西田幾多郎 「芸術と道徳」現代的改定+補足
このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。
※筆者の独断により、(~)という形で補足を付け加えています。
※西田自身が補足としてつけているかぎ括弧は、【】で表しています。
※旧字体は新字体に、一部表現を現代的に改訂しています。
※筆者が分からない部分は?をつけています。お判りになられる方がいたらご指摘いただけると幸いです。
前著「意識の問題」
次著「働くものから見るものへ」
芸術と道徳
序
この書は「意識の問題」において述べた考えを基礎として、芸術及び道徳の世界の成立とその相互の関係を論じたものである。私は認識対象の世界の底に意志対象の世界を考え、右両種の世界は共に意志対象の世界として成立するのであるが、その間にカントが「経験の類推」において言っているような、与えられたものと、構成されたものとの如き区別があると考えた。芸術的直観と道徳的意志との内面的関係を、意志我の直観と反省との関係に求めたのである。私は豊富なる人性の内容を否定する如き道徳観に反対するものであるが、美なるものが直ちに善であるかのように考える芸術至上主義に同意することもできない。かつ私は真の美は真や善と離れたものではない、内容なき手先の芸術は真の芸術ではないと思うものである。
美と善との問題は自ら真、善、美の関係を論じるようになった。しかし真とか実在とかの関係は未だこの書において十分論じられていない。また私の言う如き意志の対象界とは、自ら文化の世界を意味することとなるであろう。私は屡、かかる世界の所与として芸術的直観を説いた。しかしこれらの語もなお厳密にせねばなるまい。「法と道徳」において一言した如く、真の所与は単に芸術的構成に偏したものでもない。ただ、私は芸術的直観という如きものによって、かかる所与を最もよく理解し得ると思ったのである。終りにこの書の根本概念ともいうべき意志の意義については、多くの誤解があるかもしれない。人の誤解を責める前に、まず自分の思想の不完全を責むべきではあるが、私の意志とはいかなるものを意味しているかは、多少とも「意識の問題」において論じた所について、理解してもらいたいと思う。
大正十二年七月 西田幾多郎
美の本質
一
美の本質はどこに求めるべきだろうか。名匠の作品や奇しき自然に対しては、何人もその美に打たれないものはない。我々はその物が美であると信じる。しかし美とは或者は青いとか赤いとかいう意味においての物の本質ではない。主観によって付与された物の性質だ。審美的判断は感情の判断と考えられる。美の本質はこれを審美的鑑賞作用に求めるべきだろうか。しかし芸術家の意識は単なる鑑賞ではない。芸術の本質はむしろ芸術家の創造作用において求めるべきであると考えることもできる。かつ、鑑賞作用も一種の創造作用に基づくと考えることもできるだろう。鑑賞家自身も芸術家の立場に立って、模倣的創造作用によって鑑賞すると考えることもできる。しかし斯く美の本質はこれを主観的作用において求めるべきであると考え得ると共に、我々の審美的判断に対して客観的に「美しき物」というものがあるということを考えざるを得ない。美の内容は物の存在的性質ではないとしても、何らかの意味において客観的に美感の対象となるものがあると考えることができる。そしてこのような美的対象の客観的性質を明らかにすることによって、美の本質を明らかにすることができると言い得るのだ。
美は言うまでもなく物の存在的性質ではない。美感とは物によって起こされた主観的状態だ。しかし白の知覚作用そのものが白ではないように、感情そのものが美とか醜とかいうのではない。我々は何物かを美と感じるのだ。感情の対象となるものが美とか醜とか言われるのだ。無論美しい感情など言われるときもあるが、かかる場合では感情そのものがまた感情の対象となるのだ。美的感情の対象として立つものは、物の存在的性質または関係でないからと言って、直ちに主観的と考えることはできない。例えば、数理の如きものは単に思惟の対象であって客観的存在ではないが、一般的妥当性を有する客観的対象と考えねばなるまい。数学者が種々の数理を見出すように、芸術家も客観的世界の中に何時でも新たなる美を見出し得るのだ。数の本質を明らかにするには、かかる客観的対象の性質を明らかにせねばならないように、美の本質を明らかにするにも、その対象の客観的性質を明らかにせねばならないと考えることができる。勿論このような客観的対象の性質というのも主観的作用の一般的性質に基づくと考えることもできるだろう。かかる対象は我々の主観的一般の構成に過ぎないと考えることもできる。斯くしてやはり美感と主観的性質を明らかにすることが、美的対象を明らかにする所以であると考えることもできる。しかし数の如きも純なる思惟の対象として思惟の性質に基づくものと考え得るが、数理的思惟の心理的研究によって数そのものの性質を明らかにすることはできない。数そのものの性質を明らかにするには、数理のよって立つ所のアプリオリを明らかにせねばならない。肯定(定立)と否定(反定立)を交換し得る総合的作用の対象として数の要素「一」が成立するということは、いわゆる心理的説明ではない。ただ数そのものの内容的分析によって可能となるのだ。数学的思惟の発展の過程やその心理的条件を明らかにすることによって、数そのものの性質を明らかにすることはできない。このような説明は数そのものの説明に対して他律的たるを免れない。それ自身に一般妥当性を有すると考えられる美の本質の説明についても、同様のことを言い得るではないだろうか。
ブレンターノのように対象の内在性を以て精神作用の特徴となし、作用をその対象の性質によって区別する(例えば、見えるものに対して視覚作用、聞こえるものに対して聴覚作用など)という考えを取るならば、作用の性質を明らかにするということは自ら対象の性質を明らかにするということとなるだろう。対象と作用は一つの体験の両面として離すことのできない関係を有すると考えることができる。例えば数の要素「一」について(1=1というように)位置によってその性質を変じないと言えば、対象としてのその性質を言い表すこととなるが、肯定と否定を交換し得る総合作用と言えば、その作用の性質を言い表すこととなるだろう。この両方面は互いに離して理解することはできないのみならず、後者(作用)が数の成立のアプリオリとしてかえってその根本的本質を明らかにするものと考えることができるだろう。美の本質を明らかにするのも、このような意味において美の体験のアプリオリを明らかにすべきであると考えることもできる。シムメトリ(対称)が美であるというも、単に線の配合として美の性質を帯びるのではない。我々の主観との関係においてだ。しかしこの主観的作用というのは眼筋の運動という如きものではない。カントの※反省的判断作用(例えば、この色〈特殊〉は赤だ〈一般〉)というような、認識対象界(特殊)以外に領分(一般)を有する先験的作用でなければならない。己自身(特殊)に対象界(一般)を構成する内面的作用でなければならない。
※反省的判断作用とは
すべて精神現象は意味即実在であるように、線のシムメトリそのものが内面的に生きて働く所に美感が生じるだのだ。
私は美の対象を数に比べた。しかし美の対象と数はもとより同一の性質ではない。数は単なる判断の対象だが、美は価値判断の対象だ。対象そのものの中に作用を含むと言ってよい。すなわち人格的内容を含むのだ。この点において美の対象は道徳的対象とその性質を同じくするのだ。動機、性格、行為(という人格的内容)を離れて道徳的判断のないように、主観的状態や創造作用(という人格的内容)を離れて審美的判断はない。自然美の如きも主観をその中に射影することによって美の対象となるのだ。斯く対象が作用そのものであるということが、美の対象が主観的と考えられ、鑑賞や創作の心理的性質に美の本質を求めるべきであると考えられる所以だろう。しかし道徳的判断と道徳的行為との間には離すことのできない内面的関係がある。批判の我(道徳的判断、主観)と行為の我(道徳的行為、客観)は一つの自由我でなければならない。これをはなれて道徳的行為も良心もない。数の本質を理解するには肯定(定立)と否定(反定立)を交換する総合作用を明らかにせねばならないように、道徳の本質を明らかにするにはこの自由我を明らかにせねばならない。すべての道徳的現象はこの立場(自由我の立場)において成立するのだ。そして自由我の立場ということそれ自身が、時間空間を超越して因果的説明を許さない(自由我は思惟によって対象化することができない)ことを意味しているのだ。審美的価値判断についても同様のことが言い得るだろう。その対象となるものは(時間、空間、因果を超越した)自由我の世界でなければならない。数理において思惟が数の対象界を創造するように、自由意志が己自身の対象界(自由我の世界)を創造するのだ。
美の本質を明らかにするには美的対象界(自由我の対象界)のよって立つ所のアプリオリを明らかにせねばならない。このアプリオリを明らかにすることによって、審美的鑑賞や芸術的創造の本質が明らかになると共に、美的対象の客観的意義も明らかとなるのだ。これに反し、このアプリオリを離れて、鑑賞や創造の心理的説明(主観)に美の本質を求めようとすれば、美の外面的説明に陥らざるを得ない。感情移入説の如きも、この欠陥を免れない。またこのアプリオリを離れて美の客観的内容を求めようとすれば、生物的生命のようなもの(生理的因果によるもの)を考える外はないだろう。斯くして独立の美的対象界というものは失われ、美感は快楽の一種に過ぎないということになる。しかし快不快ということは感情を(思惟により)対象化してこれを分類した種族名に過ぎない。仮にもそれ自身に内面的必然を有し、一般妥当性を要求し得る対象界は、一つのアプリオリによって成立すると考えねばならない。アプリオリとは、自己が自己の反省によって自己自身の世界を創造して行く如く、自己自身の世界を創造する内面的力だ。この世界におけるすべての現象は、その客観的なるものも主観的なるものも、すべてこのアプリオリから理解せねばならない。一つのアプリオリによって立つ独立の世界は、相即的に対象(客観)の方面と作用(主観)の方面を持っている。アプリオリは対象と作用の合一点(主客の合一点)だ。ヴントが芸術を個人的心理学の立場から離し、民族心理学の現象として論じようとしたのは、具体的統一の見方ということはできるが、芸術は単に民族的意識の現象ではなく、先験的意識の現象だ。無論趣味に争いはないというように、芸術的鑑賞の如きも、すべて主観的、個人的であって、何らの一般的妥当性を有せないものと考えることもできるだろうが、かかる考えは総て感情を個人の刹那的状態と考えることから来る推論の結果に過ぎない。直接に物そのものについて見れば、感情そのものが志向的体験(志向性を伴う体験)として選択性を有するということ(例えばこの作品は美しい、など)自体が、既にそのものの中に一般妥当的要求を含むことを意味しているのではないだろうか。感情が意識であるということ自身が既に超個人的であり、超時空的であることを含んでいると思う(超個人=私個人を超越して、一般妥当性を有すること。超時空的=時空を超越して一般妥当性を有すること)。この物が赤く見えるということが事実の意識として客観的要求を含むように、斯く感じるということも客観的要求を含み得るのだ。感覚的錯覚を校正し得るものは感覚でなければならないように、感情を校正し得るものもまた感情でなければならない。感情という内面的意識の事実がないというならばともかく、かかる意識的事実があるとするならば、それは一般的妥当性を要求し得るものでなければならない。対象を内在的に含むと考えられる意識現象は、一般的妥当の要求(超個人的要求)を含むと考えられねばならない。時間空間を超越する一般妥当性の要求(=当為)ということは、意識成立の条件だ。そしてかかる要求の事実的存在ということは、超個人的意識の存立を予想しているのだ。
二
私は具体的真実在は自覚的体験の形において成り立つと信じるものだ。自覚においては、知るものと知られるものが一だ。知る働きそのものが我だ。知ることは働くことだ。自己を(作用ではなく)対象として見れば、(自己は)種々の作用を超越した不変なる同一者と考えられるだろう。またこれに反し内面的には、自己は瞬間から瞬間に移り行く無限なる作用の連続と考えられるだろう。しかし自己においてはこの作用と対象は一でなければならない。変じるもの(作用)と変じないもの(対象)が直ちに一でなければならない。抽象的には作用と対象を分離すると考えることもできるが、具体的経験においては、この両者は離すことのできない内面的関係を持たねばならない。そして斯く内面的に対象と作用を結合するということは、この体験自身の無限なる発展進行を意味するのだ。自己の中に自己を写す自己は、無限の進行を含まねばならない(自己が自己の反省によって自己自身の世界を創造して行くということ)。静止する自己(対象化された有限の自己)は考えられた自己であって、考える自己ではない。
我々が色を見るとか、音を聞くとかいう場合、我々は外界に色とか音とかいうものがあって、我々は視覚作用とかまたは聴覚作用とかによってこれを意識すると考える。しかし視覚、聴覚などの作用を離れて、外界の色とか、音とかいうものはどのようなものだろうか。物理学的には色や音の種々の説明ができるとしても、色や音の世界は己自身によって立つ独立の世界だ。物理的説明はこれに従わねばならない。いかなる物理的説明といえども、もしこの経験的事実を説明することができない時は、これ(説明)を変じる外はない。それでは色の経験は何によって立つか。いかにして独立の世界を維持するか。赤が青から区別されるのは何によるのか。赤が赤自身の中に無限の色合を認めるのは何によるのか。あるいはこれを我々の視覚作用によると言うでもあろう。しかし我は色の関係を動かす力を持たない。色は色自身を区別するのだ。いわゆる以物見物(物を以って物を見る?)のだ。赤が青から区別されるには、この両者(赤と青)の統一がなければならない。この統一者は赤となり、青となる(対象である)と共に、赤でもなく、青でもない(作用である)者でなければならない(対象であると共に作用であるものでなければならない)。この統一者こそ真の意味における視覚作用だ。白から黒を区別する心は白に非ず黒に非ず(作用)、しかも白となり黒となって(対象)、白から黒を区別するのだ。視覚作用とは、色が色自身を区別する内面的関係だ。色の体験のよって立つアプリオリだ(真の視覚作用=色体験のよって立つアプリオリは、作用と対象〈内容〉、つまり主と客が合一しているため自覚の体験が成り立ち、自己が自己の反省によって自己自身の世界を創造して行くように、色の世界を創造して行く=色が色自身を区別していくことができる)。総ての具体的経験は内容と作用の両方面を持ち、この両方面は不可分離的だ。ただ作用の作用(作用を統一する作用)、アプリオリのアプリオリである自由意志の立場から、このアプリオリ(この場合、視覚作用)を反省した時、これらの作用の結合が独立の対象界を作るのだ。いわゆる自我とは、かかる作用の結合点に過ぎない。我々が色を見るというのは色そのものが動くのだ。対象と作用を峻別せねばならないと考えるのは、(思惟により)我々の自我を反省し、これを対象化し、これ(対象化された自我)を中心として種々の作用がこれに属すると考えるが故だ。斯く考えれば(自我を対象化して考えれば)、限定された自我の作用に対して、対象は完全に超越的と考えられるだろう(例えば、思惟により限定された視覚作用に対して「赤いもの」は、限定された視覚作用を完全に超越した外物であると考えられるだろう)。しかし対象化された自我の作用というのは、先験的作用(真の視覚作用)の(思惟による)限定に過ぎない。精神現象は意味即実在によって成立するのだ。(色が色自身を区別するような)対象そのものの内面的関係が精神現象の根底を成すのだ。
私が色の経験について言ったことは、音の経験についても言い得るだろう。その他の経験についても同様に言い得るだろう。我々の経験界とはこのような経験内容(例えば、赤いもの、低い音など)の無限なる結合であり、我々の自我とはこのような作用(例えば、視覚作用、聴覚作用など)の無限なる統一だ。すなわち自我(作用の作用)とは作用を内容とする作用だ。色が色自身を区別し音が音自身を区別する内面的統一の統一は、作用の作用として自己自身によって自己を実現する自由なる創造作用(絶対自由の意志、自由我)でなければならない。すなわち自由我でなければならない。限定されたある一つの作用は、その内容に対しては無限なる内容の統一となるが、未だ作用そのものが直ちに創造的とは言われない。真に主客合一にして、知ること(内容)が働くこと(作用)であり、自己自身によって無限に創造的である作用は、作用の作用である自由我でなければならない。これに対して限定された有限な作用の内容は、単なる可能的関係の世界(考えることが可能な単なる意味の世界?)と考えられるのだ。我々の理智によって尽くすことのできない、しかも動かすことのできない事実の世界は、ただ無限なる作用の内面的統一である自由我の統一(意志の統一)によって成立するのだ。
これにおいて我々は自由意志の立場から、種々なる対象界を持つと考えることができる。作用が純なれば純なるほど、その(作用の)対象界はいわゆる心理的作用を超越して、それ自身に内面的必然性を有する純なる客観界となる。視覚作用に対して、色の表象自体(価値、意味)という如きものがこのような対象界と考えることができる。作用の有限な結合(例えば視覚作用と聴覚作用の結合など)の上に立つ世界といえども、単なる認識対象の世界たるを免れない。未だ作用の自覚というものはない。ただ無限なる作用の積極的結合である自由意志の立場に立つ時、我々は無限なる作用の内容の結合から成る単なる客観界を有すると共に、作用の結合自身を対象とする主観界を有することができる。知即行にして行即知(知ることが働くこと、働くことが知ること)である自由の自己(自由我)は、己自身を対象とすることができるのだ。前者(客観界)はいわゆる自然現象の世界であり、後者(主観界)はいわゆる意識現象の世界となる。無限なる作用の結合の上(自由意志の立場)に立つ自然界は、同じく認識対象の世界ではあるが純なる作用の上に立つ対象界(例えば視覚作用に対する色の表象自体の世界など)が必然的意味の世界と考えられるのに反して、偶然的事実の世界と考えられる。なぜなら、我々の意志の奥底は達することのできない無限の深みだ。無限なる作用の系列の極限点だ。真の意志は我々はこれを反省し限定することはできない。限定され得るものは既に意志ではないのだ。事実に対する我々の確信(この体験は事実であるという確信)は、実にこのような絶対意志の限定の上に立つのだ。単なる思惟(単なる作用の立場)においては、この花は紅ではなくて青であり得る(科学的に必然的にあり得る)とも考えられるだろう。しかしこの花が紅であることは現前の事実だ。この事実を定めるものは(作用の無限の結合の立場である)絶対意志だ。フィヒテの言うように理論我の根底には実践我がある。感官の証明なるものは、絶対意志の統一によって成立するのだ。意志の体験なき人には実在というものはない。斯く絶対意志は対象として一方に客観的事実の世界を対象とすると共に、意志は意志自身を写すこと(作用を認識すること)によって、主観的意識の世界を持つ。我々の自我とは絶対意志の模写だ。無限なる作用の結合だ。作用の作用(作用を統一する作用)だ。この点において我々の意識界は(作用の内容の結合から成る)自然界と根本的にその次位を異にしている(自然界は作用の内容の結合の世界だが、意識界は作用を統一する作用である意志の立場から作用そのものを結合した世界であるため、より高次的である)。我々の自我は自己自身を反省し得ると共に、自己自身の対象界を持つ。我々は神の肖像であり小宇宙だ。しかし我々の自我は、絶対意志が己自身を限定したものに過ぎない。我々の自由は絶対的自由ではない。我々の視覚作用は色が色自身を区別する先験的作用の一部ではあるが、その全体ではない。我々は色の全体を知ることはできない。先験的視覚作用の内容である色全体の体系は、(我々は色の一部しか知り得ないため)我々の自我に対しては客観的対象界(自然科学的世界)たるを免れない。主客の対立、精神物体の対立はこれ(先験的作用の内容が自我に対し客観的対象界であること)によって生じて来るのだ。我々の有限なる自我の作用から見れば、先験的自我の内容は、何時でも超越的対象界(超越的対象=価値、意味。意味の世界=客観的対象界)と見なされるのだ。
絶対意志は右の如く主観と客観の相対立する両面の対象界(自然界、意識界)を有するのみならず、また己自身(主)の対象界(客)を持つ。すなわち主客合一の世界を持つ。これが我々の文化現象の世界だ。文化現象の世界は価値実現の世界だ。我々の個人的意識について見ると、刻々に生滅して繰り返すことのできないと考えられる個々の作用が主観的と考えられ、これに対して幾度も繰り返すことのできる個々の作用に共通な作用の内容が客観的と考えられるのだが、知ること(内容)が働くこと(作用)であり、知るもの(作用)と知られるもの(内容)と一である自己の立場から見れば、客観的と考えられたものも自己同一を離れて存するのではない。それ自身において動的な(創造的な)自我は、主観客観の合一だ。有限なる我々の意識作用から見れば、先験的自我(純粋統覚)の内容の統一によって成る自然界は、不変なる客観界とも考えられるだろう。しかし絶対自由の自我の立場から見れば、単なる一内容に過ぎない。我々の自我が先験的自我の立場に近づけば近づくほど、いわゆる客観的世界は自我の統一の下に属する(主客が合一する)ようになる。ここに文化現象の世界が生じるのだ。文化とは自然を自己の手段とすることではない。自然を自己の中に見ることだ。否自然の奥底に自己を見出すのだ。哲学、芸術、道徳、宗教の現象はこの対象(文化現象の世界の対象)に属するのだ。一つの作用あるいは作用の有限なる結合の上に立つ対象界は、作用そのものが創造的でないから、単に客観界として単なる判断の対象であるが、無限なる作用の結合である意志そのものの対象は、価値判断の対象界だ。この世界においては価値即実在だ。批判の自我(主観)は行動の自我(客観)でなければならない。
真の具体的実在界とはこのように、絶対意志が己自身を発展し行く無限の過程に過ぎない。我々が自己の中に内証し得る自覚的意識は、かかる絶対意志の形式に過ぎない。我々の理性というのは、かかる絶対意志の否定的(限定的)方面だ。理性は視覚や聴覚などと同列的作用ではない。作用の作用(作用を統一する作用)だ。理性は人格の中心を成すのだ。かかる作用の対象界として論理、数理の世界が成立するのだが、絶対意志が自己自身を肯定して全作用の立場から見る時、先に言ったように一方にその対象界として自然現象の世界(自然界)が成立し、一方に作用そのものを反省して意識現象の世界が成立すると共に、意志自身の対象界として主客合一の文化現象の世界が成立するのだ。それでは、かかる立場から我々の種々なる精神作用はいかに考えるべきだろうか。感覚、表象、記憶、想像、思惟等の作用は、かかる立場から見ていかなる意味を有し、いかなる関係において立つだろうか。私は前に感覚的内容がよって立つ所のアプリオリ、例えば色が色自身を区別する内面的関係が我々の感覚作用であると言ったが、我々の表象作用というのはこのような感覚作用の結合作用と考えるべきだろう。表象というのは感覚の単なる結合ではなく、それ自身のアプリオリの上に立ち、独自の内容を有する作用だ。空間、時間というのが、この作用(表象作用)のアプリオリと考えることができる。このアプリオリが外に出て知覚的対象界を構成すると共に、内において知覚作用となるのだ。主観的な空間、時間の表象と客観的な空間、時間は異なるものと考えられるが、後者は前者(主観的な空間、時間の表象)の対象であり、前者は後者(客観的な空間、時間)の限定されたものだ。思惟作用はまた表象を材料として、更にそれ自身のアプリオリの上に立ち、それ自身の内容を有すると考えることができるだろう。そして単に感覚のアプリオリの上に立つ感覚内容の世界においては、我々が思惟の世界において考える如き客観界と主観界との対立及び関係というものはない。感覚的世界の中心としてこの世界を維持するものは、恐らく生理学者のいわゆる反射作用というようなものだろう。しかしこのような考えは思惟の世界から見ての説明に過ぎない。感覚の世界は感覚の世界の魂を持つ。これを中心として感覚から直ちに感覚に転じ行く(感覚作用から感覚作用に直ちに転じ行く)のだ。種々なる感覚の性質は斯くして内面的に発展し来ったのだろう。表象のアプリオリの上に立つ表象的内容の世界についても、同様のこと(表象作用から表象作用に直ちに転じ行く)が言い得るだろう。そしてこの世界(表象の世界)の中心としてこれを動かすものは、本能に基づく自動運動とかいうようなものだろう。我々の知覚は総て衝動的だ。純粋知覚の世界については、我々は衝動的に知覚から知覚に移り行くのだ。芸術家の空間というようなものは、このように世界を構成する本能的総合の範疇と考えることもできるだろう。我々が今日実在界と称するものは、言うまでもなく思惟の内容の世界であって、この世界の中心としてこれを維持するものは、我々の意志だ。斯くそれぞれの表象は、世界を構成する作用の作用である絶対意志の立場において(思惟の中に)結合され、感覚は表象の中に包容されて、これらの世界を貫通する人格的発展の世界を生じ来るのだ。この世界において我々の生命というものが考えられ、歴史というものが考えられるのだ。生物的現象はこの上(人格的発展の世界の上)に現れ来るのだ。
私は以上述べた如き絶対意志の立場において、作用と作用との直接の結合が、我々の感情の意識であって、この立場(絶対意志の立場)の上に立つ対象界が芸術の対象界となると思う。ここに客観的存在界を超越し、それ自身において創造的なる美の世界がある。なぜなら客観的存在界はかえって(意志による)作用の結合に依存するからだ(それ故に客観的存在界は意志のようにそれ自身に創造的ではない)。作用と作用との直接の結合、意味即実在が意識の根本義であって、ここに純なる人間性があるのだ。このような意識成立の根本作用が芸術的意識作用であって、すべて純なる人間性が芸術意識の内容となる。「純粋に人間的」というものを離れて、芸術的というものがあるのではない。芸術のアプリオリは純粋意識(作用と作用の直接の結合の意識)のアプリオリだ。芸術の本質の理解はここに求められなければならない。
三
心理学者は感情を大まかに知識と同列的である精神要素となし、感情の本質は快と不快との両方向のみであって、種々なる感情の性質的区別はこれ(快不快)に伴う知的要素の性質に基づくものと考えている。しかし私は感情というのは精神現象の物体現象と異なる所以は意味(内容)即実在(作用)にして、作用と作用との内面的結合にあるとすれば、かかる結合の状態が具体的感情であって、かかる結合の内容が感情の真の内容ではないかと思う。青から赤を区別するものは、青でもなければ赤でもない。しかも青となり赤となって、この両者の関係を成立させる者でなければならない。青と赤(意味)がかかる内面的関係(作用)に入り込むのが我々の意識作用だ。色が色自身を区別するのが我々の視覚作用であり、音が音自身を区別するのが我々の聴覚作用だ。我々はこの作用を知識と同意義において対象化することはできない。我々は視ること(視覚作用)を視ることはできない。聴くこと(聴覚作用)を聴くことはできない。しかしこのような内面的統一(内面的統一作用)がなければ、青から赤を区別することはできない。そして意識においては統一そのもの(統一作用そのもの)が実在でなければならない。我々がこれ(作用)を反省して見た時、その内容はすべて認識対象界に入り、作用の内容としては何物も残らない。ただ作用と作用の結合の形式的性質として、快と不快との相反する両方面が考えられるのみだろう。心理学においては作用という語すら無用と考えることもできる。しかしそれ自身において何らの内容なき者は他に結合することはできない。かつ意識現象においては、総合的全体が実在性を有し、要素はかえって抽象的と考えられねばならないのだ。知識の内容が感情の性質を定めるのではなく、知識は感情の中にあるのだ(感情は知識を包み込む総合的立場だ。意識の問題における「感情」を参照)。知識内容の新たなる結合は、その根底において新たなる感情の内容の発生を意味しているのだ。なぜなら作用と作用との結合の上に、認識対象界における知識内容の結合が可能となるからだ。新たな知識の内容を創造するものは知識ではなく感情(作用と作用の結合の内容)だ。すなわち意識の動的内容だ。ベルグソンの言うように、我々の知識は雲霧の中に輝く核だ。全体の性質(意識の性質)はこれを構成する要素の性質(例えば知識内容の性質)の結合から成るのではなく、要素に対して不尽根的だ。
私は感情を右のように考えるから、純なる感情はすなわち純なる意識であって、感情の中に特殊な芸術的意識とか感情とかいうものがあるのではない。色が色自身を区別する純なる作用として、絶対意志の立場、人格的立場において、直接に相結合する時、すなわち我々が純粋視覚の立場に立つ時、色は忽ち生命を得、それ自身において生きた色となる。すなわち芸術的対象となるのだ。我々が全身眼となり、耳となる時、感情が物に移入され、その表出運動として自ら芸術的動作を伴い来るのだ。心理学者が感覚の強度と称するものが、既に作用の直接結合における関係を示すものだ。感覚は内面的統一において一つの力となるのだ。線の配合美などいうことも、線が一々生きた作用として立ち、直接に相結合することによって美感を生じるのだ。この立場(絶対意志の立場、人格的立場)においてはいかなるものも美ならざるものはない。肉欲罪悪もこれを美化することができる。Arthur Symonsの言うように、人体において誰も胸の美を見るが、肩甲骨の美を見るものはない。自然において誰も曙のアルプスの美を見るが、腐水の沼の美を見る人は少ない。しかしこれらはすべて同一である本質的美の異なる形に過ぎない。(arthur Symons, Studies in Seven Arts, p.29)
右に言ったように、感情はその純なる状態においては、すべて美だ。喜も悲もそれぞれの美を具えている。あたかも我々の空間的表象が空間のアプリオリによって成立するように、作用と作用の結合である芸術的意識のアプリオリによって、我々の感情が成立するのであると言ってよい。快不快とは前にも言ったように感情を反省して、相反する二種の性質に分類するに過ぎない。そかしそれでは非芸術的な感情というものはないか、不純な感情とはいかなるものであるか、快不快というのは単なる名目ではなく、かかる感情のあることを否定することはできないと言い得るでもあろう。しかし私は自己の利害を中心とする快不快の感情という如きものは、純なる感情の立場の中に他の立場を混入することによって生じる混合物であると思う。純粋思惟の立場に対して他の立場が混入し来る時、我々の思惟は誤謬に陥るように、我々の純なる感情が意志の立場から混乱された時、感情はそれ自身の純なる内容を失って無内容である快不快の感情となる。すなわち感情が他律的となるのだ。すべて意識作用の他律性とは、意識作用がその固有の内容を失うことだ。対象と作用との乖離だ。心理学者が意識内容を総て知識に移すのと、感情を単に快不快となすのは一の考え(同一)だ。例えば貪欲ということは非芸術的な感情だ。しかし守銭奴は芸術の対象となることができる。この場合においては、貪欲というものが純なる作用として見られるのだ。純なる一つの人間性として見られるのだ。その知的内容が一々作用として直ちに結合しているのだ。これを構成する知的内容が作用の中に含まれているのだ。これに反し個の情緒が非芸術的である欲望となる時、この感情はもはや純なる作用として見られるのではなく、知識の対象界に移されて他の立場から見られるのだ。すなわち意志の内容となるのだ。絶対意志の対象界である実在界から見られるのだ。作用を認識対象界に移して見るというには二義あるだろう。一つは我々を完全に対象化して見ることだ。斯くすれば作用の意義は完全に失われるのだ。一つは主観と客観の対立を存しながら、客観界を作用実現の場所と見るのだ。我々の自我の内容すなわち純粋感情の内容が、絶対意志の要求から、自己を絶対意志の対象界に移した時、すなわち歴史化しようとする時、自我の内容すなわち感情の内容は転じて欲求の内容となるのだ。斯く感情の動的内容が欲求に移された時、感情は無内容である快不快と考えられるのだ。不純なる非芸術的感情と考えられるものは、尽く真の感情の形が歪められて欲求の形を成すものだ。肉欲的感情が非芸術的と考えられるのは、それが最も欲求の形に転じ易きが故だ。
感情の内容を反省してこれを認識対象界に写して見る時、その構成的要素は尽く知的内容に還元され、その総合的統一は欲求の内容に移されて、感情そのものの内容は失われてしまう。斯くして感情の性質は単に快と不快に分かたれる。しかし感情は分析することのできない己自身の深い内容を持つ。ベルグソンの言うように我々が甲点から乙点に手を動かす時、これを内から見れば分かつことのできない単なる一つの作用だ。しかしこれを外から見れば(認識対象界に写して見れば)、甲から乙に至る曲線だ。我々はこれを無限の位置に分かち、線をこれらの位置の相互の整列として定義することはできるだろう。しかし手の運動そのものは単に位置や順序ではない。それ以上の或物を持つ。すなわち「動き」kamobiliteである。この「動き」は機械論的に無数の点と点との結合の必然的結果として生じるのでもなく、また目的論的に初めに一つの目的を定め、これによって無数の点と点を結合したものでもない。単に無限なる作用と作用との内面的結合だ。否全体が不可分離的である一つの作用だ。位置も、これらを結合する順序も、この一作用を基として考え得るのだ。芸術の対象となるものは、生命の流れともいうべきこのような創造作用の内容でなければならない。すなわち「時」の内容でなければならない。ロダンが喧しき白鳥の無智を罵る者に対して、彼らは線の知を持つ、それで沢山だIls ont celle (intelligence) des lignes et cela suffit!と言ったというが、線の知識とはこのような内容(創造作用の内容)の知識でなければならない。フェヒネルは連想によって美感を説明するも、欲求の立場における快感がいかに積み重ねられても美感となることはできない。あたかも有理数から無理数ができないのと同様だ。静物画におけるオレンジの美は、イタリアの天が連想されるによるのではなく、ベルグソンが薔薇の花の中に過去の記憶をかぐと言うように、黄金色のオレンジの中にイタリアの天が見られなければならない。フェヒネルは物の合目的性が物の美を助けるというも、未開人が器具を自己の身体の一部と考えると言われるように、物の中には我々の生命の血が通うものとして、器具の目的そのものが芸術的美の一部を成すのだ。我々の情緒は複合物のように考えられるが、喜も唯一である自我の現在の喜であり、悲も唯一である自我の現在の悲だ。情緒においては、過去の記憶も、現在の感動も、表出運動も直ちに一でなければならない。過去の連想が美の重要である要素と考えられるのは、我々がこれによって現在の意識の奥底に、現在を超越した深き意識の流れに接するが故だ。この意識の流れにおいては、過去は純なる作用として今もなお生きているのだ。この流れに入ることは、我々において深き純なる意識の発生であり、大なる生命の創造だ。嬉しかりしことも、悲しかりしことも、懐かしい思い出となりては、総てが美化されるのもこれ故だ。過去の喜の単なる思い出は誇りにすぎない。過去の悲の単なる思い出は怨恨でなければ、今の幸を思う喜に過ぎない。単なる思い出は何らの芸術的意義を有せないのだ。オレンジの色香を通してイタリアの天を見、薔薇の中に過去の記憶を嗅ぐのは、ただ我々が現在意識の底に入って、純なる作用の深き流れに結合することによって可能となるのだ。物体現象においては「時」は独立変数であり、我々の精神現象も心理学的に考えれば、「時」は独立変数に過ぎないが、真に直接である具体的精神現象においては、「時」は内容を持ち、「時」は内容によって変じるのだ。審美的鑑賞は単なる記憶我ではない。ハルトマンの言うように美の実感は単なる実感ではないのだ。現今多くの美学者は感情移入によって美的対象の成立を説くが、感情移入というのは、単に内面的模倣によって我々の感情が認識対象界に結合するという意味ならば、連想の場合と択ぶ所がなく、なぜ認識対象界がその性質を変じて芸術的対象界となるかを理解することはできない。私が他の表出運動に同感するのは、我と彼が純粋意識の立場において結合するのだ。我の作用と彼の作用が直ちに結合するのだ。否我と彼と未分以前の自我を見るのだ。自然的因果律の支配を脱して、精神的因果律による自他合一の意識が、内面的に発生するのだ。斯くして感情移入(作用と作用の結合)によって、単なる(他の)表出運動が(普通の)認識対象と異なった意味(自他合一の意識)を持って来ることが分かる。単に自己の価値感情を客観化するとか、射影するとか言うのみでは、感情がその所有者を換えたというに過ぎない。
四
多くの美学者は心理学者の顰に倣って、感情を単に無内容である快不快と考えるから、自ら美の内容を他の知覚作用に求めねばならない。これにおいて知覚とか表象とか想像とかの内容が、直ちに美的内容として考えられねばならないようになる。あるいは感官的知覚が美的感情の基礎と考えられ、あるいは美の感情は表象感情であるとかまたは創造感情であるとか考えられるのだ。しかし真に美的内容を含むと考えられる直観は、作用と作用との直接の内面的結合でなければならない。色とか音とかいうものが、考えられた色や音ではなく、その一々が生きた働き(生きた作用)として、一つの作用から直ちに他の作用に移り行くのが直観だ。これ故に(一つの作用から他の作用への直接の推移は意識の根本的形式であるため)直観は意識成立の根源と考えられ、その内容は我々に対して与えられたものと考えられるのだ。知覚や表象が美的感情の基礎として考えられるのは、このような直観の意義においてでなければならない。知覚や表象の中に含まれている知的内容が美の対象となるのではない。作用と作用の結合の内容が美の内容(感情)となるのだ。空間的知覚について見ても、芸術美の内容となるものは、その知的対象である客観的空間ではなく、知覚そのものの統一力として内に働きつつある主観的空間だ。ヒルデブラントの一つの因子がすべての他の因子との関係において意味を持つという現在形Wirkungsfromとは、このようなものでなければならない。ヴィタセクWitasekは美的感情は表象の内容の感情であって作用の感情ではないと言っているが、氏の作用というのは心理的に考えられた作用を意味しているので、氏も美的性質の非対象性Aussergegenstandlichkeitを説き、美とシムメトリやメロディは同一でない(知的内容の中に美はない)と言っている。
想像Phantasieが直観的として詩的内容の所在と考えられるのも、同様の理由によると考えられねばならない。知覚においては、感覚の内容の一々が作用として内面的に結合するのだが、想像においては表象内容または概念内容ともいうべきものが一々作用として直ちに結合するのだ。想像が普通に直覚的表象das anschauliche Vorstellenと考えられるのはこれによるのだ。思惟と想像との区別はここ(作用が直ちに結合するかしないか)にあるのだ。この両者(思惟と想像)を統覚的結合と考えるが、その結合の直接である所に、想像の直観性があるのだ。これ故にその内容はいかに抽象的であっても、作用としてその結合が内面的にして直接である時、(作用の結合の内容として)一種の美感を持つこともできる。ディリシュエが音楽を聞いた機会に数理を解し得たというように、数理のようなものにも音楽美に似通うものを見ることができるだろう。想像の直観性をその内容の感覚性に求めるのは、皮相の見(表象しか見ていないこと)たるを免れない。想像の直観性はフィヒテ、シェルリングなどの考えたように、その内面的創造性(作用の直接の結合)にあるのだ。フォルケルトは普通の実在性から離れることein Sichloslosen von den Boden der gewohnlichen Wirklichkeitを以て狭義の想像の特徴としているが、想像の直観性が元来これ(内面的創造性)にあるのみならず、知覚の直観性や生気もこれ(内面的創造性=作用の直接の結合)に基づくと考えねばならない。
右に述べたような美的内容の直観は、受動的ではなく能動的だ。すなわち単に(判断の対象となるだけの受動的な)知的作用ではなく、自ら意志の作用(作用を結合する作用)を含んでいなければならない。作用と作用を内面的に結合するものは、意志の立場でなければならない。芸術的直観の内容は、作用そのものが直ちに内容となるのだ。ヴィタセクなどが美的性質の理想性、非対象性を説き、シムメトリやメロディは直ちに美と同一ではないと考えるのも、これ(作用そのものが直ちに内容となること)によるのだ。芸術的直観の対象である理想は、直観がこれ(理想)を写すのではなく、直観がこれ(理想)を創造するのだ。作用そのものが客観的(内容)となるのだ。今日多くの美学者が美的鑑賞の必要条件となす感情移入ということも、このような考えから理解せねばならないと思う。感情移入といえば、物と我と相対立し、自己の感情を物に移入して見るというように考えられるのだが、私は、(感情移入は)他我(物)の作用と自我の作用の直接の内面的結合であると思う。我々が生まれ出づることによって見出すような、大なる自我の発生であると思う。Karl Groosなどは内面的模倣によって物が擬人化され、感情が物に移入されると言うが、私は内面的模倣というようなことは、かえって作用と作用との直接の結合の結果、新たなる生命が発生する結果であって、その原因ではないと思う。今日の自己が昨日の自己を省みて自己同一を意識する時、我々の心は心と直ちに結合するのだ(昨日の心を模倣するのではなく、昨日の心と今日の心が直ちに結合するのだ)。記憶は記憶自身を維持して我々の後に迫りつつあるのだ(故に直ちに結合できる)。生理学的には記憶を維持するものは、脳皮質の細胞に過ぎないと考えられるだろう。しかしこの如きは、説明のために設けられた仮説に過ぎない。アミエルの言うように我々は絶えず思惟の密陣les phalanges des idees invisiblesによって囲まれているのだ。いわゆる感情移入によって自他の精神が直ちに結合される場合においても同様だ。ただ、(昨日と今日という)時間的形式が(私とあなたという)空間的形式に変わったに過ぎない。心理学者はこのような精神作用(感情移入)の根本として本能というようなものを考える。しかし本能というのは、意志を自然界の背後に射影したもの(対象化したもの)に過ぎない。我々の精神的内容を創造し行くものは精神的内容だ。模倣の内面的感覚というようなものは、自他合一の意識内容の象徴に過ぎない。模倣の感覚が単に感覚としてではなく、客観的意識内容(他の意識内容)を寓するものとして、初めてかかる働き(自他合一の働き)を成すのだ。ヒルンHirnが子供の時、我々が理解する前に模倣し、模倣することによって理解すると言うが、我々の意識の奥底には初めから合同的意識(我と他の合同意識)が潜在しているのだ。感覚的内容が作用として直ちに結合するのが純粋知覚であり、表象的内容が作用として直ちに結合するのが想像であるとすれば、感情移入は意志と意志との直接の結合と考えることもできるだろう。しかしこれらの作用(知覚、想像、感情移入)は元来異なるものではなく、同一作用の異なる方面に着目されたものと言ってよい。超認識的立場において作用と作用の直接の結合ということが、これらの作用の本質であって、これに(作用と作用の直接の結合)よっていずれ(知覚、想像、感情移入)も美的内容の所在と考えられるのだ。感覚的内容が一々作用として直ちに相結合するということは、他面から見れば感情移入ということでなければならない。我々が物の形を知覚するにも感情移入によらねばならない。エル・フィスシャーR. Vischerの説のように、この際、撫でるEntlanggleitenというような筋覚が働かねばならない。心理学者は触覚の※局所徴験Lokalzeichenの系列が運動の感覚によって結合されて、空間知覚が成立すると考えるのだが、具体的知覚としてはただベルグソンの言うように「動き」la mobiliteというようなものがあるのみだ。そこには運動感覚によって結合されたローカル・サイン(局所徴験)以上の或物がある。全体が一つの連続である。
※ 局所徴験とは
創造的空間すなわち空間のアプリオリというものが、一方において触覚の性質的変化をローカル・サイン(局所徴験)たらしめ、一方において筋覚、関節覚等の性質を方向、延長などと解釈せしめるのだ。カントが直覚のアプリオリと考えた空間は、感覚内容を一々作用として結合する内面的創造力だ。我々の具体的知覚はこれによって創造されるのだ。内面的模倣によって空間知覚が構成されるのではなく、我が斯く感じる時、(感覚内容が一々作用として結合され)空間的知覚が自己自身を完成するのだ。単なる認識対象の世界から意志対象に移り来るのだ。受動的状態、抽象的状態(という認識対象の世界)から能動的状態、具体的状態(という意志対象の世界)に移り来るのだ。かかる場合における感情移入は、空間的知覚の自覚に過ぎない。自覚において知るものと知られるものと一であるように、具体的知覚において内容は直ちに作用となる。この全体はただ、形の感情Formgefuhlの内容として芸術的に表現し得る外はないのだ。内面的模倣によって他人の表出運動に感情を移入するというのは、我々の心底において合同的精神の覚醒を意味するように、空間的知覚が自覚し来るのだ。感情移入というも元来感情を物に移入するのではない。すべてが作用として相結合する時、そこに新たなる意識内容を生じ来るのだ。感情という新たなる内容の意識が顕現し来るのだ。そして作用の作用の立場、すなわち人格的立場の上の内容として、(感情は)自ら人格的色合を帯び来るのだ。
美的感情の基である直観は、その知覚であると想像であるとを論ぜず、単なる知的作用ではなく、作用と作用との直接の結合である純粋感情、純粋意識でなければならない。知的作用としての知覚または創造は感情の一面に過ぎない。客観的内容に主観的感情が移入されるものではない。作用の作用の立場(作用の結合の立場)において新たなる対象界を生じるのだ。このような芸術的直観は、自ら芸術的創造作用を伴って来なければならない。否、芸術的創造作用というのは、かかる作用の完成の状態だ。ディルタイは“Die Einbildungskraft des Dichters(詩人の想像力?)”において、詩人の創造作用を我々の精神生活の本質に求めている。氏に従えば、我々の実際の精神生活においては、感覚も表象もすべて感情に充ちた活動だ。知覚も心像も皆生きて変じ行く出来事だ。すべてが一つの構成作用Bildungsprocessだ。このような精神生活の構成作用は、一方には外的意志(表出運動、本能的、創造的行為?)の形を取り、一方には内的意志(願望、目的の意識?)の形を取るのだが、その間に感情の構成作用の広い領域がある。このような構成作用の中において、感情が実在を含むと考えられるような平衡の場合もあるが(?)、感情そのものの中に緊張を含み、しかもこの緊張は内外の意志によって止めることのできない場合がある。この場合において氏は抑えがたき事実がすべての物に陰影を与え、これに従って種々の影像が生じるerschutternde unaufhebbare Tatsache teilen ihre dunkle Farbe allen Dingen mit und in schwermutigen Grubeln entstehen Bilder, die ihnen gemass sind(衝撃的で取り返しのつかない事実は、その暗い色を万物に伝え、憂鬱な思索の中でそれらに合わせたイメージが生まれる?)と言っている。狂人や酔漢の幻影や錯覚からミローのヴェーナスやラファエルのマドンナに至るまで、皆この作用(構成作用)の結果として現れ来ったのだ。詩人の創造作用は夢や狂の意識とその性質を同じくしている。ゲーテは眼を閉じて花を想起した時、その花は忽ち分解して花の中に花を生じ、薔薇形の如きものとなると言っている。私はディルタイのこのような考えに深い興味を見出さざるを得ない。私が我々の意識はその具体的状態において、すなわち絶対意志の立場において、作用と作用の内面的結合であると言うのは、ディルタイの実際の精神生活においては、すべて感情に充ちた活動であると言う意義に外ならない。かかる事行Tathandlungの受動的方面が直覚と考えられ、その能動的方面が感情移入と考えられるのだ。しかしディルタイの言うように、この作用(構成作用)は意志によって止めることのできない表現を求める。これがすなわち芸術的創造作用の本質だ。これにはベルグソンのいわゆる「動き」の如き知覚や、意志の形において表すことのできない内容が、その表現を求めるのだ。しかし私はこのような考えがなお一層明らかに言い表されたものとして、フィードレルの“Uber den Ursprung der kunstlerischen Tatigkeit(芸術活動の起源について?)”を取りたい。氏に従えば、物はその単なる存在によって我々の知識の対象となるのではなく、我々は我が物に構成することのできる結果のみを受け得ると言うのであるから、この考えを徹底的にすれば、実在は我々が構成した結果の表現である形像から成ると言う外はない。我々の精神作用はいずれも心内の事件として已むものではなく、必ず肉体において表出を求める。表出運動は精神現象の外面的符牒ではなく、その発展完成の状態だ。精神作用と表出運動は内面的に一つの作用だ。斯くして我々の言語というのは、思想の符牒ではなく思想の表出運動だ。言語によって思想は己自身を完成するのだ。我々のいわゆる実在界とは、言語によって表現された世界に過ぎない。しかし、我々の世界は単に思想や言語によって表現される世界のみではない。我々の精神作用はいずれも無限なる活動であって、各自表現の世界を持っている。純なる視覚作用は、思惟が言語に発展するように、自ら我々の身体を動かして一種の表出運動に発展する。これが芸術家の創造作用kunstlerische Tatigkeitだ。我々がこの立場に立つ時、忽ち概念の世界は失われて、そこに無限なる視覚の世界の展望が開かれるのだ。私はこれによって、ディルタイの言う内外の意志によって止めることのできない芸術的表現の最も深い意味が明らかにされると思う。ディルタイの説明は芸術的創造作用の主観的意義に止まるが、フィードレルにおいてその客観的意義が明らかにされ得るのだ。
しかし私は右の如き意味において芸術的創作の真相を明らかにするには、深く精神と身体との関係から出立してみなければならないと思う。我々が絶対意志の立場に立つ時、心の内というものもなければ、外というものもない。心身一如の活動あるのみだ。この立場において現れ来る作用と作用の内面的統一の内容、すなわち純粋意識の内容は、思惟の範疇を超越したもので、これを認識対象界に持ち来たすことはできない。ただ我々はこれと共に動くことによってのみ理解し得るのだ。自覚においてのように、働くこと(作用)とは知ること(内容)だ。ベルグソンは「創造的進化」において眼の生成について次のような面白い解釈を試みている。眼について驚くべきことは、構造の複雑と作用の簡単との対照だ。眼の構造の驚くべき複雑なるに関わらず、視覚作用は単なる一つの事実だ。いかにして、視覚作用が眼を構成し来ったか。手の運動には無数である位置とその順序との以上に或物があるように、視覚には眼を構成する細胞とその相互関係以上の或物がある。自然が眼を構成するのは、我々が手を挙げるような、単なる一つの働きだ。我々が機械を作るのは、個々の物欠を集めてこれを一つの目的に従って組み立てるのだ。言わば周囲から中心に行き、多から一に行くのだが、有機的構成作用はこれに反し物質の一点から始まって、己自身を拡大し行くのだ。しかも両者の区別は単にかかる外面的差異のみではない。製造物は製造の途筋の一々を現している。ある一つの機械を作る場合に、製作者はまず各部分を作り、これを集めて全体を作る。全体は仕事の全体に当たり、部分は仕事の部分に当たる。科学者は我々の眼もこのようにして生成されるものと考える。しかし有機的機関の全体は、仮に有機的仕事の全体に当たるとするも、その各部分は仕事の途筋を示すものではない。なぜなら、この機関の部分は用いられた手段を示すものではなく、取り除けられた障礙(障害)を示すものだ。凸型ではなく凹型だ。純なる視覚は物によって限定されている。すなわち掘割の(如き)視覚une vision canaliseeだ。そして我々の感官である眼とは単にこの掘割を示すに過ぎない。前に言った手を動かす例において、手を鉄粉の中に差し入れたとすれば、我々の眼とはその跡形のようなものだ。私はベルグソンの視覚作用の創造というようなものが芸術的創造作用の本質であると思う。芸術的創造の本源はエラン・ヴィタール(生命の飛躍)にあるのだ。フィディヤスの鑿の尖から、ダ・ヴィンチの筆の端から流れ出づるものは、過去の過去から彼の肉体の中に流れ来った生命の流れだ。彼らの中に溢れる生命の流れは、もはや彼らの身体を中心とする環境の中に止まることができないで、新たな世界を創造するのだ。ベルグソンは我々の幼児の人格は極めて豊富であるも、成長するにしたがってこれを捨てて行かねばならないと言うが、現実に触れて捨て去らねばならない天才の豊富なる生命が、芸術的創作においてその出路を見出すのだ。それは幻影かもしれない。しかしそこには生命の大なる気息le grand souffle de la vieがある。このような場合において作品と芸術家を結合するものは、内面的筋覚だ。これ(内面的筋覚)を通じて一つの生命が流れているのだ。これ故に芸術的作品は筋覚の発展と見ることができる。すなわちフィードレルの言うように芸術的創作は表出運動であるということができるのだ。フィードレルは我々の眼は感覚や知覚を与えるのみならず、身体の外部機関を動かして、単に内面的であったものを外面的表出運動に発展させると言っているが、この点において芸術的作品はその根底において製造品と異なっている。ある一つの目的に従って構成するのではない。多から一に行くのではない。一から多に行くのだ。フィードレルの言うように、一の視覚作用が自ら筋覚を伴って全身の運動を起こすのだ。否、始めからそれは心理学者の言うような単なる視覚作用ではない。作用の作用の立場における人格的作用だ。(視覚作用は)筋覚を内在的に含んでいるのだ。生命の一つの流れだ。この立場において芸術家と作品は「動き」ka mobiliteという如き不可分離である一つの作用となるのだ。この立場において万物が活かされるのだ。これが感情移入の真意義だ。芸術の対象界は表出運動を通じて見られた世界だ。否これ(表出運動)によって成立する対象界だ。プロチヌスの言うように沈黙によって理解すべき世界だ。以上の考えを更に次のように言い表し得るだろう。純粋視覚の世界というのは、視覚作用が作用の作用の立場(人格的立場)に立ってそれ自身を構成する具体的体験の世界であって、これに対して超個人的主観の対象界すなわち絶対意志の否定的(限定的)方面を物質界と考えるならば、純粋視覚の発展というのは、ベルグソンの言うように鉄粉の堆積の中へ手を差し込むように、視覚作用が物質界を切り抜いて進むと考えてよい。そして我々の身体というのは全生命の流れ行く物質界における痕跡であり、眼というのは視覚作用の進み行く物質界における痕跡であって、視覚作用は眼の細胞の中に含まれているのではない。眼の細胞やその配置は視覚進行の痕跡であり、視覚の流の堤防であると考えることができる。斯く考えるならば、我々の普通の視覚の世界というものは、我々の普通の眼に対する視覚の世界であり、視覚がある程度まで物質界を切り開いたのだ。言わば手を用いないで眼自身の力によって彫刻された彫像、描かれた絵画だ。しかしフィードレルの言うように我々の普通の視覚界というのは、視覚界として不完全なものだ。他の対象界によって妨げられている。眼の刻める彫像、眼の描ける絵画は不完全だ。エラン・ヴィタールの一つの流である視覚作用は、作用の作用として無限なる発展を要求する。これにおいて眼の成すことのできないものを手がこれを助けるのだ。フィードレルも眼の仕事の終わった後を受けて手が発展させるdie Hand nimmt die Weiterentwicklung dessen, was das Auge tut, gerade an den Punkt auf und fuhrt sie tort wo das Auge selbst am Ende seines Tuns angelangt istと言っている。この時、我々の手は眼の一部となるのだ。すなわち全身眼となるのだ。斯くして完成された視覚の世界が芸術の対象界だ。彫刻や画は、手を含める眼によって見られた実在だ。彫刻家が刻みつつある時、画家が描きつつある時、彼らはただ見つつあるのだ。プロチヌスは自然は見つつ作るのではなく、自然の見るということは作るということであるというが、この点において芸術家は自然そのものだ。視覚作用そのものが一つの大なるエラン・ヴィタールの流であるとすれば、芸術は普通の眼というような掘割の中に盛り切れない大なる生命の流の流出だ。他の人格的作用の並行的発展を待たず、視覚作用が独り己を専らにする突然変種la variation brusqueだ。故に物に感情が移入されるのではない。内容即力である作用の作用の立場においては、元来すべてが生命だ。すべてが純なる感情の内容だ。感情移入の基と考えられる運動の感覚と言われるものは、かえって物質に対するこの生命の反動に過ぎない。我々が綱渡りの動作に感情移入するというのも、手を加えた眼を以てこれを見るということだ。眼に盛り切れない視覚作用の発展を意味するのだ。感情移入とは主観的自我の価値感情を客観化するのではない。主客対立以前の具体的生命の発展だ。視覚的生命には視覚的生命に特有な自我の香があり、聴覚的生命には聴覚的生命に特有な自我の色合がある。これ故に絵画の美と音楽の美は互いに他に翻訳することのできない、それぞれの美を有すると考えられるのだ。
芸術の内容は直観的であるというが、芸術的直観は単なる直観ではない。表出運動を通じて見た直観的内容だ。芸術的創作はまた単なる創作ではない。見ることがすなわち作ることだ。内容それ自身の発展だ。ゲーテの経験においてのように、一つの花の心像から自ら無数の新たな花を生じるのだ。芸術家の直観はすなわち形成作用Gestaltungstatigkeitだ。このような直観即創造である芸術的立場は、物と心を独立の実在と考え、知と意を独立の作用と考える立場からは、到底これを理解することはできない。しかし具体的実在はベルグソンの言うようなエラン・ヴィタールの流だ。絶対的意志の立場において作用と作用との直接の結合ができるのだ。ディルタイが感情的状態の中に含まれたる、内外の意志によって止めることのできない緊張というのは、この生命の流れの圧迫でなければならない。これは我々の心内の事実ではなく、物心未分以前の事実だ。ここには概念的分析の刃を入れるべき余地はない。この要求は自然界の事実ではなく、自然界の実在性はかえってこれ(生命の流れ)に基づくのだ。
五
