西田幾多郎 「働くものから見るものへ」前編 現代的改定+補足
このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。
※筆者の独断により、(~)という形で補足を付け加えています。
※西田自身が補足としてつけているかぎ括弧は、【】で表しています。
※旧字体は新字体に、一部表現を現代的に改訂しています。
※筆者が分からない部分は?をつけています。お判りになられる方がいたらご指摘いただけると幸いです。
前著 「芸術と道徳」
働くものから見るものへ 後編
働くものから見るものへ 前編
今年七十の誕辰を迎へられた
北条時敬先生に此書をさゝぐ
序
「善の研究」において純粋経験を基として物心の対立、関係等種々の問題を解こうとした私は、深くベルグソンの哲学に同感すると共に、リッケルトの如きカント学派の哲学に対して、いかにして自己の立場を主張すべきかを考えた。そして当時、私はかかる立場をフィヒテの自覚の如きものに求めた。「自覚に於ける直観と反省」はかかる意味における試作である。私の考えは種々の点においてフィヒテそのままであったとは考えないが、とにかくフィヒテに似た一種の主意主義の立場に立って、種々の問題を考えてみた。「意識の問題」においてかかる立場から知情意の区別及び関係等の問題を論じ、「芸術と道徳」において芸術や道徳の対象界及びその相互の関係等を論じた。しかし私は「自覚に於ける直観と反省」を書いた時から、意志の根底に直観を考えていた。働くことは見ることであると言う様なプロチノス的な考えを持っていた。絶対意志という如きものを究極の立場と考えたのは、これによるのである。「芸術と道徳」を書き終わって、宗教について考えてみようと思うに至って、益かかる問題に思索を向ける様になった。
かかる要求に駆られて、最初に書いたのが「直接に与へられるもの」である。直接に与えられるものと言うのは、普通に考えられる如き感覚とか知覚とかいう如きものではなく、かえって創造的なるものでなければならぬ。単なる質料ではなく、形相を含んだものでなければならないと考えた。しかしかかるものをいかに考うべきかは、未だ積極的に明らかにされた何ものもない。ただ旧に依って芸術的直観とか意志活動とか言ったに過ぎない。当時の考えを示すため「直観と意志」という小論文を付加しておいた。しかし何処までも働くものの根底に見るものがあるという考えを明らかにしようと思うた私は、物理現象という如きものがいかにして成立するか、物理現象の背景となるものについて考えてみた。「物理現象の背後にあるもの」において時間、空間、物力という如きものの考えられる根柢に意志の自覚あることを論じ、内部知覚を媒介として種々なる意味における働くものを意志自覚の形式として見ようと試みた。いわゆる経験的因果をも理念的発展の特殊なる場合として考えてみようとしたのである。これにおいて直接に与えられるものは意志の内部知覚という形において前よりもその意味が明らかになったと言ってよい。既に斯く考えられる以上、内部知覚というものについて深く考えてみなければならぬ。「内部知覚について」において、先ずマイノングの内部知覚に関する考えを問題として内部知覚について考えてみた。私はこの論文において内部知覚と外部知覚とを同一の根本的形式によって考え、いわゆる外部知覚も一種の内部知覚と見ようとしたのである。かかる考えを明らかにするため、アリストテレスのヒポケーメノンすなわち基体によって主語、本体、主観の結合統一を企図したのであるが、未だ十分その目的を達していない。次に「表現作用」において、真に与えられるものを表現作用の内容という如きものに求めた。表現作用の意識においては、我々は主観的意識なくして見るのである。それは主観的意識を包んだ意識でなければならぬ。意志の内部知覚という如きものはここに求めるの外ないと考えたのである。
以上述べた如く働くものの根底に見るものを求めて表現作用の意識にまで到ったのであるが、かかる意味における直観とか意志の内部知覚とかいう如きものと概念的知識との関係が明らかになっていない。従来の如く作用の意識とか体験とかいう様なものを基礎として前者を考えているのである。右の如き考えを論理的に基礎付けるには、「内部知覚について」において試みた如く働くものとか知るものとか言うものと、アリストテレスの基体という如きものとの関係を求めなければならない。私は「働くもの」において述語的なるものが主語となるということによって働くものを考え、「場所」においては超越的述語という如きものを意識面と考えることによって、多少ともかかる論理的基礎付けの端緒を開き得たかと思う。そして久しく私の考えの根底に横たわっていたものを掴み得たかに思い、フィヒテの如き主意主義から一種の直観主義に転じたのである。しかし私の直観というのは従来の直観主義において考えられたものとその趣を異にしていると思う。いわゆる主客合一の直観を基礎とするのではなく、有るもの働くもののすべてを、自ら無にして自己の中に自己を映すものの影と見るのである。すべてのものの根柢に見るものなくして見るものという如きものを考えたいと思うのである。「左右田博士に答ふ」は左右田博士の疑問に答えたものではあるが、リッケルト流の認識論に対する私の立場を明らかにしたものとしてここに収めた。「知るもの」においてはいわゆる作用と意味とがいかにして結合し得るかを論じ、包摂的関係から知るということを考えてみたのである。具体的一般者を推論式的一般者と考えることによって種々の問題を明らかにし得るかと思う。
形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは言うまでもないが、幾千年来我等の祖先を孚み来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、聲なきものの聲を聞くと言った様なものが潜んでいるのではなかろうか。我々の心はかくの如きものを求めて已まない。私はかかる要求に哲学的根拠を与えてみたいと思うのである。
昭和二年七月 西田幾多郎
前編
直接に与へられるもの
一
直接に与えられたものとはいかなるものを言うのであるか。我々はこの問題を論ずるに当たって、先ずその意味を明らかにせねばならない。既に与えられると言えば、何物かに対して与えられるということでなければならない。ここに与えられるというのは、我に対して与えられるという意味である。我というにも種々の意味があるだろう。ここに我というのは、考える我、すなわち思惟我を意味するのである。それで直接に与えられたものというのは、未だ思惟しない前の経験ということでなければならない。思惟作用といっても、単に思惟対象を宿す心理的作用と考えるならば、思惟対象という如きものも、これ(思惟我)に対して与えられたものと言い得るだろう。しかしここに与えられるというのは思惟によって構成されるべく与えられるという意味である。すなわち構成的思惟の所与という意味である。そしてその与えられるものというのは、単なる思惟対象の如きもの、非実在的なものをいうのではない。また過去にあったもの、未来に起こるべきものをいうのでもない。現実に与えられるものをいうのである。現実に我に対して与えられるものと言えば、直ちに実在界という如きものが考えられるかもしれないが、意識はかかる世界(実在界)において因果的に生じるのではない。いわゆる実在界というのは思惟によって構成されたものに過ぎない。
普通には、右の如き意味において、直接に与えられたものとして、感覚とか、知覚とか、または芸術的直観とかいうものが考えられる。しかし単一なる精神的要素としての感覚という如きものは、思惟の所作であることは心理学者も認めている。思惟に対して与えられる具体的意識としては、少なくとも知覚の如きものを考えねばならない。知覚とはいかなるものだろうか。心理学者はこれを感覚の構成されたものと考える。しかし知覚というのは、単に主観的である感覚要素の結合ではなく、その中に客観的意義を持っていなければならない。客観的対象を含んでいなければならない。例えば、空間的知覚にしても、感覚が空間的に構成されているのではなく、これらの要素(感覚)の結合によって空間的延長(という客観的なもの)が意識されていなければならない。空間的知覚が延長を持っているのではなく、(空間的知覚が)延長を意識しているのだ。延長(客観)が意識内容として感覚(主観)を統一しているのだ。勿論、知覚においては、空間というものが、未だ概念的に意識されていないと言い得るだろう。客観的空間というようなものが未だ認識されていないと言い得るでもあろう。しかし物が判断の対象となる。明らかにこれを知ると言い得るかもしれないが、概念的に知られた時、初めて意識されるのではない。事実の知識では、我々は知覚の中に含まれたもの(客観的なもの)を判断の形に構成するのだ。知覚の中に含まれたものは、概念的知覚としては潜在的であり、不分明であるとも考え得るだろう。しかしこれがために知覚内容を知覚内容として不分明と考えることはできない。知覚の立場からは、概念はかえってそのあわき影ということもできる。空間的知覚の例について言えば、数学的空間と異なった物理的空間という如きもの(概念的知覚)は、知覚の中に含まれた空間を、概念的に構成したものでなければならない。知覚された空間を離れて客観的空間はない。もし知覚の中に客観的なものが映じていないと言うならば、物理的真理の如きものは成立し得ない。思惟のみによって物理的真理を構成することはできないのだ。心理学者の言う如く、もし知覚の中に含まれた延長(客観的なもの)の意識が、他の感覚的要素と同列的である筋肉や関節の感覚という如きもの(主観的なもの)とするならば、それ(延長の意識)は内面的統一の用を成すことすらできない。従って知覚という如きものも成立することはできないのである。
右の如き理由によって、客観的意義を含むと考えられる知覚とは、いかなるものだろうか。普通に知覚といえば、ある限定された経験内容と考えられる。しかしそれはいかなる意味において限定されていると言うのであるか。時間、空間、個人によって限定されたものとするならば、それは限定された経験内容と言い得るだろう。しかし斯くいう場合に知覚というのは、心理学的に作為された意識現象(対象化された知覚)であって、真に思惟我に対して与えられたという意味においての知覚(対象化される前の知覚)ではない。我々の自己を空間、時間、因果の世界に対象化し、かかる世界において我と物と相働き、知覚とは物が我に働くことによって生じる経験的自己の現象に過ぎないと考えるならば、それは時間、空間、個人によって限定されているのは言うまでもなく、(知覚は)物の第二次的性質の意識とも考え得るだろう。この場合、我々がこれ(対象化された知覚、物の第二次的性質)について思惟するということは、これを超えて第一次的性質を知ることである。思惟の対象界に入ることである。思惟作用というのは、自己の作用であるとともに、知覚を超えて知覚外を知る作用とも考え得るのだ。思惟というにも種々の意義を考え得るだろう。普通に考えられる如く、それを反省的思惟の意味に解するならば、思惟というのは、単に主観的意識作用であって、これに対しては知覚の如きものも直接の所与と考え得るだろう。しかし思惟というのを、カント哲学で言う如き構成的思惟の意義に解するならば、主観的意識に対して客観的世界すなわち経験界と考えられるものが、既に(構成的思惟により)構成されたものであり、主観的である意識現象というものも、思惟によって構成されたものと言う外はなかろう。かくの如き思惟(構成的思惟)に対しては、いわゆる知覚という如きものは構成されたものであって、与えられたものではない。かくの如き思惟に対して与えられるものは、認識構成以前のものでなければならない。カントのいわゆる物自体の如きものでなければならない。しかし物自体というものが、全く認識以前として、何らの意味においても我々の意識に含まれていないものとするならば、我々の認識の限界として考えることすらも不可能である。なぜなら、限界ということは、高次的立場の自覚において初めて言い得るのだ。真に構成的思惟に対して与えられたものは、構成的思惟の内容(経験界、意識現象)を内に包んだものでなければならない。無論、構成作用に対して与えられるというには、単に材料として与えられると考えることもできるだろう。かくの如き場合、与えられるものは、偶然的であって、形式と材料は互いに外的と考えられ、材料は形式作用に対して完全に受動的たるを免れない。しかし厳密に考えれば形式と材料は何処までも無関係とは考えられない。完全に受動的である材料はない。完全に受動的なるものは材料となることもできない。特に芸術の理念の如きものに至っては、材料を離れてあるのではない。色や形を離れて画家の理念はなく、音を離れて音楽の理念はない。芸術的理念は形式と材料の統一でなければならない。我々の思惟が認識の形式として経験内容を構成するというのは、いかなる意味において構成するのだろうか。与えられた経験内容は単なる材料として与えられるのではない。単に受動的であるのではない。直接に与えられた経験の中に含まれた関係によって我々の経験界が定められるのだ。この意味において構成的思惟の作用は一種の芸術的形成作用の性質を有すると考えることができる。感覚的性質は往々物理学的立場から見て、主観的とか偶然的とか考えられる。しかし感覚の客観性、必然性によって物理的世界が立せられるのだ。物理的世界が立せられるには、感覚間に不変の関係があると考えられねばならない。そしてかくの如き不変の関係が単に一個人の意識範囲内においてのみならず、各人の感覚の間にも共通であると考えられねばならない。斯くして初めて物理的世界が立せられるのである。勿論、異なる人と人との間に感覚の異同を直接に比較することはできない。時にはある人が赤と感じるものを、他の人が青と感じていることがないとも言えない。しかし感覚的性質が単にそれだけの意味のもの(単に主観的であるだけのもの)であるならば、客観的実在としての物理的世界は成立し得ない。我々が一つの物理的世界を信じるならば、二人の人の間の感覚の相異というのは、かえって同一の物理的原因から同一の感覚が生じるという感覚自身の連続性を証明することとなるのである。他人と自分との感覚的性質の異同は直ちに比較できないかもしれない。しかしすべての人の間に同一の物理的原因から同一の感覚を生じるという感覚自身の客観的連続性が認められて、初めて物理的世界が立せられるのだ。物理学的因果というのは、単にある一個人の意識内において、同一の感覚的結合が繰り返されるというのではない。いかなる人の意識においてでもという意味でなければならない。斯く考えねばならないとするならば、物理的世界が成立するには超個人的意識(個人を超越し一般妥当性を有する意識)の統一、すなわち純粋自我の統一という如きものが基礎とならねばならない。物理学的法則というのは、超個人的意識(純粋自我)の立場から見た感覚間の不変の関係でなければならない。しかし斯く言う場合、超個人的意識というのは単なる論理的意識であってはならない。カントの言った如く、※範疇(論理的意識)と図式「時」との結合によって、経験的知識の構成原理が成立するのだ。
※ 引用 範疇とは
単なる形式的思惟にては、経験そのものの内面的連続性に客観性を有する物理的世界が構成されないのは言うまでもなく、時間、空間、運動の根本概念の上に成立する力学的世界をも構成することはできない。同じく思惟といっても、客観界を構成する客観的思惟(構成的思惟)と、意識の一作用としての主観的思惟は同一でない。客観的思惟は創造的でなければならない。範疇(形式的思惟)と図式「時」を総合する純我(純粋自我)の統一は創造作用でなければならない。二つの独立する形式(形式的思惟、二つの範疇)の単なる結合から独立する一つの客観的世界が成立することはできない。私はカントの純粋統覚の徹底された意義をフィヒテの事行の概念に求めたいと思う。一方から見れば形式的思惟の立場は構成的思惟に対して、一般的と考えられ、構成的思惟の内容は形式的思惟の単なる材料とも考えられるだろう。しかし構成的思惟の内容が客観的対象として主観的思惟の目的となり、主観的思惟がこれに合うことによって真理となると言うには、形式的思惟の立場は構成的思惟の立場の中に含まれている(包まれている)と考えねばならない。すべて客観的真理を認識するということ、すなわち認識作用というのは、ある一つのアプリオリ(作用)の立場から、アプリオリのアプリオリ(作用の作用)の立場において、これ(作用)を包容する一層高次的立場に移り行くことでなければならない。構成的思惟と反省的思惟(主観的思惟)との間に、既に右の如き関係(構成的思惟が高次的立場として、反省的思惟を包容するという関係)があると思うのであるが、いわゆる物理的世界は単に構成的思惟によって構成されるのではない。物理的世界が成立するには感覚との結合がなければならない。そしてかかる結合はただ、意志的自覚の立場(作用の作用、意志の立場における自覚)において可能であるのだ。意志の自覚(意志的自覚の立場)なくして力の概念は成立しない。私が意志的自覚の立場というのは経験界を思惟内容の内面的発展(連続)と見る立場だ。経験そのものの奥にこれを超越する思惟内容(という連続)を見る立場だ。経験界を自己の考えの如く変じると考える我々の意志の意識は、かかる立場の自覚に外ならない。私は前の著書「芸術と道徳」において私のいわゆる意志的主観の立場とか行為的主観とかいうものについて論じておいた。思惟の内容は超感覚的であるが故に、思惟の作用も超感覚的と考えられるが、現実の感覚的意識を超越するものは、思惟対象であって思惟作用ではない。私が考えるということは、現実の意識の中に超現実的な意識内容を含むということでなければならない。斯く現実の意識の中に超現実的な内容を含むということは、現実の意識の中に現実ならざるものがあることを意味している。現実の意識の中に超現実的立場(思惟対象)が含まれていることを意味しているのだ。現実とはかかる統一点をいうのである。我々が思惟する時、現実を離れると考えられるがその実、現在の感覚(思惟作用)を離れるのではない。そしてかくの如き思惟作用が成立するには、すでにその根底において広義の意志のアプリオリが認められねばならないのだが、現実において超越的対象(思惟対象)を含むのみでなく、現実そのものを考える時、思惟はその根元である意志の内容(経験内容の内面的発展、連続)を目的とせねばならない。いわゆる経験的知識の世界は斯くして成立するのだ。対象の内在を本質とする我々の意識現象は、それが感覚であっても、知覚であっても、皆意志のアプリオリにおいて成立するのだ。いわゆる意識現象とは最初に与えられる経験界だ。意識現象が直ちに直接経験とか純粋経験とか考えられるのもこれによるのだ。しかしいわゆる意識現象というのは意志のアプリオリによって構成されたもの、すなわち意志の射影であって、意志自身が自覚した時、意志我に対しては、(意識現象は)与えられたものではなく、構成されたものである。我(意志我)がいわゆる意識の中にあるのではなく、意識が我(意志我)の中にあるのである。いわゆる意識現象とは、何処までも、それ自身において全きものではない。その背後はいつでも超意識界(主観的意識を超越した客観的世界)に連続している。我の意識が成立し、我の意識界というものを知った時、我は既に我の意識界を超越しているのだ(意識界を超越しているからこそ、我の意識界というものを知ることができる)。我々が客観界を知るということは、自覚において自己の内に反省して行く如く、超意識界(客観的世界)に進み行くのである。この過程を我々は経験内容を思惟し行くと言うのである。我々が性質の範疇に当てはめて「この物が赤い」という時、今見ている「赤」の色が物の客観的性質であるということを意味していなければならない。そして現在見ている「赤」の色が、何らかの意味において客観的であるというには、その物が我々の主観的である思惟や意志によって如何ともすることのできない、それ自らにおいて独立のものであるということを意味していなければならない。それが単に意識内の現象であるとしても、因果的に何らかの客観的根拠を持ったものでなければならない。そして経験内容がそれ自身において客観性を持つということは、それ自身において連続的であるということを意味していなければならない。無論単に客観的といえば、数理の如きもののみならず、表象自体の如きものであっても、客観的と言い得るだろう。表象自体の如きものは、我々の思惟に対して何らの力を持たず、むしろ客観的思惟の所作と考えられるとしても、数理の如きものに至っては、明らかにそれ自身の中に一種の内面的連続性を持つということができる。すべて我々がある事実的真理を認めるという場合は、その客観性の根拠が数理の如く単に理性の創造ではなく、思惟によって達することのできない、それ以上の独立した連続性を持つと考えねばならない。感覚なくして思惟作用はない。見方によっては、感覚が思惟の対象(目的)となるのみならず、また思惟の原因となるとも考え得る。単なる対象は作用として働くことはできないのだ。仮にも感覚が何らかの客観性を有し、認識を制約するというには、それ自身において統一ある連続として、構成的思惟をこれ(感覚)に従え得るものでなければならない。感覚が「知覚予料の原理」に当てはまって客観性を得ると考えられるのも、これによるのだ。感覚が思惟に対して要求Anspruchとして与えられるというのは、この立場から言い得るのだ。我々の構成的思惟に対して真に与えられるというべき感覚は、かくの如き超思惟的連続でなければならない。一方から見れば、思惟の内容は一般的にして、特殊なるものを含むと考え得るでもあろうが、具体的実在においては、一般的なるもの(思惟対象)は特殊的なるもの(超思惟的連続)の中に含まれ(包まれ)、その関係の形式となる。否その(超思惟的連続の)発展の手段となるのである。右の如き経験内容自身の内面的連続の立場(意志の立場)において、感覚の背後にも無限なる内面的連続を見る時、力の概念が成立し、物理的世界が構成されるのである。前に言った如く我々が我々の主観的意識界を超えて、経験内容そのものの客観的世界を信じ得るのはこれ(感覚の背後にある無限なる内面的連続)によるのだ。ある一つの感覚内容が自己同一として考えられるのは、同一の範疇に当てはまって、斯く考えられると言い得るでもあろう。しかし何故これを斯く自己同一として考えねばならないのか。もしそれが我々の自由であるというならば、経験界の客観性という如きものは失われなければならない。たとえ、それが既に思惟によって構成されたものであるが故としても、単に構成的思惟によって経験界の客観性を立することはできない。そこには感覚の制約がなければならない。元来、自己同一というのは、実在を認識する構成的思惟の範疇でなければならない。そしてかくの如き範疇は自覚の体験なくして成立することはできない。構成的思惟の範疇(自己同一)はただ純我(純粋自我)の自覚の形式である。しかし経験内容が自己同一の範疇に当てはまって、客観的実在が構成されるという時、そこに思惟と感覚を含む先験的統一がなければならない。そしてそれは単なる純我という様なものではなく、純粋意志という如きものでなければならない。我々の自己はいわゆる自覚において真に自己を知るのではない。単なる知的自己は尚対象化されたものだ。真の自覚は意志の体験そのものでなければならない。すなわち意志自由の自覚にあるのだ。真の我は知る我ではなく働く我だ。知るということも働くことでなければならない。見ることも、聞くことも、考えることも、我の働きだ。見または聞く我は考える我だ。我はこれらの作用の統一でなければならない。思惟と感覚の統一は、かくの如く働く我の立場において成立するのだ。この立場(行為的主観、意志の立場)において、感覚的内容が「同一」の範疇に当てはまって一つの連続体と考えられるのだ。働く我は考える我を含む(包む)が故に、働く我の立場において現れるものは、思惟の範疇を含んだものでなければならない。感覚の自己同一は、働く我の自己同一だ。これによって感覚の連続の世界が考えられるのだ。感覚は思惟に対して非合理的なると共に、これを制約して客観界を構成するのだ。意志我の立場において現れ来るものは、すべて力でなければならない。我々の意志というのは主観的現象であって、意志の自由という如きことは、幻覚か錯覚に過ぎないと考えられるから、意志のアプリオリによって力の世界が構成されるというのは、異様に感じられるのだが、単なる真理の世界から作用の世界は出てこない。超越的思惟(主観を超越した客観的思惟)によって真理の世界が見られる如く、超越的意志(主観を超越した客観的意志)の立場によって力の世界が見られるのだ。主観的意志というのも、この立場において成立する一面の現象に過ぎない。主観的意志はこれを対象化し得るかもしれないが、純粋意志を対象化することはできない。主観的意志といえども、作用を対象化する意志(純粋意志)の立場に立つことによって、これを対象視することができるのである。
