の終において、知識以上のある物(真の主観である絶対自由の意志)に到達した。私はこれにおいてカント学派と共に、知識の限界というものを認めざるを得ない。ベルグソンの純粋持続のようなものも、これを持続という時、すでに相対の世界に堕している(思惟により抽象化し対象化されている)。(純粋持続は)繰り返すことができないというのは、すでに繰り返し得る可能性を含んでいる。真に創造的な絶対的実在は、ディオニシュースやエリューゲナの考えのように一切であると共に、一切でないものでなければならない。ベルグソンも緊張の裏面に弛緩があると言っているが、真の持続はエリューゲナの言ったように、動静の合一、すなわち止まれる運動、動ける静止でなければならない。これを絶対の意志というも、すでにその当を失している。真にいわゆる説似一物即不中(禅語。一物を説似せんに即ち中らず。少しでも言葉にしてしまったら、それは違ってしまうという意)である。
 現代の哲学において、認識以前の実在とも言うべきものは、あるいはベルグソンの純粋持続のように不断の進行と考えられ、あるいは未だ形成されていない質料のようなものと考えられ、あるいはプラトンの理念の世界のようなものとも考えられている。しかしこれらの考えは、いずれもすでに相対の世界に堕している(思惟により抽象化し対象化されている)。知識対象の世界に堕している。真に直接な知識以前の絶対とは言われない。私はこの点において昔のディオニシュースやスコトゥス・エリューゲナなどのような中世の神秘哲学の考えが、遥かに徹底的ではないかと思う。神は有となすも中(あた)らず、無となすも中らず、神を動というも中らず、静というも中らず、真にいわゆる言得三十棒、言不得三十棒(禅語。言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒。言うも言わないも正解ではないという意)だ。私はエリューゲナの創造して創造されない神は、創造もせず創造もされない神と同一であるという考えに深い意味を認めざるを得ない。あるいは物自体(真に直接な知識以前の絶対)はこのように思慮することのできないものとすれば、それ(物自体)は完全に無用の仮定ではないかという人もあるだろう。しかし「甲は甲である」という命題を成立させるものは、主語「甲」の中にあるのでもなければ、客語「甲」の中にあるのでもない。ならばとてこの二者(主語と述語)を離れてあるのでもない。しかもその全体は、我々が「甲は甲である」ということを考える前に与えられてあるものとしなければならない。連続ということは単に無限に分かつことができるというのではなく、与えられた全体から出立して考えてみなければならない。このような全体(与えられた全体)は認識対象として限定する(対象化する)ことはできないかもしれないが、我々はこれ(与えられた全体)を認識の根底として認めなければならない。分析の上には(与えられた全体に対して)何らの統一を見出すことができないかもしれないが、種々なる要素の関係はこれによって成り立っているのだ。新実在論者は関係に入るものと関係自身は別物であると言うが、何らかの意味において関係に立たないものは、他の関係に対して別物として己を維持することもできない。関係とその要素は相離すことはできない。これらの全体(与えられた全体)を一というも中らず、多というも中らず、変ずるというも中らず、変じないというも中らず、眼は眼を見ることはできず、カメラはカメラ自身を写すことができないように、これ(与えられた全体)を認識というカメラのレンズの中に収めることは不可能だろうか、我々は意志自由の形において直ちにこれ(与えられた全体)に接することができる。カントのいわゆる「汝は斯く為さざるべからず」という道徳的意識(当為の意識)は、認識意識(対象を認識する意識)よりも一層深い直接な事実(与えられた全体)だ。否、単に深いとか直接とかいうばかりでなく、前者(道徳的意識、当為の意識)はかえって後者(認識意識)を包容すると思う。我々の知る世界、否知るべき世界(知識対象界)は広い。しかしこれにもまして我々の欲する世界(意志の対象界)は更に広い。夢の如き空想も我々の意志対象の世界の領域に属するのだ。知識の世界においては虚幻と認められることも、意志の世界においては実在だ。「汝は為さざるべからざるが故に汝は為し能ふ(為すべきでないが故に為すことができる?)」という語も、これにおいては毫も怪しむに足らない。多くの主知論者(感情や意志よりも知性・理性の働きに優位を認める立場)からは、意志の自由ということは単なる錯覚でもあるかのように考えられているが、私はかえって知るということは意志の一部分であって、今日の目的論的批評論者の言うように、認識の根底に意志があると思う。意志の世界は知識の世界に比べて、無限に広くかつその(知識の世界の)根元となる。意志によって知識の世界、必然の世界が成り立つのだ。スコトゥス・エリューゲナなどが、神においては何らの必然も何らの定命(天から定められた運命)もない。定命は神の意志の決定に過ぎないという語に深い意味があるのだ。主知論者が自由意志を空想のように考えるのは、意志を(思惟により抽象化し)対象化して見ているからだ。これ(自由意志)を自然数の世界に投射して見るが為だ。しかし万が一にもこれ(自由意志)を自然的因果の世界に投射した時には、すでに意志というものではなくなる。何らの意味においても意志の背後に因果を認めるのは(自然的因果の世界に意志を投射することは)、意志を否定するということだ。外的必然(自然科学的因果)のみならず、内的必然すなわちスピノーザのいわゆる必然的自由(当為の意識?)ということも、意志と結合することはできないのだ。
 意志は創造的無から来って創造的無に還り去るとか、神の意志によって世界が生じるとかいうことは、我々の因果律の考えに対して深い矛盾と感じられるだろう。しかし無から有を生じるということほど、我々に直接にして疑うことのできない事実はない。我々のこの現実において、絶えず無から有を生じつつあるのだ。これを潜在的なものが顕現的となると言うのも、単に空名によって我々の論理的要求を満足し得るのみであって、実際は何物も説明し得たのではない。斯く無から有を生じる創造作用の点、絶対に直接にして何らの思議を入れない所、そこに絶対自由の意志がある。我々はここにおいて無限の実在に接することができる。すなわち神の意志に接続することができるのだ。前に現在は無限な世界の接触点であると言ったが、現在はすなわち意志だ。無限の世界は意志によって結合されると考えることができるのだ。(主知論者のように)空虚な意志から何物も出ないと考えられるのは、意志という抽象的概念を実体化して考えるからだ。このような無内容な抽象的概念からは、何物も出ないのは言うまでもない。中世の一般概念論者が有を世界の根底と考えた場合においても、もしこれ(有)を抽象的一般概念と考えるならば、かかる抽象的概念から何物も出ようはない。しかしこれに反しもしカントが「先験的演繹」において言ったように、先験的自我(純粋統覚?)の統一というようなものを考えてみるならば、我々は少なくともこの形式(先験的自我の形式)によって世界が成立すると考えざるを得ない。そしてこの考えをなお一層進めて、超越的意味すなわち価値というようなものを考えてみるならば、意味または価値によって世界が成り立つということができる。デカルトが神の本質的証明において、我々に「完全」という考え(意味)のある以上は、完全なものが存在しなければならないと言っているが、その存在という語を自然科学的意味の存在(実在)と解すれば、このような議論は概念と実在を混同した幼稚な議論とも言うべきだろう。しかし意味の前に存在があるのではない。存在は当為(意味)に基づかなければならない(存在の前に意味がある)。我々が完全ということ(完全という意味)を考えるからには、絶対的規範意識(絶対的な当為の意識)の存在を許さねばならないというのは、怪しむに足らないのだ。物理学者の性質とか力とかエネルギーとかいうものも抽象的概念に過ぎない。我々は普通にこのような概念(意味)を実体化して、これ(実体化した意味)によって現象の変化が生じるかのように考えているが、これはかえって本末転倒の誤謬だ。直接経験の上では無(意味)から有(存在)を生じるのだ。その変化は互いに分離するものに移り行くのではなくて、連続的推移だ。いわゆる具体的一般者(連続体)の自己実現だ。我々はこの場合(具体的一般者の自己実現)においても無から有が生じると言う外はない。潜在的なものが顕現的となったと言っても、実際は何らの説明も与えられてはいない。直接にはただ内面的必然の推移あるのみだ。我々は断片的な感覚(意識内容、意味)を統一して「赤いもの」とか「青いもの」(存在)とか考える。すなわち一つの連続(具体的一般者の自己実現、連続的推移)を考える。そしてこれ(連続)を客観的実在と考え、これによって我々の思惟の要求を充たすのだが、このようにして客観的実在に到達し得たと思うのはかえって自己の直下に返るのだ。直接にして一層具体的な思惟の創造(自己)に還ったのだ(断片的な意識内容は抽象的であるが、それが具体的一般者の自己顕現、つまり思惟の創造作用として「赤いもの」となったとき、その「赤いもの」という実在は抽象的な断片的な意識内容と比べて具体的な意識であり、具体的な思惟の創造に還ったということができる)。そして思惟が自然的実在を創造するとすれば、更に思惟そのものを創造するものは意志だ。意志は最も直接にして最も具体的な絶対的創造だ。フィヒテが「我」から「非我」を生じると言ったのも、もしこの「我」を相対的我(対象化された我)と考えるならば、論理的必然と因果的必然(概念と実在)を混同したものとしか思われないだろうが、フィヒテのいわゆる絶対我すなわち絶対意志とは右に言ったように我々に最も直接な創造作用でなければならない。ὄν+μὴ ὄν(存在+非存在(アプリオリ)、具体的一般者の全体)でなければならない。意志のアプリオリは知識のアプリオリを包含するのみならず、これ(知識のアプリオリ)に比べて一層深くかつ広い。前者(意志のアプリオリ)は後者(知識のアプリオリ)に対して非合理的と考えられるかもしれないが、普通に合理的と考えられるものの中にも、論理に対して数理は非論理的であり、数理に対して幾何は人為的だ(合理的ではない)。しかも具体的立場においてはこれらのアプリオリの奥に一種の内面的必然を認めなければならないように、意志はすべてのアプリオリを結合する内面的必然だ。
 昔ディオニシュースやエリューゲナなどが神は一切であると共に一切でないとか、神は総ての範疇を超越するとか言ったところから、応無所住而生其心(禅語。応に住する所無うして其の心を生ず)と言ったように、忽然として生じ現れ来る直接の経験とはどのようなものだろうか。無論その全豹は思慮分別を絶したものだろうが、私はこれ(直接経験)を絶対自由の意志と見るのが最もその真に近いと思う。すなわち真に具体的な直接の経験は、絶対自由の意志に彷彿たるものであると思う。真実在は無限な発展であると共に、一方においては自由にその元(根元)に返り得る「永久の今」だ。一方においては量(発展)であると共に、一方においては質的(限定的)だ。かつて言ったように、前者(無限な発展)は数の基礎となり、後者(永久の今?)は幾何の基礎となるということができる。一方から見れば反省それ自身が進行(発展)だ。思惟そのものが事実(発展)だ。そしてこれと同時に進行(発展)は目的に向かって進み行くのだ。神は始であると共に終だ。右のような絶対自由の意志は、論理的には矛盾と考えられるだろう。しかしエリューゲナが神は動的静、静的動と言ったように、論理的に矛盾する両方面(発展と限定)を統一したものが、実に我々の自由意志の体験だ。いかにしてこのような矛盾する両方面を統一することができるかは、論理的には説明はできない。しかし論理的思惟は、かえってこのような自由意志を仮定して成立することができるのだ。思惟の三法則というようなものを考えるにも、このような体験(限定即発展、発展即限定である直接的な自由意志の体験)を許さなければならないのだ。いわゆる経験論者はこともなげに自由意志は錯覚などと言うが、これらの人々の考える実在とは思惟の対象に過ぎない。そしてこの考えを徹底すれば、ロッツェの考えたように相互作用の統一というようなものとなり、更にこのような考えを徹底すればかえって絶対の自由意志というようなものに至らねばならないと思う。私はこれまですべての実在を自覚的体系として考えてきたが、自覚的体系の背後は絶対自由の意志でなければならない。実在の具体的全体を得るには、知識的自我の後に実践的自我の背後を加えねばならない(ὄνにμὴ ὄνを加えなければならない)と思うのだ。知識的自我の対象であるいわゆる実在界よりも、実践的自我の対象である希望の世界は広い。前者(実在界)は可能的世界の一部分に過ぎない。前者(実在界)から見れば後者(希望の世界)は非合理的とも考えられるだろう。しかし後者には後者の統一があるのだ。我々の良心と言われるものがそれだ。「汝は斯くせねばならぬ」という定言的命令(道徳的意識、当為の意識)は論理的には不可解であるかもしれないが、我々の論理的要求は良心の一部に過ぎない。知識的自我は実践的自我の上に立つのだ。我々の世界は当為(道徳的要求、良心)を以って始まるのだ。「神、光あれと言ひ給ひければ光ありき」と言ったように、世界は神の意志を以って始まるのだ。オリゲネスが新プラトー学派に反して、世界創造の根底に道徳的自由を認め、物質界を神の最後の流出とせず、処罰の世界としたのは、単なる知的な新プラトー学派に比べて、一層深い所があると思う。神は無から世界を造ったというのは不合理のようではあるが、神は因果を超越して知識的には無でもなければ有でもない。もし知識以前に何らかの因果を認め得るならば、それは道徳的因果でなければならない。アウグスチヌスが神は愛から世界を作ったと言うように、道徳的因果は自然的因果より根本的だ。実在をロッツェの言うように作用そのものと考えたならば、その相互の内面的関係は意志と意志の関係でなければならない。すなわち道徳的でなければならないと言うことができる。自然的因果律はこれ(作用の内面的関係、実在)を外から見た表面的関係に過ぎない。