ゲーテが我々は我が物としようとは思わない天上の星の美を楽しむDie Sterne, die begehrt man nicht; man freut sich ihrer Prachtと言ったように、カント以来、美は無関心interesselosと考えられ、美の対象は仮相Scheinと考えられる。近時コンラット・ラングの如きは、美感の本質を意識された自己錯覚bewusste Selbsttauschung(意識的な自己欺瞞?)に求めようとした。実在という語を自然科学的実在という意義に限るならば、美の対象は言うまでもなくこれを実在界に求めることはできない。しかしいわゆる(自然科学的)実在と異なった意義において、美的対象に実在性を付与することができる。カール・グロースは、美的対象の実在性は感覚的実在性から来るが、美的錯覚に実在性を与えるものは有機体における運動motorische Vorgange im Organismusであると言っている。シラーの潜水者“Taucher”という詞において、それがこちらへ這って来て、沢山の手足を奮い立てた“de kroch heran, regte hundert Gelenke zugleich”というのは千言万語の叙述に勝る感があると言う。しかしグロースはこの有機体における運動というものに、単に自然的実在以上の意義を認めていない。このような運動感覚によって与えれた実在性は、認識対象の客観的世界に対しては、依然として一種の錯覚たるを免れない。しかし前にも言ったように、芸術的対象界を惹起する内面的模倣は単なる運動感覚ではない。生命の流の反動だ。ベルグソンの言うような「動き」la mobiliteの意義がなかったならば、我々は厳密な意味において運動の感覚というものを持つことはできない。ただ局所徴験プラス筋肉感覚あるのみだろう。怒った人の彫像は実際怒った人の表出や運動を尽く写していないが、彫像の感覚性と直接に結合することによって、その実在性を取ると考えられるが、私はこれに反し人間の怒というのはベルグソンの視覚la visionのようにそれ自身において円かなる生命の流の一表現であって、実際に怒った人の表現も、彫像の表現も共にこの生命の外殻に過ぎないと思う。否、名匠の彫刻の方がかえってこの真実を一層能く表現するということができる。実際の怒った人において見られる多くの表現は、その実際の本質の表現として無用である場合が多い。芸術家は実在を模倣するのではない。我々の肉体の中に盛り切れない生命の世界を創造するのだ。ベルグソンの言うような一つの単なる働きun acte simple, indivisibleとしての視覚作用そのものを明らかにするものは、解剖学者でなくかえって画家でなければならない。名匠の描ける瞳の中に含める生命こそ、我々に無限の色の世界、形の世界を創造し来ったものだ。ファン・ホッホの見た力の世界、ゴーガンやマチスの見た色の世界とは、このような実在でなければならない。この世界はただ表出運動を通じて見られ得るのだ。現代の表現主義の画家は、この立場に達し得たものと考えることができる。私はいわゆる実在界の実在性というのも、かかる実在(生命)の実在性から付与されたものと思う。感覚の実在感はこれに基づくのだ。グロースは見紛う錯覚Kopie-Original-Illusionと芽生え来る錯覚aufkeimende Illusionとの区別について次のような例を挙げている。二人の人が夕方室に入って巧妙に作られた自殺者を見、ひとりは直ちにその偽を認め、一人は驚くとする。両人ともに同一の印象を受けているのであるが、その一人は単にこれを模写として知的に見、他の一人は完全に人工的な点に気付かないのだ。しかしその偽を認めた人もしばらく見ている中にようやく錯覚が強くなり、前の正しき判断を失うことなく淡き一種の恐怖を感じる。これが芽生え来る錯覚だ。このような場合において、最初は恐怖した人も、冷静にこれを模写として見ていた人も、共に知的立場の上に立っているのだ。ただ十分にその偽を知っている人が芽生え来る錯覚に入る時、すなわちコンラット・ランゲのいわゆる意識された自己錯覚に入る時、もはや知的真偽の立場を離れて超知識的立場に入るのだ。真とか偽とかいうのはこれにおいて無意義となる。錯覚などいうのは知的立場から見てのことだ。幻覚や錯覚は異なる実在性を含んでいる。我々が先験的理想主義の立場(理想主義…現実をありのままに描写せず、何らかの理想に即して、美的、倫理的調和のうちに表現しようとする芸術上の傾向)に立つ時、この世界は一つの「意識された錯覚」だ。意識して自分を欺く時、それは既に欺きではない。
美の感情はハルトマン以来仮感情Scheingefuhlと考えられる。我々が劇を見て喜びあるいは悲しむも、我々自身が実際に喜びまたは悲しむのではない。ヴィタセクなどは感情移入の際、我々は実際の感情を有するのではなく、ただ感情の表象を有するのであると考えている。かかる場合、自我と考えられているのは、時間空間因果の世界に射影された心理的自我でなければならない。対象化された自我でなければならない。しかしこういう自我は真の自我ではない。反省された自我であって、反省する自我ではない。このような自我は何らの内容を有しない。かかる自我こそ自我の表象であって、実際の自我ではない。我々の具体的精神現象は、かかる自我と意識内容との結合ではない。意識は内容そのものの内面的発展であって、かかる内容的発展の統一が自我であり、その統一の内容が感情の内容だ。我々の真の自我はいつでも客観的内容(意味?)を含んだものだ。リップスは美的鑑賞の自我を理想的ideellesと言っているが、理想的ならざる自我はない。自我は※理想的であるが故に実在的だ。
※ 引用 理想とは
美的感情こそ真に実感情reales Gefuhl(本物の感情?)だ。精神現象は意味即実在にして、活動Aktualitatの範疇によって成立するのだ。美的感情を仮感情と考えるのは、自我を対象化して見るが故だ。この時(自我を対象化した時)すでに真の感情は消失しているのだ。いわゆる実感情とは有機感覚のようなものにあらざれば、既に欲求の形を成せるものに過ぎない(有機感覚のようなものでなければ、既に欲求の形を成したものに過ぎない)。ハルトマンは仮感情を以て充たされたる美的仮相の享楽は、明らかに実感情であるDer mit dem Reflex der aesthetischen Scheingefuhle bereicherte und erfullte aesthetische Schein ist also der Sitz oder Trager des Schonen; er ist es, der von dem ihn aesthetisch Auffassenden als Schon genossen wird. Dieses aesthetische Geniessen ist offenbar ein reales Lustgefuhlと言い、この実感情と仮感情はあたかも海に浴するものが受身な快適で、海に己をまかす如く融合すると言っているが、元来実感情と仮感情とがあるのではない。氏のいわゆる実感情の立場によって感情が物に移入され(主客合一され)、物が活かされて、いわゆる仮感情が成立するだ。そしてこのような主客合一の立場が真の自己の立場だ。美的実感の外に具体的感情なるものがあるのではない。氏は夢見る人が自己の働くを夢見る如く、芸術的享楽者は美的幻影の醉の中に(美的幻影の酔いの中に)また忘れられた自己を見出すDer aesthetische Geniessende sieht das schon verlorene Ich in der Seligkeit des aesthetischen Scheins wieder auftauchen, wie ein Traumender sich in Traum agieren sieht, ohne sich zu zweiteilen und ohne das traumende Ich von den getraumten Ich zu unterscheidenと言っているが、夢みられたる我das getraumre Ichというものはない。デカートが夢みる自我も自我であると言ったように、真の自我の立場は認識対象界以上の立場だ。真偽を超越した作用の作用の立場だ。この立場において芸術の対象界が成立するのだ。主観的世界を客観的に見る錯覚の中に、認識対象界以上の実在性を有すると言ったのもこれによるのだ。知的判断の対象界においては、虚幻と考えられ、無と考えられるものも、価値判断の対象界すなわち文化の世界においては実在となる。そして判断は価値意識の仮定の上において成立し得るのだ。価値意識の上に立つ世界は、最も具体的である実在の世界だ。
美的感情は、以上述べたような意味において真の自我の感情であり、その対象界がかえって真の具体的実在であるとするならば、美の世界といわゆる実在界はいかなる関係において立つか。我々の個人的人格の世界は、絶対自由の自我の立場において成立する具体的実在の部分であるが、我々の自我は絶対的自我(先験的自我)の全体ではない。ベルグソンの語を以って言えば、我々の生命はエラン・ヴィタール(生命の飛躍)の全体ではない。我々の個人的自我の流れに対して、無限なる作用が逆流すると考えることができる。ヘルバルトの考えを借りれば、一つの表象が意識の上に現れるには、他の無数の表象の妨礙Hemmungenと戦わねばならないと考えることができる。これにおいて主客の対立、内外の区別が生じて来る。ベルグソンは無意識に二種の区別をなし、一つは「無意識」conscience nulleで一つは「無くなった意識」conscience annuleeであると言っている。前者は真の無であって、後者は正と負と相反する両数の相殺だ。石が落ちる如きは、完全に無意識的であって、石はその落ちることを知らない。これに反し、習慣によって機械的となった我々の動作とか、睡遊者の夢中歩行とかいうのは(無くなった意識というのは)、表象が動作の実行によって塞がれているのだ。これ故にもしその動作の実行が妨げられた時は、直ちに意識が現れて来る。意識は始めからあったのだ。ただ妨げられていたに過ぎない。我々の意識というのは、表象に対する動作の不足une inadequation de l'acte a la representationを示すものだ。すなわち実際の動作を取り巻く可能的動作の光明のようなものだ。可能的動作の多い所は意識も深い。意識とは実際の動作と可能的動作との量的差異と言ってよい【L'Evolution Creatrice, p. 156-157】。右のような考えにおいて我々が動作の場面に出るというのは、我々が深く自己の根底に横たわる絶対意志に結合することだ。動作の場面(動作の世界)とは絶対意志の否定(限定)の方面だ。この世界との結合は、我々は絶対意志の中に立つものとして、我々の存在の条件となる。この場面(動作の世界)においては、我々の作用は動作に答えるに動作を以てする。作用はその内容を失って単に一つの動作となる。この世界は作用に対しては、単なる客観的対象界として立つ。物質界とはこのような世界に過ぎない。自覚の体験について言えば、現在自己を反省する作用と前に自己を反省した作用は、過現未を超越してしかもこれ(自己)を統一する自我の立場において相結合すると考えることができる。そしていずれの反省作用も自己の全体(先験的自我の全体)でないから、この場面(動作の世界)において、作用と作用は、その内容を否定して単なる行為として相結合すると考えねばならない。すべて実在はかかる場面(動作)を背景として立たねばならない。有限なるものは無限なるものの上に成り立つ。我々の自我の底にもかかる無限の流(生命の流れ、エラン・ヴィタール)がある。この場面は我々の自我の存在の基であると共に、打ち克つべく与えられた課題だ。この場面を破って進むこと、すなわちこれ(動作)を内面化することが、我々の生命の要求であり、具体的実在の発展だ。我々の実生活とは本能生活から文化生活に至るまで、かかる生命発展の無限の過程に過ぎない。芸術的意識内容というのは、これに反しこのような客観界を内面化する(主客合一する)具体的実在の内容だ。絶対意志の対象界である動作の場面というのは、それ自身において独立する実在ではない(単なる無意識ではない)。具体的実在においては、自覚においてのように知と行は直ちに一でなければならない(知即行=知ること〈内容〉が働く〈作用〉こと)。意識(内容)と無意識(作用)が一つのものでなければならない。このような具体的実在の純なる内容が芸術的意識内容であり、この内容がいわゆる実在界すなわち動作の場面と接触する所に、意志の内容が現れ来るのだ。意志の内容すなわち実生活の内容は、存在の条件(実在界)によって限定された芸術的意識内容だ。単なる無意識と異なった「無くなった意識」とは動作によって(意識が)塞がれたものではなく、動作を内面化したものでなければならない。練達によって得たいわゆる受用底というのは、単に機械的習慣ではない。画家が画を描く場合、無論概念的判断に従うのではないが、また単に自動的運動ではない。そこには(動作の内面化による)力の自覚がなければならない。反省的自覚ではなく、行為的自覚(力の自覚)がなければならない。いわゆるスタイルとは行為的自覚だ。ベルグソンの言うような動作に対する表象の過剰に基づく意識の外に、動作によって塞がれること(動作を内面化すること)によって、すなわち主客合一によって生じる(具体的実在の)意識があるのだ。そしてすべて具体的であるものは抽象的であるものの基礎となり、目的となるように、後者は前者の上に成立するのだ。
マックス・クリンゲルの「絵画と線画」の中から
芸術は単に実在の模写でもなければ、また単なる主観的空想でもない。いわゆる実在界なるものは我々に与えらえた唯一の世界ではない。否、かかる概念によって構成された世界は、むしろ実在の表面に過ぎないと言うべきだろう。かかる世界の後には、底いも知れぬ大きな生命に充ち満ちた真実在の流がある。この実在こそ芸術の対象であって、この世界は我々の生命そのものの如く、限りなく自由に、限りなく深く豊かである。音楽には音楽によってのみ表し得べき真実があり、絵画には絵画によってのみ表し得べき真実がある。そしてクリンゲルの如く考えるならば、線画Zeichnungにも線画によってのみ表し得べき真実があると言い得るだろう。
ここに線画というのは極めて広い意味で言うのだが、線画というものは、西洋においては独立の意味を持った芸術とは考えられなかったようだ。あるいは線画は絵画の予備と考えられ、あるいは絵画の複写として用いられた。しかし線画には絵画と異なった意味目的がある。この事は、例えばラファエルの線画とデューラーの線画を比較すれば明らかだ。ラファエルの線画は絵画の予備としてかかれたものだ。彼は線画をかく場合でも、いつも形像Bildを眼中においていた。彼の目的は形像の調和Harmonie des Bildesであった。彼の線画はいかに立派であっても、要するに絵画の断片に過ぎない。これに反し、デューラーの線画はそれだけで完成されたものだ。無論デューラーが色を眼中に置かなかったと言うのではないが、デューラーは我々の周囲に見る実際の色の世界よりも、一層深い色彩の世界を見た。この世界の色彩は実に変幻出没にして、わずかにその形状、動作、情操のみ捉え得るのだ。これを実際の色によって表そうとすれば、忽ち現実の世界に堕するを免れない。このような世界を対象とする画家の表現手段は、ただ明暗の手法あるのみだ。
すべて芸術的表現の材料には、その材料に固有であって、他によって表すことのできない精神がある。ある音律によって表される音楽の特徴は他の音律によって表すことのできないように、線画によって表される動機Motivは絵画によって表すことはできない。絵画の本質は色ある物体の世界を調和的に表現するにあるのだ。主観的情緒はこの客観的調和に服従せねばならない。印象の統一が絵画の主なる目的だ。無論、一言に絵画といっても、形像Bildの芸術、装飾Dekorationの芸術、空間Raumの芸術と分かつことができ、特に空間の芸術は線画と似通う点が多いのだが、絵画の本来の目的は形像にあるのだ。形像の興味は物を周囲から離して深く明らかにその個性を表すにあるのだ。このような表現はただ色によってのみ可能だ。色画はどこまでも客観的でなければならない。主観的空想の付加はただ形像を破壊するのみだ。装飾の芸術、特に空間の芸術においては、これと異なって形像と周囲の空間全体の統一が主なる目的となるのだ。物象は空間の中において限定され、空間の中においてその意味を持たねばならない。そしてかかる全体の関係の統一は、何らかの主観的基礎無くしては不可能だ。これにおいて線画によって画の中に詩的要素が多くなって来るのだ。この事はジョットーなどの風景画と後期文芸復興期のそれとを比べて見れば明らかだ。その峻厳にしてことさらなる不自然も、熟見すればかえってその人物を俗界以上に高め、我々はもはや昨は怒り今は笑う浮世の人間の前に立つのではなく、永久にして偉大なる人性の表現の前に立つ如き心持がするのである。
色彩はこの世の喜の表現だ。色そのものが既に我々に美感を与える。通俗的なもの、悲劇的なものでも、色はその美によって人を誘うのだ。色はこの世の歎美、この世の勝利だ。しかし幸多き人々は派手やかな、進み行くこの世を歎美もせよ、祈りもせよ、この世の中には、世をはかなみ、哀れに自ら慰める人々や、人世の戦に敗れて人を怨み世を憤る人々も多い。感情を生命とする芸術家がこれらの印象を黙殺することができるだろうか。かかる物の美と実生活の苦悩との対照から、詩人や音楽家の無現の影像が現れ来るのだ。この映像を失わないようにと思はば、これを表す造形美術がなくてはならない。かかる芸術が線画だ。レッシングは「ラオコーン」において情緒の表現は彫刻において避けるべきものであることを論じたが、かかる情緒こそ詩や音楽には欠くべからざるものだ。これらの芸術においては創造が現実を離れて働き得るのだ。線画においてもこれと同様の趣きがある。あたかも言語の音色や、リズムが言語に与える如きものを、線画が色に与え得るのだ。画の中では、我々はただ線画においてのみ、精神的情操をほしいままにすることができるのだ。絵画においては空気は単に軽快な光った感じを与え、海は潤うた輝いた感じを与えるが、線画においては空気には自由の感じが加わり、海には絶大なる力の感じが加わるのだ。
要するに線画においては、絵画においてよりも芸術家の人格が現れることができる。芸術家は彼自身の世界を表すことができる。客観的自然よりも彼自身の表現に従うことができるのだ。この点において線画はピアノや詩に比することができるのである。
芸術に暗い私はクリンゲルのかかる考えがいかなる価値あるかを論ずることもできなければ、またかかる粗雑なる叙述によって美しき洞察に富める氏の論文を紹介し得たと言うのでもない。私はただかかる考えによって、西洋画に対する東洋画の意義を考えてみたいと思うのだ。クリンゲルは線画の意義と存在の理由を空間的全体の統一的印象によって、詩や音楽と同じく、主観的想像の影像を表現するにあると言っているが、東洋の線画において重要な要素を成す筆意というものは、この点において最もよくその目的に合ったものではないだろうか。芸術家が物を見るのは、表現的動作の立場に立って物を見るのだ。手によって物を見るのだ。この立場においてのみ、我々は完全に概念的知識の立場を離れて、実在の根底である真実在そのものを見得るのだ。線画において全空間の統一という如きものが形像以上の形像を表すと言うならば、かかる映像に接することのできる芸術的表現作用の本質を表す筆意という如きものは、未だ生まれ出でざる前の影像を表すと言うことができるだろう。
感情の内容と意志の内容
現今一派の哲学者の言うように、作用、内容、対象などの区別をしてみると、それ自身において全き具体的経験は作用と作用との直接の内面的結合であって、この立場において反省された経験内容が我々の意識内容であり、かつて論じたようにその純なるものが感情の内容であり、芸術の内容であると言うことができると思う。しかし私は屡々、意志の内容をも作用の作用の立場において現れ来る経験内容であると言った。私は意志の内容と感情の内容との区別及び関係について考えてみなければならない。例えば芸術の対象としての愛と実生活における愛とはいかに異なるか。美は人生自然の発展に過ぎない。この他に美と称すべきものはないだろう。しかし美は我々の行為の理想とすべきものではなく、また美しきものもこれを欲望の対象とすれば忽ちその美を失う様にもなる。ロメオとジュリエットの愛は美しい。否フランチスカとパオロの愛も美と称することができるだろう。しかしこれらは直ちに行為の規範とすべきものでもなく、また彼らは美を求めて相愛したのでもない。彼らの愛はこれらにおいて実生活における厳粛なる事実であったのである。
一
具体的真実在は自発自転的であって、いわゆる内容と作用は離すことのできない両方面だ。一つの色から一つの色を区別する色自身の働きが我々の視覚作用であり、一つの音から一つの音を区別する音自身の働きが聴覚作用だ。単純な作用の立場においては、作用と内容は一であって、作用自身は意識されないだろう。知る者(作用)は知る者自身(作用自身)を知ることはできないのだ。しかし具体的真実在は作用自身の無限なる連続だ。作用の作用(意志)の立場において作用と作用との結合が成り立ち、この立場(意志の立場)から我々は作用自身を反省することができるのだ。これが我々のいわゆる意識現象だ。作用の作用の立場とは我々が内に体験することのできる自由意志の立場であって、かかる作用(意志作用)の内容として成立する実在は、その本質において自由であると考えることができる。自由とは超自然的ということを意味するのだ。自然的因果律を超越することを意味するのだ。私がかつて精神現象はすべて実体なき作用、すなわち作用自身の統一であると言ったのはこれによるのだ(精神現象は実体という自然的因果律に基づくものを仮定しない)。しかしこのような独立自由の実在にも、種々の階級のあることを許さねばならない。作用の作用にも、種々の程度のあることを認めねばならない。単純なる作用において内容の発展に無限の程度を認め得るように、作用自身を内容とする作用(作用の作用)において、作用の発展及びその自由に、無限の程度を認めることができる。いわゆる知覚のようなものであっても、意識現象として自由なる人格的基礎の上に成立し、単に自然現象としては説明できないのだが、我々の人格は知覚において自由であると言うことはできない。その(知覚の)創造性は単に衝動的であるに過ぎない(自由でない)。想起、想像などに至れば、作用の創造性はだんだんと明らかになり、その内容も人格的となるのであるが、これらの作用においても、我々の人格が未だに真に自由の域に達したということはできない。通常、心理学において言うような意味においての想像は、対自然的自由(自然的因果律に沿った自由、生理的因果に基づいた想像)であって、未だ超自然的、適当に言えば包自然的自由ということはできない。ただ自覚作用(作用の自覚)に至って初めて作用が完全にその対象界(作用の内容からなる世界、自然界)を超越して、己自身の対象界(意識界)を創造することができ、真に作用の作用である具体的立場に立つと言うことができる。いわゆる自然界はその中(作用の作用の内容の中)に含まれて、ただその一像面と成すに過ぎないのだ。パスカルの、人は万物の中でも最も弱い葦に過ぎない、しかし人間は考える葦だ。全宇宙が彼を圧殺する時でも、人は己の死することを知るが故に、彼は彼を殺すものよりも貴いという如き語も、実にここ(自然界は世界の一面に過ぎないこと)から出で来るのだ。この立場(作用の作用、自由意志の立場)において客観界は完全に自我の所与となり(主格合一し)、これと共に相対的自我(自然界に対し相対的に考えられた自我)は消磨されて客観界の中に没入するのだ。我々は学問的良心、芸術的良心、道徳的良心の発動の上において、これ(自我と客観界が合一すること)を自証することができるのである。
私は単純なる作用の立場においては、作用と対象が一であると言った。作用自身が未だ反省されてないと言った。無論厳密に言えば、単純なる作用というようなものはないかもしれない。同一性質の色が単にその強度によって区別されると考えられる場合でも、単に性質が強度的に加わるのではなく、(区別された色は)作用と作用との対立と見るべきだろう。すべて独立な対象は作用であって、その相互の内面的関係、すなわちこれ(作用と作用)を対立させるものは作用の作用(意志作用)だ。しかし純なる一つの統一の上に立つ時、すなわち一つの作用が働く時、作用自身は反省されない。眼は眼自身(視覚作用)を見ることはできない。たとえ作用が分析し得られるとしても、その(作用の)統一が純なる時、すなわち内面的に結合されている時、一つの作用と考えることができる。統一が純粋であるとか、結合が内面的であるとかいうことは、統一作用そのものが創造的となることだ。作用自身がそれ自身に固有なる無限の対象界を創造することだ(例えば純粋視覚、純粋聴覚など)。それでは、それ自身において創造的である作用の作用の立場(自由意志の立場)において、不純である作用の結合というようなものはどこから起こって来るか。作用の不統一は何によって生じるのか。すべて関係と関係の要素とは同一性質のものでなければならない。作用と作用の内容は同性質のものでなければならない。自由創造を本質とする作用の作用(意志作用)の内容として現れ来るものは、その一々が自由でなければならない。一々の要素の根底に自由意志を蔵していなければならない。いかなる点において、作用の結合そのものを対象とする作用の作用の立場(意志の立場)と、単なる作用の統一の立場と異なるか。前者の立場(意志の立場)における対象と、後者の立場(単なる作用の立場)における対象と、いかなる点において異なるか。作用の作用の立場においては、作用の不統一の上に統一が見出されるのだ。不調和の上に調和が見出されるのだ。この立場の上に現れ来るものは不統一の統一、不調和の調和だ。これが独立自由である実在の本質であり、すべての意識現象の根本的本質でなければならない。物理的に赤く見えるべきものが赤く見えなかったり、真直ぐに見えるべきものが真直ぐに見えなかったり、論理的に必然到達すべき結論に到達しなかったりする所(矛盾)に、精神現象の存在があるのだ。精神現象の本質は矛盾の統一にあるのだ。無論錯覚幻覚などその他多くの精神現象が生理学的にまたは生物学的に説明され得るだろう。しかし斯く説明され得る範囲において、それは精神現象ではなくなるのだ。かかる説明のできない剰余(余り)が意識現象だ。意識されるということは、かかる統一(生理学または生物学的統一)以上の統一が成立することだ。非合理的なるものの合理化(矛盾の統一)だ。単なる作用の統一はいかに複雑であっても、この点(矛盾の統一という点)において作用の作用とその根本的性質を異にしている。あたかも有限数はいかに大きくあっても、超限数とその立場を異にしているのと一般だ。私がかつて知識は有限なる作用統一(単なる作用)の上に立ち、感情は無限なる作用統一(作用の作用)の上に立つと言ったのも、この意味(矛盾の統一)に外ならないのだ。
私は意識現象とは作用の不統一の統一、不調和の調和であると言った。目的的統一(目的が意識された統一)というのも、このような不統一の統一(矛盾の統一)でなければならない。目的的統一の背後には、何時でも精神的なるものが認められねばならない。生命というような目的的統一が実在として考えられるには、精神的実在が考えられねばならない。ただその統一(目的的統一)が未だそれ自身にて独立自由となっていないのだ。未だ内面的でない(創造的でない)。具体的統一の域に至っていないのだ。すなわち矛盾の統一が未だそれ自身にて実在として働いていない。現象即実在ではない。この点においていわゆる生命はなお自然力とその類を同じくするのだ。目的的統一ということは全体が働くことだ。目的的因果においては最後に現れ来るべきもの(目的)が始めから働きつつあるのだ。この全体が偶然的と考えられる時(例えば無機物などの場合)、それが機械的となり、それが単に考えられた統一に過ぎない時(例えば草木などの場合)、それが自然的目的となり、それが直接の事実となる時(例えば人間などの場合)、意識現象となる。私がかつて意味即実在が精神現象の本質としたのも、この意味に外ならない。意味とは全体の統一(目的的統一)だ(意味=全体の統一=目的的統一=全体が働くということが精神現象の本質である)。
先に作用が内面的に統一された時、たとえ、それが複雑であっても、一つの作用としてそれ自身において創造的であると言った。斯く作用が純なる一つの作用として独立となることは、一方から見れば、作用が個人的立場を離れて超個人的立場に入ることだ。すなわち意識一般(純粋統覚)の立場に立つことだ。数学的知識の如き場合は言うまでもなく、芸術の如き場合においても、芸術的作用が主客合一にして創造的であるということは、超個人的となると言うことだ(超個人的=個人を超越して一般妥当性、当為を持つこと)。この方面から見れば、作用の内面的統一ということは、超個人的立場に入ることであると考えることもできる。しかし斯く作用が内面的に統一されるということ、すなわち個人的立場を超越するということ(作用の対象界がそれ自身に一般妥当性を持つということ)は、他方から見れば自己の外面化(客観化)であって、このような作用の統一は作用の個性化によらねばならない(個性的な自我の作用の統一として、その対象界が成り立つ)。純個人的立場(この場合、作用)を統一するものは個性だ。自由なる人格だ。作用が純化されればされるほど、作用はそれ自身において完全となり、互いに独立となる。すなわち一方から見れば不統一となるのだ。このような一般化的傾向すなわち客観化的方向(客観的対象界)を超越し、これを統一するものは個性すなわち主観でなければならない。一般なるものの一般(作用の対象界の根元)は個性的なるものでなければならない。我々の自我がすなわちそれだ。我が我の経験内容を純化し、客観化し、一般化して行くのは、同時に我が我の奥底に達し行くことだ。真の自我は斯くして現れ来るのだ。自己が自己を省みる一つの働きの中に、全自己の発展(事行)が含まれているように、一つの現実(超個人的内容、客観的対象界)の中に全体(自我)が統一されているのだ。個性的統一とは働くことだ。我は我を超越する、すなわち我の外に立つ客観界を我の中に入れるには働かねばならない。我とこの筆との統一は、この筆を以て書くことだ。行為によって我は一般的である客観界を統一することができる。この時、我々は無限なる一般的関係の統一(自我)から働くのだ。
我々が働くとか働かれるとかいうことは、物と心、すなわち主観界と客観界が対立し、この両者が結合統一されることを意味するのだ。主観的中心から客観界を統一し得た時、我が働いたと考えられ、これに反する場合には我が働かれたと考えられるのだ。客観界とはいかなるものだろうか。いわゆる客観界とは意識一般(純粋統覚)の上に立つ対象界だ。主観的中心というのは、これに反し最も特殊的な偶然的な結合の中心だ。我が働かれたということは、一般的な客観的な中心から統一されたことであり、我が働いたということは特殊的な偶然的な中心から統一することであると考えられるのだが、物には物の法則があって、我々は物の法則に従わないで、一物の位置をも変じることはできない。これに反し、自我の立場から言えば、窓なきモナドの如く、宇宙の大を以てしても我々の一つの意志をも動かすことはできない。我が物を動かすには、物が我の中になければならず、物が我を動かすには我が物の中になければならない。意志の作用が成立するには、我々は物心両界を超越し統一する立場(作用の作用の立場)に立つと考えねばならない。意識一般の立場(超個人的立場、客観界)を超越することによって、我は働き得るのだ。意識現象のみ真によく働くものの現象と言うことができる。我々の好悪、希望、欲求等は皆このような物心両界の統一の世界において現れ来る現象だ。かかる統一(物心両界の統一)の可能によって、これらの現象(好悪、希望、欲求等の現象、意志)の成立を認め得るのだ。主意説の心理学者の言うように、知的作用も一種の意志と考えることができるのだ。右のような立場に立っては、いわゆる客観界はただ自我実現の手段として存在するのだ。我々は十全な知識を得ることによって能動的となると言われるが、我々の自我は泣かず笑わず、すべての情緒を超越した一般的統一(客観的統一、意識一般?)ではない。唯一の我として愛し嫉み喜び悲しむ所に真の自我はあるのだ。何人の我でもない我というものはない。一般的客観界を手段となすということすなわち働くということは、一般的なるもの(客観)を特殊化(主観化)することだ。欲求とはかかる統一(働くこと)の形式だ。欲求の形において(欲求があって)、ある一点(自我)を中心として一般的なるもの(客観)が結合されるのだ。一般的なるものの統一とはある方向に動くこと(例えば、筆で字を書くなど)だ。
我々の個性的自我に対して打ち克つべきものとして前に立つもの(手段となるもの)は、単なる対象界(客観界)ではなく、既に作用の世界でなければならない。単なる対象界は自我に対立することはできない。自我に対立するものは自我だ。物は欲求の対象(という自我)として初めて我に対立するものとなる。意識一般の統一によって成立する客観界が自然界として我に対立するのも、統一作用である意識一般が作用として(作用という自我として)我に対立するが故だ。我々が自然を動かすとか動かされるとかいうのも、つまるところこの内面的統一作用(という自我)との結合如何を意味するのだ。作用が内面的に統一されるということは、個々の作用(例えば視覚作用、聴覚作用など)がただ加法的に結合するのではない。これらの作用の結合の上に新たなる意味を創造し、独立の対象界を構成する一つの作用となることだ。斯くして自然の法則も我々に対して運命(という個性的なもの)として人間味を生じ来るのだ。総ての客観的性質の成立には、その根底に欲求があると考えねばならない。視覚的欲求によって色の世界があり、触覚的欲求によって物の世界がある。作用が実在的となるには、欲求の形を取らねばならない。実在は意志(ここでは欲求)の闘争だ。ヘーゲルの言ったように実在は矛盾であり、矛盾が深ければ深いほど、真実在であると考えることができる。なぜなら内面的統一が深く自動的なればなる程、自己自身の中に矛盾を蔵するからだ。自己が客観的対象界と戦うとか、これに打ち克つとかいうのも、要するに自己が自己の中に生じる矛盾に打ち克つことだ。自己を動かすものは自己であり、自己は自己の中に自己を実現するのだ。自然は単なる自然として我々の欲求の対象となるのではない。自己の肉体的状態すら直ちに欲求の対象とは言われない。快楽そのものすらも単なる対象としては直ちに欲求ではない。意志とは自己の一状態から他の状態に移り行くことだ。自己の中に統一(限定)を求めつつ、自己の統一を破り行く(発展し行く)ことだ。このような無限の過程に自己の本質があり、その目的がある。我を動かすものは我だ。作用の内面的統一というのは、自己が自己の中に統一を求めることであって、我々の欲望の満足というのは不統一の状態から統一の状態に達することであり、このような統一そのものがまた直ちに破られるべき課題(不統一)となる。我々が内面的統一に進む時、我々は主観的世界から客観的世界に進むと考えられる。すなわち我々の主観的欲求(上記の視覚的欲求など)が客観的世界に実現されると考えられる。なぜなら、我々が客観的世界というのは、作用の内面的統一の対象界に外ならないからだ。しかし意志の満足は意志そのものの死だ。自己の内面的統一は自己の客観化であって、自己(主観)の消滅に過ぎない。自己の内に自己を省みる向内的作用(内面的統一)は、直ちに自己発展の向外的作用となる。自己においては、内面的統一は直ちに不統一を意味するものでなければならない。
我々の自我は無限なる作用の統一だ。我々の自我の根底には達することのできない深遠がある。作用の作用の立場(意志の立場)は単なる作用の統一に対しては、極限点の位置に立つのだ(故に深遠だ)。この立場は、一方から見れば一つの作用として統一することのできない、完全に非合理的な自由意志の立場だ。これ故にこの立場の対象界として、我々に完全に非合理的と考えられる経験的事実の世界も成立するのだ。この世界は理性の対象界(自然界)ではなく意志の対象界だ。この対象界を統一するには、我々は行為の立場に立たねばならない。すなわち不統一の統一(目的的統一)の立場に立たねばならない。実践我の立場においてのみ、この対象界(意志の対象界)に打ち克ちこれを統一することができるのだ。そしてこの立場(意志の立場)に立って全対象界を統一するということは、その内容を特殊化(主観化)することだ。ライプニッツが神は無限なる可能的世界から、この唯一なる現実の世界を、意志によって創造したと言うように、特殊なるものは非合理的であり、真に非合理的なるものは自由意志に基づくものだ。否、自由意志そのものだ。理性の法則に従うが故に自由ではない。一般的経験内容を特殊化(主観化)するが故に、意志は超自然的であり、自由だ。先に私は特殊な個人的立場を超越して意識一般の立場に到ると言ったのは、対象化された個物的自己の立場を超越することを意味するのであって、一方から見れば我々は到底特殊の立場(意志の立場)を離れることはできない。一般的なるもの(客観)は、特殊的なるもの(主観、この場合作用)の反射だ。内に照らせば照らすほど、外に明らかな反射を見るのだ。特殊なるもの(作用)がその達することのできない深い根底に入れば入るほど、一般的(客観)となる。特殊的なるもの(主観、作用)は、自己を一般化すること(内面的統一)によって、その特殊的なることを明らかにするのだ。個物的自己の立場を超越する(意識一般の立場に立つ)というのは、要するに自己の中へ深く入り込むことに過ぎない。一般的なるもの(客観)は自ら動くものではない。特殊的なもの(主観)の動く過程であり、その内容だ。
二
感情の要素の性質は快と不快の両種に限られ、その他の差異はこれ(快不快)を結合する知識内容の性質によると考える人もあるが、感情は感情自身の立場においてそれ自身の内容を有し、芸術によって表現されるようにかえって繊細にして明晰な内容を有するのだ。そして感情というのは上に述べたような作用と作用との直接の結合(という自我の状態の内容)であって、感情の内容とは作用の作用の立場において、すなわち行為的統一(目的的統一)の立場において現れ来る自我の内容、生命の内容であると思う。感情の内容は主客合一の立場に立って、すなわち行動の統一の立場に立って、初めて現れ来る内容だ。行動の意識無くして感情の内容は成立しない。少なくとも衝動的意識の上に感情が成立するのだ。これ故に、感情の内容は純なれば純なるほど、特殊的であり、(一般的である)知識内容と根本的にその性質を異にしている。生物がいかに進化し行くかを予見することができないように、画家がカンパスに臨んで自らいかなる画ができるかを知ることはできない。行為的統一は超知識的統一だ。これ故に知識の立場に対して(感情は)到達することのできない深みであり、知識の立場において矛盾するものも、この立場(感情の立場)においては積極的内容を有するのだ。
我々が感情から働く時、非合理的に働くと考えられる。衝動的生活は盲目的と考えられる。これに反し我々が数学的真理のようなものを考える場合には、個人的自我の立場から超個人的立場(個人を超越し一般妥当性を有する立場)に入る。すなわち情意の立場(個人的自我の立場)を離れて理性の立場に入ると考えられる。しかし我々が理性的に考えるとは、自己が自己の中に入ることだ。自己(作用という自己)が対象化されるのを避けて、自己自身の純活動(作用の内面的発展)に還るということでなければならない。そして(理性における)作用と作用の純なる結合の状態は無限の不安(可能?)であり、論理的だ。我々の思想は内面的矛盾によって発展するのだ。思想は徹底すればするほど、矛盾に陥り、自己自身を破壊して後、更に一層高次的である立場(極限、例えば論理に対する数理、有限数に対する無理数など)において生きるのだ。すなわち更に新たなる積極的内容を生じ来るのだ。翻って考えれば、最初思想をして矛盾に陥らしめるものは、実にこの高次的立場(極限)の内容であったのである。矛盾の場合において、一般的なるもの(客観)はいかなる位置を取るか。二つの経験内容(例えば色における白と黒)を矛盾させるものは具体的一般者(この場合、視覚作用)だ。すなわち総合的全体だ。統一者そのものだ。矛盾は作用の対象化から起こるのだ。作用が自己自身を自己の対象界に射影しようとすることから矛盾が生じるのだ。白から黒を識別する視覚作用そのものの色を限定しようとすれば、矛盾に陥らざるを得ない。視覚作用について、色を論ずべきではない。しかもそれ自身において独立で創造的である真実在は、実にこのような無限の矛盾だ。斯く矛盾は具体的一般者すなわち統一者(作用)の内面的発展の要求から起こるとするならば、一般化的作用が実在においていかなる位置を取るかを知ることができる。真実在において分析と総合がいかなる関係において立つかを明らかにすることができるだろう。有が有として自己を維持し、無が無として自己を維持する所に、明らかな転化の内容が生じるように(?)、ある内容が自己を維持するというのは一般的妥当性を要求することだ。斯く各内容が己自身に還り自己に純なれば純なるほど(分析が明晰になればなるほど)、総合的全体の内容が明らかとなる。内容の分析が進めば進むほど、積極的統一(総合的全体)が明らかになるのだ。明晰な分析のない統一は真の統一ではない。混合に過ぎない。分析には何時でも総合的統一が予想されなければならない。これが分析の目的となるのだ。我々が自己の経験内容を分析するには、内容を超越し、これを否定した立場の上(自己の総合的立場の上)に立たねばならない。すなわち知的自我(という総合的全体)の立場に立たねばならない。しかしこの方向(分析の方向)に進み行くことは、自己が自己発展の過程として、深く自己自身の中に沈み行くことだ。この方向(理性の方向)において現れ来る対象界(理性の対象界)は真の実在ではなく、真の実在界は目的的統一(行為的統一)の世界にあるのだ。情意の形においてあるのだ。我々は徹底的に知的方向を進むことによって、最も明らかな情意の内容(総合的全体)に達するのだ。
知識の立場においては、一般的なるもの(客観)の中に特殊的なるもの(主観)が含まれると考えらえるが(例えば、私〈主観〉は人間〈客観〉だ)、具体的な真実在においては特殊なるもの(主観)の中に一般的なるもの(客観)が含まれると考えねばならない。一般的なるもの(客観)は特殊なるもの(主観)の発展の手段だ。一般的真理(客観)というのは、我々の個性の根底である大なる個性の発展の過程に過ぎない。すなわち文化発展の手段だ。この時、真理は単なる真理(個人と無関係である超越的価値)ではなく、(個性の発展のための)力であり、実在だ。この力によって真理は真理自身を維持するのだ。作用が内面的統一に進む時(作用が客観的内容を有する時)、いわゆる個人的立場を超越する(一般妥当性を有する)と考えられるのはこれによる(作用の内面的統一の内容=客観的真理が個性の発展のための力となり、真理の内容自身を維持する)のだ。我々の人格の奥底は無限に遠く無限に深い。人格の流には始まる点がない。このような超限数的統一の人格の上に立つ対象界が、有限数的統一の人格的内容(作用?)に対して、作用を超越する純客観的世界と考えられるのだ。これにおいて心内と心外が相対立するのだが、これ(心内と心外)を統一するのが我々の行為の立場だ。行為とは一般的なるもの(客観)を特殊(主観)の中に入れることを意味するのだ。一般的なるもの(客観)を特殊化(主観化)する所に自我があるのだ。しかし自然が我々から自己実現の手段として見られるとき(客観的真理が己自信を維持する時)、行為の立場からしてなお(心内と心外の)十分の統一に達していない。真の文化においては、客観界が完全に主観の中に入らねばならない(完全に主客合一しなければならない)。因果関係(自然)そのままが目的的統一(行為的統一)の中に入らねばならない。自然は完全に精神の表現として見られなければならない。人間が機械を用い始めた時、精神が物体界を征服し始めたと考え得るのだが、私は文化は自己そのものの変化(自然が精神の表現として見られるという変化)に始まると思う。こういう意味において芸術が文化の始りであると考えることができる。芸術においては、自然は手段ではなく目的そのものだ。芸術は自然の背後に自己の生命を見出すのだ。芸術が遊戯から始まると考えられるが、我々はこれによって初めて受動的生活を脱し得るのだ。否自然と相対的位置を離れて、作用の作用である高次的立場に立つのだ。これ(作用の作用の立場)にすべての文化精神の基礎が建てられるのだ。実利的生活においては、客観界は自我に対して何らの生命のない物質の世界と考えられ、自己の手段として用いるべきものと考えられる。もしいわゆる客観界が真に自我と何らの関係なきものならば、自我は自我として独立に自我を発展すべきであるが、自己の客観界は自己そのものと爾く無関係のものではない。自己は客観界に人格的内容を認めることによって、自己自身の内容を発展するのだ。他(客観界)を人格として認めることは、自己を人格として認めることだ。物を物質として見る間は、自己は物質欲の外、何物でもない。かかる立場においていかに自然を征服し得たとしても、自己そのものにおいて何の得る所もない。同一である自己(物質欲)の無意義な繰り返しに過ぎない。我々は自然の中に精神的生命を認めることによって、すなわち芸術的直観によって、自己自身の生命の内容を変じることができる。しかも斯く客観界に感情を移入するというのは、新たなる統一を客観界に付与するのではなく、実際は具体的全体に還るのだ。迷える子がその父に帰るのだ。芸術的創作はかかる意味において内外両界の行為的統一だ。この点において実利的行為と根本的にその性質を異にしている。往々芸術的創作が本能作用に比せられるのだが、本能的生活というのは実利的生活と同一性質だ。実利的生活の核を成すものは本能的要求だ。ただ本能的動作が無意識と考えられる点において、芸術的創作と似通う所があるのだが、芸術作用は超概念的だ。前者(本能的動作)においては自己は自然から圧迫され、後者(芸術作用)においては自己は自然を脱出するのだ。本能的生活においては我々は大なる自然力の上に立ち、芸術的作用においては我々は純なる愛の上に立つのだ。芸術的創作の根底には大なる人性(じんせい。人が生まれつき持っている自然な性質)の愛がなければならない。愛の根底は超概念的である故を以て、無意識と考えらえるのだが、純なる愛の無意識というのと盲目的本能の無意識というのは同一ではない。愛の根底には対象によって動かされない深さがある。愛の根底はどこまでも清澄でなければならない。樹上から己を殺す者の為に斬り、右の頬を打つものに対して左の頬を出すごとき心の沈着がなければならない。そしてこのような心の落ち着きは実に深い人性の理解から出てくるのだ。人間の欲望の根底に透徹することから来るのだ。知の理解は概念において自由であるということならば、愛の理解は行為において自由であるということである。すなわち(愛の理解は)行為の本質(人性、人間の欲望)の理解でなければならない。そしてここに到るには、我々は一度理性の立場を通過しなければならない。本能作用も主客未分と考えられるが、理性的立場を自己の中に包容していない。従って(愛のように)全客観界を超越しこれを統一することはできない。親の愛は愛の最も純なるものだろうが、その非合理的である点(この場合、理性的でない点)において私欲だ。これに反し、恋愛の如きも、ドストエフスキーの「虐げられた人々」においてのように、愛人を愛する故に、これをその愛人と結婚せしめたという如きは愛の最も純なものだろう。純なる愛は極めて合理的でなければならない(理性の立場を通過しなければならない)。いわゆる客観的世界も実は知的愛によって生じるのだ。子供は理解する前にまず模倣すると言われるように、知的理解の前に作用と作用の直接の結合がなければならない。論理的理解の前にも思惟作用の直接の結合がなければならない。すなわち規範意識(当為の意識)がなければならない。このような作用の自覚(当為の意識の自覚)が愛の感情だ。知識においての矛盾の統一は行為においては愛の統一となる。愛において自他の欲求の矛盾が統一されるのだ(愛の理解は行為の本質=欲求という当為の意識の理解であるため、愛によって自他の欲求を理解し、これを行為により統一することができる。例えば、右の頬を打たれて左の頬を差し出すような行為の根底に、愛による自他の欲求の統一があると言うことができる)。愛の統一は、行為の世界において、知識発展の根底である直観(総合的全体)に比すべきものだ。愛の内容は欲求の具体的統一の内容だ。我々が抽象的立場(例えば利己的立場)に立って具体的全体の内容を統一しようとする時、我々は解くことのできない矛盾に陥らざるを得ない。我々は自分の立場からその欲求を貫徹しようとする時、自分に対して無限大の自然(他)が対立するのだ。この大自然(他)は自己に外面的と考えられるが、その(自然の)無限なる延長(無限大)と考えられるものは、具体的統一の超限性に過ぎない。要するに自己をして自己たらしめるものだ。我々の前に立つ暗い自然は自己の陰影に過ぎない。我々は愛によって自己を人格化すると共に、この影を滅することができるのだ。
我々が理性的となるということは、我々が自己の自然性に打ち克つことだ。自分の欲求が盲目的であるということは自分が自分の対象界(自然界)に属することであり、すなわち自己が抽象的であることを意味するのだ。自分が小なれば小なるほど、自分は対象界から限定され、本能的となり、無力となる。すべての物が反自己的となるのだ。我々が理性的となると言うのは、この立場に打ち克つことであるから、一方において自己を超越すると共に、深く自己自身の中に入り込むことだ。しかし知識の立場においては、我々は徹底的に対象界を打ち克つことはできない。盲目的自我はいつでも背後から、その影を映している。我々が愛によって対象そのものの根底に徹する時、完全に対象界を打ち克ち、盲目的自己を滅すことができるのだ。この時、知識の立場も真理に対する愛の立場であったことが明らかとなる。斯く自己を打ち克つ要求は何から起こるかという疑いもあるだろうが、真の実在は無限なる内面的矛盾だ。矛盾を自己の中に有するものが人格だ。理性的要求というのは、総合的全体がその要素自身を互いに相矛盾せしめ、その要素自身の中から自己自身を現す総合的全体の要求だ。要素はこれによってそれ自身にて矛盾に陥り、自己自身を滅して(総合的)全体の新生命に到るのだ。ただ、理性の火は実在の根底を照らし尽すことはできない。我は単に理解ではなく、悲しむ我、喜ぶ我だ。我の根底には無限の喜、無限の悲がある。我々は内と外に無限なる時の延長を持つ。外に見られる無限の時は、我々の心の奥に潜める無限なる時の射影に過ぎない。斯く我々の心の奥に連なる内面的連続は限りなく深奥であるが故に、神秘的ではあるが反自己的ではない。無限なる人格の光を帯びている。無限なる愛の根底だ。芸術家の眼に映じる自然の深さ、宗教家の感じる神の高さだ。我々はこれと結合することによって自己を失うのではなく、自己を生かす(動かす)のだ。物の全体を動かす総合的統一が真の具体的実在であるとするならば、真に実在を動かすものは物力ではなく愛だ。人格的力であると言い得るだろう。我々は深き愛によって無限なる人格の流に合すると共に、客観的対象界を自己の中に包容し得て、真に特殊の中に一般を含むことができるのだ。カントは美の本質を反省的判断作用(特殊なものがまず与えられ、これに対して一般であるものを見出す作用。例えばこの色〈特殊〉は赤〈一般〉だ)に求めたが、特殊が先ず与えられるとしても、一般の中に特殊が包摂された時、なお単なる知識的合目的性に過ぎない。自然の合目的性と選ぶ所はない。ただ特殊(主観)の中に一般(客観)を含むことを得て、はじめて芸術的内容となるのである。
三
私は以上述べたような考えを基として、意志と感情の内容の区別及び関係について論じてみたいと思う。感情は普通に無意識的と考えられるが、感情が無意識というのは物力の不可知的といわれるような意味と異なるのみならず、本能の盲目的という如き意味とも同一ではない。私は芸術的内容となる純なる感情の立場においては、抽象的にして単に客観的である物力の立場、否本能の立場をも超越して、純粋に具体的精神内容の立場に立つと思う。すなわち純粋活動である作用の作用(作用を統一する作用、意志作用)の立場に立つのだ。我々の文化生活は実に芸術的作用から始まると考えることができる。もし広義において意志を精神的内容の能動性という意義に解するならば、我々がかかる立場(感情の立場)に立つ時、既に意志の立場(作用の作用の立場)に立つと言ってよいのだ。ただ狭義においての意志(例えば決断など)が感情と区別されるのは、その目的が明らかに意識され、存在を目的としている点にあるのだ。
芸術家が純粋視覚の立場に立ってこの立場(意志の立場)に徹底する時、自ら全身の機関を動かし来って、一つの表現運動となる。この時、感興内に溢れて芸術家自身にも自己の表現作用の行衛(行くべき方向)と意味とが分からない。外から見れば本能や物力の無意識と同様にも考えられるだろう。しかし内面的には完全に立場の変換を認めざるを得ない。芸術においては我々は完全に自由我(作用の作用)の上に立つのだ。外界はもはやその手段ではなく表現だ。その(外界の)達することのできない深さは自然の深みではなく、自我の深みだ。この立場(作用の作用の立場)からはいわゆる物質界も、人格的作用の一なる知的作用の表現に過ぎない。我に対して立つものは大なる自然ではなく、大なる人格だ。感情移入というのはこの立場に達することを意味するのだ。人体写生がすべての画の基礎となるというのもこれによるのだろう。道徳的行為の立場においては、かかる人格的内容が意識的となるのだ。すなわち概念的に明らかとなるのだ。芸術の内容は道徳的意識に対しても、あたかもオン(存在、有)に対するメー・オン(非存在、無)であると考えることもできる。(芸術において)意識されなかったもの(メー・オン)が(道徳的行為において)意識的となるということはいかなることを意味するか。普通には意識の対象が意識作用を離れて存在し、意識は鏡の如くこれを映すもののように考えられる。しかしかかる考えは概念の実体化であって、実在としては作用の中に対象を含む一の事行あるのみだ。対象から言えば、作用は対象の内面的関係と考えられるだろうが、作用から言えば、対象とは作用自身の内面的限定に過ぎない。その無限に限定する方面が主観的作用と考えられ、無限に限定される方面が客観的対象界と考えられるのだ。しかし右のような作用の特殊的限定(対象)の根元として、作用を統一する作用の作用(作用の作用)を考えねばならない。すなわち広義においての意志を考えねばならない。意識は広義の意志の立場において、すなわち作用の作用の立場の上において成立するのだ。意識は小なる立場(作用)と大なる立場(作用の作用)の矛盾衝突から起こる。包容的なるもの(作用の作用)と被包容的なるもの(作用)との矛盾衝突から起こるのだ。正しく言えば、かかる矛盾の統一が意識だ。一般的なるもの(客観)を特殊化する所(主観化する所、客観を作用の内面的限定とする所)に意識が現れるのだ。
芸術的作用においては、我々は完全に知的主観の立場を超越するが故に、自然界としてこれに対立し矛盾するものはない。この点において芸術的作用は無意識とも言い得るだろう。無論その無意識は物力の無意識と同一ではない。芸術的内容は人格的活動の潜在的内容だ。無限なる発展の可能を含む数理を、我々がこれを自分の中にあるものと感じるように、我々は芸術的内容に対しても自分の中にあるものとして、これに暖か味を感じるのだ。しかし意志において目的が意識的となるには、人格の自覚というものがなければならない。人格の自覚は他の人格を認めることによって成り立つことができる。一つのみの人格というものはない。人格は二つ以上なければならない。芸術的作用の立場に立つ時、既に自己に対立する自然を人格化して見るのだが、芸術的想像の根底にはなお暗いある物(人格化しきれないある物)がある。(芸術は)非概念的であるだけ非自我的であり、単に客観的であると言い得る。この点において、その対象は未だ完全に自然の性質を脱し得ない。ただ道徳的意志の立場においてのみ、我に対するもの(自然)の根底に明らかな人格を認めると共に、自己自身が真に人格的となる。真の人格的内容がこれ(道徳的行為)によって顕現されるのだ。道徳的意志においてのみ我々は実在全体の根底に対するということができる。徹底された道徳的自我においては、自然の根底にも明らかな人格を認めねばならない。芸術的立場において潜在的であったものが、道徳的立場において顕現的となる。すなわち概念的にも明らかとなるのだ。私は芸術は道徳を予想して成立すると思う。道徳的発展を予想して芸術的想像があると考えるのだ。総ての根底はただ、一生命あるのみだ。一つの自由我(作用の作用)があるだけだ。真摯な生命の要求の上に立たない芸術は単なる遊戯でなければ、技巧に過ぎない。そして真摯な生命の要求を離れてどこに道徳というべきものがあるだろう。意識内容の本質が矛盾の統一にあるとすれば、芸術的内容も道徳的内容もいずれも矛盾の統一であって、芸術的内容が意識的となる(道徳的立場に立つ)と言うのは、意識内容が己自身の根底に還るのであると言うことができる。人格的統一が自己自身の目的に進むと考えることができる。我々は自然の根底に人格的内容を見れば見るほど、道徳的となると考えねばならない。芸術の立場は超概念的と考えられるが、道徳の立場においては概念的立場が内面的に取り入れられるのだ。道徳的立場にいたって自由我(作用の作用)が真に自己自身の立場に達し、生命の真意義が顕現的となるのだ。いわゆる勧善懲悪を以て芸術の手段と考える如きはもとより幼稚な芸術観にすぎないが、芸術を反道徳的と考えるのも真に深く芸術を解するものではない。芸術においての肉の歎美、悪の同情の底にも全人格の光がなければならない。肉欲や罪悪の単なる描写は何らの芸術的価値を有するものではない。人生という大きな曲線の一弧線として、大なる人生の一片として描かれる所に、これらのものの芸術的価値が存するのだ。個性描写が芸術において重んじられるのもこれによるのだ。(部分が)全人格の一弧線として見られることによって、個性の価値が生じ来るのだ。芸術的対象としての善も悪も、人生の曲線における生産点erzeugender Punktの如き意味を持たねばならない。単なる肉欲や罪悪は、芸術的内容としては極めて貧弱にして抽象的であることを免れない。芸術の内容はこれらのものの底に輝ける霊の生命(全人格)にあるのだ。他方において、道徳的生活というも単に概念的法則に従うことではない。星の輝ける大空にも比すべき道徳的良心は、我が内心の奥に潜める無限なる生命の発露でなければならない。何らの生命なき因襲的法則を固執するのは、単なる肉欲が芸術的価値を有せざるように、何らの道徳的価値をも持ち得ない。道徳的生命の内容は我々の肉体的生命の根元にして、しかもその目的である肉の背後に潜める精神的内容でなければならない。無限なる芸術的内容すなわち人格的潜勢力の衝突によって生じる内容それ自身の自覚でなければならない。すなわち全人格の発露でなければならない。人間性全体の発展完成でなければならない。このような完全なる人間性の発露を傷つける道徳法は道徳法ではなく、かえって罪悪だ。同じ生命が芸術を創造すると共に、道徳的社会をも構成するのだ。我々の生命は無数なる曲線の集合だ。かかる曲線の集合が我々の道徳的生命を構成するのだ。そして理性というのは、かかる集合の中心であるとすれば、道徳的生命において理性が内在的とならねばならない理由を解し得るだろう。また斯く理性が内在的となるということは、道徳的行為が意識的となることを意味するだろう。(芸術における)無意識というのは部分の全体(生命)に対する反抗だ。未だ十分に矛盾の統一に達せざる部分的独立だ。矛盾の統一において全体が積極的内容を得れば、すべてが意識的となるのだ。