構成的思惟によって経験界が構成されるという時、形式と内容の関係は互いに偶然的ではない。我々の経験界を構成するアプリオリは、思惟と感覚の内面的統一でなければならない。私が芸術家の創造作用とその性質を同じくすると言うのはこれ故だ。構成的思惟も既に創造的と言い得るでもあろうが、感覚内容を含む創造作用ではない。我々の経験界とは、これに反し思惟が経験内容の内から構成したもの(思惟内容の内面的発展、連続)だ。思惟によって見られた経験内容の世界だ。純粋視覚によって芸術家が成形美術の世界を見出す如く、構成的思惟によって我々は客観的経験を見出すのだ。成型芸術家が手を加えた眼を以て見る如く、物理学は思惟を加えた感官によって見るのだ。もし我々の意志が感覚の中に思惟を包む(与えられた感覚の中から思惟される)とするならば、両者共に意志の立場において成立するのだ。芸術の対象界は主観的と考えられるが、その客観的である点においていわゆる認識対象界と譲る所はない。否一層客観的と考えることができる。それで構成的思惟に対して直接に与えられるものは、いわゆる知覚の世界の如きものではなく、芸術家の見る如き直観の世界でなければならない。すなわち意志の対象界でなければならない。我々が思惟によって構成して行くというのは、すでにその中(意志の対象界の中)に含まれたものを見出して行くことだ。我々の認識作用というのはかくの如き直接に与えられたものの発展の過程と見ることができる。すべて我々の主観的作用に対して、直接に与えられるというべきものは、この作用の立場を包みしかもこの立場によって達することのできない高次的立場の対象界(意志の対象界)でなければならない。反省的思惟に対して、構成的思惟の世界がこの意味において与えられた客観界となり、構成的思惟に対して意志の世界がこの意味において与えられた客観界となるのだ。ある一つの立場においては、その対象界はそれ自身に全きものと見ることができる。他の立場によって与えられるものはこれに対して外的である材料に過ぎない。各々の知識のアプリオリが独立であって、これらを統一するアプリオリのアプリオリというべき立場がなかったならば、一つの立場に対して客観的に与えられるというべきものはない。知識が自己自身を完成するため、その客観的目的として与えられるものは、アプリオリのアプリオリの立場において与えられねばならない。形式と内容を内面的に統一して、新たなるアプリオリを構成するのは、この立場でなければならない。そこには一種の芸術的創造作用の面影がある。ある一つの知識の立場(形式)に対して、客観的に与えられるもの(内容)は、芸術的創造作用と同様の立場(芸術的直観と同様の立場)において与えられねばならない。内容ある知識の成立は単に論弁的悟性diskursiver Verstand(?)によるのではなく、直覚的悟性intuitiver Verstand(=知的直観?)によらねばならない。外に自然界を構成する力や生命は、自己の中において直観されたものだ。与えられたものは求められたものであるというが、一つのアプリオリはそれ自身において全きものであって、他を求める必要はない。認識発展の要求はアプリオリのアプリオリの立場における認識作用自身の目的から起こって来なければならない。ある数理の問題が我に対して解くべく与えられるという場合でも、数理的思惟が我を包んでいなければならない(包まれた中において我は数理を解くことができる)。我が数理そのものならば、これに対して数理の問題が与えられる要はない。また我が時間、空間によって限定された単なる心理的現象ならば、これに対して数理の如きものが与えられ様はない。知識の客観性の要求として無限に求められ、与えられるというのはアプリオリのアプリオリの立場において言い得るのだ。すべて我々の意識現象はこの立場において成立するのだ。意識現象はそれがいかに小なるものであってもその中に無限の発展を含み、その本質において創造的だ。構成的思惟に対して客観的に与えられるというもの(意志の対象界、経験内容の内面的発展、連続)が、芸術的内容と同性質と考えるには、多くの異論があるかもしれないが、構成的思惟が客観的経験界を構成するには、その根底に主客合一の立場、事行の立場がなければならない。この立場において与えられるものは、芸術的直観の如き形において与えられるのである。
以上論じた如き訳であるから、思惟我に対して直接に与えられた客観的或物として立つものは、思惟によって構成された知覚の如きものではなく、主客合一の芸術的直観の如きもの(意志の対象界)でなければならない。すなわち思惟に対立する外界ではなく、かえってこれ(思惟)を包んだものでなければならない。思惟我を含んだものでなければならない。かくの如きものをいわゆる直接経験とか純粋経験とかいうべきものであろう。かくの如き直接に与えられた意識の内容は時間、空間、個人の範疇によって限定されるべきものではない。我々の現実の意識は単に認識対象の世界に連なっているばかりでなく、直ちに超認識の世界(意志の対象界)に連なっている。現実の意識は無限に深く大なるもの(意志の対象界)の中に浮かんでいるのだ。我々がこれを限られたものとして考えるのは、構成された有限の自己を中心として考えるが故だ。我々は通常我々の身体と結合した心理学的自己(対象化された自己)を中心として考える。しかしかくの如き自己が意識しているのではないことは言うまでもない。自己の背後に付着する物質的陰影を除去して、純粋な意識の内面的統一としての自己を考えるとしても、それが有限である意識の一統一として見られた時、それは既に対象化された自己であって、現実に意識する自己ではない。それ(現実に意識する自己)は省みられた自己ではない。現実に意識する自己は、何処までも省みることのできない自己である。あるいは自己が後から省みられた時、過去に射影されて対象となるも、その当時においては、それが意識する自己であったと言うでもあろう。しかし真の我はその時、その時に無限であり、自由である。かくの如き我の全体は記憶の対象として後に省み得べきものではない。後に想起された我の内容は、有限でもあろう。しかしその為に前に働いた主観の内容が有限であったとは言われない。我々が働く自己を一度的と考えるのは、その内容の無限なるが故だ。正しく言えば、働く自己は対象化された自己に対して、高次的であるが故だ。高次的であるが故に(働く自己は)達することのできない極限となる。一度的にして繰り返すことのできないというのは自己を認識対象として考える故だ。以上は意識の背後に統一的主観という如きものを置いて考えたのだが、またいわゆる純粋経験論者の如く、直接の経験において未だ主客の区別ない単に経験という如きものがあって、それらのものが後にいかに相関係するにせよ、その時においては有限なるものとも考え得るだろう。しかし我々がある経験内容を有限として見るには、何らかの立場によって限定しているのでなければならない。すなわちそれは既に直接の経験とは言われないのだ。時間、空間の形式は、カントもこれを直覚の形式と考えた如く、経験はこれによって与えられると信じられ、我々が直接の経験を限られたもの(有限なもの)として見る時、これ(時間、空間という形式)によって限定しているのだ。しかし真に直接の経験を与える「時」は、カントの言う如き形式的である「時」ではなく、かえってベルグソンのいわゆる純粋持続の如きものでなければならない。上に言った如く、与えられた現実の経験の内に、超時間的なもの(思惟対象)を含んでいるのである。あるいは直接経験の内容は時間空間の形式によって限定すべきものでないとしても、意識されたものは、未だ意識されない無限の内容に対して有限と考えざるを得ないと言うでもあろう。心理学者が考える如く、我々は意識について種々の程度とか、範囲とかいうものを考え得るだろう。意識の焦点にあるものを最も明らかに意識していると考えるのだが、単に焦点にあるもののみが意識されているのではなく、その周囲にジェームスのいわゆる意識縁暈(意識の辺縁、半意識的部分)という如きものが付着していると考え得る。そして更にこの範囲を超えれば、完全に無意識の世界となり、意識されざる世界の内容は、我々の有限なる意識の範囲に対して無限と考えられる。しかし我々はこれにおいて一つの解き難き矛盾に撞着せざるを得ない。我々はいかにして意識の内外を比較し、意識されたものを有限と考えることができるのだろうか。かかることが可能なるには、我は意識の内外を統一し比較し得る立場に立っていなければならない。普通には、我々は思惟によって意識外を知り得ると考え、感覚以内を意識内と考えている。感覚なくして意識のないことは言うまでもない。思惟も意識として何らかの感覚を伴わねばならない。感覚が思惟内容を代表することによって、思惟し得るのだ。しかしいわゆる感覚からは、思惟の作用が生じないのは言うまでもなく、これ(感覚)によって思惟内容を代表することすら不可能だ。いわゆる感覚というのは、かえって意識内容の限定されたものに過ぎない。この意味においては意識は感覚内にあるのではなく、感覚は意識内にあるのだ。我々が意識を限定されたものとして考えた時、これを限定する意識がなければならない。いわゆる意識の内外というのは、限定する方面(外)と、限定される方面(内)との対立に過ぎない。そして意識を限定するものは意識の外にない。いわゆる意識の背後には、これ(意識)を包み、これ(意識)を限定する意識がなければならない。いわゆる意識の根柢には、主客合一の意識すなわち直観があり、純粋活動の意識がある。いわゆる意識はこの立場の上において無限の内容を含んだものと考えねばならない。我々がこの深底に入り込めば入り込むほど、そこに与えられた現実があるのだ。それは主観的に言えば対象化することのできない自己であり、客観的に言えば反省し尽くすことのできない直接の所与である。そこに主客合一の直観、純粋活動の意識があり、すべての知識の根源があるのだ。現実に働く我に対して与えられたもの、否主客合一の立場において与えられたものは、いわゆる意識界(内)ではなく、その背景に超意識界(外)を含んだものでなければならない。我々が行為的主観、すなわち働く自己の立場の上に立つ時、我は既に超意識界を対象としているのだ。そして真に現実の所与というのは、この働く自己に対して与えられたものの外にない。我々が後に想起し、思惟するものは、皆この中に含まれているのだ。物を見ている時我々は視野に現れているものだけを見ていると考える。しかし真の我は単に見る我ではない。かかる我は考えられた我(対象化された我)だ。思惟的我を離れ、我を忘して見る我は、行為と結合した我でなければならない。表出運動と結合した純粋視覚の如きものでなければならない。かくの如き視覚内容は超知識的でなければならない。普通に見る我というのは、後から知的内容に直し得る視覚の内容の統一を考えるのだ。しかしかくの如き主観は要するに考えられた主観に過ぎない。私が現在、物を見ている時、私は知的主観として知的内容を有すると共に、精神的実在として無限の根柢の上に立ち、種々の対象界を持っている。我は「時」によって限定されているのではなく、かえって「時」は我によって限定されているのだ。無内容である「時」という如きものは単なる座標に過ぎない。真の「時」は人格的でなければならない。
二
上に述べた如く、思惟に対して直接に与えられるものは、いわゆる感覚とか知覚とかいう如きものではない。感覚とか知覚とかいう如きものは、かえって思惟によって構成されたものだ。(直接に与えられるものは)かかるものでないのみならず、有限なる意識の範囲という如きものも、既に思惟の構成によると言い得るだろう。無論思惟というのを、単に反省的思惟の意義に解するならば、いわゆる経験もこれ(反省的思惟)に対して与えられたものと考えられるだろうが、構成的思惟に対して与えられるものは、いわゆる経験界ではなく、主客合一の直観界(意志の対象界)でなければならない。あるいはこれをリッケルトの「問なき肯定」das fraglose Ja(?)の立場の対象界とも考え得るかもしれないが、真に主客合一の立場、純粋活動の立場はかかる立場に対立するものでなく、むしろかかる立場を包むものでなければならない。主客合一の立場において、主客対立の立場が成立するのだ(主客合一の立場が主客対立の立場を包む)。そうでなければ、我々は「問なき肯定」を意識することはできない。あるいは主客合一の立場はいかにして意識し得るかと言うであろう。主客合一の立場においては、知即行である。フィヒテの言った如く働くことが知ることである。我々は我々の自覚の意識においてその証明を持っているのだ。この立場(主客合一の立場)は知的立場を省みないで、直ちに芸術的内容の世界に入り込むことができるのである。与えられたものは「所与の範疇」に当てはまって知識となると言い得るだろうが、「所与の範疇」は単なる思惟の形式ではない。この物が赤いとか、青いとかいうには、思惟以上の直観が加わらねばならない。この範疇をして範疇たらしめるのは、かかる直観の客観性、超越性によるのだ。直観的内容との一致ということが、この範疇の意義であり、目的である。思惟に対する極限(直観)は単に思惟から成立するのではない。そこには何時でも思惟よりも高次的な立場(直観の立場)がなければならない。この立場は思惟よりも高次的であるのみならず、かえってこれ(思惟)を包容し、思惟もこの立場において成立するのだ。大なる思惟の基には大なる直観があるのである。
直観を右の如く考えるには、多くの異論があることだろう。私はその意義を明らかにするため、少し想起との関係を論じてみよう。普通には、我々が直観したものを、後に想起すると考える。一度意識から消え去ったものでも、記憶の中に保存され、幾度にても意識の中に呼び起こし得ると考える。我々が思惟によって直接の経験内容を構成するというにも、かくの如き作用(想起作用)をその間に挟まねばならない。アウグスチヌスは記憶について最も深い意義を認めた。我々は我々を創造したものを求めて記憶の宮殿に至る。そこには我々の知覚したすべての物のみならず、考えるすべての物がたくわえられる。それは広く、測り知ることのできない奥院であると言っている【Confessiones.Ⅹ.8.】。しかしいわゆる現実の意識の背後に超現実的なものが含まれていないならば、いかにして我々は後にこの意識を想起し、種々なる関係において、これを組織し統一することができるだろうか。もし意識がその時々のもの(現実的なもの)ならば、何物が過去の意識と現在の意識を結合するだろうか。これを結合するものがまた意識であるとすれば、その意識もまた現在の外に出ることはできない。過去の意識を想起しこれと現在の意識を比較するものは、超時間的意識(時間を超越した意識)でなければならない。そしてそれはまた未来を見るものでなければならない。あるいはかくの如き意識の基にも何らかの感覚的意識があると考えるかもしれない。意識の意識(超時間的意識)とは意識の縁暈(辺縁。半意識的部分)の如きものと考え得るかもしれないが、しかし我々の意識はいつでも一つでなければならない。二つの意識が同時に存在するのではない。我々が過去を想起する時、感覚は感覚の意味を失って、構成的要素となっていなければならない。更に(記憶の想起から)思惟の立場に進めば、種々なる記憶表象という如きものも、これ(思惟)を構成する材料となるのだ。ある一つの立場が明らかになれば、他の意識の独立性は失われるのである。普通に感覚が意識の基となると考えられるのも、いわゆる感覚が意識の基となるのではない。具体的意識はいつも衝動の形において成立するのだ。すなわち(具体的意識は)広義の意志(作用と作用の直接の結合、連続)でなければならない。斯くして初めて意識は内面的統一によって成立するとか、対象を内に含むとか言い得るのだ。そして衝動とか意志とかいう形において、我々の意識はいわゆる空間、時間を超越していると考えることができる。意識がいわゆる「時」の中にあるのではなくいわゆる「時」は意識の中にあるのだ。意識の能動的統一、「真の時」は意識の中において対象化することはできない。そしてかかる統一(意識の能動的統一、対象化することのできない「真の時」)の自覚が我々の意志に外ならないのである。我々の衝動的意識の中には超時間的なるものの意識(意識の意識)が含まれている。物力の意識も実はこれによって成立するのだ。物力は「いわゆる時」に対して不変であり永久である。我々は衝動において物力に直接しているのみならず、これを内に包んでいるのだ。物が永遠に現在である如く、衝動も永遠に現在である。現在というのは、一方からは斯くいう瞬間にも既に過ぎ去ったものと考えなばならないと共に、一方からはジェームスの言った如く我々がその上に座して、「時」の両方向をながめ得る鞍の背の様なものであると考えることができる。意識の現在と言っても、一直線のある一点という如きものではない。対象を内に含むと考えるべき意識は自ら自動的だ。(自動的意識は)自分の中に包まれない内容を持っている。(数学における連続のように)全体を部分の中に含んでいる。動くものはある一定の方向に向かって動かねばならない。これにおいて一次元的系列が構成され、これによって過去と未来が対立し、その中心として現在というものが考えられる。これ故に我々の意識が自己の現在の中に無限に深きもの(過去と未来)を含むということによって、時そのものが成立するのだ。私はここにおいてもまたアウグスチヌスの深い考えを想起せざるを得ない。元来過去とか、現在とか、未来とかいうものはない。ただ過去に関する現在、現在に関する現在、未来に関する現在というものがあるのみである。過、現、未は我々の心の中に存在している。過去は記憶において、現在は直覚において、未来は希望において現在であると言っている【Confessiones.Ⅻ.20.】。過去は既に過ぎ去ったものであり、未来は未だ来らないものと考えられるが、いわゆる現在とは達することのできない数学的点の如きものに過ぎない。真の現在はいわゆる過、現、未を含んだ一つの活動でなければならない。この立場においては何時でも現在である。具体的意識は単なる直覚ではない。記憶と希望(過去と未来)を含んだものだ。永遠なるもの(具体的意識)のみ実在だ。現在とはこの実在の深き底を指すに過ぎない。それは達することのできない深底であると共に、我はいつもその中にあるのである。我々が現在から未来に移り行くというのは、小なる中心から大なる中心に移り行くに過ぎない。我々はいつでも現在を中心として過去と未来と順序立てて行くが、この時現在は我の外から来り我の外に出で行く一線の上を動いていくのではない。現在は深く深く我の中に入って行くのだ。具体的経験は我々の内に向かって流れるベルグソンのいわゆる内面的持続の如きものだ。いわゆる意識一般の立場によって、これを認識対象界に映した時、かかる対象界(認識対象界)と内面的時との接触点が現在となる。この結合点が超越的意識として、外面的方向において認識主観であり、内面的方向において超越的意志(作用の作用)である。アウグスチヌスの言う如く、時はいつでも現在を中心として考えられるのだが、その内容によって種々の時が成立するのだ。これによって種々の客観的世界が構成され、我々が一つの客観的世界を見ている時、我の背後にいつでもこういう「時」の流がある。いわゆる認識主観の立場すなわち意志の自己否定(自己限定)の立場によって、この流れが閉じられた時、そこに客観的対象界を見、この流れが開かれた時、そこに意識の流れの世界、内面的持続の世界を見るのだ。我々の意識現象はこれを認識主観の立場において見た時、いわゆる「時」の範疇に当てはまったものだが、一方においてはいつでも超時間的なもの(超越的意志)に接している。「時」を去って還ることなき無限の系列と考えられるのは、反省することのできない無限に深きもの(超越的意志)への関係を示すのである。知的主観というも一つの点ではなく一つの線だ。我々が自己の主観的作用を時間の上に消滅すると考えるのは、この深き反省することのできない底から見ているのだ。あるいは時を超越する意識という如きものは、考えることができないと言うであろう。しかし我々がこの深き奥底に入れば入るほど、時を超越しまた自他を超越するのである。私がこの机が私の眠れる間にも、存在していたと信じざるを得ないのは、これ(超越的意志)によるのだ。この立場(超越的意志の立場)において客観的記憶が可能となる。記憶の一般妥当性が成り立つのだ。ならば、いかにして私が眠れる間にもこの机の意識があったか。いかなる形において意識されていたかという疑問が起こるだろう。しかし我々がある目的を意識してことを成す時、この目的は始めから終りまで働いていると考えねばならない。目的が己自身を発展し完成しつつあると言い得るのだ。我々の意識に統一と言うものが無いと言うならばとにかく、もし我々の意識が統一によって成立し得るとするならば、我々の根柢にはいわゆる眠れる間にも覚めたるものがなければならない。意識一般はいつでも現在である。前後の意識の間に間隙があったと知るのも、またこの意識によるのだ。目的的統一としての自己の根柢は流れ去るものではない。何時でも働いているのだ。元来意識統一というのは目的的統一を意味するのだ。そして目的的統一にはいつでも現実を超えて志向するものがなければならない。現れただけにて全いものとすれば、それはもはや目的を持ったものではない。目的的統一は何時でも無限の根柢(超越的意志)に結合していなければならない。自己というのはかくの如き無限の流への結合点に過ぎない。例えば、知識は何処までも、未完成のものだ。無限の進行だ。我々がある一つの真理を考える時、「真理への意志」の上に立っているのだ。この意志は時を超越している。何時でも現在である。知的主観においては、なお我々が考えない時があると言い得るだろう。しかし我々はいかにしても意志主観を離れることはできない。我々に無意識の時間があったと考えられるのは、知的主観の立場の上に立つゆえである。自己は無意識の間にも生長しつつあるのだ。この机が昨夜私の眠れる間にも連続していたという確信も、この上(意志主観の上)に成り立つのだ。かくの如き主観は仮定に過ぎないというかも知れない。しかしかくの如き仮定は避けることができない。なぜなら、斯く言う時、既にこの立場の上に立っているのである。これを仮定とするならば、すべての主観も仮定に過ぎない。感覚を離れて意識現象はないというも単に感覚のみの意識はない。具体的意識においては、感覚の底に無限なるもの(意志主観)がなければならない。感覚というも無限なるもの(意志主観)の自己限定の過程である。何処までも限定されて行くべきものである。我々の感覚は何処までも行先を持っている。我々の感覚の底に含まれている無限なるもの(超越的意志)は、永遠の過去から永遠の未来に亙って動きつつあるものである。かかる作用そのものは瞬時も止むことなきものである。物力が働かざる時のないのと一般だ。心理学者は意識の範囲を有限と考え、極微知覚の如きものを仮想として反対するも、昨日の知覚は直ちに今日の知覚に連なり、昨日の思惟は直ちに今日の思惟に連なる。これを断たれたものと見るのは、外から考えるが故だ。その間を繋ぐ為に考えられた物質こそ、仮定たるを免れない。心理学者のいわゆる意識の範囲とか、程度とかいうのは、後に反省し得る範囲を言うに過ぎない。また反省し得ないとしても、意識があったと推論し得る範囲をいうのだ。しかし意識の根柢は斯くして尽くすことはできない。知的対象界に持ち来たし得るものは既に対象化されたものだ。その背後には永遠に働きつつあるもの(超越的意志)がある。永遠の現在がある。何処までも深い奥底がある。反省によって達することのできないこの深き奥底が、反省された時、あるいはそれが本能と考えられ、あるいは物力と考えられる。そして本能や物力は絶えず働きつつあると考えられる。絶えず働きつつあると言うことは、知識の立場から言えば達することのできない奥底ということである。「時」によってこれを断つことはできない。「時」はその中に消え行くのだ。我々が真に「時」のない立場に到達した時、自己の意識に対して見た本能や物力の陰影は消え失せて、主客合一の一直覚となるのである。
我々が直観するという時、直観の内容として現れるものは、単にいわゆる感覚の内容ではなく、いかなる場合にも具体的経験の内容でなければならない。総ての立場を含んだ全我の意識内容でなければならない。後に想起されるべきもの、思惟されるべきものが、既に含まれている(包まれている)のである。我々が後に想起し、思惟するものは、皆この立場(直観の立場)から発展し来ると考えねばならない。もし我々の心が永遠なる心の流れの中にあるものとすれば、我々の知識は昔プラトーの言った如く、すべてがイデヤの世界の想起とも考え得るだろう。アウグスチヌスの言った如く、神の創造以前に「時」はない。「時」も神の創造したものでなければならない。我々はこの立場(直観の立場)の中において、自己の人格的歴史を構成し、さらに進んで客観的歴史をも構成するのだ。我々は現在をのみ直観とすると考えられるが、我々が過去を想起するというのは過去を直観するのだ。いかにしてかかることを言い得るか。思惟においては我々は時を超えて永遠の真理を直観すると考えることができる。この場合、真理は何処に保たれているのであるか。それは当為の世界においてと考えねばなるまい。過去の事実も真理としてはこの世界(当為の世界)に保たれるのだ。これ故に我々は過去の事実を幾度も想起することができるのである。記憶において繰り返されるものは、感覚そのものではなくて、感覚の背後に含まれていたものである。後にこれを想起するということはかかる超感覚的立場において含まれたものが発展することである。無論、記憶の内容は単なる思惟の内容ではない。記憶の内容は既に意志のアプリオリの参加によって成り立つ事実の知識である。それは繰り返されるのではなく、我々が深く自己の奥底に入り込むことによって構成されるのだ。記憶が記憶自身を保存するというのは、自己自身を直観し行くことだ。思惟の対象に対しては作用は外的と考えられるが、記憶の内容においては作用自身が含まれている(作用と内容が一である)。作用が作用自身を省みる(自覚する)のだ。歴史家が過去の歴史を構成する如く、知ることによって前のものが構成されるということができる。これは背理のようではあるが、我々は時が何時に始まるかを知るのではない。現在の一点から一次元的に前と後に順序付けて行くのだ。この線が繰り返すことができないと考えられた時、それが「時」である。そして繰り返すことができないということは、自己との関係においてのみ考え得るのだ。何故に自己は繰り返すことができないと考えられるのであるか。主と客と合一するが故である。知るものが知られるものなるが故である。主と客と離れた時、すなわち我々が一つの対象界を外に見る時、それはいかに大なるものであっても、これを繰り返し得ると考えることができるのである。しかし前にも言った如く、真に主客合一の立場においては、すべてが現在である。時はその中に跡形を絶つのである。creans et non creata(創造と非創造?)の神は同時にnec creans nec creata(創造することも創造されることもない?)の神である。反省的知識の立場においては繰り返すことはできないと考えられるも、直観(creans nec creataの立場)においては終と始が共にあるのである。
直観と意志