 右に言ったように意志が知識の根底であって、知識は意志によって成立するのだから、知識に対して最初に与えられたもの、すなわち直接の所与は意志の形でなければならない。動的実在でなければならない。ベルグソンが直接経験を純粋持続となし、リッケルトなどが無限に異質的なものを所与となし、歴史を以って自然科学よりもこれ(所与)に近いものとなすのはこれ(直接の所与は動的実在という意志の形であるということ)によるのだ。無論、真実在すなわち神は(動的実在のように)動とも静とも言われないが、これ(真実在、意志)を顧みたものが無限の進行(発展)だ。(自然科学ではなく)歴史が最初の(認識の)対象だ。認識の対象と言えば普通には我に対するものを考えるのだが、我々の認識に客観性を与えるものは、かえって認識作用の背後に横たわる具体的基礎(連続体、具体的一般者)でなければならない。すなわち中世哲学における主体でなければならない。我々が客観的実在を知るのは、自己の根元(具体的基礎、連続体)に返り行くのだ。自己の背後を省みるのだ。この意味において我々の認識の最後の対象は、絶対自由の意志でなければならない。無論絶対自由の意志はどこまでも認識作用を超越して認識対象としては不可得ではあるが、対象としてその最初の相は、絶対作用(意志)でなければならない。あるいはこれに反して、判断作用の意識の前に、超越的意味すなわち価値があると考えられるだろう。しかしリッケルトなどのように考えるならば、超越的意味はどのようにして内在的となることができるだろうか。プラトンの理念はいかにして現実に堕し来ることができるだろうか。我々の体験を反省し分析した上においては、作用と意味を分かち、後者(意味)が前者(作用)を超越すると考え得るでもあろう。しかし我々はその以前に、具体的全体(具体的基礎、連続体)を体験していなければならない。無論リッケルトなどもこの体験(具体的全体の体験)を許しているのだ。自然科学的に考えられた心理作用というようなものに対しては、意味の世界が根本的と考えねばならないだろう。フッサールの言うように事実の世界も、氏のいわゆる本質から成り立っているのだ。しかし我々は意味の世界の前になお、体験の世界を認めなければならない。プラトンの理念の前にプロチヌスの一者を認めなければならない。そしてこの一者はプロチヌスの言ったような流出の根源というようなものではなく、むしろオリゲネスの言ったような創造的意志でなければならない。
 絶対的自由の意志が翻って己自身を見た時、そこに無限な世界の創造的発展がある。かくして認識対象として与えられる最も直接な最初の対象は、歴史(意味ではなく体験)でなければならない。ベーメの言ったように対象なき意志が己自身を顧みた時、この世界(個人的歴史)が成立するのだ。それでは反省ということは何を意味するか。反省はいかにして可能であるか。絶対自由の意志とは、進む(発展、創造)と共に退く(限定)ことの可能性を含むことだ。creans et non creata(創造と非創造) と共に nec creata nec creans(創造することも創造されることもない) だ。反省というのは、小なる立場から大なる立場(具体的基礎、連続体)に移り行くことであり、自己が自己の(具体的)根元に返り行くことであり、行為とはこれに反して一つの立場から進み行くことだ。自己が己自身を発展して行くことだ。しかし翻ってこれを考えれば、反省それ自身がまた一つの行為だ。(反省において)退くと考えられるのは進むのだ。自己の元に返り行くのは自己を発展する所以だ。斯く考えれば認識も一つの意志となる(退くと考えられる反省という行為も、意志の発展的側面の一つとなる)。すべてが意志の発展となる。単なる反省と考えられるのは、包容された小なる立場から、包容する大なる立場(具体的基礎、与えられた全体)を見た場合に過ぎない。(対象化された相対的意志ではなく)絶対的統一すなわち絶対的意志の立場から見れば、すべてが一つの意志となる。勿論厳密に言えば、絶対的統一すなわち絶対的意志というようなものは、これを対象界に投射して考えることのできないものだから、真の統一は統一と言うこともできなければ、無統一と言うこともできないだろう。これ故に真の絶対的統一(意志、真の主観)においては、すべてが知識であると共に意志だ。アウグスチヌスは神は物があるから知るのではなく、神が知るからものがあるのであると言ったのは、このような体験を言い表したものと考えることもできる。物理学者が超個人的意識の立場に立ち、(超個人的な)物理的世界観の構成に向かって進む時、それは知識の発展であると共に大なる自我の構成作用だ。我々がある物を想像しある事を実行する時、これを内面的に見れば、我の意識がある状態に達しようとするのだ。自己のある状態を知ろうとするのだ。純反省の立場から見れば、心理学者のいうような(相対的)意志も一種の観念連合に過ぎない。主知主義の心理学からはすべてが知識であると考えることもできる。(主知主義の心理学からは)いかなる意識内容の発展が知識と見られ、意志と見られるかは、ただ我々の立場の取り方によるのだ。そしていかなる立場を取るかは絶対意志の自由だ。真に直接な実在は創造的意志だ。創造的であるが故に絶対自由だ。ベルグソンの言うような繰り返すことのできない創造は、すでに内から限定(対象化)されたものだ。創造ではなく発展だ。(ベルグソンの純粋持続とは違い)絶対自由の意志には復帰の方面(思惟においてのように、自己の根底に返る方面)が含まれていなければならない。nec creata nec creans(創造することも創造されることもない) の方面がなければならない。このような意志の立場の自由ということが、我々が具体的経験を随意の立場から見て、種々の概念を作るいわゆる抽象作用として知られるものだ。抽象作用というのは意志の無秩序の方面を示すものだ。我々はある一つの具体的経験を何の方面からでも自由に抽象し得ると考えるのは、抽象作用は自由意志の一部分であるが故だ。

四十一
 私は前章において我々に最も直接な具体的経験は絶対自由の意志であると言った。意志と言えば、直ちに決断というような無内容な形式的意志が(一般的には)考えられるのだが、私の絶対自由の意志というのはこのような抽象的意志(形式的意志)を意味しているのではない。我々は考えることができると共に、見ることもできれば聞くこともできる。種々の思想が我の配下に属するように、種々の経験内容も我の配下に属するということができる。視ること、聞くこと、考えること、動くこと、意志はこれらの能力すべての総合だ。この手を右に動かすか、左に動かすか、我において自由と考えられるのは、我はこの手の力であるが故だ。我は右にあるのでもなく、左にあるのでもなく、(我は)左右の運動を成立させるものであるが故だ。普通の考えでは、意志は二つの直線の結合点のようなものと考えられている。二つの直線が与えられて、その結合点が定まって来るように、二つの衝動が与えられ、その競争によって意志(結合点)が定まって来ると考えられている。このようにして意志の自由と必然の議論が起こって来るのだ。しかしこのような考え方はすでに意志を対象化したものだ。一定の方向を有する二直線というようなものが与えられた時、すでにその結合点が与えられているのだ。意志は結合点のようなものではなく、むしろこの関係を成立させる次元だ。意志は種々の動機の競争を決するものではなく、むしろこれを成立させるものだ。ここにおいても、与えられたものは求められたもの(要求されたもの)だ(上の例で言うと、抽象的な意識の断片が「赤いもの」という具体的根元を要求する。「十四」を参照)。始と共に終が与えられるのだ。意志は種々なる作用の成立の根元であるが故に、様々な作用を総合して自由であるのだ。このような統一を人格の統一と名付けることができるならば、実在の根底には人格的統一があるということができる。我々に最も直接な具体的経験は人格的だ。我々の手の動く所、足の踏む所、そこに我々の全人格があると言うことができるのだ。ヘーゲルが概念は直接なものの仮定であると言ったように、意志とか人格とかいうのは、個々の意識の外にあってこれを統括するのではない。これらの意識を成立させる内面的創造力だ。名匠の一筆一刀の中にもその全創造力が宿っているように、個々の意識はすべて我々の意志、我々の人格の創造だ。これ故に我はすべての作用を統一して、我は自由であるのだと言うことができるのだ。我々は神の像のように造られたものだ。
 見るとか聞くとかいうような知覚作用も、決して普通に考えられるような受動的作用ではない。フィードレルの言ったように我々が視覚に純一となるとき、そこに無限の発展がある。純粋視覚の世界は芸術的創作の世界だ。フィードレルは他の感覚においてはこのような発展を認めていないようであるが、程度の差こそあれ、私はすべての感覚においても同様であると思う。純なる知覚作用はすべて無限なる発展でなければならない。意識内容それ自身の発展でなければならない。我々の意志とか人格とかいうのは、このような一つのアプリオリからそれ自身に発展する様々な作用の統一だ。知覚であれ思惟であれその直接の状態においては、それ自身に発展する無限の活動であって、これらの統一が我々の意志であり、人格であるのだ。私はこれにおいてかつて論理と数理の間において、また数理と幾何の間において論じた知識の形式と内容の関係についての考えを、経験全体に及ぼして考えてみたいと思う。抽象的立場(例えば、数理に対する論理の立場、赤いものに対する意識の断片)から見れば、すなわち単に対象として考えてみれば、論理に対して数理は非論理的となり、数理の基であるアプリオリは論理に対して外から加わって来ると考えなければならない。しかし具体的立場から見れば、すなわち直接の全体として見れば、数理は論理の根元となり、後者(論理)はかえって前者(数理)によって成立すると考えることができる。論理が己自身を完成し行く時、すなわち主観的(質)から客観的(量)に移り行く時、自ら数理に移り行かなければならない。知識客観性の要求から言えば、数理は論理の目的となるのだ。知識の形式と内容の関係は、形式に対して内容が偶然的に外から与えられるのではなく、形式が内容を要求するのだ。そして形式が内容を得るのは、己自身の根元に返り行くのだ。一言で言えば発生的関係だ。種子と成長する植物のような関係だ。前に思惟体系の発展を論じて、論理から数理に至り、数理から幾何に及び、ついに解析幾何学の対象を以って思惟体系の最も具体的な対象となしたが、純粋思惟の体系からいわゆる経験の体系に移るには、そこに大きな間隙があると考えられた。今この間隙を融合するものは意志の統一、人格の統一であることが明らかとなった。単なる認識対象として抽象的に考えられた純粋思惟の体系から、内容ある具体的経験の体系に移り行くことが不可能と考えられるのは、無理ないことだ。思惟の形式に対して偶然的な経験内容が外から与えられると考えられるのは、やむを得ないことだ。しかし意識の主体に返って、すなわち直接な具体的全体の立場においては、思惟とか知覚とか様々な作用の根底において、一つの意志の統一、人格の統一があることを認めざるを得ない。我々の思惟とか知覚とかいうのは、我々の意志、我々の人格の一部だ。これら作用は皆具体的自我(人格)の一部分として成立するのだ。単にその一部分に過ぎない純粋思惟のアプリオリからは、この全統一(人格の統一)を理解することは不可能だろう。しかし我々には論理以上である自我の統一の体験がある。もしこのような具体的自我の統一の体験がなかったならば、知識の形式と内容の関係はいかなる意味においても考えることは不可能だ(このようなことを考え得るのは、純粋思惟以外のアプリオリが人格の統一の上において存在するから考え得るのだ)。内容は形式に対して偶然的であるということすら考え得ないのだ。知識客観性の要求とは、主観的なものから客観的なものに、抽象的なものから具体的なものに、部分的なものから直接の主体に進むことであり、すなわち具体的全体が己自身を顕現する要求であり、自己が自己自身の根底に返り行く要求であるとすれば、思惟の形式が経験内容と結合するのは我々の意志統一の要求、人格統一の要求、すなわち全自我の要求であると言わねばならない。これ(意志統一、人格統一、全自我の要求)によって我々の知識は具体的根元に返って、その客観性の要求を満足し得るのだ。我々の思惟の体験が経験内容と結合することによって客観的知識となると考えられるのは、これによって理解することができる。コーヘンの言うように、単に主観的と考えられた虚数がガウスによって平面に応用されることによって実在的意義を得たと考えられるのはこれ(意志統一、人格統一、全自我の要求)によるのだ。わたしはかつて真に直接にして具体的な空間的直覚は、心理学者のいわゆる延長の知覚というようなものでもなければ、また数学者の考えるような連続というようなものでもない。ὄν+μὴ ὄν(存在とそのアプリオリ)の全体とも言うべき先験的感覚であると言ったが、今このような先験的感覚とは、経験全体の統一から起こる意志の意識であると言うことができる。我々に直接にして具体的な空間的意識は、それ自身に動的な意志の形(経験全体の統一)において与えられるのだ。「知覚の予料」の原理はこれによって成り立つのだ。この点を一歩離れれば一方は数学者のいわゆる単なる連続の考えとなり、一方は心理学者のいわゆる単なる感覚となるのだ。この二者が実在的となるには、その根元に返らなければならない。ゼノンのような運動不可能論に対して、ベルグソンは真に運動を会得するには、ただ手を動かしてみるまでであると言うように、いかにして数学者の連続の考えと心理学者の延長の感覚が結合するかは、ただこの手を動かす(経験全体の統一)にあるのだ。すなわちフィヒテの事行とも言うべき直接の意志にあるのだ。
 我々の「我」というのは様々な作用の総合点だ。「我」は考えると共に見ることもできる。否、これらの作用は実に「我」の統一によって成立するのだ。しかしこの統一(真の主観、意志)は認識の対象となることはできない。そこに認識の限界がある。リップスが表象の世界から思惟の世界に至るには、躍入がなければならないと言うように、認識の世界から意志体験の世界に至るには、そこに一つのエラン・ヴィタールがなければならない。このような統一は理性に対して、非合理的とか偶然的とか考えられるだろう。しかし論理から数理に移るにも、このような偶然性があった。数理から幾何に移るにも、このような偶然性があった。もしリッケルトなどの言うように、厳密に狭く純粋思惟を限定するなら、数理のようなものすら非合理的と言わねばならない(?)。またあるいはこのような統一(意志の統一、人格の統一)は何らの内容なき虚しき概念に過ぎないと考える人もあるだろう。しかし我々が概念的分析によってその内容を明らかにすることができないからといって、無内容な空名に過ぎないと考えるのは誤りだ。我々の自己はいずれも限定される個性を持っている。甲は乙と取り換えることのできない人格を持っている。このような個性が画家や小説家の描写の対象となるのだ。芸術家の有する個性の意識が物理学者の有する電気や熱の意識に比べて、不明瞭であるとか無内容であるとかいうはずはない。(概念的分析によって明らかに出来ない)人格の意識が物理的知識に比べ、限定されたある内容を有する点において、毫も遜色なきのみならず、その実在性を有する点においても、いわゆる自然科学的知識に比べて勝るとも劣ることはないと思う。ある一物体が甲点から乙点まで動いた時、我々はその背後に一つの力というものを考える。しかし力というものは見ることもできねば、聞くこともできない。ならば感覚論者の言うように力とは空しき名に過ぎないかというと、もし力が空虚な概念なら、要素的感覚(視覚、聴覚など)というようなものも空虚な概念に過ぎない。実在はそれ自身にて動くものだ、自然科学者のいわゆる力というのは、この意味において実在的であると言うならば、人格の力というものも同一の意味において実在的であると言わなければならない。(人格の力は)かえってすべての実在に実在性を付与する根本的実在であると言うことができる。