芸術的創造作用においては、人格的内容が理性によって構成された認識対象界を通らないで、直ちに実在として直覚の世界に現れる。すなわち思惟の範疇の構成を通らないで、経験的事実の世界に表現されるのだ。フィードレルの言うように、我々の純粋視覚の発展は自ら表現運動を伴い来って芸術的創造作用となるのだ。斯くして、その現れたものは、我々の心理的自我に対しては自然そのものの如く動かすことのできない客観性を持つのだ。知識よりも深い行為の統一の上に立つものとして、知識に対して不可知的の意義を有するのだ。この点において本能作用と同様の趣き(越概念的であるということ)を有するのだが、一層深く考えれば、我々の見るとか聞くとかいうような知覚作用も、それ自身に動的なる人格的作用の発現だ。広義における意志の実現(作用の作用の立場における、作用の直接の結合)だ。芸術的創造作用は概念的対象界を通らないと言っても、物力や本能の如きものとは同一ではない。既に自由我(作用の作用)の作用だ。あたかも「知覚の予料」に当てはまった感覚内容のように、自由我(作用の作用)の対象界に属するのだ。この点においてすでに理性的と言ってよい(作用の作用の立場は理性の立場を包含するため?)。いわゆる感覚が「知覚の予料」の原理に当てはまって客観性を得るように、いわゆる実在界は「行為の予料」ともいうべき感情移入(一般的内容の特殊化)に当てはまって文化現象となる。すなわち自由性を得るのだ。感覚が強度を得るように、実在は感情移入によって自由性を得るのだ。「知覚の予料」に当てはまって成り立った「実在的なもの」の結合によっていわゆる客観的実在界が成立するように、「人格的なもの」の結合によって文化社会が成立するのだ。我々の経験界が意志の対象界として力の場面と考えられ、力と力との不変的関係が自然の法則となるように、人格的実在と人格的実在との関係が道徳法を生じるのだ。経験界において「実在的なるもの」が認められた時、その中に無限の物理的法則が予想されるように、人格的実在が認められた時、その中に無限の道徳法が含まれるのだ。道徳法は人格的内容の発展の法則に過ぎない。この法則が文化の社会を構成するのだ。全人格の統一の立場、すなわち人格の超限数的立場(総合的立場)が道徳を芸術から区別するのだ。社会は人格が相互に関係する場であって、人格の純なる内容は社会においてのみ自己自身を顕現すると考えることができる。斯く道徳的行為は全人格の創造的立場であるが故に、道徳的行為は芸術作用と異なって実在的と考えられる。道徳的行為は自然の法則に従う故に実在的であるのではなく、自然の法則を自己の中に含むが故に実在的であるのだ。意識一般は意志一般の一面に過ぎない。知識我の奥に実践我がある。道徳的世界は自然界の根元だ。芸術的創造作用においても、無論我々は知識の世界を超越し、理性を人格的作用として内に含むのだが、単に作用としてこれを含むのであって、未だその全内容(全人格的内容)を含むことはできない。したがって作用(芸術的創造作用)そのものが直ちに事実となることはできない。これ故に非実在的と考えられるのだ。道徳的行為が存在を目的とするように思われるが、道徳的行為の目的は自然界の出来事にあるのではなく、それ自身の中にあるのだ。外界の実在性はかえって我々が深い内面的当為を認めることによって成立するのだ。我々が全人格の奥底に到る時(道徳的行為に達する時)、すなわち内面的当為の極致に達する時、我々は理性の上に立ち、いわゆる(理性の対象界である)客観界がその中に含まれねばならないのだ。意識一般は全人格の無限なる統一の方面であるが故に、全人格の上に立つ時、意識一般の対象界を含まねばならないのだ。全人格の立場に純ならんとする時、この立場において十全とならねばならない。何らの暗影を残してはならない。全体が一つの人格的活動とならねばならない。芸術において人格的立場の上に立つのだが、なおこの点において不純なることを免れない。完全に動的となることはできない。静力的状態においてあるのだ。
社会は人格と人格との結合だ。見方によっては我々の個人的意識体系が一つの社会と見ることができるだろう。一瞬一瞬の作用が自由であり、このような自由作用の結合が一個人の意識だ。この意味において社会的意識の根底にも、一つの個人的統一を認め得るだろう。無論社会が人格と人格との結合であるということは異論のあることだろう。原始的社会は非人格的であるとも言い得るだろう。しかし子供には未だ人格的自覚はないかもしれないが、人格的自覚が個人的意識の本質を成すように、人格と人格の結合統一が社会の本質を成すのだ。社会の本質が人格と人格の結合にあるとすれば、社会は道徳的アプリオリの上に立つものと言うことができるだろう。「実在的なもの」das Realeとして認識対象界に入り来る感覚は、「知覚予料」の原理によって成立するものとして、我々はその背後にいわゆる物理学的世界を構成するように、個々の欲求は既に道徳的アプリオリの上に立つものとして、我々はその背後(欲求の背後)に文化的世界を構成するのだ。社会の構成は自然界の構成の如く統一的理性の独立だ。理性自身の対象界が独立となるのだ。すなわち感覚的実在から概念的実在に移るのだ。特殊としての現実(個々の欲求)は単にいわゆる経験界(客観界)へのインデッキス(指標?)ではなく、無限なる世界(文化的世界)へのインデッキス(指標?)だ。すべての世界がここ(個々の欲求=作用と作用の直接の結合=当為の意識)から出立するのだ。いわゆる経験界成立の根底に、作用と作用の直接の結合があり、「知覚の予料」の原理はこの統一を示すものであるが、作用の作用が自己自身の積極的立場に立つ時、人格的内容の世界、文化の世界が構成されるのだ。色覚が「知覚の予料」の原理に当てはまって客観性を得るというのは、純粋視覚の作用が人格の一作用として自覚されるのだが、この場合、全人格は未だ自己自身の真の統一に達していない。部分がなお独立の状態においてある。これ故に経験内容の背後に独立の力(自然界)を認めねばならず、我々の前には無限に暗い自然がある。我々が作用の作用の立場に徹底する時、初めて暗い自然の影は消え失せて自己の力となり、作用と作用と直接に結合し、人格と人格と相対する社会となる。タルドの言ったように物理現象の底にも社会的事実faits socialesがあると言い得るだろう。社会は人格的作用が顕現的に働く力の場だ。精神作用はいずれも純粋活動として、無限のポテンシャル(可能性?)を含むように、これらの作用の統一である人格的活動の背後には人格の無限なるポテンシャルを含むと考えることができる。かかるポテンシャルが芸術的内容となる。芸術的内容は社会に対して与えられた課題だ。単なる作用の内容が全人格的統一作用の一面である理性によって統一されていわゆる自然界となり、この世界を材料としてこれを統一する人格的内容の世界が芸術的世界となる。道徳的世界はまたこのような人格的内容の世界を、全人格の立場から統一したものだ。ベルグソンの言うように、我々が生まれながらに有する人格のポテンシャルは無限に豊富なものであるが、実現に当たっては我々はその多くを棄てなければならない。斯くその大部分を棄てなければならぬというのは、物質界すなわち同時存在の場面に衝突する故だ。同時存在の場面というのは意識一般の対象界だ。芸術的作用においては、我々はこの場面(同時存在の場面、意識一般の対象界=自然界)を破って内面的生命(人格的内容)の世界を創造する。生命そのままの世界を創造する。しかし人格そのものの中にまた同時存在(自然界)の関係が成立する。我々が個人の意識内において自己の過去を想起する時に入り込む関係と同様だ。自己の人格の深い奥底に達しようとするには、ますますこの方向に進まねばならない。美の要素として一面に不調和がなければならないのはこれによるのだ。その発展したものが崇高となる。美はこの不調和によって真の美となるのだ。ロッチェは我々の感情はすべてが調和的美を求めるのではなく、崇高を伴うことを要求する。誘惑的な調和の側に焼きを入れるような不調和が伴うことを求める。斯くして知識において表す如き世界の本質を、芸術的感情の中にあらわし得ると言っている【Lotze, Geschichte der Aesthetil, S. 329】。作用の作用の立場においての無限の進行の要求を表すものは、理性的感情でなければならない。カントが言ったようにこの感情(理性的感情)が崇高であり、崇高は真理そのものの如く厳粛だ。ロッチェは崇高の感は我々の思惟の達することのできない最後のものを、現実において認めることによって起こると言っている【Suche ich zusammenfassen, so scheint die allgemeine Bedingung aller erhabenen Wirkung darin zu liegen, dass irgend eine Erscheinung irgendwie uns ein Leztes, uber das hinaus kein Fortschritt des Denkens und kein Ruckgang des Geschehens moglich ist, nicht als einen Gedanken, mit dem sich hypothetisch spielen lasst, nicht als eine uberweltliche Moglichkeit, sondern in dem ganzen Ernst einer wirklich den Augenblick fullenden wirksamen Gegenwart, zur Anerkennung bringt. op. cit., S. 331】。このような我々の達することのできない「最後のもの」は、無限なる人格的発展の積極的統一によって成立するのだ。カントの言うように、美の価値判断の根底には理解力の概念があるが、崇高の価値判断の根底には理念がなければならない。理性的感情とはこのような理念の働きだ。そして私はテオドル・フィスシャーと共に崇高は美と異なる一範疇ではなく、美の一方面であると考えざるを得ない。崇高は美の動的方面だ。カントが美の基に理解力の概念を考えたのは、主知主義の因習に捉われたのではなかろうか。いかなる美的価値の根底にも、理解力の統一以上のものを認めねばならない。ロッチェの如く単に数学的崇高Mathematisch-Erhabenというべきものはなく、すべてが力学的崇高Dynamische-Erhabenであると言い得るのみならず、すべての美もこの力学的崇高の要素を具していると思う。美の奥には動くものがなければならない。深い美の底には、非哀か、さなくばユーモアがある。すなわち人格的内容の動的方面がなければならない。理念の力がなければならない。美と崇高との間には、あたかも分離数と連続数との如き関係がある。このような全人格の統一の働きは、初めからすべての美の根底に働きつつある。人格の無限なる進行が現れて崇高となり、更に全体の立場において理性独自の世界を構成するのが道徳的行為だ。道徳的社会(理性独自の世界)はこのようにして成立する芸術品だ。芸術的内容を成したものが顕現的に現れ来るのだ。理性そのものの実在界が成立するのだ。芸術的内容は、この立場を予想して成り立つ道徳的作用のポテンシャルと言うことができる。
四
芸術の内容と道徳の内容が、共に作用と作用の直接の結合の内容とも言うべき人格的内容であって、前者(芸術の内容)は後者(道徳の内容)の可能的状態であるという考えについては、なお多くの議論を要することだろう。芸術の内容は非概念的、非実在的と考えられ、かつすべての芸術は各自に固有な経験内容と離すことのできない関係を持っていると考えられる。絵画には音楽によって表すことのできない絵画の美があり、音楽には絵画によって表すことのできない音楽の美があるのだ。否、美の内容などということが、既に芸術家の嫌う所であるかもしれない。しかし崇高ということは、我々の無限なる実在に対する感情だ。時間それ自身の無限性、空間それ自身の無限性、力それ自身の無限性が、我々の主観から独立する理念的実在を構成し、このような実在に対して我々は崇高の念を生じるのだ。すなわちいわゆる実在界というものの根底に流れる宇宙の生命の、我々を内から動かすのが、崇高の感だ。これ故に崇高の感は真理の感のように、また道徳の感のように厳粛だ。我々は概念的なるものの生命を知ることによって、すなわち思惟の対象を直観すること(知的直観)によって、崇高の感を生じるのだ。崇高の感の基には知的直観がなければならない。創造作用の無限性が崇高の感の起こる源であって、いわゆる実在界の客観性も実はこれ(創造作用の無限性)に基づくのだ。それ自身において創造的なるもののみ、我々に対して厳粛なる客観性を有することができるのだ。そしてこのような創造作用に対する感情が、我々の美の本質だ。美の内容は概念的実在ではないことは言うまでもないが、これを幻覚や錯覚と同一視するのは誤りだ。美の内容は超知識的ではあるが、反知識的ではない。むしろ包知識的と言い得るだろう。判断の内容として与えられるものも、まずこのような直覚として与えられるのだ。
芸術的に敏感なるゲーテが色ガラスによって試した種々の色の感性は、今もなお古典的と考えられている。薄暗い冬の景色を黄のガラスを通じて見た時、すべての物が喜ばしく見え、物が拡がる様に感じられると言い、これに反し青いガラスは物を悲しく見せると言っている。我々はこれと同様の感情的印象を音の方においても感じることができる。高い音は喜ばしく励まされる様であって、低い音は陰鬱に厳粛で憧憬の感を起こさしめるのだ。しかし斯く種々の感覚に伴う感情の内容がすべて共通で、同一であるとするならば、芸術的内容と感覚的材料との不可分離の関係があるとは考え得ないだろう。音楽によって表し得る感情内容は絵画によっても表し得る訳である。そしてこのようなことは必ずしも不可能でもなかろう。しかしなお一層深く考えてみれば、かつてレッシングが絵画と彫刻との間において論じたように、各芸術は他によって表すことのできない美的内容を持つと考えることができる。ペーターはEach art having its own peculiar and untranslatable sensuous charm, has its own special mode of reaching the imagination, its own special responsibilities to its material(それぞれの芸術には、独特で他によって表現できない感覚的魅力があり、想像に到達する独自の特別な手法があり、素材に対する独自の役割がある?)と言っている。このような考えから言えば、同様の感情的内容を種々の芸術によって表し得るというのは、知識の立場から感情内容を感覚から離して考えるによると言うこともできる。芸術の立場においては、これ以上の意味において両者(感覚と感情)の間に離すことのできない関係があると考えねばならない。感情の内容と感覚的材料との関係についても種々に考え得るだろう。ある感覚が特にある感情の表現に適し、ある感覚はこれに適さないと考え得る場合もあるだろう。しかしこのような関係はなお外面的に過ぎない(感覚と感情が真に内面的に結び付いていない)。象徴的芸術の弱点はここにあるのだ。真に感情と感覚と不可分離的であると言うには、感情は感覚の内面的精神と解せられねばならない。種々なる芸術は感覚的精神の内面的発展と解せられねばならない。斯くして、耳の芸術は眼の芸術によって表すことのできない芸術的特色を持つことができる。感覚的経験の精神とは、感覚内容の自発自転性すなわち感覚的経験の底に含まれる無限の連続性を意味するのだ。このような作用の人格的価値、すなわち作用の作用の立場における内容が芸術的内容となるのだ。各感覚が芸術的内容として有する意味すなわち芸術的質料ともいうべきものは、物体の質量の如く単なる量ではなく、厳密な意味における内包量(温度や速度のように、加え合わせても意味のない量)だ。すなわち強度だ。我を唆す量だ。いわゆる感覚の強度と名付けられるものはすべてこの種の量だ。この量は一方において、「知覚の予料」の原理の基として自然界の要素となると共に、一方に自我を唆す強度として芸術家の要素ともなる。右のように考えることによって、各芸術は他によって表すことのできない独自性を有すのだ。
道徳的行為とはいかなるものだろうか。道徳的行為とは単なる外界の権威に従うことでもなく、また単なる理性の命令に従うことでもない。論理的矛盾律は我々の意志に対してカテゴリカル・イムペラチーブ(※定言命法)を与えることはできない。
※ 引用 定言命法とは
道徳的命令の基には、我々の生命の要求がなければならない。ただ我々の生命の要求が生命自身の立場において矛盾する時、それが悪と考えられるのだ。他人を人格として敬することによって、自己が自由である人格となることができる。自然に対しても、これを人格化することによって、自己を人格化することができる。芸術においてはなお感覚的経験の背後に(可能的状態として)潜んでいた人格的内容が、道徳的行為において自己自身を顕現し来るのだ。後者(道徳的行為)において人格的統一が真に自己の独立自由の域に至ると言うことができる。故に芸術的内容がいわゆる知覚の世界において表現を求めるように、道徳的内容はその表現を認識対象の世界すなわちいわゆる実在界に求めると考えねばならない。芸術は知覚の世界の精神を表し、道徳は実在界の精神を表すのだ。道徳的行為は存在を目的とすると言うが、存在のために存在を目的とするのではない。実在界は道徳的行為の表現であるが故だ。色や形の経験の背後に潜める人格的内容が絵画や彫刻によって表現され、音の経験の背後に潜める人格的内容が音楽によって表現されるように、無限なる作用の統一である理性の根底である自由我の内容、すなわち純なる人格的内容そのものは道徳的社会として実在界に表現されるのだ。道徳的社会は理性の芸術的作品だ。フィードレルの言うように我々の精神作用がすべて表現的動作に発するものとするならば、道徳的行為は理性の表現作用であって、我々の道徳的社会は理性の芸術品に比すべきものだろう。芸術的創造作用と道徳的行為との差異は、前者は直観的であり、感情的であり、したがって無意識的であり、後者はこれに反し概念的であり、意識的であると考えられているが、芸術的創造作用は道徳的行為と共に人格的内容の創造作用すなわち自由我の働きであって、芸術的内容と道徳的内容は同一性質だ。ただ前者(芸術的内容)は(人格的内容が)抽象的であり部分的であり、後者(道徳的内容)は(人格的内容が)具体的であり統一的(全体的)である。無意識的とか非概念的とか言うのは、その抽象的であり部分的であることを意味するのだ。
フィードレルの言うように我々が視覚作用に純一となる時、自ら伴い来る表現運動が芸術家の創造作用であるとするならば、芸術的作品は未だ意識一般の立場に入り来らない。すなわち未だ反省されない作用(この場合、視覚作用)の具体的内容の表現であって、我々の純なる生命の表現と考えることができるだろう。しかし我々の自我は単なる視覚作用や聴覚作用ではなく、無限なる作用の作用だ。客観的実在界が種々なる経験内容の統一と考えられるように、我々の全人格内容は無限なる作用の精神、すなわち無限なる感情的内容の総合でなければならない。絵画には絵画によってのみ表し得べき精神があり、音楽には音楽によってのみ表し得べき精神があるとするならば、我々の全人格はすべてこれらの精神の総合統一でなければならない。このような全人格の総合的統一の創造作用が道徳的行為であって、我々の社会的現象はその表現だ。芸術的内容が知覚や表象の世界に表現されるように、道徳的内容は、全人格の統一的作用すなわち理性(という統一作用)の対象界である実在界において表現されるのだ。芸術的内容は意識一般の対象界に入り来ることによって、すなわち反省されることによって、その超概念的性質を失うのであるが(例えば芸術作品をその構成要素に概念的に分析するなど)、道徳的内容は全人格の統一的内容すなわち文化史的内容であるが故に、道徳的内容はこれに反し反省されることによってその性質を失わないのみならず、反省的思惟の対象界(意識一般によって成る実在界)をその表現の場となすのだ。知識の対象界は道徳的意志の内容の一面として成立するのだ。ベルグソンの言うように、我々が運動の場面と衝突することによって、生まれながらに有する豊富なる人格の大部分を棄てねばならないかもしれない。実在界の関所を通り得るものは我々の人格的内容の一小部分であるかもしれない。しかしそこには可能と現実との区別がある。夢と実在との区別がある。量的には小と言い得るかもしれないが、そこ(可能と現実、夢と実在)に次位の相違があると考えねばなるまい。立体はいかに小なるも高次的ゆえに無限の平面よりも豊富と考えることもできる。我々が熟慮して行為に移る時、種々なる想像や欲望はまず全人格の内面的統一の立場において限定され、また外界との関係において限定される。一方から見れば、我々の人格の内容が限定されると考えられるだろう。しかし斯くして限定された内容は、無限定である全内容よりも一層高次的な意味内容を有するのだ。可能なるものの唯一つが現実となるのかもしれないが、後者(現実)は無限に前者(可能)を創造し得る力を含んでいる。(現実は)創造的自我の対象界(実在界)に属するのだ。道徳的行為というのは、右のような意味においての無限なる人格的内容の統一だ。無論芸術的作用といえども単なる想像ではない。表現によって限定されなければならない。そしてこのような行為の限定そのものが芸術的内容をして単なる想像の上に、人生における深い意義と客観性を有せしめるのだ。道徳的行為はかかる作用の純なるものだ。生物的生命欲のため人格の内容を棄てるならば、これによって我々の人格が貧弱となると考え得るだろう。しかし道徳的行為においては、これを棄てるのはこれを消化するのだ。生長するのだ。
道徳的社会を理性の表現と見なし、これを芸術的作品に比するには、多くの反対があるかもしれない。しかし芸術的作品は我々の内面的生命の発露だ。我々の人格の創造だ。ベルグソンの言の如く眼は視覚作用の掘割であり、我々の知覚の世界は単に眼のみによって刻まれたる実在であるとすれば、芸術的作品は我々の眼というような掘割の中に盛り切れない大きな生命の流によって穿たれた実在と考え得るだろう。私のかつて言ったように手を加えた眼によって見られた実在とも言い得るだろう(「美の本質」を参照)。この場合、手の運動感覚が内面的想像の精神を現しているのだ。我々の文化現象の社会も芸術的作品と同じく創造的人格の所作だ。深い大きな人生の発露だ。種々の国民の言語、風俗、習慣、制度、法律から神話伝説等、すべてこの精神の表現たらざるものはない。そしてこの場合(文化現象の場合)、芸術的表現作用の場合における手の運動の位置を取るものは理性の作用だ。純粋視覚の背後に潜める精神が手の内面的運動を通じて芸術品を創造するように、種々なる経験の背後に潜める種々なる精神は、いずれも理性の創造作用と結合することによって、文化現象を構成するのだ。芸術品そのものも理性の表現作用と結合することによって、文化現象と化するのだ。芸術的価値が文化価値として、その価値を有すると考えられるのは、これによるのだ。人格価値を離れて芸術価値はあり得ない。その他は技巧に過ぎないのだ。一方において道徳的行為はまた理性自身が自己の対象界を構成すると言う外に意味はない。文化財Kulturguterの創造作用に過ぎない。抽象的な形式的道徳は真の道徳ではない。芸術的作品は自然現象の如く客観的、具体的と考えられ、文化現象はこれに反し主観的、人為的と考えられるが、我々の文化現象の所与としては衝動(という人格的統一、理性の創造作用?)がある。感覚と結合することによって自然現象がその実在性を得る如く、衝動と結合することによって文化現象はその実在性を得るのだ。文化現象の実在性は自然現象のそれに劣らない。歴史は自然と同一の実在性を有するのだ。ただ芸術において生命は静的状態においてあり、道徳的行為においては動的状態においてあるのだ。前者においては価値(人格価値)が完成されたかのように見え、後者においては価値(人格価値)は完成の過程においてあるのだ。言語、風俗、習慣等、いわゆる社会意識の現象なるものは、いずれも自然と同じ客観性を具するのだが、その客観性は不完全(未完成)たるを免れない。これ故に(社会意識の現象は)単に符号または手段と見なされるのだ。大なる精神の表現としては十全ではない。大なる精神の全体がこれらのものにおいて自己自身を映じることはできない。社会はこういう意味において大なる精神の不完全(未完成)である身体と見ることができる。
以上述べた如き考えは「芸術の為めの芸術」l'art pour l'artを主張する人々の考えから見て、不純な芸術観とも考えられるだろう。しかし私は芸術が道徳に従属し、勧善懲悪的でなければならぬなど考えるのではない。純なる芸術的内容は純なる人間性だ。道徳もこの人間性を離れて別に存するのではない。ただ芸術は全人格の統一ではない。そして人間の手は人間の手として意味を有し、人間の足は人間の足として意味を有するように、部分的人間性は全人格の統一から見て、はじめてそれぞれの意義と生命を有するものと考えるのだ。このような考えは技巧を軽視し、各芸術の特色を無視するかのように思われるかもしれないが、技巧の為の技巧は単なる遊戯の外、何らの価値を持たない。真の技巧は内容が客観的に生きるということだ。芸術家がその表現において拙であるということは、芸術的内容の理解の不十分であることを意味していなければならない。真の生命(感覚的精神)の内容を理解していないと言うことができる。色や形の世界の生命はただ全身眼となることによって理解され、音の世界の生命はただ全身耳となることによってのみ理解されるのだ。私はトルストイの如き反文化的芸術観に同意したくない。人生の真意義を離れた技巧は排すべきであるとするも、単に自然のままの人生が真の人生ではない。真の人生は内面的生命の無限なる発展でなければならない。
五
以上論じた所はすこぶる不完全にしてかつ議論の緊縮を欠いているから、私は終になお多少の考えを付加しておきたいと思う。意志の内容も感情の内容も共に私のいわゆる作用の内容(人格的作用の内容)であって、共に人格的内容である。あるいはこれを自由我(作用の作用)の内容と言い得るだろう。知的作用も固より意識作用であるが、その内容は客観的であって、これ(知識内容)を人格的内容ということはできない。我々は物を知るという意味において知的作用を知ることはできない。我々は音を聞くが、聞くこと(聴覚作用)を聞くことはできない。我々が自己の精神作用を反省してみて、自分が見るとか聞くとか言い得るには、何らか作用の統一の内容がなければならない。この統一の積極的内容が明らかでない時、我々はこれを生理的原因に求める。例えば対照によって(同じ色でも)色が変わって見える場合、それだけでは異なった色と判断することもできるが、他の場合の判断との矛盾から、我々はこれ(異なった色という判断)を主観的判断と見なし、その変化の原因を生理的に求めるのだ。かかる場合においては作用というものは完全に生理的となるのだが、かかる変化の原因を※連想に求め得たとすれば、我々はこれを心理的原因から説明し得たということとなり、意識的統一すなわち自我を認め得たこととなる。
※ 引用 連想とは
しかしかかる場合においての自我の内容(人格的内容)というのは、単に「意識された」ということに過ぎない。表象はあたかも原子の如く量的に働くのだ。自我は無内容と言ってよい。しかし実際我々の精神現象は、爾(このように)、機械的に働くものではない。いかなる心理学者も我々の連想が感情によって支配されることを認めないものはない。ただ、普通の心理学においてはその原因(連想の原因)を意識の素質に求め、更にこれを我々の有機体の構造に帰し、なお進んでその源を生物的発展の歴史に求めるだろう。斯くして再び自我は無内容となり単なる名目とならざるを得ない。勿論、翻って見れば、生物の構造や発展の上に目的的統一を認めるのには、まず我に目的観念がなければならない。そうでなければ(目的観念がなければ)いかに巧妙な有機的構造も、物質の偶然的結合と異なる所はない。否、機械力というような考えすら、意志の内面的経験(目的的統一)なくして成り立ち得ないだろう。しかし今この議論に入り込むことを避けて、とにかく右のような考えを取るならば、意識現象という如き実在はなくなるだろう。意志は幻覚となり、感情も一種の感覚となる。意識現象として何らの特殊な法則を有せず、ただその性質として単に意識ということだけとなる。そして単に意識ということは、特に意識現象なるものを認める理由となることはできない。物理現象といえども、元来意識現象すなわち直接の経験から出立するのだ。ただその説明の立脚地によって(意識現象ではなく)物理現象となるのだ。まず我々に意識されるということ(意識現象)があって、それから我々はその説明を求めていくのだ。勿論ある意識現象の変化が今日の生理学で説明できない時、我々はその背後に自然現象と異なった精神作用という如きものを認め得るだろう。例えば、我が動作に対して注意というようなものが加わった場合と、加わらない場合とその結果が異なるならば、我々はこれを注意という精神作用に帰せざるを得まい。すなわち表象そのものの力に帰せねばならないだろう。しかしこれもその生理的原因が明らかとなればまた精神作用という如きものはなくなる。少なくとも、かかる場合においては、精神作用といわれるものは現実の我を離れて認識対象界(自然界)に射影されたものだ。この点において物力と同様だ。
我々はいわゆる経験内容すなわち知的内容の矛盾の統一を、右の如くこれを外(生理的原因、認識対象界)に求めないで、直接にこれを内に求めた時、知的内容と異なった意識内容が成立するのだ。それが真の自我の内容であって、厳密なる意味において意識現象というのはこの外にないとも言い得るだろう。我々の意識が青の知覚から赤の知覚に変じたとする。単にこれだけならば、我々はこれを客観的に物の変化と見得るだろう。色の知覚が音の知覚に変じたような場合、物理的には物が変わったと考え得ないだろうが、直接の意識の変化としては爾く(そのように)考えることもできる。そして物理的矛盾を脱するには生理現象を考えればよい。すなわち視覚中枢の次に聴覚中枢が働いたと考えればよいのだ。かかる場合、意識の統一があるとしても、何らの内容を持たない。しかし私が花を見てから音楽を聞こうと思ったというような、いわゆる意志の意識が加わって来れば言うまでもなく、そうでなくとも赤と青と異なるとか、色と音と異なるとか言うようないわゆる判断作用が加わってくるとすれば、我々の見方は前(原因を生理的なものに求める見方)と大いに異なって来る。我々の眼は外から内に向けられることとなる。判断作用というのは見る(視覚作用)とか聞く(聴覚作用)とかいうことに対して、作用の作用として独立の内容を持っているのだ。無論判断とまで行かなくとも、記憶というものが伴う時、我々は既に反省の立場に入るということができるだろう。ライプニッツも記憶を以て「裸のモナド」と「精神」を区別する一つの特徴としている。生理的には同一の脳細胞が刺激されるということであるかもしれないが、(記憶が伴う場合)意識的には自己同一が基礎となると考えることができる。種々なる連想はこの直接である内面的自己同一の上に働くと考えることができる。これにおいて初めて独立の意識内容が成り立ち、そしてそれがいわゆる舊知(きゅうち。古くからの知り合いのこと)の感情Bekanntheitsgefuhl(親近感?)となるのだ。次にいかなる意味において思惟が意識現象となるか。思惟作用についてどこまで意識内容と考えることができるか。判断は目的的作用だ。目的の実現ということが判断の本質だ。そしてその目的内容は因果関係を超越して、それ自身の内面的法則を有し、その法則から直ちに働くとすれば、思惟は作用の作用として、それ自身に独立の意識内容を有すると考えることができる。斯くして判断の内容は主観的と考えられるのだが、今日の認識論者の主張するように、判断の対象は主観的ではなく客観的だ。超個人的だ。この点において判断の対象は未だ人格的内容ということはできない。知識の内容は再び客観的となり、ただ誤謬というものが、主観的原因に基づくものとなる。そして意識作用の内容として意識状態という外、何らの積極的内容がないものとすれば、前に言ったように再びこれを生理的原因か連想の結果に求める外はないだろう。ヴントの言うように統覚においては目的表象が始めから明らかに意識されていると言ってみても、その全体の方向すなわち意味というようなものが客観的真理というようなものならば、やはり純粋な意識現象として何らの積極的内容を与えることはできない。あるいはマイノングの「仮定」の対象のようなものが意識内容と考えられるかもしれないが、氏のいわゆるオブエクチーフObjektivという如きものも直ちに意識内容ではない。オブエクチーフの中には非真理的または非実在的内容をも含み得るのだが、オブエクチーフはなお作用の内容であって作用の作用の内容ではない。
以上のように考えれば、厳密な意味において意識内容と言い得るものは情意の内容に過ぎないと言わねばならないだろう。しかしマイノングのオブエクチーフの如きものまで、すべて客観的対象界に入れてしまえば、主観的意識内容としては何物が残るだろうか。ボルツァーノの命題自体とかマイノングのオブエクチーフとかいう如きものが超越的価値に関して、すなわちこれに規範的立場(価値=当為の意識)が加わって判断作用という如き合目的的作用が成立するとするならば、こういう判断作用自身が自己の意識としていかなる意味を有し得るか。我々は聴くこと(聴覚作用)を聴くことはできない。判断作用を判断の対象とすることはできない。斯く言ってしまえば、精神作用などいうものは全く無くならねばならない。しかし仮にも我々が作用を意識すると言い得るならば、そこに何らかの内容がなければならない。普通にはこれ(作用の意識)を反省によって知られるものとして、やはり一種の知的内容と考えるのだが、反省ということをいわゆる判断と同意義のものとするならば、我々は判断が判断を知る(判断作用が判断作用を知る)という自家撞着に陥らねばならない。これにおいて我々は相反する意識の両傾向なるものを認めざるを得ない。我々が普通に反省というのはやはり自己を対象化して見るのだ。この点において外界に生命の如き目的的統一を考えるのと同様だ。こういう意味においては真の自我を知ることはできない。真の自我の直接の意識あるいは体験は、このような意味の反省と異なったものでなければならない。我々はかくの如き判断の前の意識というものを認めねばならない。判断の意識、否判断そのものも実にこの意識の上に成立するのだ。メーン・ドゥ・ビランは習慣の結果に二種あるとしている。いわゆる感覚は習慣によって不明瞭となる。例えば香りのように慣れるに従って感じなくなる。これに反し能動的感覚、例えば有意的運動(意識的な運動)の如きものは、繰り返しと習慣によって益々明瞭となる。手の有意的運動によって物の種々なる形状及び性質を捕え、かつ分析する(判断する)ことができるのだ。我々の知的というのはこの方向への発展だ。判断の本にも努力がある。そして有意的努力(意識的な努力)には自我の意識が結合している。この自我(作用)は自己を否定(限定)することなく、自己を対象化することはできないと言っている。我々はこのような意味において作用の直接の意識を有するのだ。私は右の如き有意的努力の意識があって、初めて作用の意識というのものが成立すると思う。我々は聴くことを聴くことはできない。視ることを視ることはできない。しかし純なる作用と作用の結合の立場(作用と作用の立場)において、これら(作用)をメーン・ドゥ・ビランのいわゆる能動的感覚として知ることができる。目的点(現在点?)の統一においてこれを知ることができるのだ。聴くことと視ることといかに異なるか。色と音は非常に異なったものに相違ない。しかしそれは色と音との相違であって、聴くこと(聴覚作用)と視ること(視覚作用)の相違ではない。聴くこと(聴覚作用)と視ること(視覚作用)を区別する積極的内容は、自我の無限なる色合いでなければならない。色に伴う微妙な絵画的感情、音に伴う繊細な音楽的情緒というようなもの(自我の無限なる色合い)が、作用としての視覚や聴覚の積極的内容(視覚作用や聴覚作用の内容)であると思う。右のように言えば、あるいは知的作用も意識ではないかという疑いが起こるだろう。しかし表象自体とか命題自体というようなもの(意味、価値)も客観的として考えれば、知的作用の内容としては単に意識されるということだけとなる。その他は(意味、価値が)単一とか複合とか、(客観的な)目的表象が先立つとか後に来るとかいうようなことに過ぎない。知的作用というのは、あたかも客観界から主観界に入る関門と考えることができる。一般(客観)から特殊(主観)に向かう門口と考えることができる。これ以上の純意識の積極的内容は情意の内容となるだろう。
以上のように考え得るならば、厳密な意味において意識現象というのは情意の内容であって、知的内容が経験内容の一般的関係、すなわち客観的内容を示すものとすれば、情意的内容というのはこれに反し(経験内容の)特殊的内容(主観的内容)を示すものと考え得るだろう。これ故に情意的内容は矛盾の統一、非合理的なるものの合理化と言うことができる。そしてこのような特殊的中心への結合、経験内容の特殊化、すなわち個性的統一は行為的立場の統一でなければならない。行為において我々は一般的なるもの(客観)を特殊なるもの(主観)の中に包摂するのだ。メーン・ドゥ・ビランの対象化することのできない自我の統一というのは、表現的統一とも考え得るだろう。(知的内容のような)始めにおいての統一、与えられた統一ではなく、行く先においての統一、終においての統一だ。感情移入による表現的理解は、知的理解よりも深く根本的だ。知的理解も、かかる理解の上に立つのだ。特殊的統一は内面的連続の統一だ。無限なる人生の曲線の一弧線としての統一だ。この種の理解(表現的理解)は繰り返されればされるほど、明らかとなるのだ。我々の現実は実にかくの如き曲線の一点だ。普通には一般の中に特殊を包摂すると考えているが(例えば、私を構成しているのは細胞だ、など)、真に特殊なるものは一般的なるものを自己の中に含むものでなければならない。一般的なるものは、かえって特殊的なるものの中に含まれた傾向でなければならない。例えば、曲線的座標において、一点における曲線の傾向によって曲線自身が表されるように、生産点と生産点との関係によって生産点自身が表されるのだ。
情意の内容が右に述べた如きものとするならば、感情と意志の相違は、後者(意志)はかかる特殊化的方向において最終の統一と考えることができるだろう。特殊化的進行の極致と考えることができるだろう。ライプニッツが神は無限の可能的世界の中から最善の世界を創造したと言うように、一般的意志(意識一般)の統一の上において、すなわち最高意志の統一の上においてのみ、我々は最終の特殊化に達し得るのだ。特殊の中に無限なる一般を含む現実的意識の根底において、我々はいつも創造的進化の大曲線に接しているのだ。かくの如き大曲線の尖端において限定されたものが、意志の内容となるのだ。これ故に、意志はすべての一般の統一である意識一般の立場を含む。すなわち認識対象界(自然界)を含むこととなるのだ。意志は現実的だ。かくの如き極限(意志)の立場は単なる可能的内容の総和ではない。そこに(可能から現実という)立場の飛躍がなければならない。人生に意義のない美(可能)はないが、美(可能)は直ちに善(現実)ということはできない。
反省的判断の対象界
カントは「判断力の批判」の始において、限定的判断と反省的判断を区別している。カントに従えば、一般に判断というのは特殊なるものを、一般なるものの中に含まれるとして考えることであって、まず一般なるものが与えられ、特殊的なるものが、その中に包摂されるとき(例えば、赤〈特殊〉は色〈一般〉だ?)、判断は限定的bestimmendであり、これに反しまず特殊なるものが与えられ、これに対して一般なるものが見出される時(例えば、この色〈特殊〉は赤〈一般〉だ、この花〈特殊〉は美しい〈一般〉?)、判断は反省的reflektierendであると言うのだ。しかし目的論的統一作用であるカントのいわゆる反省的判断作用も、単に知的作用と考えられるべき限定的判断作用も、共に一般の中に特殊を含まれたものとして考えるということであって、その相違は一般的なるものがまず与えられるとか、後から見出されるとかいうに過ぎないのだろうか。私は反省的判断作用において統一の基である一般的なるものと、限定的判断作用の基である一般的なるものは、同一の性質のものであるか否かを考えてみなければならないと思う。もし両者を同一とするならば、芸術美の内容というものを明らかにすることはできない。厳密に言えば、目的論的統一という如きことも無意義となるのではなかろうか。
普通の論理学においては、我々は判断において特殊なるものを一般的なるものの中に包摂すると考えられる。しかしかかる場合において、真に判断の基礎となるものは、単に抽象的な一般概念という如きものではなく、構成的原理という如きものでなければならない。真に一般的なるものは総合的一般者でなければならない。「物の変化には原因が無ければならない」というごとき限定的判断作用の原理は、言うまでもなく認識対象界(自然界)を構成する先験的原理でなければならない。カントに従えば、このような自然に関する純粋理解力の法則の外に、我々の理解に対して偶然的と思われる多くの自然の法則がある。すなわち一般的である先験的自然概念の外に、種々多様である自然の形態がある。かかる特殊的自然の法則も、それが法則である以上、一つの統一的原理によって必然的に統一されているものと見られなければならない。そして斯く特殊的なるものから一般的なるものに上り行く反省的判断作用には、また一つの先験的原理を有せねばならない。このような原理がすなわち自然の目的性の原理であると言うのだ。しかし自然の目的性というのは何を意味するか。厳密な意味における自然概念と目的性ということは相結合し得るものだろうか。目的的作用というものを考えるには何らかの意味において主観的作用をその背後において考えねばならない。意識作用の型によってのみ、目的的作用という如きものが考え得るのであると思う。厳密な自然概念から出立すれば、純粋な自然概念に基づき、その特殊である様相と考えられる種々の経験的法則は、どこまでも純粋に自然的因果の法則でなければならない。いかなる連鎖の間にも目的的作用なるものを容れる余地はない。自然の法則がいかに統一されるとも、その間に何らの目的性はない。ただ特殊なるものが一般的なるものの中に包摂されるまでだ。否自然においては特殊は一般の中において消されてしまうのだ。もし自然概念に対し何らかの意味において目的性を結合しようと言うならば、それは自然概念の中に挿入すべきものではなく、外から付加すべきものだ。自然現象の立場から徹底的に考えれば、厳密な因果律の外、何物をも許し得ない。生理的現象の如きも化学や物理の法則に還元する外はない。斯くして初めて自然科学の目的を達することができる。生命力という如きもの(目的的統一)を仮定するのは、厳密なる自然概念とは相容れないのだ。我々はかかる力を仮定する時、我々は自然科学的説明を棄てることになるのではなかろうか。無論今日知られている物理や化学の法則にて説明のできない自然力があり得ないと言うのではない。またすべての自然法則が数力的でなければならないと言うのでもない。しかしたとえブンゲなどの言うように胃の消化が化学的に説明のできない力によるとするも、それは純客観的にかかる力があると見る外はない。ただかくの如き一種の因果関係と見る外はない。一々の細胞に意識的性質を付加するにあらざるよりは(付加しないのであれば)、これを目的的因果という如き完全に異なった根底を有する因果関係に帰することはできない。私はかかる立場から生物の進化の如きも、その連続的であるか、はたまた飛躍的であるかは経験的事実に微する外はないが、それが飛躍的であるとしても、これ故にこれを目的的因果に帰するならば、自然科学の立場を乱すものと考えざるを得ない。厳密にはただこのような因果律があると言い得るのみだろう。解析幾何などにおいて種々の曲線が一つの一般的方程式によって統一されるとき、我々はこれに対して一種の美すらも感じるだろう。しかし何人も数そのものが目的的とは考えないだろう。目的性というのは、我々が主観的に付与した歎美に過ぎない。最小作用の原理の如きも、モーペルチュイの如き考えを基とすればとにかく、物理学の根本的法則としては何らの合目的性をも含んでいない。
右の如き考えから私は自然の目的性ということは、厳密な自然概念と相容れないではないかと思う。自然の合目的性というのは、厳密な自然概念のよって立つ所の立場と完全に異なった立場から付与された一種の見方に過ぎない。不徹底な一種の芸術観か宗教観に過ぎないと思うのだ。もしカントの言う如く我々が直観的理解力という如きものによって自然の目的を直観し得たとすれば、それはすでに単なる自然ではなく一種の芸術品でなければならない。純なる芸術的直観の対象界という如きものと、時間、空間、因果の範疇の上に立つ純なる自然界との中間には、二つの立場の混淆から成る種々の対象界を考えることができる。目的的自然という如きものも、このような対象界に属すると考えなければならないだろう。
自然の背後に目的的作用を考える時、それはもはや自然ではなく精神的実在とならねばならない。自然よりも一層高次的立場の上に立つ対象界(精神界)に属するものでなければならない。目的内容という如きものは、ただ作用の作用(意志作用、ここでは精神界)の内容としてのみ考え得るのだ。単なる対象界において目的内容というべきものはない。単なる対象界には生命もなければ、意識もないのだ。
特殊なるものが先ず与えられ、後から一般なるものによって包摂される場合(反省的判断)と、一般なるものが先ず与えられ、これによって特殊なるものを包摂する場合(限定的判断)とは、一般の中に特殊を包摂するという点においては何らの相違もない。そして厳格な意味における認識ということは一般の中に特殊を包摂するということであるとするならば、カントのいわゆる反省的判断の立場において現れ来る特殊の内容は、これを純客観的知識内容の中に求めるべきではなく、判断作用と判断作用との関係であると考えねばならない。あたかもカント自身も言っているごとく判断の※様相Modalitatの意味が認識の客観的内容の中に求めるべきではなく、認識作用の中に求めるべきであるのと同様だ。
※ 引用 様相とは
それでは、特殊なるものが先ず与えられて、後から一般なるものによって包摂される(反省的判断)のと、一般なるものが先ず与えられて、これによって特殊なるものを包摂する(限定的判断)のと、作用の作用の立場(意識の立場)において、いかなる相違があるだろうか。それは単に時の前後と見るべきだろうか。私はここに、心理的作用における単なる時の前後という如きもの以上に、深い意味があると思う。立場の相違ということは統一的一般者そのものの性質の相違を意味していなければならない。カントは「純粋理性批判」において、すべての変化は「時」において考えられるが「時」自身は不変だ。そして「時」自身を知覚することができないから、知覚の対象すなわち現象の背後に「時一般」Zeit uberhauptを表象する本体がなければならないと言っているが、反省的判断の統一は純なる時の統一でなければならない。「流れた時」の統一(一般なるものが先ず与えられて、これによって特殊なるものを包摂する)ではなく「流れつつある時」の統一(特殊なるものが先ず与えられて、後から一般なるものによって包摂される)でなければならない。純なる活動の統一でなければならない。純なる活動は純なる「時」である。純なる活動、純なる「時」はカントの言うように知覚することはできない。否反省することもできない。現象の背後に見られる実体という如きものは「時」の射影であって、時自身ではない。純なる「時」の統一(反省的判断)においては、何時でも特殊なるものが先ず与えれて(現れて)、一般なるものがこれに対して求められるのだ。真に一般なるものは己自身を現すことはできない。現れたるもの(は)、特殊なるものである。純粋活動においては、特殊の中に一般を含むのだ。「時」の統一は個性的統一だ。
私は経験内容の統一には三種の区別をなすことができると思う。一つは限定的判断の立場においてのように純客観的認識の立場においての統一であり、一つは行為の立場においてのように主客合一の立場においての統一(後述される直観的統一)であり、一つはこの相反する二つの立場の中間に位する統一の立場だ。第二の統一(行為の統一、直観的統一)というのは作用から作用に結合し行く(作用と作用が直ちに結合する)純なる内面的統一の立場であって、判断の立場を超越し、判断作用もその内容(作用と作用の直接の結合の内容)の一と考えられるべき最も根本的な、最も具体的な立場だ。第一の立場(純客観的認識の立場)の上に立つ客観的対象界というのは、いわゆる意識一般(純粋統覚)の立場という如きものから、かくの如き具体的実在を対象化したものだ。かかる第一の立場から第二の立場を反省して見たものが、第三の立場における対象界すなわち反省的知識の対象界だ。この世界においては、第二の立場における具体的統一(作用と作用の直接の結合の内容)が目的として、すべてが目的的に統一されるのだ。目的的因果律によって統一されるのだ。カントのいわゆる反省的判断の対象界ともいうべきものは、かくの如き世界でなければならない。
私が行為の立場(直観的統一の立場)というのは、完全に概念的知識の立場を超越し、しかもこの立場を自己の中に包容する純なる作用の立場だ。意識一般を超越し、しかもこれを包含する創造的自由我(作用の作用)の立場だ。あるいはこれを芸術的直観というのは適当と考えられるでもあろう。しかし普通に直観の語によって考えられる如く静的観照の立場ではない。私の考えでは芸術的直観といえども、芸術家の創造作用を離れてあるのではない。芸術的直観の立場というのは、我々が芸術的創造作用の立場の上に立つことだ。すなわち広義においての行為の立場(作用の作用の立場)の上に立つことだ。知識の立場(意識一般の立場=自然界)を超越するということは、動的となることだ。それでは私の行為の立場というのは、無意識的意志という如きものではないかと考えられるだろう。しかし無意識という語には二様の意味があると思う。一つは完全に目的が意識されていない本能的動作というごときものを意味するのだが、このような場合において、無意識的意志というのは、外から付加された考えであって物力と異なる所はない。真の無意識的意志というのは、意識的に内に働いてしかも認識対象化することのできないものでなければならない。実は認識作用の根底にも、かかる無意識的意志が働いているのだ。我々は芸術的立場において、明らかにかかる意識の作用を認めることができる(例えば音楽家が楽器を弾く時など)。芸術的作用と本能的作用は、多くの点においてその類似を認め得るだろう。しかし後者(芸術的作用)においては、自我が対象から完全に自由であるという点において、前者と根本的立場の相違を認めねばならない。芸術においては、我々の自我は自由なる精神となるのだ。我々の自我が自由となるというのは、意識一般の立場を超越することだ。我々が意識一般の立場に立つ時、客観界は自我(意識一般という自我の作用)の構成となり(客観界が自我の表現となり)、更にこの立場を超越することによって自我は完全に自由に創造的となるのだ。
右の如き意味においての無意識的意志と、普通にいわゆる意志(意識された意志、有意的意志)とはいかなる関係において立つか。無意識というのを本能の如きものと見るならば、トロピズム(屈性)のように物力的と考えるか、少なくとも不明瞭な弱き意志と考えねばならないのだが、作用から作用に伝わり行く内面的行為(作用と作用の直接の結合の内容)、すなわち芸術的直観の如き意味においての無意識は、反意識的でないのみならず、意識はいずれもかくの如き無意識の基礎において成立すると考えることができる。いわゆる意識的意志というのは、かかる意識発展の過程として現れ来るものと視ることができる。普通の心理学においても、意志の内容として現れるものは先ず衝動の形において与えられると考える。意識された意志は衝動的意志の闘争から起こると考えられるのだ。しかし私は意志と本能や衝動との関係を、右のように考えるのではない。後者(本能や衝動)はかえって前者(意志)の射影に過ぎない。従って私は、我々の意識は単に無意識から出でて無意識に帰り行くものと考えることはない。芸術的熟練において見られる如く意識から無意識に移り行くのは、最初の無意識に帰するのではない。かえって益々意識における目的(=この場合芸術の目的)が明らかになると考えることができる。メーン・ドゥ・ビランが受動的感覚と能動的な知覚との間に相反する傾向を認めたのも、この点に注目したと考えることができる。目的が意識されるということは、表象的生活の成立(目的表象の成立)を背景とせねばならない。表象的生活においては、作用は既に単なる対象界を離脱して、作用が作用を生む作用自身の世界に入っているのだ。そして作用自身が能動的にして独立の実在となると言うには、作用自身が無限の内面的連続であることを意味していなければならない。その背後に達することのできない内面的な深き奥底(内面的連続)がなければならない。この奥底は不可解ではあるが、外界が不可解であるというような意味においての不可解ではない。自己に対するもの(外物)ではない。自己自身だ。外界の不可思議はその(自己自身の不可思議の)陰影に過ぎない。数学的知識の如き先験的と考えられるものの背後にも、かかる内面的連続があるのだ。新たなる知識はここ(自己の内面的連続)から創造されるのだ。
直観的統一(作用と作用の直接の結合による統一)、私がその動的意味を表すために行的統一(行為的統一?)というものは、厳密に概念的理解を超越したものでなければならない。ここには目的論的関係すら容れる余地もない。ベルグソンが純粋持続において目的的原因をも否定したのはこれ故だ。芸術的統一においては、手段と目的との対立、否全体と部分との対立ということすらない。全体がただ、一つの生命の流れでなければならない。無論超概念的ということは反概念的ということではない。行の立場は知の立場を含み、これをその中に成立させるのだ。知は行の一つだ。しかし一方においてかくの如き純直観的統一の立場を認めねばならないと共に、一方においてこれに反する概念的統一の立場を認めることができる。ベルグソンの語を以て言えば、純粋持続の立場に対して同時存在の立場の如きものを認めねばならない。かくの如き同時存在の立場における対象界(意識一般によって立つ認識対象界)を、具体的である直観の立場において反省して見た時、そこに無限なる目的論的因果の世界が成立するのだ。直観的統一の立場における内容、すなわち純粋感情の内容(例えば、飢えを満たしたいという欲求、など)という如きものが目的となり、これに対し意識一般の立場の上に立つ認識対象界(例えば、飢えを充たすもの)がその手段となる。これにおいてすべてのものが目的と手段との関係において結合されるのだ。この世界(目的論的因果の世界)は単なる認識対象界よりも一層高次的であって、かえってこれ(認識対象界)を内に含むが故に、(認識対象界のように)単に一般的法則に還元して説明することはできない。総合的統一の見方によってのみ、その本質を明らかにすることができる。種族概念(限定的判断)の代わりに※類型の概念(反省的判断)が用いられねばならないのだ。
※ 引用 類型とは
私は限定的判断作用と異なった反省的判断の範疇というのがなければならないと思う。いわゆる心理現象の世界はかかる範疇によって成立するのだ。右の如き立場は、絶対我の立場において知識我から実践我への回転である。この立場の対象界はなお認識対象界に属する。純なる行為の立場と純なる知識の立場と結合するには、この立場によらねばならない。永久真理や法則が行為の世界に入ってそれ自身の意味を持つ前には、まず手段とならねばならない。
以上掲げた三つの立場は互いにいかなる関係において立つか。意識一般の立場はこの問いにおいていかなる位置を取るか。直接にして独立である具体的実在は純なる作用の無限なる内面的連続であって、絶対意志あるいは絶対我とはかくの如き無限なる作用の統一だ。そして意識一般とは、かかる絶対意志の一面に過ぎない。認識対象界は意志の射影面だ。自我が自我を省みる、省みられる自我と省みる自我と同一であるということは、無根樹上著花新(大仙愚堂国師の偈。造化何曾論功用、無根樹上著花新、非紅非白呈祥瑞、未必人間有此春。根のない木に新しい花が咲く)とも言うべき純なる作用の無限なる進行を意味するものだ。しかもかくの如き無限の進行そのものが自我の統一だ。例えば赤の色合いが無限に互いに区別されるとすれば、かかる識別が成立するには、その根底に無限の連続がなければならない。この理念(この場合、無限の連続)によって色の無限なる識別が可能となるのだ。色の無限なる連続(理念)がその極限において作用となる。これを対象化して外から考えれば、色の無限なる連続という如きことは抽象的概念に過ぎないとも考え得るだろう。知覚的経験に判断作用が加わったものとも考えられるだろう。しかしかくの如き連続の極限点が内面的(作用)となる所に、意識現象の本質があるのだ。知覚的判断というのは理念(無限の連続)そのものの自覚だ。知覚的判断は単なる知覚と判断の和ではない。知覚の予料の原理に当てはまって、初めて知覚的判断が成立するのであると言うのは、理念(無限の連続)の自覚を意味するのだ。色の具体的経験を右のように考えるならば、意識一般というのは、かくの如き無限なる内面的系列の極限点だ。この立場は対象化することのできない主観の極限点であって、この立場においては、すべての色がその内容となると共に、色が色自身の立場を超越する(作用となる?)と考えることができる。無論我々の具体的経験は単なる作用ではない。無限なる作用の作用(作用を統一する作用)だ。正しく言えば、意識一般とはかくの如き作用の作用の極限点であるのだ。我々の意志と名付けられるものの本質が作用の作用にあるとすれば、意識一般の立場は単なる知識の立場を超越して、既に創造的意志の一面であると考えねばならないのだ。自然界の実在性はこれ(創造的意志、絶対自由の意志)に基づくのだ。我々の自然界は単なる価値(超越的価値、意味)の世界ではない。実在の世界だ。自然界はそれ自身にて全きものであろうが、更にその立場が超越された時、作用の作用の対象界として精神界(作用の世界)が現れる。この立場において無限に特殊化され、特殊的に統一されるのだ。この立場において現れ来るものは歴史でなければならない。更にかかる対立(自然界と精神界の対立)の立場を超越して、主客合一の絶対我の立場に入る時、我々は時間空間の限定を超越して、芸術や宗教の如き永遠の世界に入るのだ。この世界の永遠は、時間上の永遠ではなく、時間の超越を意味しているのだ。最も具体的である絶対意志の立場から見れば、意識一般の対象界(客観的対象界)はすべてその発展の手段となるのである。
我々が物を理解するのに、知識的に理解すると言う外に、直観的に理解すると言うことがある。子供の理解は先ず模倣から始まると言われる。かくの如き理解は単に本能的とも考えられるだろう。しかし我々の知識がいかに理性的に進んでも、我々の知識の根底にはどこまでも直観的理解あるいは会得(作用と作用の直接の結合)がある。知識的理解は実にこの基礎の上に成立するのだ。我々が理性的に進めば進むほど、直観的理解は精神的に益々深くなりゆくのみである。いかなる抽象的理解の根底にも直観的理解がなければならない。西南学派の人々は我々の知識は規範意識(当為の意識)から始まると言うが、規範意識の自覚(当為=作用と作用の直接の結合の自覚)というものは一種の内面的生命の直観でなければならない。我々の生命は暗い本能の衝動から始まるかもしれないが、本能の烟が焼き尽くされる時、輝く理智の生命が現出するのだ。本能と知識は相反する独立の作用ではなく、一つの作用(意志作用、作用と作用の直接の結合の内容)の両方面に過ぎない。概念的理解に対する直観的理解の形式は、表現作用の理解においてこれを明らかにし得ると思う。我々の感情の内容は概念的思惟の反省の立場を通らないで、直ちに表現運動において現れる。我々はまた他人の感情の内容を表現作用を通して直ちに理解するのだ。表現作用において我々の精神作用は反省の対象界を通らないで、すなわち反省されないで、直ちに結合するのだ。表現作用の理解においては、物は単なる物ではなく、精神的内容の表現として理解される。物という如き我に異様なるものは消え失せて、すべてが精神的に溶解され、物は精神的なるものの創造として内から直ちに我と結合するのだ。客観的精神と我と同感するのだ。私は数学的思惟の如きものの一面にも、右の如き表現作用の理解の形式があると思う。数の世界はやはり我々の主観に対立して与えられた一種の客観的世界だ。一種の客観的精神の創造と見ることができる。我々がこれを理解するのは直ちにこの客観的精神と結合し、これと共に創造するによるのだ。数理知識の先験性必然性は実にここ(客観的精神との直接の結合)にあるのだ。ただ数理の理解と芸術的理解と異なるのは、一つは理性によって容易にその根底に達すべき対象界であり、一つは理性によって達することのできない情意の内容であるのだ。すべて表現の理解においては、対象は静的ではなく、動的となり、創造的となり、我々の精神作用は直ちにこれと結合するのだ。
我々の理解は直観から始まり、我々の理解の本にはどこまでも深い直観がある。この立場から見れば万物はすべて自我の表現となる。ただこの立場は思惟の立場に対して無限の深みなる故に、(数理などと異なり)この立場の対象界は自我に異様にして、自我に対立する非合理的である無限の外界となる。しかし思惟も自我の一作用として、思惟の内容はこの立場において経験内容と結合して知識の客観性を得る。背理のようではあるが、知識は非合理的となることによって、すなわち反知識の立場と結合することによって、知識自身の目的を達するのである。
真善美の合一点
絶対意志あるいは絶対我の立場においては、万物すべて精神的内容の表現となる。アッシシのフランシスが有名なる太陽賛歌において
Be Thou praised, my Lord, with all Thy creatures,
above all Brother Sun,
who gives the day and lightens us therewith.