私は昔、プロチノスが自然が物を創造することは直観することであり、万物は一者の直観を求めると言った直観の意義を、最もよく明らかにし得るものは、我々の自覚であると思う。自覚においては、我が我を対象として知るのであり、知ることは働くことであり、創造することである。そしてこの知るということの外に我の存在はない。我々は普通に感覚という如きものには、自覚がないと考える。ならば、色とか音とかいうものは何処から出てくるのだろうか。物理的原因が色や音を生じるのではない。物理的原因とは説明のために設けられた仮説に過ぎない。プロチノスも衝く(つく)とか起こすとかいうことからいかにして種々の色や形を生じるかと言っている。色を生じるものは色自身でなければならない。音を生じるものは音自身でなければならない。完全に独自にして他から生じることのないものは、自ら働くもの(自ら変化するもの)でなければならない。そして精神的なるものが自己の中から動き自己によって創造し行く(自ら変化する)ということは、自己自身を知り行くこと(自覚すること)でなければならない。我々はかかる創造作用を、芸術的直観において、最もよく証することができる。芸術的直観においては、働くことは見ることであり、見ることは働くことである。プロチノスは行為を直観の弱き形と考えたが、芸術的創造作用においては、その作用そのもの(働き)が同時に知(見ること)でなければならない。行為は概念に従って起こり、その目的は直観にあると言っているが、すべて目的的統一においては終が始に還るのだ。始の目的が実現された時(終が始に還った時)、目的が目的自身を見たということができる。普通に行為といえば、その間に外界の運動というものが入って来る。それだけプロチノスの如く直観の弱きものということができる。不完全な直観ということができる。ただいわゆる内面的意志の場合において、我々は我々の心の中を見ると考えられ、最も直観に近きものと考えられる。しかし知的立場を超越する意志内容の発展と見るべき芸術的直観に至っては、始と終の間に挟まった外界という如きものはない。いわゆる空間なく、時間なく、全体が一つの直観となる。行為そのものが直ちに見ること(直観)となるのである。一般に我々の精神は空間を超越し、直接に相働くと考えられるのは、この意味において(直観が)行為を内に包む(含む)ということでなければならない。これ故に意識の根柢に直観があるということができる。(直観の中に)行為を包むことができればできるほど、意識が明らかとなると考えることができる。意味即実在ということは目的的統一の形において可能であるのだ。プロチノスは直ちに心を見得るものは誰か真の影たる行動を求めるものがあるかと言い、精神的となればなるほど、行為を離れて静的直観となると考えているが、直観が明らかになるということは、行為を否定することではない。行為を内に包む(含む)ことである。時間や空間がなくなることではない。時間や空間が内に包み込まれるのだ。我々が物を知るということも、我々の心が働くことである。知的主観といえども、単に物を映す鏡ではない。構成作用でなければならない。斯くして(構成作用として)認識主観の形式が認識作用に対して当為となるのだ。単に受動的である主観(創造的方面を持たない主観)は消極的である限界概念に過ぎない。主知主義の人は意志や感情の如きものでも、反省された時、それは知的対象に過ぎないと考えるが、単に知的対象として反省された時、それらは有機感覚や運動感覚の如きものに過ぎない。これらのものは反省されるのではなく超知識的立場(意志主観)に立って再び体験されるのである。知的主観というのは意志主観の外に出ることはできない。かえってその内にある(意志主観が知的主観を包む)のである。自我の統一は作用と作用の直接の結合(意志主観)にあるのだ。フィヒテの事行という如きものだ。真の主観、真の自我とは、かかる意味において働くもの(作用と作用の直接の結合により、自ら変化するもの)をいうのだ。働くもの(統一者)なき働き(作用)である。我は一方において知る我であり、一方において働く我である。(普通には)知る我は働く我より大にして、これを包むと考えられるが、知る我もまた働く我の一である。芸術的直観に至っては、働く我は直ちに知る我であり、知る我は直ちに働く我である。知識我の立場から見れば、その内容は不変であってこれを知る過程は外的と考えられるだろう。プロチノスの言った如く、精神の理性的部分は不変不動であって、これ(理性)から出るものはただこれ(理性)を分有するに過ぎないとも言うことができる。しかし目的的統一においては動くもの(統一)と動かざるもの(目的)を切り離すことはできない。前に進むということは後に退くこと(始の目的に近づくこと)であり、動くということは直観するということである。直観するということは、種々なる関係や過程を離れることではない。不純なるものを純化してその本質をとらえることである。純なる一つの働きとなることである。単に眼で見るという如きことが直観ではない。十全なる知識もかくの如き意味において直観だ。無限に遠く照らさざる光は光にあらざる如く、不変不動と考えられる第一の部分(本質。例えば、芸術におけるイデヤ)から流出するものは、これに対して偶然なるものではなく、必然なるものでなければならない。
働くということは、精神的なるものが自己自身に還るという意味において直観である。かかる意味において、見ることが直観であるのみならず、考えることも直観と言い得るだろう。しかし真に働くことが直ちに知ることであるという意味において、直観と称すべきものは、むしろ我々の意志の自覚という如きものにあるのではなかろうか。我々の欲望は物から起こるのではない。己(意志)より出でて己(意志)に還ることによって、欲望が満たされるのだ。水が我々の欲求の対象となるのは、我の要求によるのだ。我の欲求は我の創造であって、この欲求(目的)を満足するということは、我を客観的に構成することだ。すなわち客観的に我を見ることだ。我々が水を味わうということは水を知るということであると共に、これによって我を見ることだ。我々の欲求は物によって満足されるかのように考えられるが、我は我の中に我(働くことによって見られる客観的我)を見ることによって、満足するのである。精神的なるものが自己自身を発展し、自己自身に還ることを直観とするならば、かくの如き作用(目的的統一)において真に自己が自己を直観すると言い得るだろう。我々が色を見つつある時、音を聞きつつある時、また真理を考えつつある時、色や音や真理が自己自身を直観しつつあると考え得るだろう。しかしそれらの作用は何処までもそれ自身に全きものではない。(終が)その始(目的)に返ることはない。開かれた体系である。これに反し作用が作用自身に還った時、終が始(目的)と結合した時、すなわち作用自身が自覚した時、それが意志の形を成す。これにおいて我々は初めて我々の精神現象を知るということができる。我々の精神現象とは作用の自覚したものだ。作用が作用自身を対象としたものだ。しかし作用が作用として対象化されるには、作用の作用の立場においてでなければならない。作用を作用として限定し得るものは作用の作用(作用を統一する作用、意志の立場)でなければならない。これ故にプロチノスの言った如く、万物は※一者すなわち「善」によって成立し、万物は善に向かって努力すると言うことができる。意志の形において「善」が自己自身に還り、自己自身を直観するということができる。
※ 引用 一者とは
すべての作用が自己に還り自己を直観するのは、意志の形においてでなければならない。自覚において反省作用そのものが自己を直観することである如く、働くということが自己を見ること(直観すること)である。働くものと働き自身が離れている間は(主客が離れている間は)、真に作用が作用自身を知るということはできない。純なる作用自身となることが直観することである。すべて存在するものは働くもの(自ら変化するもの)であり、精神が働くということは、自己自身を見ることである。ただ作用の首尾相合しない時(終が始と結合しない時)、すなわち作用自身が自覚しない時、意志(働くもの)と知識(働き)が分かれるのだ。アウグスチヌスの考えた如く、我々の心の中に過、現、未がある。そして過去は記憶の中に、未来は希望の中に、現在は直覚の中にあると言うことができる。真実在は我々の知識の対象であると共に、希望の対象(未来の目的)でなければならない。この両端の結合において、我々に十全なる永遠の真理が見られるのだ。スピノーザの知的愛は、プロチノスの言う如き無限に能動的である善(一者)でなければならない。いかなる意味においても、対象化することのできない自己自身の直観でなければならない。作用が作用自身を直観するということは、知るということより、むしろ自己を満足するということでなければならない。十全なる知識という中には意志の満足ということが含まれている。作用が作用自身を見るのは、意志の立場(作用の作用の立場)においてでなければならない。プロチノスは、精神は二重の力をもっている。その一を以て、すなわち思惟を以て、物を自己の中に見るが、その他を以て、すなわち直覚を以て、彼の上にあるものを見る。直覚をもってしては、まず単に見るのであるが、後これを知り、一者と合一する。前者は思惟の範疇であり、後者は愛の直観であると言っている【VL. Enneade, Buch 7, Kapitel 35.】。精神が自己の中に物を見るという時(働くものと働きが離れている時)、精神は精神自身を見ることはできない。主と客は離れている。自己の中に見るという時、物は自己を離れているのだ。直覚によって自己の上にあるものを見るという時、作用の作用の立場(意志の立場)において作用が作用自身を知るのだ。作用自身が自覚するのだ。そして斯く作用が作用自身を知り、一者(善)と結合し行くのが、意志の過程だ。意志とは一者(善)の立場における直観の過程である。一者から出でて一者に還り行く過程である。知識の立場から言えば、真理を直観すれば行為を無用視することができるかもしれないが、意志の立場から言えば、いかなる行為も直観の内容として欠くことのできないものでなければならない。一者(善)の立場においては、すべてが直観の内容とならねばならない。空間を超越するものには、直路も迂路もないはずである。動と静の対立も一者(善)の上において成立するのである。
私は直観ということは、眼で物を見るという様に、静かに物を映すことではなく、主と客が純なる一つの働き(作用)となることであり、精神的なるものが自己自身を発展する(作用が作用自身を発展する意識の形式である)ことであると考える。この意味において、私は直観ということを、意志の形において理解し得ると言うのだ。意志の極致が直観であるということができる。我々の精神は意志に始まって意志に終る。首尾合一して(始と終が結合して)、一つの円を成す時(作用が自覚した時)、それが直観となる。しかし働くもの(自ら変化するもの)を斯く見るには、これを包む無限大の円がなければならない。これ故に万物は、すべてを包み、何物にも包まれない一者において直観されるのだ。動くものを止めて見るには、自らそれ以上に動くものでなければならない。一者は無限に動くものを包み、これを止めて見るという意味において、無限の動と考えることができる。しかし意志は、単なる運動ではない。単なる変化ではない。終(目的)が始に含まれているのだ。目的そのものは不変不動であると考えることができる。この不変不動なるもの(目的)が変化を起こすのだ。私はプロチノスの時は永遠なるものの影である【Ⅲ.Enneade 7】と言った語に深い意味を見出さざるを得ない。自己自身の中に不満を抱くもののみ、時を見る。自己自身において満足するものの中には時はない。その物は永遠である。すべてのものの目的となり、すべての物がこれに向かって動く一者、すなわち善は不動でなければならない。絶対に自己自身の中に満足するものでなければならない。アリストートル(アリストテレス)のfirst mover(第一の不動の動者?)の如きものでなければならない。一者は無限なる作用の不変不動なる統一と考えることができる。元来、作用の統一という時、我々は直ちに静止する一つの統一を考えるのだが、かくの如き統一はヘーゲルのいわゆるcaput mortum(死んだ頭?)に過ぎない。省みられた自己(対象化された自己)は真の自己ではない。純なる作用となるということが永遠にして不変なるものを見るということである。永遠の真、永遠の美は斯くして(純なる作用となることにって)現れ来るのだ。無限なる我々の意志は一者の直観に達する過程である。一者においては動即静であり、静即動である。かかる一者を神秘として不可解となすならば、斯く考える自己に返って見るべきである。繰り返すことのできない自己の経歴として、認識対象界に映されたものは、自己の影像にして、真に働く自己ではない。働く自己は時の変化に対して不変だ。我は動き行くものの原因(始)であって、その目的(終)である。この間(原因と目的)に何らの間隙がなければない程、我は時を超越して純なる作用の統一となる。この両者が分かれた時、すなわち※動力因と目的因と別である時、時における変化がある。
※ 引用 動力因と目的因とは
我々は皆映された自己(対象化された自己)を自己として見るが故に、我々の自己は永遠なる時の流れの中に流れ行くと考えるのだ。すべての作用の統一として、外に何物も許さない、万物の自己たる一者は、首尾合一し、無限の動であると共に、永遠に自己自身の中に留まるものでなければならない。動力因と目的因と別である時、後者(目的因)から見れば、前者(動力因)は手段となるが、前者(動力因)が後者(目的因)によって動かされる範囲において、かえって後者(目的因)は前者(動力因)に従属すると考えることもできる。両者共に相働くものとなる。真の目的因は動力因を内包するものでなければならない。動力因は時の中に働くが、目的因は時の外において働く。時はその表現となるのである。動力因は時の流れに従って働くが、目的因は時の逆行と考えることができる。時を逆にしたものと見ることができる。時においてすべての物は移り行くが、時自身は留まると考えられる如く、時は形式的である目的的統一であり、目的的統一は内容ある時であると考えることもできる。この意味においては時そのものが既に形式的である直観と見ることもできる。永遠とは進み行くもの(動力因)と、元に還るもの(目的因)との合一、動と静の合一だ。前にも言った如くこの合一において、一つの直観が成立し、この直観において我々は永遠の真理を見るのだ。一つのアプリオリの上において純化された知識が、それぞれの立場において、永遠の真理と考えられるのはこれによるのである。種々の芸術美が一々の立場において、永遠の価値を有すると考えられるのも、一々が作用の作用の立場における作用自身の自覚として、一つの直観であるが故だ。我々の時と考えるものは、時々刻々に消え行く作用の形式を見ているのだ。閉じられた体系の中には、時はない。開かれた体系の中においてのみ、時を見ることができる。時は一つの閉じられた体系(目的的統一)から、これを包容する背後の体系(次の目的的統一)への結合と見ることができるだろう。二次元の世界から三次元の世界を見るならば、その(三次元の)何れかの一次元は時の軸と考えられるだろう。我々は三次元の世界に住むが故に、ミンコウスキーの四次元の世界の一つの次元は、時の軸と考えられねばならないのだ。しかし作用が作用の立場において反省された時、時は更に高次的な立場(作用の作用の立場)において包容されて意志発展の過程となる。そして作用の作用自身が自覚し、創造的となる時、意志は意志自身の実在性を失って一つの直観となる。そしてかかる直観を無限に統一するものが一者だ。一者は直観の直観でなければならない。
物理現象の背後にあるもの
一、近接作用の物理学
物理学的に一つの物が他に働く、或物が他の物の物理的変化の原因となるということはいかなることを意味するか。遠隔作用の物理学によれば、一つの物が直ちに他の物を動かすと考える。後者が動くのは前者の力によると考える。超越的なる物が直ちに他の超越的なるものに働くのだ。しかし近接作用の物理学においては、右の如く力を持つものという考えから出立する代わりに、空間を「力の場」と考えることによって、物理現象を説明して行くのである。物と物が働くのではなく、物があるということによって空間が力の場となる。そして種々なる物理現象は力の場の変化ということによって説明されるのである。後の考え方では、物理的実在性は、働く物から、働きの現れる空間の方に移って来る。空間というものが物理的性質を持つようになるのだ。しかし空間に物理的性質を与えるものは何であるか。感覚的性質の変化ということを離れて物理現象はない。いわゆる力の場を定めるにしても、何らかの感覚的性質の変化によらねばならない。例えば電場を計るにも何らかの運動によるのだ。物が動くとはいかなることを意味するか。あるものがその位置を変じるというも、我々は場所そのものを見るのではない。ある感覚的性質を以て色どられた空間の上を、ある感覚的性質を持ったものが、相対的に位置を変じるのだ。ある感覚的性質を持った物というも、また感覚的性質を以て色どられた空間に過ぎない。もしある感覚的性質を持った空間が、他と相対的にその位置を変じることなく、その感覚的性質を変じるならば、我々はこれを物が動いたのではなく、時間的に変化したと考える。しかし空間における位置の変化ということも、ロッチェの考えた如く、物の状態の変化と考え得るだろう。空間において物があるのではなく、物の中に空間があると考え得るでもあろう。
二、実在認識の根柢として意志の自覚
それで我々が運動ということを理解するには、まず感覚内容の識別ということから出立しなければならない。我々がある一つの感覚内容を他と区別するには、この両者を包んだものがなければならない。赤と青を区別するには色一般というものがなければならない。色の経験が独自にして他より導き来ることのできないとするならば、色の概念は自己の中に無限なる発展を蔵していると見なければならない。単なる抽象的概念ではなく、一つの理念でなければならない。我々が視覚作用と考えるものは、かくの如き理念自身の自覚とも言うべきだろう。色を右の如き独自の経験であるとすれば、音もこれと同様に独自の経験でなければならない。各自独立するものは、互いに相関係し、統一されることはできない。我々はこれらの感覚作用を総合し統一するものとして思惟を持つ。思惟は感覚内容を代表し、総合統一するという意味において、一層高次的である作用である。思惟が感覚内容を代表するというのは、各自独立なる作用を作用として統一するのだ。各自相独立するモナドが互いに表象するには高次的モナドなる神の作れる予定調和によらねばならない。感覚の立場から言えば、思惟の内容は無とも考え得るだろう。しかし視覚作用が色や光の世界を持つ如く、思惟は思惟自身の世界を持つ。一つの創造作用である。私は純なる創造的思惟の対象界は数の世界であろうと思う。しかし数の世界もなお可能の世界であって、実在の世界ではない。力の世界、実在の世界は単なる思惟のアプリオリによって構成されるのではない。カントがすべての表象に伴うといった「私が考える」という我が、単に論理的であるならば、一般妥当的世界(数理の世界など)を構成し得るかもしれないが、実在界を構成することはできない。カントが重きを置いた如く、思惟の形式は感覚内容と結合することによって、我々のいわゆる経験界が構成されるのだ。「私が考える」の私が完全に規範的意識(当為)として個人を超越するならば、理性と経験内容を結合して一つの客観的世界を構成することはできないだろう。思惟から見れば、この経験界は一つの偶然的な世界である。しかしこの現実の世界から見れば、思惟の世界は単なる可能の世界に過ぎない。経験界は思惟に対して偶然的であると言うも、単に人為的であるのではない。燐が四十四度で溶けるということは、動かすことのできない事実である。物理の法則とは、かくの如き事実間の法則である。かかる法則が単に思惟の形式に当てはまる故を以て客観性を得ると言い得るであろうが、単に思惟によって物理的法則の客観性が立てられるのではない。経験内容は純粋思惟の内容に対して特殊的と言い得るだろう。しかし特殊なる経験内容が一般なる思惟内容を抑制することによって、客観的経験界が成立するのだ。かかる客観界が成立するには、その基に特殊(経験内容)が一般(思惟内容)を含む(包む)アプリオリがなければならない。そして一般を特殊の中に含む(包む)ものは我々の意志である。これ故にいわゆる経験界は意志のアプリオリによって成立するということができる。意志の自覚なくして、知識の客観性の基である自覚は成立し得ない。自覚においては、働くということと知るということは一つである。この合一が自覚である。私はかくの如き純なる作用の統一(自覚)の形式として、実在の範疇が与えられるのであると思う。実在の根本的範疇として考えられる「時」とはかくの如き統一(自覚)の形式でなければならない。単なる一次元的連続と実在の範疇としての「時」の区別はここにあるのだ。後者は作用自身の自覚であり、前者はその射影に過ぎない。曲線の一点は生産的として、連続と考え得るだろう。しかし真に独立にして唯一なるものではない。一度的にして繰り返すことのできない「時」ではない。対象化されたものは真の実在ではない。実在の範疇は単なる思惟の範疇ではなく、思惟がこの時間、空間の中に働く自己との結合によって成立するのだ。これにおいて初めて「私が考える」という純粋統覚の総合によって、実在界が成立するということができるのである。真の我は個性的なものでなければならない。何人の我でもない我は我でない。従ってかかる我(規範的意識として個人を超越する私)が考えるとは言い得ないのだ。右の如く考え得るならば、いわゆる経験界を構成する実在の範疇も、純粋意志の自覚によって成立し、単なる思惟の内容は感覚内容を有する時間空間と結合することによって、客観的知識となると言い得るだろう。意志は感覚の背後に自己を見出す時、初めて真に自覚するのである。普通には、感覚を単に受動的と考えるから、何らの客観性を認めないのだが、一々の感覚が作用であるとするならば、純なる作用の統一である意志の統一は、感覚の統一を含まねばならない。純粋統覚は意志の一面として、感覚的経験を統一し得るのである。客観的意志(=純粋統覚?)とは非合理的なるものの合理化(感覚的経験の統一)であって、これによって知識の客観性が立せられるのだ。意志を客観的知識と無関係と考えるは、単に主観的意志を考えるからである。
三、物の変化
我々は時間、空間そのものを直覚することはできないのであるから、物が動くということを知るには、まず性質的なるものの変化ということがなければなるまい。性質的なるものの変化を知るには、識別の判断がなければならない。しかし識別の判断のみにては、変化というものを知ることはできない。我々は物が種々なる性質を持つと考えることができる。すなわち一つの物が種々なる性質的判断の主語となると考えることができる。この場合、主語によって種々の判断が統一されるのだが、なお物が変じるということは考えられない。単に一つの静的統一に過ぎない。ただ相独立する二つの物が何らかの意味において相互関係に入り込む時、すなわち何らかの意味において統一される時、それは相互の変化によると考えられねばならない。一つの物だけにては、変化ということはあり得ない。無論、物が自分の中に変化の原因を持つと考えられることもあるだろう。我々は生物においてかかる例を持つ。しかし生物が独立する一個体として考えられるのは、これを構成する要素と同一の意味においてではない。一層高次的である統一として考えられるのだ。それなのに生物が自分で変化すると考えられるのは統一そのものとその要素を同等に見るからである。物は自ら動くということはできない。ある一つの立場において与えられた個体が動くというには、必ず同一の立場において考えられた他の個体がなければならない。一つの物が変じるというのは、その原因としてこれと同等の独立の物がなければならない。一つの物が他によって変じられる時、完全にその独立性を失うならば、その物は変じたのではなく、元来無かったものである。一つの物が変じるということは、その物を独立に成り立たしめることそのこと、すなわちこれを他と一(同一)と見ることである立場において、初めて物の変化ということが成立し得るのだ。例えば物理的には、物は空間時間の上において成立し、空間時間の上において物の変化、運動ということが言い得るのだ。物が物自身を維持しつつしかも変化すると言い得るのである。
四、個物概念の成立
我々はここに一つの疑問に撞着するだろう。物は空間時間の上に成立し、物が変じるということは、物の空間時間的状態が変じるということならば、物は個物としての独立性を失うと考え得るではなかろうか。物が変じるというのは空間、時間を属性とするものの様相と見ることもできる。これに反し、時間、空間を離れて、その背後に物というものを考えるならば、かかるものの変化ということは不可知的となる外はない(知ることはできない)。我々はこれにおいて独立の個物とは、いかなるものかを考えてみなければならない。我々が独立する個物というものを考えるには、まずそれが我々の主観を離れて存在する物と考える。そして客観界においてそれが種々の関係に入り込むと共に、何処までも自己自身を維持するものと考える。無限の関係に入り込み、しかも自己自身を維持するというには、それが無限なる性質を持つと考え得るでもあろう。少なくも無限なる述語の主語となるものでなければならない。たとえ、物質的性質としては有限であるとしても、時間空間の関係上において、他と無限の関係に入り込む可能性を有するという点において、無限なる述語の主語となると考えられねばならない。そうでなければ、単に一般概念として、主観的なるに過ぎないだろう。それで、一つの個物というものが考えられるには、まず無限なる判断の主語となるものがなければならない。判断を連結し統一するものがなければならない。そして判断が限りなく連結され、統一されて行くというには、一定の方向がなければならない。その方向が無限に到達することのできないものである時、我々はそこに独立の個物を見ることができるのである。その方向がいかに遠くとも単に限りなく進み得るというだけであっては、なお個体概念を構成することはできない。個体概念を構成するには、立場の超越がなければならない。無論、単に無限なるものと言ってもなお直ちに独立な個物とは考えられないだろう。当為はいかに無限であっても独立する個体ではない。対象と作用と離れている間は、真の個体概念は成立し得ない。個体概念が構成されるには、作用と対象が結びつかねばならない。真に客観的なるものは、対象即作用、作用即対象なるものでなければならない。我の前に立つもの、我の中に映じ来るもの(単なる当為)は、いかに無限であっても、なお我の中にあるものと見ることができる。真に我を超越し、我によって、如何ともすることのできないものは、後から我を覆い、我を内に包むものでなければならない。単に限りなき経験内容の連続は、一方から見れば、我々の精神作用とも見られ得るだろう。ただかかる作用が、作用の作用(作用を統一する作用)の立場において対象化された時、それが我を超越した一つの力となり、かかる力の主体が一つの個物と考えられる。個物は作用の作用の対象として成立するのだ。我々は一つの物を主語として無限に性質的述語を加えて行くことができる。しかし我々の作用そのものを主語としてこれらの述語を付加することはできない。赤の知覚作用が赤いとは言われない。ただこの作用自身が客観化された時、色を物の作用として見ることができる。そしてこれ(作用)を対象化するには、単に判断の統一である知的自覚ではなく、意志の自覚でなければならない。判断の無限なる内面的統一はまずこれを知的自覚に求めることができるとしても、それだけにては、物が働く(物が自ら変化する)という判断に達しない。ただ自己における判断の連続を見るのみである。かかる連続を成立せしめる内面的統一、すなわちかかる判断を成立せしめる一般者(例えば、知覚作用など)そのものの自覚に達した時、性質は我々に外的でなく、すなわち判断とその内容は別なるものでなく、内容が判断を成立せしめるものとなる。述語が主語を含むものとなる。視覚作用は赤でもない、青でもない。その色を論じるのは背理であるが、色と色の判断と離れたものではない。色の判断をして客観的ならしめるものは色そのものでなければならない。色の判断は色の一般者の分化発展として成立するのだ。判断的意識が斯く達することのできない、しかもその成立の根拠となるものを見た時、そこに判断的意識以上のものが考えられ、いわゆる認識の限界という如きものが考えられるのだ。しかしその限界は超越的ではあるが、自己に外的なのではない。我々はこれにおいてまずこれらの作用を自己の作用と考える。主観的自己の中にその根拠を求める。すなわちこれらの性質は自己の感覚として第二次的性質と考えられるのだ。斯く考え得る所以は、我々の自己が独立なる作用の統一なるが故だ。自覚において一々の作用が独立なると共に、一つ(自己)に結合されるが故だ。しかし先に視覚作用は赤でもなく、青でもないと考えられた如く、かくの如き統一者自身(自己)はそのすべての作用を含むと共に、その孰れでもない。かかる統一が対象化された時、個体概念が成立するのだ。これ(統一者)を対象化するとは何を意味するか。この統一を超越して、しかもこれを内に含むことである。そして無限なる作用の内面的統一である知的自覚を超えて、これを内に包むものは意志でなければならない。意志の立場において意識我を超越して、すべての物を動くもの、変じるものと見る。思惟我を超越するが故に、すべてのものが各独立の個体として、しかも互いに相関係し、一つの統一(すべてが相互関係によってなる世界?)に入るのだ。各人格は自由なるが故に、一つの「目的の王国」を作ると一般である。