 右に言ったように、我々の意志とか人格とかいうのは単なる抽象的な形式的意志とか形式的人格とかいうようなものではなく、諸能力の統一だ。ポールにもペーターにも当てはまる抽象的意志や人格ではなく、限定された具体的内容を持ったものでなければならない。このような意志は理性に対して偶然的と考えられるかもしれないが、それ自身に動的であって、彼自身の立場においては一つの内面的必然だ。私が前に言った絶対自由の意志というのは、このような意味において宇宙の創造作用であるのだ。私はいまこのような絶対自由の意志と我々の個人的自由意志の関係を考え、これによって一層深く絶対的創造意志の性質を明らかにし、かねて真実在とはどのようなものかを明らかにしてみたいと思う。我々の意識現象を直接に考えてみると、我々の意識現象は一つの自己によって統一されると共に、その一々が自由な作用だ。意識現象の根底となる全体は、その部分を否定する全体ではなくて、各部分の独立、各部分の自由を許す全体だ。我々の道徳的社会がカントの言うような※目的の王国であるのみならず、我々の意識現象そのものが目的の王国だ。
※ 引用 目的の王国とは https://kotobank.jp/word/目的の国-397559
意識現象は道徳的関係(当為の関係)から成り立っていると言ってよい。意識現象においては道徳的当為は単なる当為ではなく、力だ。故に“Du kannst, denn du sollst”(できる、なぜならそうすべきなのだから)である。意識現象においては画家の才が彼自身の作によって発展するように、我の全体が我の部分を創造すると考えられると共に、我の部分が我の全体を創造するのだ。ベルグソンの言うように我の作為するものは我に属すると共に、我の作為が即ち我であると言わなければならない。以上のように考えてみると、我々の意志の自由と絶対自由の意志は相撞着(矛盾)するものではない。我々は絶対自由の意志の中において自由だ。否、絶対的意志は他の独立を許すことによって真に自ら自由となることができるのだ。白人は黒奴を開放することによって、彼自身を自由にしたと言うことができる。両者が相撞着するかのように考えられるのは、意志を対象化して見るからだ。意志と意志の間に対象的関係を考えるからだ。何かの意志をいずれかの意味において対象化して見た時には、何かの意志はその自由を失うこととなる。神を無限の可能と言うも、すでにこれを対象化したものだ。私は意志自由論者が単純に自己の内省に訴えて、直なるものが直で、曲なるものは曲であるというように、意志は自由であるというのも、強ち錯覚として排すべきではないと思う。これを錯覚と考えるのは我々の意識現象を対象化した結果だ。しかし意識の一々の根底には到底対象化することのできないある物がある。いかなる個人的意志も対象界に対しては、その次元を異にしていると言うことができる(個人的意志は次元が異なるため、対象界においては対象化できない)。平面の世界に対する立体の世界のようなものである。我々の意志はこのような意味において一々自由でなければならない。カントの言ったように我々の道徳的意識(当為の意識)がこれを証するのだ。自然科学的因果律に基づいてこれを錯覚と考える人は、自然科学的因果の世界が一種の当為(意味、価値)の上に立つことを考えてみなければならない。我はこの現在において右せんも左せんも自由だ。たとえ、肉体の上において不可能であるとするも、我は我の人格の上にこの決意の事実を印することができるのだ。意志を動かすものはただ意志あるのみだ。アウグスチヌスが神は愛から世界を造ったというのは、自然的因果の本に道徳的因果を認めたものとして、深い意味があると思う。
 右に言ったように、我々に最も直接にして具体的な意味においては、その全体の自由(絶対自由の意志)と部分の自由(個人的自由意志)は互いに相撞着することはない。内面的に一つの意志であると共に、その一々が自由の作用だ。無論このように言うも、我々の意志が自然の法則を破って自由に働き得るというのではない。自然界の出来事として対象化された意志は、自然の法則の下にあることは言うまでもない。ただ我々の意志はその根底において(自然科学的世界より)一層深き体験の世界に属している。カントの言うように睿知的世界(intelligible Welt)に属している。この世界においては全体が一であると共に、その一々が自由であるというのだ。真に具体的な体験の世界においては、ヘーゲルの概念においてのように、その一々の部分が全体だ。真の具体的実在は個物だ。非合理性の中に合理性を具し、偶然性の中に必然性を具したものでなければならない。かつて分離数というものは依他的であり主観的であって、連続的なものは独立の実在であると言ったが、厳密に言えば単に連続的なものも未だ真に絶対的実在とは言われない。単に連続的なものはReal+Ideal(実在+理想)として具体的であるかもしれないが、未だ己自身の中に非連続の作用を統一していない。すなわち偶然的実現の方面を含んでいない。要するに未だ意志ということはできないのだ。例えば芸術の作品と芸術家自身と異なるように、芸術の作品は理想と現実の結合であるかもしれないが、それ自身の中に創造作用を蔵していない。真の実在はそれ自身において創造的でなければならない。私がロッツェの相互作用という実在の考えをなお不完全と考えるのもこれによるのだ。真の実在は自覚的でなければならない。すなわちヘーゲルの概念のようなものでなければならない。具体的実在には偶然性ということを欠くことはできない。すべてが合理化されればすべてが非実在的とならねばならない。しかしすべてを合理化する事は不可能だ。偶然的限定は合理的に説明はできないかもしれないが、合理性と偶然性の両方面を統一したものが真実在だ。すなわち我々の意志だ。心理学者のいわゆる心理作用とは、このような実在の偶然的限定の方面を指したものに過ぎない。私はかつて極限点は反省のできない我々の自己のようなものであって、このような極限点の集合が連続であり独立の具体的実在であると言ったが、このような実在はなお知識対象の世界に属している。したがって現実の意識を含むことはできない。現実の意識はこのような実在に対して外面的だ。芸術家の全生命が一刀一筆の中にあるように、一々の限定そのものの中に全実在がなければならない。すなわち肉そのものの中に霊がなければならない。限定作用はどのようにして起こるかと問うべきではなく、限定そのものが意志として直ちに具体的全実在であると言わねばならない。有限の背後に無限を考え、現実の背後に本体を考えるのは、対象化された知識界のことだ。真に直接な意志の体験においては、有限が直ちに無限だ。現実が直ちに本体だ。行かんと欲せば行き、座せんと要せば座す。この間に概念的分析を容れる余地がない。往々直接経験の内容は無限に豊富なもので、我々の知識はその一象面であると考える人もあるが、斯く考えられた直接経験の内容とは、いわゆる概念的知識と同じくすでに対象の世界に属したものだ。いかにその内容が無限であっても、それは相対的無限(対象化された無限)だ。真に直接な体験(絶対的無限)は概念的知識とその次元を異にしたものでなければならない。いわゆる概念的知識と対比してその内容の多寡を論じるべきものではない。我々の現実の意識の背後に本体があると考える時、その本体は現実と共に同一次元の上にある(対象化されている)のだ。意識の真の背後は一々無限な神秘の世界に連なっていなければならない。すなわちスコトゥス・エリューゲナの言う如き神に接していなければならない。なお一直線上の点が一次元の中にあると共に多次元に連なるのと一般だ。我々の一々の意識は多次元の切点と考えることができるのだ。

四十二(思惟と経験)


 私は前の二節において、我々に最も直接な真実在は絶対自由の意志であることを論じ、かつこの自由意志は無内容な形式的意志ではなく、豊富な人格的統一であることを論じた。今この立場から、翻って思惟と経験の関係及び精神と物体の関係を考えてみようと思う。
 我々に最も直接にして具体的な真実在と言うべき絶対自由の意志は、カントのいわゆる物自体のようなものであって、我々の思慮分別を容れるべきものではない。ディオニシュース・アレオパギダやスコトゥス・エリューゲナなどの神の考えのように、すべての範疇を超越している。いわゆる鼠銭筒に入って技既に窮する所(銭を入れるための細い筒に鼠が入っていき、すっぽり挟まって前にも後ろにも動けなくなった状態)、ただ翻身一回してここ(絶対自由の意志)に至るべきだ。しかし意志はこのように知識を超越するということは、知識と没交渉という意味ではない。知識は意志の一方面だ。意志はその一方面として、知識をその中に含むのだ。ヘーゲルの語を以って言えば、知識は意志の対自の状態だ。意志は発展であると共に復帰(自己の根底に返ること)であるとすれば、知識は意志の復帰の方面を現すものだ。認識対象の世界は、意志がその姿を鏡面に映じたもの(映じたもの=認識対象)だ。すでに影像であるとすれば、その中に本体を求めることはできない。この意味において物自体(本体)は不可知的だ。しかしこの影を映じるのも、この影を見ているものも意志自身だ。意志は己自身の中に影を映じて見るのだ。ベーメの対象なき意志は、己自身の中に反射するのだ。絶対自由の意志は一方においては無限の発展であると共に、一方においては無限の反省だ。いかにしてこのような矛盾が成立し得るかは、反省する自己(発展)と反省される自己(復帰)が同一である自覚の事実が、これを証明している。これを疑う人あらば、疑う人はすでにこの事実(自覚の事実)を認めていなければならない。真に絶対の立場から言えば、一々の意識は行為であると共に直ちに反省だ。発展はすなわち復帰だ。物を離れて影はないが影を離れて物はない。知即行行即知(知=知識、行=行為)だ。我々の一々の意識はあたかも一つの点が無限な次元の連続において考えられるように、無限な※対他の関係を含んでいる。
※ 引用 対他とは https://kotobank.jp/word/即自・対自・対他-1556692#goog_rewarded
自己内返照(自己の内を照らす=自己限定)と同時に他者内返照(他者の内を照らす=他者限定?)だ。意識のある一点が限定された時、直ちに己自身の否定を含んでいる。すなわち止揚の可能を含んでいる。限定された意識の対他的方面が、普通のいわゆる抽象的方面だ。このような意味においてある一つの意識の対他的関係(抽象的関係)が無限と考えられた時、ラッセルが無限の次元は無意義となると言うように、その意識内容はかえってすべての限定を失って単なる抽象的概念となるのだ。このように我々の意識の一々の点が無限な対他的関係を含むと考えねばならないのみならず、意識の一々の点が生きている。すなわち無限の活動でなければならない。一々の点を単に無限の潜勢力と見るのは、なおこれ(点)を対象化したものだ。直接には一々の点が自由な主観でなければならない。無限な対他的関係はこれにおいて、無限な自由でなければならない。無限な対他的方面(抽象的方面)を含むということは、無限の誤謬、無限の罪悪を含むということとなる。真実在は道徳的であるということができる。具体的実在においては、一々の点が絶対として出発点となることができるのだ。
 右に言ったように、直接の具体的体験においては、その一々の点が無限な対他的関係を含んでいるばかりでなく、その一々の点が自由な主観だ。すなわち自己の中に自己を否定する(限定する)力を有するのだ。アウグスチヌスが神は最初の人間に自由を与えたと言うように、我々は一々の作用において神に接すると共に、悪魔に接するのだ。このように一々の立場において自己が自己を否定する(限定する)作用が、いわゆる抽象作用であって、すなわち我々の思惟作用だ。絶対自由の意志の否定の方面、即nec creata nec creans(創造することも創造されることもない)の方面が我々の反省作用であり、思惟作用であるのだ。純粋思惟とはこのような方面の極限に過ぎない。純粋思惟の対象(数理など)とはこのような体験の内容を指すのだ。我々が自己自身を意識する時、すなわち自己自身を否定(限定)して消極的統一となった時、我々は思惟主観となるのだ。例えば我々の純粋視覚においては、線は数学者のいわゆる幾何学的線でもなければ、心理学者のいわゆる線の感覚というようなものでもない。その各々の点において直線と曲線の錯綜だ。色もこれと同じく自ら白と黒への傾向を含んでいる。このような純粋視覚の作用は、無論それ自身において完全なものだろうが、我々の全意識は単に視覚だけではない。我は様々な作用を有し、その一から他に移り行くことができるのだから、あたかも純粋視覚において一つの線、一つの色が様々な連続の錯綜であるように、純粋視覚そのものも単なる純粋視覚ではなくて、様々な作用の錯綜であると言わねばならない。そして他へ移り行くということは、それ自身の中に対他の関係を有するということだ。すなわち自己を他において有することだ。換言すれば自己自身の中に自己を否定する(限定する)動機を有することだ。反省の可能を含んでいるのだ。無論純粋意識の立場において、このように一(自己)が他を含むということは、一が他と混合することではない。ある一つの立場を明らかにし、これに徹底するということは、自ら(自己ではなく)他に移り行くことだ。対立を明らかにするのはその統一を明らかにする所以ではあるが、とにかく視覚(作用)とか聴覚(作用)とかいうような純粋知覚においても、これを意識するということ自身がそれ自身の否定(限定)を意味している。換言すれば、これらの作用は更に大なる統一に属しているのだ。このような(大なる)統一の意識が思惟の体験だ。小なる個々の作用に対しては、この立場(思惟による統一の立場)は外から加えられた反省作用と考えられるが、絶対自由の意志の立場から見れば、(思惟による統一の立場は)個々の立場(この場合視覚作用とか聴覚作用などの)成立とともに与えられた約束だ。いわゆる経験的知識というのは、純粋知覚をこのような立場(思惟による統一の立場)から反省してみたものだ。我々がこの立場から純粋知覚における線とか色とかいうものを反省して見た時、それが知覚の対象として我々の認識の範囲内に入り来ると考えられる。コーヘンが「知覚の予料」の公理に当てはまって認識界に客観性を得るというのは、この場合を指すのだ。認識以前の所与は、コーヘンの意識状態というようなものではなく、フィードレルの純粋視覚のようなものでなければならない。