And he is beautiful and radiant with great splendor,
of Thee, Most High, he bears similitude.
Be Thou praised, my Lord, of Sister Moon and the stars,
in the heaven hast Thou formed them, clear and precious and comely.
Be Thou praised, my Lord, of Brother Wind,
and of the air and the cloud and of fair and of all weather,
by the which Thou givest to Thy creatures sustenance.
(※讃えよ、主よ、あらゆる被造物とともに
とりわけ我が兄弟である太陽こそ
我らに日を与え、あなたは光を与えたもう
美しく燦々と輝いて
いと高き主よ、太陽はあなたのしるしを我らにもたらす
讃えよ、主よ、姉妹である月と星のゆえに
あなたはそれらを天で明るく高貴に麗しく造りたもう
讃えよ、主よ、兄弟である風と大気と雲のゆえに
それらにより被造物は命を繋ぐ)
※引用 敬和学園大学 アッシジのフランシス「被造物の讃歌」により神を讃えます
と歌うた時、日も月も星も風も雲もなべて神の象徴ならざるものはない。さらにこの立場に徹底すれば、肇法師のいわゆる天地与我同根、万物与我一体(天地は我と同根、万物は我と一体)にして、上に菩提の求むべきものなく、下に生死の脱すべきものもなしとも言い得るだろう。しかしかかる立場は単なる無反省の立場でもなく、また無意識の立場でもない。天真爛漫嬰児の如くにして、天国に入るを得るならんも、嬰児の精神状態が直ちに宗教的精神状態ではない。天国に入るものは一たび自我の根底に到達しなければならない。※到得帰来無別事からんも、千般思を碎かざりし前の廬山煙雨浙江潮とは同一ではない。
※ 引用 到得帰来無別事とは 茶席の禅語選さんより
自己の根底に到達するとは何を意味するか。自己とはこの場合いかなるものであるか。自己が自己を対象として省みる。省みる自己と省みられる自己と同一だ。かかる自己は単なる知的作用と考えられるかもしれないが、その本質においては純粋行為Handlung schlechthinでなければならない。純粋意志(作用と作用の直接の結合)でなければならない。フィヒテの言う如く、自覚において知る(内容)ということは働くこと(作用)でなければならない。この立場において万物は自我の表現として見られるのだ。ファウストの如く「大宇宙の符号」を藉らずとも、我々はこの立場において「地の精」Erdgeistと話すことができる。しかし自己の中に自己を写すということは、自ら作用の無限なる連続を意味するが故に、我々の認識対象界はどこまでも不完全だ。知識はどこまでも未完成だ。知識の未完成は知識そのものの本質だ。このような作用の無限なる連続すなわち自己の無限なる作用は、現在の自己に対して、無限の実在界として外に射影されるのだが、斯く相反する両方向(自己と実在界)の統一そのものが真の自己であって、「我」がかくの如き矛盾の統一を自覚するとき、無限なる外界を我の中に取り入れることができる。すなわち知識我から実践我に転じるのだ。普通に自覚は概念的知識であるかのように思われるかもしれないが、我々は判断の対象として自己を知ることはできない。自覚は判断の内容となることのできない、かえって判断の根底となる直観だ。私が自己の根底に到達するというのは、この立場(判断の根底となる直観の立場、作用と作用の直接の結合の立場、表現的立場)に到ることを意味するのだ。ここに到って、我々は意識一般(純粋統覚)の立場をも超越して、これを内に含むことができるのだ。すべて意識現象はいかなるものであっても、本質的にはこの立場の上に立つと考えることができる。表現的立場の上においてのみ意識現象が成立すると考えることができるのだ。単なる感覚や知覚の如きものにおいても、それ相当の領分を表現化しているのだ。色や音や形などが主観の所変(姿をかえて現れること)と見られるのはこれ(表現的立場)によるのだ。この点においては、実在界が理性の所作と考えられるのと同様だ。我々が自己の身体というものを考える時、既に客観の表現化を始めるのだが、意識現象に至っては唯心論者の考える如く、外界を自己の所変と見ることができるのだ。ただかくの如き表現的立場において、我々は無限の進行を認めねばならない。この進路の上においても、我々は何時も無限なる課題の前に立つのだ。かくの如き無限なる進行の行衛(ゆくえ。行くべき方向。向かっていく先)が現在の立場において包容し尽くされなかった時、(主客が分離し)物の世界に対立して意識現象なるものが考えられるのだが、進行の行衛が自己の内に取り入れられた時、芸術的立場となる。前の場合では、我は身体を中心として無限大の物体界と結合していると考えられるが、後の場合では、無限が内に包まれるのだ。ベルグソンは意識とは動作に対する表象の過剰であると言っているが、これはいわゆる意識現象の本質を示すものだろうが、意識の底には動作によって塞ぐことのできない意識がある。芸術家の直観の如きは、動作によって益々深く明らかとなる。思想が表象や言語によって発展するように、芸術的直観は動作によって発展するのだ。動作そのものが意識となるのだ。
芸術的立場の上に立つ時、我々は既に意識一般の立場、認識の立場を超越して、しかもこれを内に含む自由我(作用の作用)の立場に立つのだ。客観はすべて人格的内容の表現となる。芸術的作用の立場は単なる本能の立場ではない。ここには完全に立場の転換があると考えなければならない。それでは既に客観を自己の所変と見る表現的立場の上に立ちながら、更に無限の対立を認め、無限の進行を認めるとは何を意味するか。換言すれば、芸術的意識に対して道徳的意識の立場は何の意味を有するか。芸術的立場に立って見る時、落ちる石も、流れる水も、尽く精神的内容の表現ならざるものはない。しかし我々は石そのもの水そのものは無意識と考える。これに反し我々の身体は一方において芸術的立場から精神内容の表現と見られると共に、一方において身体は精神内容の機関と考えられる。身体によって我々の精神内容が働くのだ。精神内容が現実となるのだ。更に芸術家の創造作用においては、人格的内容(作用の作用の内容)が直ちに身体の動作となり、自己自身を自覚し、自己自身の世界に入るのだ。身体は物質界における種々の世界の結合点だ。我々が芸術的直観の立場(作用の作用の立場)において自然を見る時、自然の背後に見る精神は直ちに自己の精神(人格的内容)だ。花に対し月に対しこれを詩化する時、我々はこれを個性化するのだ。これを自己と為すのだ。イタリアの夏の夕べ、蛍のむらがれる生垣の間にさまよいつつ、雲雀の聲に感興を得たと言われるシェリの名高き「雲雀」の詩は、雲雀という鳥の性質を言い表したものではない。シェリ自身の感興に他ならない。しかもかかる感興こそシェリ自身の本体であり、かねて深き自然の本質だ。真実在は一般的概念の内容の如きものではなく、情意的な特殊的内容でなければならない。シェリ自身は単にかくの如き自己の機関に過ぎない。シェリ自身の真の自覚はかくの如き創作に深く入り込むことだ。
詩人の感興、詩人の動作、詩人の意識、これらの物はいかなる関係において立つか。芸術的内容が創作作用として現れる時、判断的意識を通らないで、感興から直ちに動作に移ると考えることができる。フィードレルの言うように、絵画の如き場合においては純粋視覚から直ちに表現運動に移ると考え得るだろう。純粋視覚の内容というのはいわゆる知覚の内容ではなく、人格的内容だ。詩人の場合においては、その表現手段が言語であるから、概念的知識に近いように思われるのだが、詩人においては言語はその(人格的内容の)表現手段に過ぎない。たとえ、文学者の中に科学的議論が挟まれるとしても、それは科学としてではなく表現手段としてでなければならない。言語は詩人において、色や音の画家や音楽家におけるのと択ぶ所はない。ただ、詩人においては概念的意識の背後に含まれている自由なる人格的内容をも表現し得るのだ。右の如き芸術的内容がシェリの「雲雀」の詩においてのように、自然に対する感興の場合には、それが自然に対する詩人の主観的感情であって完全に非実在的と考えられる。なぜなら、それは主観に対する当為(例えば、数理など)でもなければ、自然に対する概念的真理でもないからだ。これに反し芸術的想像(人格的内容)の内容が人間であった場合、前の場合と異なり、芸術的内容そのものが直ちに道徳的内容と関係を持つと考えることもできる。もちろん芸術的立場と道徳的立場を峻別すべきことは言うまでもない。芸術的態度においては、自然を描くのも、人間を描くのも同一と考え得るだろう。しかし人間そのものを直ちに芸術的対象とした時、その内容は芸術的であると共に、直ちに自己において実現し得べき可能性を有することを拒むことはできまい。自己によって直ちにいわゆる実在界と結合し得るのだ。そして斯く人間を対象とする芸術的内容が直ちに実在化することができると言うのは、私はその芸術的内容の中に知識そのものを含むが故であると考える。知識要素を含むというのは、心理学者の言うような意味において感情の要素としてではなく、真理として含むのだ。人間を対象とする芸術的内容は同時に人間そのものの知識だ。自然に対する詩人の感想は自然そのものの知識ではないが、人間に関する詩人の感想は人間そのものの深い知識でなければならない。主観的であると共に客観的でなければならない。斯く主客合一であるから実現的である(実在界と結合し得る)のだ。芸術的立場においては意識一般の立場を超越しかつこれを含むということは、人を対象とする芸術内容において、最もこれを明らかにすることができる。自然に対する詩人の描写も、単に自然の客観的描写ではなく、詩人の人格の反映でなければならないが、人間の詩的描写において人格的内容が自覚的となると考えることができる。我々の人格が深く自己自身の中を照らして自己自身(人間そのものの知識)を知るということができる。行為が行為自身を自覚するのだ。我々は意識一般の立場を内に取り入れることによって、すなわち理性を内に含むことによって、人格的内容が成り立ち、この内容が右の如き場合(人間を対象とした芸術的内容)において、初めて積極的に自己自身を知るのである。
芸術家が自然の描写から人間の描写に移る時、私はその内容が実在界と接触して実効的可能となると言った。無論詩人がその感興から実行に移る特、すでに詩人の立場を失うのだ。これには大なる立場の変更があると考えねばならない。詩はどこまでも実在を離れたものだ。抒情詩が詩の中の詩と考えられるのもこれ(実在と離れていること)によるのだ。しかし元来自由意志の立場の上に立つ人格的内容は、行為に到って己自身に還るのだ。詩人の人格を離れて詩というものもない。自然に対する芸術的感情の内容は知識を含まないが、人間に対する芸術的感情の内容は知識そのものを含むのだ。無論前者の内容も既に人格的であり、後者の内容も芸術的内容としては非実在的でなければならないのだが、大なる芸術においては深き人性の真理を含むと考えざるを得ない。真なる故に(真理を含む故に)美であると言うことができるのだ。それは心理学的真理とか社会学的真理とかいう如きものではなく、また何ら実践的意味を含まないのは言うまでもない。しかし人間が人間を描写する所に、何らかの意味において知識の性質がなければならない。少なくとも客観的意義がなければならない。ショーペンハウエルは意志が自己を照らすことによって自己自身を解脱するというが、かかる直観は最も深い意味において自己自身の知識でなければならない。人間に対する芸術的内容が自然に対するそれと異なって、一面においてそれ自身が知識と考えられるのは、概念的実在そのものの芸術的感情であるが故だ。我々は思惟の対象として知覚的経験の背後に自然科学的実在を考えるのだが、かかる実在は人格的感情の十全なる対象となることはできない。これ故に概念的自然に対する感情は実利的感情に過ぎない。自然科学的世界は、ただ、純なる知識の創造として知的感情に十全であるのみだ。これに反し我々の自己は一面において思惟の対象であると共に、一面において直覚の対象だ。自我においては思惟と直覚とが一だ。自我において、我々は概念的実在(知識)そのものに対して直ちに芸術的感情(直観)を持つことができるのだ。作用の無限連続である自我においては、知識と感情とは合一するのだ。(知識と感情は)一つの物の両面となるのだ。純なる作用は一面において知であり、一面において情である。知ることは感じることであり、感じることは知ることでありまた働くことである。
真実在は作用の無限なる内面的連続だ。我々が実在に対して感じる無限の大きさ、無限の深さは、自己自身の深さの射影に過ぎない。果てなき蒼空に対する畏敬の念は無限なる空間に対する畏敬の念であり、空間の無限に対する畏敬の念は、自己の中に自己を写す(無限なる)自覚作用に対する不可思議の感に外ならない。我々の知識は無限に自己の中に進むのだ。この方向において我々は無限なる客観的実在を見る。心理学者が運動の衝動を持って意識が始まると言うように、我々の意識の始りは無限の不安と考え得るだろう。かくの如き無限なる衝動的意識から知覚が発達するのだ。しかしどこまで知識が発達しても、我々は我々の背後に従う衝動的意識を脱することはできない。我々は自己の意志を知識化し終わることはできない。たとえ自由意志の意識は知的発展の結果として現れ来るとしても、意識の始りにおいて既にこの立場(自由意志の立場、作用の作用の立場)が含まれているのだ。衝動の意識というのも、この立場において成立し、この立場において分化発展するのだ。この立場において我々は自己の中の無限の深さに臨む時、その進展の方向において無限なる客観的対象を望むと共に、これを自己の中に省みる方向において無限なる精神作用を見る。そしてまたかくの如き相反する両方向(客観的対象と精神作用)の結合点である具体的自己そのものの方向において、無限に深く無限に自由である芸術の世界、哲学の世界、宗教の世界を持つのだ。反省された自己に対しては、客観界は自己の手段と見られるが、具体的自己の立場においては、客観界は自己の表現となる。そしてかくの如き自我の方向において無限の進行があると考えねばならない。その他の無限はこの無限の反映に過ぎない。
ショーペンハウエルならねど、私は音楽の如きものにおいて無限に深い内面的自己そのものの純なる表現を見ることができると思う。音楽においては概念的判断は完全にその権威を失い、ただ純なる生命の活動あるのみだ。抒情詩の如きものも音楽と似通うところはあるが、しかし抒情詩は音楽に比して知識内容そのものが権威を有すると考えることができる。リッツマンは抒情詩を論じて、内容に伴い、内容を暗まさない程度のリズムの形において、感情に表現を与えるden unmittelbarsten, subjektivsten Gefuhlen und Stimmungen des menschlichen Seelenlebens kunstlerischen Ausdruck zu geben in riner dem Inhalt sich anschmiegenden, den Inhaltsgedanken begleitenden, aber nie ubertonenden, rhythmischen Form(人間の魂の最も即時的で最も主観的な感情や気分を、内容と調和したリズミカルな形で芸術的に表現すること?)【Litzmann, Goethes Lyrik】と言っているのは、能く抒情詩の本質を言い表していると思う。内容(知識内容)に伴いしかもこれを超えざる律動的形式という点において、音楽と抒情詩との明らかな区別があるのだ。更に戯曲(演劇の脚本・台本)の如きに至っては、客観的知識内容そのものが要素としてそれ自身の権威を保たねばならない。戯曲においては性格と境遇と相対し行為がその中心となるのだ。自然は抒情詩の内容となり得るが、戯曲の内容となることはできない。無論、哲学的世界観と悲劇を直ちに同一視すべからざるは言うまでもないが、ギリシャの悲劇作者が悲劇によって人生問題を解決しようとしたと言うのは偶然ではない。音楽の如きものも固より人格的内容を表現するものであるが、秋毫の(わずかな)知的内容の挿入も音楽の美を破ると考えなければならない。音楽は純粋に感覚的でなければならない。ここに音楽の長所もあれば短所もあるのだ。(知的内容を挿入できない点において)自然科学的現象界における感覚の如き位置を、音楽は文化現象の世界において取ると考えることができる。意識一般は感覚を材料として自然科学的世界を構成すると共に、音楽によって表現される如き人格的内容を材料として文化現象の世界を構成するのだ。この場合、意識一般というのは、作用が作用自身を省みる無限の方向を示すに過ぎない。コーエンは感覚が「知覚予料の原理」に当てはまって経験界に客観性を得ると言うが、かくの如き客観的経験界はもはや理性(内容)に意志(連続)を加えた立場において成立するのだ。理性に意志を加えるとは、理性に対して外から他のものが加わるのではなく、自我が自我の具体的根元に還り行くことだ。私が手を動かす時、それは心理学者の言うような単なる筋覚や関節覚等の結合でもなく、また点から点への無限なる位置の結合でもない。一直線として、分析によって達することのできない無限の連続であり、私の手の運動として、内容(理性)と連続(意志)は不可分離の関係を有し、一つの筋力の発展だ。否一つの力感の自覚だ。無限なる内面的連続は筋覚そのものの精神に外ならない。「知覚予料」の原理もかくの如き純なる作用の立場において成立するのだ。純なる力の自覚によって成立するのだ。しかし我々の自我は単なる力ではなく、無限なる力の統一だ。我々の手の運動の背後に無限なる人格のリズムを見ることができる。無限に深い生命の流れを自覚することができる。この考えを深くすれば、我々の動作は一々神の舞踏とも考えることができる。それで我に対して与えられたもの(内容)は我(作用)によって求められたものであり、感覚として与えられたものの中に知識我の無限なる発展を含むと考え得るならば、音楽の如き芸術的内容の中に自由我の無限なる発展を含むと考え得るだろう。
抒情詩や音楽の中に含まれたる人格的内容は、自己自身を発展するにしたがって実現的となる。すなわち自ら働くものとなる。なぜなら主観を超越ししかもこれ(主観)を内に含むが故だ。主観は特殊化の作用であり、実現の原理だ。特殊なればなるほど、実在的となる。(音楽などの)人格的内容(芸術的内容)が自由になると言われるのはこれによるのだ。数学的思惟の如きものは、その立場に純なれば純なるほど、その内容が客観的真理として純化されるのだが、一方から見れば、この方向に発展することは、かえって実在から遠ざかり行くと考えることができる。経験的と考えられる物理的知識の如きものでも同様だ。かくの如き無限なる発展の方向を、意識一般への方向すなわち超越的主観への方向と考えるならば、数学の如き純知識的内容においては、この方向に進むに従って具体的実在から離れ、人格的内容においてはこれに反しこの方向に進むに従って具体的となり、現実的となる(自ら働くものとなる)と考えることができる。人格的立場というのは無限なる発展的方向の統一だ。自己が自己の中に向かって進むことによって、総ての発展を包むことができる。他(数学的思惟など)においては、意識一般の立場に向かうことによって、一方において客観的となると共に、一方においてかえって主観的となると考えられるが、人格的内容においては、発展すればするほど、すべての方面において客観的となる。すべての方面において客観的となると言うことは、自己が自由となり、創造的となることだ。すなわち絶対に能動的となることだ。実在界は意識一般によって成立するとすれば、意識一般を成立させるものは自由我(作用の作用)でなければならない。
人格的内容は自己自身の中に入り込めば込むほど、動的となる。すなわち自己に対して立つものが自己の作用の中に入り来るのだ。物が我の働きの中に溶かされる(主観を内に含む)のだ。換言すれば進めば進むほど、働くもの(統一者)なき働き(作用)に入る。すなわち知識の世界から純なる意志の世界に入るのだ。感覚的芸術においても既にこの途に入るものであるが、この方向に徹底するには、思惟の対象界であるいわゆる客観的実在界をも自己の作用の中に溶かし込まねばならない。カントの言うように自己が自然の立法者となるのみならず、自己が客観的実在界の創造者とならねばならない。いかにして自己が客観的実在界を創造し得るか。我々はここにおいて芸術の立場から道徳の立場に入らねばならない。自由意志の立場に入らねばならない。無論自然界において我々は一原子、一分子すら創造し得ないだろう。しかしいわゆる自然界は真の実在界ではない。自然界の底に歴史の世界(自然界と精神界が合一した世界)がある。我々はこの世界において創造的だ。道徳的自我が自然界よりも深いそれ自身の内容を有し、それ自身の世界を持たぬとするならば、意志の自由とは単に選択の自由という外ないだろう。しかしかかる考えは自然を唯一の実在界と考えるによるのだ。認識対象界は規範意識(当為の意識)の上に立つというが、規範意識は道徳的意識の一面だ。自由我(作用の作用)の意識(道徳的意識)なくして規範意識はあり得ないのだ。我々がある判断に対し、それが真であるとか偽であるとかいう時、我々は単なる知識の対象界から既に意志の世界、目的的世界に入っているのだ。リップスの「対象の欲求」というのもこの種の意識と解することができる(?)。その対象と考えられるものが非人格的である時、我々は外に知識の世界を見るが、対象そのものが人格的である時、対象の要求と自己の作用が合一すると考えることができる。この時、物は我の中に溶かされて、すべてが内に重なる作用の無限の層となる。物の世界というのも人格的作用の一面である思惟の対象に過ぎないからだ。広き景色をレンズの中に収めようとする写真師は後に退くように、我々は無限に自己の中に入り込むことによって、物の世界をも自己の作用の中に収め得るのだ。意識一般の立場が自己の中に取り入れられて規範意識(当為の意識)となるように、論理的当為の根底に倫理的当為がなければならない。対象間の関係を定める規範(当為)の基には、作用と作用を統一する規範(作用の作用の意識)がなければならない。矛盾律の根底には道徳律がある。矛盾律は道徳律の射影だ。論理の規範に従うことは対象の義務であり、我々が義務に従うことは、作用と作用との矛盾律に従うことだ。フィヒテが「知識学」の始りにおいて言っているように、論理的自同律の根底には、直接の事実として「私は私である」“Ich bin Ich”という自己同一の意識がなければならない。そして自己同一の意識の積極的内容は無限の自敬(自己の中に人格の絶対的価値と尊厳とを認めること)であり、無限の自愛だ。限りなき深き自己の根底に向かう所に、無限なる自敬の念が起こり、無限の行衛(ゆくえ)が行く者自身の内に他ならざる時、そこに無限の自愛が起こるのである。我々が論理的規範意識の上に立って、どこまでも矛盾を避け真理に徹底しようとするのは、真に我々の自我に対する深き自敬の念だ。深い自敬の念を離れて真摯なる真理の探究はあり得ない。「汝の行為の格率(行為の普遍的な道徳法則に対して、主観的にのみ妥当する実践的原則)が一般の法則となるが如く行え」とか「自己及び他人の人格を目的そのものとして用いよ」とか言うも、いかなる行為において汝は汝自身の人格を目的そのものとして用い得るか。汝の行為が一般的法則となり得るか。自分の食卓の一椀を除き、自分の重ねている一枚の衣を脱いで飢寒に悩める人に与えるのは、他人の人格を目的そのものとして見るのだろう。かかる行為は一般の法則ともなり得ると言うことができるだろう。しかし他人の物質欲を満足させることは精神的欲求を満足させることではない。他人の生物的生命を救うことは直ちにその霊的生命を救うことではない。道徳律が単なる思想から現実に入るには、何らかの内容を取らねばならない。無論カントの言うように、意志が何らかの内容を取る時、それは絶対的善意志ということはできないと言い得るだろう。たとえそれが真理を欲する意志であっても、また美を求める意志であっても、無条件に善意と称することはできない。しかしカントが、虚偽の約束が義務に背くや否やを知ろうと思はば、それが一般の法則となり得るかを考えて見よ、と言う時、我々をして虚偽の約束が一般の法則となることはできぬと考えさせるものは何であるか。功利主義からしても斯く考え得るだろうが、カントの立場においては秋毫(いささか)も利害得失の念を混んずべからざるは言うまでもない。我々は純真に法を敬する念から斯く考えねばならない。ならばいかにして我々は完全に利害得失の念を離れて純真に法の為に法を敬し、法を敬するの念から働くことができるか。ただ人間のみ法を理解してこれに従うことのできる理性者なるが故にと、カントは言っている。しかし法が成立するには、何らかの法の内容がなければならない。何らの内容もない法則というものはあり得ない。我々はいかなる内容の法則を敬し、いかなる内容の法則によって行うべきであるか。カントは法則に何らの内容があってはならぬと言う。ただ純真に法を敬するの念より行えという。しかし我々が法を敬するということは、その内容を敬することでなければならない。完全に無内容である法則は我々は理解することすら不可能だ。無論、法の内容を離れても、単なる法の理解というものが残ると考え得るかもしれないが、完全に法の内容を離れた法の理解というのもは、色を離れ音を離れた視覚作用や聴覚作用というような抽象的一般概念と同様でなければならない。虚偽の約束によってその場をのがれるという格率が格率自身を維持するが故に、一般的法則となることができぬというのはいかなることを意味するか。カントはこれを説明して、虚言するということを法則とすれば、元来約束というものは無くなる。なぜなら、自分の将来の行為に関して、自分の言前を信じない様な他人、また信じてもすぐ欺く様な他人に、何を言っても無益であると言っている。しかし斯く虚偽の約束が己自身を破壊するというのは、約束が約束としての目的を達せないと言うのであるか。はたまた約束という概念自身が論理的矛盾に陥るというのであるか。約束が約束自身の目的を達し得ないが故にと言うならば、約束の目的(という内容)というものがなければなるまい。しかもカントの立場からすれば、道徳的法則にはいかなる内容をも許すことはできない。それではいかなる法則であっても概念自身の中に論理的矛盾さえ含まなければ、可なるのであるか。虚偽の約束というのは約束でない約束ということであって、概念それ自身が論理的矛盾であるかもしれないが、単にかかる論理的法則が我々の行為の規範となるのではあるまい。カントの言うのも無論単に概念として矛盾すると言うのではなく、これを一般の法則とするという条件を入れて考えるのだ。しかし人々相欺けば約束というものの成り立たないのは言うまでもないが、虚偽の約束が一般的法則となり得るやを決するものは、約束の目的自身にあらざれば、単なる論理的矛盾律あるのみであろう。
我々が完全に利害得失の念に煩わされることなく、また単に論理的成立不成立という如きことを離れて、法なるが故にこれを敬し、純真に法を敬するの念から働くことが善と考えられるのは、純真に法に従うということが、人間の※理性の完成であり、理性的人間の目的であるが故でなければならない。この意味において道徳法は積極的意味内容を有するのだ。」
※ 引用 理性とは
人間の完成ということが厳密なる道徳的立場に対して他律的と考えられるのは、人性の要求を認識対象の世界に射影して見るが故だ。純なる道徳的意志が形式的であり無内容でなければならないというのは、我々の意識内容を知識内容に限るが故だ。しかし認識の立場においては見ること(視覚作用)を見ることはできぬが、見ること(作用)を見ることによって我々は無限なる芸術の対象界を持つ。知識的には聞くことを聞くことはできないが、聞くことを聞くことによって我々は無限なる音楽の世界を持つ。我々は単なる意志(作用)を意志することを得て、我々の前に無限なる歴史の世界、文化の世界が開かれるのだ。斯くして無内容と考えられたカントの定言的命令は無限に豊富な内容を持つと考えることができる。約束を守るということが道徳的価値を有するのは、単にそれが一般的法則となると言うにあるのではなく、義というものが大なる人性の要求として文化現象を構成する一事相を成すが故だ。カントが汝の格率が一般的法則となる如く行えと言い、自己及び他人の人格を目的として取り扱えというのは、ただ我々の純なる作用の内容を対象化するなかれと言うことでなければならない。法の内容を敬するのではなく法そのもの(ここでは、「作用」に対応)を敬することによって、我々の自由なる人格の歴史が開かれるのだ。倫理の法則はその特殊なる内容を肯定するのではなく、むしろこれを否定するのだ。自由なる人格の発展に対して、自然法のように一般的法則というものはない。約束を守るということすらこの内容に拘泥するならば、時に自由なる人格の発展を害するのだ。右の如き意味において、我々の論理的要求(内容)も倫理的要求(作用)の上に立たねばならない。知的発展は自由なる人格の一面であり、論理的価値意識は倫理的価値意識の一面であると言うことができる。無論真は直ちに道徳的善ではない。真理に忠なることと道徳的義務に忠なることとは一致しない場合もあるだろう。しかし無限なる人生(人性の誤記?)の要求の総合統一を離れて、ただ抽象的に善と言うものはない。カントが善を形式的と考えたのは、経験内容(道徳的良心の内容)の先見性(アプリオリ)を認めなかった故だ。知識的良心が道徳的良心と相容れない様に思われるのは、部分的立場に固着するが故だ。種々あるアプリオリの上に種々なる真理が成立するだろうが、具体的真理はこれらの真理の目的的統一になければならない。カントが数学的知識が感覚的内容を得て客観的知識となると考えた所にも、この意味を見出し得るだろう。
知識と道徳との関係についても、種々の場合を考え得るだろう。我々がどこまでも真理に忠実に進むということは、一方において忠実なる性格を意味するものだ。真摯なる真理の探究は深い自敬の念に基づかねばならない。我々が思惟の矛盾を解決しようと求めるのは、直ちに人格の統一を求めるのだ。それだけでなく、もしその知識が実践的内容を有する場合においては、単にかくの如き間接の関係(知識的関係)のみならず、直接の関係(実践的関係)を持つとも考え得るだろう。しかし右の如く知識と道徳を離して考えないで、道徳の内容というべきものを考えてみると、善とは義務の為の義務としても、いかなるものが真の義務であろうか。我々にとって最高の義務と考え得るものは、それ自身に価値あるものの実現より外にはない。そして真理の探究の如きはかかる義務の一と考え得るだろう。また斯くの如く知識そのものが善であると考えなくとも、知識内容の進歩が自ら我々の人生観に影響し、人生そのものの意義を変ずると考え得るだろう。知識の中には単に人生の手段としてのみ意義を有すると考えられるものもあるが、科学的知識の如きものであっても、深くなればなるほど、直ちに人生そのものに意義を持つようになる。科学的知識の根本概念の革新は人生そのものに影響なくして止まないだろう。我々の哲学とはかかる意味の知識だ。最初に言ったような場合においても、一見知識の内容と道徳の内容と関係ない様にも考えることができ、我々はいかなる知識の内容に対しても、その探求に忠実であるならば、性格の忠実を失わないと考えられるだろうが、斯く他人から見て両方の価値が無関係と考えられる場合であっても、当事者自身においては爾(そのように)無関係であってはならない。もしその人自身が知識の無意義なるを知りながら、なおこれを探求するならば、直ちにその人の道徳的性格を破壊するようになる。その人の行為が忠実という如き倫理的価値を要求し得るには、その人は主観的にその探求する知識を価値あるものとみていなければならない。道徳的価値と知識的価値を離し得るのは、傍観者の態度であって当事者自身の態度ではない。行為の立場においては、目的の善が行為の善でなければならない。内容と形式は離すことができない。他の人からは、形式においては善であるが、内容においては不善と見られる場合でも、私は直ちに道徳に二様の標準があるとは言われないと思う。知識においてはなお形式と内容は離して考え得るでもあろう。内容が誤りであっても、論理の形式は論理の形式として、それに禍されないと考えることもできるだろう。しかし善意の形式においては、形式そのものが内容の善なることを要求しているのだ。論理の形式は必ずしも内容の真を要求しないが、道徳の形式とは内容の善なることを要求する形式だ。目的的統一の形式だ。論理的過程は与えられた仮定を、仮定として進み得るのだが、善意は己の動機が仮定の上に立つことを許さないのだ。自己の行為が絶対的善に合うことを求めるのが道徳的善意だ。無論何人も絶対的善を知り得るはずはない。しかしこの信念の上に立ちこれに合うことを求めるのが、善意の善意たる所以だ。善意という如き形式的善が、それ自身において価値を持つと考えられるのも、この意味においてでなければならない。善意志の内容とすべきものは他の手段としてでなく、それ自身に価値を持つものでなければならない。純なる価値意識の内容でなければならない。我々の人格が目的そのものと考えられるのも、かかる意識の純一なるが故だ。斯く考え得るならば、知識の為の知識という如きものも、善意志の内容の一つと考えなければならない。価値なきものに忠実なることも、道徳的と考えられるかもしれないが、忠実の為の忠実は忠実ではない。最高の目的のために忠実ということが、忠実をして真に忠実たらしむるのだ。プラグマチスト(実用主義者)の如く、知識を単に手段と考える人々は何を以て生命の内容となすかを解し難く、さなくとも知識を以て人格と関係なきもののように考えるのは、模写主義に捉われている人であろう。知識は人格的内容の内面的発展の一つの過程であり、人格の内面的発展を離れて真の知識と称すべきものはない。無論、内容の善は直ちに意志の善ではない。善意志というのは内容の善の外に何らかの性質を持っていなければなるまい。しかし我々の人格は単に種々なる内容の総和ではない。善意志と真理との間には、単に善意志が真理を価値あるものとしてこれを択ぶという以上の内面的関係がなければならない。具体的真理の内容が直ちに人格的内容であると考えることもできるのだ。カントは数学的知識は知識ではなく知覚と結合して初めて真の知識となると言い、またマールブルク学派では知識はその具体的根元に還ることによって客観的となると考えているが、我々にとって最も具体的根元と考えるべきものは意志の直接の内容である人格的内容(作用と作用の直接の結合の内容、作用の作用の内容)の外にない。知の極は行の立場に至らねばならない。最高の真理は最上の善であると言うことができる。プラトンが善の理念をすべての理念の上に考えたのも深い意味あることだ。言うまでもなく知識はそれぞれの立場において真なるものだ。代数は代数の立場において真であり、幾何は幾何の立場において真であり、代数が幾何に応用されるや否やは前者(代数)の真理に何らの関係もないと考え得るだろう。しかし全知識の体系を離れてただ一つの抽象的立場において進むということは、無意義の遊戯に終わる外はない。一種の知識がその立場において純化されて行くということは、一見全体の統一を離れ行くように思われるが、その知識の本質が明らかにされると共に、かえって知識体系における統一が明らかにされるのだ。斯く知識が自律的に統一されて行くことが、その具体的根元に還ることであり、知識が客観的となることだ。言わば知識自身の道徳的善に従うことだ。例えば、解析幾何の如きものも単に便宜の為に起こったものではなく、両者(代数と幾何)の知識の根底における深い具体的統一の要求から起こるものと考えることができる。そしてかくの如き結合が具体的知識の発展として意味を有するには、代数は代数の立場において純化され、幾何は幾何の立場において純化されなければならない。知識にはそれぞれの立場を認めねばならないのだが、真理は無限に達することのできない内面的統一の理念の上において成立するのだ。真理の理念があって初めて知識の価値を認め得るのだ。知識の体系から離れた知識は、知識として無価値なものでなければならない。幾何はinvariant groups(不変群?)に過ぎないとは数学者の屡々口にする所だが、群の成立にはその根底に直観がなければなるまい。無論その直観は我々が眼にて見るという意味においての直観ではない。しかし知識そのものの目的は客観的となることであって、客観的となると言うのは総合的統一に達することであるとするならば、幾何学が真理として意義を有するには知識の目的から要求されるものでなければならない。知識の理念の顕現でなければならない。純なる数の立場からは、かかる構成は単に人為的と考えられるかもしれない。しかし群の中にいかなるsubgroups(部分群?)を有するかという如きことは、直観の指導に待たねばならない。単なる抽象的一般からは特殊化の原理は来ない。かかる結合は具体的統一の顕現に待たねばならない。それ自身において動的である一般者の発展によらねばならない。ここ(学問が動的一般者の発展によって成り立つこと)に特別のアプリオリを有する「学としての幾何学」が成り立つ理由があるのではないかと思う。幾何学を単に人為的と考える人はかくの如き内面的直観を認めないからである。力学の如きものでも、ヘルツの試みたように、完全に力という概念を除いて時間、空間、質量という概念を基礎として力学を構成するとすれば、力学のアプリオリは失われて、一見数学の応用に過ぎないと考えられるだろうが、力とは時間、空間、質量の概念の単なる結合ではあるまい。力学的関係という如きものが成立するのは、数そのものの概念から出ずると考えることはできない。ここにもやはり一つの先験的創造がなければならない。私は純粋意志の内面的体験なくして力の概念は成立し得ないと思う。我々は力の関係を分析して数学的関係に帰することができるかもしれないが、力とは単に数学的関係の人為的結合ではない。ある関係の総合統一が先験的なるか、単に人為的なるかを分かつのは、これによって一つの客観的世界が構成されるか否かを知ることによって明らかとなる。ある知識が単に応用に過ぎないか否かを検するには、その結合が他律的であるか自律的であるかを知るによって明らかにし得ると思う。統一そのものが生産的である時、我々はこれを単なる応用と見なすことはできない(先験的だ)。目的と作用が合一して、それ自身において無限なる一つの客観的世界を構成するのだ。右の如き意味において、幾何学や力学はそれ自身のアプリオリを有し、単なる応用の学ではないと考えるのである。
我々の知識の根元には、善の理念がある。目的的統一がある。知識が客観的となると言うことは、この根元に向かって進むことだ。古来学問の為に努力せし幾多の学者の行為が直ちに道徳的意義を有すると考えられるのは、この意味でなければならない。模写説の立場から言えば、知識の目的は知ろうとするものの完全なる相に達することだろうが、与えられるものは求められたものである(一般者の発展の過程である)という考えからすれば、知識の目的は構成作用そのものにあると考えることができる。知識の目的は知ること自身にあると考えることができる。そしてかくの如き主観的活動そのものが客観的対象であり、かくの如き客観的対象が文化的実在であって、真の道徳的行為というのは、かかる(文化的)実在の構成以外にあり得ないだろう。いかに抽象的な知識であっても、知識成立の深い根底において反省された時、すなわちアプリオリのアプリオリの立場(作用の作用の立場)からアプリオリ(作用)自身が反省された時、人格的意義がなければならない。知識の根底には深い自覚的体験がある。無限数の理解の如きものであっても、私は自覚の体験なきものはこれを知ることはできないと思う。真の無限は外に向かって進むことではなく、深く内に入ることだ。哲学の職務はかくの如き意味において知識の根底における人格的意義を明らかにするのである。アプリオリのアプリオリの立場からアプリオリを反省するのだ。ここに哲学の独立の領分があり、知識統一の意義があるのだ。哲学は「善の理念」の上に立っている。哲学は理性そのものの反省であり、知識自身の自覚である。知覚や感覚の根底に人格的内容を見出すことによって、それが芸術となるが如く、客観的知識の根底に人格的内容を見出すことによって、それが哲学となるのだ。知識は哲学となることによって、人格そのものと内面的に接触することができる。否人格の一要素を成すのだ。あたかも音楽的感情が抒情詩において内容そのものの美となるように、知識は哲学となることによって、知識そのものが善となるのだ。これにおいて形式と内容が一致するのだ。理性を離れて我々の人格はない。理性そのものの自覚は、我々の人格そのものを動かさなければ已まないだろう。真の道徳的行為といえば、人格そのものの変革より貴いものはない。街頭に叫ぶ社会主義者は人に食と衣とを与えるかもしれない。しかし人心を内から改造することはできない。知識はすべて実用から起こるだろうが、すべての他の文化財の如く、知識が純化されればされるほど、人そのものを変ぜないでは了らないだろう。耕作や航海の必要から起こった天文学は、ケプラーをして神を称えしむるに至ったのである。
それでは真と善は直ちに同一であるか。知識と道徳は相衝突する場合はないか。知識の根底に目的的統一(人格的内容)を信じ善の理念を信じる私は、多くの反対を予期しつつもどこまでも両者の一致を主張したいと思う。両者相背くように思われるのは、そのいずれかが抽象的一面に偏するによるのだ。抽象的一面に傾くということは、知識はその目的から離れることとなり、道徳は自己の目的に反しその本質を破壊することとなるのだ。人そのものの知識においては真と善は一致すべきものであり、単なる自然科学的知識は直接に道徳とは何らの関係もない。ただ自然科学的知識を以て直ちに人間を律せようとするとか、また単に学問の研究を唯一の目的として、これが為に義務を怠り他を犠牲とするという如き場合に、学問と道徳と相背くと考えられるのだ。しかし前者は知識の不完全に基づき、後者においては内容が衝突するのではなく、人生の他の要求を抑圧するのだ。すなわちある一つの要求に偏することが人格そのものの統一を破る時、それが悪と考えられるのだ。我々が社会の義務を忘れ人間の愛を捨てて、徒に学問や芸術に専一なる時、たとえそれがそれ自身に価値あるものとするも、我々の行為は道徳上非難を免れ得ないのだ。かかる場合、何故に我々は道徳上非難を承けねばならないのか。単にそれが多くの人の物質的要求の為ならば、それ自身に価値あるもの(社会奉仕や慈愛など)に従事することが、人としてかえって尚ぶべき仕事であるかもしれない。社会奉仕や慈愛が学問や芸術にもまして道徳的価値を有すると言うには、これらの行為そのものが価値あるものでなければならない。しかし我々はここに復前に言った矛盾に陥らねばならない。人の為にすることは、人の生活を安固にしこれの向上を謀ることに外なかろう。そして人間の向上といえば、学問芸術の如きものの外に求めることはできないだろう。いわゆる道徳的行為がこれらの文化価値(学問芸術の価値)以上の価値を有するとは、いかなることを意味するか。他の手段としてでなく、それ自身に価値を有するものは、自己の客観界を有するものでなければならない。創造的なものでなければならない。無内容なるものは他の手段となる外はない。独立なるものは、自己の中に関係を含み、無限に生産的でなければならない。価値即実在であるものでなければならない。そして一つの価値が他の価値の上に位し、他の価値がこれに服従すると考えられるには、前者と後者は目的的統一の上に立ち、前者は具体的全体として後者を包含するものでなければならない。道徳的善が最高の価値として他の文化価値の上に位するには、義務の為の義務とか愛の為の愛とかいうようなものではなく、他の価値の世界を総合統一する独立の客観界を有するものでなければならない。プラトンがフィレボスに言っている、非常に詩的な、ホーマの谷間Sammelplatz des hochpoetischen homerischen Mischbeckens(?)の如きものでなければならない。肉欲にも名利にも人間のすべての欲望に戸を開いて、しかもその背後に何れの欲求にも分析することのできない具体的統一の内容が見出されなければならない。我々が感覚的経験において合理的となるということは、感覚の構成を無視することではなく、これらの経験の総合統一の上において客観的である一つの世界を見出すにある如く、道徳的行為が合理的であるということは、禁欲論者の説の如く種々の欲望を否定することではなく、深く欲望の根底に透徹して、そこに自由なる客観的世界を見出すにあるのだ。これ故に(欲望の根底に透徹するが故に)道徳は歴史的内容を離れていない。自然を唯一の実在と考えるならば、道徳的行為の意義はなくなるのだ。カントが霊魂の不滅や神の存在を立てなければならなかったのも、道徳を完全に形式的に考えた故であると思う。我々の行為の一々があたかもLady of Shalottの物語においての如く、「時」の梭(ひ。機織りで、よこ糸を巻いた管を入れて、たて糸の中をくぐらせる、小さい舟形のもの)によって自然の具体的根元とも言うべき歴史の機に織り込まれるものとして、初めて厳粛なる当為の意義を有するのだ。カントの立場からすれば、かくの如き考えは※完全説と同じく道徳の自律性に背くものと考えられるのだろう。
※ 引用 完全説とは
しかし物の完全は人に対して他律的であるかもしれないが、我々自身の目的の内容、意志そのものの内容は他律的であるはずはない。形式的道徳はかえって主観的となる外ないのだ。我々の個人的人格が知情意の総和ではなく、かえってこれらのものが一人格の表現である如く、一代の文化は一つの客観的精神の表現でなければならない。真も善も美もここ(客観的精神、文化的精神)に基礎を有しなければならない。文化が成熟すればするほど、この統一が明らかとなる。ハンリッヒ・シュタインはギリシャの殿堂は、ギリシャの自然と生活が与えた高き人生の根から生えた様であると言っている。我々は単に生存するために生存するのではなく、我々は我々の隣人と共に、一つの文化の構成者として、互いに人格的価値を認め、互いに相敬し相愛するのだ。道徳的当為もこの見地から出て来るのだ。私はフィヒテの愛国的行動に対しては、固より無限の敬意を表するものではあるが、必ずしもエーナの街におけるナポレオン軍の砲声を聞きつつ静かにフェノメノロギー(現象学)を書きつつあったというヘーゲルを非とするものではない。いかなる行為が真に善なるかは歴史の批判に待たねばならない。物理的知識の真偽がプランクの言うように物理的映像の世界の統一によって試されるならば、行為の善悪は意志の客観的対象界である歴史的実在の世界において試されなければならない。道徳の客観性はこれによって立せられるのだ。これ故に道徳の第一義は徒に因襲に従って行為するにあるのではなく、文化的精神の深い洞察にあると考えざるを得ない。善意は、文化的精神に対する謙遜にして公平なる理解を条件とするのである。
論じ来った如く、知識の根底には目的的統一(人格的内容)があり、知識はその具体的根元に還ることによって、人格的内容に到達せねばならない。そしてかくの如き人格的立場における知識自身の自覚が哲学であるとすれば、我々の知識は哲学において芸術や道徳と結合しなければならない。芸術においては自然の描写も単に外物を写すのではなく、その本質を成すものは人格的内容であり、人間を対象とする芸術に至っては、それが美であると共に真であると言った如く、純粋なる論理的科学者の仕事も外における自然の描写ではなく、それ自身が人格的構成作用でなければならない。そしてかかる知識がそれ自身において自覚した時(人格的内容を自覚した時)、それが哲学として情意の要素を帯びて来なければならないのだ。知識はその極において行為に接しなければならない。そしてかかる方向は知識が他律的となるのではなく、自己自身の目的に向かうことだ。すなわち知識が自己の内容を特殊化して行くのだ。一般から特殊に到るのだ。知識はこれによって自己の客観性を得るのだ。知識は特殊となるに従って動かし難い客観性を得るのだ。事実感の根拠はこれにあるのだ。真理と生命と結合することによって何の得る所もないと言い得るだろう。代数が幾何と結合されえると否とは代数の真理に何の関係もない。力学と実験的事実との間においてすら斯く言い得るでもあろう。しかし私はカントが内容なき思想は空虚であると言った如く、我々の思想が客観的真理となるには、直覚と結合せねばならないと思う。単なる抽象的真理は超越的主観の夢にすぎないのだ。真理は何人も認めねばならぬものではあるが、普遍的たることを要しない。知識が一般的妥当性を得るということは、深く自己の中に入って超越的意志(直覚=目的的統一?)と結合することだ。具体的真理はかえって特殊化的統一の方向に求めねばならない。いかなる知識も最も深い意味における生命の統一(目的的統一=人格的内容)においてのみ、真の客観性を得ることができるのだ。芸術が哲学を要求する如く、哲学もまた芸術を要求せねばならない。具体的精神は哲学においてその知識を有すると共に、芸術において情を有し、道徳において意を有するのだ。哲学が深い生命の統一に入り、これを表現することによって、あたかも力学が経験的事実と結合することによって得る如き或物を得ると思う。この或物こそ、芸術としてその表現を求め、道徳としてその実現を求めるものだ。知識は具体化されることによって、単にその例を見出すのではなく、具体化の方向においてのみ、その新たなる発展をなし得るのである。直覚なくして知識の発展はあり得ない。我々の行為の統一である道徳が、文化の具体的統一であり特殊化の形式であるとすれば、芸術も哲学もこの立場において結合し統一され、この立場において無限に新たなる内容を得来るのだ。道徳的に純なる性格のみ、少なくも道徳的に純なる時のみ、哲学や芸術において創造的であり、真に新たなる生命の内容を捉えることができるのだ。義務の為に義務を行えと言い、汝の格率が一般的法則となる如く行えと言うも、かかる行為の立場に純なることを求むるの意味でなければならない。
私は前に音楽の如きは単に感覚的と考えられるが、芸術においても抒情詩の如きものは既に思想の内容が自分を維持しつつ、しかも芸術的たることを失わない。特に戯曲の如きものに至っては、人生問題そのものが芸術の内容となることができると言った。音楽や絵画において思想の内容をそのままの形において混入するは、これらの芸術そのものを破壊するものであろう。マックス・クリンゲルの言う如く、画家の理念は身体の位置に適する形の発展、空間との関係、色の配合等であって、それがエンディミオンであろうとペータであろうとは問う所ではない。抒情詩の如きものでも、詩の美と内容の真偽は混同すべきではない。しかし感覚というのは普通に考えられる如く、爾(そのように)、反思惟的のものではない。単に非合理的な所与ではない。心理学者のいわゆる感覚の如きものならば、それから何らの芸術も出て来ようはない。感覚が「知覚の予料」の原理に当てはまって知識の材料となり得る如く、それが更に深い「意志の予料」の原理に当てはまって、初めてそれが芸術の材料となると言うことができる。そして斯く自由我(作用の作用)の対象となるということは、音や色や形の感覚の更に深い具体的根元に還ると言うことでなければならない。自我の根底(人格的内容)に透徹することでなければならない。直覚的と考えられる芸術の内容について、右の如く考え得ると共に、概念的知識の根底においても、人格的内容を認めねばならない。上に言った如く哲学は知識の自覚である。哲学において概念的知識は芸術的となるということができる。無論感覚的芸術においては知的内容は何らの権威も持たない。知識の客観性は問題ではない。これに反し、知的内容の客観性を無視した哲学は、哲学ということはできない。しかし音楽よりも抒情詩、抒情詩よりも戯曲と、知的内容そのものが直ちに芸術的となると考えることができる。知的内容そのものが芸術的となるのみならず、人間そのものを対象とする芸術においては、真がすなわち美であるとも言い得るだろう。私は右の如き芸術的真の極致において哲学的真に接するとも考えるのである。無論斯く真と美を同様に考えるのは、多くの異論のあることだろう。しかし偽にして美なるものはない。不純なる目的から成れるもの、技巧の末に走れるものは、いかに巧妙であっても、我々はこれに芸術的価値を認めることはできない。真に美なるものは、その根底において何らかの意味において動かすことのできない客観的或物(目的的統一、人格的内容)に撞着するものでなければならない。芸術の写す所はいわゆる事実的真でないことは言うまでもない。芸術は元来概念的である事実的真理を写すことを目的としているものではない。(芸術において)すでにこれ(事実的真理)を目的としないで、これを写さないと言うのは偽ではない。偽を自白した偽は偽ではない。これに反し神話や童話の中にも多くの深い人情を含んでいる。我々はこれらのものの中から、歴史の中からよりも、永遠なる人世の真理を見出すことができるのである。無論かかる意味において真と感じられるものは、いわゆる事実的真でもなければ、また必ず従わねばならない因果的法則でもなかろう。しかし我々はその中に、いわゆる真理において感じる如き客観的な或物を感じざるを得ないのである。芸術においては表現そのものが真理だ。技術そのものが真理でなければならない。そして表現手段となる材料が感覚的なものから表象的なものとなり、概念的なものとなるに従って、芸術的内容と知的内容が相接近して来る。カントの意識一般という如きものも、単なる総合的意識ではなく創造作用でなければならない。超越的自己の本質はフィヒテの言う如き超越的意志(創造作用)でなければならない。知識の前に行為(直観)がなければならない。ヒルデブラントはその有名なる「形の問題」において、我々の純粋視覚は視覚的因子と触覚的因子との結合であって、常人においてはこの要素間の関係が明晰を欠いているが、これを真に能く結合するのが芸術家の職務だ。そして彫刻家は触覚的要素を材料としてこれを視覚的に統一し、画家はこれに反し視覚的要素を基としてこれに触覚的要素を加えると言っている。画家や彫刻家の対象とする空間とは、我々が概念的に考えた空間と同一ではない。フィードレルが純粋視覚の立場において無限なる展望が開かれると言う如く、かくの如き空間はフィヒテの事行の如き無限なる行為でなければならない。作用が対象の束縛を達して自由となり創造的となるのが、我々が人格的に自由となることであるとするならば、かくの如き行為(芸術的行為)も道徳的行為の一つと言うことができるだろう。ヒルデブラントは自然が与える無限の質料の中からいかなる因子を択ぶかは、芸術家の個性によるとしても、芸術家はいつでも視覚的要素と触覚的要素との間に存する法則に従わねばならないと言っているが、芸術家の目的とする所は単にかかる客観的関係ではなく、物の形にあるのだ。そしてかくいう物の形とは単に一般的なものの形ではなく、個性を持った物の形でなければならない。すなわち一つの個性的実在でなければならない。この個性はこれを物の個性と言い得ると共に、また芸術家の個性をも言い得るのだ。芸術的作品を芸術家の個性の表現として見るのは、この意味でなければならない。色や形に種々の連想が加わって来るというのも、この立場においてでなければならない。薔薇の香りを嗅いで舊知(きゅうち。古くからの知り合いのこと)の記憶を想起するのではなく、薔薇の香の中に舊知の記憶を嗅ぐのだ。芸術の内容が感覚的内容と離すことのできない関係を持っていると考えられるのは、これによるのだ。画家や彫刻家の真理というのは、純粋視覚の世界における無限なる個性的真理でなければならない。そしてかくの如き事実的真理が成立するには、意識一般の立場に準る(なずらう。見立てる、比べる)べき純粋視覚一般の立場とも言うべきものを考えねばならない。芸術的作品はこの立場の上に立つ実在として、総てが一つの体系に結合され、一つの世界を構成するのだ。芸術史はこの世界の発展を顕すものでなければならない。かくの如き「時」の概念を含まないものを事実の世界とするのは不当と言うかもしれないが、「時」とは具体的一般者の内面的発展の形式に過ぎない。いわゆる事実の世界の基である「時」も、かかる形式の一般的なるものと考え得るだろう。我々がある芸術作品に対し美と感じる時、単にこれに対し快感を持つのではなく、その中に客観的生命を感じるのだ。純粋視覚の世界における真理を見出すのだ。この意味において美はすなわち真だ。いわゆる意識一般の立場において歴史的真理を見出すのと同様だ。非概念的なるものを真理といえば種々の疑問が起こるだろうが、真理は単に概念的関係によって成立するものではなく、概念的真理の根底にはいつでも創造的直観がなければならない。この創造的直観の性質によって、種々なる意味の真理が成立し得ると考えることができる。無論歴史において美なるが故に真であると言うことはできない。また真なるものが直ちに美とも言われない。しかし我々が歴史的真理の背後に宇宙的生命を感じる時、我々はこれに対し一種の美感を持つことができる。それがいわゆる宗教的感情だ。歴史的真理が宗教的内容に対する関係は、あたかもヒルデブラントのいわゆる視覚と触覚との両因子間の関係と芸術的内容との関係の如きものと考えることができると思う。宗教的感情によって歴史的事実を曲げてはならないのは、画家や彫刻家が感情によって物の形を曲げてはならないのと同様だ。我々はあるがままに真理を見なければならない。一切の虚偽は美を破壊し、神聖を汚すものだ。何らの予想なく、物の形をありのままに見ることが美である如く、歴史的事実をありのままに見る所に宗教的感情がある。真正なる宗教的感情というのは絶対に謙遜なる心持ちである。完全に自己を擲った(なげうった)心持ちである。知識的自己を棄てるのみならず、情意的自己をも棄てねばならない。自己の全人格を放擲した所に、神聖なる宗教的感情が現れて来るのだ。真理を知る時、我々は自己を棄てて真理そのものに従わねばならない。芸術的に物を見ると言うことは、自己を物そのものの中に没することでなければならない。共に自己を棄てて客観そのものに従うのであるが、学問は情意を統一する能わざるが故に主観的であり、芸術は知識を統一する能わざるが故に主観的だ。いずれの意味においても客観的となる時、そこに宗教的感情を生じるのだ。芸術的感情と宗教的感情は往々同一視されるのだが、宗教の対象は実在でなければならない。宗教的感情の中には実在感を含まねばならない。宗教は単なる鑑賞や享楽ではなく、深く真理の憧憬と真摯なる実行とを含まねばならない。宗教は屡々反理性的と考えられるが、正法(しょうぼう。仏教における、正しい教え)に不思議なしと言われる如く、反理性的なる宗教は迷信に過ぎない。多くの宗教家にありがちな真理の探究を軽んじることすら、既に宗教的謙遜の情に背くと思われるのだ。
心理学者が往々太陽の表象は輝かないと言う如く、感覚と表象と、表象と概念との間には超えることのできない相違があると考えられるのは一面の真理であるが、全き真理ではない。芸術の対象としての空間と幾何学の対象とする空間とは、狼星(おおいぬ座のシリウスの漢名?)と犬との如き相違はあるかもしれないが、私はその本質において何らの関係もないものではないと考える。右の如き考えは、感覚、表象、思惟の作用が根本的に異なっているという前提の結論として起こるのだ。ブレンターノの考えのように作用の性質はその内在的対象の性質に基づくと考えるならば、我々は赤を見、赤を想起し、空間を見、空間を考えるという時、作用そのものの間に何らかの内面的関係がなければならない。自然現象においては、かかる意味の連続は実在的には何の意義も有しないかもしれない。しかし意味即実在である精神現象においては、同一なる語(上記で言えば、「赤」「空間」)によって表される意味の連続には実在的連続の意義があると考えることができる。かかる場合、言語は思想の直接な表現として、単に考えられた心理作用以上の意義を持っている。普通には、時間において消滅する我々の精神現象が身体の空間的統一によって結合されると考えられるのだが、私は心理的に分かたれた種々なる作用の統一は、これらを超越する表現的統一によって結合されるのであると思う。意味とか実在とかが客観的であるというのは、種々なる作用の変化を超越すると言うことだ。我々が赤を感覚し、表象し、想起し、思惟する時、客観において一つに結合していなければならない。赤の表象と赤の概念とは異なると言い得るだろう。しかしかかる考えに固着すれば、同じ感覚であっても、時々刻々に移り行く作用によって変ずると考えねばなるまい。斯くては遂に客観的対象なるものの成立しようはない。客観的対象は作用によって変ずると考えられると共に、赤は赤としての自己同一性を有さねばならない。作用によって変じない対象が、ある一つの作用の対象として考えられた時、他の作用からは「単に客観的」と考えられる。我々が普通に客観的と考えるものは単なる思惟の対象界であって、これに反し作用の変化を通じて連続する客観的対象界は、作用の作用の対象界として表現の世界となるのだ。これ故にこの立場(作用の作用の立場、作用を統一する作用の立場)において、我々は感覚的なるものの中に概念的なるものを見出し、概念的なるものの中に感覚的なるものを見出すのだ。意味と実在とが結合するのだ。我々はある物を見、その物を想起し、その物を考えると言い得るならば、我々はそこに作用の作用の対象界、表現作用の対象界を認めねばならないだろう。言語から芸術に至るまで、皆この立場において成立するのだ。芸術はこの方面において感覚の本質である理想的なるもの(目的的統一、人格的内容)に到るのだ。感覚が「知覚の予料」の原理に当てはまるというのも、この立場においてでなければならない。