五、実在の範疇として時間、空間の不可分離性、意志の表現として時間、空間
時間、空間というのは通常働く物の相互関係の形式と考えられるのだが、私はむしろ意志表現の一般的形式と見なすべきであると思う。時間であっても、空間であっても、働くもの(自ら変化するもの)なくして考えることはできない。時間、空間の中に物が働くというよりも、ロッチェの言った如く、物の中に時間空間があるのだ。完全に、感覚的性質の特殊性を除去して、働くものの相互関係を考えれば、時間空間という如きものとなるのである。なお、曲率なき空間がユークリッドの空間と考えられるのと同様だ。普通には時間空間の結合によって力というものが考えられるのだが、私はかえって我々の意志の表現としてまず力というものが考えられ、その一般的形式として時間空間というものが考えられるのであると思う。空間と時間はともにいわゆる実在の形式として別々のものではない。内面的に結合したものでなければならない。感覚的抵抗なくして実空間はない。抵抗には力の意識がなければならない。働くもの(自ら変化するもの)には時が含まれていなければならない。空間は静止すると考えられるも、静止とは時を離れることではない。静止するものは時において静止するのだ。時はまた働くものなくして考えられない。働くものは時において働くと考えられるが、働くものなくして実時というものは考えられない。空虚なる時というのは単なる思想に過ぎない。物理的世界においては、時間はいつでも空間と結合している。物理的に時の前後、時の経過ということは、いつも空間的関係を含んでいる。ただ、意識現象は単に時間的であって、空間と関係がないと信じられる。時間においてのみ働くと考えられる。しかし心理現象といえども、それが客観的時間において生滅するというには、何処かに客観的な空間と結合していなければならない。我々は単なる心理的時間を真の時間と考えることはない。かかる「時」(心理的時間)は意識現象の中に含まれているのであって、意識現象がかかる「時」において起こるのではない。時は一次元的であるというが、意識現象がそれにおいて生滅する「時」は、単に一次元的直線という如きものではない。ただその空間的方面の零と考えられたものである。あたかも静止する空間において時が零と考えられると同様だ。ミンコウスキーの「世界線」においては、両者がいつでもコムポネント(成分?)として含まれていなければならない。空虚なる空間、時間の世界というのは、物質が一様にしてParallelverschiebung(平行移動?)のできる世界でなければならない。実空間、実時間はいつでも物理的でなければならない。斯く考えるならば、前に問題とした個物の独立性ということと、時間空間の関係として物がその独立性を失うということの矛盾もその意義を失うこととなるだろう。物が空虚な空間、時間の中に動くのではない。時間と空間と離して考えることのできる空虚な時間、空間は抽象的概念に過ぎない。物理現象というのは物理的空間と物理的時間との関係である。【斯くして現今物理学の近接作用の考えに近づくことができる。】
六、力と意志との媒介として内的知覚
物理的空間と空間を関係せしめるものは、また物理的空間であるということはできない。物力が空虚な空間を伝わると考えられるも、空虚なる空間というものはない。ただこれを充たす物質を一様と見得るまでである。また時というものが外から空間を結合しているのでもない。時は物理的空間の中に含まれているのだ。それでは物理的空間を互いに相関係せしめ物理的世界を構成するものは何であるか。私はこれを我々の意志の自覚に求める外はないと思う。物力は空間時間によって表現されるが、その中に含まれない様に、意志は物力によって表現されるが、物力の中に含まれているのではない。あたかも空間時間の表現を離れて物力がない様に、物力の表現を離れて意志はない。我々の意志の中には超意識界(物理的世界)における表現ということが含まれている。しかし物力は時間空間の座標によって知り得るも、その中に含まれているのではなく、かえってこれ(時間空間)を成り立たしめるのであると言った如く、意志は客観界に力の世界を見ることによって自覚し得るも、意志は力の世界に含まれているのではなく、かえって意志によって力の世界が成立するのだ。この点を明らかにするため私は※内的知覚innere Wahrnehmungについて考えてみたいと思う。事実的知識は内的知覚に基づかねばならない。我々が外界の事実を認識するという場合においても、内的知覚というものが基礎とならねばならない。自覚の立場がすべての事実的知識に客観性を与えるのだ。我々は夢において数学的真理の示唆を得たとしても、それは数学的真理たるに妨げない。しかし夢においての物理的実験は真理としては何らの権威をも有しない。自覚において夢の世界も実在の世界も含まれている。我々はこの立場において夢と現実を区別し得るのだ。いかにして自覚によって事実の客観性が立せられるか。自覚に於いては終(作用)が始(経験内容)に含まれている。一つの発展が元に還ることによって、自覚の意識が成立するのだ。内的知覚というのも、かかる自覚の形において自己自身を知ることである。しかし自覚は単に閉じられた一つの円形ではなく、フィヒテの事行の如く無限なる進行である。これ故に唯一なる自己の意識が成り立ち、繰り返すことのできない「時」の形式が考えられるのだ。思惟と感覚はこの立場において内面的に結合すると考えることができる。我々は思惟の内容についても内面的に知覚し、感覚の内容についても内面的に知覚するのだ。内的知覚の立場に対しては、思惟の作用も、表象の作用も同位的だ。ブレンターノも論じているように、この立場(内的知覚の立場)から見れば、表象は(思惟のように)個人的ではないと共に、概念も(表象のように)直覚的でなければならない。なぜなら、我々の視覚作用というも、自己の内面的作用としては、視覚内容の無限の発展であり、思惟作用というも、思惟内容の無限なる発展でなければならない。思惟も、意識内容としては、何らかの感覚的内容を持たねばならないと考えられるのは、これによるのだ。斯くの如くにして、内的知覚の立場において、事実的知識が成立するのであるが、かかる内的知覚の根柢には、働くもの(自ら変化するもの)の自覚がなければならない。内的知覚の客観性は意志の自覚によって与えられるのだ。一方からは内的知覚なくして、意志の自覚はないとも考えられるが、その実は意志の自覚なくして、内的知覚はない。我々の自己は時における現象の系列ではなく、作用自身の統一である。意志の自覚の立場において、我々は内的知覚の積極的内容を見るのだ。ブレンターノは過去、現在、未来を表象の様相Modi des Vorstellensと考え、性質的様相Qualitatsmodusのない判断がない様に、時の様相Temporalmodusのない表象はないと言っている。この考えは彼の直視様相Modus rectusと斜視様相Modus obliquusの区別に基づいているのである。我々が一つの音の系列を聞く時、一つの音がまず現在として現れ、漸漸に(ゆっくりと)過ぎ去る。しかし我々はかかる現象を意識している自己を、現在に知る故に、過ぎ去ったと思うものも、これを現在において持っている(音が過ぎ去ったと意識している)。すなわち斜視的(間接的)に表象しているのだ。斯く時間的関係というものが、意識の様相として、内的知覚に属すると共に、空間的関係というものも同じくこれ(内的知覚)に属するものと考えられねばならない。ブレンターノは場所の変化は第二次的として、第一次的である時の変化に属するものと考えた。すなわち(場所の変化を)第二次的連続と考えた【以上はKraus, Franz Brentanoによる】。我々は内的知覚の奥底との関係なくして、空間というものを考えることはできない。左右両端に向かって無限に延長される一つの直線は無限点において会すると考えられるのも、要するに、我々は内的知覚において直視様相の一点を中心として、斜視様相によって前後に限りなく進んで行くことができるのだが、内的知覚そのものの自省の立場、すなわち作用自身の自覚の立場において、我々はこれを対象化して閉じられたものと見ることができる故ではなかろうか。直線という考えも内的知覚が自己の中に自己を限定することによって成立すると考え得るだろう。内的知覚自身は何処までも作用の内面的連続として時間的と考えられるのだが、事実の知識に客観性を与える内的知覚は、普通に考えられる如く単に時間的ではない。内に空間性を含んだものでなければならない。我々が作用の自覚の意識(意志の自覚)において、内的知覚を超越し、これを内に包む時、時間と空間を内に含む力の世界が成立するのだ。我々は感覚を強度を持つと考える。感覚の強度というのは内的知覚の立場において言い得るのだ。しかし内的知覚自身の深き奥底に入り込み、経験内容の特殊性を超越する時(作用に撞着する時)、感覚の強度は内的知覚の様相として空間時間となる。「知覚の予料」の原理において、感覚が程度を持つことによって実在的となると考えられるのも、これによるのである。さらにこの内的知覚の立場を超越し、意志の自覚の立場に立つ時、カントのいわゆるmathematische Grundsatze(数学的原理?)の世界からdynamische Grundsatze(力学的原理?)の世界に入る。すなわち知覚の世界からいわゆる経験の世界に入るのだ。無限なる内進Regressus(知覚)と考えられる内的知覚の底に、無限なる外進Egressus(経験)が含まれていなければならない。あたかも形なき形の限定(空間の限定)として形を見る如く、反省することのできない作用(経験)の限定として反省された作用を見るのだ。反省の窮する所に、無限なる作用の世界がなければならない。この立場(経験の立場)において無限に内省的なる自己が成立し得るのだ。そしてかかる内省的自己の成立する所がいつでも現在であり、その背後に我々の意志が働いているのだ。現在というのは単に時間的ではない。空間的関係を含んでいるということができる。あるいは我々が力というものを意識し得るから、内的知覚は力の意識(力=連続=経験の意識)よりも深きものと考え得るでもあろう。すなわち内的知覚を対象視することができると考るだろう。しかし単に記述的である内的知覚の立場から、力の概念は成立し得ない。厳密にかかる立場から物理現象を見れば、ヘルツの力学においての如く、力学から力という語を除去すべきであろう。しかし力という語を除去するとしても、時間、空間、質量を統一して、物理的世界を構成するものがなければならない。物理的世界が客観性を持つには、これを構成するアプリオリがなければなるまい。我々の概念的知識はいつも分析的である。物理的現象を知るにも、これを時間、空間、質量というもの(概念的なもの)に分けて知る外はなかろう。しかし物理現象は単にこれらのものの結合ではない。これらのものの函数的関係を構成する原理がなければならない。私はこの点において相対性原理の物理学におけるViererkraft(4元ベクトル?)やEnergie-Impulstensor(?)の考えが、よく物理的知識の構成原理を捕捉し、物理現象の真相に徹底し得たものと思う。かかる構成的原理の補足は単に記述的である内的知覚から得ることのできないのは言うまでもない。物理現象を指量Vektor(ベクトル?)によって考えるということが、単に実用的意味に解せられるのだが、私はこれを既に物理的知識の純化と思うのである。
七、内的知覚と力の意識との媒介として確信、確信と明白
内的知覚と力の意識を明らかにするため、更にその間に確信Uberzeugungの意識を入れて見ようと思う。内的知覚と確信は離すことのできない関係を持っている。確信の伴わない内的知覚はなく、内的知覚なくして確信はない。そして確信の意識が成立するには、主客合一するによるのだ。内的知覚は、確信の意識において、自己自身を超越して、永遠なる客観界を見る。いかなる客観界もこの確信の意識の上に立っている。ある個人の心理的事実であっても、この確信の上に立つことによって、何人も認めねばならない真理となるのである。事実的真理がこの上に立つのみならず、いわゆる一般的真理もこの上に立つのだ。確信というのは、何人も斯く考えなければならないということである。この時、我々はいわゆる個人的自己を超越して、その一々が内的知覚を持つ無限なる自己の上に立つ(自己を超越する)のだ。ブレンターノは意識の強度と確信を区別しているが、意識の強度が意識の性質と異なった属性と考えられる場合、それをリップスの考えの様に、自己への要求Zumutungと考え得るだろう。これ故にそれは確信と区別すべきであると共に、他の意識の様相と内面的に結合するのだ。幻覚や錯覚という如きもこれによって起こるだろう。強度を感覚的意識の様相と考え得るならば、確信は超個人的である思惟の意識の様相と言い得るだろう。これ故に両者(強度と確信)は区別すべきであると共に、意識の様相として自己という一点に結合しているのだ。無論確信においては、我々はなお真に自己を超越して、客観的なるものに直接すると言われないとも考え得るだろう。しかし明白Evidenzの意識において、我々は真に自己自身を失って、客観的なるものに接すると言うことができる。真理を直観すると言うことができる。これにおいては、意志が自己自身を失うのだ。明白の感情は価値(超越的価値)を仮定しなければならないとも考えられるが、また明白の感情を離れて価値を考えることもできない。あるいは事実的知識においては、純理的知識においてのように、明白の感情に達することはできないとも言い得るだろう。しかし事実的知識の確信の基にも、いわゆる自己を超越した客観的或物がなければならない。メーン・ドゥ・ビランは受動的印象と能動的印象の間に根本的な区別を認めた。前者は習慣によって消されて行くのであるが、後者はこれ(習慣)によって明らかになっていくものである。我々は習慣によって、すなわち繰り返しによって、明らかになり行く意識内容を持っている。それはいわゆる知識というものでないかもしれないが、我々の確信はかかる意識内容に伴うのだ。例えば我々が技術を習う場合、それが習慣となるに従って、一種の確信を伴うのである。しかし芸術的作用の如きものに至っては、この感情が遂に一種の明白の感情に近づくと考えることができる。我々はこれにおいて客観的である或物に直接するのだ。知識において動かすべからざる真理に撞着する如く、自己自身を失って客観的である或物を見るのだ。前者(真理)の内容は非人格的であり、後者(芸術における客観的或物)の内容は人格的である。前者は思惟の窮する所において見られ、後者は意志の窮する所において見られるのだ。明白の感情と習慣による確信はその性質を異にするものと考えられ、習慣といえば直ちに何らの客観性なきものと考えられるが、確信の内容も一種の知的内容(という客観的内容)でなければならない。そして私はメーン・ドゥ・ビランと共に、習慣によって得られる確信の内容は能動的感覚の内容であると思う。客観的に何らの根拠なき確信は成立し得ない。習慣によって真ならざるものを真と考えると言うが、客観的に根拠なきものは、習慣によっても現れ様はない。働くもの(自ら変化するもの、能動的感覚)の内容は、ただ働くことによってのみ知ることができる。この場合働くことは知ることであり、知ることは働くことである。習慣というのは、かかる意味において、自己が自己の内容を明らかにする一種の知的作用とも考え得るだろう。記憶が記憶自身を維持し、自己自身を発展し行くと考え得るならば、この方向(発展の方向)において真に客観的なる或物に到達した時、すなわち主客合一の直観に到達した時、確信は変じて一種の明白の感情となる。芸術的直観に伴う明白の感情の如きものがそれである。あたかも思惟によって一つの真理に到達した時、明白の感情を得るのと同様だ。確信から明白の感情に達する時、いわゆる内的知覚という如きものは、消されてしまうのである。内的知覚が消されるというのは、客観的なるものが主観的なるものを包む(含む)ことである。自己が自己を超えることである。思惟が超個人的と考えられるが如く、この立場(明白の立場)においては、内的知覚を超越して内に無限なる内的知覚を成立せしめ得るのである。芸術的直観においては、空間や時間がその外にあるのではなく、その中に含まれる(包まれる)のだ。否強度というものすらもその中に含まれている。画においては色も強度を持っているのだ。内的知覚の上に立つ時、動かすことのできない事実的真理が立せられる。すなわち我々は事実的知識の確信を得るのだ。しかしかかる内的知覚の底には、働く自己の意識がなければならない。意志の自覚がなければならない。力の世界はこれ(働く自己)によって成立するのだ。自己が自己の働きを認め、働く自己が知る自己となる時、すなわち能動的自己の自覚の上に因果の範疇が成り立つのだ。意志の対象界である力の世界において、閉じられた一体系を成すものが自然の法則でなければならない。これにおいて、我々は座標から独立となるのだ。物理学者の座標とは内的知覚の立場において見られた非実在的な時間の体系だ。フィヒテの言った如く、我に対して非我が対立する。そしてその根底には絶対我がある。我と非我との対立は絶対我の上に成立するのだ。かくの如き絶対我の立場に立つ時、我々は客観即主観なる明白の世界を持つ。疑わんとする自己を包むが故に、疑うことのできない対象界を持つ。確信の世界においては、自己はなお意識我を離れないのだが、明白の世界においては我は全く意識我の外に立つ。純理の明白を見る場合と同様だ。意識我の立場からしては、かかる対象界は達することのできない無限に働く力の世界だ。意識我の立場においては、(思惟、理性により)無限に深く省みる内面的連続は成り立つが、この連続を超越することはできない。これを乗り越すのは能動的主観によらねばならない。かかる立場にまで高められた内的知覚によって力の場という如きものが見られ、すべて線は力線となるのである。無論物理的世界は十全なる明白の世界ではない。しかしメーン・ドゥ・ビランが原因概念の基とした意志の努力l'effort volontaireというものは意識界における能動我の射影でなければならない。習慣というのは認識対象界に映された能動我の内容だ。習慣によって明らかになり行くものは、能動我の立場においての客観的内容だ。自然の法則というのは超越的自己の習慣とも考え得るだろう。自然科学者は自己の主観的習慣を否定することによって、客観的である自然の習慣を明らかにするのである。すべて習慣によって現れ来るものは、一つの客観的世界である。意識我はその中に没せられるのだ。超個人的である能動我の習慣という立場において見る時いわゆる自然の世界が現れるのである。ただ知的我としては、我々は自然そのものの習慣を内から知ることはできない。これ故に自然科学的知識において十全なる明白を有しないと考えるのである。能動的自己の立場において十全なる明白に達するには主観的作用と客観的作用が合一しなければならない。
八、意志自覚の形式として種々の因果律、精神的因果と物理的因果
能動我が真に自己自身に返り、自己に十全なる対象界を見るのは、直ちに作用そのものを見る主客合一の立場においてでなければならない。すなわち芸術的直観の如き立場においてでなければならない。思惟の立場からは何処までも能動我そのものの内容を対象化することはできない。ただすべての物を動くものとして見るまでだ。そして思惟我の立場からは、自己の奥底は省みることができないから、対象界において、まず個々の動くものを見る。遠隔作用の如き考えが起こって来る。しかし能動的自己が自己自身の内に省みる時、自己は働くもの(統一者)なき働き(作用)であって、作用の統一である。かくの如き立場から対象界を力の場として見る、近接作用の如き考えが起こって来る。前の場合においては、感覚内容を統一するものは静的自己であるが、後の場合においては動的自己だ。力と力を結合するものは、時間空間ではなく、意志主観だ。力は意志の表現として空間を包むのみならず、また時間をも含んだものでなければならない。能動我は時の内に働くのではなく、時を内に含んでいるのである。空間時間を不可分離となす相対性原理の物理学に至って、真に能動的自己の対象界を見ることができるのだ。時そのものを内に含むものにおいて、我々は最もよく能動的自己の影像を見ることができるのである。私はかかる考えから精神現象と物理現象の関係を見ることができると思う。我々の精神現象というのも、時間的に現れると共に、時を内に含んでいる。意味即実在と考えられるのはこれによるのだ。両種の現象界は、共に能動的自己の対象界として成立し、その中において区別される二種の型に過ぎない。二種の現象界の区別は時の内容によると思う。時の座標が無内容にして形式的である時、物理的世界が成り立つ。私が意志否定の立場において自然界が成立するというのもこの意味である。物理現象は能動的自己の対象界における最短線とも考え得るのであろう。これに反し時が積極的内容を有する時、精神現象が成り立つのだ。意志の積極的内容とは何を意味するか。我々は知識において主観が客観に従うと考えるが、意志において主観が客観を従えると考える。しかしいわゆる客観界なるものも認識対象界として、一種の主観的作用の構成に依ると考え得るならば、意志は作用の作用として、認識作用を内に含むのである。意志の内容は認識作用の内に還元することはできない。かくの如き意味における意志の独自の内容、すなわち作用の作用の内容が意志の積極的内容を成すのだ。時とは意志が自己自身の内に映す意志の影像に過ぎない。意志が自己自身の内に無限に深く省みる時、内的知覚の形式として、「時」の範疇が成り立ち、意志自身が自覚する時、「力」の範疇が成り立つ。しかし無限に内に省みるということは逆に見れば無限に働くものを意味する。独立にして自己自身の内から働くものを意味する。意志が能動的自己に還った時、内的知覚の立場から内容ある時を見る。それがいわゆる精神現象である。精神現象も物質現象界も共に意志のアプリオリにおいて成り立つ。意志が自己の内に自己を見ることによって成り立つ。共に意志の影像だ。ただ、時の軸と称するものの内容如何によって区別されるのである。時の軸に現れ来るものを単に量的と考える時、すなわち時自身を単に形式的と考える時、物理的世界が成立し、これを質的と考える時、すなわち時自身の内容を見る時、精神現象界が成立するのだ。しかし二者共に意志の影像として、精神現象界といえども、それが量化され得るかぎり、物理的世界を含んでいる。また物理的世界といっても、完全に性質的でないのではない。すべて局所時である。右の如く物理的世界と精神現象界が、一つの型によって考え得るならば、近代科学の基礎をなした自然科学的因果も、プラトーの哲学において見る如き理念的因果の中に収めて考え得るだろう。理念的因果というのは理念が自己によって発展することである。理念が自己自身を発展するということは、理念が自己自身を見ることだ。精神的なるもの(理念)が働く(発展する)ということは、自己自身を見るということでなければならない。斯く理念が自己自身を見る過程が時の進行だ。プロチヌスの言った如く時は永遠なるものの影と言うべきだろう。理念と言えば、単に論理的に考えられるから、時に無関係と思われるのであるが、一即多にして生産的である理念は働くものでなければならない。作用を自己の内に含んだものでなければならない。そして時とは働くものの形式である。芸術的理念が働きを蔵し、時を含む如く、真の理念は創造的意志でなければならない。物理的世界を構成する理念も、この種のものでなければならない。物理的世界の所与となる世界は、理念が直ちに理念を見る直観の世界でなければならない。意志が意志自身を見る世界でなければならない。機械的因果、合目的的因果から精神的因果に至るまで、すべて因果の範疇は意志が意志を見る形式として解することができる。
九、意志の根柢に於ける無限の可能性、自由の因果、思惟に於ける時の潜在性