認識の到達することのできない、しかも認識がこれを目的としなければならない対象は、それ自身に動的な純粋経験でなければならない。コーヘンが内包量として我々の認識の世界に客観性を要求するという所のものは、このような純粋経験の動的方面でなければならない。すなわち絶対的意志の発展の方面でなければならない。ブレンターノの言うように知覚したものを思惟することができ、同一の本質が一方において知覚の対象となると共に、一方において思惟の対象となることができるとすれば、本質とは作用の結合点と考えることができる。そしてこのような本質の発展の方面が直観として客観的知識の対象となり、その否定の方面すなわち反省の方面が概念的知識となると考えることができる。心理学のいわゆる知覚とはこの両方面(客観的知識と概念的知識)の中間に位するものだ。純粋知覚の反省の方面、すなわちその(純粋知覚の)反省された(限定された)形態というのは、その(純粋知覚の)体系と他の(体系の)接触面だ。すなわち(純粋知覚が)他の体系と結合し得るように改造された形態だ。我々の主観的意識と言うのは、このような意味において様々な体系の結合の形式に過ぎない。意識そのものは無内容と考えられ、意識されるということは、意識内容に何物も加えないと考えられるのはこれ故だ。すなわちいわゆる主観的意識とは意志の絶対的否定(限定)の方面だ。あるいは斯く改造されたものは元の純粋知覚ではないと考えられるかもしれないが、無論概念的知識と純粋知覚は同一ではないことは言うまでもない。しかし赤の純粋知覚が反省された時、青(赤の誤記?)の概念となるのではない。本質は同一だ。なぜなら本質とは一つの作用から他の作用に移る結合点とも考えるべきものであるからだ。我々が概念的知識の立場から見て、純粋知覚は達することのできない認識以前と考えるのは、(概念的知識と純粋知覚が)完全にその性質を異にするからではない。前者(概念的知識)が後者(純粋知覚)の中に含まれているからだ。しかしその含まれていると言う意味は、ヴィンデルバントの言うように知識の世界は直接経験の分量的に異なる部分(という意味)ではなく、三角形の一辺(概念的知識)が三角形(純粋知覚)の中に、三角形が(概念的知識)が四面体(純粋知覚)の中に含まれるという意味において、(概念的知識)が部分的次元として(純粋知覚の中に)含まれているのだ。純粋知覚は(認識以前の所与という)絶対意志の形において高次的だ。無論一方から考えれば、思惟そのものがやはり一つの作用であり、一種の純粋経験であるとも言い得るだろう。無限な反省の極限それ自身が一つの中心を持った発展(一種の純粋経験)とも考え得るだろう。あたかも一つの直線が無限の距離に中心を持った円として考えられるのと一般(同様)だ。このようにしてすべてが芸術家のいわゆる純粋知覚と同様の純粋経験であると言い得るだろう。創造する神(発展=肯定の方面)は同時に創造しない神(否定=限定の方面)だ。肯定の意志はすなわち否定の意志だ。これと同様の意味において、純粋知覚の半面において直ちにその経験の思惟が含まれていると考えることができる。リッケルトなどは単に反省の方面のみを見るから、思惟と直観は両断して互いに結合することはできないが、コーヘンの考えでは与えられた直覚の根底に直ちに思惟を見るから(与えられたものは思惟によって要求されたものである)、一層高次的な立場(具体的基礎の立場)から知識そのものの成立を明らかにすることができるのだ。したがって知識は理念の無限な発展進行となるのだ。
 以上述べたような訳であるから、我々の思惟とは絶対自由の意志の反省の方面だ。様々な経験の体系を否定(限定)してしかもこれを統一する方面だ。すなわち様々なアプリオリの統一作用だ。様々な経験内容はそれぞれのアプリオリに属するから、思惟自身は何らの内容なき形式に過ぎないと考えられる。あたかも我々の意識内容となる線(経験内容)は皆有限であって、無限の線とは単なる思惟の対象(内容なき形式)であると考えられるのと一般だ。しかし真の無限は単に際限がないということではなく、それ自身において独立ということでなければならない。すなわち己自身を反省するということでなければならない。単なる消極的統一としては、思惟はリッケルトの思惟のように「甲は甲である」という外ないだろうが、絶対意志の反省的方面(否定の方面)が反省的意志として己自身の独立を認めた時、それは一つのアプリオリとして、純粋知覚などと同じく、一つの創造的思惟(純粋思惟)となる。このような思惟が私のいわゆる純粋思惟の対象界すなわち数理の世界を創造するのだ。思惟の統一はすべてのアプリオリの統一であって、対他的関係の極限であるから、すべてに共通であり、思惟対象の世界は不変であり一般的であると考えられるのだが、思惟というようなものも既に一つのアプリオリとしてそれ自身に意識された以上は、もはや(一般的ではなく)特殊的であることを免れない。すなわち(思惟は)絶対意志の一方面であって絶対意志そのものではない。真に創造的な絶対意志は単なる否定(限定)でないのみならず、また何らの意味においても限定されないものでなければならない。無限に貧なると共に無限に富でなければならない。真の絶対意志の統一は、肯定(発展)と否定(限定)の統一、形式と内容の統一、すなわち一言にして言えば人格的統一でなければならない。ここに思惟と経験の統一があり、ここに知識の客観性があるのだ。むろんこのような真の絶対的統一は達することのできないものではあるが、我々はどこまでもこれに近づくことができる。そしてその性質及び程度に従って種々の世界が現れるのだ。我々の絶対意志の経験は二つの方向に向かって発展して行くのだ。一つは種々なるアプリオリの統一の方面、すなわち反省(否定)の方面であって、一つはアプリオリ自身の発展の方面だ。一つは一般化的方面(発展の方面)であり、一つは特殊化的方面(反省の方面)だ。無論これらの二方向の作用は、絶対意志の立場からしては直ちに一つであるが、あたかも三次元の世界において立体に種々の形のできるように、その(絶対意志の)統一に種々の形を見ることができるのだ。絶対的肯定(発展)と見られるべき純粋知覚のようなもの、単なる否定(限定)とも考えられるべき純粋思惟のようなもの、及び両者の間に位する種々の階段ができる。ある一つの内容の絶対的肯定(純粋知覚の発展)が芸術の立場であり、その内容の否定(限定)が思惟の立場であり、否定の否定すなわち全体の肯定(鈴木大拙の言ういわゆる即非の論理)が宗教の立場である。いわゆる知識の立場は否定(概念的知識)から否定(概念的知識の否定=絶対意志の発展の方面に再び還る方面)に行かず、翻って部分的肯定(ある一つの純粋知覚の立場)を統一する立場であると言うことができる。例えば我々が赤色の経験を反省して「これは赤である」と言った時(思惟した時)、我々は一つの純粋知覚の立場を超越し、これを否定したのだ。リッケルトの「所与の範疇」というのは、このような絶対的意志の否定の立場から、ある一つの純粋知覚の立場を統一する形式を言うのだ。すなわち(所与の範疇とは)知識の最初の階級だ。この場合「これは」として主語となるものは絶対意志が肯定から否定に移る回転の点だ。この点を界として知覚の世界から思惟の世界に入るのだ。この点は二つの世界の接触点だ【それで現在と考えられるのだ】。我々の意識は何の点においても、反省の可能を含んでいる。すべての点において知識の世界に接している。このような反省の立場自身が一つの意志として対象界を創造する時、上に言ったように純粋思惟の対象である数の世界ができるのだが、この立場から更に絶対的創造の意志の立場に返る時(否定の否定)、すなわち人格的統一の立場に向かう時、カント学派のいわゆる「経験の世界」ができるのだ。時間空間とは純粋思惟によって経験内容を統一する形式に過ぎない。かつて言ったように、思惟体系の質的方面が空間の基となり、その量的方面が時間の基となるのだ。己自身を省みる純粋自我の立場から純粋経験とも言うべき絶対意志の全体を統一して見た時、そこに時間、空間、物と性質、原因と結果などの範疇によって構成された、いわゆる事実の世界が成立するのだ。自我それ自身の発展が時間の範疇となり、その発展の方向の差別が空間の範疇となり、この両方面(時間と空間の範疇)の統一が物の範疇となる。ポアンカレの生な法則というのは、法則というよりも、むしろ物とその性質とかあるいは物とその作用とかいう範疇によって成立するものと考えるべきだろう(?)。このような事実の世界すなわちいわゆる実在界は、超個人的自我(思惟作用など)の統一によって成る対象界として、各人に共通な所与の客観界と考えられるのだが、上にも言ったように思惟が思惟として意識される時、それはすでに(対象化された)相対的な一つのアプリオリであって、真の統一でないのだから、このような思惟の統一(超個人的自我の統一)によって成立する世界は一方から見ればかえって主観的だ(真の統一、意志によって成立する世界が真に客観的だ)。古来哲学者や科学者がこれらの現象界の背後に本質の世界を求めたのは、これによるのだ。この要求(本質の世界、真に客観的な世界の要求)は思惟に対して外から与えられるのではなく、実に思惟そのものから起こるのだ。カントが「経験の類推」において論じているように、純粋思惟の統一の要求は、ついにすべての物を一実体の相互作用として見ることを要求するのだ。そして絶対意志の一方面即人格の一部分である思惟の要求は、単なる思惟の統一に止まることはできないで、内容を要求してこなくてはならない。すなわち全経験の統一を要求しなければならない。思惟はその根底である自己の全体に返ることを要求する。そこ(自己の全体)に知識の客観性があるのだ。物理的世界観はこれによって出てくるのだ。自然科学者のいわゆる経験界(物理的世界)とは、絶対反省の立場に立って全経験を統一して見たものだ。自然科学者のいわゆる直覚、例えばポアンカレの感官の証明というようなものは、このような立場(全経験、自己の全体の立場)から見たものだ。(感官の証明のようなものは)芸術家の直覚とは、元々その範疇を異にしたものだ。自然科学的知識の発展とは、このような意味の統一の発展を言うのだ。自然科学界における種々なる仮説、ポアンカレの原則というようなものは、このようにして出てくるのだ。しかしこのような単に絶対的反省の立場から人格的内容の全経験を統一することはもとより不可能だ。思惟の立場に対して視覚や聴覚のアプリオリは非合理的だ。これ故に科学の仮説は主観的だ。(科学の仮説は)経験の内容に対しては外からの統一となる。科学者が経験界の背後に求めた本質は、真の本質ではなくかえって我々の主観的概念となる。真の経験内容の統一は、種々のアプリオリの統一である我々の人格の中に入って、これを求めなければならない。すなわち我々の自己の奥に入って、深い内面の自由に求めなければならない。否、未だ我というべきものもなき直接の統一に求めなければならない。純粋知覚の発展とも言うべき芸術家の意識は、この点において科学者のそれよりも一層深い具体的意識であると言わねばならない。すなわち一層内面的な自由な直接な統一だ。この意味において芸術の立場は思惟の立場に比べて、一層自由な立場であるということができる。芸術の立場は単なる肯定ではない。思惟の立場が単なる否定ではなくそれ自身に創造的であるように、形成作用ともいうべき芸術の立場は、それ自身の中に否定の方面を含む具体的立場だ。否定を除去した単に肯定的な抽象的立場は、心理学者のいわゆる知覚の立場のようなものに過ぎない。芸術家の純粋知覚とはこのようなものではないのだ。それで心理的知覚の対象として考えられた色とか音とかいうものは、単に現象と見られるかもしれないが、色や音の自己はエーテルの振動とか空気の振動とかいうものではなく、かえって芸術家の直観のようなものでなければならない。
 我々の意識は各々の点において肯定であると共に否定だ。芸術の立場も単なる直観ではなく、思惟の作用も一面において直観だ。我々の意志の体系は意志(絶対自由の意志)の中に意志(個人的自由意志)を許すが故に、その一々の点において自己内返照であると共に他者内返照だ。ヒルデブラントが「形の問題」の中において知覚的「形」を論じて、我々が指だけを見た時、その部分の形と大きさの印象を得、手の全体を見た時、この指を手全体の関係において見る新たな印象を得、手と腕を見た時には更にまた新たなる印象を得ると言っているように、純粋知覚においてもその自己内返照は直ちに他者内返照だ。純粋思惟とはこのような意味において宇宙の純粋知覚とも言うべき絶対意志の否定の方面であり、道徳的意志とはその肯定の方面だ。この両方面(純粋思惟と道徳的意志)を統一した絶対意志そのものの立場が宗教だ。宗教の立場は言わば超越的意識(実在界を超越する意志の意識)の芸術的立場であり、芸術の立場はこれに反し部分的経験体系における宗教の立場(具体的全体の立場)だ。芸術的直観が知覚に比べて具体的であると言ったのはこれによるのだ。芸術的直観の世界は認識的純粋自我の統一の世界に比べて、量的には部分的であるかもしれないが、質的には具体的全体を現しているのだ。時間空間因果などという「実在の形式」によって成るいわゆる実在界とは、絶対的意志の否定的統一の対象だ。(実在界は)知識に対しては直接に与えられた客観的実在と見られるかもしれないが、絶対意志においてはその抽象的一面に過ぎない。この形式(実在の形式)の中に絶対意志全体を入れようとすれば、直ちにアンチノミー(二律背反)に陥るのだ。絶対意志が真に己自身の具体的全体に返るには、このような実在界を超越して芸術の立場、宗教の立場に入らなければならない。斯く知識の立場すなわち否定の立場から絶対的肯定(発展、創造)の立場に移る回転の点が、道徳的意志の立場だ。マーテルリンクの言うように道徳的意志によって過去を現在となすことができるというのは、これによるのだ。いわゆる実在界は量的には客観的であるかもしれないが、質的には主観的だ。芸術の対象界はこれに反し量的に主観的であるかもしれないが、質的に客観的だ。(芸術の立場は)知識の立場を超越して直ちに絶対意志の内面に接触することができるのだ。

四十三(種々の世界)