感覚の世界の本質に入っていくと言うのは、思想の世界と別の世界に入って行くことではない。音楽家が音において自由なる時、彼は音楽的思想の世界に入り込むのだ。単なる音ではなく、無限なる記憶を含み、無限なる思想を含む世界に入り込むのだ。モツァルトやベートヴェンおいて音楽的精神が詩から独立した言われるが、運命との奮闘を歌えるベートヴェンの音楽の如きは、深い哲学的思想と英雄的精神とに富むものならでは能くし得ない所だろう。無論音楽的思想などいう語そのものすらある一部の人々の反感を招くことだろう。しかし芸術に深く進むということは、無意識となることではない。真に感覚を知るものは感覚に捉われた人ではなく、これを脱し得る人だ。自由に感覚を用い得る人だ。自由我の立場に立つ人でなければならない。一つの物を感じ、想起し、考える立場の上に立つ人でなければならない。この立場(作用の作用の立場)に入ることによって、感覚が無限の記憶や思想を含み得るのだ。絵画についても、マックス・リーベルマンの如きは善き画はただ善く考えられた画である。いかに形が正しく、色が美しくとも、内面的なるものが欠けていれば、ただ描かれた布に過ぎないと言い、想像によって初めて画布が生きるのである。創造は画家の指の先まで充ち満たねばならぬErst die Phantasie kann die Leinwand beleben, sis muss dem Maler die Hand fuhren, sie muss ihm wahren Sinne des Worts bis in die Fingerspitzen rollen 【Max Liebermann, Die Phantasie in der Malerei, S. 21】と言っている。無論種々なる芸術の根底に含まれたる本質と、いわゆる思想とを直ちに同一視すべからざるは言うまでもない。レンブラントは弟子のいかにして描くべきかという問に対して、まずビンゼルを取って試みよと言ったというように、画家の思想はビンゼルを離れてない。芸術家は彼らのテクニックによって考えるのだ。そこに一々の芸術的思想の他によって表すことのできない特徴があると共に、その局限性もまたここにあるのだ。言語においてのように表現手段が自由となればなるほど、深く大きく思想の世界を表現することができるのである。ベルグソンの哲学において、一つの生物的生命の流が種々の形を取ると考えられる如く、我々の精神的生命も種々なる形を取るのだ。そして種々なる生命がそれぞれの価値を有すると共に、ジラフ(キリン)の頸骨の数も鯨の頸骨の数も同一と言われる如く、どこまでも一つの生命の流たるを失わない。建築や音楽に比して、詩は思想として自由なるが故に、芸術として勝ったものであるというのではないが、精神的生命全体の具体的統一である文化生活の上において、自らそれぞれの異なった意義と、定められた位置のあることを認めざるを得ない。我々の人格が単に種々なる作用の結合でないかぎり、我々の生命が単なる変化でないかぎり、一つの中軸と方向を有すると考えざるを得ない。
我々の自我は或物を見、或物を聞き、これを想起し、これを思惟し、これを欲し、これを動かすものだ。かくの如き自我に対する対象は見られ、聞かれ、想起されると共に、思惟の対象となり、行為の対象となるものでなければならない。斯く種々なる対象界を統一するものこそ、我々に与えられた最も具体的な統一だ。我々の見るもの、聞くものが真の実在ではない。真の実在は思惟の対象でなければならない。否、単に思惟されたものもまた実在ではない。真の実在は経験内容と結合したものでなければならない。しかしいわゆる知識の対象界は未だ真に与えられた具体的実在ではない。一般的であるかぎり、抽象的であるかぎり、いかにとも考え得る世界だ。動かすことのできない唯一の具体的なる実在は、現実の意志によって定まって来る。しかもその意志は単に超越的意志(直観、創造作用?)というごときものではなく、内容を持った特殊の意志でなければならない。我々に取って動かすべからざるものは、現実の意志である。なぜなら、現実の意志はすなわち自己であるが故だ。現実の意志の対象たるもの、否、現実の意志そのものが、すべての対象界に出入してしかも連続的となる。すなわち種々の対象界を統一する具体的実在である。現実の意志において主客合一し、我は行為の立場の上に立つのだ。私が絶対意志の立場というのも、これに外ならないのである。斯くの如き現実的意志の対象である真実在に入って行くことが、芸術的活動だ。この実在に入るには、全身を打して一団の力とならねばならない。全身が一つの活動とならねばならない。真の現実というのは、空間時間の形式によって限定された一点ではなく、かえって意識一般を内に射影したものだ。経験そのものの中に無限なる理想(目的的統一、人格的内容)の進行を蔵したものだ。特殊的統一、個性的統一というのは、統一を無限なる行衛(ゆくえ)において見るのだ。画家は筆を取らずして徒に考えるべきではない。筆を取ってカンパスに向かう時、いかに描くべきかが明らかになって来る。無限の行衛が開けてくる。そして私はこの途を進み行くことによって、道徳的世界に到達すると考えるのだ。道徳は抽象的な一般の法則(自然法則など)から出立すべきものではない。芸術と同じく現在の事実から出立するのだ。見られ、聞かれ、考えられ、欲せられる全実在の中に深く入って行くのだ。道徳は芸術や学問や種々の欲求と離れたものではない。これらの物の根底に無限に深く進み行くことだ。いわゆる道徳的社会現象というのも、かくの如き道筋の上に現れて来るのだ。現在の自己からしては、現在の自己の要求を直ちに満足すべきだろう。しかし過、現、未を統一する自己の立場からしては、我々は異なる要求を持たねばならない。知識の方において感じられるものから想起されるものへ、想起されるものから考えられるものへ入り込む如く、衝動の方面においても、かかる実在の方向に進む時、いわゆる道徳的社会現象が現れ来るのだ。すべてそれ自身に独立な実在は、一方において統一であると共に、一方において無限の分裂、無限の発展だ。自己自身の中に無限の矛盾を蔵しているのだ。否矛盾そのものが統一となるのだ。具体的実在における統一の方向が芸術的直観となり、その分化発展の方向が道徳的当為となる。芸術的直観も道徳的意志も共に現実から出立するのだが、道徳的意志はかかる方向において、その最終点に達しようとする無限の努力たる点において、芸術的直観と相反している。そして道徳の最終点における統一は、もはや芸術ではなく宗教でなければならない。宗教は知識を超越してしかもこれを内に含み、道徳を超越してしかもこれを内に含む。これ故に宗教は一面において芸術に似通うと共に、道徳の如くどこまでも厳粛であり、実践的である。
社会と個人
ある人は現在の社会そのままを直ちに倫理的価値の顕現であるかのように考え、ある人はこれに反し倫理的価値の基を完全に個人の要求に求めようと務める。社会と個人との関係は倫理学上大切な問題と思われるのだが、単に多くの個人の集団であるが故に社会が倫理的価値を生じるはずもなく、また心理学的個人が直ちに倫理的価値の基礎となるのでもない。いわゆる社会と言い、個人と言い、共に知的対象の世界に写されたる心理学実在の区別に過ぎない。倫理学上真に意義ある根本的対立は、存在する物と物(心理学的実在)との間の区別ではなく、自然と自由との対立でなければならない。論じ詰めれば作用(自由)と対象(自然)との対立と言い得るだろう。社会に対してそれ以上の権威を有する個人は、心理学的個人ではない。(個人とは)いわゆる個人の心の奥に細める自由の人格でなければならない。かかる人格的内容の発露として、改革者も道徳的価値を有することができるのだ。斯く言い得るならば、真に道徳的価値を負うものは、身体に結合する自我ではなく、一瞬一瞬における自覚的行為でなければならない。時の上には一瞬一瞬に跡形もなく消え行くと共に、時を超越して永遠に現在である自我でなければならない。この自我から見ては、いわゆる個人と社会との区別は、同一の平面上における円の大小の差に過ぎない。
我々の自己は一方において認識対象界である自然に属すると考えられると共に、一方において直ちに絶対自由の意志(作用の作用)に結合している。ベーメのように、汝の立つ処、行く処、皆天ありと言うことができる。心理学者も我々の意識は衝動から始まると言うが、単に与えられた感覚の如きものでも、具体的感覚としては、その背後に超越的或物(人格的内容)を認めざるを得ない。単なる手の運動の意識の如きもの(有限)の背後にも、分析し尽くすことのできない超越的或物(無限)がある。有限の中に無限を蔵するということが意識そのものの本質でなければならない。そしてかくの如き超越的或物(無限である人格的内容)が顕現的となった時、すなわちそれが自覚的となった時、我々の思惟作用となると考えることができる。斯くして我々の思惟が自然の立法者と考え得るのだ。しかし思惟作用においては、我々の自己はなお対象に束縛されている。我々は思惟の対象を超越することによって、初めて創造的である自由我(作用の作用)の世界に入ることができる。道徳的義務の世界に入ることができる。そして感覚的経験の背後に既に人格的内容が含まれており、感覚的経験はこれによって成立すると考え得る如く、思惟の対象界の背後に人格的内容が含まれていると考えることができる。知識我の根底に意志我があると考えることができる。我々の経験界は純粋自我(知識我?)の統一によって成立すると言うが、実在界を構成する自我はいずこへかの傾向を持っていなければならない。何らかの目的を持っていなければならない。斯くして唯一の実在界が構成されるのだ。「時」が図式として実在界を構成すると言うが、「時」は何かの方向への流(動的)でなければならない。そうでなければ(静止的な)空間との区別はない。「時」が想像作用の形式であるとすれば、図式「時」を形式とする想像作用は、受動的想像作用ではなく能動的想像作用でなければならない。実在の構成作用としての能動的想像作用は、かえっていわゆる抽象的思惟の判断作用を含むと考えることができる。後者(抽象的思惟の判断作用)よりも前者(能動的想像作用)が(後者の立場を内包するため)一層具体的な立場と考えることができるのだ。そして意志はかくの如き能動的想像作用を材料として、これを統一する最高の立場だ。無限なる能動的想像を統一して、これに唯一の方向(目的)を与えるものは意志だ。心理学的に考えても、意志決定の場合には、我々は先ず能動的に種々の場合を想像し、意志はこれを選択し決定するのだ。能動的想像作用は意志の一部分と言ってよい。斯くして、その統一によって実在界を認識すると考えられる純粋自我の根底に、知識我を超越してかえってこれを内に含むと考えるべき自由我を認めざるを得ざるべく、そしてかくの如き超越的意志(自由我)の立場が既に感覚的経験の背後に含まれるものとして、我々の意識はすべて自由意志の立場において成立すると考えることができるだろう。感覚的経験と結合することによって、知識が真の客観性を得ると考えられ、事実的知識が思惟以上の権威を有すると考えられるのもこれによるのだ。現前の事実が非合理的として絶対の権威を有すると考えられるのは、所与的材料としての偶然性によるのではない。絶対自由の自我自身の限定であるが故だ。現実は絶対意志が自己を写す焦点であり、歴史の進み行く道筋だ。現実に与えられたものは、動かすことができないと考えられると共に、我はただ現実においてのみ自由と感じられるのはこれによるのだ。現実に赤きものを青しと言い、暑きものを寒しと言うことはできないだろう。しかし我々は現実において、どこまでも赤きものの中に自己を求め、暑きものの中に自己を求めることができる。赤きものの青からんことを欲し、暑きものの寒からんことを願うものも自己ではあるが、赤きものを赤しと見、熱きものを熱しと感じるものもまた自己自身に外ならない。自己の矛盾を意識することは、同時に統一の可能を意味している。現実における自己の無限なる自由を証明しているのだ。
某年某日某所に生まれ、いかなる容貌といかなる性格を有し、いかなる発展を成し、いかにして死するという如き自己は、考えられた自己だ。斯くの如き考えられた自己は、その知識対象である点において他人の自己と異なる所はない。ただ、これを他人の自己と区別する所のものは、かくの如き時間的現象の背後における個性的統一と、現実に働きつつある自己との内面的連結に外ならない。かくの如き場合における内面的連結とは何を意味するか。それは知る者が知られるものであり、働く者が働かれるものであり、知ること(対象)が働くこと(作用)であり、働くこと(作用)が知るということ(対象)でなければならない。真の自我の立場においては、客観的対象が直ちに主観的作用となり、主観的作用が直ちに客観的対象となるのだ。空間時間を超越した自我は抽象的概念に過ぎないのは言うまでもないが、自我は一面において時空の世界に属すると共に、一面において空間時間を超越した永遠なる理念の世界に属すると考えられねばならない。自我の特殊性は一般(時空の世界、自然界)を内に含む特殊性だ。我々の自己はいかなる対象界(一般)をも自己の中に含み、無限に深く自己の中に入り行くという意味において、超越的である。具体的自我は意識一般の立場を自己の中に含んでいるのだ。かくの如きことは論理的には矛盾であるかもしれないが、かくの如き矛盾が我々の意識成立の条件であり、自我の本質であるのだ。特殊(自我)を離れた一般(対象界)には生命はない。一般(対象界)を離れた特殊(自我)にも生命はない。特殊と一般と相触れる所に真の生命があるのだ。特殊の中に一般を含む時、それは自ら発展するものとならねばならない。すなわち意識的とならねばならない。内面的に矛盾すればするほど(特殊の中に一般を含めば含むほど)、意識が明らかとなると考えることができる。我々の自己意識は、ただ超越的意志(自由我、作用の作用)の自己実現点として生じるのだ。この故にどこまでも特殊であり現在だ。我々の自己は意識一般の対象界(自然界)に生まれるのではなく、意識一般は自己発展の過程に過ぎない。ヘラクレイトスが夢において各人の世界に還ると言った如く、我は物の世界に生まれるのではなく、我は先ず夢の世界に生まれるのだ。各人に共有なる客観的世界は、かえって抽象的主観によって成る非実在的世界たることを免れない。我々は何時でも現実の意志を中心として実在界を考えているのである。
道徳は通常、我と汝との間にのみ存すると考えられるのだが、私は我と我との間にも道徳的関係というべきものがあると思う。私が他人に対して義務責任を有するように、現在の私は私自身に対して義務責任を有すると思う。我々が我々の祖先に対し、我々の子孫に対し責任を有する如く、現在の自我は過去の自我に対し、未来の自我に対し道徳的責任を負わねばならないと思うのだ。我々が認識対象界(自然界)を超越し、自己自身において自由となることによって、換言すれば意識一般の立場を内に含み、無限に創造的となることによって、初めて道徳的立場の上に立つことができる。すなわち道徳的意志の対象界に入ることができる。道徳的意志の対象界は、言うまでもなく自由なる人格と人格との関係の世界だ。自由なる人格は他の自由なる人格を認めることによってのみ、自ら自由の人格となることができる(一つのみの人格は人格となることができない)。そしてかくの如き人格的関係は、いわゆる個人的自覚の意識の中において、既にその基礎を有すると思う。我々の自覚的意識においては、一々の作用が純なる作用の連結として、働くことがすなわち知ることであると言い得る如く、我々が現在における自己を自由と認める自由意志の意識、すなわち自由我(作用の作用)の意識の根底には、無限なる自由意志の人格的関係がなければならないと思う。意識の根元には道徳的社会があると言うことができる。我々は単なる知覚的意識の立場にある時、思惟の立場は現れていない。動物の本能的生活と言う如きものは、単なる知覚的意識の連続とも見られ得るだろう。しかしある作用が発達していないと言うことと、それが本質的に含まれていないと言うこととは同一ではない。いかなる知識的意識であっても、意識は衝動的と考えられる如く、理想的なるもの(人格的内容)を含むと考えざるを得ない。意味即実在は意識成立の条件だ。そしてかくの如き意味の自覚が思惟だ。しかし思惟は自ら働くものではない。思惟の根底にはこれを動かすものがなければならない。すなわち意志がなければならない。意志は思惟を動かすものだ。意識現象は自動的なることによって、すなわち意志を根底とすることによって、自然物以上に深い実在性を有することができるのである。仮にも精神現象が精神現象としてそれ自身の実在性を有するには、たとえ、それが衝動的意識の如きものであっても、その根底に自然科学的因果律に分解することのできない人格的或物(人格的内容)がなければならない。我々の意識は自らの中に始まり自らの中に終わるものでなければならない。ここに意識の独立と自由があるのだ。そしてかくの如き意味において意識の中心となるものは現在の自由の意識であって、某年某日に生まれ某年某日に死する自己(考えられた自己)ではない。意識現象は特殊なればなるだけ、一般をその中に含むと言うことができるのだ。
我々の時々刻々の意識を一々自由なる人格の作用として、いわゆる個人的意識の根底に一種の社会的組織を考え、かくの如き立場から、いわゆる個人的意識内の関係と個人と社会の間の関係との間に、絶対的区別がないと考えるには、多くの疑問を生じるだろう。しかしいかなる考えが、自己の意識と他人の意識を、完全に性質を異にするものと考えしめるのだろうか。我々は自他の区別を、常識において考えられるように、単に身体の空間的区別に求めることのできないのは言うまでもない。単に意味そのものの立場から見れば、我々は直ちに他人の思想感情と直接結合し得ると考えられると共に、二十我(二重人格?)の現象において見られる如く一つの身体に二つ以上の我を有することもできるのである。もし純粋に心理学的に自他の意識の区別を求めるならば、我々はこれを自己同一の内面的感情に求める外はない。しかし自己同一の感情の本質が普通の心理学で考えられるように、有意的行為(意識的な行為)に伴う有機感覚の如きものならば、いかにそれが不変と思われるにしても、それは単に(感覚の)類似の強度に過ぎない。本質的に何処にも自己同一を見出すことはできない。斯く考えるならば、真の自己同一はいかなる意味においても、いわゆる現象界(自然界)に求めることはできない。「汝は為さざるべからず故に能くす(為すべきであるが故に行う)」という道徳的当為の上においてのみ、初めて真の自己同一の本質を見出し得るのだ。かくの如き信念(当為)は、知識の立場からしては単なるポストゥラート(公準。基本的前提として必要とされる命題)という外はなかろう。ただ我々に直接である自由の意識によって自証し得るのみだ。そしていわゆる知識というのも、この立場によって確立し得るのだろう。ポストゥラートといえば人為的と考えられるかもしれないが、「我がある」というポストゥラートはすべての客観的知識の根拠となるのだ。この立場において我々は時間空間の区別を超越すると共に、認識対象界に映された自他の区別を超越すると考えねばならない。いわゆる個人的意識は完全に断続的であって、一瞬の前にも還ることも不可能と考えられるが、社会的意識においては独立の意識が共存的であると考えられるだろう。しかし単に対象化された意識内容から論じるならば、我々は想起によって自由に過去の意識を想起するとも考え得るだろう。また我々が二つの意識内容を比較し判断する時、我々は二つの意識を並列的(共存的)に見ると考えることもできる。一つの意識ということを、いかに定義すべきかは困難である問題だが、意識を精神的複合物の連結というように考えれば、個人的意識において二つの意識の共存を考え得るのであるが、意識現象はいかなる場合においても、総合的全体として一つであるという考えからすれば、いかなる場合にも二つの意識の共存ということは許し得ない。要するに我々の意識は多即一である活動概念Aktualitatsbegriff(実在概念)によって成立し、意識が何時でも一であるというのは、意識成立の範疇に基づく論理的形式的要求(論理的当為)であって、自然科学的に認識し得べき経験的事実ではない。経験的事実としてはただ(有機感覚の)類似あるのみだ。従って経験的には、我々は反省され対象化された意識内容の雑多と、その全体を包容する一つの共通的内容を見るのみだ。そしてかかる立場(経験的立場)からは、いわゆる個人的意識と社会的意識との相異は物質的に身体が別であるという外、単に統一の程度的区別を認め得るに過ぎないではなかろうか。我々は普通にある個人が意識しているという時、その背後に一つの精神的統一が働いており、二人の人々が話している時、かくの如き統一(一つの精神的統一)がないと考えるから、個人的意識と社会的意識は完全にその性質を異にすると考えるのだが、いわゆる経験的対象としては、個人的意識の背後にもかかる統一(一つの精神的統一)はないのだ。それでは、認識対象となることのできない、しかも我々の意識成立の根底となる我々の自我は、カントのいわゆる純粋自我(知識我?)の如きものであるかと言えば、もしかくの如きものであるとすれば、我々は単に一般的な自己を認めるの外なく、各人の自我の区別は完全に無くならねばならない。ただ超自然的統一である自己の実現、すなわち超越的因果律transzendentale Kausalitatという如きものがあって、初めて個別我を認め得るのだ。我々の個別的自我の概念は一に自由意志の信念に基づくのだ。これ(自由意志の信念)を離れて自我の唯一性の根拠を論理的に求めることはできないのだ。これ故にラィプニッツのモナドのように自他が互いに窓なき唯一の実在性を有し、相対立するには、当為を本質とする意味即力の世界がなければならない。個性的統一によって成る歴史的実在の世界の如きものがあって、初めて真に各自の自我の唯一的実在性が考えられ得るのだ。そうでなければ、単に類似的である精神現象と超越的である一般的価値あるのみだ。個性というのは対象化することのできない無限の当為の統一であって、かくの如き個性の世界は、当為の当為(当為の根元)である道徳的アプリオリの立場において成立し得るのだ。個性的実在があって道徳的要求が起こるのではなく、かえって道徳的要求があって個性的実在の世界が成立し得るのである。
右の如く考えるならば、独立の人格的実在として人と我を区別するものは、自他の意識は同時的に対立し、自己の意識は時間的に連結するという如きこと(論理的形式的要求)ではなく、ある理想的内容(目的内容)の実現の可能の範囲でなければならない。そしてかくの如き自由の中心は何時でも現在の自由意志にあるのだ。我々は他人の自己に対する如く過去の自己に対して自由を有しないのみならず、未来の自己に対しても自由を有し得ない。未来の自己に対する自由は現在における自由の決心あるのみだ。これに反し、我々は道徳的示唆によって、内面的に他人の自己を動かし得るとも考えることができる。それでは、かくの如き世界において自他の関係はいかに考えるべきか。道徳的世界においてはカントのいわゆる「目的の王国」においてのように、各人が互いに自由である独立の実在となればなるほど、互いに相結合するのだ。各人格が唯一独立の実在となるということが、各人が互いに一つに結合することだ。そして私は道徳的社会を構成すると考えられる、かくの如き道徳的アプリオリが、既に個人意識成立の基にあると思う。我々は普通に自覚のない意識というようなものがあると考える。例えば衝動的意識や知覚の如きものは、自覚のない意識と考えられる。しかし衝動的意識という如きものは、未だ個人的意識ではない。単に個人意識を構成する材料であるに過ぎない。かかる意識内容はその統一点の異なるに従って、誰の意識材料ともなり得るのだ。二重人格の現象において見られる如く、一つの経験内容が二つの人格的中心に結合されるのだ。我々が自覚の伴わない衝動的意識の如きものが既に個人的であって、ある一個人に属し他に属しないと考え得るのは、意識そのものの内容によって考えるのではなく、その背後に考えられる個体的統一によるのだ。物の統一によって心の統一を考えるに過ぎない。たとえ、それが本能という如き目的的統一であるとしても、なお外界から加えられた統一に過ぎない。この点においては、我々が経験内容を統一するため、その背後に物力を考えるのと異なる所はない。共にその統一は他の自覚者によって外から与えられたものだ。我々の経験内容は自己の中に内面的統一を見出すことによって、すなわち自覚することによって、独立唯一なる個人的意識となることができる。自己の統一を自己によって与えることができるのである。かくの如くにして初めてある一個人の意識は、他の個人に属することができぬと言うことができる。普通には我々の自覚というのは、知覚的意識に加わり来る如く考えられるのだが、私は意識内容が自覚することによって、その全体(意識)の意味が変わらなければならないと思う。かくの如き考えから、我々は単なる概念的自覚よりも、芸術的直観の如きものにおいて一層深い自覚に達し得ると考えることができる。芸術的直観の如きものが、知覚的意識と同様の意味において、非自覚的とか無意識的とか考えられるのは誤りである。後者(芸術的直観)においては、我々は概念的自覚の立場を超え、これを内に含み得るのだ。真に自由我(作用の作用)の自覚に達し得るのだ。かくの如き自由我の内容として、我々の意識内容は芸術的表現において見る如く、一あって二なき個性を得るのだ。厳密に言えば、何らかの意味において主観を内に含まない意識はないと言い得るだろう。いわゆる衝動的意識の如きものであっても、それが単に客観化された内容でなく、それが意識現象であるかぎり、意識一般の立場が内在的であるということができる。個性化への方向を含んでいると考えることができる。この点において根本的に自然現象とその性質を異にしている。しかし衝動的意識の如きものは主観を内に含むとしても、単に一般的主観を内に含むのだ。多くの個性的人格への発展は、ただこれを潜在的に含むまでだ。未だ抽象的一般的主観の内容に過ぎない。本能によって働きつつある動物の意識の中には、ただ種族我が働きつつあるのであって未だ個性我というべきものはない。動物には未だ魂というべきものはない。なお一般的にして抽象的である意識たるを免れない。かくの如き意識を直ちに唯一と考えるのは、前に言った如く外から加えられた考えに過ぎないのだ。いわゆる概念的自覚に至って、初めて我々の意識内容はある一個人に属して、他に属することのできないものとなるのである。真に意識一般を内に含むという意識成立の根本義を顕現するのだ。普通には衝動的意識の如きものから、自覚的意識の如きものが発達するように考えられるのだが、すなわち一般的なもの(衝動的意識)から特殊的なもの(自覚的意識)が出て来るように考えられるのだが、ベルグソンが物質界は精神界から或物を減じたものであると言うように、衝動的な意識現象というのは真に独立した個性的な意識現象から或物を減じたものと言うことができる。かかる意識現象は、物質界というごとき一般的主観の対象界が存在するのと同様の意義において、存在するということができるまでである。
これは私の意識であって他人の意識ではない。他人と私は互いに窓のないモナドであるというような個人的意識の考えは、互いに独立自由であるが故に互いに一であるという道徳的立場において成立し得るのだ。そして個人的自覚の伴わない意識は、厳密な意味において意識ではないとすれば、我々は我々の意識成立の根底において道徳的社会があると言い得るだろう。我々の一々の作用と作用との間にも、汝と我との関係が含まれている(互いに一である関係が含まれている)と言い得るだろう。我々の一々の作用が毫も対象化されないで、すなわち知識の対象界を通らないで、直ちに自由に結合すればするほど、意識は明らかとなるのだ。内面的に矛盾すればするほど、意識は明らかとなる。フィヒテの事行というような、作用が働くことによって直ちに自己自身を知るという真の自覚は、道徳的立場において可能だ。互いに独立である作用の自由なる内面的結合が、我々の自覚の本質だ。我々の個人的自覚の奥底における自由なる作用の内面的結合は、内に独立である自由我(作用の作用)の対象界を構成すると共に、外に道徳的社会を構成するのだ。後者(道徳的社会)は前者(自由我の対象界)の延長に過ぎない。自覚なき衝動的意識は、たとえそれが空間的に分かれているとしても、一つの種族我の意識と見る外はない。唯物論的立場を取らない以上は、意識内容そのものの統一による外はない。眼のない動物が進化して眼ができた時、唯一の種族的自我が彼らの眼を通して物を見ているのだ。今日の我々でも、自覚的意識なくただ単に物を見ている時、個人的自己が見ているのではなく、種族我が見ているのだ。各人によって異なる種々の視覚の差異も、唯一の大なる視覚の流れの種々なる象面に過ぎない。ただ、我々はかくの如き種族我の立場から進んで、一々の自我が目的そのものとなることによって、すなわち道徳的立場(作用の作用の立場)に進むことによって、一々の視覚作用も人格的内容を帯び来り、一々の視覚的映像が個性的となることができる。ここに芸術的創作作用が起こって来るのだ。すべて、精神内容が自己自身を実現するには、一般から特殊に行かねばならない。特殊化すればするほど(自覚すればするほど)、具体的実在となる。具体的一般者は特殊の中に一般を含むものでなければならない。我々の意識はその一般的なる方面において、多くの他の意識と結合する。すなわち種族的であり、衝動的だ。しかし精神的なるものにおいては、すなわち真に具体的なるものにおいては、ベルグソンのいわゆる一瞬の前にも返ることのできない流動であって、一般的なるものはその反省の方面に過ぎない。物体現象としては一般的なればなるほど、実在的であるが、精神現象としては、特殊的なればなるほど、実在的だ。我々は普通に思惟の立場から一般的なるものが特殊化すると考えるが、抽象的一般(思惟により対象化されたもの)から特殊なるもの(具体的実在、自ら動くもの)は出てこない。真の具体的実在は特殊の中に一般を含むものでなければならない。自ら動くものでなければならない。コーエンのいわゆる生産点の如きものでなければならない。タルドは「社会的法則」という書の終において、社会的現象の起源を論じて、要するにすべての物が極微から出て極微に還る。極微がアルファであり、オメガである(始まりであり終わりである)。我々もまた万物と同じく、この極微から出で来り、死によってまたこの極微に還り去ると言っている。いわゆる社会現象なるものは、タルドに従えば模倣によって生じると言うのであるが、社会現象のみならず、自然現象といえども、その根底はただ特殊的経験あるのみだ。模倣の基礎である共同的意志の立場から、意識一般の立場に入る時、いわゆる自然界なるものが成立するのだ。模倣の立場はなお人格的と言うことができるが、意識一般の立場においてはプランクの言うように完全に擬人主義から解放されるのだ。それだけまた完全に創造性を失うのだ。我々が普通にいわゆる個人的意識と共同的意識は、その実在性を異にするかのように考えるのは、外から見る故だ(思惟により外から対象化している故だ)。我々の精神現象は特殊から出でて特殊に還る。特殊なるものがそのアルファでありオメガである。精神現象は時間空間の形式によって外から区別されるものでない。ただその抽象的なると具体的なると、創造的なると、被創造的なると、自由なると必然なるとによって区別すべきである。同時存在的(静的)である共同意識に比して、個人的意識がその連続的統一である点において、真の実在性を有すると考えられるのは、その創造的(動的)なるが故だ。創造的なるものは連続的でなければならない。我々の意識は個人的にせよ、共同的にせよ、いわゆる時間空間を超越した立場(作用の作用の立場)から働くのだ。言わば時間空間の統一体から働くのだ。ベルグソンの言う如く空間と時間は純粋持続の弛緩と緊張の両面に過ぎない。いわゆる共同意識は弛緩的であるが故に同時存在的と考えられるのである。
純粋意識の立場から言えば、我々が普通に考えるような自然科学的意味においての自他の区別は、本質的区別ではない。我々の意識はその根底においては自己の中に自己を写すという自覚の形式によって成立し、斯く自己の中に自己を写す一つの作用は、他に同様に独立自由なる無限の作用を予料するという意識において、自他相対立し結合せねばならない。この意味において個人は一つの社会ということができ、また社会は一つの個人ということができる。もし自然科学的分析の立場から言えば、我々の現在の意識も、単一とは言い難かるべく、もし歴史学的立場から言えば社会的意識も分析すべからざる一つの総合的全体にして、作用が直ちに作用を生み、連続的なる一つの意識的実在とも言い得るだろう。あたかもいわゆる個人的意識内容が現在の意識という一点において相触れ相争い、新たなる人格的内容が構成され行く如く、種々なる社会的意識内容はある個人の意識において相触れ相戦い、新たなる社会的意識内容が発展するのである。かつ個人においてある思想感情が自我の内容として中心的地位を占め創造的作用を営む如く、社会においてもある個人が種々なる社会的思想の焦点として創造的職務を取るのだ。かかる人がいわゆる天才だ。個人的意識において種々なる表象が互いに無体系的に結合していないように、社会的意識においても各個人的の意識は無体系的に結合してはいない。個人的意識において、例えば判断においてのように、二つの表象が互いに相対立すればするほど、内面的に相結合する如く、社会的意識においても相互の自覚的独立はかえってその内面的に深い結合を示すものだ。個人的意識の場合においてのように、社会の各個人相互の独立自覚は、その社会的意識の深い自覚的統一を示すものだ。そしてかくの如き精神の自覚的発展が客観的精神の世界となる。いわゆる文化発展の世界がそれだ。我々の純なる自覚的意識においては、意識一般の立場を内に含むことによって、客観界は自己の中に溶かされ、この立場(作用の作用の立場)から見れば、対象化された自己と他人とは同様だ。我々は自由に自他に出入することができる。客観的価値を実現する現在の作用、すなわち自由我(作用の作用)の働く所には、自他の区別はない。純なる道徳の立場からは、他人を愛敬すると同じく、自己をも愛敬せねばならない。宗教的立場からはとにかく、無意義に他の為に自己を犠牲にするのも道徳とは言われない。単に他人の為にすることまた社会の為にすることのみが道徳ではない。他人も社会も単なる存在としては、何らの道徳的価値も持たない。社会的実在が我々の上に道徳的権威を有するのは、客観的価値の表現としてでなければならない。社会的精神もいわゆる個人的精神と同じく事即行なる自覚的精神だ。大なる人格の表現として価値を有するのだ。単なる多数は道徳上何らの権威をも持たない。ただ、時間と空間との内面的統一である具体的一般者が自己を顕現するに当たって、その直接の発展の傾向が個人的であり、その根底に還る方向が自他合一の方向だ。敬と愛との方向だ。そして勿論反省即発展である自覚においては、深い主観(具体的一般者)に還ることは直ちに大なる自己の発展でなければならない。知識の立場からは我々に直接に現れ来るものは個人的意識であるかもしれないが、自由意志としては、我々はいつでも自他の合一の立場から働くのだ。かくの如き意味における自他合一の立場すなわち絶対我の立場は、知識の立場において考えられる如き一ではない。無限の個性化を予想する一でなければならない。芸術においてのように、無限の個性化はその統一を明らかにする所以だ。
現在の自由意志の立場(作用の作用の立場)から言えば、我々の自我は対象界に映じることのできない作用そのものとして、心理的なる自他の区別を超越し、何人の自我に対しても同一だ。正義の感はこれから生じて来るのだ。しかし完全に対象界に対して無関心である、すなわち全く対象と関係のない自己は、抽象的自己たるを免れない。真の自己は働く自己でなければならない。そして自我が働くには、自我の方向があり個性がなければならない。単に見る自我には個性というものはないが、働く自我は個性的でなければならない。個性は行為的自我において意義を有するのだ。そして働くと言うことは、自己が自己の対象界を(自覚することによって)創造することに外ならない。もし対象界を離れて、自他に無関心となることが自由であるとするならば、我々の自我は一般的なる知的自我の中に没却され、個性我は虚幻として、宇宙に唯一つの神の眼が光るのみだろう。パンテイズム(汎神論)の立場から個性の世界は出てこない。個性の世界を理解するには、我々はカントの「目的の王国」の如き世界から出立せねばならない。そして我々の対象界を、すべて道徳的社会の表現として見なければならない。しかし単に形式的である目的そのものから個性は出てこない。自我の内容的区別は出てこない。具体的個性においては、内容自身が直ちに当為でなければならない。内容そのものの中に無限の当為を蔵していなければならない。個性とは内容を離れて自由となることではなく、内容の中に深く入ることだ。内に超越して行くことだ。真の道徳的世界は、各人が深く自己の中に沈潜し、いわゆる共同の世界を突破し尽くしたところに現れ来るのだ。かくの如き世界(道徳的世界)から見た時、我々の経験界は初めて互いに超えることのできない個人的主観(人格)に分属すると考えられるのだ。そしてまた純真にこの立場に入り込み、この立場からこの世界を見た時、この世界の事事物物が人格的内容の表現として、互いに人格的に相結合すると考えられるのだ。法律の世界の如きも、その一端だ。
上に論じた如く、普通に考えられるような単に個人の団体という如き社会は、心理的個人と同じく、我々の認識対象界に属し、我々の自由なる人格に対して、その材料となるのみであって、その(人格の)規範となることはできない。存在価値を有するのであって、道徳価値を有しない。自由なる人格的発現は、ただ時々刻々の自由なる現在意識にあるのみだ。この点から見れば社会も個人も同様だ。いわゆる社会的内容も、個人的内容も、同様に現在の自由の意識において創造されるのだ。いわゆる個人的意識も種々なる表象の結合として、一つの社会と言い得る如く、我々の認識対象界においては厳密なる意義の個人というものは無いと言い得るだろう。我々の個人という考えは、自由なる人格の意識すなわち道徳的意識に基づくのだ。あるいは単なる知識的自覚すなわちいわゆる意識統一という如きものから、個人という考えが出て来るように思われるかもしれないが、純なる意識の統一という如きものは、意識一般の如きものであってこれから個人的区別は出てこない。それではいかにして道徳的自覚から、我々の経験界における内容ある個人的意識の区別が出てくるのだろうか。我々の具体的にして自由なる自我は単に形式的自覚ではない。単なる知識的自覚ではない。無限なる作用の作用だ。我々は見んと欲すれば見、聞かんと欲すれば聞く、座せんと欲すれば座し行かんと欲すれば行く。ここに我々の真の自由がある。非合理的なるものの合理化(理想の実現)が真の行為的自由だ。この立場から見れば、理性というのはその(合理化、実現の)手段に過ぎない。意識一般とは意志発展の過程に過ぎない。単に自己が自己を省みる、省みる自己と省みられる自己と同一であるという知的自我ならば、なお個人的自我ではない。真に唯一独立なる個人的自我は、自己自身を限定するもの(自覚するもの)でなければならない。自己反省の背後には、自己を反省する前に、作用と作用との直接の結合がなければならない。純なる作用と作用との結合がなければならない。かくの如き思惟的自覚以前の自覚(純なる作用と作用との結合の意識の自覚)があって、思惟的自覚はその一面として現れ来るのだ。行為的自由というものがあって、初めて真の自己がある。行為的自由ということは思惟以上の偶然性を意味している。反省の達することのできない深い奥底を予感せしめる。かくの如き対立を超越し、かくの如き立場を自己の中に含み得た時、我々は真に自由だ。これ故に我々の自由意志は、思惟の統一よりも深くかつ広い。時には思惟の統一をも破り得るのだ。我々の自己は必ずしも意識的に連続しない。だが我々が自己を忘れていた場合においても、後から我が働いていたということを確信するのは、何によるのだろうか。我々の自己は反省されない(できない)純なる作用の連続であり、作用の無限なる自己限定たることを意味していなければならない。芸術的創作においての如きいわゆる無意識的なる意識統一は、かかる立場(作用の作用の立場)において成立し得るのだ。省みられるものと省みるものと一であるという自覚を表す語は、かかる純なる作用の連続の概念的言表に過ぎないのだ。自己の意識があって自愛が起こるのではなく、むしろ自愛があって自己意識が起こるのだ。論理的当為の意識の基には、倫理的当為の意識がなければならない。我々が純なる作用の内面的連続の立場に到る時、そこには物も心もなく、ただ一つの生命あるのみだ。物とか心とか内とか外とかいう区別は、この立場によって言い得るのだ。この立場は、すべての対象界を含み、これを成立せしめるという意味において、意識一般の立場であり、妥当の意識であり、互いに内面的に自覚独立する作用の直接の結合として、積極的には純真なる愛だ。純真なる愛は唯一だ。そこに自愛もなければ他愛もない。我々が自己の根底(純なる作用の内面的連続)に達すれば、それが自愛であり、また他愛である。自愛と他愛とは一つの作用の両方面に過ぎない。右の如き純真なる愛の立場は、知識に対しては意識一般の立場となり、行為に対しては道徳的当為の立場となるのだ。ヘーゲルが個々の思想の内面的矛盾によって、具体的真理に到るという如く、我々は各自の個性に徹底することによって、道徳的社会の関係に入り、純真なる愛の世界に達するのだ。死することによって生きるのである。
互いに相超えることのできない人格的対立の考えは、右に言ったような純真なる愛の立場すなわち超越的愛の立場から出立せねばならない。かくの如き立場の対象界すなわち道徳的社会において、各人が独立の人格たると共に互いに一であるのだ。我々は一つの人格という如きものを考える時、直ちにこれを対象化して考えるから、これを一つの実体の如くに考え、多数の人格を単にその部分と考えるのだが、人格的統一と言うことは無限に分化すると言うことでなければならない。我々の人格的統一ということは、一々の作用が無限に自由となることだ。斯くしてその対象界が統一されて一となるのだ。神の人格というのは実体的に一ということではなく、無限なる人格的分化でなければならない。人格的単位でなければならない。いわゆる個人的意識も、かくの如き意味において一つの道徳的社会であり、心理的意識統一はかくの如き統一の反映だ。我々の意識の根底となる自我は、能動的にして個性的だ。単に認識的(知的、静的)でなく意欲的(行為的、動的)でなければならない。そして人格的統一は実体的統一に反し、多的分化ということが統一ということであるから、我々の個人的意識が一つの人格的統一であるには、一瞬一瞬の意識が独立自由(=多的分化)でなければならない。自由なる目的そのものの結合として、我々の個人的意識が成立するのだ。我々は単なる知的自覚という如きものがあると考えるが、単なる知的自己はカントの純粋自我の如きものであって、一般的自我に過ぎない。一般的自己は真の自己ではない。自己は個人的でなければならない。我々は道徳的自覚において初めて真の自覚に達するのだ。あるいは道徳的自覚なくとも、意識現象はあると言うものがあるかもしれないが、先にも言った如く、自覚なき意識現象は、一般的主観の上に立つ意識現象であって、自然現象とも解し得るものだ。かくの如き現象が個人的自覚に発展し得るからと言って、直ちにそれを個人的意識と考えることはできない。我々が普通にこれを個人的意識と考えるのは、一種の有機感覚によって考えているのだ。もし真に個人的意識と社会的意識との区別を求めるならば、ただ、道徳的個性の創造と自然的因果の結合点において求めるべきではないかと思う。いわゆる道徳的社会の内容は、ただ当為として、それが直ちに自然と結合するとは言われないが、個人的意識においては、道徳的当為は直ちに自然的因果となるのである。
作用の意識
形や色を離れて視覚作用なく、音を離れて聴覚作用はないがまた視覚作用を離れて色や形はなく、聴覚作用を離れて音もない。作用と対象は相関的だ。自発自転的経験の動的内容が作用の内容であり、これによって構成されたものがその対象界だ。カントのアプリオリを動的と解するならば、アプリオリはすなわち作用であって、その構成する世界はこれ(作用)によって認識する対象界だ。だが色や形(作用の内容、対象)を意識するということについては、何人も異論はないと思うが、作用の意識ということについては色々の意義を挟み得るだろう。我々は視ること(視覚作用)を視ることはできない。聴くこと(聴覚作用)を聴くことはできないとは、よく人の言う所である。しかし作用という語は曖昧たるを免れない。我々は普通に眼で物を見、耳で音を聞くと言っているが、眼が物を見るのでもなく、耳が音を聴くのでもない。ならばと言って脳が見また聞く訳でもない。現今の心理学者は視覚作用とか聴覚作用とかいうのは、すべて概念の実在化としてこれを排斥しようとする。我々が現象の連続的変化の背後に物とか力とかいうものを考えこれを実在視する時は、言うまでもなく、それは概念の実在化と言うべきだろう。しかし現象が変化する時、その変化自身を意識するものは何であるか。赤の色が青の色に変じたとすれば、赤が青に変わったと意識するものは何であるか。赤と青を系列的に並べたとしても、変化という意識は出てこない。色の系列から変化の意識が出てこないのみならず、赤とか青とか言う表象自体(超越的意味)は直ちに感覚ではない。感覚となるには、表象自体(意味)に意識というものが加わらねばならない。心理学者は赤とか青とかいう具体的感覚以外に、意識という如きものはないと言い、具体的感覚は一つの過程であると言う。そして感覚の属性として性質、強度、明暗などいうものを考える。しかしこれらの属性の単なる総和が感覚ではあるまい。これらの属性は、感覚という一つの過程の属性でなければならない。斯く一つの連続的統一ともいうべき過程とは、いかなるものであるか。それが単に現象の統一の為に考えられた概念に過ぎないならば、精神現象と物体現象を区別することはできない。精神現象が物体現象から区別されるのは、統一そのものが内面的であるということでなければならない。統一が内面的であると言うことは、統一が物体現象の場合のように外から加えられた概念ではなく、現れたものそのものの中に(統一が)含まれている、すなわちその中に(統一が)働いているということでなければならない。現れたものが、それ自身の中に発展を含み、自ら動くものでなければならない。精神現象において作用というのは、単に外から加えられた概念ではない。あるいは感覚が内面的作用であり、作用を内に含むという如きことは、後から加えられた説明に過ぎないと考えられるかもしれないが、私は感覚的経験の中に作用ということが自覚的に含まれていると言うのではない。ただ全体が一つの連続であると言うのである。分離的要素の結合として、精神現象なるものは考えられない。要素の結合と考えることは、精神現象を否定することだ。精神現象を物体化することだ。精神現象においては、内面的連続の直覚、全体の直覚が基とならねばならない。そして内面的連続が基となると言うことは、関係すなわち統一そのものが現象的であると言うことである。統一者が自己自身の中に分化発展を含むということを意味するのである。
我々は視ることを視ることはできない。聴くことを聴くことはできない。自発自転的経験の動的内容とは何を意味するか。いかなる意味においてこれを知るということができるか。我々に運動の知識とか、変化の意識とかいうもののあることは、何人も拒むことはできまい。かかる意識はいかにして可能なるか。物が一つの点から他の点へ動いた場合、我々は前の位置と後の位置を知り、これによって推理するとも考え得るだろう。無論、我々はかかる仕方において物の運動を知る場合も多い。現前に動きつつある物を見る場合でも、かかる意識の極微と考えることもできるだろう。我々は分離的要素を知覚することができるが、連続を知覚することはできない、連続とはただ考え得るものであるとも言い得るだろう。かかる考え方からすれば、自発自転的経験の動的内容という如きことは思惟の所産であって、直接の意識内容ではないと言うことができる。しかし我々が内面的必然を以て数理を考える時、前の意識内容と後の意識内容との間に、時間を超越する意味の統一があることを否定することはできない。この統一は思惟によって外から加えられた統一ではなく、思惟そのものの統一だ。この場合においては統一そのものが直接の意識内容となると言わねばならない。無論この場合においても、作用(思惟作用)と対象(数理)を峻別し、対象は作用を超越して意識内容となることはできぬとも言い得るだろう。しかしかかる考えを厳密にして、一方に時を超越する永遠不変の対象を考え、一方に時の中に限定され、時々刻々に移り行く作用を考えるならば、いかにしてこの二者が結合し得るだろうか。これに反し、我々は自分が思惟することを意識する時、すなわち我々が思惟の体験を有する時、作用と対象との結合を意識していると言わねばならない。自ら動くものを意識していると言わねばならない。そして動くものの意識の中には、連続の意識を含んでいなければならない。作用と対象は峻別すべきであると言うが、この二つを峻別するものはまた思惟でなければならない。この二つのものを峻別する思惟作用は、この二つのものを含み、この両者(作用と対象)に出入し得るものでなければならない。もし然らず(そうでない)と言うならば、かかる思惟作用はその孰れ(作用と対象の孰れ)に属するか。これを単なる作用と考えるべきだろうか。完全に対象から峻別された作用は、もはや真の作用ではなく、一種の対象であるに過ぎない。意識現象というのはブレンターノの言う如く対象を内に含むものでなければならない。否、単に対象を内に含むというだけでは、まだ意識現象とはならない。私は物を見ている時、ただ、物あるのみである。私の見ている物が物の表象として、心外の対象を志向すると考えられた時、初めて意識現象なるものが明らかになるのだ。意識現象には、作用の意識、反省の立場が含まれていなければならない。無論これに対しては、意識現象が意識された時、意識現象となるのではなく、無反省な無自覚な意識現象もあると言われるかもしれないが、かくの如きものは未だ意識現象と称すべきものではない。ただ直接経験とか純粋経験とかいうべきものである。かかる直接経験が反省された時、作用と対象との区別が成立するのだ。かかる経験が反省されるとは何を意味するか。もしこの経験(直接経験)と全く異なったものが外から加えられると考えるならば、いかにして完全に相異なったものが結合し得るかを解することはできない。かかる考えは主観と客観の対立を実在化する独断論から来る推論の結果に過ぎない。直接の経験としては、赤の経験に青の経験が加わってきた時、両者の相異の意識が生じるのだ。勿論相異の意識は未だ判断の意識ではない。しかしかかる相異の意識が、その内容から独立し自由となった時、それが判断意識として現れる。従って種々の経験を識別し判断し統一する自我の意識が生じて来るのだ。かくの如き自己の意識の立場から顧みた時、赤とか青とかいう前の感覚も、差別の意識も、尽く自己の意識であったと考える。斯く考えると言うのは、後に現れ来る反省がその内に含まれていたと考えることでなければならない。我々の意識は無反省である単に感覚的意識の如き有様においても、単に表象自体(意味)とこれを動かす力の結合という如きものではない。性質即実在でなければならない。そこに現れた赤とか青とかいうものが、単なる赤とか青とかいうものではなく、無限なる推移を含んだものだと言うことができる。すなわちそれ自身が一つの連続であると言うことができる。単なる赤とか青とかいう意識からは何物も出てこない。しかしその背後に含まれた無限の推移から、他の感覚を生じるのみならず、相異の意識をも生じるのだ。知覚から意志(無限の推移)が生じるのではなく、かえって意志(無限の推移)から知覚が生じるのだ。我々に自己の意識の生じた場合、顧みて過去の感覚を自己の意識と認めるのは、この連続によるのだ。すなわち意識の背後に含まれた超時間的統一(無限の推移、連続)によるのだ。かくの如き統一が背後に含まれたものとして、初めて感覚的意識が成立し、かくの如き統一の発展として自己の意識が生じるのだ。我々の自己同一の意識はかくの如き統一の自覚だ。あるいは反省的自己意識ができた時、初めて自己の意識があると言うかもしれないが、自己を知る時、自己が生じるのではない。我々が物を知る時、物が生じるのではないのと同様だ。ただ、自己の意識においては、知るものと知られるものが一つであるのだ。斯く知るものと知られるものが一つであると言うのは、いわゆる自覚において始まるのではない。感覚的経験において既に然ある(そうである)のだ。感覚的経験においても、具体的には感覚的自己と感覚的対象が一でなければならない。物を知ると言う時、我と物を別物とするのは、我を単に概念的自己と考える故だ。しかし概念的自己は判断的意識に伴う判断的主観であって、感覚的主観ではない。色や音を知るものは、判断的主観ではなく感覚的主観だ。個性的である真の自己は、かかる主観の統一でなければならない。純粋自我という如き一般的自我は誰の自我でもない。誰の自我でもない自我は自我ではない。我々が自己同一において意識する自己は、自己が自己を省みる作用そのものだ。対象即作用、作用即対象である事行だ。そして我々はかくの如き事行を感覚的経験においても認めざるを得ない。我々が過去の経験を自己の経験として認めるのも、かかる統一の立場において能くするのだ。我々の自覚というのは、作用の作用(自由我という無限の推移、連続)の内容に過ぎない、知覚においては一般者が潜在的であり、無意識的であり、思惟においてそれが意識的となると考えられるが、知覚的経験と言っても単一である要素の結合という如きものではなく、思惟と言ってもその背後に更に高次的な一般者が働いていると考えねばならない。知覚の背後に働きつつあったものは思惟の立場において対象化されるとしても、思惟の背後に働きつつある一般者は思惟によって対象化することはできない(思惟を思惟により対象化することはできない)。かくの如き一般者は超知識的意志だ。思惟作用を、思惟の対象に何物かが加わったものと考えねばならないのは、これによるのだ。一般的な理性を超越し、これを統一するものは、意志でなければならない。この立場から見れば、知覚も思惟も同様だ。我々は思惟の作用において自己を意識すると言い得るならば、知覚の作用においてもこれを意識すると言い得るだろう。芸術家は思惟を離れて、知覚の上において自己を自覚するのだ。それは我々が時間を超越し、過去の経験をも自己の経験として、自己同一を意識すると同一の意味でなければならない。