力の世界は意志の立場によって成立するが、意志そのものは力の世界において自己を没するのではない。意志は意志自身の根柢において、力の世界を離れ、価値の体系にも背き得る自由を持っている。我々の自由意志の体験はこれを証するのである。肯定判断の裏面には否定判断を含んでいる。或物が或物であるということは、その物でないものではないということを意味している。そしてかくの如き判断が成り立つには、その根底に両者(肯定と否定)を含むものがなければならない。ある色を一つの色として見るには、これを他の色から区別するということがなければならない。そしてかかる区別が成立するには、その根底に、また孰れの色でもなく、しかもこの二者を成立せしめるものがなければならない。無限なる作用の統一として、作用がこれによって成立する意志は、働くものと働かざるものとの統一でなければならない。動的静、静的動でなければならない。あるいは無限なる作用の統一者は単に働くもの(自ら変化するもの)と考え得ると言うでもあろう。しかし肯定と否定の作用そのものの統一、見るものと見ざるものとの統一を考える時、肯定すると共に肯定せざるもの、見ると共に見ざるもの(例えば、視覚作用)を考えねばならない様に、自己の対象として働くものを見る意志は、働くと共に働かざるもの(作用の作用)でなければならない。一方から見れば、知るということも一種の働きであって、知的作用の基にも意志があると考え得ると共に、主知主義の人々の考えるように、意志も反省によって知的対象となると考えることもできる。我々は純なる知的立場において、実在界を離れ得ると考えることもできる。すべて我々の心眼に現れ来るものの底に、静かに動かざる知的立場があると言うことができる。しかし我々が手を動かした時、手という物体が動いたのではなく、私が動かしたのであるという意識は、何処から起こって来るか。単に知的なる自己の立場から見れば、自分の意志によって手が動いたということも、外物が動いたということも、同様に客観的現象でなければならない。同様の客観的現象ならば、その一が我に対して特殊の関係を持つことはできない。我々がある一つの客観的対象を自己の意志実現として見るには、その現象が自己と特殊の関係に立っていなければならない。かくの如き自己と自己の対象との特殊の関係は、単なる知的立場(静的な立場)において成り立つことはできない。我々が意志の現象を見るには、働く自己(自ら変化する動的な自己)の自覚から出立せねばならない。意志も感情も内的知覚という如き立場から対象化することができると考えられるのは、その場合、内的知覚と考えられるものが、働く自己の自覚なるが故だ。この立場(内的知覚、働く自己の自覚の立場)において、現実と可能が結びついているのだ。いわゆる内的知覚によって実在が与えられると共に、その背後にはいつでも無限に可能なるものが含まれている。我々はこの立場において、実在界を離れて無限に可能なるものを考えることができるのみならず、実在界を否定することもできるのである。実在界を離れ得るのみならず、深くこの立場の根柢に入ることによって、これ(可能なるもの)を内に構成し、これを内に映すということもできる。我々は無限に可能的世界を構成し得るのみならず、構成するとせざるとにおいても自由である。かくの如き自由の底に、我が我を離れ、意志が意志自身を失い、可能即現実として現れるものが直観の世界だ。真に与えられるものは、動静一如の立場において与えられる直観の世界でなければならない。我々が経験界を組織するのもこれから出立するのだ。その根底には何処までも、主客の対立、形式と内容の対立を内に含んだものがある。これ故に我々はまず内に無限に自由なる自己を見、外に独立にして、それ自身によって動くものを見る。時を超え、時を内に包む意志自由の立場において、時は種々に裁断されて、種々の実在を見るのだ。しかし動静一如の自己の立場から見れば、いずれも自己の中に映された自己の影に過ぎない。理念が理念自身を見るのだ。自由の因果も、経験的因果も、皆その根本的形式を同じくするのだ。前に言った如く、空虚なる時によって、物理的世界を見、内容ある時によって、精神現象の世界を見る。時の内容の充たされ行くに従って、この両界の間に種々なる合目的的世界を見るのだ。しかし理念が真に理念自身に返り、理念自身が自覚した時、いわゆる実在的なるものは可能的なるものの中に包まれ、時は時自身の意義を失って直観の世界が現れる。時は実在を見る形式ではなく、働く創造の形式となる。これにおいては、(芸術においてのように)種々なる空想の世界も客観的意義を有するのである。自由我の立場においては、我々は種々の世界を同列的に見るということができる。物理的世界といえども可能的世界の一に過ぎない。我は自由に種々の世界に出入すると考えることができる。すべての世界を諦視(ていし。じっと見つめること。 見きわめること)すると考えられる内的知覚とは、かくの如き意味において、我の自由の自覚を意味するのだ。知的立場は全く時を離れると考えられるが、単なる思惟といえども、それが客観的知識の根柢となるかぎり一つの直観であると言うことができる。思惟がすべての知識の根柢となるには、無限なる作用の発展を含んでいなければならない。時を潜在的に含んでいなければならない。知識の内容はこれから与えられるのだ。当為の意識は時の種子である。物理的世界は、時の内容を形式的となることによって成立すると考え得るならば、思惟の世界は時を潜在的と考えることによって成立すると言い得るだろう。
内部知覚について
【「一」は先ずマイノングの内部知覚に関する考えを挙げて問題を提出したまでである。内部知覚は現在の一点において知るものと知られるものと合一することによって、外部知覚と異なると考えられるが故に、「二」において現在について論じた。「三」以下アリストテレスのヒポケーメノンの考えによって論理的主語、形而上学的本体、認識主観との結合を企図した。内部知覚と外部知覚とを同一の型によって考えようと試みたのである。】
一
マイノングの「我々の知識の経験的基礎について」と題する論文は内省的心理学の立場以上に出ていないが、内部知覚に関する精細にして明晰なる分析と言うことができる。私はこれに基づいてこの論文において論じられてある様なかかる内部知覚innere Wahrnehmungが如何にして考え得るかを論じて見ようと思う。
マイノングに従えば、真の経験すなわち直接経験と知覚は同一である。知覚とは単に表象ではなくて、判断である。知覚の対象は性質ではなく、物であり、すべての知覚は存在判断である。且つ、知覚の知覚たる所以は、その直接に明白であるという点にあるのだ。ただ、知覚の明白にはいわゆる必然性は伴わない。しかし如何なる場合において我々は実在を知覚すると言い得るだろうか。外部知覚においては、かかる意味(実在を知覚するという意味)において真の知覚を持つとは言い難い。ただ、内部知覚において、我々はこの種の知覚を持つと考えることができる。すなわち内部知覚においては、知る者と知られる物が合一するのだ。無論、内部知覚においても、知覚する者と知覚される物との厳密なる合一は望まれない。両者の関係は直接の継続というに過ぎない。内部知覚の明白は記憶のそれの如く単に推量的明証Vermutungsevidenzに過ぎない。ただ現在の極限Gegenwartigkeitsgrenzeにおいて、確実の極限Gewissheitsgrenzeに達するまでである。現在の極限を遠ざかるに従って(内部知覚の内容は)内向的体験の性質を失って、外向的である想像に近づく。従って内向的体験の表象は現れなくなるのだ。内部知覚において右の如くにして知覚の目的を達するを得るとすれば、外部知覚においても、完全にかかる知覚の性質を欠くとは言われない。感官によって我々に外界の実在が教えられるのだ。無論、確実なる明白に達することはできないが、記憶の場合においての如く、推量的明証を持つことはできる。内部知覚と外部知覚の相異は前者においては推量的確実性がその極限に達することが可能であるが、後者においてはそれが不可能である。内部知覚においては、実在をその性質によっても知り得るに反し、外部知覚においては物の存在を知り得るも、その性質については、単に現象的として半知覚を有するまでである。本体的性質を知ることはできない。単にideale Superiora(Superioreの誤記?優れた理想?)によって迂回してこれを知り得るのみである。
マイノングは知覚は単に表象ではなく、判断である。積極的の対象的Objektivを持った存在判断であると言っている。斯く考えることによって、知覚が物理的世界の基礎となり得るのだが、一つの根本的な客観界を与える知覚作用は、単に表象と判断の結合であってはならない。この両者(表象と判断)を含む根本的作用がなければならない。私はかかる作用の意識を我々の行為の意識、意志の自覚に求めたいと思う。表象と判断の統一、理想と現実の結合、そこに我々の能動的意志の意識があるのだ。マイノングは明白ということを知覚に欠くことのできない性質と考えているが、私は明白というのは行為の自覚に伴う感情であると考える。「私は考える、故に私がある」cogito ergo sumが自明の真理であるというのは、一種の知即行、行即知である自覚の意識であるが故だ。芸術の世界において、我々は一種の明白の感を有するのも、作ること(行)が見ること(知)であるが故と考えることができる。
マイノングは知る者と知られる物と一なるが故に、内部知覚において我々は知覚の理想に近づき得ると言うが、いかにして斯く言い得るのであるか。氏の言う所によれば、ある一つの対象の存在を認識するには、その内容によって対象に関係する一つの表象を要する。その外、この表象並びに内容と結合することによって、同じく対象に関係しこれを理解する判断がなければならない。内部知覚において知るものと知られるものと一となるというのは、対象が対象たる性質を失わないで、内容の位置に来ることであるという。内部知覚の内省的記述としてはそれまでであろうが、我々の問題はかかる内省的事実の説明に始まらねばならない。対象の性質を失うことなく、対象が内容の位置に来るということは、内容が即対象となるということでなければならない。内容が即対象となるというには、内容が内在的であると共に超越的なる意味を持たねばならない。いかにしてかかることが可能であるか。
二
物を知るということはいかなることを意味するか。普通には、我と物と対立し、何らかの意味において我の内に物を写すことによって、物を知ると考えられる。真理とは知識の内容とその対象の一致と考えられている。内部知覚が最も確実なる知識と考えられるのもこれによるのだ。外部知覚においては、我は物と直接することはできないが、内部知覚においては、我は我の中に現れ来るものを知るのである。知るものと知られるものが一致するのだ。しかし内部知覚においても、果たして知るものと知られるものが一致すると考え得るだろうか。我々の内に現れ来るものは、「時」の形式において現れ来るのだ。我が我の中に現れ来るものを知ろうとする時、現れたものは既に過去に属するのである。我は何時でも現在を捉えることはできない。現在とは我に対して理想的なる一点に過ぎない。一つの極限点に過ぎない。マイノングも言っている如く、ただ現在線上の直接継続において結合するのみである。内部知覚といえども、単に推量的明証を持っているまでであって、ただ現在の極限において確実の極限に達すると考え得るまでである。しかしこれにおいて我々は一つの問題に撞着せねばならない。事実の知識は現在の意識によって確知されるのである。現実の私が知るという事実の上に事実の知識の客観性が立せられるのだ。もし現在が爾く(そのように)達することのできない極限であるならば、いかにしてこれによって過去の事実の知識が立せられるのだろうか。記憶によると言えばそれまでであるが、想起されるものは過去に属するが、記憶表象は現在意識に属するのだ。(現在という)同一には達することはできないが、直接の継続によると考え得るかもしれないが、何らかの意味において同一の意識がなければ、直接の継続の意識というものも成立し得ないではないか。我々は対象の意識と作用の意識を区別することによって、右の如き矛盾を避けることができると考えることができる。現在の我は対象として知ることはできないが、働く我(作用)として我は直ちに我(作用)を知ることができるのである。現在というのは時の連続における一つの極限点だ。極限点(現在)の認識は立場の超越(対象から作用という立場の超越)によらねばならない。作用が作用自身を知ることによって可能となるのだ。プラトーが我々は真に同一なるものを知ったことはないが、同一ならざるものを知る時、既に理念として同一を知っていなければならないと考えた如く、現在を達することのできない極限という時、既に現在を知っていなければならない。これによって現在と現在ならざるものを区別するのだ。達することのできない現在点というものと、過現未における時の連続ということは離すことはできない。達することのできない現在と、直接の継続によって知り得た過去というものとの間には、いわゆる反省することのできない直接経験と、判断によって認識された知識との関係に等しきものがあるだろう。カント学派の人々は体験は認識以前なる故に知ることができないと言う。しかし我々が「この花が赤い」という時、これに客観性を与えるものは何であるか。不可知的なる体験が如何にして知識に確実性を与え得るか。赤い花を青いと言った時、我々はこの判断を誤りと考えざるを得ない。しかも斯く考えざるを得ざらしむるものは、判断の形式ではなく直接経験の内容に外ならないではないか。
私はこれにおいて認識主観(対象化する自己)と心理的自己(対象化された自己)の区別及び関係について考えてみなければならない。心理的自己というのは一次元的なる「時」の形式に生滅する現象の統一を指すに過ぎない。物と同じく「時」の範疇によって考えられた認識対象という外はない。かかる自己が知るというのはいかなることを意味するか。心理学的に考えれば、自己とは「時」において移り行く現象の流に伴う比較的不変なる一種の意識内容であって、ジェームスのいわゆる烙印の如きものと見る外はない。しかし伴うという語は、すべての物体は重いという様に共通の性質を持つと考えることもでき、また同様の意識内容が(時の流れに)加わっているという意味に解することもできる。心理学者の考えは後者の意味であると思う。ジェームスはこれ(自己の意識)を我々の反省に伴う筋覚の如きものと考え、ヴントも思惟や意志の如き統覚作用に伴う一種の感情と考えている。斯く考えれば、自己の意識というのは、他の意識と並んだ意識内容であって、我が他を知るのではない。二つの意識現象が時間上に相伴うまでである。自己意識の伴わない意識もあると考えることができる。無論かかる場合、間接に推理によって自己の意識に属したと知り得るだろうが、直接に自己意識の連続を認めることはできない。こういう場合において自己というのは、あたかも我々が現象の背後に物を考える如く、考えられた自己(対象化された自己)でなければならない。その間に働くもの(統一者)と働き(作用)という如き関係を考え得るだろうが、知るということは成り立たない。右の如き考え方に反して、直接に現れることが直ちに知ることであるとするならば、我が知るなどと言うことはない。ジェームスの如く意識は存在するかと問わねばならないだろう。意識の統一というものもできなくなる。しかし翻って考えてみれば、我々が斯く論じる時、我が考えているのでなければならない。時間上に連続する我を考えるものは我自身でなければならない。直接の連絡が断たれ、忘れられた過去の意識をも、推理によってこれを一つの我に結合するものも我自身でなければならない。かかる自己は対象化することはできない(対象化する自己を対象化することはできない)。(かかる自己は)知る我であって知られる我ではない。カントがDas“Ich denke ”muss alle meine Vorstellungen begleiten konnen(「私はこう思う」は、私のすべてのアイデアに伴うものでなければならない?)といった我とは、かくの如き我でなければならない。 知るということも一つの働きには相違ないが、知るもの(対象化する自己)は知られるもの(対象化された自己)の中に働くのではなく、これを超越したものでなければならない。ならば完全に知識の対象界を超越してこれを構成する純粋我という如きものが、真の我というべきだろうか。完全に個人我を超越して何人も我でもない我は、真の我ということはできない。かくの如き主観は主観ではなく、価値体系の統一ともいうべきものだろう。超越我というものも、経験我というものも知る我ではない。真に知る我というものは知識対象界を超越すると共に、又その中(知識対象界の中)において働くものでなければならない。「物が働く」(物が自ら変化する)ということが既に一つの思惟の範疇であるとするならば、自己が自己を自己の範疇に当てはめることが知るということである。これには多くの矛盾を含んでいると考えられるでもあろう。しかしかかる矛盾なくして我々の自己の意識は成立し得ない。自覚においては、何処までも現実的なるものと、何処までも超越的なるものが一つである。一般的なるものと特殊的なるものが一つである。自己とはこの結合点を指すのである。
「物」を知るには「時」の範疇によらねばならない。しかし真の自己は時の中にあるのではない。時は自己を知る自己(自覚)の形式である。達することのできない極限と考えられるもの(現在)は、対象化することのできない自己の深い奥底に外ならない。背理のようではあるが、自己は現在において自己自身と合一すると共に、自己を超越しているのだ。果てなき過去と未来は、この現在の自己の投げたる陰影に過ぎない。我々は時を一次元的である直線の如きものに考え、現在を一点と考える。斯く考える時、この点は捉え難きものではない。一直線上に一点を定めることはできる。しかしこの一点が幾何学的点である時、それは延長を有することはできない。それだけでなく、それが連続の一点として、我々は他の一点から無限にこれに近づくことはできるが、達することはできない極限点でなければならない。普通はこれを紙上に見る一点の如く考える故に、ジェームスの如く現在は馬鞍の如く延長を有するとも考えられるのだ。しかしもし現在がいくらかの延長を有すると考えるならば、その間は時は止まっていると考えねばならない。時はいずれの点においても連続的であって、いずれの点もある一定の方向に向かって動いているものでなければならない。斯くして現在は捉え難き一点となるのだ。しかし時においてすべてのものが動き行くと共に、時自身は留まると考えなければならない。何物が留まると考えられるのであるか。時は一定の方向を持っている。時においては、すべての物が唯一の方向に向かって動いていく。この方向は不変でなければならない。方向そのものは移り行く点に対して永遠の現在だ。しかし一つの線においては、方向と一々の点は離すことのできない関係を持っている。コーエンの言う如く曲線における一々の点は生産的だ。一々の点の背後には(生産点として)全体(ここでは曲線)の意味が含まれている。それだけでなく、単に曲線の一点という如きものでは、未だ現在というものはない。現在というのは択ばれた一点でなければならない。動き行く力の一点という如きものにおいて、初めて現在というべきものを考えることができる。しかしいずれの物が動くのであるか。我々は絶対に動くものを定めることはできない。真に動くものを定めるものは、ただ全体の統一者でなければならない。我々はこの統一者の立場に立つことはできない。ただ、自己の意識界においてのみ、我々はかかる統一者の立場に立つのだ。我々は通常物が動くと考える時自己の現在の立場において一つの世界を考え、その範囲において動くものを見ているのである。しかし単に統一者の立場において全体を見ると言うだけでは、真に動くものを知ることはできない。真に時において動くものは主観自身の中に求めねばならない。何処までも対象化することのできない主観が、我々に動くものの概念を与えるのだ。それで単に一定の方向を持ったものが、動くものではない。静止する線でも方向を持っている。動くものは自ら方向を定めるものでなければならない。方向を作って行くものでなければならない。現在というのは、一定の方向を持った線の一点ではない。無限なる方向の中の択ばれた方向の一点でなければならない。真の時というのは、対象化された一線ではなく、対象化することのできない主観の創造し行く跡形でなければならない。一々の点が絶対の意義を持っていなければならない。真の現在とは、かかる創造の中心点である。現在において種々なる「時」の世界が創造され、我々は現在から種々の世界に出入することができる。留まる時自身は単なる形式ではなく、創造作用でなければならない。
創造的自己の立場から見れば、すべてが自己に対して現前している。この意味においてアウグスチヌスの言った如く、過去、現在、未来の三つの時があるのでなく、ただ現在あるのみだ。過去の現在、現在の現在、未来の現在というものがあると言い得るだろう。しかし経験的自己の立場から言えば、自己は時の中に流れ行く者である。かかる自己には、自己の意識範囲を超えて、過去も未来も直接に知ることはできないばかりでなく、現在といっても、それが厳密に考えられれば考えられるほど、近づき難きものとならねばならない。自己が現在を知ることができないというのは、何を意味するか。自己を時間上有限なる統一とすれば、その範囲外を知ることはできない。この意味においては、過去も未来も直接に知ることはできない。ただ現在を知り得るのみだ。これに反し、現在が瞬時も止まることなく流れ行く一点とすれば、補足できないものは現在であって、我々はこれを中心としてその前後を知るということとなる。斯く考えれば、そこに解き難い矛盾が含まれているようであるが、現在が捉え難く達することのできない極限と考えられる時、時の意味が変じられていると考えることができる。心理的時の意味から物理的時の意味に変わっていくのだ。対象界が異なっていくのである。斯く実在界を構成する「時」の内容が変じられながら、自己の内容が前の如く単に感覚的経験の中心として考えられる時、現在は自己によって達すべからざるものと考えざるを得ない。前の自己に対しては(物理的時の対象界は)高次的対象界となるのだ。自己が自己を省みることはできないと言うのと同様だ。我々はこの場合、時は流れ行く無限の流動なるが故に捉え難いと言うが、かかる連続(時)は感覚的対象ではなく、思惟の対象でなければならない。しかし思惟の対象界というのは、自己に対して外的なるものではない。思惟我によって構成されたものだ。かかる自己(思惟我)に対しては、心理的時はその意義を失い、過去も未来も共に現在となる。否純なる思惟の対象に至っては、時というものはない。我々が思惟の対象界を思惟するというに何の矛盾もない。ただ自己の立場を変じて思惟の世界に入るまでである。矛盾は思惟すべきもの(物理時)を見ようとする所に潜んでいる。しかもこの解き難き矛盾がすなわち自己の存在である。感覚の世界からしては、思惟の世界は上り行くことのできない世界であり、思惟の世界からしては、感覚の世界は下ることのできない世界である。しかもこの両界は互いに無関係であることはできない。我によって結合されている。この両界の間に何らの関係もないと言えば、我の自覚がないと言うこととならねばならない。仮にも我の自覚が許される以上、この両界が我において結合していなければならない。私が物に触れ、物を見、物を考える。かくの如き作用をなす私は唯一の私である。形や色(感覚)や思想(思惟)が物が鏡に映じる如く我に何らの痕跡を残さないならば、我というものもなく、時というものもない。しかし既に映すと考えられる時、映じるものがなければならない。鏡がなければならない。鏡は鏡自身を維持し、すべての影像は鏡によって統一されるのだ。いかにして我が我自身を維持し、物の影像が我において互いに関係するだろうか。赤の表象が青の表象に変じると意識されるとすれば、その間に変じる点がなければならない。この間は赤でもなければ青でもない。赤が終わって未だ終わりきらない、青が始まって未だ始まらない点でなければならない。そういう点は考えられた点であって、見られるものでないと言い得るだろう。しかしその点は我々が現実に見ている赤とか青とかの点に比して、非現実的とは言われない。我々が赤から青を見て行く時、何処かにそういう点を通らなければならない。否実は何の点を通った場合にも同様のことが言われなければならない。もしかかる点を非現実的となすならば、かかる点を自己の中に求めねばならない。私が赤の点から青の点に移る時、何処か私の心の中の一点を通るのであろうか。私の心において赤の表象と青の表象が記憶によって結合されると考える。表象の内容として客観的に結合することができないとすれば、作用として主観的に互いに結合すると考えねばならない。二つの作用(赤の作用と青の作用)は記憶の深い底において互いに重なり合っていると考えねばならない。しかし連続の問題を内に移したとしても、それによって矛盾を説き得たということはできない。自己のある一点から他の一点への推移はいかにして可能なるのであるか。その間には二つの意識内容が消えてしかも内面的に結合している零点を通らねばならない。この点は客観的には非実在的と考え得るとしても、主観的には実在的でなければならない。意識における実在点でなければならない。更に意識的にも非実在的とするならば、我々はもはや何処にも統一的実在を見ることはできない。前の二つの点が意識的に実在的であるとするならば、この結合点はそれにもまして実在的でなければならない。その孰れか一つから見れば無と考えられるかもしれないが、高次的には両方の内容を含んだものと考えざるを得ない。我々が赤の空間から青の空間に移り行く時、両方の空間が実在的である以上、実在的なる空間を通らなければならない。空間は連続的でなければならない。何処かある一点または一線において、赤が終わり青が始まると考えられねばならない。視覚的空間にして色のない空間というものはない。もしその中間にいくらかの空間があるとすれば、その空間はまた何らかの色を持っていなければならない。そこにまた前と同様の問題(自己のある一点から他の一点への推移はいかにして可能であるかという問題)が起こって来る。これ故に我々が色の推移を見る時、単に色を見るという意味において見ることのできないものを見ているのだ。我々が物を見るという場合にも、かくの如き意味がなければならない。物は種々なる性質の統一である。我々はこの統一を見るのだ。物の知覚が明白と考えられるのもこの統一を見ると考えるによるのだ。物の統一とは考えられたものだと言われるが、ならばその統一は主観的となり、主観的統一は前に言った様に、また客観的統一を許さねばならないだろう。一つの画には何処かに中心がなければならない。中心は意味の集まる所である。しかしこの意味の統一は考えられた統一ではなく、見られた統一だ。切れ切れの感覚をのみ実在的と考え、統一を抽象的概念と言うが、統一は自己が心において見られるものでなければならない。そしてかかる統一が動かすべからざるものであればあるほど、客観的である。(絵画のように)思惟を離れれば離れるほど、外において見られるのだ。それで、我々が客観的に見ている一つの統一点というのは、他の部分とは異なった意味を持たねばならない。次位を異にしている(高次的である)ということができる。(生産点の如く)部分でありながら全体の意味を持っているのだ。物がそれ自身によって統一されていること、すなわち内面的統一を持っているということは、部分が全体の意味を持っているということである。そして真の客観的統一はかくの如き統一によって成るものでなければならない。すべての体験は志向的であると言われる如く、見るということであっても、何処かに中心がなければならない。その中心が視覚界の統一点となるのだ。無論構成された物の統一点と、主観的なる注意の焦点は全く関係のないものと考え得るだろう。我々は客観的対象に関係なく、注意を種々の方向に向けることができる。二つの色の界を注視するも、一つの色を注視するも、注意作用と対象の関係において何らの異なる所もない。しかしかかる考えは具体的なる意識現象を考えないで、注意作用を抽象的に考えるによるのだろう。具体的意識において内容と作用は離れたものではない。意識の統一点、すなわち注意の焦点であって、別に注意作用というものがあるのではない。意識は何らかの意味を持ったものである。内容自身が識別力を持っているのが意識である。内容を離れた意識というのは、あたかも物なき空間というのと一般だ。空間の一点が種々なる感覚的性質を有する時、我々はこれをリーマン(?)の表面の如く、そこに種々の空間が重なり合っていると考えることができる。一つの点を種々なる函数的関係において見ることができる。ある一つの点が色を有し、温度を有し、抵抗性を有する時、この結合が必然的であるかぎり、そこに客観的に統一するものがなければならない。すなわちいわゆる物がなければならない。感覚的性質と空間は抽象的には別々に考えることもできるが、実在的には両者を分かつことはできない。意識現象においては、感覚的性質と時がかくの如き関係を有するのみならず、内容そのものが働くと考えられねばならない。空間の一点において種々の感覚的性質が結合していると見るには、我々はこの点を界として一つの感覚的性質から、他の感覚的性質に移り行くことができねばならない。この一点が種々なる連続の結合点となるのだ。かくの如き意味において我々の見ている現在は無限に深いものと考えることができる。我々は対象界の統一点とこれを見る主観、対象そのものの統一と自己の意識統一は、異なったものと考えているが、前にも言った如く意識内において一つの意識から他の意識に移る界に、客観的統一がなければならない。高次的統一がなければならない。外に客観的統一と見るものも、具体的なる主観的統一であり、主観的統一の基にも、客観的統一がある。かくの如き統一の極致において、客観的統一の中に主観的統一が含まれた時、主客合一して一つの具体的統一となる。かかる統一点がすなわち現在だ。物の世界も、心の世界も、この現在を中心として推移し、この現在において統一されている。現在というのはすべての経験の最も具体的なる統一点だ。全経験の総合点である。我々は時の流れに従って現在を離れて行くのではない。ただ現在の奥深く進み行くのである。