 我々に最も直接な具体的経験の真相は、絶対自由の意志だ。種々なる作用の人格的統一だ。種々なる経験体系の内面的結合だ。それぞれの立場の上に立つ経験体系を一つの円に例えてみると、これらの円の中心を結合する線は絶対自由の意志でなければならない。すなわちその(絶対自由の意志の)統一は認識対象として考え得る静的統一ではなく、それ自身に独立な無限の動的統一でなければならない。これを繰り返すことのできない無限の発展と言うのも、すでにこれを対象化したものだ。我々の直接経験すなわち真実在を右のように考えてみると、このような絶対意志の否定的反省の方面、すなわち無限大の半径を有する円の立場のようなもの(円の中に入る物が限定されるものであり、無限大に限定できるということ)が純粋思惟の立場であって、この(純粋思惟の)立場から翻って全経験を見たものがいわゆる実在界だ。すなわち時間空間因果というような構成的範疇によって組織された実在界だ。このような世界が我々の認識の最初の対象だ。意志の世界から知識の世界に移る第一歩だ。両世界(意志の世界と知識の世界)の境界だ。そしてこのような純なる反省の立場(純粋思惟の立場)から異質的な経験を一般的法則によって統一しようとするのが、自然科学的見方だ。マックス・プランクが物理学の目的を「擬人主義からの解放」となすのもこれによるのだ。種々なる作用の統一である人格的経験について、種々なる作用の差別を否定して、いずれの作用の背後にも横たわる共通の反省的立場からすべてを統一しようとするのが、物理学的見方だ。我々の物質界とはこのような見方によって成り立つ実在の一方面だ。絶対意志の否定的(限定的)反省のアプリオリの上に立つ世界として、(物質界は)すべての人に共通な客観的世界と考えられるのだが、一方から見れば否定的反省作用というようなある一つの特殊なアプリオリの上に立つものとして、かえって主観的であると考えることもできる。現代哲学において物理学を主観的と考えるのもこの点に着眼されるようになったのだ。
 絶対意志の部分的意志(絶対意志の部分)として肯定(発展)の裏面に直ちに否定(限定)を含む我々の経験体系は、その一々が右に言ったように絶対意志の否定的反省の方面に接触し、いわゆる物質界に属すると考えられると共に、その一々が絶対意志の肯定(発展)的方面に連続し、一大人格の統一の中にあるということができる。例えば我々が色の経験を反省した時(例えば「これは赤だ」)、それ(赤)が思惟の対象として思惟の統一の世界に属し、物質界の一現象とも考えられると共に、色の経験はそれ自身のアプリオリの上に立ち、思惟のアプリオリに対しては(色の経験のアプリオリは)どこまでも非合理的としてそれ自身の独立を維持するのだ。すなわち我々の経験は一方において物質界に属すると共に、その一々が純性質的としてそれ自身の独立を要求するのだ。我々の経験内において思惟と同等のオリジナリティーを要求するのだ。ノミナリスト(唯名論。 中世哲学において、普遍を実在とみなした実念論に対して、物または個体のみが実在し、普遍は個体から抽象した名にすぎないとした理論)の考えのように思惟はかえって主観的な一作用と見なすこともできるのだ。自由意志の形において絶対意志の中に成立する我々の直接経験は、いずれも一方において絶対意志の否定的反省の方面に連なると共に、一方において絶対意志の肯定的発展の方面に連なっていると考えねばならない。前者(否定的反省)の方面から見たものが物質界であるとすれば、後者(肯定的発展)の方面から見たものが心理学者のいわゆる精神現象だ。ナトルプの再構成的方法の立場というのもこれ(精神現象)を意味するのだろう。今これらの立場の関係を我々の内省に訴えて考えてみると、我々の直接の経験例えば芸術的直観というようなものは、認識を超越した具体的意志の立場だ。これを絶対意志の否定の方面から見た時、この経験自身の独立的立場が否定され、統一の中心は思惟の立場に移り、原経験(芸術的直観)に対しては、(思惟の統一は)外からこれを統一すると考えられる。しかし真の絶対意志は否定即肯定(限定即発展)、肯定即否定(発展即限定)でなければならない。無限な否定(限定)の裏面に無限な肯定(発展)の可能がなければならない。否定に対して肯定の立場を省みた時、すなわち否定の否定、反省の反省の立場に立った時、そこにいわゆる精神界がある(例えば、目の前に見えるものは物体界として否定、つまり限定できるものであるが、それは我々の視覚作用によって脳内スクリーンに投射されたものである(否定の否定)と考えると、意識内容における物体界というものはなくなり、精神現象のみとなる)。我々がこの立場に立って見る時、我々は自己の精神現象を反省するというのだ。勿論このような意味における否定の否定は真の否定の否定ではない。このような意味の肯定は真の肯定ではなく相対的肯定(対象化された肯定)だ(精神界を抽象化し対象化している)。真の否定の否定すなわち真の肯定は反省即発展、否定即肯定であって、いかなる意味においても反省することのできないものでなければならない。相対的肯定の立場というのは、否定即肯定である絶対意志の立場に立って、ある一つの経験体系を見た場合だ。全作用の絶対的統一の立場(絶対自由の意志の立場)から翻って部分的作用を見た場合だ。ὄν(抽象的部分)の立場を、ὄν+μὴ ὄν(具体的全体)の立場から見たものだ。μὴ ὄνは一層大なる立場との結合を示すものだ。見るとか、聴くとか、考えるとかいう立場(ὄνの立場)に対して、我々は見ようと思うとか、聴こうと思うとか、考えようと思うとかいうようなすなわち「私は意志する」という立場(ὄν+μὴ ὄνの立場、具体的全体の立場)を考えることができる。すなわち自由意志の立場というものを考えることができる。この立場から種々の作用そのものを対象として見ることができる。この立場から見れば思惟の立場も反省の立場ではなく、ある一つの肯定の立場となる(視覚作用、聴覚作用などの種々の作用と同等な、思惟作用となる)。したがって自然科学的世界は“唯一の”世界ではなく、“ただ一つの”世界となる(唯一の世界ではなくなる)。この立場においては思惟(作用)そのものを否定(限定)しこれを反省することができるのだ。普通の考え方において反省というのはこのような(内界=精神現象を知るという)意味であって、(それとは違い)自然科学的立場を意味する絶対意志の反省というようなことは、かえって外界を知るというように考えられるのだ。これに反し自由意志の立場は絶対にこれを反省することはできない。なぜならそれは他を反省する立場であるが故だ。普通に人格的立場として認識されるものも、厳密に考えればある一つのアプリオリの統一によって成る相対的肯定(限定的発展)の立場に過ぎない。したがって真の我に属するのではなく、やはり外界の一部に属するのだ。真に絶対的意志の肯定に属する世界は、認識の世界に対して神秘の世界でなければならない。ここに芸術の世界があり、宗教の世界があるのだ。かつて「二十四」の終において、反省された作用はすでに作用そのものではないと言ったが、いわゆる知識の立場(ὄνの立場)に立っては我々は作用そのものを反省することはできない。反省されたものはすでに対象であって、作用そのものではないのは言うまでもない。しかし作用の統一である絶対意志の立場からは、作用そのものを対象として反省することができる。すなわち作用を体験することができるのだ(作用の体験=作用の反省)。意志の立場からは反省的思惟そのものを反省することができる。すなわち思惟(作用)そのものを体験することができるのだ。絶対的意志の立場というのは発展即復帰の立場だ。経験体系の発展と復帰はこの立場においては一つであって、かえってこの両方面はこの中において成立するのだ。この立場からは作用そのものを対象とすることができるのだ(例えば、目の前に見えているものという意識内容は、自然科学的立場から見たら「物質」である。しかし「見ようと思う」という自由意志の立場から見ると、「視覚作用」というものが反省される)。
 絶対自由の意志の立場からは、右に言ったような作用を対象としてこれを意識することができる。知覚とか思惟とかいうような認識主観の立場においては、その対象界は一つのアプリオリの上に立つ動かすことのできない客観的対象界であり、主観そのものである作用は反省することができないと考えられるのは勿論だ。しかし作用の統一である意志主観においては、その対象は可能の世界だ。種々なる作用すなわちアプリオリそのものを選択の対象として反省することができるのだ。要するに知識の立場は経験体系の固定された抽象的立場であって、意志はその(経験体系の)具体的全体の立場だ。知識の立場から意志の立場を対象として見ることはできないが、意志の立場からは知識の立場を対象とすることができるのだ。このような絶対意志の立場がナトルプのいわゆる再構成的方法の立場であって、この立場から見たものが我々の精神現象の世界だ。我々の精神現象というのは、種々の作用の結合だ。この結合点がリップスのいわゆる意識我とも言うべきものだろう。意識現象は必ず一つの「我」の意識として成立するのだ。種々の円錐曲線を極限概念によって一つの連続として包容することができるかもしれないが、翻って考えてみれば、これらの曲線は皆それぞれのアプリオリの上に立ち、その一々が独立の作用と考えることができる。すべてが二次方程式の曲線として統一されることによって、独立の作用としての性質が消え去るのはない。作用の統一である絶対自由の意志の立場から見れば、作用そのものがかえって最も直接な対象だ。我々が一つの作用の中にある間は、作用自身を対象とすることはできないだろうが、絶対意志の立場によって作用自身を超越することによって作用そのものを対象とすることができるのだ。対象と言えばすべて同一意義に考えられるかもしれないが、一つは知識の対象であり、一つは自由意志の対象だ。精神現象は後者の対象として、後者の立場によって成り立つ実在界だ。自由の意志なきもの(人間以外の動物?)は精神現象を理解することはできない。意志は精神現象のよって以って成立するアプリオリだ。もし実在の階級というようなものを考えるならば、プロチヌス以来ディオニシュースやスコトゥス・エリューゲナなどが神はすべての範疇を超越すると言ったように、何らの意味においても反省のできない絶対自由の意志というようなものが、最も直接な最も具体的な第一次的真実在であって、このような絶対意志の対象として意志的関係の世界、すなわち作用そのものの純粋活動の世界ができる。私はこれを象徴の世界と名付けてみたいと思う。この世界においては空間も時間も因果もない。象徴派の詩人の歌うように視るもの聴くもの尽く一種の象徴(抽象的な思想・観念・事物などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと)だ。「青き花」の里の宴においては科学も数学もコーラス(象徴)となる。今日のカント学徒では、知識はアプリオリによって成立すると考えているが、アプリオリ以前の世界、すなわち絶対意志の対象界では、すべての対象は一々無限の精神的活動でなければならない。この立場からはすべての個々のものが無限な精神作用の象徴だ。私はこのような象徴の世界はアレフ(アレフ数?)を最小数とする無限数の世界と考えることができると思う。無限数というのはかつて言ったようにそれ自身に独立な自覚、すなわち自動的なアプリオリによって成り立つのだ。ただ一つの秩序から成り立つ我々の知識の世界は有限数の世界であって、その極限において己自身を超越して無限数の世界すなわち意志の対象界に入るのだ。カントの言ったような時間、空間、因果の有限数的関係によって真実在(絶対自由の意志)を統一しようとすれば、忽ちアンチノミーに陥る外はない。ただ無限数的である自由意志によってのみ我々は真実在に達することができるのだ。物自体の世界は意志の世界、無限数の世界だ。以上述べたような訳であるから、我々の知識の世界、有限数の世界以前に、時間空間因果の関係を超越した無限数の世界、象徴的対象の世界がある。昔グノシス学徒が根本的精神とこの世界の間に種々の神話的図式を考えたのは、強ち古代哲学者の空想として排斥し去ることはできない。パジライデスの「未在の神」とかヴァレンチヌスの「深底」とも言うべき絶対的意志から現れ出ずる最始の対象は、人格的実在でなければならない。否我々の真の自己は今もなお象徴派の詩人が現実の根底に見る神秘の世界に住みつつあるのだ。
 右に言ったように、絶対意志の立場から見た最始の対象界は芸術の世界、宗教の世界だ。この立場からはいわゆる認識対象の世界は一つのアプリオリとして、すなわち一つの作用として対象視することができ、斯くして作用自身の反省されたものがいわゆる意識現象だ。意識現象とは、絶対意志の否定的反省とも言うべき純粋思惟の統一によって成る自然科学的世界と、絶対意志の立場から見た直接の対象界である象徴的世界の接触点であると言ってよい。かつて言ったように、絶対的意志の否定の方面とも言うべき純粋思惟の立場から経験全体を統一して見た時、時間空間因果の範疇によって成るいわゆる実在界ができる。いわゆる精神界と物体界はこの実在界を境界として相接触するのだ。このような純粋思惟の立場からどこまでもすべての経験内容を統一していくことによって物体界ができる。しかし絶対意志においては、一々の作用がエラン・ヴィタールとして、思惟と同等の独立性を要求するのだ。物体界の方へ歩みを進める代わりに、翻ってこの実在界を絶対意志の肯定(発展)の立場から見たものが、歴史の世界だ。歴史の世界というのは、絶対意志の直接の対象である象徴の世界の立場から、いわゆる実在界を見たものだ。すなわちいわゆる実在界を、意志対象の世界との関係において見たものだ。自然科学的見方を意志の対象的否定(限定)の方面とすれば、歴史的見方はその(意志の)相対的肯定(限定的発展)の方面とも言うことができる。これらに対し芸術の立場及び宗教の立場は、肯定即否定(発展即限定)である具体的立場だ。歴史の世界はいわゆる実在界の一種の見方としてなお知識界に属するが、芸術の世界、宗教の世界は完全に知識の範疇を超越している。すなわち作用そのものだ。芸術的見方は普通に主観的とか空想的とか考えられるのだが、右のような意味においてかえって真の客観的見方であるということができる。芸術においては一般の中に特殊を含み、個物が直ちに全体だ。一つのアプリオリの上に立つ自然科学的見方に対して、アプリオリの結合(実在界と意志対象の世界の結合)とも見られるべき歴史の世界は、その(一つのアプリオリの上に立つ自然科学的見方の)具体的根元として客観的実在と考えられるが、芸術の立場、宗教の立場は肯定即否定、一般即特殊として、一層具体的な立場と言わねばならない。歴史の立場も自然科学的立場と同じく、絶対意志の一つの作用である純粋思惟の立場に属している。前者(歴史の世界)はこの立場(純粋思惟の立場)から全経験の内容を統一しようとするのであり、後者(芸術の世界、宗教の世界)は一層具体的な立場から翻ってこれを見るのだ。しかし完全に一つの作用を超越して全人格の立場(絶対自由の意志の立場)に立った時、それが芸術の立場、宗教の立場となる。この立場はアプリオリのアプリオリであって、その一般性は抽象的概念の一般性ではなく、想像力の一般性だ。かつて推論式の形式によって精神と物体の関係を論じたが、単なる一般性を現す大語(大前提)は絶対意志の否定の立場から見た物体界であって、一つの限定性を現す小語(小前提)はその肯定の方面を表す心理的自我であり、判断(結論)は全体の立場から見た意識現象の世界、歴史の世界を表すと考えることができる。そして推論式そのものは具体的全体として、いかなる意味においても対象とならない絶対意志であると言うことができるだろう。