意識の根底には働く或物がなければならない。内面的連続がなければならない。この点において精神現象と物体現象が区別されるのだ。そうでなければ、精神現象は自然現象と分かつことはできない。いかなる心理学といえども、意識が意識自身を意識するという立場の上に立っているのだ。反射運動という如きものは、単なる生理現象と見る外はない。大脳を除去しタラミス・オプチクス(?)だけを残された蛙が、障害物を超えるという自動的運動の如きも、意識現象と見ることはできない。「我に意識される」mir bewusstということから、初めて意識現象となるのだ。無論単に知覚の場合においては、かくの如き意識はない。我々は意志において初めてこれを見ることができる。しかし「私に意識される」ということは、内面的連続ということを意味しているのだ。そして内面的連続ということは、一般的なるもの(一般者)の自己発展に外ならない。意識の段階の差別というのは、かくの如き一般者の相異に過ぎない。普通の心理学において、知覚や連想において不明瞭であった内面的統一が、思惟において明らかとなると考えるのは、主知主義に基づくのであって、知覚には知覚の生命があり、連想には連想の生命があり、芸術的内容は思惟によって表すことができないと考えられる如く、知覚には思惟によって尽くすことのできない意味内容がある。知覚は知覚自身の明瞭を持つ。我々は屡々芸術において見る如く、思惟の混入はかえって知覚の明瞭を壊すと考えることもできる。無論知覚の中に含まれた思惟内容、すなわち知的内容は思惟に至って明らかとなると考え得るかもしれないが、それは知覚的内容の本質ではない。知覚は知覚自己の内容として、他に写すことのできない意味内容を有するのだ。我々が「私に意識される」という時、その私とは何であるか。私の本質はジェームスの言う如き烙印の如きものではない(…ジェームスの言ったように、自己同一の感情は同一の所有者に属する家畜の烙印のようなものと考えることも出来るだろう…「自覚に於ける直観と反省」序論から参照)。「私は私である」という自己同一(意識の根本的事実)がすべての知識の根本であり、この立場から経験が統一される時、すべての経験は内面的連続として意識現象となるのだ。自然の立法者としての純粋自我よりも、「私がある」という意識の根本的事実が前でなければならない。カントの「私が考える」という前に、フィヒテの「私が行為する」ということがなければならない。思惟も自我の行為の一だ。そして自我は一つの作用ではなく、作用の無限なる連続でなければならない。「私がある」ということは、作用の無限なる連続(無限なる作用と作用の直接の結合)を意味するのだ。この立場(作用の作用の立場)から見て、すべてが動くもの(内面的連続)として統一されるのだ。我々は動くものの意識と言うが、自ら動くものが意識だ。斯く言う意味は我々の自己の意識において証し得るのだ。右の如き考えと、視ること(視覚作用)を視ることができない、聴くこと(聴覚作用)を聴くことはできないという考えといかに結合し得るだろうか。私は先ず作用は作用自身を知ることができないという考えを吟味して見なければならない。我々は色を見、音を聴くと言うが、視覚作用や聴覚作用を離れて色とか音とかいうものはない。かかる場合、この作用とは何を意味しているか。心理学者は自己同一の符牒として、反省作用に伴う有機感覚や感情の如きものを考えるが、かくの如き感覚と同列的なものが他を統一することはできない。ただ、これらのものが一層高次的なるものの代表として、統一者の地位に立つのだ。あるいは物理的世界において太陽が中心としてある星を引く如く、同列的な物であっても、一つの物が他の統一的位置に立つと言い得るでもあろう。しかし同列的なるものの一つが統一的立場に立つということは、場合によっては他の物も統一的立場に立つということを意味している。太陽系等においても、もしある惑星が力を得ればそれが中心の地位に立ち得るのだ。しかし意識現象において、青とか赤とかいう単なる対象の意識と自己の意識が同列的であって、対象の意識が意識現象の統一となると考え得るだろうか。無論我々は色を見、音を聴いている時、自己意識という如きものはないであろう。しかしそれは対象として意識されていないということであって、自己が働いていないという意味ではない。自己は意識現象の一として他を統一するのではなく、意識現象の成立する条件となるのである。あたかも芸術的作品において、その何処かが中心となると共に、全体の意味がその孰れの部分にも現れているのと一般だ。すなわち一々の部分が全体だ。統一というにも種々の意味があるだろうが、自我の統一は創造的統一だ。もし自我が創造的として対象界の外に立つならば、いずれの部分に対しても同様であるべきであって、いかにしてある部分が中心として自我を代表することができるかとの疑いも起こるだろうが、我々の自我は無限なる作用の作用(作用の無限なる連続、無限なる作用と作用の直接の結合)であり、意識現象は一々の部分が作用として相結合するのだ。意識現象においての次位は、自我の作用の次位の反影に外ならない。我々は色を視、音を聴くが、視ることを視ることはできない。聴くことを聴くことはできないと言うが、我々が色を視、音を聴くという時、色そのもの、音そのものが一々作用となるのだ。この点において、色や音の表象自体と、色や音の感覚が異なるのだ。我々が色や音の感覚作用そのものを意識することはできないと言うのは、意識が意識自身を意識することはできないと言うのと同一の意味でなければならない。だが我々は意志の体験において、また自覚の体験において、明らかに作用自身の意識を持っているのではないか。これを否定することは、自分自身を否定することである。我々が感覚的経験において意識することのできる作用の方面というのは、かくの如き自我の方向、意志の方向であって、視ることを視ることはできない、聴くことを聴くことはできないというのは、我々は我々の自己の奥底を知ることはできない、意志を対象化することはできないというのと同一の意味でなければならない。しかし我々は自覚において自己を知り、意志(作用の作用の立場)において意志(推移、連続)を知るならば、これと同様の意味において、視覚作用や聴覚作用を知り得ると言い得るだろう。我々の感覚的経験も自覚的経験において見得るかぎり、作用が作用自身を知ると言い得るではなかろうか。我々の自覚的体験において、自己が自己を知るとは何を意味するか。我々は自分の自己を対象として知ることはできない。対象化された自己はもはや自己ではない(自己は対象化する自己であって対象化された自己は自己ではない)。だからと言って、経験の背後にあって単に働くものと言うようなものは、物力と変わる所はない。自覚においては、働くこと(作用)が知ること(内容、対象)であり、知ること(内容、対象)が働くこと(作用)でなければならない。知るということはいかなることを意味するか。カントの認識論から言えば、知るということは外物を写すということではなく、雑多なる経験内容を統一することでなければならない。今日の西南学派の如く考えるならば、価値(超越的価値)と作用との結合だ。超越的対象(価値)が内容として作用と結合した時、認識作用が成立すると言い得るのだ。かかる場合、作用というのはいかなるものであるか。それが時間、空間、因果の範疇によって構成された事実であるとすれば、それは既に認識対象であって認識作用ではない。無論知るという作用と、知ったという事実は区別し得るだろう。そして後者(事実)は認識対象となるも、前者(作用)は認識の対象となることはできない。従って認識以前に属するとも言い得るだろう。しかしかかる立場から、我々の自覚の事実をいかに説明し得るだろうか。我々は自覚の体験なくして知るということを解することはできない。主観と客観との合一の意識(自覚)なくしては、すべてが物の運動となる外はない。所与の範疇と考えられる時間、空間、因果の形式によって事実の知識が構成されるとするならば、我々の自覚ということも、これらの範疇に当てはまった事実の知識に過ぎない。カントが「私が考える」ということは、私の表象に伴わねばならないDas “Ich denke”muss alle meine Vorstellungen begleiten konnenという、「私が考える」ということは、何処から起こって来るか。認識論そのものが既に知識であるとすれば、認識の成立を論じる認識論はいかなる範疇に依るとなすべきであるか。あるいはカントの意識一般という如きものは極限概念であるとも言い得るだろう。しかし極限ということは立場の超越ということを意味していなければならない。意識一般は意識一般の対象界に属することはできないのだ。もし意識一般が極限主観であると言うならば、既に極限ならざる意味の主観というものを許していなければならない。そして主観と客観と区別されるには、意識が意識自身を意識するという事実(自覚)があり、意識が意識を意識することは、意識が物を意識することとは異なっているということがなければならない。そうでなければ、主観と客観との区別の起こり様はない。我々のいわゆる主観は、最初から客観界に対しては極限概念であるのだ。ただこれ(主観)を(客観との)無限の距離として考えることによって極限となるのではない。もし意識一般がすべての経験内容を対象とする極限主観であるとするならば、そういう主観は常に現実の意識の中に働いているものでなければならない。現実の意識を成立させる自由我(作用の作用)は、意識一般の立場を含んでいなければならない。意識が意識を意識すること(自覚)によって成立する我々の意識現象は、主観の極限である意識一般の立場において対象化し尽くされるものではなく、根本的に異なった範疇によって成立しているものと考えねばならない。認識以前の体験は知識ではないと言うのは、対象と作用を区別する出立点に縛されているのだ。知ることのできない体験を、いかにして知ることができないと判断するか。範疇を知る範疇はいかなる範疇であるか。アプリオリを論じるアプリオリはいかなるアプリオリであるか。我々はこれにおいて範疇の範疇、アプリオリのアプリオリ(作用の作用)という如きものを考えざるを得ない。カントは「時」は知覚することはできないと言う。「時」というものが知覚対象となることのできないのは言うまでもない。しかしカントが図式として「時」を説く時、何を意識していたであろうか。無限なる作用の連続という如き体験なくして、「時」というものを理解し得るだろうか。真理自身を証明する真理はない。知識自身を知る知識はない。已むを得ざる循環論証(証明すべき結論を前提として用いる論法)であるが故に犯さねばならない。Da mithin dieser Cirkel unvermeidlich ist, so muss man ihn reinlich begehen(この循環は避けられない故に、きれいに実行する必要がある?)と言われるが、知識を知る知識はいわゆる知識と同一でないのだ。いわゆる知識においては、矛盾は矛盾として許すべからざるものであるが、知識の知識の立場(知識成立の立場)においてはヘーゲルの論理においてのように、矛盾なるが故に真理であると言うことができる。一つの物が同時に多であることはできない。一が直ちに多であると言うことは矛盾である。しかし自己が自己を知る自覚においては、一(自己)がすなわち多(自己)だ。そしてフィヒテが事行を知識の第一の絶対的原理としたように、すべて知識が知識自身を知るという知識の上に立てられるのだ。知識が知識自身を知る(自覚)と言うことは、矛盾でもなく、不可能のことでもなく、哲学的知識は実にこの立場の上に成立するのだ。ただこの知識はいわゆる知識と異なった範疇の上に成立するのだ。プロチヌスは沈黙の理解を論じて“That which in me contemplates, produces a work of contemplation, like geometricians who while contemplating, describe figures. For it is not in describing figures, but in contemplating, that I let drop from within me the lines which outline the forms of bodies.(私の中にある熟考するものは、幾何学者たちが熟考しながら図形を描写するように、熟考の作品を生み出す。というのも、図形を描写するのではなく、熟考することで、私は身体の輪郭を描く線を自分の中から生み落とすからである?)”と言っているが、ゲーテのいわゆる「母の国」においては、見ることは作ることであり、作ることは見ることである。いわゆる知識の立場から言えば、(自覚は)単にポストゥラート(公準。基本的前提として必要とされる命題)と考えられるだろう。カントはポストゥラート(公準)は知識ではなく、何らの知識内容を与えないと考えた。しかしポストゥラート(公準)は単に人為的ではない。ポストゥラート(公準)はその成立する範疇によって客観性を有するのだ。そしてかくの如き範疇(知識を知る知識の範疇)は作用の作用として、知即行なる超越的意志(作用の作用、自由我)に求める外はないのだ。以上述べた如き訳であるから、我々の知識の根底には普通に対象を知るという知識と異なった知識(自覚)がある。知識自身を知るという知識がある。我々の意識作用の知識はこれによって成立するのだ。視ること(作用)は色(内容)ではなく、聴くこと(作用)は音(内容)ではない。我々は色を視、音を聴くという意味において、視ることを視、聴くことを聴くことはできない。しかしプロチヌスがin contemplating, that I let drop from within me the lines which outline the forms of bodies(熟考することで、私は身体の輪郭を描く線を自分の中から生み落とす?)と言う如く、純なる作用の連続として、視ることを視ることによって、色や形を生じるのだ。色を視、音を聴く根底に、かくの如き意識の意識(作用の作用)がなければならない。普通には知覚作用には作用の意識はないと考えられる。しかし判断によって経験内容が成立するのではなく、経験内容について判断するのだ。普通に考えられる如く、我々が作用を反省してこれを判断の対象となすには、まず作用の意識がなければならない。そしてその作用というのは、単なる対象的である物の運動とか、変化とかいうもの(単なる知識)と異なったものでなければならない。すなわちその推移が無限に連続的で、内面的で、自覚的でなければならない。判断作用においても判断作用そのものが直ちに判断の対象となるのではない。判断作用を対象とするものは判断の判断でなければならない。判断の判断は判断を成立させると共に、判断の対象となることのできないものでなければならない。我々はただ「真理への意志」der Wille zur Wahrheitの上において、これを意識するのだ。我々の知覚においても、かくの如き位置を取るものがなければならない。すなわち「知覚への意志」der Wille zur Wahrnehmungという如きものがなければならない。我々が自覚において意識するものは実にこの意志である。思惟においても、思惟作用が我々の自己を対象として意識するのではなく、意志が意志を自覚するのだ。もし我々が「この花は赤し」という時、まず「赤」の意識があってこれを判断の内容として意識するのであるとするならば、我々が「私がこの花を見た」と言う時、「私」として志向されるものは「赤」が知覚として意識されていたのと同様の意味において意識されていたと考えねばならない。知覚は単なる性質の意識であって、その中に作用の意識が含まれていないとは言い得ないだろう。もし作用が反省されていないからと言うならば、「赤」についても同様に言わねばならない。我々の知覚において、対象のみ意識されていると考えられるのは、主知主義の結果に外ならない。
私は最初に経験の動的内容が作用の意識となると言ったが、経験の動的方面とは何を意味するか。物がある一点から他の一点にまで動いたと見る場合、我々はその距離を無数の点に分かち、物がこれらの無数の点を通過したと考え得るだろう。しかしいかに数を多くしても、分離数の結合から連続数は生じることはできない。連続が成立するには、無限なる系列の考えが入ってこれなければならない。無限なる系列はアプリオリのアプリオリの立場(作用の作用の立場)において成立するのだ。かくの如き立場は我々の自覚において初めて明らかとなるのだが、この立場において見られた連続の内容が立場自身に対し十全たらざる時、経験の背後に物力の如きものが考えられる。ベルグソンは我々がある一点から他の一点まで手を動かした時、我々は直接にして単純なる感覚を持つ。そしてその二点間において手は何処にでも止まり得るとしても、それはまた完全に別個のものと考えねばならないと言う。ベルグソンがこの場合、感覚が直接にして単一であると言うのは、心理学者の言う如き意味において単一というのではない。かえって(直接で単一な感覚は)性質的には無限に複雑なものということができる。不可分割的というのは、無限に分割的ということでなければならない。そうでなければ、運動ということの意味を成さない。運動ということは分割によって達することのできない点の系列であって、しかもそれらの点はある一点の方向に向かって移り行くと言うことでなければならない。普通の心理学では、運動知覚は圧覚、筋覚、関節覚などの結合から成り立っていると考えられるが、単にこれらの感覚の結合から運動の知覚の生じないことは言うまでもなく、かえってこれらの感覚が運動の直覚によって構成されるのだ。運動の直覚というのは、モナドの如き意味において単一であるものでなければならない。私は運動の直覚というよりもむしろ直覚は運動である、否、行為であると考えたい。与えられたものの意識(圧覚、筋覚などの意識)から運動の意義は生じない。厳密に言えば与えられたものからのみでは、意識というのも生じ得ない。運動の意識というのは我々の行為の意識だ。深い意味においての自覚だ。普通に自覚とか行為とか言えば、いわゆる反省意識すなわち判断意識の上において初めて現れるもののように考えられるのだが、前にも言った如く自覚とか行為とかいうことは、後に来るもの(内面的統一、連続)が始めから働きつつあるということ、動く故に動かぬ(連続は動いている故に動かないものである=作用と言い得る)ということであって、いわゆる自覚とはかくの如き作用の概念的意識に過ぎない。我々の対象界はそれぞれの立場において与えられた世界の無限なる結合であるが、かかる世界の結合から動く世界は生じ得ない。すなわち意識の世界は現れて来ない。可能の世界(作用の世界)の単なる結合から、現実の世界は出て来ないのだ。我々の現実の意識界はかかる対象界の統一として、かかる対象界に還元することのできない無限連続の世界だ。すなわち作用の作用の世界だ。この立場においては、対象はすなわち動くもの(作用)でなければならない。対象即作用でなければならない。我々は普通に運動という対象を考え、我々の意識作用をもこの中に含めて見ようとするのは本末顛倒であって、運動はかえって作用の作用の対象として意識されるのだ。無論私は自覚の意識があって後、運動の意識が可能であると言うのではない。カントが我々の経験界を構成する「時」自身を経験することはできないと言う如く、いわゆる認識の意味において作用の作用を認識することはできない。判断意識であっても、これを対象として認識することはできないのだ。しかも意識現象はただこの立場によって成立すると言うことができる。我々の自己の意識について深く考えてみると、我々は無論これを判断の対象として認識するのではない。むしろ批判的意識において、作用と作用の直接の自由なる統一としてこれ(作用の作用)を知るのだ。しかし批判的意識においても、我々はなお客観的理想に捉われている。真に自由なる自我(作用の作用)の意識は、真、善、美を否定(限定)する自由意志に伴うものだ。かかる意志に意識が伴うと言うよりも、かかる意志がすなわち真の意識だ。我々の判断作用は単に働くものではない。働きを評価するものでなければならない。否、単に働きを評価するものではない。評価によって働くものだ。私が「社会と個人」において、意識現象の根底に道徳的関係があると言ったのもこれによるのだ。我々が自由意志なき意識現象というものを考えるのは、意識現象を対象化して見るが故に過ぎない。しかし対象化されたものは既に物体化されたものだ。意識はただ現在の自由意志(作用の作用の立場における、無限なる作用の直接の結合)にあるのだ。ならばいかにして意識が意識自身を意識するかという疑問が起こるだろう。我々は普通に物は対立によって意識されると考える。ある一つの色のみを見ている時、その色の何たるかは意識されないと考えられる。しかしかく言う場合、意識されないとは判断の対象とならないということを意味しているのであって、感覚として意識されていないというのではない。ならば、その感覚的意識というのはいかなるものかと言えば、決して普通に考えられる如き単一なるものではない。単一なる感覚という如きものは、表象自体(超越的意味)と異なる所はない。具体的感覚としての一つの色の意識は、無限なる他の色への推移を含んでいなければならない。一つの物質的要素は全空間の上において限定され、無限の方向に向かって運動の可能性を持っているが、自己の内に無限の方向(自由意志)を含んでいるということはできない。自ら動くものではない。精神現象においては、それが一つの感覚であっても、内に無限の変化を含んでいると考えねばならない。例えば、空間にしても、具体的である空間の意識は、内に無限なる空間を含むと考えることができる。我々がある一つの色を見て、それが赤であるとか青であるとか言う時、論理的に単一なる性質というものが考えられるのだが、この時、判断の主語となる具体的対象は決して単一なものではない。しかしそれはいかなる意味において単一でないか。その対象は色の外に無限の性質を持つとも考え得るだろうが、単に色という点から見ても、具体的なる物の色に単一である青とか赤とかいうものはなく、極めて複雑なものであると考えることもできる。斯く物の色が無限に複雑であるということは、主観的には我々の感覚が無限に複雑であると考えることもできるが、感覚に色があるのではない。赤の感覚は赤ではない。色の感覚について色を論ずべきではない。それでは色の感覚とは何であるか。視覚作用とは何であるか。我々はその前に、物が種々の性質を有し、それが赤いとか青いとか重いとか軽いとか言うことは、いかなることを意味しているかを吟味して見なければならない。ロッチェは物があるということは働くということであり、普通に性質と考えられるものも作用と考えるべきであると言う。斯く考えれば、物とは作用の統一ということとなる。性質の無限に複雑ということは、作用の無限なる複雑ということとなる。爾(そう)考えるならば、物が赤いとか青いとかいうのは、いかなることを意味するだろうか。視覚作用が赤いとか青いとかいうことができないように、作用そのものが赤いとか青いとかいうことはできない。赤いものがあるとか、青いものがあるとかいう場合、その「在る」ということは働くということであっても、赤いものがすぐに働く、青いものがすぐに働くということであって、作用が赤いとか青いとか言うのではない。ただ、性質的なるものが、すぐ働く(作用となる)と言うのだ。ある一つの性質にして、しかも表象自体(意味)の如きものとは異なって、どこまでも己自身を維持するものがあると考えねばならない。無論表象自体とか意味自体とかいう如きものであっても、すべての人の判断作用に対して不変なるものだろう。しかしある性質を持った物が実在として「在る」というには、時間、空間の範疇に当てはまらねばならない。少なくとも時間の上において不変なものでなければならない。判断作用に対して対象が不変と考えられる時、作用というのは時間上の出来事として、対象自身には全く偶然的に外から加わるものと考えられる。ある性質を持つということは、ある仕方で働くということとしても、ある性質を持ったものがあるということは、外からの働きに対してその物自身が不変であるということを意味する。そして斯く不変であるということは、一つの変化が他の変化に対して独立であるということを意味するのだ。しかし我々が色を見て色を知る時、ある色として己自身を維持するものは何であるか。意識において己自身を維持するものは、外界の物力という如きものではないことは言うまでもない。ならばある色の知覚がある色の知覚として己自身を維持するのは、何の力に依るのだろうか。意識の識別力によるとなすべきだろうか。しかし心理学者の言う如く、意識は単に意識するということだけであって、何らの内容なきものならば、意識の力によってある色がある色自身を維持し、自己を他から区別すると言うことはできない。色と色とは直ちに相区別すると考えねばなるまい。しかしある色とある色が他の力を借りず、それ自身において直接に相区別するには、両者を統一する一般者がなければならない。一般的概念と言えば、何らの力なきものと考えられるが、二つのものが区別されるには、少なくも区別される場面がなければならない。物質は空間において互いに区別されるが、赤と青を区別するヘルバルトのいわゆる叡智的空間(区別される場面、一般者)という如きものはいかなるものだろうか。かくの如き空間は両者に対して一般的な性質を持った物でなければならない。あたかも物質はすべて延長を有すると考えられるのと同様だ。そして物理的空間が種々の性質を持つ如く、叡智的空間は種々の性質を持つと考えねばならない。色一般という如きものは叡智的空間(区別される場面、一般者)の性質と考えることができる。物理学者が初めて空間は力の働く場所と考えた。マックスウェルの電磁力学の考えから空間は力の場となった。すべて一般的なるものが働くものであり、動くものである。我々はかくの如き一般者(この場合、叡知的空間、区別される場面)を判断の主語としてこれを限定しようとする時、何時でもその内容は不尽根的(内容が尽きることがなく、無限的)でなければならない。我々が「イはロである」と判断する時、その主語が単に性質的なものであった場合には、それは同一判断Identitatsurteilとなるか、または包摂判断Subsumtionsurteil(例えば、「赤は色である」の類)となるだろう。これに反し、その主語がライプニッツの言う如き個体であった時、すなわち実在的であった時、その主語は主体として不尽根的(無限的)となる。しかしヘーゲルの論じている如く、判断の客観性は推論式において基礎づけられねばならない。そして推論式においては、その主体である統一者が能動的となり、積極的内容を持つようになる。すなわち一般者が能動的となる。先に一つの判断の術語において限定することのできなかったものが、推論式において限定されることとなるのだ。ロッチェなどのように、選言的判断disjunktives Urteil(たとえば「A君は長男か、あるいは次男である」の類)から推論式に移り行くと考えることができる。推論式の一般者は、一つの判断によって限定することのできない主体だ。推論式の一般者は、それ自身の中に否定を含んだものだ。推論式の主体である一般者は、一般者の一般者だ。もし判断の主体が性質的なものであったならば、推論式の主体(叡智的空間、区別される場面)は更に高次的である一般概念であり、実在的であったならば、これらを統一する全体でなければならない。
ボサンケが判断において最後の主語は実在であるというが、推論式においてかくの如き全実在が自覚的となり顕現的となるのだ。斯くして我々は判断の基礎を求め行く時、既に単なる対象と異なった意識の動的内容、すなわち作用の内容という如きものに撞着しなければならない。ヘーゲルの言う如く、抽象的一般概念ではなく、具体的一般者すなわち創造的なもの(内面的統一、連続)に撞着しなければならない。我々がある一つの数理の証明に対して、何処までもその基礎付けを求めていけば、終りに数学のアプリオリに撞着せねばならない。我々がある色を見て赤とか青とかいう時、知覚の内容である色は単に判断の対象としての赤とか青とか言う如きものではない。赤であるとか青であるとかいう判断はいかにして成立するかと言えば、それには色自体の体系という如きもの(という体系的総合、連続)が基礎とならねばならない。色自体の体系の中において、その位置が定められて、色の限定的判断が成立するのだ。数理の判断はカントの言う如く、総合的判断としてその根底に直覚を許さねばならないように、直覚が色の判断の基礎となることは言うまでもない。そしてこの二つの場合において直覚と言われるものは、いわゆる与えられた直覚と言う如きものではなく、総合作用でなければならない。否一種の創造作用でなければならない。我々は直覚を具体的として無限に複雑なるものと考えるのはこれによるのだ。判断の基礎となり、判断に客観性を与える体系は、これによって成立するのだ。ボサンケが判断の主語として考える実在も、かくの如き体系に外ならない。我々は推論式において判断の基礎を求めて、無限に深く内面的統一の連続に入り込む如く、視覚においても無限に深く色の内面的連続に入り込むのだ。この過程が前者においては論理作用であり、後者においては視覚作用だ。作用の内容は判断の対象としては、どこまでも否定(限定)を含み達することのできない無限の推移だ。物体の運動というのも、かかる作用の一つの場合に過ぎないと思う。無論見るということ(視覚作用)と、推理するということ(思惟作用)を同様に考えるのは、異論のあることだろう。しかし私は推理をも、見ることの一種であると言ってみたい。思惟は他を代表するのみならず、それ自身の特殊なる内容を持つ。視覚の世界は触覚の世界を代表し、触覚の世界は視覚の世界を代表する。しかし視覚の世界は触覚の世界に比して広い。前者が後者を包含すると考えられる。思惟の働く叡智的空間(思惟の一般者)は、更に視覚や触覚の空間よりも広い。しかし本質的に同一なものがある。視覚や触覚の世界においては、唯一の直覚的空間という如きものはない。唯一の空間とは、我々の理性の要求に基づく理想に過ぎない。空間の一が他を含むとか他に含まれるとかいうことは、その孰れが孰れに移り行くか(例えば視覚作用から触覚作用、触覚作用から視覚作用など)ということだ。視覚の空間は触覚の空間に比して広いとしても、同一の空間であるが、思惟の空間は一層高次的なものだ。私はなお推論式について深く考えて見なければならない。ヘーゲルは推論式を性質的推論式qualitativer Schluss,反省的推理式Reflexions-Schluss,必然的推論式Schluss der Notwendigkeitと分かっているが、必然的推論式に至っては、我々は客観的なるものの自己実現を認めざるを得ない。具体的一般者の内面的発展ということによって、必然的推論式が成立し得るのだ。我々の推理の根本には、自ら動くものがなければならない。自ら動くということは、一般者が内から特殊的なるものに分化することだ(例えば、論理から数理に移り行く過程も同様のことが言える)。我々が運動と推理と異なると考えるのは、具体的一般者の深さによるのだ。物が動くというのは、自己の本体が動くのだ。これ故に我々の意識が深くなればなるほど、理性的となる。理性的となるということは、深く大きく動くものに到達するということに外ならない。推理は大なる実在の発展の過程だ。そして推理の窮する所、かえってこれの根源として動く或者(一般者、極限)を認めねばならない。ここに作用の意識が成立するのだ。
行為的主観
主観というにもいろいろの種類があり、また種々の意味があると思う。色や形に対しては視覚作用があり、音に対しては聴覚作用があり、またかくの如きいわゆる直覚作用と異なって、抽象的な意味や真理の世界に対しては思惟作用がある。しかしまたすべてこれらの知的作用と異なった感情や意志の作用があると考えざるを得ない。そして普通に客観界といえば知的対象界に限られているが、更にその根底に情意の対象界があると考えることもできる。もしこれらの作用が我の作用であるとすれば、我にも種々の我があると考えることができる。あるいはまた一つの我が種々の作用を持つと考えることもできるだろう。無論我が作用を持つというような考えは独断論的な考えに過ぎない。真の我というのはある一つの客観界に対し、その視点であってまた同時にその創造者だ。すなわち創造的見者だ。物体界という如きものが独立に考えられる時、これを見るものはその外にあると考えられるが、現在の意識界においては視るものはすなわち創造するものだ。いずれの一点を指して我ということはできない。我は全体の進み行く終点であり、またその起点である。しかしまた我は永久の現在であるが故に、いずれの一点も我ならざるものはない。斯くして我は無限の発展であり、動的統一でなければならない。単にいずれの一点も我ではなく、いずれの一点も我ならざるものはないと言うだけでは、静的統一とも考えられるかもしれないが、静的統一ではいずれの一点も我ではないと言い得るでもあろうが、いずれの一点も我であるとは言い得ないだろう。なぜなら、我は外にあるが故だ。あるいは樹の一葉を指して樹であると言うことはできないように、我の一つの働きを指して我ということもできないと言い得るでもあろう。現在においての我の一つの働きは我の一つの働きであって、我の全体ではないことは言うまでもない。しかしまた単に全体がその中に潜在的というのでもない。潜在的なる物は何時か発展し尽くすと考え得るが、我は発展し尽くし得るものではない。無限の未来においても我は我を見ることはできない。見得たるものは我ではない。我は到る処に顕現的だ。真の我は判断の主語とすることもできなければ、また術語とすることもできない。ヘーゲルなどの考えた如く、判断は推論式において基礎付けられることによってその客観性を得、推論式によって現され得る体系がその主体となるとすれば、真の我はかくの如き意味において判断の主体と考えることができる。そして推論式の基礎付けは無限に深く入り込み得る如く、我の奥底には無限に深いものがあるだろう。我々は推論式の無限の連続において初めて動的統一の立場に達し、この立場において基礎付けられるものと基礎付けるものとが対立し、無限に深く基礎付け行くことが主観的作用である。主観というのは、かかる基礎付けの立場だ。我々はある色を赤とか青とかして意識した時、我々はこれを色の主体から基礎付けているのだ。そしてかかる基礎付けの外に色の意識はなく、基礎付けは一面において創造だ。我々の知識は静的統一によって基礎付けられるのでなく、知識の客観的基礎は何時でも動的統一にあるのだ。種々の対象界に対して種々の主観的作用があり、これらの作用が無限なる動的統一の形において、一つの我に結合されるのだ。
普通には推論式と意志は完全に相離れたものと考えられているが、私は推論式の表が意志であり、意志の裏が推論式であると思う。意志は積極的方面であり、推論式は消極的方面とも言い得るだろう。ヘーゲルの考えの如く、推論式の基礎となるものは客観的なものである。知識の根拠として客観的必然を以て我に臨むものは、カントの言う如き純我の統一によって構成された客観界でなければならない。我々はこの世界において、我々の知識の無限なる根拠を求めるのだ。実在的なるものは理性的であり、理性的なるものは実在的であり、しかもかかる客観界は我の所作であり、またその奥底である。我々が意志する時、目的を決定するに当たって既に知識が働くのだが、目的から手段に移る時、これを決定するものは純なる客観的知識でなければならない。我々は自然の法則に反して海辺における一粒の砂をも動かすことはできないのだ。我々の意志は小なる主観的欲望から出立して、大なる客観的世界をこれに従えようとする。これにおいて我々の欲求は、純なる知識の対象界と衝突せねばならない。しかし純なる知識の対象界は、カントの言う如く我々の心の奥に潜める純我の構成の世界に過ぎない。知識の為に知識を求める純なる知識的欲求も一種の意志であるとして見れば、我の撞着するものもまた我であることを免れない。知識の客観的根拠として我に臨むものもまた我に外ならない。我々が純なる知的我の立場に立つ時、知識の達することのできない客観的根拠と見られるものは、かえって我の深い奥底であって、知るということはこの立場から意志することだ。我々の知識は不完全であって、推論式の形においてどこまでもその基礎付けを求めて行くというのは、かかる意志の要求に過ぎない。この立場から我々は何人も認めねばならない唯一の真理を認め得るのだ。各人の認識主観はこの立場によって成立するのであり、認識作用はかかる意志の発展の過程だ。これに反し、たとえ、盲目的衝動に基づく意志であっても、その実現の過程は合理的でなければならない。心理学者が意志を表象の連続と考えるのもこれによるのだ。ただ、目的そのものは認識対象界において対象化することはできない。しかし純なる知的作用においても、認識主観の奥に潜める知識の目的そのものは対象化することはできない。主意主義の心理学者が言う様に、すべての精神作用は意志であって、ただその目的の内容を異にすると考えることもできる。しかし以上の如く言うならば、それでは意志においては客観を主観に従え、知識においては主観が客観に従うような両者の区別は何処から起こって来るかとの疑問も起こるだろう。私は我々が主観的な目的を客観的に実現すると言うことは、一般的なるものが「唯一のもの」として自己自身を限定することであると思う。客観的実在とは、いつでも「唯一なもの」でなければならない。何人にも共通で幾度にても繰り返し得るものは実在ではない。認識対象として射影されたものは、すべて可能の世界に属し、真に唯一である実在性を有するものは現在の認識作用あるのみだ。意志は、己自身に唯一にして一般化することのできない実在性を有するのだ。意志は意志自身の中にその実現を求めるのだ。意志が意志として発展することが「唯一なる実在」となることであって、意志がその目的を客観的に実現することだ。いわゆる客観界は意志によって支持されるのである。認識の目的は真理にあることは言うまでもないが、真理を知るということは客観的実在に到ることだ。無論、認識ということは模写説の考えのように実在に合一することではなく、カント学徒の如くアプリオリから構成するのであると考えねばなるまい。否むしろ動的一般者が自己自身を分化発展することであると考えるべきだろう。そして思惟が知覚と結合することによって客観的知識となるとカントが考えた如く、アプリオリのアプリオリの立場において思惟と純知覚が結合することによって、換言すれば超越的意志の立場において知識が特殊化されることによって、客観的となると考えることができる。私は推論式の形において、知識を客観的に基礎付けることは、ただ超越的意志の立場において可能であると信じる。あるいは論理から数理に、数理から物理に、知識が総合的となるに従い、特殊化と共に客観的となると考え得るだろうが、生理学においてのように自然科学的知識の中に目的観が入ってきた場合、その知識は更に特殊化されたと考え得るも、客観的となったとは言われないと言うかもしれない。後者はかえって主観的とも考えられるだろう。何故に特殊化の方向に進むと考えられる意志に近づくことが、かえって知識の客観性を破ると考えられるだろうか。私はこれにおいて意志の本質というべきものを考えてみなければならない。我々の意志は元来単に主観的なものではない。衝動においてのように、我々が自然によって動かされると考えられた時、我々の欲求は客観的自然に基礎を有することを意味する。それだけでなく、意志には実行の手段が伴って初めて真の意識となる。可能なるものにして初めて意志の対象となるのだ。もし実在は精神的であるとするならば、目的論的説明が真実在の説明とも考え得るだろう。客観界は主観によって構成されたものであり、与えられるものは求められたものであるとすれば、真に与えられたものは意志の対象として与えられたものであり、真の客観界とは意志の対象界であると言い得るだろう。因果関係を論じる科学に目的観を入れるのは立場の混淆として排すべきであるが、目的観は機械観より一層高次的な見方であり、一層具体的な真理とも言える。この意味において客観的と言い得るだろう。単に一般的なるものは具体的なるものではない。機械的因果関係は目的的因果関係の過程と考えることができる。無論真理は意識一般の立場を失うことはできないだろう。どこまでも意識一般の立場において構成されるものと考えなければならないだろう。しかし単にいわゆる意識一般によって与えられるものは、無内容である知識の形式のみだ。知識はその内容を得、具体的となることによって一般性を滅するかもしれないが、一般妥当性を失わない。なぜなら、知覚と思惟を結合する意志の立場は、意識一般を超越してこれを中に含むが故だ。数理のアプリオリによって数の世界が構成される。ある一つの数学的真理は、数理の世界において動かすことのできない真理として唯一性を持たねばならない。そしてかくの如くある真理が数理の世界において唯一的であると言うこと自身が、多くの主観に対して一般的妥当性を有するということとなる。我々の自己が数理的思惟の立場に立つ場合、ある一つの数学的真理はそれが唯一の事実であると共に、一般妥当的である。あたかも具体的自己の立場において、歴史的真理が唯一であると共に一般妥当的であるのと同様だ。ただ数理のアプリオリは自己の全体でないから、自己は更に分化発展し得る。そして斯く分化した個性的自己に対しては、数理は単に一般的なる真理となる。我々が推論式の形において知識を基礎づける時、それが数学的知識であるならば、数理のアプリオリに依らねばならない。この時数理のアプリオリは、具体的一般者として無限なる数理の根底となる。これによって真理の唯一性が立せられるのだ。物理的知識においては、そのアプリオリは一層具体的とならねばならない。作用の作用の立場において、アプリオリが具体的となればなるほど、知識は具体的となる。無論、物理のアプリオリが数理のそれよりも一層具体的なるが故に、数理が物理によって基礎付けられるのではない。しかし我々が知るということは、抽象的から具体的に至るということであるならば、物理的知識は数理的知識により一層知識の目的に合ったものでなければならない。一つのアプリオリの中においても真理を決するには、その目的によらねばならない。目的に合ったものが、具体的にして唯一なるものとなるのだ。真理の唯一性を与えるものは、この目的的統一だ。我々の意志と言われるものも単に主観的ではない。私の意志は私の見る世界の中心だ。私の見る世界は私の意志によって支えられている。動物にとってはこの世界は単なる飢餓の世であり、飢渇を満足せしめるものが唯一の客観的真実在だ。知識はそれ自身に何らの価値なき手段に過ぎない。動物の哲学は実用主義たらざるを得ない。我々が知識において真実在を認めると考えざるを得ないのは、超越的意志が我々の自己の根底を成すが故だ。知識的当為の根底に道徳的当為がある。真を含まない善はあり得ない。善は自ら真を要求し来るのだ。我々の意志は何時でも現実から出でて現実に還る。ここに意志の唯一性がある。真理の唯一性もこれに外ならない。知るという意志に始まって、知るという意志に終る。知らんと意志する時、知らるべきものが含まれている。我々が推論式において外に無限に客観的基礎を求めて行くということは、内に無限に自己に還ることだ。私の進み行く先は、私自身の中にあるのだ。無限なる知識の体系を統一し、決定するものは、私の深い奥底にある。理性は意志発展の過程に外ならない。すなわち自己自身の純化作用に過ぎない。
我々の理性の要求から推論式の形において無限に知識の基礎付けを求めて行くことは、具体的作用としては意志である。理性は超越的意志の一面と考えることができる。カントは「先験的弁証論」の始りにおいて、理性の原理は理解力による条件的な知識の統一を完成するため、絶対的根拠を見出すにあるzu dem bedingten Erkenntnisse des Verstandes das Unbedingte zu finden, womit die Einheit desselben vollendet wirdと言っているが、知識に絶対的根拠を与えるものは創造的意志でなければならない。知識の立場から見れば、意志そのものの内容は達することのできない無限の果てと考えられるだろう。しかし自己が自己を省みるという自覚において、かかる無限の系列を積極的に知り得る如く、我々は我々が意志する、我々が行為するという直接の意識において、対象化することのできない作用自身を意識することができる。そして知識の客観性はかくの如き意志の意識、行為の意識の上に立せられるのだ。すなわち認識主観は行為的主観によって立つのだ。今朝覚めてこの机の前に座する私は、直ちにこの机は昨日の机であると認識する。心理学者は無雑作にこれを記憶によるという。しかし記憶ということはいかにして可能なるか。過去の表象は過去の表象として消え去ったものならば、いかにしてそれが現在の表象と比較され、その異同が判断されるのだろうか。もしこれを脳細胞の作用に帰するならば、間接のものを以て直接のものを証明することとなり、二重の困難に陥るだろう。昨日の意識と今日の意識を直接に結合するには、私がかつて論じた如く超時間的なる意識統一によると考えねばならない。超時間的自己の立場において初めて可能であるのだ。時間というのは、かえってかかる統一の形式と考えられるのだ。しかし単なる意識統一という立場に立つならば、我々は一歩も自己の意識外に踏み出すことはできない。昨日の机というのは昨日の私の意識内容であり、今日の机というのは今日の私の意識内容であり、この二つのものが超時間的自己の立場において統一され得るものとしても、それは意識内容としての同一性であり、不変性たるに過ぎない。単に意識統一という立場からしては、我々は観念主義の外に出づることはできないのだ。しかし我々はこの机が意識内容としての同一性を有し、普遍性を有すると考えるのみならず、昨夜私の眠っていた間にもこの机は継続し存在していたと信ずる。この机上の時計は私の眠れる間にも休むことなく進んで、我々はこれによって、我々の眠れる時間をも計り得ると信ずる。我々は何によって、斯く信ぜざるを得ないのだろうか。かかる知識に客観性を与えるものは、単に意識一般という如き知的統一ではなく、意志の統一でなければならない。意志というのは、意識と無意識の統一だ。我々は行為の立場において過去と未来を含み、物と心を統一しているのだ。天上の星に対して我々は所有の欲求を起こさない如く、可能の意識なくして欲求の念は起こらない。あるいは快不快の感情の対立から自ら欲求の念が生じると考えられるでもあろうが、現在の不快に対して過去の快を想起し、心内に感情の対立が成立するということと、意志とか行為とかいうことはその本質を異にすると考える。私はそこにアプリオリの相違があると考えざるを得ない。卑近に言えば、運動の感覚の如きものが加わらねばならないと言い得るかもしれないが、深く考えれば、そこには主観にして客観を包む超越的意志のアプリオリが加わり来ると考えねばならない。感覚から思惟が出でぬように、単なる感情から意志は出てこない。かえって感情や知識よりも、意志が一層根本的であると考えることができる。知覚も概念も実用的意味を含むという実用主義の議論も、この点からは一面の真理を含んでいるのだ。そして空間というものは、我々の運動可能の範囲を示すものだろう。私はこの机が私の意識しない時でも存在しているというのは、私はこれに触れば触れ得るという可能性のあることを意味するに外ならない。そしてまた可能ということは同時存在を意味し、物体の世界を意味するのだ。いわゆる心外における物体の世界は、単なる知的立場において成立するのではない。むしろ意志の立場において成立すると考えねばならない。純粋統覚は純粋意志の一面と解すべきだろう。私をしてこの机が直ちに昨日の机と認めるのも、これによるのだ。我々の経験界を構成する純粋統覚は、単に一般的な論理意識であってはならない。現在の経験の中にあって、これを構成するものでなければならない。経験内容と論理は通常互いに無関係と考えられる。経験内容は非合理的、偶然的と考えられるのだ。例えば、早い振動が赤であって、遅いのが青色であっても矛盾ではない。ただ我々は経験的知識を動かすことのできない真理と信じるのは、現実の事実感によるのだ。そして事実的知識を構成するものは、作用の作用たる意志のアプリオリでなければならない。無論右に言った如く現実と可能の統一である意志の立場において、意識外における物の存在が認められ、自然科学的知識もこれによって立せられると言う時、種々の疑問が起こるだろう。我々はいかにして意識外のものを知り得るか。我々の意識は眠れる間も意識しつつあったのであるか。これらの疑問は不可解のように思われるが、我々が意志する時、意志することを意識しているのだ。物を知る場合、我々は知るものと知られるものと別であると考えねばならないが、我が我を知る時、知るものと知られるものと一つであると考えねばならない。我が我を知るという意識は、何時でも「時」を超越している。あるいはかかる意識は単なる仮定に過ぎないと言うでもあろう。しかしすべての知識はこの意識の上に立つのだ。もしこれを仮定というならば、自同律の如きも仮定たるを免れない。我々の眠れる間にも、意識があったとは言い難い。しかし意識現象外の物体界は単なる可能の世界、抽象の世界に過ぎない。我々の意志は意志と直ちに結合するのだ。意志は単に時間の形式によって構成された出来事ではない。我々はいつも我々の意志完成の過程の中にあるのだ。芸術的創作の如きものであると思う。行為は単なる時間上の出来事ではなく、意味の完成でなければならない。その一面に時間を離れた意味の世界がある。いわゆる物体界もここにあるのだ。芸術的創造作用では、かかる意味の世界は芸術的理想の世界と考えられるが、行為においてはそれがその人の人格的内容であり、世界史においては神の人格的内容となる。アウグスチヌスが神の創造以前に「時」はない。「時」も神の創造したものであると言った如く、意志を束縛する「時」はない。芸術的創作に対して、「時」はその意義を失う如く、意志は「時」に対して自由だ。これ故に知識の立場においては、我々は世界は何の方向に進むかを知り得ない。ただ意志の深い奥底から導かれるのみだ。我々は普通に可能の世界である物質界を実在となし、精神界を虚幻と考えるから、「時」の範疇を超越するということが不可解のように思われるのだが、物質の世界を可能の世界、抽象の世界と見る時、世界全体が一つの芸術的創作とも見做され、私のいわゆる昨日の意識と今日の意識の結合、意志と意志との直接の接触が、「永久の今」の立場を理解し得ると思うのである。
もし人生に真に神秘なるものがあるとすれば、理性における自己の行為より神秘なるものはない。行かんと欲せば行き、座せんと欲せば座す。この自由なる行為の立場において、我は物と心の世界を統一し、この両界の上に座している。現実にしてしかも縦に無限の過去と未来を、横に無限の空間を内に包むが故に、我々は現実の意識において意識以外に無限なる世界の存在を確信し得るのだ。いわゆる知識の根元として客観的必然を以て我に臨むものも、この立場に依って立つ主客合一の世界に過ぎない。カントの物自体の世界もここに求めるべきであろう。そしてかくの如き行為の世界は、いわゆる知識の世界を内に包むと共に、己自身の積極的世界を持っている。この世界は行為が行為自身を目的とすることによって現れ来るのだ。すなわち行為が行為自身に還ることによって現れ来る具体的世界だ。芸術の世界、道徳の世界は、かくの如き純なる行為の立場に立つことによってのみ、現れ来る創造的自己の世界と考えるべきだろう。故に芸術家は創作において、道徳家は行為において、ただ真摯に行為することによって、新たなる芸術の世界を見、新たなる道徳の世界に進み得るのだ。
意志と推論式
判断とは、主語となる概念と、術語となる概念を、繋辞(連辞。論理学で、命題の主辞と賓辞とをつなぎ、両者の関係を言い表す言語的表現。「鯨は哺乳類である」の「である」の類)によって結合したものではなく、総合的全体を判断の形において分かつことによって成立するのであるとは、今日多くの論理学者の言う所である。判断が既にかくの如きものであるとするならば、推論式において大前提と小前提を結合して結論を出すものは何であるか。ここには更に大なる一つの総合的全体があると見ねばなるまい。推論式とはかくの如き総合的全体の自己発展と考えることができる。そして我々の理性は推論式の形において果てしなく論拠を求めて行くのであるから、かくの如き総合的全体は無限に遠く深いものであると考えねばならない。
数学的知識の如き場合には、かくの如き無限に深い基礎が自己にあると考えられる。これに反しいわゆる経験的知識の如き場合には、かくの如き無限に遠い基礎が外にあると考えられる。しかしカントの認識論のように考えれば、いわゆる客観界は主観の構成するものであって、我々が外に無限に遠く深い実在と見ているものは、かえって自己自身の深い奥底と考えることができる。なぜかと言えば、我々の自己は無限なる作用の作用であって、部分的作用の立場(例えば思惟作用など)において全自己の対象界を見る時、無限に遠く深い実在界と考えられるが、自己が真の具体的自己に至る時、前に果てしなき客観界と考えられたものは、かえって自己の奥底と見られるのだ。対象が作用に十全である時(数理の場合など)、無限なる真理の基は我にあると信じられ、我々は先験的真理を持つと考えられるが、これに反し対象が作用に対して不十分である場合、その対象は非合理的と考えられ、我々はただ経験によってこれを知ると考えられるのだ。いかにして非合理的なるものが、経験内容として我々の知識の圏内に入って来るか。我々の経験的知識はいかにして成立するか。私はそれは無限なる作用の統一である超越的意志(作用の作用)の立場においてのみ、可能であると考える。いまだ反省されない純なる作用そのものの直接の統一、すなわち自由我(作用の作用)の立場においてのみ可能であると思う。理性というのは超越的自己の反省の立場であり、意志とはその創造的立場だ。理性の立場において非合理的なるもの、反自己的なるものも、意志の立場において自己の圏内に入れることができ、広義において合理化することができる。合理化といえば穏当を欠くかもしれないが、内面化することができるのだ。いかにして意志の立場において、非合理的ものを内面化し合理化するかは、我々は我々の芸術的創作において、また道徳的行為において明らかにこれを証することができるだろう。行為によって非合理的なる実在が自己の圏内に入り来る(内面化する)のだ。我々は思惟によって真理を知り、真理と一致することができるとするならば、我々は行為によって物自体を直覚し、物自体と一致するということができる。学者が思惟によって新たなる真理を知る如く、画家は筆を取ることによって、彫刻家は鑿を取ることによって新たなる実在を知るのだ。いわゆる経験界というのは、純粋理性と純粋意志の間の立場において成立する中間的対象界でなければならない。言わば、数理の如き純なる理性の世界と、芸術の如き純なる直覚の世界の中間に位するものだ。真に直覚するということは作用そのものとなるということでなければならない。直覚とは主客合一の純粋活動を意味するのだ。思惟の範疇が「時」の図式によって知覚と結合することによって客観的知識となると言う時、我々は既に思惟の立場から意志の立場に移っているのだ。私は動かすことのできない事実の知識というものは、ただ意志の立場、行為の立場においてのみ成り立つと考えるのである。現に私の目前にあるこの本が必ず赤色でなければならない理由はない。私が斯く考えねばならないのは、私の行為我(作用の作用)の立場において斯く信じねばならないのだ。我々は視覚において斯く感じるからと言う。視覚において斯く感じるということは、斯く見るということだ。見るということは我々が視覚作用と一致することであり、我々が視覚的に働くということだ。事実的知識は先ず我が働く(作用と一致する)ということによって確立されなければならない。それで、この本が赤色であるという基には、私が働くということがなければならない。いわゆる経験的知識というのは、皆かくの如き意志の確証の上に立てられるのだ。思惟と経験の最も根本的な結合は、自由我(作用の作用)の深い奥底に見出さねばならない。物とはかくの如き自由我(作用の作用、意志)の統一を射影したものに過ぎない。意志(作用の作用)が自己自身(作用)を反省し、自己の対象として自己の中に自己を写したものに過ぎない。物の種々なる性質とは、我の種々なる作用に相当するのだ。無論我々はこの自由我の立場から行為が直ちに行為を生む創造的方向に進んで、深い芸術や道徳の世界に入り込むこともできるだろう。また同じく超越的意志(作用の作用)の反省の立場、すなわちいわゆる意識一般の立場に立って、経験的知識の世界を構成するとしても、意志自身の積極的立場を維持して歴史的知識の世界を構成することもできるだろう。ただ意志が自己反省の立場を進んで自己の立場をも失ったと考えられる時、そこに自然の世界(自然界)が現れて来るのだ。実在を構成する「時」は意志の射影であって、「時」がその進路を失った時「空間」となるのだ。
演繹的論理においては、我々は一般なるものから特殊なるものに行くが、帰納的論理においては、特殊から一般に行くと考えられる。帰納法に基づく自然科学的真理は、特殊によって一般が立せられるのだ。いかにして特殊によって一般が立せられるか。特殊なるものが一般なるものの顕現と見なされ、これを分析して要素間の関係を明らかにすることによって、一般的真理が立せられるのだ。類推法や一致法よりも、差異法が最も確実である帰納法と考えられるのもこれによるのだ。そして特殊なるものを一般的なものの表現として見るのは、広義における芸術的態度であり、我々の意志とは現実を理想化する過程だ。意志によって現実を理想化すると言うのは何を意味するか。意志作用においては、始りの中に終りが含まれているのだ。部分の中に全体が含まれているのである。これによって現実が唯一なるものとなるのだ。意志は一般的なるものを特殊化する作用だ。数理の如き世界においては、何処までも特殊の中に一般を含むということはない。要するにその根底には理性的一般者がある。物理の世界に至っては、これと異なり一つの原子は自己同一の実在として、全世界に対して自己自身を維持するのだ。現実の原子は全世界との関係を含んでいなければならない。過去未来の歴史を含んでいなければならない。いかにしてかくの如き物力の考えが成立するか。現在においてある性質的なるものが動くと見られるのだ。空間と時間を統一したものが物力だ。否、単なる時間空間の結合は力学的対象に過ぎない。物力には性質的なものが入って来なければならない。性質的なるものによって特殊化されるのだ。そしてかくの如き結合は、ただ理性と感覚を超えて、しかも二者を統一する作用の作用の立場においてのみ可能だ。すなわち自由意志の立場においてのみ可能なのだ。すべて必然なるものは自由意志の内容として成立するのだ。自由意志が自己自身の内容を反省した時、それが必然的である力となるのである。自然とはただ自由意志が自己自身を省みることによって生じる対象に過ぎない。そして作用(意志作用)が自己自身を省みるというのは働くことでなければならない。数理的思惟に対して、数理的対象がこれによって限定されたものとして現れる如く、自由意志に対して、自然はその内容としてこれ(自由意志)によって限定されたものとして現れるのだ。現在においてある経験内容が変化する時、普通に心理学者の考える如く単に我々の意識統一内において考えるならば、物力の考えは起こり様はない。物力の考えが成り立つには、我々は意識外の統一に出なければならない。超意識的統一の上に立たなければならない。そしてかくの如きいわゆる意識統一の範囲外に出ることは、ただ我々の意志においてのみ可能だ。あるいは我々が我々の意識外に出るということは不可能とも考えられるだろう。かかる考えは自己を単なる知的統一と考えるが故だ。しかし考えられた自己(知的統一)は真の自己ではない。真の自己はいわゆる意識の内と外との統一だ。可能と現実の統一だ。対象界と区別されたいわゆる意識作用の考えも、これによって成立するのだ。我々はかくの如き超知識である意志の立場、すなわち行為的主観の立場において、初めて超意識的世界を見ることができる。超意識的世界はただ行為の対象として現れ来るのだ。私が現に見るこの机が昨日の机と同一の机である。私が昨夜眠っていた間にも、この机は存在していると信じるのは、これによるのだ。フィードレルが純粋視覚の立場に立つ時、そこに無限なる芸術的対象界が開かれると考えた如く、我々が意志の立場に立つ時、そこに無限なる理念の世界が開かれるのだ。知識的にはこの机が昨日の机と同一なるや否やを証明しようはない。意志の立場は知識の立場を超越している。我々の客観的知識は実に意志によって立せられるのだ。もしこれを神秘として排するならば、すべての物理的知識は神秘とせなければならない。知識は一般的なる立場から特殊なるものを統一し、意志は特殊の立場において、抽象的に一般なるものを統一するのだ。経験的知識においては、特殊なるものが基とならねばならない。一般なるものは特殊なるものの説明の手段となるのだ。ただ物理的知識の基である特殊は、単に働くという外、何らの積極的内容を有しない。すなわち単に形式的意志の無限なる射影に過ぎないから、かえって一般的なるものが中心であるかのように考えられるのだ。これに反し意志が己自身の積極的内容を持つ時、一般的なるものはすべてその実現の手段となる。あたかも芸術的創作においての如く、現在の唯一なるものが中心となるのだ。
推論式が成立するには、その背後に無限なる創造作用がなければならない。単に形式的である推論式は何らの客観的知識を与えることはできない。強いて言えば、ただいわゆる分類において見る如き無限なる種族の連続を成立せしめるのみだ。数理的推理において、一般的なるものと一般的なるものを結合するものは、かくの如き無限に深い創造作用だ。推理はその発展の過程に過ぎない。しかし数理的思惟の如きは、なお全体として一つの一般的なるものの上に立つと考えられる。これ故に創造作用が自己にあると考えられる。かかる場合において、自己というのは、自己の反省的方面を意味するのだ。しかしすべて自己自身に一般妥当性を有する客観的知識は、単なる反省によって生じるものではない。数理においてもそうであるのだが、物理においては特に明らかだ。物理的知識においては、反省的自己は直観的自己に従わねばならない。広義における意志的主観(直観的自己)が真理の創造者となる。数理と経験内容を結合する力の世界は、一般的なるものの特殊的統一だ。これにおいて真理の基礎は一般から特殊に移って来る。演繹法から帰納法に移らねばならない。特殊によって一般が基礎づけられると言うのは不可解と思われるかもしれないが、意志の形において一般が特殊の中に含まれるのだ。ただ、無限に創造的である意志は反省的思惟に対して達することのできない奥底であるが故に(思惟は意志を対象化できない故に)、合理的と非合理的と相反し、両者の間に超えることのできない間隙が生じるのだ。しかし我々が更に純なる意志(作用の作用)そのものの立場の上に立てば、かかる反対そのものが積極的内容を持って来る。矛盾そのものが意味を持って来る。いわゆる人格的内容とは、かかる内容に外ならない。これにおいて先に無限に遠く深い外と思われたもの(非合理、特殊)が自己の奥底となり、※アポステリオリはアプリオリに還り、特殊はまた一般に帰することになる。
※ 引用 アポステリオリとは
すべて真理は唯一なるものに帰するのだ。唯一なるものとは対象が作用自身に返った時に成立するのだ。作用が作用自身を反省した時、生じるのだ。単に対象としては真に唯一というものはない。対象の唯一性は作用の唯一性によって立せられるのだ。対象を創造するものにして初めて唯一となることができる。そして作用の唯一性はただ作用の作用の立場においてのみ認め得る。真理は一般妥当的であることは言うまでもないが、単に一般妥当的なるものが真理ではない。真理は合目的的でなければならない。カントが数理が知覚と結合して、客観的知識となると考えたのは、これによるのだ。そして斯く真理の目的点を定めるものは、具体的意志の外にない。ヘーゲルは「唯一なるものは一般的なるものである」“Das Einzelne its das Allgemeine”と言い、一般的なる概念は己自身を発展し、己自身に還ることによって、唯一なるものとなり、具体的真理に到ると考えたが、私はそこにカントが知覚と結合することによって客観的知識となると言ったことと同一の意味があると思う。一般的概念が発展して己自身に返るという時、単に一般的なものが元の一般的なものに還るのではない。一層具体的である一般者の立場において見られることだ。小なる円がこれを包む大なる円に結合することだ。作用の作用の立場において抽象的一般が具体的一般に向かうことだ。すなわちそれは己自身の目的に合うことだ。抽象的なるものの目的は具体的なるものにあるのだ。知識はこの方向(抽象から具体という方向)を進むことによって、意志に結合するのだ。意志のみ真に唯一なるものであると言わねばならない。
知識は主観的作用によって構成され、外において知識を限りなく基礎付けるものは、内において無限に創造的である作用に他ならない。ある一つの作用の立場において、その内容が限定された時、その作用が超個人的である限り、一般妥当的真理を認めることができるのだが、その知識が更に具体的である作用の作用の立場すなわち意志の立場において反省され、合目的的に統一された時、はじめて真に客観的にして唯一である知識となるのだ。我々の意志は主観的と考えられるが、単に主観的なる意志は何物をも実現することはできない。意志は何処までも客観に従わねばならない。否、与えられた客観界が自己の作用の範囲内に属するものとして、はじめて我々の意志の体験が成立するのだ。与えられたものは(作用により)求められたものであると言う時、我々は既に意志の立場に立っているのだ。衝動的意志といえども、同一の形式を備えている。意志は限りなき知的アプリオリの統一であって、その積極的内容が明らかなればなるほど、意志は自由と考えられるのだ。種々なる知識のアプリオリを総合し統一するものは、意志の立場でなければならない。これ故に知識の最終統一である哲学は、意志的統一の範疇において成立する知識であると考えることができる。哲学はただ超認識的意志の立場(作用の作用の立場)においてのみ成立するのだ。この点において哲学は他の科学的知識と区別し得るのだ。もし意志の範疇において成立するものは知識でないと言う人があるならば、私はその人に自覚の意識を有するや否やを問うてみたい。哲学は超越的意志(作用の作用、自由我)の自覚でなければならない。我々の知識は過、現、未を統一し、無限に動的である現実の行為的主観(超知識である意志の立場、作用の作用の立場)に始まって、またここに還らねばならない。ここに真善美の合一点があるのだ。
美と善
一