我々が赤の色から青の色に見て行く時、その推移の点において、両者の統一を見る如く我々は現在において無限なる経験内容の統一点を見、これによって唯一の実在界を見ると考えるのである。現在が無限に動くものと考えられるのは、無限なる内容の統一点なるが故だ。我々が眼を以て色の統一点を凝視し得る如く、我々は行為我によって現在を凝視し得るのだ。行為的主観は時において推移するものではない。行為的主観において時が成立するのだ。行為的主観は永遠の現在である。現在とは行為我の凝視の中心として体験の最も明らかな点でなければならない。すべての具体的知識の中心となるのである。この意味においては、ジェームスの様に延長を有する馬鞍の如きものと考えることもできる。現在は達することのできない極限と考えられるが、現在は直接に与えられた意識の中心として、最も明らかなるものでなければならない。デデキントが極限の存在を直線の直覚から出立せしめた如く、極限概念の成立には与えられた直覚がなければならない。知識が現在の極限に近づくに従って明白となると考えられるのは、与えられた知識の理想が自己自身を完成し行くということに外ならない。志向的体験が自己自身を充実し行くのだ。理性的真理においては、(理想は)永遠に達することのできない、無限に遠いものと考えられるが、事実的真理においては、その理想は現在にある。いつでも現在を中心として一つの実在界というものが考えられるのだ。我々が現在を中心としてこれ(実在界)を言い表そうと思えば、現在は無限の内容を持っていると考えざるを得ない。何処までもこれを言い尽すことはできない。しかしこれがために、現在が明白を欠くとは考えられない。我々はこの物は赤いという時、その赤の直覚は明白でなければならない。斯く言い表された時、初めて明白となるのではない。ただ思惟の範疇によって構成された知識によって、具体的なるものの知識に到達することができないのである。私は今現前している一つの物を見るとする。物は順を追って我々に種々の象面において現れて来るが、我々は何処までも物の性質を尽くすことはできない。私の知覚作用は一つの物を中心として、何処までも移っていくが、中心そのものに近づくことはできない。かかる場合、我々の知覚作用は一つの瞬間から次の瞬間へ変わっていくが、物は何時でも現前していると考えることができる。現在というには、何らかの意味においてかかる客観的統一がなければならない。客観的に動かないものがなければならない。一つの点を志向し、一つの点の周囲を作用が廻る。その中心が現在である。一歩一歩の意識作用は明らかである。「この物は赤い」とか、「この物は重い」とかいう判断によって言い表される。この作用は無限の層を成すだろうが、かかる判断の主語となるものの直覚は何時でも明白である。主語が単純であればあるほど、その判断は現在の内容を尽くせるものの如く考えられ、現在は達することのできない極限ではなく、我々はかえって現在から出立するという考えに近づく。現在が現在自身の内容を表現すると考えられるのだ。主語なき文章という如き場合、我々は現在そのものを直ちに言い表すと考えるのである。その間に時というものはない。主語となるものは未だ現在というべきものでもなく、此(この)というべきものでもない。未だ客観化されない内容である。判断の主語と認識主観が一つである。我々がこの物とかあの時とかを言い表す時、その内容が無限となると共に達することのできない極限となる。しかし思惟主観は何時でも現在である。時を経るに従って記憶が不明となると考えられるが、我々が過去を想起する時、その対象界が(思惟の対象界に)変じられるのだ。この立場(思惟我の立場)においては過去も過ぎ去ったのではない。ただ、一層高次的なる統一の対象(現在)はこれに対して達することのできない極限となるのである。統一の内容が単純であればあるほど、現在は達し得べきものと考えられ、その内容が無限に豊富なればなるほど、現在は達し得べからざるものと考えられる。達すべからざる現在とは、過去と未来の達すべからざることを意味する。ロッツェの言う如く物はアリストートルのいわゆるτί ἦν εἶναι(what was to be. 何であったのか?)であると共に ἦν εδται εἶναι(what will be. 何になるのか?)でなければならない。単一なる内容ならば、前の瞬間においても、後の瞬間においても変じ様はない。過、現、未の区別すべき様もない。我々の意識内容が抽象的に限定された時、現在は延長を有する馬鞍の如きものとも考えられるのだろう。これに反し働く自己の立場においては、τί ἔδτι(what is.何であるか?)は無限の深底にして達し得べからざるものでなければならない。
三
知覚的判断の主語となるものは、本来いわゆる論理的主語ではなくして、実在であると言わねばならない【Bosanquet, The Essentials of Logic】。そして我々が物を知るのは、現在においてそれを知るのである。外部知覚においては内部知覚においての様に、この極限に接近することはできないとしても、外部知覚に確実性を与えるものも、この現在意識でなければならない。判断の主語と考えられるものと、知る自己はいかなる関係において立つのであろうか。論理的主語、※形而上学的本体、認識主観の間にはいかなる関係があるだろうか。
※ 引用 本体(実体)とは
我々は種々なる意味において有というものを考え得るだろう。アリストートルは形而上学第七扁第二章においてその主なるものとしてessence(本質), universal(普遍), genus(類), substrarum(基体)との四つの物を数えているが、私はその中実在の真の概念と考えるべきものは基体substratumであろうと思う。基体とはいかなるものであるか。アリストートルはこれを定義してNow the substratum is that of which the others are predicated, while it is itself not predicated of anything else(基体とは含まれる他のすべてのものが述語化されるものであるが、それ自身においては他の何ものも述語とならないものである?)と言う。それではいかなるものが、いつも判断の主語となって、述語とはならないものだろうか。それは何処までも限定されたもの、すなわち一あって二なき個物でなければならないだろう。何らかの意味において一般的なるものは、他の述語となすことができる。唯一なる個物はただ自同的判断の形において自己自身の述語となり得るだけである。何年何月何日ルビコンを渡った人はシーザであり、シーザは何年何月何日ルビコンを渡った人である。右の如き個体概念はいかにして成立するか。私はかかる個体概念の根柢には、何らかの意味において非合理的なるものの直覚がなければならないと思う。合理的なるものは一般的であり、非実在的だ。直覚とは種々に解せられるだろうが、我と物との一致、知るものと知られるものとの合一ということである。一致とか合一とか言えば、なお主客対等の様に思われるが、直覚の真の意義は我が物の中に没入することであり、客観の中に主観が含まれることでなければならない。否単に自己を没入するのではなく、客観の中に自己を見出すことでなければならない。直覚が概念化されたものが個体概念である。真の直覚は分割することのできない連続でなければならない。ある一つの物について、その性質を判断して行く時、その物の直覚が基礎となっていなければならない。無関係の判断を結合して物の概念を構成することはできない。かくの如き直覚を判断の形に現したものが自同的判断である。性質的判断は、かかる自同的判断を基礎として構成されると考えることができる。この統一(直覚)が要素に分解し尽くされれば個体ではなくなる。直覚といえば、その時々の単純な意識であって、思惟によって統一されるべき材料となるものと考えられるのだが、感覚または知覚というものが、切れ切れのもの(その時々の単純な意識)で、その間に何らの統一性を有せないならば、物の概念という様なものは成立しようはない。性質的に同じものは一つの不変なるものと考え得るでもあろう。しかしこれ(不変なるもの)から種々なる性質を持ったものの概念は、成立し得ない。かかる物の概念が成立するには、時空の上における種々なる感覚的性質の間に、不変なる関係が見られなければならない。かくの如き場合、我々はかかる統一は考えられたものと言う。しかし物の形という様なものは考えられたものではなく、直覚されたものでなければならない。色と空間は抽象的思惟によって分かつことができるが、具体的知覚として離すことはできない。そしてかかる空間は異なる感覚にも共通である。単に視覚の間に共通なるのみならず、触覚にも共通と考えられる。かかる空間の統一は単に考えられたものではなく、その根底に直覚されたものがなければならない。直覚するというのは、感覚するというのではない。直覚には無限の次位があるのである。我々はかかる統一を主語として、種々の属性を述語するのだ。無論形を不変と考えることもできれば、また質料を不変と考えることもできるだろう。いずれが代表的地位に立つとしても、両者の統一が基礎とならねばならない。
何処までも主語となって述語とならない基体というのは、限りなき述語の統一でなければならない。すなわち無限なる判断を統一するものでなければならない。判断と判断を統一するものは、判断以上のものでなければならない。我々の判断作用が無限にこれを志向するが、これに達することのできない対象でなければならない。私はかかるものを直覚的と考えるのである。その根底には、対象化することのできない作用の作用の立場がなければならない。いわゆる感覚という如きものは、かかる意味においての直覚(作用の作用の立場における直覚)ではない。感覚的性質という如きものは、単に一般的なるものに過ぎない。アリストートルは実在は※形相と質料から成っていると言うが、単なる質料は一般的たると共に、単なる形相も一般的たるを免れない。主語となる本体(実体)は両者(形相と質料)を結合するものでなければならない。
※ 引用 形相と質料とは
物とはライプニッツの考えた如く、何処までも限定された、一あって二なきものと考えねばならないのだが、いかに多くの属性を有しているとしても、それが単に属性の結合に過ぎない以上、それはなお分解し尽くすことのできるものであり、なお限定し得る余地のあるものと言わねばならない。真に限定された一あって二なき個体は、思惟を超越する立場に基づかねばならない。超越的立場に基づくが故に、未来永劫分析することのできないものと言うことができるのである。単に我々の内部知覚の対象として、直接に知り尽くされ得る出来事であっても、それが繰り返すことのできない、唯一の出来事と考えられるには、その基に超越的なるもの(思惟を超越するもの)の直覚がなければならない。これによって、それ(唯一の出来事)は何時でも考えることのできる客観的事実となるのである。
アリストートルの如く基体というものを考えて行けば、限りなき述語の主語となる本体(実体)は、形相でもなく、質料でもなく、発展的個体でなければならない。作用の連続という如きものでなければならない。我々はこの連続的統一を主語として、これに述語を付加するのだ。かくの如き連続的統一の基には、前に言った如く直覚がなければならない。これによって何処までも術語とならない唯一の物が成立するのである。そしてかくの如き直覚が判断的意識に対して達することのできないものである限り、すなわち分析することのできないものである限り、超越的として外に見られねばならない。超越的なる基体とは斯くして成立するのである。しかし判断と直覚はいかなる関係において立つのであろうか。判断と直覚は異なるものと考えられるが、いかなる判断の基にも直覚がなければならない。例えば、色の判断といっても、その根柢に色の直覚がなければならない。物の色を赤という時、我々はそこに赤というものを直観するのだ。物を離れて赤そのものを見るのである。かかる意味において抽象すること(物を離れて見る=抽象すること)は、一方において直観することだ。言語というものは抽象的な意味を荷うものと考えられる。しかし言語というのは表現作用である。そうでなければ単なる音声に過ぎない。表現作用によって物を離れて理念的なるものを見るのである。芸術においての如く、すべて表現作用は単なる運動ではなく見ることである。右の如き意味における赤の直観は判断を超越したものでなければならない。判断されると否とに関せず、赤は赤自身に同一でなければならない。これを判断の形に言い表せば自同的判断の形(例えば、赤は赤であるという形)を取る外はない。自同的判断は直覚と思惟の結合するものと考えることができる。しかし右の如く考え得ると共に、この色は赤であるという様に、すべて性質的なるものは述語として考えることができる。述語としての赤と自同的赤(連続的統一、個物としての赤)はいかなる関係において立つであろうか。
アリストートルは形而上学第十二扁の始において、次の如く言っている。感覚的本体sensible substanceは変じる。しかし声が白くなるという様に、全く異なる性質に変じるのではない。白い物が黒くなるという様に、その反対に移り行くのである。斯く変じるには、変じる物がなければならない。それが質料である。質料が相反する両方の状態を取り得るのだ。そしてすべて物は無から有となるのではなく潜在から現実に移り行くのであると言う。私は今アリストートルの質料の意義を穿鑿するのではないが、かくの如き質料とはいかなるものでなければならないかを考えてみたい。白というも色であり、黒というも色である。白が黒に変じるというのはいかにして可能であるか。色自身の変化は何処から起こってくるか。直覚的なる色の変化は色自身の内に求める外はない。プロチヌスの言った如く、衝くとか引くとかいうことから色という様なものの生じ様はない。もし質料が種々なる色の状態を取ることができ、これらすべてを色ということができるとするならば、色は色自身の述語となるという外はない。あるいは空間が本体として色を持つとも考え得るでもあろう。しかし色と空間は別々に変じることができる。空間なくして色を表象することは不可能であろうが空間が色の本体として色を持つということはできないだろう。単に欠くべからざる条件に過ぎない。潜在から現実に変じるものは、空間ではなく色自身でなければならない。これにおいて力という様なものが考えられるのだが、物理学者の言う如き力とはただ、説明の為に設けられた仮定に過ぎない。それよりも現実の色の変化が根本的でなければならない。真に内在的なる力とは色自身の内面的連続でなければならない。形相と質料が一となったものでなければならない。我々はかかる内面的連続の一点を主語として、これについて白とか黒とか言い得るのだ。この場合、色以外の何物かが基体として白とか黒とかいう述語を有すると考えることはできない。かくの如き外的なるもの(色以外の何物か)が変じるということは、色が変じると言い得ないのである。あるいは物が種々なる性質を有し、前には白という性質を取っていたが、後に黒という性質を取ったと考え得るだろう。しかしかくの如き物はまず色という性質を持ったものでなければならない。そしてその色が白から黒に変じたということでなければならない。我々が白とか黒とかいうのは、これらの性質を持ったものについて言うのではなく、これらの性質について言うのだ。物が白いのではない。物の色が白いのである。色の基体は色自身の体系(色自身の内面的連続)でなければならない。これを力とか作用とか言えば、既にその当を失っている。色を生じる力が白いのでも黒いのでもない。性質的なるものは単に※定立setzenの対象となるものでなければならない。すなわち単に定立されたものdas Gesetzteでなければならない。
※ 引用 定立setzenとは
かくの如きものについて我々はこれを白とか黒とか述語することができるのである。アリストートルは範疇論において第一本体(第一実体)は他の述語となることなく、また他においてあるものでもないと言っているが、真にかかる意味において本体と称すべきものは考えることのできないものでなければならない。我々の考え得るものは少なくとも第二本体(第二実体)の如きものでなければならない。物においては、性質は本体においてあり、これによって有せられると考えられるが、直接の経験においては、性質的なるものが、自己自身の内にある(例えば、赤は赤自身の中にある)のだ。定立とは性質的なるものが、自己自身に還ることを意味する。自己自身の述語となる一般的なるものがその本体(実体)となるのだ。判断はかくの如き一般者(自己自身に同一なるもの)によって成立し、判断の主語とは、かくの如き一般者そのものでなければならない。白から黒に変じ行く時、その質料と考えられるものは、この一般者であるのだろう。
※ 引用 第一実体 第二実体とは
前に言った如く真に何処までも述語となることのできない基体というものは、かえって判断の主語となることはできない極限概念に過ぎない。我々の考え得るものはむしろアリストートルの第二本体の如きものと言い得るだろう。この色は赤であると言う時、我々は「此(この)」を主語としているのではない。ある限定された赤を主語としているのだ。その赤は性質的なるものでなければならない。述語となり得るものでなければならない。我々は質料を主語としているのではなく、形相を主語としているのであると言い得る。すなわち一般的なるものが主語となっているということができる。無論、この赤という特殊なるものを主語として、これについて一般的赤が述語となると言い得るだろう。しかし我々がこの赤と言う時既に色の概念によって、一般化しているのだ。述語するということは、一般的なるものが自己自身の内に省みることである。概念がその本質に還ることである。ヘーゲルの言う如く判断は概念自身の分化ということができる。すべての判断の根柢に自己自身に同一なるものがあるのであろう。個物的なるものがあるのであろう。その内容が単一なる時、自同的判断において見る如く、自己自身の述語となる如く考えられ、その内容が多様なる時、包摂判断においてのように、主語と述語が分かれたものと考えられる。しかしこの場合においても、一般的なるもの(一般者)が自己自身について自己を叙述するのだ。判断は一般的なるもの(一般者)が自己自身を叙述するより始まると言うことができるだろう。
四
私は本体(実体)とはいかなるものかを考え、また判断の主語とはいかなるものなるべきかを論じて見た。厳密なる意味において何処までも述語とならないもの、すなわちアリストートルの第一本体という如きものは、我々の認識を超越したものでなければならない。判断の主語として、これについて何らかの述語を付加し得るものは、自己自身に同一なるものとして、少なくも自己自身の述語となるものでなければならない。そして自己自身に同一なるものは既に一般化されたものと言い得る。真に一般的なるものは、自己自身に同一なるものである。自己自身を質料とし、自己自身について述語するものでなければならない。判断とは一般なるものの内面的発展と考えることができる。そして自己が自己を対象としてこれを知ることが真の直観であるとするならば、すべての判断の基に(自己自身に同一なものの)直観があると言うことができるだろう。
しかしかくの如き判断の主語となるものと、働くもの(自ら変化するもの)はいかなる関係において立つであろうか。判断の主語となるものと知的主観の関係を明らかにするため、まず「働くもの」というものを考えてみなければならない。ギリシャ人は形相を以て能動的原理と考えた。しかし我々が働く場合、何らかの形相に依るであろうが、形相が直ちに働くものとは言われない。建築家の頭にある形相が直ちに家を建てるのではない。またある一つの植物を形成する形相は単なる判断の主語以上のものでなければならない。無論、物が現れる(形成される)というのは、必ずしも因果律によって考えるを要さないでもあろう。数理を考えるということは、数理自身の内面的発展と考えられねばならない如く、色を視るということも、色自身の内面的発展でなければならない。考えるということが、思惟が思惟自身を見ると言い得るのみならず、見るというも色が色自身を見ると言うことができるでもあろう。自己自身の内容を主語とし、質料なき形相となる時、それが純なる作用と考えられる。しかし単に判断の対象である形相は直ちに作用ではない。真に有るものは、有と無を含んだものでなければならない。一般的なるものが単なる概念であるか、本体(実体)であるかは、この無を含むと否とによると考えることができる。或物に対して他なるものもまた或物である。これ(或物)から見て前の或物はまた他なるものとなる。かくの如き或物と他なるもの(有)を含むものは、何処までもいわゆる一般的概念たるに過ぎない。構成的概念(実体)は自己の有限なる内容(有)とその否定(無)を含まねばならない。斯くあるということ(有)と、その否定(無)との総合でなければならない。或物に対して或物でないものも、一種の無と言い得るでもあろうが、それはなお同種の有に過ぎない。赤(有)に対して赤でないもの(有)もなお色(という単なる概念)である。働くものは、自己の中に自己の内容(有)を超越したもの(無)を含んでいなければならない。赤の知覚作用(無)が赤(有)と言われない。視覚作用(無)について色(有)を述語とすることは無意義である。しかも色(有)は視覚作用(無)によって成立すると考えざるを得ない。働くものは無限なる内容(有)を潜在的に含むものと考えることができるが、潜在的なるものは働くものではない。何処までもそれは或物に対する他のもの(有)に過ぎない。無限に連続的なるものを考えてみても我々はこれについて述語し得るものであって、なお質料たるを免れない。真に働くものは常に述語となすことができないのみならず、また主語となすこともできないのでなければならない。それは有ということすら言えない。プラトーは「パルメニデス」において、物が互いに類似するというのは、類似の理念(イデヤ)に倣うと考えねばならない。しかし物が理念に倣うとは類似することであり、かかる類似を成立せしめるにまた類似の理念がなければならないと言っている。単なる理想は理念ではない。類似の理念は非類似と離れたものでなく、類似と非類似の統一でなければならない。ならば、それは類似の理念とも非類似の理念とも言い得ないではないかと言われるかもしれないが、私は類似と非類似を分かつものがまた類似の理念による時、これを類似の理念と称し得るではないかと思う。我に対して非我が対立するが、この対立を知るものはまた我なるが故に、これ(対立を成立させるもの)を非我と言わずして我と言い得ると同様であろう。自分と他が自分において区別されるのだ。かくの如きものにして、初めて自己自身を質料とする純なる形相ということができる。一というものについても、一に多が対立するが、この対立を成立せしめるものはまた一である。有の根柢にもかくの如きもの(対立を成立させるもの)を考え得るだろう。有と無を対立せしめるものはまた有でなければならない。類似と非類似を区別する類似の理念(言い換えれば、赤と非赤を区別する赤の理念)は何物にも類似せざるものである。有無を区別する有の理念は何処にもないものである。この意味において無と考えることができる。しかしすべての根柢としてそれはまた全体と考えることもできる。赤の知覚は赤でないという様に、真に働くもの(自ら変化するもの)は、それについて性質を述語することはできないが、性質はこれによって成立するのだ。性質的なるものが自分自身(全体、無)の上に立つ時、それが純なる作用となるのである。この作用をその性質によって名付けることができるのだろう。