 右に言ったように我々の意識現象と物体現象は互いに独立する実在界ではない。意識現象とはある一つのアプリオリの上に立つ対象界を、翻ってアプリオリの統一である絶対意志の立場から見たものだ。純粋思惟のアプリオリの上においては数理の世界が現れ、この立場から全経験を統一することによって自然科学的世界ができる。自然科学的世界はまたそのアプリオリの性質によって物理の世界、化学の世界、生物の世界というように、階級的に分かつことができる。逆に純粋思惟のアプリオリを反省することによっていわゆる規範意識(当為の意識)とか、純粋自我の統一作用とかいうようなものができる。すなわちリッケルトのいわゆる先験的心理学(事実上の知的作用を分析し、真と言われる知識の対象を明らかにして、これによって超越的対象=価値に達する方法)の対象のようなものだ。思惟の立場から経験を統一することによって成立する自然科学的対象界を反省することによって、我々のいわゆる意識現象の世界ができる。例えば色という経験界のアプリオリを反省したものが、視覚作用だ。自然科学的に言えば、眼という感官ができて色の経験を生じると考えなければならないだろうが、直接経験の立場から見れば、眼というようなものよりも、色という経験そのものが一層根本的でなければならない。まず色という直接経験が与えられなければ、眼という物質が特殊な生理的意義を持つことはできないのだ。アプリオリ(この場合視覚作用)のアプリオリ(この場合視覚作用が成立する基)である絶対意志の立場から色のアプリオリ(視覚作用)が反省され、純粋意志の否定的方面を表す同時存在の平面において、他の経験内容との関係において見られた時、はじめて眼という感官が考えられるのだ。絶対意志の立場から見れば、眼というようなものよりも、色の経験のアプリオリ(視覚作用)の方が根本的だ。ここには因果の関係を入れるべき余地はない。無から有(この場合、作用)を生じるのだ。このようなアプリオリを反省したものが心理作用であって、我々の個人的自己とはこのような作用の束に過ぎない。種々なるアプリオリ(作用)の上に立つ経験の体系のある一つの結合、すなわち種々なるアプリオリ(作用)のある一つの統一を絶対意志の上から反省して見たものが、我々の意識的自我(心理的自我)だ。そしてこのような作用の一束、すなわち作用のある統一を、絶対意志の否定的統一の対象界に映じて見たものが、我々の身体だ。ある一種の経験だけをこの対象界に映じて見たものが感官であるように、アプリオリの有限な統一がこの対象界に映されたものが身体だ。有機体とは絶対意志の否定的統一の対象界、すなわち物体界を、絶対意志の直接の対象界との関係において見たものだ。これ故に有機物は物体と精神の結合点とならなければならない。あたかも解析幾何学において正と負の二義を有する一点が、一方において曲線の内部に属すると考えられると共に、一方においてはその外部に属すると考えられるように、一つのアプリオリが絶対意志の肯定面に属するものとして精神作用となり、その否定面に属するものとして有機体となるのだ。自然界の目的論的見方というのは物体界をその具体的根元から見た見方だ。従って単なる否定的統一の上に立つ機械論的見方とは完全に異なった立場だ。機械論的説明を進めて目的論的問題を解決しようとするのは、古き解析家が無限に分かつことによって極限点に達しようとしたのと同様の誤りだ。物体現象の目的はその進み行く先において生じるのではなく、(論理に対する数理のように)始まりにおいて与えられてあるのだ。乙があるには甲が先立たねばならないというように、進行はその手段に過ぎない。ある一つのアプリオリの上に立つ対象界の具体的根元が、この対象界の目的だ。この意味においてロッツェの言ったように有機体は自然の目的となり、精神は有機体の目的となると言うことができる。精神と身体の結合も右のように考えることによって理解することができる。絶対意志の否定的統一の対象界であるいわゆる物体現象が、絶対意志の直接の対象である作用との世界において見られることによって目的論的となり、その統一点が右に言ったように正と負の二義を有し、一方にては生命の中心と考えられると共に、一方においては精神と身体の結合点と考えられるのだ。絶対意志はこの点を通して肯定から否定に、否定から肯定に行くのだ。かつて言ったように有意的行為(意識的行為)によって精神と物体が結合されると考えられるのは。これによるのだ。もしこの点をなお一歩進めて、フィードレルのいわゆる芸術的活動のおいてのように我々の行動が一々表現運動となった時、我々は単なる否定の世界を否定して絶対意志そのものに帰することができる。これにおいては物体界は物体界としての実在性を失い、一々が象徴として見られるのだ。
 以上の考えを繰り返して言えば、ある一つの特殊な経験内容を「これは何々である」として絶対的否定の立場に立って見た時、この経験は否定的統一の対象界に入り来って、時間空間因果の範疇によって組織されたいわゆる実在界の事実となる。このような事実界を境界線として、リッケルトなどの言うように一般化的統一と個性化的統一の両方に進むことができる。前者は自然科学となり、後者は歴史となる。自然科学的見方というのは、絶対的否定の立場、すなわち純粋思惟のアプリオリから事実界を統一する見方であり、歴史的見方は翻ってこれ(事実界)を絶対意志の直接の対象界との関係において見たものだ(歴史的見方は、絶対意志の直接の対象である象徴の世界の立場から、いわゆる実在界を見たものだ)。歴史は宇宙精神の伝記だ。これに反し完全に絶対的否定の立場を超越して、人格的統一すなわち絶対意志そのものの具体的立場に還る時、我々は完全に事実の世界を超越して芸術的見方の世界に入るのだ。右のように考えてみると、心理学者のいわゆる意識界というのは歴史の世界と自然科学的世界の中間に位するものと言ってよい。更に詳しく言えば、歴史は事実界における芸術的見方であって、この(芸術的)見方と自然科学的見方の接触点を前者(芸術的見方)の方から見たものが精神現象であり、後者(自然科学的見方)の方から見たものが生物現象だ。精神と身体の平行というのは要するに、一種の公準に過ぎない。心理学者のいわゆる精神現象というのは、身体の基礎において見られた直接経験の内容であり。反対に身体とは精神現象に対応して考えられた物体だ。要するにある一つの立場の否定、すなわち部分的意志の否定が一方において身体の基となり、一方において精神の基となるのだ。それでいわゆる精神現象というものについて、生理心理学においてのように、その生理的説明を徹底して行けば遂に物理現象に還元されねばならない。これに反し多くの心理学者が主張するように、反対に直接経験そのものを忠実に記述しようとすれば、伝記のようなものとならねばならない。ヴントは精神現象はすべて創造的総合の因果律に従うというが、もしこの考えを厳密に徹底すればベルグソンのような純粋持続のようなものとならなければならない。すなわち心理学的法則というようなものを立てることはできなくなるのだ。いわゆる心理学者は歴史的現象と自然科学的現象の中間に、身体的統一に対応する意識我というような作用の一束を定め、この統一によって成立する対象界を意識界と名付けているのだ。このような意識界は意志の活動を否定の方面に写したものであるだけ、それだけ物体的と考えることができる。従って一般的法則というものを立てることができ、生理的現象と相対応することができるのだ。
 以上述べたように、心身の現象とは絶対意志が部分的意志【すなわち直接経験のある一体系】を否定することによって成立し、その否定的統一の対象界に映じて見たものが身体であって、これを元状態との関係において見たものが精神現象だ。ベルグソンが同時存在の方面が物体界であり、純粋持続の方面が純精神であり、その接触面において我々の身体と意識が成り立つというのも同意義だ。私がかつて推論式の大前提の方面が物体現象であり、小前提の方面が精神現象であり、大語が物体界を表し、小語が精神を表すと言ったのも同一の考えだ。心身の関係を右のように考えるならば、意識と無意識の関係はどのように考えるべきだろうか。意識と無意識の関係は右に言ったような立場を取るならば、かつて「十七」において言ったようにある一つの意識内容とその背後に横たわる具体的根元、すなわち限定されたものとその基である己自身を限定するものとの関係と考えねばなるまいと思う。この意味においてある一つの限定された線とか形とかに対して、無限の次元のようなものがその背後の無意識と考えることができるのだ。「無意識の作用がある」ということは自然科学的に存在するのではない。すなわち自然科学的原因として働くというのではない。自然科学的原因として対象化された無意識は、生活力などと同じく、我々の客観的対象界に属したもので、一種の物力と異なる所はない。このような意味において無意識的精神などというものがあると言うのは矛盾だ。このような意味の無意識とは、有機体の生理作用と意識我の意識作用の間に、説明のために設けられた一種の仮定的統一に過ぎない。このような無意識が意識の原因として考えられるのは、物体を意識の原因として考えるのと同じく本末転倒だ。真に意識の根元である無意識は、コーヘンのいわゆる根元のようなものでなければならない。このような無意識があるというのは、自然科学的意義において存在するということではなく、プラトンの理念の世界のような意味において存在するのだ。私のいわゆる絶対意志の対象として存在するのだ。世界創造以前の神の思想だ。このような無意識は意識を離れて存立するや否やという問題に対しては、いかなる意味においても完全に限定なき理念、すなわち完全に意識と関係のない無意識というようなものはあり得ないと言う外ない。しかし限定されたある個人的意識というようなものを離れて、理念はそれ自身に存立し得ると考えることができる。人間全体、生物全体というものがなかったとしても、理念そのものは存立すると考えることができるだろう。

四十四(意味と事実)


 精神現象と物体現象の区別及び相互の関係を以上述べたように考えることは、かつて「三十六」において論じたように、我々の常識及び自然科学的考え方とは相容れないと言うことができるだろう。我々の常識では、身体が精神の原因と考えられ、眼によって光覚が生じ、耳によって音覚が生じると考えられる。自然科学の考え方においてもこれと同様だ。しかし自然科学的考え方というのは、すでに言ったように絶対意志の否定の立場に立って全経験を統一する見方だ。一度この立場に立って考えてみれば、いわゆる時間空間因果の関係のようなものが動かすことのできない実在の秩序となり、物体現象はすべての精神現象の根底と考えられ、精神現象は宇宙進化のある時期における生物の神経系統に伴う付属物と考える外はないだろう。しかし自然科学的立場においては右のような考えが動かすことのできない真理であるとするも、斯く考える我は自然界には属さない。自然科学的世界はカントの言ったように純我(純粋統覚?)の統一によって成立するのだ。自然科学的世界の根本概念である時空因果の形式を以って(精神界を含む)全実在を統一しようとすれば、忽ち矛盾に陥らなければならない。自然科学的世界は“ただ一つの”世界であって、“唯一の”世界ではない。平面の世界を超越して立体の世界に到るように、我々は自然科学的世界を超越して自由意志の世界に入ることができる。この世界はいわゆる、汝は為さねばならぬ故に汝は為し能ふ(為さなくてはならないから為すことができる、道徳的意志、当為)自由意志の世界だ。夢の如き空想も動かすことのできない事実である世界だ。物理的時の前に現象学的時(内面的創造の順序)とも言うべき価値の時がなければならない。内面的統一に統一される芸術的動作を自然科学的に考えて機械的に説明することもできるだろうが、その極めて直接な内面的意味は自然科学的に説明することはできない。そして自然科学的説明というのも、その根底において何らかこの種の意味(内面的統一、当為)を許さなければ説明は成り立つことができないのだ。我々の精神は一方において身体に依存し、物質界に従属すると考えられると共に、一方においては直ちに宇宙精神の人格的歴史に接続している。神の国への途は何時でも我々の背面に開いている。アウグスチヌスが考えたように、我々は神の国と悪魔の国に属している。この両国は現在の我において相接しているのだ。この意味において真の世界は(自然科学的に)星雲を以って始まるという代わりに、世界は人格の歴史を以って始まると言うこともできる。私の世界は私の生涯とともに始まり、我々人間の世界すなわち人間の対象界は人間の歴史を以って始まると言ってよい。純粋思惟の対象界である物体界よりも、人格的歴史の世界が具体的実在(オン+メー・オン。物体+精神)だ。精神現象は普通に考えられるように時々刻々に生滅するものではない。ベルグソンの言うように記憶は己自身を保存するのだ。我々が推理によって外に物体界が現存すると考えなければならないように、内に歴史的実在が現存すると考えなければならないのだ。普通には前者(物体界)を唯一の実在と考えているが、もし前者を実在と言うならば、後者も同じく、否それ以上に直接な具体的な実在と言わねばならない。正しく言えば、人間の行為というような一つの実在(歴史)は、その結果と動機の和がその全体であるように、すべて具体的実在は物体プラス精神でなければならない。歴史的実在においては現象は機械的因果の法則に従って生起するのではなく、手段と目的の目的論的因果に従って生起するのだ。勿論我々の小なる人格においては全体を目的論的に見ることは不可能だろうが、人格が大なれば大なる程、一層大なる範囲において目的論的に見ることができるのだ。スピノーザの知的愛というような神的性格に至れば、すべてが必然的と見られると共にすべてが目的論的と見られることもできるのだ。このような人にとっては、すべてが「永久の今」だ。自然科学的には時が推移すると考えられても、精神的には同時存在の一平面を転回しているにすぎない。一直線の中にあるものは一瞬の過去にも還ることのできない無限の推移と考えることも、二次元の立場から見れば自由に過去に返ることができると考えることができる。物理的時とは実在の最も抽象的な見方の形式に過ぎない。純粋思惟の統一というような立場に立って見れば、物理的時の順序というようなものが動かすことのできない実在の順序であって、身体が精神の原因と考えられねばならないだろうが、ベルグソンの言うように身体は精神の貯留所ではない。かえって(身体は)その(精神の)切断面(エラン・ヴィタールの尖端と同時存在の平面が交わる切断面?)に過ぎないのだ。