我々は通常、知識の対象界を唯一の世界と考え、我々はただこの世界の中に生き、この世界の中に働いていると考えている。しかしかかる立場から見れば、私の意志、私の行為という如きものも、他の知識の対象と同じく、単なる知識の対象でなければならない。私の意志、私の行為という如き意識の起こって来るすべはない。意志の意識、行為の意識が成立するには、働きが働き自身を知ること、すなわち働くということが知るということでなければならない。元来、我々が知るということも一種の意志であり、行為である。我々は単なる知識の対象界に生きているのではない。我々は常に行為の対象界において生きているのだ。美とは単なる快感ではない。もし美が単に快感であるならば、美は一般妥当性を要求することはできない。美とは超知識的である深い生命の内容の表現でなければならない。我々に直接なる行為の立場においては、すべてが人格的生命に充ちている。この内容を直ちに表現するものが芸術家の創造作用だ。芸術家の創造作用が表現運動と考えられるのも、これによるのだ。行為の対象界における生命の内容は、ただ行為によってのみ、これを理解しこれを表現し得るのだ。道徳的善ということも、単なる知識の対象界において説明することはできない。もし強いてこれを説明しようとすれば、功利主義に陥るか、そうでなければ一種の幻覚と見る外はないだろう。道徳的行為というのも、超知識的である深い生命の要求に基づいて、我々の自由なる人格の世界を構成する創造作用でなければならない。斯くして我々の利害得失の念慮に対し、「汝は斯く為さざるべからず」という道徳的命令の権威が立ち得るのだ。善と美は共に我々が自己の中に深く潜める超自然的なる自由我(作用の作用)を自覚し、この立場の上に立つ時、初めて現れ来る内容であって、同一の立場の対象界に属すると考えることができる。純真な生命の内容として善ならざる美はなく、美ならざる善ははない。それでは善と美はいかに区別され、いかなる関係を有するだろうか。
二
独立にして具体的である経験はすべて自覚的体系を成している。自覚的体系というのは、いわゆる自覚において見る如く、知るものと知られるものが一であって、作用が直ちに作用を生み、知ることが働くことであり、働くことが知ることであるということを意味するのだ。視るとか、聴くとかいうことであっても、それ自身において独立の具体的経験としては、皆かくの如き自覚的体系の相を具していると思う。無論かかる知覚的経験を自覚的と考えるのは異論のあることだろう。しかし我々は自覚という場合において、その反省の方向のみ考えて、創造の方面を忘れている。単に反省の対象となる静的統一である自己は、物と同一である。真の自己は創造的作用でなければならない。芸術家の創造作用においては、理念が創造的である。絵画においては色や形の理念が創造的であり、音楽においては音の理念が創造的である。我々の視覚作用とか聴覚作用というのは、かくの如き理念の発展の過程に過ぎない。フィードレルの如く、画家の創造作用は純粋視覚の発展と考えることができる。私は芸術家の創造作用が色や形や音の理念の内面的発展の過程として、これらの理想の自覚と言い得ると思う。自覚と言えば、自己が自己を判断の対象として意識し得るかのように思うかもしれないが、我々の能動的自己が判断の対象となることのできないのは言うまでもない。思惟の作用は自己発展の過程に過ぎない。いわゆる感覚的内容の世界における理念の自覚が、芸術的想像作用であり、思惟内容の世界における理念の自覚が、道徳的行為だ。ただ我々の思惟というのは、作用の作用である意志の反省的方面としてすべての作用の統一の立場であるが故に、この立場における自覚は自覚(意志、作用の作用)の自覚として、すべての自覚の根源となり、すべての自覚はこの立場において成り立つと考えられるのだ。
我々は通常、自己が自己を省みる、省みる自己と省みられる自己と一つであるということを自覚と考えているが、我々の自己は単にかかる知的統一ではなく、自己が自己を省みるというのは自己が自己の中において働くことであり、自己が一歩進むことであり、その事自身が消すことのできない自己の歴史を構成することである。すなわち客観的事実となるのだ。この意味において、自己は作用が直ちに作用を生む動的統一であり、創造的作用であると言うことができる。私が自己の本質を意志と言い、行為と考えるのは、これによるのだ。我々が物を知るという場合には、物があって我がこれを知るということができる。しかし我が我を知る時、知らざる我があるということはできない。知らざるものは我ではない。それでは知った時、はじめて我があると考えるべきであるか。しかし我を知るものは我でなければならない。我なくして我を知るということはできない。我々は我々の自覚において、明らかに判断以前の知識というものを認めざるを得ない。自覚においては、働くということが知るということである。いわゆる経験界においては、働く者そのものを知ることができないと考えねばならないが、自覚においては我々は働く者そのものを知るのだ。力それ自身を知るのだ。我々は物の原因と同一の意味において、経験の背後に不可知的自己を考える時、それは考えられたものと同列的である自己であって、真の自己ではない。かくの如き自己から自覚の意識の起こり様はない。
我々の自己はその創造的方面において、知即行、行即知である。芸術家の創造作用は、それが行であると共に知である。筆の先、鑿の先に眼があると言うべきだろう。我々はこの立場において、知識によって達することのできない世界を歩みつつあるのだ。過去の過去から未来の未来に亙る世界歴史と考えられるものも、超個人的自己の創造的方面を表すものだ。超越的意志(作用の作用、自由我)の創造作用に過ぎない。私が眠りつつあった中にも、この机上の時計は時を刻みつつあった。この机は昨日の机と同一の机であるが、時間上に一日だけの変化を受けたと言い得るのは、ただ超越的意志(作用の作用)の立場において言い得るのだ。いわゆる客観的世界は思惟によって知り尽くすことのできない無限なる実在であると共に、思惟によって構成されたものだ。思惟の構成的方面と考えられるものは超越的意志であって、いわゆる思惟とはその反省的方面に過ぎない。意志と思惟は一つの作用の両面だ。芸術家が昨日の作品を取って、再びこれ(創作)を続ける時、時を超越する芸術的理念が働いて来るのだ。その間の時間は完全に失われなければならない。我々が昨日の世界を今日も続ける時、昨日の我は直ちに今日の我につづき、昨日の世界は直ちに今日の世界につづく。この我は昨日の我であり、この室は昨日の室である。我々はこれを証明する何物をも持たない。我々の知識はこのポストゥラート(公準。基本的前提として必要とされる命題)から始まるのだ。昨日の経験とか今日の経験とかいうものが、意識の表面における夢幻的な現象ではなく、我々とこれらと相働く実在であるというのは、我々が行為的主観の立場において、初めて爾(そう)言い得るのだ。この立場から見て、実在は我々の意識を超越して存在し、昨日の我は今日の我であり、昨日の室は今日の室である。我々がこの世界を無始から無終に亙りて進展已むなきもの(進展するもの)と考えるは、超越的意志(作用の作用)の世界として、作用が作用を生むということを意味するのだ。我々のいわゆる実在の奥底に人格的内容の世界がある。生物学的認識、歴史的認識はこれによって成立するのだ。いわゆる時間空間とは超越的意志の否定的方面(反省的方面)の範疇に過ぎない。超越的意志の積極的方面である文化発展の立場においては、あたかも芸術家がその理念の立場において時間空間を超越するが如く、時間空間を超越している。実在を行為の対象として見る時、我々はこれを動かし得るということができるのである。現実の根底に超越的意志(作用の作用)の内容が働いている。ただ、作用が作用を生む超越的意志の内容として、現実はいつでも不完全たるを免れない。
三
芸術的主観と言えば、通常、主観と客観の合一と考えられ、美とは理想の一致と考えられるのだが、斯く言う場合における主観と客観は、知的主観とこれに対立する客観を意味するに過ぎない。その理想というのも考えられた理想に過ぎない。もし斯く考えるならば、芸術的直観とは静的統一とも考えられ、また美とは欲望の満足の一種とも考える外はない。しかし私は芸術的内容というのは、我々が純粋に行為的主観の立場の上に立つことによって現れ来る客観的内容であると考える。作用の作用である純粋意志の経験内容と考えるのだ。与えられたものは求められたものであり、「知覚の予料」の原理によって、感覚が経験内容となると言われる如く、純なる意志の立場に対して与えられるものは、「意志の予料」の原理とも言うべきものによって構成されたものとして、一々が意志の表現でなければならない。知的立場を超越する純なる意志の対象、行為の対象として、一々が純なる活動でなければならない。芸術家の直観というのは、かかる立場から物を見るのだ。眼のみを以て物を見るのではない。手を加えた眼を以て物を見るのだ。造形美術の創造作用を純粋視覚の発展に伴う表現運動と見るのも、斯く解すべきだろう。主観と客観の対立と合一についても、種々の意義と次位を考えることができる。すべて主観と客観との対立というのは、作用と対象との不合一の場合に現れるのであって、主客合一とは対象即作用、作用即対象として一つの純なる作用となることだ。そして斯く純なる一つの作用となると言うことは、具体的根元に還ることだ。一層高次的立場の上に立つことである。
我々が普通に創造作用という場合、創造する作用と創造される物とは別物だ。しかし真の創造作用は自己の中から自己の内容を創造するものでなければならない。私はかくの如き創造作用の真相を明らかにし得るものは、我々の自覚であると思う。省みられた我と省みる我との間において、創造されたものと創造するものとの真の関係を明らかにし得ると思う。純粋思惟がその内容を生産するというのも、右の如き関係においてでなければならない。感覚が「知覚の予料」の原理に当てはまって経験内容となると言うが、与えられたものは求められたものでなければならず、真に求められたものは作られたものでなければならない。我は物において、我自身の顔を見るのだ。単なる思惟に対して経験内容の与えられ様はない。またこれ(思惟)によって(経験内容が)求められ様もない。いわゆる経験界とは、作用の作用である意志によって求められ、創造されたものでなければならない。純粋統覚の裏面には意志を含んでいなければならない。すべて我々の意志は物によって満足されると考えられるが、物が我々の欲求の対象となるには、意志によって構成されたものでなければならない。意志は意志自身の創造によって満足するのだ。自己は自己自身を見ることによって休するのだ。それで、我々が直覚的に見ると信じるものは、省みられた我の如く、我によって作られた我が我自身を見るのだ。神が彼自身の肖像として人間を作った時、神は彼自身を対象化したのだ。彼自身の世界を作ったのだ。斯くして、創造されたものから創造作用を見れば、省みられた自己が省みる自己に対する如く、どこまでも不完全である。不十全である。創造するものは、創造された物の中に含まれると共に、達することのできない極限だ。自己は自己を対象化することはできない。能動的自己は、達することのできない極限でなければならない。
右の如き考え方から、私は芸術的直観の内容というのは、純粋意志によって創造された、真に具体的なる直接の所与であって、道徳的行為とは純粋意志発展の創造作用であると思う。両者の関係は、創造的意志の立場においての、反省された自己と反省する自己との関係、創造されたものと創造作用との関係と解すべきだろう。フッスシャーが美を自己自身の中に映された生命“als Leben in sich gespiegelt”と言った様に、美は創造的意志そのものが自己の影を映したものだ。自己自身を対象化したものだ。純粋意志の自覚だ。ベーメの言うごとき「底なきもの」Ungrundが、自己自身の中に映じた影像は絶美でなければならない。芸術的直観は受動的直観ではない。純なる作用そのものの自覚でなければならない。美の内容は我々が純なる行為的主観の立場の上に立つことによって、初めて与えられるのだ。純粋活動のアプリオリにおいて構成されるものは、純なる活動でなければならない。道徳的行為と言えば、単に人と人との間の抽象的関係においてのみ考えられるが、意志の単なる形式的善は真の善ではない。単に善意という形式に偏すれば、かえって悪に陥る場合がある。真の道徳的善行為は具体的人格の発展でなければならない。無論、美は直ちに善ではなく、芸術的創作は道徳的行為ではない。しかし我々が純粋に道徳的行為の立場において物を見る時、まず一たび全く利害得失の念を離れて、純真に物そのものを見る芸術的直観と同様の立場に立たねばならない。我々は先ず一たび天上の星を見る如き眼を以て、地上の人間を見ねばならない。「目的の王国」は道徳的行為の創造した芸術的作品だ。真に自律的にしてそれ自身において善なる道徳的行為は、それ自身の内容を有する創造作用でなければならない。単に形式的である自由意志では、その内容を取り入れる時、たちまち他律的とならねばならない。道徳的行為の目的は実在的であり、芸術的創作の目的は非実在的であると言うが、道徳的対象界の実在性というのは、自然科学的世界の実在性とは同一でない。
四
芸術的直観と道徳的行為との関係を上に述べたように考え得るならば、「時」の図式に代えるに「意志」の図式を以てし、いわゆる自然界に代えるに文化の世界を以てすることによって、私はカントが「数学的原理」と「力学的原理」の関係について論じている中から、芸術的対象界と道徳的世界の関係を明らかにする多くの示唆を得ると思う。この考えを明らかにするため、少しカントが「経験の類推」の始において言っている考えを述べてみよう。経験的知識とは知覚によって客観的対象を定める知識である。それで経験は知覚の総合ではあるが、この総合は知覚の中に含まれているのではない。かえって知覚を総合し統一しているのだ。経験界における知覚と知覚との必然的関係は、単に知覚そのものから明らかにすることはできない。空間、時間においての存在の必然性は、知覚Apprehensionの中に求めることはできないのだ。しかし経験は知覚によってのみ与えられ、その関係は客観的に、「時」において表象されねばならないにも関わらず、「時」自身は知覚することができないから、「時」における物の存在は「時」における結合によって定める外はない。すなわち「時」の三様相Modi der Aeitというものが、我々の経験界を構成する先天的概念となるのだ。カントは「時」の三つの様相として持続、継起及び同時存在Beharrlichkeit, Folge und Zugleichseinを考え、これによって実体持続性の原則Grundsatz der Beharrlichkeit der Substanz, 因果律による継起の原則Gundsatz der Zeitfolge nach dem Gesetze der Causalitat, 交互作用あるいは交互性による共在の原則Grundsatz des Zugleichseins nach dem Gesetze der Wechselwirkung oder Gemeinschaftという三つの原理を立てているのである。
我々の経験は純粋統覚の総合的統一によって構成されたものであると言うのが、カントの根本思想である。いわゆる直覚の底にも、まして想像の底にも統覚の総合が働いていなければならない。直覚の形式と考えられる空間時間も、かかる純我の総合作用から導き出されねばならない。カントが概念と直覚を結合する図式として考えた「時」は、純粋統覚の創造作用を、最もよく現したものでなければならない。我々の知識に客観性を与える知覚は、「時」の形式によって与えられる。否「時」によって創造されると言ってよいが「時」自身は知覚されない。創造された物の中に創造作用はない。省みられた自己は省みる自己ではない。しかし創造されたものは創造者ではないが、またこれ(創造者)と別物ではない。被創造物は創造者の影を宿していなければならない。省みられた自己は物ではなく、自己でなければならない。これ故に、対象は作用に対して、何処までも不完全であり、未完成であり、所与の経験が自己自身の意義を完成する為には、無限なる発展の世界に入らねばならない。互いに偶然的にして各自に全い(まったい。完全)と思われる知覚の世界から、必然的関係の世界、思惟の対象である存在の世界に入らねばならない。そして我々の自己は達することのできない無限に深い奥底であるが如く、存在の世界もまた無限でなければならない。我々の自覚において、対象に向けられた眼が作用自身に向けられる如く、被創造物において自己の不完全を自覚した創造者の眼は、自己自身の中に向けられることによって、作用自身を対象とする反省の世界が成立するのだ。知覚することのできない「時」自身の世界は、「時」自身の様相を対象とする世界であって、すなわち直接に知覚することのできない物力の世界でなければならない。勿論、作用が作用自身を対象とするには、一層高次的立場に立たねばならない。物理的世界でも、既に無限なる「時」の方向を統一する意志(作用の作用)の立場において成り立つと考えるべきだろう。物力とは意志(ここでは創造作用、時)の対象化されたものだ。カントが「時」の三つの様相というも、単に流れ行く「時」(創造作用、単なる作用の立場)としては考えられないことである(作用の作用の立場、意志の立場に立たないと、「時」の三様相ということも考えることはできない)。
芸術的創造作用というのは、自然界における出来事ではない。無論、単に知識の立場からは斯く見られるかもしれないが、斯く考えるならば、美の一般妥当性は失われなければならない。純なる芸術的創造作用の立場に立つ時、我々は自然界を構成するとは異なったアプリオリの上に立って、異なった客観的世界を構成しつつあるのだ。すなわち純粋意志の立場に立って、純粋意志の対象界を構成しつつあるのだ。自然界と異なった、これよりも一層高次的な文化の世界を構成しつつあるのだ。我々が因果律の支配の下に快楽を追って行動するのではなく、一般妥当的価値を実現することを文化的行為とするならば、芸術家の創造作用は言うまでもなく直ちに文化的行為でなければならない。これに反し人間が初めて社会を構成し文化的生活に入る時、人生の芸術化が始まるのだ。道徳的行為は人生の純なる芸術化でなければならない。かかる意味において、芸術も道徳も文化現象として、純粋意志の対象界に属するのだ。それで、純粋統覚によっていわゆる経験界が構成される如く、純粋意志によって文化の世界が構成され、芸術的に物を見るということ、すなわち芸術的直観ということは、あたかもいわゆる経験界において直覚するということ、すなわちカントのいわゆる知覚に相当するのだ。芸術の対象として与えられたものは、純粋意志の対象界においての所与でなければならない。絵画の対象は手を加えた眼に与えられたものだ。純粋意志の対象界としては、何物も美ならざるものはない。醜きもの、卑しきものにも、人生の表現として深き美を見出し得るのだ。しかしカントが、知覚は「時」の形式によって構成されるが、「時」自身を知覚することはできないと言った如く、芸術的対象は純粋意志の構成によって与えられるが、我々は意志そのものを芸術化することはできない。被創造物の中に創造者はない。省みられた自己の中に省みる自己はない。芸術的対象において我々は人生の影像を見るも、それは人生そのものではない。芸術の中に写された人生は、何処までも一面的であり、未完成である。しかし省みられた自己は省みる自己そのものではないが、また自己を離れたものではない。自己の作用の結果であると共に、直ちにまた作用そのものだ。現在の自己の中に無限なる自己の発展を蔵していなければならない。すなわち一種の生産点でなければならない。我々は「時」そのものを知覚することはできないが、いわゆる知覚は我々が図式「時」の構成の立場に立つことによって与えられるのであって、自覚において省みられた自己が直ちにまた省みる自己である如く、その中に存在の世界への発展を蔵していなければならない。これ故に我々は知覚の世界から思惟対象の世界に進まねばならない。第二次的性質の世界から第一次的性質の世界に入らねばならないのだ。これと同じく、我々は純粋意志の世界においては、芸術的直観から内面的必然を以て道徳的当為に移り行かねばならない。無論、私の斯く言うのは、芸術から道徳が発達すると言うのではない。ただ両者の深い本質的関係を示すのみである。右の如く純粋意志の受動的立場から能動的立場に移る時、すなわち創造作用そのものの自覚の立場に入る時、「時」の三つの様相が我々の存在の世界を構成する根本原理となる如く、純粋意志の様相が道徳的世界を構成する根本原理とならねばならない。道徳的世界とは意志によって構成された世界だ。純粋意志の対象界だ。人格と人格との関係から成立する「目的の王国」だ。道徳的世界には実体とか原因とかいうことはない。すべて作用が作用を生む純なる作用の世界だ。意志の立場においては、「時」の図式の背後に潜める暗い影(自己に対立する自然、他)は消えてしまわなければならない。なぜなら、意志は作用の作用として内容と形式を統一するが故だ。これを作用の交互性Gemeinschaftと言い得るのだろう。しかしそれは単に静なる同時存在ではない。「時」において相矛盾する三つの様相は、意志においてかえってその内面的統一を明らかにするのである。
五
道徳的行為の目的は言うまでもなく、ある理想の実現でなければならない。道徳的価値を有するものは、我々の決意であり、実行である。単なる動機は道徳的価値を有することはできない。そして目的の実現とか、実行とかいうことは、我々の行為が空間、時間、因果の範疇によって構成された、いわゆる存在の世界において事実として現前することだ。すなわち我々の行為がこの客観的実在界を動かすことでなければならない。斯くして、我々がある場合に道徳的立場からいかに為すべきかということは、動かすことのできない厳粛なる当為として我に臨んで来るのだ。我々はこれに従わねばならない。これに背けば悪であり、罪である。これに反し、芸術家の創造作用そのものは存在の世界における出来事であるかもしれないが、芸術的創作の目的は何処までも非実在的である我々の主観的想像の所産に過ぎないと考えられる。詩とか絵画とかいうものにおいては、人生の一面を写すのみだ。そこに何らの道徳的善悪の批判はない。悪なるものも芸術の対象として美となることができる。道徳的行為においては、義務は従わざるべからざる唯一の義務として我に臨むが、我々は一つの対象において無限の美を見出すことができる。美において我々は自由だ。芸術は遂に遊戯的気分を脱し得ないのである。
私が善の内容と美の内容と、その性質を同じくすると言うのは、両者共に純粋意志の内容に属するということを意味するのだ。純なる情意の立場というのは、概念的知識の立場を超越するのみならず、いわゆる苦楽の感情の立場にも反するのだ。快不快というのは反省された感情の種族概念に過ぎない。創造的感情が己自身の内容を失って、概念の支配の下に立つ時、単にこれを快を求め不快を避けると考えられるのである。純なる情意は作用の作用として、知識内容に分析することのできない己自身の積極的内容を持っている。これ故に知識の対象界に対しては何処までも創造的だ。これによって美的内容の先験性が立せられ、道徳的当為の内容が与えられるのだ。無論、道徳的行為の目的が実在的であり、芸術的創作の目的は非実在的と考えられるのみならず、絵画には絵画の美があり、彫刻には彫刻の美があり、感覚的性質の異なるに従って、美にも特殊の内容があると考えることができるだろう。私はかかる考えを十分に認容すると共に、また種々なる芸術の間における内面的統一を認めざるを得ない。むしろ種々なる芸術は、各々その感覚的材料の特色に従って、多様にして無限に豊富である一つの芸術的世界の一面を現すものと見るべきだろう。そして道徳的対象界も、純なる意志の対象界として、この世界(芸術的世界)と内面的に結合していると思うのである。彫刻家が鑿を以て大理石に向かい、画家が筆を取って紙に臨むということと、道徳家が教えを布き、法律家が法を立てるということは、大なる相違があると考えられるだろう。しかし両者共に純粋意志の世界を構成しつつあるのだ。芸術の対象界といえども、普通に考えられる如く単に感覚的ではない。感覚的形像の中に含まれた理念の世界だ。特に複写表象Nachvorstellenによって構成される世界を対象とする、詩の如きに至っては、非感覚的にしてむしろ抽象的であることは、Meyer,Das Stilgesetz der Poesieにおいて明らかに論じられている。道徳家や立法家の目的とする所は、理想的社会の構成の外にない。道徳的行為は文化的社会を構成する芸術的創造作用でなければならない。そうでなければ、単に動機が善なれば、すべてが善であるという道徳上の主観主義に陥る外はない。それでは芸術と道徳の区別、美と善の相異は何処から起こって来るか。
いわゆる物理的世界は経験によって与えられるが、経験そのままではない。我々が直接に経験する色とか音とかいうものは、直ちに物の性質ではない。無論、今日の物理学上においても、感覚的事実を離れて物の存在という如きことを考える人はいないかもしれない。しかし物理的世界は感覚的事実をある立場から選択し、構成することから始まるのだ。素朴的事実と事実との関係からポアンカレの法則loisという如きものが造られ、法則と法則を統一するため、更に氏の原理principesという如きものが構成される。そして斯く知識を構成して行くのは、一つの統一された物理的世界の構成に進み行くと考えることができる。物理的知識の真偽は、かくの如き物理的知識そのものの目的統一によって決せられねばならない。物理的知識も無限に進み行くものでなければならない。絶対の真もなければ、絶対の偽もないかもしれない。しかし我々は物理的知識そのものの目的から物理的知識の当為を立て得るのだ。そうでなければ物理学という学問は成立し得ない。そして物理的知識の方向を示すものは、同時に最初に物理的知識を構成したものでなければならない。目的は最初のアプリオリによって定まる。終は始の中にあるのだ。これ故に知識の進歩は無限でなければならない。水中に杖を差し込めば、水面において折れて見える。単に眼で見ているだけでは、我々は杖が折れていると言う外はない。しかし我々はこれを触覚に訴えて、直ちにその誤なるを知り、更に光線屈折の理によって、そのそうであるべき所以を知ることができる。我々が水中に差し込まれた杖が折れて見えるという時、既に認識の立場に立っているのだ。無論、今水中に差し込まれたこの杖が折れて見えるというだけならば、単に事実の知識に過ぎないのだが、この杖が他の場合においても、斯くなければならぬ、すなわちこの杖は折れているといえば、既に実体概念によって事実を統一し、一般化したものである。この時、我々は既に物理的知識に入っているのだ。そしてこの立場から判断の誤なることが証明されると同時に、この事実は物理的現象として、物理的知識から説明されるべきことを要求するのだ。もしこの事実が説明されないならば何処までも物理的知識の問題として残されねばならない。今、右の如き考えを芸術的対象と道徳的対象の関係に移して考えてみよう。純なる生命の表現としては、すべてが美であり、善である。我々が純なる心を以て物を見る時、すべてが美ならざるものなく、善ならざるものはない。純なる心を以て物を見るということは、純粋意志の立場において物を見ることだ。芸術的描写が醜なるもの、悪なるものをも美化すると言うのは、これによるのだ。我々が通常、悪と考えるものも、単にそれだけとして見れば、人生の内面的必然の発現として価値あるものである。ニーチェはすべて価値あるものは悪によって成されたと言う。水中に差し込まれた杖が、それだけでは折れていると言い得るのと同様だ。ある意志が悪と考えられるのは、他との関係から起こって来る。意志の階級制の中において考えられるのだ。単に意志の所与としては、善も悪もない。すべて美しき生命の発現と考えられる。ただ、意志が意志自身の構成の世界、すなわち意志の自覚の世界に進む時、善と悪が分かたれ、善は善として何処までも求むべきであり、悪は悪として何処までも排すべきものとなる。我々が物理的認識の立場の上に立つ時、杖が折れているということは誤でなければならない。「時」の三様相に基づく原理によって、実在と非実在、真と偽が決せられる如く、純粋意志の様相に基づく道徳法によって、行為の善悪が決せられるのだ。カントの道徳法は、かくの如き「目的の王国」を構成する原理だ。
水中に差し込まれたこの杖が、今私に折れて見えるというだけならば、単に事実そのままを言い表したものとして、真である。すべての経験的学問は、かかる事実的知識を基礎として構成されるのだろう。我々が実体概念によって、一般的にこの杖は折れていると言えば、この時既に誤に陥るのだ。純真なる心の要求は、いずれも美であり善である。否未だ善悪美醜の区別もない。これに反し他との関係を無視して、ひたすらにある要求を貫徹しようとするならば、いかなる要求も悪となる。何故にそれが悪となるか。意識一般の立場によって真偽が分かたれる如く、やはりそれは統一的意識の立場においてでなければならない。ただ、道徳の場合においては、それは自然の場合と違い、一々の作用が自由なる人格的作用として、一つの神的意志に結合するということでなければならない。ある一つの要求が善とか悪とか考えられるのは、それが単なる自然の衝動としてでなく、人格的アプリオリによって構成されたものでなければならない。自然の衝動が、直ちに「私」の動機となるのではない。それが動機となるには、自由意志の選択によらねばならない。自然的衝動が自然的衝動として我を動かした時、その行為は倫理的意義を失うのだ。ある一つの自然的衝動が「私」の動機となるには、あたかも無限点を廻って再び現れ来る曲線のように、一度深い我の奥底に消え失せて、また、我の中に現れて来なければならない。そして私は斯く自然の衝動が自然としては一度我の中に消えて、人格的現象として再現する時、それは芸術的内容の意味を持って来なければならないと思う。従来の倫理学者は多くこの点に注意していないのだ。我々の欲求が単に自然的であり、これが直ちに我を動かすとするならば、我がこれに従うことは何処までも他律的である。善意は完全に形式的とならねばならない。形式的意志は何らの内容を与えることはできない。斯くては、行為の内容を与えるものは功利主義の外にない。衝動的内容が直ちに道徳的行為の内容として、我そのものの中から我を動かすには、人格的内容として創造されなければならない。すなわち霊化されなければならない。自然的要求はかえって霊的内容の手段となり、表現と見られねばならない。男女の愛という如きことであっても、そのものが直ちに美化される所に、目的そのものとしての倫理的意味があるのだ。そうでなければ、一時的享楽か、さなくば種族保存という如き功利主義の外に意味を有しない。古人の礼とは、単に因襲的習慣ではなく、人間の自然的衝動を美化するものだ。我々がある場合にいかに為すべきかを明らかにするには、完全に利害得失の念を離れて事実そのものを客観的に映して見なければならない。研ぎ澄まされた純真な心の鏡上に映して見なければならない。かくの如き心の態度を、我々は真に良心の聲に耳澄ますと言うのである。大人は嬰児の心を失わずという語もあり、私は聖人には芸術的態度がなければならないと思う。※浴乎沂,風乎舞雩,詠而歸という様な芸術的風格が、道徳家の基調を成していなければならぬと思うのである。
※ 引用 浴乎沂,風乎舞雩,詠而歸とは 福山大学孔子学院 『暮春の候』
それで純粋意志の発現である道徳的意志の内容として与えられるのものは、芸術的直覚の形において与えられた純真なる人格的内容でなければならない。純真なる直覚としては、いずれも美であり、また広義においては善であるとも言い得るのだが、知覚の世界から純粋統覚の統一によって成る存在の世界に進む時、真と偽が分かたれる如く、超越的意志(作用の作用)の構成の世界に向かう時、善と悪が分かたれるのだ。純粋統覚の図式として知覚を構成するが、己自らは知覚されない「時」が、いわゆる経験界を構成する如く、純粋意志は自己自身を実現することのできない無限なる当為として、統一ある一つの客観的道徳界を構成し、この世界全体の統一の上から、我々の唯一の方向が決定され、「汝は斯く為さざるべからず」という唯一なる道徳的命令が成立するのである。
あるいは右に言ったような純粋意志の所与というごときものは、未だ芸術の内容とも、道徳の内容とも名づくべきものではなく、単にそのいずれにも発展し得べき人格的内容という如きものに過ぎないとも考えられるだろう。無論分析的に考えれば、かかる内容が芸術家の創造作用と結合して美となり、また道徳的行為の内容として善となり悪となると考えられるのだろう。しかしかかる意味において与えられた人格的内容というのは、我々の知的立場に対しての所与の意味でなければならない。かくの意味においては、それは善でもなく悪でもなく、美でもなく醜でもない。しかし純粋意志に対しての所与、すなわち行為的主観に対しての所与は、何の方向かへの発展を含んだものでなければならない。かくの意味において、それは美であると共に善である。作用が行為的立場において己自身を対象として見る時、それが芸術的直観であり、無限に自己自身に反省して行く時、それが道徳的行為だ。画家や彫刻家に対して与えられるものは、手を加えた眼に対して与えられたものだ。超知識的に動く生命の内容だ。かくの如き生命の内容こそ、純粋意志の対象界である文化の世界を構成する材料となるものでなければならない。無論、芸術家の見る生命の内容というのは、空間の底に潜める生命の内容に過ぎない。造形芸術家の創造作用は眼と手の形成作用に過ぎない。しかし芸術家の見る形は単なる形ではなく、生命の表現でなければならない。かくの如き感覚的世界の構成原理である生命自身の自覚が、また道徳的内容だ。生命が生命自身を目的として形成し行くのが、道徳的行為だ。すべての作用の統一である作用の作用(超越的意志)が内に省みるということ、すなわち自己自身の世界を構成するということは、すべての作用の内容を統一し、唯一の対象界を構成することでなければならない。これにはあたかもライプニッツの可能の世界から現実の世界への如き推移があると思う。永久真理が結合して、無限なる可能的世界が神の知において考えられ、神の意によってその一が択ばれて、唯一なる現実の世界が創造されるのだ。芸術的直観おいて、それぞれの見方から映された可能的な人生が、人生全体の統一的立場から決定され、唯一なる現実的人生が成立する時、そこに汝は「斯く為さざるべからず」という唯一なる義務の世界が現れるのである。事実的真理は唯一にして動かすべからざる如く、道徳的義務は絶対的命令として遊戯的気分を許さない。創造作用が自己自身に還り(自覚し)、自己自身に十全なる対象界を求める時、そこに無限にして達することのできない唯一の世界が成立するのである。
六
以上述べた所は、芸術と道徳を共に同一の純粋意志の対象界に属するものとして、いかにして両者の区別及び関係を明らかにするかの考え方の一端を示したものに過ぎない。芸術はいずれも純なる人生を映すものとして、水中の杖が折れていると考えられ、天が廻ると考えられる如く、それ自身に全き人生の事実である。しかしかかる事実を構成するアプリオリ自身の自覚によって創造された、それ自身に十全なる対象界においては、それは不完全な、偶然的な断片に過ぎない。与えられたものは全きものではない。己自身に十全なることを求める作用の世界は、無限の当為でなければならない。省みられた自己(芸術に相当)に対して、省みる自己(道徳に相当)はいつも無限の当為だ。ここに芸術と道徳の区別と対立があるのだ。我々の道徳的社会は、永久に完成の過程の上にある神の芸術的創作だ。そして認識の立場において我々の知識内容が真か偽かでなければならぬ様に、行為的主観の立場から見て人生の内容は善か悪かでなければならない。善の概念は、美の概念と異なり、存在を目的とすると考えられるのは、超個人的主観として唯一の客観界が要求されるからである。存在の世界というのは意識一般の立場において、関係の統一によって与えられるのだ。超越的意志(作用の作用)の立場は意識一般の立場を含むが故に、善は概念的であり、道徳的行為は実在的でなければならない。ベルグソンの如く我々は実在界に衝突して生来の豊富なる人格を棄てて行かねばならないと言い得る。しかし我々はこれによって実在そのものを人格化する神の人格を構成するのである。
法と道徳
一
我々は通常いわゆる自然界を唯一の客観界と信じているが、認識主観によって構成された自然界が唯一の客観界ではない。認識主観の奥に意志主観があり、行為主観がある。我々に対し真に直接に与えられたものは、意志の対象界でなければならない。我々は知識の対象界の奥に、意志の対象界を持っている。いわゆる文化現象の世界というのはここに求めるべきだろう。意志の対象界というのは、我々が意志することによって現れて来るのだ。否、我々が行為することによって現れ来る世界である。芸術家が純なる芸術的創作の立場に立つ時、芸術的対象界が現れ来り、道徳家が純なる道徳的行為の立場に立つ時、道徳的対象界が現れて来る。皆、認識主観を超越し、これを内に含む自由我(作用の作用)の対象界として現れ来るのだ。そして芸術の世界と道徳の世界の間には、いわゆる経験の世界における知覚と経験的知識の間の関係の如く、自由我の対象界において、所与の世界(芸術)と構成の世界(道徳)の関係の如きものがあると思うのであるが、私はいわゆる法律の世界というのは、右の如き超越的意志(作用の作用)の構成の世界すなわち道徳の世界の初階であると思う。法律と言われるものが、それ自身に何らの価値もなく、ただ他の手段として価値を有し得るものと言うならばとにかく、仮にもそれ自身に文化価値を有するものならば、かくの如き意味においてでなければならない。
法学者の間には、法の本質について種々の学説があることだろう。しかし私は法を敬してこれに従うということが、自由の自覚を有する人間の義務として、法そのものが我々に対して権威を有するには、法自身が目的そのものとして価値を有するものでなければならないと思う。そうでなければ、法は単に幸福の手段という外なく、我々に対して絶対の服従を要求することはできない。無論、今日の法律は単に功利的な目的を有するものが多いのだろう。またその多くはある階級の為に造られたものとも考え得るだろう。しかし内容の是非はしばらく置き、法そのものを敬し、法の為に法に従うという形式的意志そのものが、既に人格的内容を有し文化価値を有するものでなければならない。私は与えられた法に従うということ自身が、既に人格的意義を有すると考えるのだ。あるいは道徳的内容を有しない法は、何らの価値もないと言い得るだろう。しかし私は法に従うということが、単に道徳の為ということではなく、それ自身に文化価値を有すると考えるのだ。考え様によっては、不可知的内容の権威に服従するということ自身が、一面に宗教的意義を有し、単なる主観的道徳に対し、独立の意義を有すると考えることができる。道徳法は外に超越的根拠を有することによって、その意味を全くすると言い得るだろう。
我々は自己の人格的統一と連絡のない単に偉大なる外界の力に対しては、ただ恐怖を抱くのみであるが、偉大なる人格的力に対しては、無限の畏敬を以てこれに慴服せざるを得ない。我々の法に対する無限なる畏敬の念は、人格的統一の無限に深い根底である超越的意志に対する畏敬の念に外ならない。超越的意志(作用の作用)はいわゆる意識一般を超越しこれを内に含むのみならず、それ自身の対象界を有する故に、かかる世界の構成は我々の意志そのものの目的とならねばならない。意志は他の目的の為にこの世界の法則に従うのではなく、意志自身の目的の為にこれに従うのだ。この対象界の法則は完全に自然科学的法則とその根拠を異にしている。一層深い根底の上に立っているということができる。自然の世界から文化の世界が発達すると考えられるが、自然界とは超越的意志が自己の中に映した映像に過ぎない。時を超越する超越的意志は、かえって自己発展の過程としてこれ(自然界)を内に含んでいるのである。
二
知的主観の奥に意志主観、行為主観があり、我々がこの立場に入る時、そこに自由我の世界が開かれる。芸術の世界はこの立場によって成立するのだ。純粋視覚の発展として絵画の世界が成り立ち、純粋聴覚の発展として音楽の世界が成り立つ。しかし作用の作用である意志そのものの自覚の方向において、法律の世界、道徳の世界が現れて来る。これらの世界は意志の総合的構成作用の内容として現れ来るものであって、経験的知識の世界において言えば、カントが力学的原理によって成立すると考えた存在の世界に比すべきものと思う。総合的認識の立場と考えられるいわゆる純粋自我は、超越的意志の反省の方向であって、この立場(反省の立場)において成立する存在の世界の底に、超越的意志そのものの積極的内容の世界として(積極的立場において)、法律、道徳の世界が存するのだ。すなわちこの二つの世界(存在の世界と法律道徳の世界)は同一の立場によって成立する実在の表裏両面と考えてよい。
我々が意志の立場に立つ時、我々に対し与えられたものは、単なる知識の対象ではなく、意志の対象でなければならない。水は単に無色透明なる液体ではなく、我らの渇きを癒すものであるのだ。プラグマチスト(実用主義者)の言う如く、すべて知識は実践的意義を持つと考えることもできる。しかし知識を実践的と考えるのは、知識と意志を対立せしめ、前者を後者に従えようというのであるが、我々はなお一層深く意志の立場に徹底して行く時、知識の立場は意志の立場の中に含まれてくる。我々は完全に知識の立場を超越してこれを内に含む時、知的対象そのものの背後に直ちに意志の対象を見るのだ。芸術的創作の立場に立つ時、色そのもの、形そのものが意志の対象となる。水の性質そのものの背後にも、人格的内容を見るのだ。しかし芸術の立場においては知覚内容を人格化することができるかもしれないが、思惟の対象界をも人格化することはできない。実在界の背後に人格的意義を認めることはできない。超越的意識が自己自身に反って、いわゆる実在界そのものの背後に人格的意義を認める時、法律の世界、道徳の世界が成立するのだ。法律道徳は全実在を人格化する神的作用の過程だ。我々が自然を超越して自由なる人格の立場に立つ時、まず法律の対象界が現れて来る。この世界においては物は一々何人かの所有に属するものとして、物と物との間に人格的関係を見る。物は人格の表現として犯すべからざる威厳を有するのだ。物は単なる存在ではなく人格的発展の過程の中に入って来るのだ。ヘーゲルは権利とは自由が直接的存在の形を取ったものである“Das Recht ist zuerst das unmittelbare Dasein, welches sich die Freiheit auf unmittelbare Weise giebt”と言っている。
我々が自然の生活から自覚的意志の生活に入る時、法律的社会が成立する。自然界を唯一の世界と考えれば、かかる社会は人為的とも考えられるだろう。しかし意志を一層深い実在と見る時、我々はこれによって一層深い実在界に入ると考えることができる。この世界においては、すべての物は我々の欲望の対象として見られ、何人かの人格の属するものとして実在性を持っている。単なる自然現象はこの世界においては実在性を有しない。ある人が荒地を開拓したと言うので、その地面がその人の所有権に属するならば、斯く荒地を開拓したという時間上の出来事がこの地において実在性を有するのだ。この世界において我々が自己の欲望を満たすには、共同意志において認められねばならない。我々は共同意志において認められて生きるのである。これにおいて、法の為に法に従うという当為の念が起こって来るのだ。完全な道徳的行為も単に良心に従うというのみならず、かくの如き客観的法則に従うということを含んでいなければならない。ただ道徳と法律と異なる所は、法律はその内容として非合理的要素を含んでいることである。その内容は形式に対して偶然的であることである。これ故に法律は単に形式的と考えられるのだ。法律と欲求の内容との間には、あたかも物理的法則と知覚内容との関係の如きものがあるのだろう。
三
単に思惟するということと、認識するということは同一ではない。知識は概念と直覚から成り立つ。範疇が知覚の内容と結合することによって知識の客観性を得ると言うのが、カントの考えだ。私は斯く言うには、思惟と直覚を統一する意志の自覚というものがなければならないと思う。純粋意志が経験的知識の根元でなければならない。いわゆる客観的世界を構成する力の範疇は意志の射影だ。しかし意志はかくの如き知識の世界を内に包むと共に、自己自身の直接の世界を持っている。この世界は自由意志の範疇によって構成され、その所与は意志の構成として一々が衝動的である。知識にあっては、その具体的根元として意志の対象界に結合することによって客観性を得ると考えられるが、意志にあっては、意志が意志自身を目的として自己自身に還ることによって、その客観性を得る。すなわち主客合一の純なる活動となることによって客観的となるのだ。衝動を純化すると考えられる芸術や、自然の欲求を合理化する法律や道徳は皆これに達する道行だ。
我々の知識は経験内容と結合することによって客観的となると考え得るが、その内容は形式に対してどこまでも外面的であることを免れない。この場合、形式と内容とは、ただ、一層高次的な立場において結合されているのだ。自由我(作用の作用)の対象界においては、特殊的欲求(経験内容、作用と作用の直接の結合の内容)の中に一般的理想(知識)を求め行くことによって、すなわち特殊なるものの中に一般的なるものを見出すことによって、客観的となる。すなわち形式(一般)と内容(特殊)の合一、否かかる対立が消滅することによって、客観性を得るのだ。例えば、我々の知覚的経験と言っているものは、物理的説明においてかかる統一に達するのではなく、芸術的創作において形式と内容との純なる統一に達するのだ。芸術的創作もかかる意味において超越的意志の作用ではあるが、無限なる作用の作用として理性を内に含む超越的意志は、部分的である芸術的対象界において自己自身を見出すことはできない。意志は意志自身の直接の対象界を持たねばならない。これにおいて法律道徳の世界が構成されるのだ。芸術においては意志は存在の世界を超越することによって自己の世界を有するが、道徳においては実在界(存在の世界)を内に含むことによって、これを自己の世界に構成するのだ。
我々の経験的知識において理性と経験内容と対立する如く、意志の対象界において法則(形式)と衝動的内容(内容)が対立する。そして経験的知識においては、形式と内容はどこまでも内面的に結合することができないのだが、意志の対象界においては、対象(客)が作用(主)であり、作用(主)が対象(客)である。形式(一般)が即内容(特殊)であり、内容(特殊)が即形式(一般)である。衝動を意識するということその事が、単なる認識の立場に立っているのではなく、作用の作用である自由我の立場に立っていることを意味し、「法」の理解その事が直ちに行為の動機となるのはカントも既に言っている所である。理性なくして意識はない。作用の作用である理性の影を宿すことによって意識現象が成立するのだ。意志の対象界において、法と衝動、形式と内容は、厳粛主義の倫理学者の考える如く本質上相反するものであってはならない。超越的意志(作用の作用)の対象界における現象として、道徳法(形式)と動機の内容(内容)は一つのものでなければならない。これらの孰れか一つによってのみ道徳を説明しようとすれば、我々は超えることのできない間隙に撞着せざるを得ない。道徳の本質は、これらを統一する積極的なる意志内容にあるのだ。あるいは現実における自然的衝動と道徳法の衝突の事実を指摘して、かかる考えに反対する人もあるだろう。かくの如き人は、法というのをただ自然界の法則の意味に考えるのではなかろうか。自然界においては物は法によって動くのであるが、意志の世界においては、法は自ら動くのである。法は物であり物は法である。共に皆自ら動くものである。
すべて我々の知識または感情の対象界が先験性を有し、我々に対し一般妥当的なるには、それ自身の積極的内容を持たねばならない。換言すればアプリオリがそれ自身において創造的でなければならない。かかる場合においてのみ、我々の作用はこれ(内容、対象)に従うべきものと考えられるのだ。対象が作用に対し外的である時、(対象は)作用に対して当為となることはできない。数理の世界、物理の世界が我々の認識作用に対して当為となるのは、皆右のような理由によるのだ。もし我々の意志が完全に形式的にして何らの内容を有せず、いかなる内容にも無関心であると言うならば、我々は何を為すも自由だ。客観的当為は立たなくなる。我々の道徳的行為の対象としては、意志のアプリオリの創造によってなる、意志自身の積極的内容の世界がなければならない。意志の自律性はこれによって成立するのだ。この意味において、道徳的行為は芸術家の創造作用と似通う所がある。道徳的社会は自由意志の創造する芸術品である。ただ、その物理的世界と異なるのは、意志の対象界として対象即作用である点にあるのだ。例えば、道徳的実在としての家族という如きものは、完全に人格的統一の上に立たねばならない。自由意志自身の創造する実在として我々の目的そのものでなければならない。宗教的意義から家族制度が発達したのは、単に因果関係とのみ見ることはできない。しかし家族というのは、単に冷ややかなる義務によって結合された人と人との団体ではない。積極的内容を有する愛の結合でなければならない。否、家族的結合の根底には暗い本能的欲求すらなければならないのだ。画家や彫刻家が女の肉を美化する如く、暗き生の力を霊化することによって、道徳的実在としての家族が成立するのだ。肉によって与えられたものを、自由意志のアプリオリによって、想像し構成したものが道徳的実在だ。これによって肉は霊化され、霊は実在性を得る。私は超越的意志の創造的方面が純真なる愛であると考える。超越的意志はその一面において純真なる義務であると共に、一面において純真なる愛でなければならない。純真なる道徳的実在としての家族とか国家とかいうのは、純真なる愛によって創造された超越的意志の積極的内容だ。国家や家族の道徳は単に因襲的道徳のみではない。その中に純真な感情の内容がなければならない。もし感情が超知識的の立場において、何ら自己自身の内容を有しないならば、カントの考えた如く感情を混じることは意志の他律化と言い得るだろう。しかし純真なる愛は、あたかも原始的生命が無限なる生物を創造する如く、無限なる人格的実在を創造する霊的生命の力だ。かくの如き内容こそ、自律的意志そのものの目的となるものでなければならない。
いわゆる心理学的個人の立場から言えば、法は外界の権威に基づくものとして、我に対して外的なるを免れ得ないだろう。我々個人が既に客観的精神によって構成された一つの社会に生まれ来る時、その社会の法律制度は背くべからざる外的権威として我に臨んで来る。我々はこれを不可解と考えることもできるだろう。我の自由を抑圧すると考えることもできるだろう。しかし我々がこれを敬すると言う時、法は我において全然外的なものではない。全然外的なものなるは、これを恐れるも、敬するということはない。我々が法に対して完全に敬意を失った時、我々は権威を自己の中に求めなければならない。自己の中に自然を超越して無限に深い内面的権威を見出した時、道徳的動機が成立する。しかし無内容にして単に形式的である道徳的動機は、何らの客観的道徳法を与えることはできない。内容に無関係である形式的道徳法は主観的たるを免れない。道徳的アプリオリによって創造された客観的対象において、初めて内外合一し、目的そのものを目的とする真の道徳的行為が考えられるのだ。そして斯く無限に創造的にして、我々の予知を許さない先験的意志の内容に対しては、我々は無限に深い外的権威を認めざるを得ない。神的権威説の倫理学者の言う如く、道徳法は神によって与えられたものとも考え得るだろう。道徳の内容が歴史によって与えられると考えねばならないのも、これによるのである。無論その無限なる内容も、我に対して外的なるものではない。我の深き奥底に潜める道徳的自我の創造の世界である。我々はかかる世界に対して、無限なる敬意を有すると共に、また無限にこれを愛することができる。
四
知識は先験的形式に基づくのは言うまでもないが、内容と結合することによって、すなわち特殊化されることによって、その客観性を得ると考えることができる。道徳的行為も単に形式的道徳に合うことによって善となるのではない。単に動機が善であるから善であるのではない。内容がこれに合うことによって完全なる善行為となるのだ。そして内容ある経験的知識を構成するには、我々は個々の事実から出立せねばならない様に、道徳的行為も現実の与えられた事実から出立せねばならない。いかなる理想も現実の事実と結合することによって実践的価値を生じるので、甲の場合において善なる理想であっても、乙の場合において悪となることもあると考えることもできる。あたかも芸術的創作が抽象的理想を基礎とするのではなく、具体的である現実の奥に理想の光を見るのと一般だ。無論、道徳的行為が現実を出立点とせねばならないと言うも、一般的理想を無視してよいと言うのではない。与えられた現実を理想化して行くという意味である。現実を無限に可能的なるものの統一と見るのである。ただその統一は、単なる無限の総和ではない。達することのできない極限として、現実は可能なるものに分析し尽くすことのできない積極的内容を持っていなければならない。この立場から見れば、一般的なものはその発現の手段となるのだ。単に一般的なるものから意志することはできない。意志は意志(作用と作用の直接の結合)に始まって意志(作用と作用の直接の結合)に終るのである。無論、道徳的行為においては、人格を目的そのものとするという形式的法則が基礎とならねばなるまい。道徳的行為とは、この法則を力として、現実を超越的意志(作用の作用)の内容に構成することでなければならない。否この立場に立つことによって、現実の根底に深い実在を見出すことでなければならない。私はこういう意味において、自然界の法則と道徳法はその性質を異にすると思う。自然においては一般的法則がすなわち自然である。特殊的内容はすべて一般的法則に分析されるべく定められている。これに反し道徳法は実践的規則と同一性質のものでなければならない。ただこの法則が目的そのものであることにおいて、他の実践的規則と異なっている。この点においてかえって自然界の法則とその性質を同じくすると言える。そして目的そのものの内容は、現実を超越的意志(作用の作用)の実現の過程として見ることによって与えられるのだ。知識においては特殊は一般の中に含まれると考えられるが、意志においては一般は特殊の中に含まれる。道徳的行為の内容とは我々が純なる理性の立場の上に立つ時、現れ来る創造的意志の内容でなければならない。ただそれが超越的意志の内容であるが故に、規則であると同時に法則であるのである。
私はこれにおいて道徳的行為の内容と歴史的内容の間に密接の関係があることを考えざるを得ない。歴史的発展なくして文化なきは言うまでもない。自然現象を空間の上における実在とすれば、文化現象は時間上における実在だ。空間的内容は物体界を構成し、時間的内容は文化の世界を構成する。この点において文化現象は生物的現象とその性質を同じくするのだ。時間的発展なくして生命はない。古来の文化を一掃して新しい文化が起こると考えられる場合であっても、古い文化が失われたのではない。同じ動機や思想から起こる革新でも同一の文化を生じない。赤を見てから青を見るのと、白を見てから青を見るのは同一ではない。そこに精神現象と物体現象の区別がある。動的理想は時間的統一の上に現れるのだ。無論、歴史的事実と言っても、自然に対して何らの変化を与えることはできない。むしろ「時」の軸に独立であるというのが自然の性質だ。古の殿堂を記念する礎石も路傍の石も同様だ。この意味においては、歴史的事実も、その時代に、消えて跡なき非実在的なものでなければならない。しかし歴史的事実は夢の如く消滅する個人の空想とは異なって、意識一般の対象界に属するものとして客観的でなければならない。この点においては、また自然現象とその性質を同じくすると言うことができる。かくの如き主観的にしてしかも個人的である対象界は、ただ超越的意志(作用の作用)の立場においてのみ考えることができる。客観的精神の内容は歴史において発展するのだ。内容なき「時」は自然界を構成し、内容ある「時」は歴史を構成するのだ。右の如き理由によって、我々は道徳的行為の内容を、いつも歴史の中に見出して行かねばならない。
経験科学の法則は普遍妥当的であるが、道徳にはかくの如き法則がないとは、多くの人の言う所である。しかしかかる考えは、その意味を厳密にしておかねばならない。経験科学の法則が客観的と考えられるのは、何によるのだろうか。いわゆる経験界とは、カントの総合的原理と言う如きものによって構成されたものでなければならない。総合的原理というものは、理解力の範疇と直覚の形式である「時」の結合によって出来たものだ。この結合はコーエンによれば、意識の統一によって成立するのだが、私は知識の形式が内容と結合することによって客観的となると言うには、作用の作用である意志の形式が考えられねばならないと思う。理性と知覚との結合は、ただ、意志の立場においてのみ可能だ。我々が経験するというのは、一種の意志の作用だ。経験的知識の客観性は、意志の超越性に基づくと考え得るだろう。しかしカントが「時自身は止まる」と言った様に、意志には反省の方面と創造の方面が結合している。個人的人格の意識について考えてみても、我々の意識は過去の経験を保存すると共に、一歩一歩創造的だ。一方において繰り返し得ると考え得ると共に、一方においてまた繰り返すことができないと考えねばならない。いわゆる自然界とは超越的意志の反省の内容に過ぎない。我々がいわゆる与えられた経験を、カントの総合的原理の如きものによって、経験界として構成して行く時、超越的意志の対象界に入り込むのだが、それはこの立場において反省して行くということだ。「時」は流れ行く純なる経験の形式、純なる作用そのものの形式だ。「時」を反省するということは、「時」を止めて見ることだ。我々は想起作用によって「時」を超越し、これを自由に取り扱うことができる。かかる想起の自由によって我々のいわゆる意志の自由が成り立つ。我々はこの立場において一たび底なき自由を感じる。原因なく、法則なく、勝手気ままな自由意志を持つとさえ信じることもできる。しかし我々がかくの如き自由の立場に立って行動しようとする時、我々は自己の力に対して衝突を感じる。フィヒテの我に対するアンストスAnstoss(障害?)というのも、かくの如きものであろう。しかしこれは意志に対して外来的ではなく、意志自身の射影に外ならない。すべて作用は作用自身の内容によって限定されるのだ。ある一つの作用に対して完全に外来的なるものは、この作用に対して無でなければならない。かく作用が作用自身の内容によって限定されること、換言すれば作用が自己自身を限定することが、すなわち反省でなければならない。かくの如き意味において超越的意志(作用の作用)が自己自身を反省し、自己自身を限定した時、理性的形式と知覚的内容の結合からいわゆる客観界が成立するのだ。時の系列を止めて見ることによって物の概念が成立し、これを繰り返し得ると見ることによって因果律が成立し、かかる系列の無数を反省し統一することによって自然界が成立すると考えることができる。「時は止まる」と考え得るのは、ただ「時」の範疇を脱し得る自由意志の立場において可能であるのであって、これに基づいて法則の世界、自然の世界が成立するのだ。そして自然の世界はすなわち法則の世界なるが故に、自然法は自然界において客観的であるのは言うまでもない。だが我々の意志は、自覚において省みることがすなわち創造することである如く、自己反省の裏面に創造的方面を持つ。道徳の世界はかくの如き意志の創造の世界、積極的内容の世界に属するのだ。我々は現実の経験を、その背後に潜める超越的意志の立場において構成して行くに当たって、その反省の方面と創造の方面の両方向に進み得るのだ。斯く両方向に進み行くに当たって、具体的意志の内容として、現実は一方(反省の方面)からは抽象的一般と見られ、他方(創造の方面)からは具体的特殊と見られる。具体的意志の無限なる発展の過程として、相反する両方向に無限の行先を見るのだ。一方においては無限に一般化の方向を見ると共に、一方においては無限に特殊化の方向を見るのだ。特殊化ということは、全世界の意味を一点に集中することだ。全世界の立場において働くことだ。すなわち全世界を一つの意志と化することだ。真の特殊は全体において限定されたものでなければならない。否全体を内に含むものでなければならない。ここに内容ある定言的命令が成立するのである。
五