認識主観とはいかなるものであるか。何らの心理的意義を有せない認識主観(純粋我)というのは単なる限界概念に過ぎない。かかる考えを徹底すれば、認識主観は全く作用の意義を失い、単に認識対象界の統一と言う如きものとなるだろう。主観の意義をも失うこととなる。何らの意義においても、有の述語を付加することのできない主観は主観ではない。無論、我々は反省によって自己を認識対象として見ることができるだろう。我々は個人的自己を考えることができ、更に超個人的自己というものを考えることもできる。しかしたとえ、かくの如き対象は単に客観的なるものと異なるとしても、それは認識主観ではない(対象化された主観であって対象化する主観ではない)。我々が現在の自己反省から出立して、これを何処までも押しつめて見ても主観(対象化する主観)を超越することはできないと考える所に、何処までも客観とならざる認識主観の意義があるのだ。カント哲学の立場からしては許すべからざる考えであろうが、認識主観は主観であるが故に、何処までも有の意義を離れることはできない。時間空間の範疇に当てはまったものが有であるとすれば、認識主観を有と考えるのは自家撞着と言い得るだろう。しかし与えられた材料を統一して実在界を構成する認識主観は、同時に経験内容を与える主観でなければならない。単なる思惟の形式によって実在界が構成されるのではない。形式(思惟)と内容(感覚)の結合によって実在界が成立するのだ。与えられたものの構成として、否その説明として我々はいわゆる実在界を見るのだ。主観によって造られたものでなく、与えられたものの一面と考えられることによって、(実在界の)実在性が与えられるのだ。非実在的なるものが与えられ、それが(思惟の)形式によって実在的となるのではない。我々が実在を知るというのは単に何人も斯く考えなければならないと言うのみではない。実在の知識には何らかの意味において自己以上のもの(認識主観以上のもの)との関係が含まれていなければならない。カントは認識とは雑多なる所与の統一であるというが、主観的形式の総合統一のみによって実在界の知識は成立し得ない。カント自身も言っている如く感覚内容との結合がなければならない。与えられたものは、単に形なき雑多ではなく、それ自身が一つの体系でなければならない。我々は自己の深い奥底に還ることによって、実在を見るのだ。自己に完全に外的なるものは、自己に対して客観的必然性を有しない。真の実在は自己自身を包むものでなければならない。単に我に対して与えられるものではなく、思惟作用そのものの基を成すものでなければならない。直接の経験内容は時の形式によって与えられると言うならば、働く我は時の中になければならない。我は時の中において思惟するのである。実在界は思惟によって与えられるのではなく、見るとか聞くとかいうことによって与えられるのだ。そして見るとか聞くとかいうことは働くことである。思惟によって真理が内在的となると考えられる如く、働くことによって実在が内在的となると考えることができる。否我が真理に帰し、我が実在に帰するのだ。我々はいつでも完全に我を没し尽くして、主客合一となる所に有(実在)を見るのである。連辞の「ある」(命題の主辞と賓辞とをつなぎ、両者の関係を言い表す言語的表現。たとえば、私は人間である、の「ある」)と物があるの「ある」の区別すべきことは言うまでもないが、(連辞において表現される)判断の根柢には自己自身に同一なるもの、すなわち直覚がなければならない。働くもの(自ら変化するもの)の自覚がなければならない。そして真に有というべきものは、自己自身に同一なるものの外にない。存在するもの(有)は判断の主語として判断の基礎を成すものでなければならない。言うまでもなく、事実は永久真理の基礎とはならない。しかし事実的真理においては、事実なるが故に、一般妥当性を有するのだ。論理的主語の根柢に基体がなければならない。一般真理の根柢にも基体がなければならない。両者の区別は一般性と唯一性にあるのだ。有と統一は離すことのできない関係を持っている。空間時間が実在の形式と考えられるのも、(空間時間が)思惟を超越する無限なる統一であるが故でなければならない。
右の如く考え得るならば、認識主観は非実在的ではなく、かえって真に実在的と言うことができる。(自己同一なるものとして)真に実在的なるが故に、認識主観となると考えることができる。連辞の「ある」は存在の「ある」に依存すると考えることができる。アリストートルの言う如く、他の範疇の有は本体の有に従属するのだ。私は多くの反対を予期しつつも、認識主観の背後に、自己自身においてあり、自己自身によって理解されるスピノザの本体(実体)を認めたいと思う。自己自身によって理解される本体は我々の認識の基礎となるものでなければならない。種々なる形は空間において成立するも、空間そのものの形を論じることはできない。かくの如き意味においては。空間は形なきものと言い得るが、一方から言えば無限の形がこれにおいて成立する形以上の形を有すると言い得るだろう。
五
上に論じたような訳であるから、私はカントの認識主観の背後に、主語となって術語となることなきアリストートルの基体の如きものを認め得るではないかと思う。アリストートルの本体の考えを徹底すれば、質料なき純なる形相とならねばならない。純なる形相は作用でなければならない。形相と質料の対立が、現実と潜在の対立に進み行くのは自然の勢である。斯くしてアリストートルの本体とはまたプラトーのイデヤに近づき行くと考えることができる。真理の本体は同時に実在の本体と考えることができる。アリストートルもSubstance is the starting point of all production as of syllogism(本体は、すべての生産の出発点である?)【Metaphysics. BK. Ⅶ. Chapt. 9.】と言っている。通常、空間時間因果の形式に当てはまったものを実在と考えているが、我々は一層深く、何故にかかる物が実在と考えられねばならないかを考えてみなければならない。そしてその根底に主語となって術語となるなき本体(基体)の意義を認め得るならば、実在の意義は広げられ、すべて純なる形相というべきものが真の実在でなければならない。理念的実在の上に経験的事実が立つということができる。私はこういう意味において完全なるものは存在するという※本体論的証明にも深い意味を認めざるを得ない。
※ 引用 本体論的証明とは
万物がそれにおいて存在すると考えられる無限の空間も、一種の理念でなければならない。いわゆる経験界の構成がその総合統一によると考えられる認識主観は、純なる形相の形相として唯一の本体ともいうべきものであろう。
アリストートルはプラトーに反して個物を本体と考えた。我々が時間、空間、因果の範疇に当てはまったものを実在と考えるのも個物を実在と考えるのである。ショーペンハウエルの言った如く時間空間は個別化の原理principium individuationisである。個物とはいかなるものであるか。感覚的実在においては物は形相と質料から成り立ち、質料によって物が個物となり、実在となると考えることができる。例えば、同じ大きさの球が鉄からも鋳られ、銅からも鋳られることによって、個々別々の実在となるのである。しかし銅とか鉄とかいう様な、球と全く異なったものが、いかにして球を個物化することができるか。この球という時、その主語となるものは形相であって、質料ではあるまい。そして単なる形相から言えば、鉄球も銅球も同じ幾何学的球であって、更に特殊化されているのではない。そして単なる幾何学的球としては非実在的たるに過ぎない。私はこれにおいて鉄や銅の質料が形相を個物化すると考えられるのは、これらの質料が幾何学的形相に外から偶然的に加わる故ではなく、一層深い立場からこれ(幾何学的球)を特殊化する故と考えなければならないと思う。鉄や銅の性質は単に性質としては、何らの本体的意義を持たない。非本体的なるもの(幾何学的球)に、非本体的なるもの(鉄や銅という性質)を加えても、本体的とはならない。ただ、右の場合、鉄や銅は質料として主語となって術語となることなき基体の役目(第二本体)を演じるまでである。形相に対して真に質料と称すべきものは、その特殊化の原理でなければならない。(包摂的判断におけるように)特殊は一般の中に包摂されると考えられるが、かかる特殊は真の基体となることはできない。真の基体は非合理的なるもの(特殊なるもの)が合理化(一般化)されたものでなければならない。判断の述語とはならないが、しかもその主語となるものでなければならない。述語することができないと言う意味においては、それは不可知的と言い得るだろう。不可知的なるものは無とも言い得るだろう。しかしかかる意味において不可知的なるものを可知的と考えざるを得ざる時、真の個体すなわち本体の考えが成立するのだ。今、鉄や銅の球について言った形相と質料の関係を何処までも推し進めて考えてみよう。すべて何らかの意味において知識内容となるものは、一般的でなければならない。すべての経験内容を否定した時、すべての実在の質料となる※第一質料ともいうべきものを見ることができる。すべての事実的判断において実在がその主語となると考えられる主語とは、かくの如き第一質料でなければならない。
※ 引用 第一質料とは
カントは「純粋理性批判」第一版の演繹において、現象は物自体ではない。単に表象にすぎない。そしてこの表象は更に最早直覚することのできない対象を持たねばならない。それが超越的対象とも名付くべきものであると言っている。私は第一質料の考えの中にカントの超越的対象の意義が含まれているではないかと思う。カントは我々の経験的概念が客観性を得るのは、この超越的対象によるのであって、この概念は何らの直覚を含まず、知識が対象に関係する限り、これに統一を与えるものである。そしてこの関係が意識の必然的統一に外ならないと言っている。しかし超越的対象と一なる純粋統覚が、単に形式的意識であるならば、そこに何らの特殊化の原理を見出すことはできない。従って客観的知識を与えることはできない。客観的知識の根元となるには、超越的対象は特殊化の原理を含んでいなければならない。質料を含んでいなければならない。純粋統覚は自己自身の中に質料を有する純なる形相でなければならない。すなわち純なる作用として、一つの本体でなければならない。カントの超越的対象というものは、単に意識の必然的統一というよりも、深いものでなければならないと思う。認識主観に対して、所与の意味を持つと考えることができる。斯くして認識の形式はこれ(超越的対象)と結合することによって、あたかも幾何学的球が銅や鉄と結合する如く、客観性を得るのだ。我々の経験界はこの質料から造られることによって、球が鉄や銅から造られる如く、実在界となるのである。そして木や石が家の質料として潜在である如く、それは本体の質料として根本的潜在でなければならない。そしてアリストートルの言う如く、ただ個物のみ個物を生じることができる。現実なるもののみ現実を生じるとすれば、第一質料(形相)の背後に形相の形相ともいう如き※第一動者(不動の動者)がなければならない。これにおいて超越的対象と意識の必然的統一は合一して、一つの直観となると考え得るのだろう。
※ 引用 第一動者(不動の動者)とは
私はアリストートルが主語となって術語となることなきものを基体となす考えから、カントの純粋統覚の背後に、プラトーの理念的存在(自己同一なるもの)の意義あることを認めた。しかし理念的存在という如きものと認識主観の間には固より多くの間隙があるだろう。右の如くにして判断の根底を成すもの(理念的存在)は判断の主語たるのみならず、判断するものでなければならない。自分自身においてあり、自分自身によって理解される本体であるのみならず、自分自身で理解するものでなければならない。アリストートルの本体の考えから、いかにしてかかる主観に到達し得るだろうか。前にも言った如く第一本体の考えは自己自身を質料とする純なる形相の考えに到達せねばならない。純なる形相は純なる作用でなければならない。アリストートルの本体は、プロチヌスに至ってプラトーの理念に還るのは、自然の帰結でもあろう。しかしかかる帰結として到達せねばならない形相とはいかなるものだろうか。それはまた、単に述語となる一般的な形相であってはならない。もし然らば第二本体に堕するの外はない。かかる形相は一般的なると共に、何処までも主語となって術語となることなきものでなければならない。すなわち具体的一般者でなければならない。我々は空間の如きものにおいても、その一例を見る。一々の空間は空間として一般的なると共に、一々の空間が限定されたものとして、主語となって術語となるなきものである。アリストートルは白が黒に変じる時、その背後に基体がなければならないと言うが、その基体は色として一般的なるとともに、この色として主語となるもの(具体的一般者)でなければならない。これにおいて、我々は一般的なるものが主語となり、特殊なるものが述語となると考えることができる。ポサンケーが判断の主語と考えた実在というのも、かくの如き意味における具体的一般者でなければならない。物が性質を持つ、物が働くという如き判断において、主語となる物とは一般的なるもの(具体的一般者)が主語として、特殊なるものが述語となるのである。第二本体は述語となるの故を以て、真の本体ではないと考えられるが、第二本体といえども共通的述語das gemeinschaftlich Ausgesagteではない。アリストートルの言った如く、反対を含み得るのだ(例えば、白から黒)。我々は第二本体において、一般的なるものが、主語として、特殊なるものを含む(具体的一般者が特殊なるものを含む)ということができるのである。一般的なるものが主語となる時、主語は唯一性を失って、限定すべきものとなる。一つの中心ではなく全体を包むもの(一般者)となる。そして自己の限定として自己の中に多くの特殊なるものを見るのである。主語としての一般者は空虚なる空間の如く、すべての形を内に含むのである。すべての特殊なる形はこれ(具体的一般者)において成立するのである。
しかし主語としての一般者はなお働くもの(自ら変化するもの)ではない。厳密には所有者とも言われない。ただ特殊が一般においてあると言い得るのみであろう。働く基体においては、質料が単に判断の主語として基体たるのみならず、形相を含んだものでなければならない。特殊なるものが一般的なるものを含んでいなければならない。何処までも主語となって術語とならざる質料は無とも言い得るだろう。この無なるものが積極的意義を有し、内に形相を含む時、それは働くもの(自ら変化するもの)となるのである。家や木が石から造られる時、木や石が質料として潜在と考えられるが、かくの如き質料が植物の種子の如く、内に形成原理(形相)を蔵すると考えられる時、それは働くもの(自ら変化するもの)となるのである。一般的なるものが、一般的なるものとして、主語の位置に立つ時、それはなお働くものではない。空間の例においての如く、ただすべて(特殊)がその中(一般の中)に含まれるのである。単に全体である。ただ、特殊なるものが、特殊なるものとして、一般的なるものの位置に立つ時、すなわち全体の位置に立つ時、初めて働くもの(自ら変化するもの)となる。偶然的なるものが必然的となる。働くものとなるのである。あるいは数学的対象の如きものにおいても、特殊が一般を含むと言い得るでもあろう。曲線(一般)における点(特殊)は生産的ということができる。アリストートルの如く円が弧線を質料として成立すると言えば、質料(特殊)が形相(一般)を含むと言い得るでもあろう。しかしこの場合、特殊なるものは、一般なるものに対して、本質的に異なるものではない。すなわち偶然的なるものではない。アリストートルは色が白から黒に変じる時、その根底に基体がなければならないと言うが、かかる基体はまず一般的なるものと考えられねばならない。判断の主語となるものは色の経験の体系という如きものでなければならない。すなわち(色の体系という)一般的なるものが主語となると考え得るだろう。物理的世界の如きものであっても、それが物理的アプリオリの上に立つ一つの認識対象界としては、それ自身において不変なる真理の一体系と考えられ、物理的判断の主語となるものは、一般的なるものということができる。アリストートルが基体を本質τὸ τί ἦν εἶναι(ト・ティ・エーン・エイナイ。 何であるか?)と結合する時、第一本体はかえって第二本体に近づくと考えられるが、第二本体が単なる共通的述語と異なる所以は、それが一般者として判断の主語となるにあるのだろう。
判断の主語となって述語となることなき基体そのものが述語となる一般者であり、一般者が自分自身について述語する時、一般者が基体となる。かくの如き基体においては、すべての形相が空虚なる空間において成立する如く、無(質料)とは全体(一般者)の合一するものでなければならない。理念を本体と考える時、プラトーの考えた如く質料は無となり、空間ともなるのである。全体(一般者)が無(質料)と合致しない間は、全体は抽象的一般たるを免れない。一般の中に特殊を含むとは言い得ないのだ。これに反し全体(一般者)と合一する無(質料)の背後に、或物を見る時、すなわち無が積極的意義を有する時、真に特殊(質料)が一般(形相)を含むと言うことができる。アプリオリのアプリオリの立場(作用の作用の立場)において、初めて特殊なるものが一般を含むと言い得るのだ。球が鉄から造られるか、銅から造られるかは、球の形相において全く無関係である。形相の立場からは無に過ぎない。単にかかる無が加わることによって球が特殊化され実在性を得るはずはない。ただ、鉄や銅の性質によって、無の背後に積極的意義が認められた時、形相が特殊化され、鉄の球や銅の球が合成物composed substanceとしての本体と考えられるのである。特殊化の原理として外から加わった偶然的なるものが必然的となる時、質料はもはや単なる無ではなく、質料は潜在となり、形相は現実となる。アリストートルが本体と考えた形相は、質料を離れたものではない。いかにして一般の中に特殊を含む判断から、特殊の中に一般を含むという実在判断に到達することができるのであるか。いかにして無の背後に積極的内容を認め得るであろうか。私はそこに判断が判断自身を主語とするということ、すなわち判断自身の反省ということがなければならないと思う。述語となる一般的なるものが主語となるには、その根底に主語と述語の合一なる自己自身に同一なるものがなければならない。これ(自己同一なるもの)によって一般的なるものも本体となることができる。具体的一般者として、一般的なるものも本体と考え得るのである。しかし斯く考え得るには、本体は単に主語となって述語とならないという消極的意義を有するのみならず、積極的意義(自己自身に同一であるという意義)を取らねばならない。そしてかくの如き意義はただ働くものの意識、判断自身の自省によってのみ得ることができる。自己は自己自身に同一なるものであるという同一判断とは、働くものの表現である。これにおいて主語となって述語となることなき本体は働くもの(自ら変化するもの)という考えにも進み行くのである。
述語ともなることのできる一般的なるものが基体となる時(具体的一般者となる時)、含むものと含まれるものとの関係が成立し、更にある一つの立場から無と考えられるものが積極的内容を有して判断の主語となる時、種々なる構成的範疇の成立を見得るだろう。特殊なるものが、何処までも自己の特殊性を維持してしかも判断の主語となる時、まず物が属性を持つという判断が成立すると考えることができる。前に基体として考えられた一般的なるもの(例えば、球)がその属性となるのである。アリストートルの如く具体的なるものを本体と考えるには、かかる範疇(構成的範疇)によらねばならないと思う。形相と質料から成る具体的本体は生じるものであって、生じるものの中には、あるいは自然により、あるいは技術により、あるいは偶然によるものとあるが、生じるものは皆ある働きによって、或物から或物に成るのである。すべて生じるものは質料を持つ。これから造られるのだ。自然物においては、造るものと造られるものが一つであるが、芸術品においては、この両者は別である。鉄や銅の球の様に人工的に造られたものには、本体の意味はない。鉄や銅は円くもなり、角にもなることができる。質料から見てかかる形相は偶然的だ。円とか角とかいうことは、鉄や銅を定義すべき必然的述語となるものではない。真の本体は質料の中に必然的に形相を含んだものでなければならない。しかも質料の中に形相を含んでなお余りある時、主語が述語を持つという思惟の範疇が成立するのだ。「有つ(持つ)」というのは「ある」と「働く」との中間に位するのである。アリストートルは本体は定義し得るものと考えた。そして定義するということは類概念に※種差を与えて行くことである。
※ 引用
最後の種差を加えることによって定義となるのだ。かくして定義されるものが、主語となって述語となることなき本体であって、種差はその一般性を失って本体とともに個性的なるものとなる。他の述語とならないものとなるのである。白とか黒とかいう如き一般的性質であっても、ある一つの定義の種差となる時、その本体に属するものとして、唯一性を得ると考えることができる。同じ色であってもこの物の色なるが故に他の物の色ではないのである。そして最後の種差が単に一般的なるもの(一般概念)の分化であって、最後においてまた最初に返ると考えられる時、一般者が基体となるに過ぎない。なお「持つ」という範疇は成立しない。ただ、最後の種差が類概念の中に含まれない時(種差の内容が唯一性を得る時)基体が述語的なるものを持つという判断が成立するのだ。前者(一般者が基体となる場合)においては、すべての述語的なるものを個性化する最後の種差そのものが一般者の中にあると考え得るが、後者においては、最後の種差が一般的なるものを含むのである。真に特殊なるものが一般なるものを持つと言うことができるのだ。これにおいて潜在と現実の対立が成立する。質料が潜在と考えられ形相が現実と考えられる。しかしこれだけでは、まだ「働く」という範疇は出て来ない。働くということは、質料と形相の結合において成立するのだ。石や木を用いて家を造る場合、建築家の頭にあると考えられる形相が働くものではない。働くものは建築家の意志でなければならない。生物においては、質料と形相が一であるというが、かかる場合においても、働くものは質料でもなく、形相でもなく、両者を結合するものでなければならない。アリストートルの質料に先立つ形相とは、限定された一つの形相ではなく、無限の働きでなければならない。親があって子が生まれるというが、子を生む形相はまた親を生んだ形相でなければならない。造られたものは、何物かから、何物かに、何者かによって造られると言うが、造る何者かがその本体でなければならない。生物においては、それが生物の生命であり、芸術的作品においては、それは我々の精神作用である。物質には働くということはない。木が閾となるも、鴨居となるも、木自身に変化はない。また単なる形相も変じるものではない。家の形相は何から造られても同じである。ただ、造る者の立場において、一は潜在的質料となり、一は現実的形相となる。しかし現実的形相に対する潜在的質料は、また一種の形相でなければならない。斯く考えることによって、アリストートルの言う如く形相が働くもの(自ら変化するもの)と考えられるのだ。質料と形相とこれを結合するものが別々である場合、作用としての本体は考えられないが、この三者が一つとなった時、すなわち自分から自分を形成する時に、作用としての本体が成り立つのである。いわゆる基体なき作用substratlose Tatigkeitに至って、真に働くもの(自ら変化するもの)の概念に到達するのである。質料と形相が単に一つであれば、純なる形相に過ぎない。両者が異なっていてしかも一なる時、働くものとなるのである。
六
基体なき作用としての本体と、主語となって述語となることなき本体(具体的一般者)は、いかなる関係において立つであろうか。純なる形相ともいうべき具体的一般者の背後に、更にこれ等の形相を自己の属性となす質料が認められた時、それが主語となって述語となることなき個物となる。この場合、我々は何処までも特殊なるものが主語となると考える。しかし質料が潜在的形相として現実的形相とともに一つの作用となる時、純なる形相の場合においてのように、判断の主語となる特殊なる基体は消失して、再び一般的なるものが主語となると考えることができる。ロッチェの言う如く、すべて実在は相互作用であるということができる。我々が一つの三角形について証明することは、幾何学的空間(という一般的なるもの)を主語として述語すると考え得る如く、ある一つの物理現象について論じる時、物理的世界(という一般的なるもの)を主語として述語するのである。作用と作用の世界(相互作用の世界)においては、特殊なる主語という様なものはなくなる。基体なき作用というのは、主語となって述語とならないという本体の意味を失うのではない。一般的なるものが主語となるのである。純なる形相の背後に質料を見た時、本体としての個物の考えが成り立ち、かかる質料が潜在的形相として、すべてが形相化された時、本体としての純なる作用の考えが成り立つ。しかし純なる作用とはなお知るものではない。働くものから知るものに進み行くには、純なる作用の背後にまた何かが認められねばならない。働くものの背後に働かないものが認められねばならない。我々は普通に物が働くという。しかし性質の所有者としての物はロッチェの論じた如く、作用の立場においては、一たび消え失せなければならない。働くものの基体は、働くと共に働かざるものでなければならない。そしてかかるものを、我々は我々の自己において見るのである。我とは基体なき作用(働くもの)の基体(働かざるもの)である。赤や青の性質が光線の作用(働くもの)と解せられ、かかる作用の本体性をそのままにして、更に一つの基体(働かざるもの、我)に結合する時、それは精神作用となる。すべての合目的的実在もかくの如き意味(基体なき作用の基体という意味)においての本体でなければならない。
私は前に空間の如きものにおいては、一般的なるものが主語となると言った。マイノングが最初に挙げた論文の始において言っている如く色の判断にも先験性があるとすれば、色の経験自身についても同様のことを言い得るでもあろう。一般的として述語となるものが、主語として特殊なるものの全体を(先験的に)含むこととなるのである。こういう場合において、主観と客観はいかなる関係において立つか。私は一般的なるものが全体として本体性を有する時、それ相当の意味において、その中に主観が含まれていなければならないと思う。我が物の中に含まれることによって、物が我に対して客観性を有するのだ。マイノングの言う如き先験的なる色の判断においては色の体系が基体となる如く、視覚作用においては、色一般の体系がそれ自身を発展する作用となる。すなわち働くものとなる。色の性質が色の潜在として作用化される時、色の現実的形相Entelechieという如きものが本体となるのである。時とは質料を形相化する範疇である。主語となって述語とならないと考えられるものが、時の範疇によって合理化(一般化)されるのだ。しかし前に形相が質料によって特殊化されることによって、個物としての本体を見ると言った如く、質料が形相化されて一般的なるものが基体となった時、更に我々は何処までも主語となって述語となることなき、基体という如きものを考えざるを得ない。作用の範疇の中に入らずして、しかも作用の範疇はこれによって成立する基体がなければならない。第一の範疇たる本体によって他が実在的となる如く、働きなき基体によって作用の実在性が得られるのだ。かかる基体なき作用の本体とはいかなるものであろうか。