 身体なくして精神現象はない。精神現象は必ず身体に伴わねばならないというのは、普通に考えられるように物体というものが精神現象と没交渉に、その(精神現象成立の)以前に存在し、精神現象は付加物としてその上に生じるという意味ではない。精神現象と物体現象の区別は、一つの実在の見方の相違であって、要するに精神と身体の平行ということは思惟の要請に過ぎない。絶対自由の意志とも言うべき我々の直接経験は到る所に反省の可能を含んでいる。すなわち何れの経験もこれを同時存在の平面に映じて見ることができる。換言すれば物質化することができるのだ。眼がなければ視覚的経験がないということは、眼という物質から視覚的経験が生じるという意味ではなく、絶対意志の否定的統一の対象界であるいわゆる物体界において、眼という射影を有しない経験の体系はない、ということだ。これ故に厳密な意味において物体界には精神現象の結びつき様がない。物体現象が目的論的統一によって有機的と考えられ、有機的統一の中心、すわなち知覚神経と運動神経の結合点が精神の座と考えられるのだ。我々の感官というようなものが一方において純物質として単に客観的と考えられると共に、一方においては精神現象の基礎として主観的と考えられるのも、右の理由によって解することができる。要するに神経作用(例えば視覚作用など)というのは絶対意志の否定から肯定に、肯定から否定に移る一段階に過ぎない。否定から肯定に移る順序を言えば、物理的見方(純物質)から生理的見方(有機体)に、生理的見方(有機体)から心理的見方(精神の座)に、心理的見方(精神の座)から歴史的見方(具体的実在)に至ると考えることができ、肯定から否定に至る順序はこれを逆にしたものと考えることができる。神経作用とは前者(絶対意志の否定から肯定の順序)の最初の階段(物理的見方から生理的見方)に過ぎない。これらの現象のすべてを結合するものは、時空を超越した「永久の今」とも言うべき我々の意志そのものだ。この意志の中心が何時でも現在であって、「此(これ)」という語を以って表されるのだ。現在の意志は種々なる世界の結合点となるのだ。「目的の王国」の市民として、それぞれの立場において、絶対自由の影を宿す経験体系は、それぞれの立場において現在を有し、それぞれの立場において種々なる世界の結合点となる。このようにして我々の個人的な心身の結合が成り立つのだ。ただしこれらの背後に横たわる絶対意志は全体を統一して一体系となすが故に、宗教家の考えるように世界は神の人格的顕現となり、いわゆる物体界はその身体であって、歴史はその伝記であると言うことができる。真理の世界は神の思想とも言うべきだろう。
 もし思惟と経験の対立とか、精神と身体の関係とかいうものが、これまで論じたようなものとするならば、【かつて「十三」の終において言ったように】実在は唯一の直接経験というようなものであって、合理的と非合理的とか必然的と偶然的とかいうような対立は、要するに経験統一のアプリオリ(作用)の相違に過ぎないと考えることができる。もし純粋思惟(作用)のアプリオリを以って、種々なる感覚のアプリオリ(作用)によって成る全経験を統一しようとするならば、前者(純粋思惟のアプリオリ)に対して後者(種々なる感覚のアプリオリ)が非合理的と考えられ、偶然的と考えられるのは当然だ。しかし厳密に言えば論理に対して数理が非合理的となり、算術に対して解析が非合理的となる。これに反し、マイノングの対象論においてのように、我々の種々の感覚についてそれぞれの先験学が成り立つと考えることができる。例えば色について色の幾何学というようなものが成り立つと考えることができる。一つの立場から非合理とか偶然的とか考えられるのも、他の立場からは合理的で必然的であると言い得るのだろう。つまり合理的とか非合理的とかいうことは、立場(アプリオリ)の相違ということになる。そしてこれらの種々なるアプリオリを統一するものは、絶対自由の意志のアプリオリだ。この立場において我々は思惟と経験と、精神界と物体界と、意味の世界と事実の世界を結合することができる。このようにし考えてみると、ある個人がある時ある場所において、ある真理を考えるということも、絶対自由の意志のアプリオリによると考えることができる。すでに思惟の対象界に移された自然科学的存在に過ぎない心理的自我は、最早一般妥当的真理と結合することはできない。しかし我々の「我」は、これ(心理的自我)を純粋思惟の統一の対象界に映じて心理的「我」と考えられると共に、その一々が絶対意志の面影を宿す自由な人格だ。種々なる作用の統一と見なすべき自由な人格は、種々なるアプリオリの結合点であり、種々なる世界の切点だ。ある時ある場所に限定された個人的「我」が一般妥当的真理を考えると言うのは、絶対意志がこの(種々なる世界の)切点を通じて自由に自然科学的存在の世界(個人的「我」)から他の対象界(一般妥当的真理)に移り行くことだ。同時存在の平面的世界から意志対象の象徴界である立体の世界に移り行くことだ。このようにして我々の精神現象は単なる自然科学的存在ではなく、一般的意味を寓する象徴となるのだ。
 右に論じたように、種々のアプリオリによって種々の世界が成り立つことができ、我々は絶対意志の統一を通じて自由にその一から他に移り行くことができる。ある個人がある事を考えるというのは、一層高次的な世界(絶対意志の対象界、象徴界)に移り行くことだ。平面の世界から立体の世界に移り行くことだ。元々自然科学的世界を超越した対象界に属す意味とか価値とかいうようなものは、純論理派の人々の考えるように自然科学的存在である個人的作用を超越したものと考えられねばならない。ある人に意識されるということは内容そのもの(意味、価値)に何物も加えないのだ。ヘーゲルが「哲学全集」において単称命題( 形式論理学で、主辞が単独概念である命題。「この鳥は白い」「この花は美しくない」の類)の主語は一般的であると言い、「精神現象学」の始まりにおいて、「此(この)」とは何ぞや“Was ist da dieses?”を論じて、その直接なものにあらず「媒介されたもの」であると言っているように、我々がこの時この場所ということを意識した時、我々の意識は既にこの時この場所を超越しているのだ。この時この場所ということは一般的意識の対象であって、誰でも考えねばならない思惟の対象であるのだ。「この」として限定されたものは「この」を意識することはできない。「この」ということを意識するには、我々の主観は先験的主観(純粋統覚?)にまで上らなければならない。「この」ということは他人の心理現象の外にあるのみならず、「この」として指された心理現象そのものの中にもないのだ。個人的自己がいかにして一般妥当的真理を考え得るかの疑問は右のように解することができる。しかしなお一層深く考えて、ヘラクレイトスの永久の流にも比すべき純粋持続を離れることのできない自己は、いかにして過去を顧みることができるか。先験的主観の立場に上るということ自身がすでに純粋持続の流れの中に起こる事実ではないかという疑問を呈出することもできるだろう。先験的立場に立つということは自然科学的時を超越するとしても、ベルグソンの言うような純粋持続の真の時を超越することはできないと考え得るだろう。我々の道徳的自由の行為は自然科学的因果を超越するとしても、更に一層深き我々の人格的歴史上の事実だ。人格的歴史の上に印した過去の痕跡は、いかにしてもこれを消すことはできないと考えることもできる。しかしかつて論じたようにベルグソンの純粋持続というようなものは、すでに一つのアプリオリの上に立っているのだ。もはや対象の世界に属しているのだ。一つのアプリオリから自由に他のアプリオリに移り行くことのできる絶対自由の意志の立場においては、いかなる事実でも何らの痕跡も留めることはできない。いわゆる水月の道場に座して空華の万行を行ずるもの(禅語。坐水月道場 修空華萬行)、絶対に能動的なる意志は何らの意味においても受動的とはならない。無限数は有限数に対してどこまでも無限なる如くだ。もし絶対意志が何らかの意味において、行為の為に己自身を限定すると言えば、それは既に対象化された意志だ。真に能動的な絶対意志ということはできないのだ。我々の自覚はその奥底においてこのような絶対意志に接続している。我々の性格として意識するものは経験的性格empirischer Charakterであって、睿智的性格intelligibler Charakterではない。後の性格(睿智的性格)においては我々は何のアプリオリを取るかは自由だ。判断の誤謬ということも、右のように考えることによって可能であると思う。対象化された客観界においては誤謬というものの起こり得るはずはない。これ故に自然科学的見方においては、誤謬の判断も必然的因果の法則によって起こると考えられる。誤謬とは自由な純主観的作用の上に起こるものだ。種々なるアプリオリの統一作用の上において起こるのだ。異なる立場(アプリオリ)の混淆から起こるのだ。ある一つの立場に対して他の立場を混入し来るより生じるのだ。元々誤謬とか罪悪とかいうことは一方において物の不完全なることを表すと共に、一方においてその具体的なこと(物体+精神)を示すものだ。ただ、豊富にして深き実在のみ誤謬と罪悪に陥ることができる。Saint-Cyranの言ったように煙る所から光を放つUnde ardet, inde lucet(光は燃えるものから発せられる?)と言うべきだ。


 私はこの書の跋として、この書に於いて述べた考えをカント哲学との関係において簡単にまとめて話してみよう。認識論におけるカント哲学の重要な功績は、真理の考えを一変したことだ。すなわち真理とは実在との一致であるという独断論的真理の考えを一変して、知識は主観の先天的形式によって構成されたもので、我々が一般妥当的な真理を認めなければならないのは、我々はこの形式(主観の先天的形式)を離れて考えることができない故であるといういわゆる批評論的真理の考えを明らかにした点にあるのだ。無論カント自身は明らかに斯く言ったとは言えないとしても、とにかくカント学派の主意はこのようなものであったと言うことができる。今日リッケルトなどが「存在の前に意味がある」ということも、要するにカント哲学の意味を徹底的に言い表したものに過ぎない。
 心理は右のようなものであるとすると、これに従って我々は普通に考えているような「物を知る」という考えも変じなければならない。常識では我々の心を鏡のようなものとして、物を知るということは物が鏡に映るというようなことと考えている。多少科学的に考える人は、我々の心は単なる鏡のようなものと考えないで、何らかの特質を有し従って外界の実在を変形して感じるものと考える。とにかくこれらの人の考え方では、我々の知識成立の根底に、何らかの意味において、心と物の間の因果関係というものが考えられていると言わなければならない。だがカントの批評論的認識論の考え方では、知識成立以前に因果律というようなものを考えることはできない。因果律というのは我々の経験界を構成する思惟の範疇に過ぎない。思惟以前に因果律を考えるのは矛盾だ。批評論の考え方では物を知るということは、与えられた経験内容を統一することだ。カント自身も「我々が直覚の雑多を統一した時、対象を認識する」と言っている。対象とは雑多な経験内容の統一ということに過ぎない。カントの中に「直覚の雑多が統一されたものが対象である」という語がある。現今リッケルトなどが認識の対象は当為であるとか、価値であるとかいうのもこの意味に外ならない。
 右のように考えてみると、認識以前の物自体というようなものはいかなるものだろうか。カントは先験的感覚論においては物自体を感覚の原因として考えているかのように疑われる点もあるが、カントの立場から厳密に論じて行けば、物自体というものは認識の対象としては完全に不可知的なものでなければならない。すなわち我々が普通に考えるように範疇によって対象を知るという意味においては、物自体は全く不可知的であると言わねばならない。それでは物自体は我々の認識の世界に対して、どのような意味、いかなる関係を持っているだろうか。全然、無内容、無関係と言ってしまえば、物自体というような考えは完全にカント哲学から除き去ってよい。しかし知識はある立場からの構成であるとすれば、与えられたある物がなければならない(与えられたある物から知識が構成されなければならない)。これにおいて物自体とは知識の原因というようなものではなく、概念的知識以前に与えられた直接経験というようなものとならねばならない。現今のカント学徒はこのような意味において物自体を考えていると思う。すなわち与えられた直接経験というようなものは、我々の認識することのできない知識以前だ。我々の知識とはこの豊富な具体的経験(直接経験)をある立場から見たものに過ぎない。西南学派の如きは最もよくこの種の考えを顕したものだ。ヴィンデルバントはこれまで物自体と現象界が質的に異なるものと考えられたのは誤りであって、量的に異なるものと考えねばならないと言っている。これにおいて、現今のカント学派の考えは完全に異なった源から発展し来ったと思われる仏国のベルグソンなどの考えと結合することができる。リッケルトの如きも「自然科学的概念構成」の第二版の始りにおいて、ベルグソンの純粋持続のようなものを認めているのだ。
 真理認識、物自体などの考えが右のように洗練されると共に、主観と客観の考えもこれに従って変じられなければならない。普通には我々の心が主観であって、これに対して外界の物が客観と考えられる。しかし少し考えてみれば、我々が内省的経験の対象として「我」と言っているものは、認識主観から見れば、外物と同じく認識対象の世界に属する一つの対象に過ぎない。外物と因果関係に立ち、これと同一の自然界に属する同列の現象だ。もし外物を客観というならば、これも客観と言わねばならない。右のように考えてみると、認識論上真の主観と言うべきものは、ある一つの客観界を構成する統一作用のようなものと考えねばならない。前にある一つの立場またはある一つのアプリオリから経験を統一すると言ったが、このような一つの立場とか、アプリオリとかいうものが、真に反省することのできない、すなわちこれを対象視することのできない認識主観と言わねばならない。カントの純粋自我の統一というようなものがそれだ。真の主観と言うべきものが右のように考えねばならないとすると、主観とは一つの世界の構成作用の中心というようなものであって、客観界とはこれによって構成されたものということとなる。厳密に言えば、主観と客観は一つの実在の両極とも言うべきものであって、相離すことのできないものだ。
 右のように考えてみると、我々は種々の立場によって種々の世界ができるということができる。数学者の立場からは数の世界ができ、芸術家の立場からは芸術の世界ができ、歴史家の立場からは歴史の世界ができる。我々が普通に“唯一の”世界と考えている物理的世界のようなものは、このような世界の“ただ一つ”に過ぎない。ということとなる。すなわち唯一の世界ではなくただ一つの世界ということとなるのだ。