私はある一つの社会において固定した道徳の理想は、あたかも生物の種族に比すべきものであると思う。生物の生命は一つの大なる流れである、現在において固定した種々の種族と考えられるものも、ただ一時固定した一つの生命の型に過ぎない。ある一つの生命の型は、単に繰り返されるべきものとして与えられたのではなく、自己自身を発展し特殊化すべきものとして与えられたのである。言うまでもなく、生命は時間的実在だ。過去は生命において失われたものではない。生命は過去を負い未来に進んで行くのである。しかし一つの生命の型というのは、単に内面的にのみ定まるのではない。外界との関係において定まるのだ。ここに適者生存の法則が行われるのである。ある一つの固定した道徳も、これと同様の方法において定まるのだろう。外界に適するものが生きるとは、外界を自己に同化し得るものが生存すると言うことでなければならない。外界を同化すると言っても。生命が物質を変じるのではない。ただこれを目的的に統一するに外ならない。単なる機械的因果の実在と異なった、一つの目的的実在が成立するのだ。すなわち目的的アプリオリが己自身の独立の対象界を構成するのだ。この場合において目的的アプリオリが機械的アプリオリを破るのではない。これを超越し、これを要素として、自己自身の世界を構成するのだ。もし意識一般が自然界を構成する立場とするならば、自然を同化するという時、意識一般の立場を内に含むと言い得るだろう。繰り返し得る同時存在的自然の立場を超越し、これを内に含む時、それは時間的立場すなわち目的的統一の立場となるだろう。自己が自己を反省する時、自己が自己を超越して人格的歴史を構成するのだ。かくの如き意味において自然界を超越してこれを内に含むと言うのは、特殊なるものが実在的となることでなければならない。「時」の範疇によって成立する実在は、特殊的なものでなければならない。ここにスピノーザの本体からライプニッツのモナドに移り行く所以がある。右の如く生物的生命といえども、すでに単なる自然現象としてではなく、意志の対象界においてその実在性を有するのだ。しかし未だ自覚的ならざる生物的生命は、なお己自身の対象界を有し、己自身の実在性を有することはできない。ヴィタリスムス(?)が非科学的と考えられるのも、これによるのだ。自然科学として目的的因果は規制的原理の意味しか有することはできない。ただ、意識現象に至って、初めて我々は真に自然界を超越して、これを内に含むと言うことができる。いわゆる自然界とは直接経験を材料として構成した思惟の産物に過ぎないと考えることができる。自然の立法者というべき純粋統覚を、自己の中に見る我々の意識は、完全に自然を超越して自己自身の世界を有すると考えることができる。生物的生命はあるいはこれを機械的に説明し尽くすことができるでもあろう。自然界に還元し尽くすことができるであろう。自然を構成する自我の意識そのものは自然に還元することはできない。これにおいて、自然の客観性が消されて、自由我(作用の作用)の対象界が成立する。すなわちいわゆる道徳的世界が成立するのだ。これによって、我々の生命は真の自立性を得るのだ。ある一つの社会において固定した道徳とは、かくの如き生命の世界、合目的的世界における生物的種属でなければならない。精神的生命の固定したタイプ(型)でなければならない。そしてかくの如き我々の精神的生命のタイプは、生物の種属の場合の如く、単なる内面的必然によってではなく、外界との関係において定まらねばならない。この意味において、道徳の間にも適者生存の原理が行われると言い得るだろう。しかしかかる場合における道徳的外界とは、いかなるものだろうか。道徳的意志に対してその環境となるものは、単なる自然ではない。真に道徳的意志の環境となるものは、人格的意志の世界でなければならない。人格対自然にては、道徳的意志は成立しない。ただ功利的世界あるのみだ。道徳的意志の世界は、人格対人格の世界でなければならない。無論生物の種属の自然淘汰においての如く、自然的因果律によって、いかなる道徳が成立し発展するかが決定されるとも考え得るだろう。しかし全宇宙を以て我を圧殺するも、我はこれを知るが故に殺す者より尊いとパスカルの言うごとく、道徳的意志においては、自然を超越して自己自身の創造に成る対象界を持つと考えることができる。自然そのものがその中において消されるのだ。道徳的意志は、自己の環境を自己自身の中に包むと考えることができる。自覚においての如く作用が作用自身を対象となし、作用が作用を生むのである。自分自身の中に自己の環境を生み、自己自身にて自己を特殊化すると考えることができる。いわゆる道徳法とは、かくの如く自分で自分の環境を生み、自分自身を特殊化して行く霊的生命の種属だ。これ故に道徳法は一面において生物学的法則と、その性質を同じくすると考え得る。機械的法則と同一の意味においての一般的法則は、成立することはできない。もし機械的法則と同一の一般性に従うものとするならば、生命はなくなるのだ。法を敬し法に従うと言う時、我々はこれによって初めて道徳的生命を得るのだ。因果律が自然界を与える如く道徳法は道徳界を与えるのである。ただ、道徳的意志の世界は、自然界と異なって個性的実在の世界だ。道徳法の一般性は、抽象的一般ではなく具体的一般でなければならない。道徳法は単に従うべく与えられるのではなく、これによって個性的生命を構成すべく与えられるのである。
六
私は前に「美と善」において、美の対象界を善の対象界の所与として論じたが、今少し両者の関係を厳密にしておきたいと思う。知覚は経験的知識の資料となるが、そのままの形において資料となるのではなく、まず事実と事実の関係をあらわす法則の形に造られねばならない。芸術的内容となる純真なる人格的内容が、道徳的意志の内容となるには、規範の形に造られねばならない。事実間の関係をあらわす法則の形において、知覚的内容がポアンカレのいわゆる物理学的原理の材料となる如く、人格的内容は規範の形において自覚的意志の内容となる。自覚的意志の内容となるものは、衝動ではなく、規範(当為)でなければならない。カントの言う如く、法を理解し法から働くものが意志だ。意識一般の立場において知覚的内容が概念的となる如く、意識一般の立場において衝動的内容が概念的とならねばならない。概念的内容というのは、無限なる作用の作用の立場、すなわち超越的意志の反省の立場において現れ来る内容である。道徳法の内容となるものは、純真なる人格的内容でなければならない。そうでなければ、意志は他律的となるを免れない。この意味において、道徳的意志に対して芸術的直観がその所与となる。しかしそれが道徳的意志の内容となるには、総合的意志の立場において統一されねばならない。全人格の体系に統一されねばならないのだ。あるいは与えられたものは求められたものであり、直覚の形式の中にも思惟の形式を含むと考えられねばならないように、芸術的直観は超越的意志の立場において成立し、その中に意志の形式を含むと考え得るだろう。しかし省みられた自己(対象化された自己、芸術的直観)は、直ちに省みる自己(対象化する自己、超越的意志)ではない。その間には自己自身と自己の影との如き区別を認めねばならないだろう。
芸術的直観と道徳的意志の間には、右に言った如く知覚と経験的知識との如き関係があると考え得るが、知覚内容が概念的である経験的知識に分析し尽くすことができないと考えられる如く、芸術的直観の内容は道徳的意志の内容に比して、深くかつ豊富なるものがあるとも考え得るだろう。道徳的意志は何処までも果てしなき対立であり、その根底には不可知的な或物がある。すなわち一種の直観がなければならない。しかしかくの如き場合においては、それはもはや芸術的内容と言うべきものではなく、宗教的内容と言うべきものであろう。
真と善
一
一方から考えれば、我々は真なるものが美であると考えざるを得ない。虚偽なるもの、作られたものに対しては、それがいかに巧であっても、これに対して芸術的価値を認めることはできない。夢の如きおとぎ話であっても、それがが芸術的価値を有するかぎり、我々はその中に何らかの深い人情自然の真を認めざるを得ない。無論斯く言うも、人情の美ということと、芸術の美ということを混同するのではない。いかに醜悪なる人情であっても、それが人情の真として、芸術的対象となり得るだろう。虚偽なるものは芸術的価値を有しないが、虚偽なる芸術家の心事も、また芸術的対象となり得るだろう。自然を対象とする芸術についても、同様のことが言い得ると信じる。芸術的価値を有するのは、我々の主観的作為を許さない、何らかの意味において客観的に与えられたものでなければならない。
しかしまた一方から考えれば、真と美は何処までも区別せねばならないと考えることもできる。真なるものが必ずしも美なるものではない。美なるものが必ずしも真なるものではない。数学的真理の中には、いかにも整斉的にして美と思われるものもあるだろう。音楽的とすら思われるものもあるだろう。しかしある数学的真理が美であるということと、真であるということは固より同一ではない。科学的真理の如きものの中に、美感という如きものを求めるは難く、音楽の如きものの中に、真理という如きものを認め難いと考え得るだろう。我々は真と美の関係をいかに解すべきだろうか。
二
私はまず形式美と内容美の区別について考えてみよう。雑多の統一とか、整斉とかいうことは、感覚的内容の関係のない純なる形式美と考えられるだろう。しかし斯く考える場合において、内容というのは知識的内容の意味であって、美的内容の意味ではない。かかる意味の内容は美的価値に対して無関係であり、偶然的であることは言うまでもない。しかしかくの如き知識においての形式と内容の区別から、いわゆる形式美を無内容と考えることはできない。私の考えでは内容なき美というものはない。美には表現されるべき内面的生命がなければならない。純なる内面的生命の表現が何時でも美と感じられるのだ。いわゆる形式美なるものの本質をカントの如く解するならば、それはカント自身が考えた如く単なる形式美というべきものではなく、かえって我々の純なる理性的生命の内容を表現するものではなかろうか。理解力という一つの精神作用を、作用の作用の立場から反省して見た作用自身の内容の表現と見るべきではなかろうか。形式美はかかる意味において一種の内容美でなければならない。我々が種々の作用を有するから種々なる生命の内容があり、種々なる芸術美が成立するのだ。
造形美が空間を対象とするとすれば、空間が造形美術においてその内容をなすものと考えねばなるまい。これに対して、色という如きものすら外面的と考え得るだろう。ましてそれが基督の母たるマドンナの像であるとか、ギリシャの女神たるヴェーナスの像であるとかいう如き概念的内容は、芸術的内容に対しては、完全に外面的と考えねばなるまい。しかしこれが為に造形美術は形式美の芸術であるということはできない。もしフィードレルの如く考えるならば、造形美術は我々の純粋視覚の表現であり、造形美術の内容をなすものは純粋視覚の内容でなければならない。我々が概念の網を破って純なる視覚作用の立場に立つ時、純なる造形美術の対象界が現れて来る。これにおいて物が生きて来るのだ。空間が生命を以て満たされるのだ。生命とは主客の合一の相だ。我が物となり、物が我となる時、生命が現れ来るのだ。かくの如き意味において、純粋視覚の立場の中に統一され得るかぎり、色が造形美術の内容を成すことは言うまでもなく、芸術家の人格の深さによっては、宗教的内容と思われるものすら形体化することができるだろう。特にマイエルの言う如く、表現的芸術と考えられる詩において、概念的内容が直ちにその内面的内容を成すことは、何人も認め得るだろう。私は美に形式美と内容美という如き区別があるのではなく、すべてが内容美と言うべきものであると思う。ただ、芸術的内容の種々の区別があるのではなかろうか。普通にいわゆる形式と内容の区別というのは、知的内容の区別を美的内容に移したものと思われるのである。
三
美が上に言ったような意味において、それぞれの内容を持っているとするならば、それは知識内容といかなる関係においてあるだろうか。視覚作用には造形美術の美があり、聴覚作用には音楽の美があり、そしてそれらの美が経験内容の異なるに従って、特殊なる内容を有するものとするならば、知的内容と美的内容の間に何らかの内面的関係があると考えざるを得ない。例えば均整美という如きものであっても、それが形における場合と、音における場合と同一とは考えられないだろう。その美が深くなればなるほど、一つの美は他の美によって代えることのできない美的内容を持つと考え得るだろう。芸術家の創造作用が客観的に何物かを構成する構成作用であるとするならば、その構成作用は経験の客観的法則に従わねばなるまい。造形美術は視覚的経験の法則に従わねばならず、音楽は聴覚的経験の法則に従わねばならない。美的内容は、これらの法則に制せられて特殊の内容を持つとも考え得るだろう。
我々が色と色との関係とか音と音との関係とかいうものを定めるのは、視覚とか聴覚とかいうものに依らねばならない。我々がこれを判断意識の立場において、判断の形に構成することによって、感覚的知識の真理が成り立つのだ。いわゆる色自体Farbenkorperという如きものは、何人も認めるべき真理と考えられるのである。そして斯く感覚内容を、判断の形に直して考えるということは、次の如く言い得るだろう。我々の自由我というはのは無限なる作用の作用であって、理性はその限定の方面であり、意志はその発展の方面である。ヘーゲルも思惟を意志の反省的方面と考えている【Philos. d. Rechts Einl., §5】。我々が感覚的真理を構成するということは、部分的作用の内容を、作用の作用の立場の内容に直して見ることであると考え得るだろう。作用の作用の立場の反省的方面である理性は、すべての作用の内容を自己の内容に直して、自己自身の対象界を構成すると考えることができる。斯くしてすべての個人的主観に対して、一般妥当的である客観的真理の世界が構成されると考えることができる。しかしまた一方から考えれば、視るとか聴くとかいうことは、その内容が理性の立場において反省されると共に、創造作用としての自己自身の内容を有すると考え得るだろう。知的内容に分析することのできない、自己自身の積極的内容を有すると考えることができるだろう。純粋感覚の表出運動と考えられる芸術家の創造作用は、かくの如き内容を表すものと考え得るだろう。
右の両方面は固より相反する方向ではあるが、経験的知識を確立するには、一般的理性が特殊的作用に従わねばならない。経験内容を反省して一般的真理を構成する前に、まず一般を内に含む特殊(作用の直接の結合の内容)が構成されなければならない。我々が現実に見るとか聞くとかいうことが、かかる経験を構成することだ。我々は働くということによって、一般を特殊の中に含むことができるのだ。芸術的創造作用もかかる特殊化の方向を進めて行くに過ぎない。斯くして真(一般)と美(特殊)は相接するのだ。真の裏面に美が伴っていると考えることができる。芸術的創造作用というのは、ただ主観的に物を構成するのではなく、客観的に物を見ることである。深い実在を見出すことである。物にあっては、右の如き創造の方向と反省の方向の間に何処までも間隙があると考えられるが、我においては、この両方面が内面的に結合していることが明らかだ。無論、我が我を創造して行くという如き場合では、それが直ちに芸術的創造作用とは言い得ないだろう。自己を創造して行くのは、厳粛なる道徳的行為だ。物において芸術的創造作用は、我において道徳的行為となるのであるが、両者共に同一の方向だ。両方向の内面的結合が断たれた時、それが芸術的創造作用となると考え得るだろう。
感覚的経験が真理の基となるという時、特殊が一般を含むという時、その特殊は形式論理において考えられる如き特殊でないことは言うまでもない。理性を超越する意志(作用の作用)の立場においての統一でなければならない。知識は、この方向に進むことによって客観性を得るのだ。この意味において、真なるものの基礎に美なるものがあると言うことができる。経験的真理の確信の基に、一種の美的直観が働いていると考えることができるのである。美の上に真が漂うと言ってよい。意識一般の立場において認められる経験的真理に反する美の内容はない。なぜなら美的直観は理性を内に包み、無限にこれを個性化して行く方向であるからである。知識の客観性を失うことは同時に美の客観性を失うことである。ただ、一般的真理は美の内容の成立条件となるが、一般的真理は直ちに美ではない。美の内容は何処までも個性的でなければならない。真理であっても、それが個性的となればなるほど、美的内容に近づいてくる。無論、何処まで行っても個性的なもの(美)と一般的なもの(真)は結合しないと考え得るだろう。何処までも美は美であり、真は真であると言い得るだろう。この両方面は、真に作用の作用の自覚の立場というべき宗教の立場において、その内面的合一を得るのだ。宗教の立場において、個性化と一般化の両方面が結合するのだ。真なるものは美、美なるものは真となるのである。
四
我々は普通に知覚と思惟を区別する。しかしこの二つの作用はいかなる点において異なり、いかなる点において同じと見るべきであるか。思惟というのは、知覚的経験によって与えられた内容を区別し、整頓する単なる形式的作用ではない。思惟は思惟自身の内容を持つのだ。数理の如きものは、純粋思惟の対象と考えることができる。なお、思惟(一般的理性)を前に言った如く、意志(特殊的作用)の裏面として考えてみれば、思惟は一面において一つの創造作用であると考えることができる。自己自身の実在界を構成すると考えることができる。自由我(作用の作用)の世界は思惟が思惟自身を反省することによって創造されるのだ。これに反し、知覚的経験といえども、単に受動的ではない。単なる静的直観ではない。純なる直接の作用としては、作用が作用自身を省み、作用が作用を生む一つの事行だ。我々が一歩一歩物を深く見て行くことは、一歩一歩物を深く考えて行くことと同様だ。視覚の世界は視覚に連なり、思惟の世界は思惟の世界に連なる。作用が作用自身を対象としても、各自が各自に十全なる世界を創造するのである。我々の視覚作用は、色の表象自体を内容とすることによって発展するのではなく、直ちに前の作用に接続することによって進むのである。画家や彫刻家は眼を以て考え、哲学者は思惟を以て見るのだ。プロチヌスの言う如く、思惟することは見ることである。
それでは、いかなる意味において、知覚と思惟が区別されるのだろうか。知覚においては、作用から作用への推移が直接にして無意識と考えられ、思惟においては、その間に間隙があり、意識的であると考えられるのは、何によるのだろうか。私は思惟を作用の作用である意志の反省的方向として、すべての作用に対して自由なる統一の立場として見ることによって、これを解し得ると思うのである。すべての経験は、その純なる状態においては、作用の純なる内面的連続として、意志の射影と見るべきだろうが、我々は作用の作用である意志の自覚の立場において、これを作用自身の対象として見ることができる。思惟はかかる立場の反省的方面として、その限定作用として、すべての作用に対して、独立であり、自由であり、統一的であり得るのだ。表象の立場は感覚の立場を、想起の立場は表象の立場を、これを超越しこれを内に含むの故を以て、その内容に対し、独立であり、自由である。思惟の立場は、かかる意味においての極限と見ることができる。表象は感覚の連続ではない。感覚の立場から見れば、その間に間隙があり、感覚の統一として無意識であったものが、表象としては意識的となると言い得るだろう。表象において無意識であったものも、記憶において意識的となると言い得るのだろう。
しかし私はいかなる経験においても、反省的方面の知識と、作用が作用自身を見る創造的方面の知識があると思う。この区別が永久真理と事実真理の区別として現れるのだろう。視覚作用が色や形を識別して行く時、無論まだ判断の形において区別されるのではない。しかしこの識別が、赤は青と異なるという如き判断の基礎となるのは言うまでもない。私はかかる知的内容を、視覚の世界における永久真理と見たい。いわゆる色体という如きものは、かかる知的内容に基づく永久真理の体系と考えることができる。赤と青が識別されるには、赤の視覚と青の視覚が、この両者を総合する視覚一般の立場から反省されるのだ。視覚が視覚自身の内容を反省するのであると考えることができる。あるいはそれは判断であって視覚ではないと言うでもあろう。しかし現在に二つの色を並べて、これを識別するものは、視覚でなければならない。あるいは感覚と感覚は互いに直ちに相区別するというかもしれない。しかし互いに独立なるものは、相区別することはできない。両者を識別するには、両者を総合統一する全体がなければならない。否両者はこの全体の分化発展と見られなければならない。かくの如き識別作用が、心理学のいわゆる感覚作用となるものである。あるいはそれは感覚作用として、眼の場合においても、耳の場合においても、同じものであるとも考えられるだろう。無論我々は感覚一般の立場として感覚作用というものを認め得るのだが、具体的には一々が特殊的でなければならない。視覚作用は斯くの如く識別的方面を持つと共に、純なる作用の連続として構成的方面の内容を持つ。すなわち知的方面を持つと共に意的方面を持つ。そして後者の方向において徹底したものが造形美術の内容を成すと考え得るだろう。我々はこの方向において、視覚の世界における事実真理を持つと言うことができる。かくの如き見方において、ディルタイの言う如き構造Strukturの心理学が成立するのだ。芸術的実在に対して芸術的真があり、真と美の結合をこの方面において見ることができるだろう。芸術的美の中に、心理的真が含まれていると考え得るだろう。セルバンテスの描けるドンキホーテやシェクスピーヤのハムレットは、それが個性的である芸術的創造であると共に、心理学上の一つのタイプと考えることができる。無論芸術的内容が直ちに心理的真理とは言い得ない。芸術的内容は知識内容に還元することのできない如き、具体的なものと言わねばなるまい。しかし物理学者が現実の経験的真理から一般的なものを見出す如く、芸術的内容の中に知的内容を含み、一種の心理的知識は、この立場によって客観的となると考えることができるのである。
右の意味を明らかにするには、実在とか事実的真理とかいうものについて考えてみなければなるまい。実在というのは、意志の対象界と見るべきだろう。可能の世界から区別される現実の世界は、無限の真理を統一するアプリオリのアプリオリの立場(作用の作用の立場)において構成されたものでなければならない。モナドは神意によって創造されたのである。カントの意味において知識の客観性ということは、現今西南学派の考えるように単に一般妥当的であるというばかりでなく、知識の形式と内容の結合に求めねばなるまい。そしてかかる結合はただ作用の作用の立場においてのみ可能だ。この意味において客観的知識は実在の知識であると言うことができる。事実真理というのは、かくの如き意味において実在の知識でなければならない。意志が自己自身を反省した知識内容でなければならない。無論意志は意志自身を反省し尽くすことはできない。反省し尽くすことのできるものは、意志とは言われないだろう。物自体とは、知識の達することのできない意志自身の無限の行き先である。しかし作用自身の内に反省されることによって成立する事実的真理は、単に対象的である永久真理とは、相反する立場において成立すると考えることができる。ライプニッツのアダムの概念、西南学派の歴史的認識は、皆作用が作用自身の内に省みる立場において成立するのである。歴史的認識の基である一般者は自然科学的知識の一般者とは同一ではない。
いわゆる事実的真理、歴史的認識を右の如く考え得るならば、私はこれを行為の内容と考え得ると思う。右の如き知的内容の成立の基には、動的一般者がなければならない。すなわちこれ(事実的真理、歴史的認識)を動くもの、働くものの内容として考えなければならない。無論既に省みられた知的内容は、直ちに動くもの、働くものの内容とは言われまい。しかし動くもの、働くものは、無内容ではない。我々は「時」の内容を、自己の内容として働くのである。この内容を離れて我々の内容はない。我々の道徳的行為というのは、歴史的事実を内容として成立するのだ。かかる知識を内容として進むのだ。超越的意志(作用の作用)が自己自身の中に反省する知的内容が、歴史的知識となり、超越的意志の発展が道徳的行為となる。歴史的真と道徳的善は表裏相接している。無論、主観的善の立場から見れば、歴史の背後に善の理念があるとは考えられないだろう。しかし私は今しばらくヘーゲルの世界史の理念についての考えを引用するに留めておく。ヘーゲルは理性的意志、具体的善は最も有力なるものであり、斯くの如き働く善、すなわち神の摂理の発展が世界史であると考え、真なるものの真理は創造された世界であると言っている【Hegel, Die Vernunft in der Geschichte, Hrsg. v. Lasson, S. 55】。
右の如くにして世界史の内容は道徳的意志の内容と考えられ、構造の心理学の内容は芸術的創作の内容と考えられ、美なるもの、善なるものが立せられる。真と善と美を同一の方向において見ることができる。視覚的体験について言えば、単に抽象的に色の種々なる関係を示せる色体の如きものは、思惟体験における純理の体系に比すべきものであって、我々が思惟の立場においていわゆる経験的実在界を有する如く、視覚的体験は己自身の実在界を持つ。そして経験的事実が法則化されて自然科学的真理となる如く、視覚的体験の内容も一種の心理学的真理として法則化されるのである。しかし我々は意識一般の立場において、唯一なる現実の世界として事実的真理の世界、歴史の世界を持つ如く、造形美術の創作的立場において、視覚の立場においても、個性的事実の世界を持つと考えることができる。一あって二なき芸術的内容は、視覚の世界における一度的な事実である。そして歴史的認識が一度的なもの、唯一的なものの知識と考えられると共に、その中に無限の永久真理を含むと考え得る如く、芸術的作品の中にも、無限に永久真理を含むと考え得るだろう。
真と美
一
私は前に超越的意志(作用の作用)が自己自身の内容を反省するという立場において、美と真の結合を論じた。今、同様の考えによって、真と美の関係について考えてみようと思う。そして私はまず知識の真ということについて考えてみよう。リッケルトなどに従えば、一般妥当的である知識内容が真と考えられ、一般妥当性ということは、知識の客観性ということと同一と考えられている。模写説に反して、知るということは構成することであると考え、認識対象を当為とする立場においては、斯く考えるのが至当であろう。しかし徹底的に斯く考えるならば、種々なる知識のアプリオリは互いに独立となり、知識の統一、知識の体系は立たなくなる。いわゆる価値の無秩序に陥る外はないだろう。私はカントが知識の客観性を、思惟の範疇と知覚との結合に求めた所に、単に一般妥当性以上の意味があるではないかと思う。思惟の範疇と純粋直覚と結合して数学的知識が成立する時、後者(数学的知識)は具体的全体として前者(思惟の範疇、純粋直覚)よりも一層客観的ということができる。しかしカントの言う如く数学的知識は経験の可能を示すものであって、物の知識ではない。経験的知識ではない。客観的知識(物の知識、経験的知識)は内容ある直覚との結合によって成立するのだ。思惟が直覚と結合するとは何を意味するか。いかにしてそれが可能であるか。直覚というのは、普通に考えられる如き受動的状態ではない。かかる意味の直覚は思惟の所作(思惟により対象化された直覚)であって、思惟はこれと結合することによって何物をも得ることはできない。真に与えられた直覚は、それ自身に動的である主客合一の作用でなければならない。この意味において思惟が直覚に結合するというのは、己自身の根元(作用)に帰ることと考え得るだろう。数理が論理の具体的根底として客観性を有するのは、これ(己自身の根元に帰ること)によるのだ。しかし(数理などにおける)理性は自己の一面にして、その全体ではない。作用の作用として、すべての作用を統一し、その具体的根元(作用の作用)となる意志の立場において、初めて知識の形式(思惟、理性)と内容(直覚)が結合し、真に知識の客観性に到達するのである。右の如くにして、種々なる知識のアプリオリは、アプリオリのアプリオリの立場(作用の作用、意志の立場)において統一され、知識の目的が定められて、知識が客観性を得るのだ。昔プラトンの考えた如く、真の根底に美があり、善があると考え得るだろう。
我々の知識は何らかのアプリオリによって成立し、知るということはこれ(アプリオリ)によって構成すると言うことであるから、真理は我々の認識作用に対して、当為でなければならないと考えられる。そしてすべての人の認識作用というものが、超越的価値を内在的意味として、作用の中に映すことによって成立するとするならば、その当為は一般妥当的であると言い得るだろう。しかし知るということは、認識作用が当為に従うことであるという時、そこに従うものと従われるものとの対立がなければならない。知ることは構成するということであると言うならば、構成するものと構成されるものがなければならない。もし認識作用というものが単にアプリオリ自身の発展とするならば、非合理的なものや誤謬というようなものはなくならねばならない。否、作用の意識というものすら起こり様はないのだ。主客相対立する時、もし知られたものが、それだけで全きものであって、意識は単に鏡のようなものならば、主と客の対立の起こり様はない。主客の対立には、少なくとも与えられたものの体系間に、矛盾衝突という如きものがなければならない。あるいは体系と体系との矛盾衝突でなくとも、ある一つの体系が己自身を限定し行く時、限定するものと限定されるものとの対立を見ることができると考えられるでもあろう。しかし自ら動くもの、自己自身を限定するものは、最終が最初に含まれ、アプリオリ自身が生産的なもの(目的を持つもの、精神的なもの)でなければならない。そして単に内から動くということは、直ちに意識するということではない。与えられたものは求められたものであり、我々の認識対象界が合理的であるといっても、その物自身が意識するとは言われない。曲線上の一点、物理的力、生物的生命、皆それ自身に生産的と考え得るだろう。しかし自己自身を意識しているとは言われない。単に自己自身にて発展的である体系においては、完成の程度の差というものを考え得るだろうが、合理的と非合理的との対立はなく、真と偽との区別は成り立つことはできない。かくの如きものに対して、当為ということは無意義だ。我々の主観がただ一つのアプリオリから知識を構成して行くものとすれば、完全と不完全との差はあっても、誤謬というものはない。誤謬はアプリオリの混淆から起こるのだ。そしてかかる意味において誤謬というものが起こるには、アプリオリとのアプリオリの立場(作用の作用、意志の立場)において、アプリオリの自由なる統一というものがなければならない。知るということは、この立場において一つのアプリオリを認めることでなければならない。知ることの目的すなわち真理に達するということは、単にアプリオリを純化するというばかりでなく、アプリオリの統一に達するということでなければならない。「それは真であるか」という問は、アプリオリのアプリオリの立場(作用の作用、意志の立場)において成立し、これを決するものはこの立場でなければならない。知ることは構成することであり、形式と内容の結合によって、その客観性を得るということの真意は、ここにあるのだ。真理が我々に対して一般妥当的当為であるということは、アプリオリのアプリオリの世界における実在として、内に無限なる認識のアプリオリを蔵する我々が、自己自身の内面的統一に従うということでなければならない。
ある一つのアプリオリを取れば、これによって真理が定まると考えられるが、いかなるアプリオリを取るべきかを定めるものがないならば、真理は単に人為的となる外はない。この場合※プラグマチストの如く考えるか、そうでなければ真理は単に学者の遊戯となる外ないだろう。
※ 引用 実用主義とは
「真理への意志」というものがあるならば、それはアプリオリとアプリオリを結合し統一する意志でなければならない。我々はこれ(意志の立場)によってプラグマチストの立場を脱し得るのだ。知識の客観性を立するには、この意志が超個人的であり、客観的であるということに基づかねばならない。知識が単に「かかるアプリオリを取るならば」の上に立つならば、知識の客観性を立することはできない。しかし知識は、最後の統一の理念(最終的な統一という理念)の上に立つのだ。何らの主観性をも許さない知識の客観性は、かかる認識の理念の上に立たねばならない。ある一つのアプリオリの上から一つの判断が真理として認められる場合においても、これと異なった立場から、反対の判断の可能が考えられ、しかもこれを否定することによって、真理が認められるのだ。当為とは超個人的意志に個人的意志が従うことでなければならない。意志が意志に対する時、はじめて当為の意味があるのである。種々なる知識のアプリオリは認識意志(認識作用という意志)から生み出され、しかもこの中(認識作用の中)において統一されていなければならない。
右の如く考え得るならば、私は知識の客観性という中には、知識がその元に還り、真実在と結合するという意味があると思う。ただその真実在というのは、認識によって構成された、いわゆる対象化された世界ではなく、作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続の世界でなければならない。知識そのものが実在的である世界でなければならない。すなわち構成bilden(作用)は模写abbilden(知識)であり、模写(知識)は構成(作用)である世界でなければならない。我々はかくの如き真実在の世界、具体的実在の世界を、我々に直接である自覚の体験によって理解することができる。我々の自覚においては、達することのできない物そのものに向かうこと(知るという働き)が、物そのものに一致すること(知るということ)である。知るという働き(作用)そのものが知ること(知識)である。認識対象は認識作用そのものの中にあるのだ。純我(純粋自我)の一面として純我の影を宿せる認識作用は、ある一つのアプリオリから構成して行く時、その行先に目的を有するのでなく、作用自身の中に真の目的を有するのだ。認識の目的(認識対象)は作用(認識作用)自身の中の世界にあるのである。当為として我々に臨むものは、かかる超越的意志の内容でなければならない。意志を抑圧するものは(当為として我々に臨むものは)、また意志でなければならない。知識の目的はアプリオリによって構成して行くことにあるのではなく、主客の合一によるのだ。アプリオリによって構成して行くという時、何処までも主客対立の立場を脱しない。主客の対立は知識の主観性を意味する。完全に知識の主観性を滅却するには、主客合一して、一つの働き(作用)とならねばならない。一つの働き(作用)となるというのは主客の別がなくなることではない。主客の矛盾、対立がそのままに内容となるのだ。物理的知識が、数理的知識に比して、実在的なるものの知識として、客観的と考えられるのは、かくの如き主客合一の立場である作用の作用の内容たるにあると考えることができる。純数学的知識においては我は完全に知識の外に立つ。数理の対象界において我を映すことはできない。しかし物理的知識は、既に作用の作用の内容として、主客合一を目的とするが故に、物理的対象界の中に自我を映して見ることができる。唯物論は斯くして起こるのだ。唯物論とまで行かずとも、自然科学的心理学は既にこの方向を示しているのである。無論かかる行方によって主客合一に対することはできないが、私はただこれによって知識の客観性ということに、二つの意味があることを示したいと思うのである。ある一つのアプリオリの上に立つ時、我々は既に超越的意志(作用の作用)の上に立つのであるが、アプリオリの客観性を定めるものは、アプリオリのアプリオリ(作用の作用、意志の立場)でなければならない。超個人的意志主観あるいは行為的主観でなければならない。かかる立場を許さなければ、何故に数理的知識に比して物理的知識が客観的であるかを明らかにすることはできない。あるいはそういう立場は超知識的立場であって、知識の立場でないと考えられるかもしれないが、具体的知識は何時でもかかる立場によって成立するのである。
我々が普通に直覚に基づく事実的真理と考える所のものは、元来右に言った如きアプリオリのアプリオリの立場、作用の作用の立場において成立するものでなければならない。直覚というのは、単に知識内容を受け入れることではなく、(作用の作用の立場から、作用の統一により)構成することでなければならない。形式的知識(単なる思惟、数理的知識など)に比して、内容ある知識(物理的知識など)が客観的と考えられるのは、これによるのだ。行為的主観の立場の上に立つことによって、種々の感覚作用は先験的に統一され、種々の経験内容が客観的に取り入れられて、力の世界(物理的世界)、実在の世界が成立するのだ。力のアプリオリは行為的主観の範疇の一つでなければならない。すべて具体的認識のアプリオリは、この立場(作用の作用、意志、行為的主観の立場)において与えられるのだ。無論かかるアプリオリによって成立する知識も、直ちに対象化されて永久真理となる。自然科学的法則というのは、かくの如き性質の真理だ。これに反して行為的主観そのものの内容ともいうべきものは、何処までも対象化することのできない超認識的世界と考えられるだろう。しかし行為的主観は自己の内容を対象化すると共に、自己自身の内容を持ち、自己はその内容を対象化する前に、まず自己を反省しなければならない(対象化する前にその反省がなければならない)。対象化された真理は、対象化する自己の真理によって立せられるのである。物理的真理を証するには、まず自己が真実の世界にあることを明らかにしなければならない。夢中における物理的実験は、物理的真理を証することはできない。物理的真理を立する自己は歴史的自己でなければならない。そしてかくの如き自己(歴史的自己)の真実性は、ただ自己自身の反省によって立せられるのだ。夢において数理を考え得たとしても、それは数理的真理たるに妨げない。しかし夢における物理的実験はたとえ、それが真理に合ったとしても、物理的真理ということはできない。物理的真理として永久真理化されるには、まず行為的自己の内容として行為的自己の中に映されねばならない。夢みる自己の内容としてでなく、働く自己の内容として映されねばならない。私はこれ故に物理的真理という如きものには、単に思惟の当為以上の意味があると思う。行為的主観の内容は、働くものの内容でなければならない。働くものの内容は実在(知識そのものが実在的である世界)の内容でなければならない。ここに実在を映すことによって、真理となるという意味がなければならない。事実的真理は単に当為によってその根拠が与えられるのではなく、実在(知識そのものが実在的である世界)の部分的模写たるにあるのだ。事実的知識は単に論理的判断によって成立するのではなく、行為的主観が自己を反省することによって成立するのだ。この場合、判断(思惟)は自己反省の形式に過ぎない。自己を映す手段に過ぎない。思惟が行為を包むのではなく、行為が思惟を包むのだ(思惟の前に行為の内容があり、その内容の中に思惟内容がある)。思惟は行為の反省であり、行為は自己を意識することによって発展するのだ。この意味において、事実的真理は抽象的なものから具体的なものに進み行くことによって真理となるのである。
以上論じた如く、真理の概念は一般妥当性によって尽くされるのでなく、知識の目的である主客合一によってその客観性を得るのだ。そして主客合一の真実在(知識そのものが実在的である世界、作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続の世界)はフィヒテの事行という如き自覚的体系であり、知識はその反省的方面として実在の影を映すことによって、客観的となると考えることができる。あるいは我々の自己が自己を反省することができないという意味において、知識は真実在を写すことは不可能であると言い得るだろう。しかし反省する自己と、反省された自己は別物ではない。その間に墻壁(しょうへき。壁)はない。事実的真理が現実的自己の直覚において、事実として証明されることその事が、一般妥当的となるのはこれによるのだ。自然界といえども、すでに意志自覚のアプリオリによって成立し、自然の一様性はこれによって立せられるのだ。無論対象化された自然は、意志そのものの自覚ではない。自覚的体系(実在)そのものの内容は、これを歴史的知識に求めねばなるまい。我々は歴史的認識の方向において、無限に主客合一の具体的知識に近づくことができる。自然科学的知識は、これに反してかえって抽象的知識となるのである。対象化されたものを実在とする見方から言えば、かかる考えは主観的なるものを客観的なるものとなすとも考えられるだろう。しかし対象界の実在性は、無限に自己自身を対象化する作用の実在性によって立せられねばならない。また知識の真ということを永久真理という如きものと見るならば、事実的知識の真ということは、これ(永久真理)と性質を異にするように思われるかもしれないが、意識一般の立場において承認せねばならないという意味においては、共に認識上の真ということができる。ただそのアプリオリを異にし、認識の意義を異にするのだ。前者(永久真理)においては単なる思惟のアプリオリであり、後者(事実真理)においては思惟を含める意志のアプリオリだ。永久真理は意識一般によって立てられ、事実真理はこれ(永久真理)を内に含むことによって立せられる。認識主観の中に含まれるもの(永久真理)は、繰り返し得ると考えられ、これを超越しこれを限定するもの(事実真理)は、繰り返すことができないと考えられる。真理が認識作用を超越すると考えられるのは、対象化された心理的作用を超越する意味に過ぎない。認識主観を離れて知識の成立し得ざることは言うまでもない。そしていわゆる永久真理は認識主観が自己を限定することによって成立し、事実真理は自己が限定されることによって成立するのだ。無論真理はすべて一つの体系の自己限定として成立し、何れもその体系において唯一なるものとも考え得るだろう。数学的思惟の立場においては、ある一つの数の関係は、数理の世界の唯一の事実となる。我々が単に数理のみ思惟し得るとすれば、数理は即事実だ。我々がこれを永久真理と考えるのは、更に高次的立場(事実真理)に立ち得るが故だろう。いわゆる事実真理というのは、かくの如き意味において最高の立場における認識として唯一と考えられるのである。
二
善の内容とはいかなるものであるか。形式論者から言えば、道徳的善は全く形式的でなければならないかもしれない。しかし何らの内容もない形式的道徳はかえって主観的たるを免れない。実行に当たって何らの方向をも与えることはできない。真に一般的なるものは、その中に特殊化の原理を含むものでなければならない。真に客観的である道徳は、行為の内容を客観的に規定するものでなければならない。我々は内容を離れることによって自由となるのではなく、内容の中に自己を見出すことによって自由となるのである。完全に我を客観の中に没し了った時、初めて真の自由を得るのだ。いかにして客観的なるものの中に自己を見出すことができるか。いわゆる客観界なるものが単に自然という如きものであるならば、いかにそれが有力であっても、我々はその中に我の目的を見出すことはできない。私はこれ(自然)に対し「考える葦である」という誇りを持ち得るのである。単に完全なる実在とか、宇宙の原因とかいうだけでは、我々の道徳的行為の目的とはならない。万有神論の欠点は実にここにあるのだ。我々が真に客観の中に自己の目的を見出し、その中に自己を没入するには、客観的なるものが自己の根元でなければならない。その客観的なるものが精神的実在でなければならない。我々の主観的欲求といえども、自己の作為したものではない。我々の衝動や欲求は、すべて客観的根元を持ったものであると考えることができるだろう。しかし自己は単にこれらの結合統一ではなく、これらの欲求はかえって自己の統一によって成立し、自己は自己の統一的内容において自己の目的を見出すのだ。そしてかかる自己の根元としては、ヘーゲルの客観的精神という如きものを考えざるを得ない。すなわち人格的内容の客観的世界を認めざるを得ない。我々の自己はこの根元によって成立し、ここにその目的を見出すのだ。形式的道徳とはかかる客観界の成立条件であって、言わばこの世界に入る閾だ。この閾を入ることによって、すべての欲求が純化され、道徳化されるのである。
善行為とは右の如きものであり、また先に言った如く知識の真ということは、実在(知識そのものが実在的である世界、作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続の世界)そのものを写すという意味を有するならば、客観的精神の実在性を媒介として、真と善の結合を見ることができるだろう。自己自身を知ることなくして、客観的精神の実在性はない。自己自身を知るということが、精神的実在の本質である。そして自ら知るということその事が、働くことであり、発展することである。我々は自己の真実在を知ることによって、善に至ると考えることができる。勿論事実の真という如きことと、行為の善という如きことの間には、大なる径庭(けいてい。へだたり)があると考え得るだろう。しかし我々が単に時空の形式に当てはめて、単なる事実の世界を考える場合においても、その根底にはある方向に向かって動く何物かを認めなばなるまい。これによって動かすことのできない唯一の世界が成立し、事実的真理もこれによって立せられるのだ。「時」が特に実在の範疇と考えられるのはこれによるのだ。「時」が何らかの内容を得た時、力の世界(物理的世界)となり、その内容の自覚したものが歴史の世界となる。そして我々に取って何人もこれを認め、これに従わねばならない客観的善と思われるものは、かくの如き客観界(歴史の世界)そのものの方向に外ならないだろう。真実在の進み行く方向はすなわち我々の行為の目的でなければならない。勿論自然の冷酷なる法則と、我々人間の種々なる欲望と相対する時、我々の目的は自然の中にあるとは考え得ないだろう。しかし唯物論者の考える如く、自然が唯一の真実在であるとしても、我々はこれに従うの外ないのみならず、これに従うべきであるとも言い得るではなかろうか。更に徹底的に考えれば、我々の欲望そのものも自然の現象となり、遂にその「べき(自然に従うべき)」すら消え失せるだろう。斯くまで唯物論的に考えなくとも、我々の自己が完全に力なきものとなる時、すなわち意志としての自己が消滅する時、なお自己として存し得るものがあるとすれば、それはただ受動的にして単に知る自己のみであろう。知的自己の善は真理を知るということでなければならない。真理が善であり、迷妄が悪である。「知的愛」を以て結べるスピノーザの哲学こそ、最もよくこの意を明らかにするものである。これに反し、我々の自己は自然に対し独立の実在性を有するのみならず、その心核において理性に分解することのできない非合理的或物を有すると考えられた時、先に言った如く我の目的は認識対象界(自然界)に求めることはできない。自然は時に我の手段となり、時に我の障害となるまでである。しかしかかる場合、斯く真理とか自然とかに対して独立の実在性を有する自己とは、いかなるものであるか。快楽論者の如く、意志の目的は幸福とか快楽とかにあるとしても。快楽とか幸福とかいうには、まず与えられた衝動とか本能とかいう如きものがなければならない。快楽とか幸福とかいうのは、これ(衝動や本能)を満足することによって生じるということができる。しかし斯く考えるならば、我は再び認識対象界(自然界)の中に没入し去らねばならない(唯物論となる)。もしこれに反し我を完全に無内容と考えてみるか。(しかし)我はいかなる内容を以てしても、満足されねばならない。それでは、与えられた欲求の合理的統一と言う如きことを、我の働きと考えてみようか。それにはまた我に対して与えられた合理的内容がなければならない。それが単に論理の法則の如きものであっても、そこに我の従うべき客観的法則があると言い得るだろう。ただ客観的内容として意識されたものが自己の内から出ると考えられるか、外から来ると考えられるかによって、客観に従うことが我自身の目的に従うと考えられるか、または我は客観に従うことによって我自身を失うと考えられるのである。
我々はここにその内からとか、外からとかいうことを吟味して見なければならない。我々の意識が完全に我と言われるものの中に限られているとすれば、いかにして我の外を知り得るだろうか。我の内外を区別し得る立場は、両者を超越ししかもこれを内に含む立場でなければならない。あるいは我々は障壁の外を見ることができなくとも、その外のあることを認めねばならないというかもしれないが、フィヒテの言った如く我が障壁に遮られると知った時、すでにこれ(障壁)を超えているのである。我々が天の無限なるを知るのは、視覚によるのではなく、思惟するが故である。物自体を認識の限界として見る時、いわゆる認識以上の立場を有することを示すのである。カントが物自体を不可知的として認識の限界と考える時、認識というのは経験的知識を意味しているのだ。カントは直覚の内容と結合しないから、客観的知識とならないと考えたのである。我々が判断的認識の限界を知る時、我々は判断的認識以上の或物を持っていなければならない。それは未だ知識でないとは、人のよく言う所である。しかし事実の知識はこれによって成立するのだ。判断以前の直覚(判断的認識以上の或物)は、無差別とか不明瞭とかいうべきでない。判断はこれを範疇的に構成するに過ぎない。斯く判断の形に表した時、前の直覚的内容が明らかになる訳ではない。明らかなる内容は固より明らかであったのだ。判断的認識となることによって一般妥当性を要求し得るというが、「この物は赤い」という判断が一般妥当性を要求し得るには、自分の直覚的内容が客観的である。何人もかく見る。かく見ない人の眼は誤っているということを意味していなければならない。無論私の赤の感覚内容は、他人のものと異なっているかもしれない。私は私の感覚と他人の感覚を比較することはできない。しかし我々はどこかで感覚的に相触れる所がなければ、※独知論に陥る外はない。
※ 引用 独知論とは
経験から来る知識に、一般妥当性を要求することのできないのは言うまでもない。しかし感覚的内容に何らの客観的根拠がないものとすれば、知識は感覚的内容を得ることによって客観的となるというのは理由のないことである。我々が一つの経験界を持つというのは偶然に過ぎない。私の意識内に限られた世界は、夢と択ぶ所はない。感覚内容と結合することによって知識が客観性を得るというのは、我々はこれによって自己の意識範囲内を超え得ると考えるによるのだろう。感覚の基において、我々は一つの客観的世界を持つと考えるによるのだろう。力の概念は自他の世界を結合するのである。これによって偶然的なるものが必然化されるのだ。純粋に合理的と考えられる数理の如きものでも、我々はこれを自由にすることはできない。しかしこれを考えるか、考えないかは我の自由なるが故に、自己の意識内容と考えることができる。純粋な対象としては超個人的と言い得るだろうが、意識内容としては主観的ということができる。独り感覚的経験においては、我々は完全にかかる自由を有しない。ただ、我々は有意的運動(意識的な運動)によって、ある程度まで感覚的経験を自由にすることができるのみである。これにおいて我々に意識の内外という区別が起こって来るのだ。我の意志に対抗するものが、外界の実在と考えられ、我々が外に一つの客観的世界を持つと考えられるのだ。すなわち意志のアプリオリにおいて、意識の内外の区別が成立し、自他の関係も成立するのだ。それで知識の対象界に対して限界となるものは、意志の対象界に外ならない。意志の対象界は主客合一の世界として、ここに我々はすべての知識の最終の限界を持つのである。我々の自己に対し、外界と考えられ、客観と見られるものは、自己の意志の深い根底に外ならない。
スピノーザの如く我々の自己の本質を単に理性と見れば、知るということが我々の最終の満足であり、最高の善となるであろう。カントの如く認識主観と意志主観を分かてば、真理(認識)と善(意志)は相異なるものとなるでもあろう。しかし認識主観は意志主観の一面であって、超越的意志(作用の作用)が自己の中に自己を反省したものが、真理の世界、実在の世界でなければならない。真実在にして善ならざるものはなく、善にして実在ならざるものはない。実在と善と相反する如く思われるのは、感覚的経験の背後に意志を認めないからである。感覚の後(後ろ?)に力を認めることによって、我々は自己の意識を超越して、自他共同の客観的実在界に入ると考えられる如く、その(感覚的経験の)後(後ろ?)に意志(作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続)を認めることによって、我々は自他合同の客観的精神界に入ると考えることができる。我々の思惟の世界が感覚の世界と結合することによって、いわゆる客観的世界が構成される時、主観的自己と客観的世界と対立すると考えられるが、眼あって色や形の世界があり、耳あって音の世界があると考えられる如く、我に対して立つものはまた我(作用という我)である。我々は行為的自己の立場の上に立つことによって、客観を主観化し、主観を客観化することができる。我と非我は、行為我の立場において統一され、行為我に対しては更に非我として立つものはない。なぜなら、自覚的行為は自己自身を目的となし、ここに主客合一するが故である。我々はかかる行為的自己の立場の上に立つことによって、いわゆる「時」を超越した、永遠不滅なる物力の世界を見る。「時」は我々の認識の形式に過ぎない。力は時と場所(時間と空間)から独立している。力の世界を成立せしめる意志のアプリオリは、知識の立場を超越してこれを内に含むが故である。時空なくして力はない。時空の内に現れることによって、力が成立するのである。しかし力は時と場所によって変じることのできないものでなければならない。時空は力の顕現の手段に過ぎないのだ。更に我々が主客合一の立場に徹底し行く時、すなわち行為的自覚の立場に徹底する時、我々はいわゆる実在の背後に永遠不滅の美を見る。美は我々の認識の形式である時空に関係のないばかりでなく、物力を超越して、物力によって美を動かすことはできない。しかも物なくして美はない。力は時空の結合において現れる如く、美は物の結合統一において現れる。あるいは美は仮相に過ぎないと言い得るであろう。美は知覚的実在の背後における客観的意志の内容に過ぎない。我々が真に自己の行為的立場に徹底する時、すべて実在的なるものが、自己の内容として、物力の背後に永遠不滅なる善の世界を見るのだ。美は仮相であるが故に、単に時空に関係がないと考えられるが、善は時空を蔽いこれを包むが故に、真に永遠不滅なのである。時空を離れて物力はないが、また物力を離れて時空はない。力を離れれば、時空は数の系列の如きものと異なる所はない。勿論、我々は物を離れて単なる時空の形式を想像し得るだろう。しかしそれが実在的となるには、経験内容と結合せねばならない。物理的時空に対しては、単なる形式的時空はその実在性を失うのである。カントも時は流れるが時自身は止まると言ったが、「止まる時」の様相が実在の形式と考えられるのは、「流れる時」の様相を包むからである。意識の世界に対して、物の世界が永遠不滅と考えられるのは、これによるのだ。しかし単に「流れる時」に対しては、空間は外界となるが、「具体的時」においては空間はその一様相となる。「流れる時」の形式によって成立すると考えられる意識現象に対し、「止まる時」の形式による物体界は外界と考えられ、「流れる時」の方面は非実在的となり、「止まる時」の方面が実在的となるのであるが、「具体的時」の立場に立つ時、すなわち意志の立場に立つ時、客観的なるものが自己となるのである。我々は少なくも衝動において、明らかにこれを見ることができる。衝動は客観的なると共に主観的だ。(客観的である)衝動的内容が主観的と考えられるのは、知覚的内容が主観的内容と考えられる如く、部分的にしてかつ不純なるが故だ。知覚の背後に潜める衝動的内容が、純化されたものが芸術的内容となる。そしてそれは空間や時間や力を超越しながら、しかもこれによって表現されるのである。美の永遠性は、これによって認められるのだ。善の内容に至っては、意志そのものの自覚的内容として、意識一般の立場を包むが故に、全宇宙の時間的進行を超越するのみならず、かえってこれが根元となる。物力の世界よりも、美や善の世界が実在的であるというのは、異様に感じられるかもしれないが、物力的世界というのは、超越的意志(作用の作用)が自己の中に自己を映した射影にすぎないとすれば、真の実在は意志そのものの発展あるのみだ。力が時空によって現れる如く、善は力によって現れ得る。しかし力を離れて時空は空想的である如く、自覚的意志を離れて力は空想的だ。我々は物質から出でて物質に還ると考えられるが、我々の感覚を離れて物質はない。実在として何時までも消すことのできないものは、我々の経験として現れた宇宙的精神の発展あるのみだ。そしてかかる精神的内容が我々の善の内容であるとすれば、実在の根元に善の理念があると考えることができる。
我々が自己に対立する外界と考えるものは、何処までも自己に反するものではなく、自己の意志の対象界に過ぎない。我々は行為によってこの世界と結合することができる。意志の目的は意志自身の中にあり、我々は自覚的行為によって主客合一の立場に到ることができる。これに対しては、更に外界なるものは成り立ち得ない。理解力の範疇と知覚的内容が意志のアプリオリの下に結合して、いわゆる経験界が成立する時、我々は我と人と合同の客観的世界に入る。しかしいわゆる経験界は、意志が自己の中に自己自身を映じる意志の射影に過ぎない。意志が自己自身の立場において自覚する時、経験界の事実は我の表現となるのだ。我々の意志を経験界において直接に表現化するものは、まず我々の身体だ。身体において主観と客観が内面的に結合している。意志のアプリオリによって結合している身体において、知識の対象界(客観)と意志の対象界(主観)が交叉しているのだ。身体無くして我と言うべきものはない。我とは昇華された身体sblimated bodyである。感官によって事実の世界と真理の世界が結合する如く、運動によって実在の世界と美や善の世界が結合するのだ。我々の自己が種々なる世界の結合点である如く、我々の身体はまた種々なる世界の結合点であり、我々はこれを出立点として種々の世界に出入することができる。我の根底であるが故に、我には不可知的であると共に、我の成立条件として認めねばならない身体によって、我々が意志の対象界に入る時、我の世界と物の世界が対立する。要するに身体が我として純化されないだけ、それだけ、外に物の世界が対立するのだ。かくの如き場合我の立場から見れば、物の世界は手段の世界となる。そして我々の身体の運動の及ぶ限り、物の世界は自己の範囲の内に入って来るのだ。ベルグソンの如く、かくの如き運動の及ぶ限り、我々の意識が伴うと考えることができる。かかる場合、知識も単に実用的意義を有するまでだ。しかし意志の表現としての我々の身体の意義を、なお一層深め行く時、我々は我々の身体の運動によって知識以上の世界に入り込むことができる。いわゆる経験界の背後に入り込むことができる。芸術家の創造作用は、かくの如き意味を有するものと考えることができるのだ。芸術家は手を加えた眼を以て見るのだ。彼の見る世界は、単なる認識対象の世界ではない。ベルグソンは本能生活と理智生活を区別して、前者においては、身体の部分が同時に機械であると言っている。芸術家の創造作用も、一面においてこれと相類するものがある。本能的生活においては、物は我である。手段と目的が合一している。我に対するものは物ではなく、我と一つの生命の表現である。芸術家の創造作用においては、いわゆる鍛錬によって内に我々の肉体的運動が純化されると共に、我々の肉体以外の物をも直ちに自己の生命の表現として見ることができる。芸術的鍛錬すなわち肉体的運動の純化とは、知識の立場を意志の立場の中に包容することを意味するのだ。道徳的行為というのも、かかる方向を進み行くに外ならない。道徳的行為において、我々は我々の全身体を純化し尽くさんとするのである。単にいわゆる動機の純化によって概念的自己を純化するのではない。善は単なる動機ではなく、善行為でなければならない。ヘーゲルのいう如く、大なる激情Leidenschaftなくして、偉人はない。かかる立場に徹底し切ったものが宗教的立場だ。これに至って、万物自己の表現たらざるものはない。実在はそれ自身において動くものであり、我々は動くことによって実在を知る。しかし一方から言えば、対象として動くものは、動く我の射影であり、実在を知ることは深き我を知ることである。我々の自己は単に意識内にあるのではない。単に意識内にあるものならば自己ではない。無限なる実在の根底としての動的自己が自己を省みる時、内外相対立し、いわゆる自己の意識を生じるのだ。自己は自己に対して、打ち克つべく与えられた問題だ。我々が行為によって、身体を純化することは、自己を純化することだ。運動即意識なる時、内外合一して一つの事行となる。ここに自己が自己自身を見出すのだ。我々は客観的に自己を失うことは、自己の個性を失うことではない。自己がなくなることではない。我々はスピノーザの「知的愛」の彼方に、無限の喜、無限の悲を見出すのだ。我々が「美」と「善」の世界に入るには、「真」の関門(意志のアプリオリ)を通らなければならない。その奥に永遠不滅の真実在(作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続の世界)がある。我々が意識一般の此方に見たる自己は、ただ、暗き本能の影に過ぎないのである。
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