 私はこれから種々の世界とその相互関係について少し述べてみよう。右に言ったように知識はあるアプリオリの構成によって成立し、種々の立場によって種々の世界が構成されると考えてみると、未だ何らの立場というようなものを取らざる以前の世界、あるいはすべての立場というようなものを除去した世界、すなわち真に与えられた直接経験の世界、カントのいわゆる物自体というようなものは、いかなるものだろうか。このような世界は、言うまでもなく、我々の言語思慮を超越したものでなければならない。これを思惟すべからざる神秘の世界と言うも、すでに誤れるものかもしれない。思うにこのような光景に直接するのは宗教のこととして、哲学のことではあるまい。しかし試しに哲学の立場から論じてみれば、私はこれを絶対自由の意志の世界と考えてみたいと思う。我々の種々の能力を総合統一して、自由にこれを使うことのできる人格的統一の体験、すなわち絶対自由の意志の体験が我々をして、この世界を彷彿させることができると思う。普通に(普通の考えのように)直接経験は単なる感覚の世界のようなものと考えるのは誤っている。このような世界はかえって作為された間接の世界に過ぎない。この点においてベルグソンが直接経験を純粋自我というのは、既に思惟対象の世界に堕している。真に直接な世界はスコトゥス・エリューゲナのいわゆる止まれる運動、動ける静止の世界でなければならない。それでこの世界(絶対自由の意志の世界)は完全に我々の思惟の範疇を超越している。昔ディオニシュース・アレオパギダやスコトゥス・エリューゲナが言ったように、神はすべての範疇を超越している。神を有と言うのも既にその当を失している。我々の意志は有にして無、無にして有なる如く、この世界は有無の範疇すらも超越している。況やここには空間も時間も因果もない。無から有を生じるのだ。私はここにおいて希臘の終期における新プラトー学派の流出説から、オリゲネスなどの教父の創造説に転じた所に深い意味を認めざるを得ない。最も深き実在の解釈は、これを理性に求めるべきではなく、かえって創造的意志にあると思うのだ。
 それではいかにして知識の対象として反省することのできない、しかも我々が認識の根底として認めねばならない直接の実在、すなわちカントの物自体とも言うべき絶対自由の意志の世界から、いかにして種々の対象界が出てくるだろうか。我々は我々の内省的経験において知るように、我々の意志はその一々(部分的意志)が自由なると共に、一大自由の意志(絶対自由の意志)の中に包摂されている。我々の自己は一瞬一瞬に自由なると共に、全体において自由だ。この意味において我々の自己はカントのいわゆる目的の王国だ。ヘーゲルのいわゆる概念だ。一々の作用の中に肯定(発展)と共に否定(限定)を含んでいる。自由ということは肯定の中に否定を含み、否定の中に肯定を含むことだ。意志はこのようにして、その一々が独立自由であることができるのだが、これらはまたすべて絶対自由の意志の立場の中に包容され、絶対意志の否定の立場からすべてを統一して見ることができる。すなわち我々の経験全体を絶対意志の否定的統一の対象界として見ることができる。このような見方によって出来たものが、思惟の統一によってできたすなわち思惟の範疇に当てはまってできたいわゆる実在界だ。我々の自己は一々の場合において自由であって、自己を否定し反省することができると共に、一つの人格として私自身の経験全体を反省して見ることができるように、我々の個人的自己は各自独立自由であるにも関わらず、超個人的意識の立場から全経験を統一して見たものが実在界だ。思惟と言うのはこのような絶対意志の否定の立場だ。思惟は絶対意志の否定作用として独立に考えられた時、それ自身が一つの対象界を持つことができる。数理の世界は純粋思惟の対象界だ。しかし思惟は元々絶対意志の一作用に過ぎないのだから、思惟のみの立場の上に立つ対象界は単に主観的とか抽象的とか考えられ、思惟は己自身を完成するにしたがって全人格の統一に進まなければならない。思惟の立場から全経験を統一して見たものが実在界だ。リッケルトは直接経験の内容がまず所与の範疇に当てはまり、次いで時間空間因果の範疇に当てはまって、実在界ができると言っている。このような純粋思惟の統一をどこまでも進めていったものが物理的世界だ。プランクの「物理的世界像の統一」はこのようにして成立するのだ。我々はある一つの立場(アプリオリ、作用)の上に立っては、その立場自身を反省することはできない。したがってその対象界は動かすことのできない実在界と考えられるのだ。我々は普通にすべての人に共通と考えられる思惟の対象界を“唯一の”世界と考えているが、思惟は絶対意志の一作用に過ぎないので、アプリオリのアプリオリ、作用の作用とも言うべき絶対自由の意志そのものの立場に立っては、我々は思惟そのものを対象として反省することができる。カントの純粋批評の如きもその一つだ。右のような意味において、いわゆる実在界を原経験(直接経験)の形に再び構成して見たものが、歴史の世界だ。自然科学は一般化的方向に進むのに反し、歴史は個性的方向(特殊化的方向)に進むと考えられるのはこれによるのだ。歴史は自然科学の顛倒だ(歴史は自然科学とは逆だ)。このように一方には物理的世界、一方には歴史的世界を両極として、その中間に種々の実在界を考えることができる。歴史学的世界、心理学的世界、生物学的世界、化学的世界、物理学的世界というように、階段的に種々の世界が考えられるのだ。物理的世界から歴史の世界に近づくに従い、意志そのものの具体的経験に近づき、すべてが目的論的となるのだ。そして現在の「我」というのがこれらの世界の接触点だ。我々はこの現在の「我」と通じて自由に何れの世界にも出入することができるのだ。
 右に述べたように、絶対意志の否定的立場、すなわち思惟の立場から経験全体を統一して見た世界、すなわちいわゆる実在界だけの見方について見ても、歴史の見方から物理学の見方に至るまで、階段的に種々の見方ができるのだが、否定を否定して何の立場においても独立自由になることのできる絶対意志は、いわゆる実在界を超越して、それ以外の種々の世界を有することができる。ヘラクレイトスが我々は日の中においては共通の世界を持つが、夢においては各人が各人の世界を持つと言ったように、絶対意志が否定(思惟による限定)を否定し、一たびこの実在界を超越した時には、そこに無限な可能の世界、想像の世界の展望が開かれるのだ。この世界においては夢のような空想も一々事実だ。前に種々の立場、種々のアプリオリによって、種々の世界ができると言ったが、種々なる立場の統一、アプリオリのアプリオリとも言うべき絶対意志の立場に対する直接の対象界は、すべての物が一々独立の作用である自由意志の世界だ。この世界においては時間も空間も因果もない。万物はすべて象徴だ。我々が唯一の実在界と考えるいわゆる自然界も、単なる一種の象徴に過ぎない。ある人がザイスの女神のヴェールをあげたら、不思議にも自分自身を見たというように、自然の世界の根底には自由なる人格(絶対自由の意志の対象界)がある。昔グノシス派のヴァレンチヌスなどが、太始的深底というような神からこの世界の創造までの間に、神話的図式(一種の象徴)を考えたのは、この点から見て深い意味があると思う。
 以上の考えを纏めて言えば、我々のいかにしても反省することのできない、すなわち対象化する事の出来ない絶対意志の直接の対象、すなわち第一次的世界というようなものは、芸術の世界、宗教の世界だ。この世界にあっては、一々の現象が象徴であり、自由の人格だ。この世界においては我々の思惟は“ただ一つの”作用に過ぎない。したがって思惟の上に立つ真理、思惟の上に立つ世界は、ただ一種の真理、ただ一種の世界であって、唯一の真理、唯一の世界ではない。単に思惟の立場に立って見れば、そこに数理の世界が現れる。数は純粋思惟の世界の実在だ。しかし数理を意志の直接の対象として見れば、一種の象徴だ。ディリシュレがローマにおいて復活祭の音楽を聴き数理の示唆を得たというのも意味あることだ。ただ、絶対意志の統一は深さと広さの両方向に進む。一々の立場はそれぞれの立場において深く純なる方向に進むと共に、人格の一作用としてその全体の統一に向かって進む。これが知識の客観性の要求となるのだ。
 右に言ったように、我々が普通に唯一の世界と考えているいわゆる自然界はただ一つの世界であって、必ずしも唯一の世界ではない。我々は自然界が主観的自我を離れて存在すると考えるのと同一の理由を以って、否なお一層深き権利を以って、歴史の世界がが客観的に存在すると主張することができると思う。ベルグソンが言っているように、我々はこの戸を開けて行けば隣に室があるということを信じるのと同じく、過去における出来事を動かすことのできない実在と考えることができるのだ。それだけでなく、物理的真理はかえって歴史的真理に依存するということができる。物理学者は我々の精神現象はその時、その時に消失する虚幻に過ぎないと考える。心理学者も精神現象は繰り返すことのできない時々刻々に生滅する出来事と考えている。しかし物体現象が不変であるというのは、同様の精神現象が繰り返し得るということに過ぎない。物とは「感覚の不変的可能」であるということは、ミルが既に言っている。精神現象が真に繰り返すことのできない永久の流であるならば、物体の不変性も失われてしまうのだ。それだけでなく、我々は単に不変なもの、すなわち何時も現在であるものを実在的と考えているが、このような実在は単なる抽象的実在に過ぎない。真に具体的な実在は過去の加わったものでなければならない。いかなる人も死んで灰となってしまえば、物体としては何の人も変わらないかもしれない。しかし歴史的実在としては各々の人が一あって二なき個性を持った実在であったということができる。同じく零落して乞食になった人であっても、自己の罪によるものもあれば、やむを得ない運命によるものもあるだろう。もし単に外面的な固定的な現象にのみ着眼すれば、これらの差別は尽く虚幻として除去されなければならない。しかし我々に直接な具体的実在は、物体現象のような抽象的実在ではなく、かえって右の如き歴史的実在であると言わねばならない。歴史的世界は自然科学的世界に比べ一層具体的実在と考えらえるが、芸術の世界、宗教の世界はこれにもましてなお一層深い直接の実在であるということができる。とにかく、我々は種々の世界に属し、種々の世界に出入している。アウグスチヌスの考えたように、人間は一方に「神の国」に属すると共に、一方においては「悪魔の国」に属している。我々人間の向上も堕落も悲劇も喜劇も皆ここにあると思う。

 以上述べた考えを少し人生問題と結合して考えてみよう。以上述べたように考えてみるならば、物の目的ということは抽象的なものから見て、その背後の具体的全体を指すのだ。前者(抽象的なもの)の立場から見て後者(その背後の具体的全体)がその目的となるのだ。上に言ったように、ある一つのアプリオリによってある一つの客観界が立せられる。数理のアプリオリによって数理の世界が立ち、自然科学的アプリオリによって自然科学的世界が立ち、歴史学的アプリオリによって歴史的世界が立せられる。更に詳しく言えば、算術のアプリオリによって有理数の世界ができ、解析論のアプリオリによって実数の世界ができ、幾何学のアプリオリによって幾何学的図形の世界ができ、また力学のアプリオリによって機械的世界ができ、化学のアプリオリによって科学の世界ができ、生活力のアプリオリによって生物界ができ、心理学のアプリオリによって心理学者のいわゆる意識界ができる。これらの立場は極めて抽象的な論理や数理の立場から、極めて具体的な歴史や芸術の立場に至るまで、順次に抽象的な立場は具体的立場の中において成立し、具体的立場が抽象的立場に対してその目的となるのだ。このような意味において、数理は論理の目的となり、連続数は非連続数の目的となり、幾何は数理の目的となり、生命は物体の目的となり、精神は身体の目的となる。我々に最も直接な絶対自由の意志の立場は、このような意味において、すべての立場の根底となり、すべての立場がよって以って成立する最も具体的な立場であって、すべての立場の目的となるということができる。我々の知識はその内容を得ることによって、客観性を充実するというが、さらに進んで意志とか行為とかに達することによってその終極に達し得たと考えることができる。
 それで我々が人生の目的を充実していくということは、抽象的立場からその具体的根元に移り行くことだ。ベルグソンのエラン・ヴィタールということも、このような意味において具体的根元に向かって躍進することであると考えることもできる。論理から数理に行き、有理数から実数に至るのも、一種のエラン・ヴィタールだ。生命という語は曖昧であると思うが、要するに我々の意志を対象界に投射して見たものが生命だ。すなわち客観化された目的論的統一だ。一言に生命と言うも、その内容は目的の内容によって異なってくると思う。例えば単に物質欲の外、理解しない人にとっては、その人の生命は肉体的生命の外に考えることはできないだろう。これに反し深い理想的要求に生きる人は、ポールの言の如く、我もはや生きるにあらずキリスト我において生きるということができる。己自身によって立つもの、真に独立なものが生きたものであって、真の生命とは実在の具体的全体の統一であるということができる。生命の発展とは具体的全体に向かって進むことだ。この意味において単なる抽象的立場の上に立つ肉体的生命というようなものは手段であって、目的そのものではない。キリストが生命を求めるものはかえってこれを失い、我ために生命を失うものはかえってこれを得ると言ったのも、決して単なる道徳的意義のみに解するべきではない。右のような理由によって、真の生命というのは文化意識というものを除いて考えることはできない。「生への意志」は「文化への意志」でなければならない。私はこの点においてフィヒテなどの考えに最も同意を表するものだ。絶対意志は反理智的ではなく、超理智的でなければならない(理智…理性と知恵)。意志が理智を否定し反智識的となるのは、意志の堕落だ。意志が自然化され他律的となるのだ。
 右に言ったように抽象的立場から具体的根元に移り行くということは、一方から見れば我々の最も直接な具体的全体に還るということだ。絶対意志というのは我々に最も直接な現実だ。これに反しいわゆる自然界というのは、投射された対象の世界、間接経験の世界だ。現実の具体的生活は立体の世界のようなものであって、自然界はその投射面のようなものに過ぎない。我々に最も直接な絶対自由の意志は「創造して創造されぬもの」であると共に「創造されもせず創造しもしないもの」だ。到る所に己自身の否定を含んでいる。これ故に我々の精神現象は必ず一方に物体現象を伴うと考えられる。精神と物体の結合というのは、一種の公準(ある論理的、実践的体系の基本的な前提として措定せざるを得ない仮定的な命題)だ。それで我々は何時でも精神と物体の両界に属すると考えられるのだが、投射図の意味がその原形本体である原立体の影として理解されるように、肉体的生活の意義は精神生活にあるのだ。肉体的生活は精神生活の手段に過ぎない。物質的生活に偏する文化の発展は、決して真の人生の目的ではないのだ。


いいなと思ったら応援しよう!