我々が純なる作用と見るものが、主語となって述語となることなき本体の意義を有するには、何処にか基体がなければならない。普通に物が働くという様に、働く物が働きの外にあるならば、その物は潜在として働きの内に溶かされるべきものでなければならない。純なる作用が一つの本体として考えられるには、働くことなき本体が働きそのものの中になければならない。そして働きそのものの中に基体を求める時、判断が判断自身を基体とすると考えねばならないだろう。判断に対し偶然たると共に特殊化の原理たるものが、基体として外から与えられれば、個物としての本体となるが、これ(特殊化の原理)が内から与えられる時、作用としての本体となるのである。作用そのものが本体となるには、判断そのものの中に特殊化の原理となるものが含まれていなければならない。最後の種差が含まれていなければならない。そうでなければ、純なる作用は単なる具体的一般者と撰ぶ所はない。かくの如き統一が言うまでもなく知る者である。知る我とは純なる作用の統一として、これを特殊化するものである。あるいは知る我という如きものは、判断の基礎という如き意義を失うと考えられるだろう。しかし主語となって述語となることなき基体とは、判断の客語と主語の結合でなければならない。この物は赤いという時、物と赤は同じではない。物は性質的一般者の統一となるのである。右の如き意味において知る者は作用的一般者の統一となるのである。知ると働くは区別すべきであるが、知る者とは働くものの統一点でなければならない。我々は自己の反省によって、外に働くものを見るのだ。純なる作用が作用自身の統一を保つには、働きの中に入り来らざる基体という如きものがなければならない。見る眼という様なものがなければならない。
判断においては、何時でも特殊なるものが主語となり、一般的なるものが述語となる。その特殊なるものが何処までも特殊なるものとして、一般化することができないと考えられる時、それ(特殊なるもの)が個物として主語となって述語となることなき本体と考えられる。しかし斯く考えられる場合、真に判断の主語となるものは、何時でも特殊化の原理(質料)であると考えることができる。この特殊化の原理(質料)がその述語となるものに等しい時、先験的認識の世界を見るのだが、この特殊化の原理(質料)が判断を超越し、判断としての表現を拒んだ時、主語となって述語となることなき個物的本体となる。かかる立場が直覚の立場であって、判断としては、ただ自己同一として自己を表現し得るのみである。自己同一の判断は特殊化の原理が自己自身を表現する形式だ。そして特殊化の原理が単に超越的主語たるのみならず、それ自身が判断するものである場合、それが純なる作用となる。判断はすべて自己自身の表現と考えることができる。判断が判断自身を主語とすると言うことなくして純なる作用の概念は成立し得ない。アリストートルは白から黒に変じる時、その根底に基体がなければならないと言うが、この基体が同時に判断するものである時、それが純なる作用として視覚作用となる。これにおいて質料が作用と考えられるのだ。単なる具体的一般者ともいうべき空間の如きものには質料はない。変じるものはアリストートルの言う如く質料を持たねばならない。しかも質料そのものが判断するものである時、働くものとなる。そうでなければ単に変じるものに過ぎない。変じるものは直ちに働くものではない。質料が潜在的として形相に先立つ間は、真に純なる作用というべきものはない。物が働くと考えられる。この場合、物とは潜在的なるものを意味するのだ。現実的なる形相が潜在的なる質料に先立つと考える時、初めて純なる作用を見ることができる。そしてかくの如きものは、我々の思惟とか意志とかいう如きものでなければならない。厳密に言えば、考えられるものが考えるものである。我々の自覚あるいはアリストートルの※テオリアの如きものに至って真にこれを見ることができるのである。
※ 引用 テオリアとは
アリストートルの言う如く、家を建てるという働きは、家を建てた時、はじめて現実となる。しかし見るという働きは、見つつある時、既に現実である。アリストートルの形相が質料に先立つというのは、精神作用において初めて斯く言うことができる。知るということにおいては、判断の主語となるものと判断するものが一となる。自分自身を主語とするのだ。主語となって述語となることなき本体の意義は、ここに到って極まる。認識主観は特殊化の終極的原理とも言い得るだろう。
作られたものは、形相によって質料を統一したものである。そこに形相と質料を統一し構成するものがなければならない。人為的に作られたものにおいては、この三者は別々の物であるが、生物においては、形相そのものが働くと考えることができる。しかし質料は固より、形相に対して単に受動的とは言えない。質料自身も一種の形相である。作られたもの、生じるものは、形相と形相の結合ということができる。質料とは潜在的形相に過ぎない。斯く考えられれば、潜在的形相すなわち質料が一般的となり現実的形相すなわち働く形相が特殊的となる。物質の形相は生物の形相に対して一般的と考え得るのだ。人為的合成物においては、一般と特殊の結合が偶然的であって、外から与えられると考えられ、生物においてはその結合が必然的であって、種差が内から与えられると考えられる。生物において形相そのものが働くということは、一般的なるものが自分自身にて特殊化することを意味するのである。一般的なるものそのものが特殊化の原理であることを意味するのだ。これにおいて質料と形相が一つであって、形相が形相を生むということができる。しかし生物にはなお外界というものがある。この意味においてなお純なる作用ではない。潜在的なるもの(質料)が先立つということができる。ただ、精神作用においてのみ、真に質料を内に包み、形相が質料に先立つということができる。質料そのものが直ちに形相となるのだ。白が黒に変じる背後にあるものが、白と黒を識別するものである。変じ行くすべての点が判断の主語となると共に、識別するものである。一般的なるものが主語となる場合においても、一般者が到る所に自己自身について述語すると言い得るでもあろう。しかしいわゆる具体的一般者例えば空間の如きものにおいて、これを超越したもの、これに外的なるものが、内に含まれるとは言われない。分離的なるものが連続的であるとは言われない。部分が全体に等しいと言い得るかもしれないが部分が全体を含むとは言われない。すべての点が(連続的な)個体であるとは言えない。厳密なる意味においての精神作用というのは、自分の中から自分を造るものでなければならない。あるいは精神作用についても、潜在的なるものを考え得ると言うでもあろう。しかし潜在的なるものが現実的なるものに先立つ限り、それは厳密なる意味において精神作用ではない。対象化された合目的的作用(心理学的作用)に過ぎない。道徳的性格という如きものは、働くことによって創造されるものである。潜在的なるものが現実的となったと言えば、道徳的性格の意義は失われてしまうのだ。芸術的内容の如きものについても同様のことが言い得るだろう。我々の自覚において、自己が自己を知らない前に、自己はない。自己の働かない前に自己はない。自己の内容は自己の働くことによって生じるのだ。我々は自己の内容を順次に知り行くと考え得るだろう。自己の潜在的内容が順次にその全体を実現し行くと言い得るでもあろう。しかし自覚の内容はいかなる対象界において発展するのであるか。自己は自己の中に自己を映すのである。自己の内容を映す鏡はまた自己自身でなければならない。物の上に自己の影を映すのではない。あるいは自覚の意識も「時」の範疇において発展すると考え得るだろう。しかし「時」において自覚が成立するのではなく、自覚において「時」が成立するのである。普通に自覚と言えば、単に知るものと知られるものが一つと考えられるが、私は真の自覚は自分の中において自分を知るということであると思う。単に主と客と一と言えば、いわゆる反省以前の直観と云う如きものとも考え得るだろう。自覚の意識が成立するには「自分において」ということが付加されねばならない。知る我と、知られる我と、我が我を知る場所が一つであることが自覚である。自覚においては、結果がまた働くものである。潜在的なるものは、現実的なものの投げた影である。一々の自己が創造的でなければならない。我々の自覚の本質は、我を超越したもの、我を包むもの(我を知る場所)が我自身であるということでなければならない。これ故に働く我においては、昨日も今日も一である。その間に時の経過はない。
いかなる意味において、知るものが純なる作用の基礎となるかと言えば、自分の中に自分を写すことによると言う外はない。自己の中に自己を写すことによって自己は一切の作用を超越して、働くことなき基体(知るもの)となると共に、対象として純なる作用を見ることが出できるのである。働きが働きを生み、働くものなき無限の働き(作用)は、自己が自己を見るという不変不動の基体(我、我を知る場所)によって成立するのだ。純なる作用が自己自身の本体性を維持するには、自己の中に無限の発展を蔵すると考えねばならない。内に無限の発展を蔵するということは、働く現在の中に無限の発展を蔵するということでなければならない。もし単に過去と未来に無限の延長を有すると考えれば、それは純なる作用ではない。現在の中に無限を蔵するということは、現在の中に無限に進み行く行先が含まれており、達することのできない極限が含まれているということでなければならない。この点からして動くものの根柢に動かざるものがあると言うことができる。動いてしかも動かざるものがあると言うことができる。プロチノスは運動と静止の統一を「叡智的なるものの存在」と言っているが、かくの如き実在の相はただ、我々の自覚において見ることができる。なお一層積極的に我々の意志体験において見ることができるだろう。動と静の内面的統一者は自由でなければならない。現実の中に含まれた無限の行先が基体として、全体を包むと考えられた時、我は自由の基体となり、動き行く何の点も我ならざるはない。判断というのはかくの如き基体(自由の基体)への統一でなければならない。述語となることなき基体の自覚でなければならない。純なる作用が自己自身を維持する基体は、自ら知るものでなければならない。作用は作用自身の内に省みることによって、すなわち自己を知ることによって、自己自身を維持するのだ。知るものは働くものよりも大きく、働くものを内に包むものである。これ故にプロチノスの如く万物は一者を直観するということができるのである。知るもの(我を知る場所)は実在に対立するものではなくこれを包むものだ。普通には知るとか判断するとかいうことを、否意志するということすら、働きという中に包摂するのであるが、ヘーゲルが「すべての物は判断である」といった如く、いわゆる働きとは知ることの抽象的一面に過ぎないと考えることができるだろう。
アリストートルの言う如く物は完全に無関係のものに変じるのではなく、反対のものに変じ行くのである。しかし反対の性質は両立し得ない。その背後に変ぜざるものがなければならない。かくの如き統一は類概念とも考え得るだろう。赤が青に変じた時、両者共に色(という類概念)であるということもできる。しかしかくの如き主観的統一は主語となって述語となることなき本体ではない。かくの如き基体は何処までも判断を超越した個体でなければならない。そしてかくの如き基体が判断そのものの中にある時、判断主観となる。すなわち何処までも主語となって述語となるなき特殊化の原理が、判断自身の中にある時、それは最早判断の主語ではなく、判断するものとなるのである。判断とはかかる本体(判断するもの)の自己表現だ。判断においては、いつでも特殊なるものが主語となり、何処までも特殊として述語とならないものが本体と考えられるのだが、かかる特殊化の原理を自己自身の中に含むものは本体の本体とも言うべきであろう。かくの如き自覚的実在においては、すべての点が自覚的であり、すべての点が創造的であるということができる。すべての点が基体となるのだ。純粋統覚としての「私が考える」というのも、単なる一般的意識ではなく、構成作用として、認識対象界の一々の点において判断の主語となり、主観となることができなければならない。自分自身の内に超越的なるものを持つということは、すべての点において自己を超越することでなければならない。これによって、純粋統覚は思惟と感覚を統一して客観界を基礎付けることができるのである。
七
この論文はマイノングの内部知覚の分析に始まり、知るということを明らかにするため、判断の主語、形而上的本体、知的主観との関係を考えてみた。そしてこれ等のものの関係を見出すため、主語となって述語となることなきものというアリストートルの基体の考えを用いた。この考えによって我々は判断と本体の関係を明らかにし得るのみならず、かくの如き本体の考えは純粋作用の考えに到達せねばならない。そして純なる作用が純なる作用として自己自身を維持する基体は、自ら知るものでなければならない。自同的判断の形において、自己自身の述語となる直観の基体は、自己自身を知り、自己自身を表現するものでなければならない。単に総合統一の形式的主観によって認識の客観性が与えられるのではない。自己自身の中に主語となって述語とならない本体性(我を知る場所)を有するものにして、初めて真の認識主観となることができる。認識主観は自己自身について述語する本体でなければならない。
本体を知るといえば、古い形而上学と思われるかもしれないが、本体とは主語となって述語とならないものと考えるならば、我々が物を知るというのは、かかる本体と合一することであり、真理は知るものと知られるものとの合一にあると考えることもできる。単に思惟の当為とか、主観の構成とかによるのではなく、我々が判断するもの、すなわち判断の主語となるものとの合一、すなわち客観的なるものの中に没入することによって、知識の客観性の意義が明らかにされ得ると思う。かかる立場から見れば、空間の認識という如きものでも、(空間を)本体の認識と考えることができる。単なる一般的概念と異なる直覚の形式としての空間は、空間的知識の主語となって述語とならないという意味において、一つの本体と考えることができる。種々なる幾何学的知識は、すべてかかる本体の知識と考えることができる。色の判断という如きものについても、同様のことが言い得るでもあろう。かかる意味においては、ブレンターノの如くすべての判断は存在判断Existentialurteilとも言い得るのである。空間、時間、因果の法則によって構成されたいわゆる実在界というものも、それが実在と考えられるには、やはり主語となって述語とならないという意味がなければならない。ただ、いわゆる実在界なるものが空間とか色の体系とかいうものとは異なって、唯一の実在界と考えられる所以はそれがいかなる意味においても主語となって述語とならないということであろう。空間とか色とかいうものにおいてはなお一般的なるものが本体となるからである。
すべて知るということは、自己の中に自己を映すということである。自己が自己自身を見るということである。それが知るということの最も完全な形である。映す我から言えば構成すると言い得るだろう。映された我から言えば主語となって述語とならない超越的なるものに合一することである。しかし構成するものと見るものが一であるということが、真に知るということである。認識主観が単に見る眼という様なもので、全く自己自身を特殊化しないものならば、いかなる意味においても知識の客観性を立することはできない。また単に形式の特殊化を許して内容の特殊化を含み得ないとするならば、認識主観によって事実的知識の客観性を立することはできない。カントのいわゆる経験界を構成する認識主観は自然の自覚でなければならない。行為的主観が自己の中に自己を省みると言い得るだろう。我々の知覚に内とか外とかいう区別があるのではない。知るものは、すべてを自己の内において知るのである。物理的世界といえども我々は直接にこれに面しているのだ。物理的世界の本体というのも、感覚的性質の変化の基体として、知覚によって直接に与えられるものでなければならない。行為的主観の直覚である。これ故に我々は物理的世界についても、明白なる知識を持つということができる。物理的本体は知覚の中に含まれているのだ。これに反し、いわゆる内部知覚といえども、必ずしも我々が対象に直接しているのではない。対象との一致は、マイノングの言う如く達することのできない極限点に過ぎない。もし物理的対象が空間的に外にあると言えば、内部知覚の対象はいつでも時間的に外にあると言うことができる。真に対象そのものに合一した内部知覚といえば、いわゆる省みられた自己(対象化された自己)を離れた立場でなければならない。この立場においては、すべての知識の立場が統一されている。事実真理も永久真理も、要するに皆この立場によって成立するのだ。数学的真理の如きものが、自己の内的証明によって立せられると考えられるが、かかる場合これを証するものはいわゆる内省的自己ではない。かえってかかる自己を超越することによって証せられるのだ。いわゆる内部知覚といえども、またこの立場によって内的明白を得るのだ。ただ、いわゆる内部知覚なるものは、自己の中に自己を見るという自由我の射影なるが故に、いわゆる知覚と異なった位置に立ち、すべての知識が作用の内容として、これ(内部知覚)に結合され、これ(内部知覚)において証明されると考えられるのである。主語となって述語となることなき基体が作用そのものとなった時、マイノングのいわゆる「内に向けられた対象」となる。純なる形相となればなる程、氏の言う如く対象が対象たる性質を失うことなく内容の位置に来ると言い得るだろう。赤の知覚作用は赤ではないと言うが、厳密にはこの花が赤いとも言われない。ただこの花の色が赤いのだ。要するに、赤は赤であると言う外はない。色は色自身について述語するのである。対象を指示するということも、作用が対象を外に見るのではなく、自己自身の内に見るのだ。対象とは、自己自身の内に映された作用の影に過ぎない。対象を作用の外に見ると考えるのは、心理的作用を考えるが故だ。純なる作用の立場においては、内容そのものが対象として直ちに客観的であるのだ。芸術的創造作用において、作用の外に見られた概念的対象は、かえって主観的と考えられねばならない。
すべての立場を除去した純粋現象学的立場というものも、更にこれを徹底して行けば、作用が作用自身を見るという立場に進み行かねばならないと思う。斯く考えることによって、種々なる世界の本体を内に見ることができ、客観的知識を基礎付けることができる。そうでなければ、記述的心理学の立場を脱することはできない。現象学的立場はいわゆる心理学的立場を離れたものであるは言うまでもないが、それは時の範疇に当てはまった事実我の立場を離れたまでであって、なお内部知覚の立場を脱したのではない。単に見る眼という如き知的我は、なお対象化されたものだ。対象界の一つである。無論、内部知覚の世界は他の対象界と異なった特殊の地位に立つものであろう。しかし真にすべての立場を除去した純我の世界ではない。なお他の対象界と外的関係に立つを免れないのである。
表現作用
一
表現作用といえば、まず種々なる感情の表出運動の如きものが考えられるだろう。しかし表現といえば、何らかの内容を表現するのだ。表出運動の如きものにおいては、表現されるものは、ある個人の主観的感情の内容であるが、言表作用の如きものにおいては、言表されるものは何人にも理解されるべき客観的思想の内容である。芸術的表現作用の如きものであっても、その表現されるものは、単に主観的感情の内容ではなく、客観的意義を有するものでなければならない。すべて表現作用は三つのものから成り立っていると考えることができる。すなわち表現される何らかの内容、表現作用、及び表現そのものから成り立っているのだ。表出運動の如きものにおいては、この三つのものが一つとなっていると言うことができるが、言語の如きものにおいては、各異なっているのである。
表現される内容とはいかなるものであるか。すべて精神作用の内容は、何らかの意味において対象を指示するものでなければならない。意味自体とか、命題自体とかいう如きものでも、客観的対象と考えられるのだ。ただある刹那の感情の露出という如きものにおいては、作用の内容と対象が一つであると考えられるが、そこにも厳密に考えれば、超作用的なもの(客観的対象)と作用そのものを区別し得るだろう。斯く表現される内容が客観的と考えられると共に、表現を荷うものもまた客観的実在、少なくも客観的事実に属するものと考えられねばならない。言語とか芸術的作品とか皆客観的実在として存在の意義を有するものである。表出運動という如きものであっても、外面に現れた肉体的運動だ。それで、表現される内容も、表現そのものも、共に我々の心理的作用を超越するという意味において、客観的ということができる。前者(表現される内容)は意味の世界に属し、後者(表現そのもの)は存在の世界に属している。主観的作用とはこの両者を結合するものとなるのである。ただ、作用が自己の内に自己の内容を表現する場合、表出運動においての如く、三つのものは一つとなると考えることができるのである。
二
作用とはいかなるものであるか。単に変じるものは未だ働くものではない。我々は目前に変じ行くものを見るとも、直ちにそれを働くと考えることはできない。働くものとは自ら変化するものでなければならない。ある現象に必ずある現象が継起する時、前者が働くと考えられる。しかし原因は結果から独立するものではない。原因と結果は相関的でなければならない。赤が青となるのではなく、前に赤であったものが後に青となるのである。まず二つの現象の背後に、我から独立する現象そのものの間の統一が考えられねばならない。これにおいて、我々はまず物が種々なる性質を持つと考えるのだが、物が性質を持つということは、物が働くということではない。物が働くというのは自らその性質を変じ行くということでなければならない。他に物があって、その為にある物がその性質を変じる時、前者が原因と言われ後者が結果と言われる。しかし両者が完全に独立であるならば、一が他に働くということもできない。両者は一つの統一においてなければならない。そして後者が前者に対して完全に受動的ならば、後者は前者の中に含まれると考える外はないが、働かれるものもまた働くものでなければならない。斯く二つの物が相互に働く(相関する)限り、両者共にその独立性を失って、一つの力によって統一される。物の概念は力の概念の中に溶かされて行く。物が働くと考えられるよりは、物は力によって動かされると考えられる。ある現象にある現象が継起するということは、力が一つの状態から他の状態に変じ行くことである。自分が自分を変じ行くものは力である。あるいは一つの力は他の力によって動かされることなく、変じることはできないと言うでもあろう。しかし変ぜざる力も働きつつあるものでなければならない。そして力が互いに相働く限り、それは一つの力として統一されたものでなければならない。
働くということの根柢には、一が多を生じ、多が一を成すという論理的矛盾が許されねばならない。無論、一と多の合一ということがなければ、我々の思惟そのものも成立することはできない。一般的なるものが自己自身を限定し行くのが、我々の思惟である。数理の如きものでは、一つの原理(一般的なるもの)が限りなき真理を構成し行く(自己自身を限定し行く)と考えることができるだろう。しかし思想の三法則の如き極めて形式的なる知識においては、作用と作用の内容は不可分離の関係を持っているが、数理の如きものに至っては、統一の原理(作用の内容)と思惟の作用は明らかに区別することができる。作用は時間上の出来事であり、原理は時間を超越したものでなければならない。時の内容も多にして一なるものと言い得るだろう。しかし真理の統一と事実の統一(時の統一)は、統一の意義を異にすると考えざるを得ない。時の統一とはいかなるものであるか。カントは時を直覚の形式と考えた。我々の経験内容は時の形式によって与えられるのである。思惟の内容は、時の形式によって感覚の内容と結合することによって、実在界を構成するのだ。しかし感覚の内容といっても、単にそれが表象自体という如きもの(色自体、音自体などの超越的価値)を意味するならば、思惟の内容と同じく時を超越したものでなければならない。非実在的なるもの(思惟の内容)と非実在的なるもの(超越的価値)の結合より、実在的なるものの知識を生じることはできない。我々は物を知ると共に、知ることを知る。我々の思惟する背後に思惟することを知るものがある。この二つの知識は根本的にその立場を異にしている。知ることを知るのも知識であり、思惟することを思惟するのもまた思惟であると言い得るだろう。しかしこの二つの知識は何処までもその次位を異にしたものでなければならない(知ることを知る知識の方が高次的である)。もし物を思惟するということと、思惟を思惟するということが同列的ならば、我々の思惟の自覚(知ることを知る)という如きものはなくならねばならない。我々が物を思惟するにも統一の原理がなければならない。これによって或物を他から区別するのだ。しかしかかる統一を知るのは、この統一自身ではない。かかる統一の統一(知ることを知る立場)において、初めてこれを知るということができるのである。作用の内容と対象を区別することのできない形式論理の如きものにおいても、すでに両方向が区別されねばならない。時とは、かくの如き知ることを知るという立場における統一の形式である。すべて我々に与えられるものは、この立場(統一の統一、知ることを知るという立場)において与えられねばならない。実在界の内容として感覚的経験が与えられるというのもこの立場において与えられるのだ。私が見る、私が聞くということによって、実在界を構成する経験内容が与えられるのだ。思惟の内容といえども、与えられるというのは、この立場において与えられると言うことができる。思惟と感覚はこの立場において結合するのである。
物が変じるというには、その根底に知ることを知るということがなければならない。この立場において繰り返すことのできない「時」の系列が成り立ち、かかる「時」の範疇において変じるものを見るのだ。そうでなければ、単に異なる物と物との関係を見る外はない(変じるものを見ることはできない)。いかにある体系がそれ自身において独立であり、またその内容が無限に尽くし難きものであっても、それは変じるものではない。知ることを知るという時、単なる対象以上のものを知るということができる。すなわち作用が作用自身を知るのである。判断的知識に対して、直観的知識が成立するのだ。この立場(作用が作用を知る直観的立場)において、我は、考える我を超越して、思惟によって達することのできない統一を見、感覚的内容も自己の統一の中に入り来るのである。感覚というのは完全に非合理的なものだ。しかし感覚が何らの統一に入り来らないものならば、感覚の意識も成立することはできない。感覚は広義の記憶(感覚の記憶)によって相関係することによって、感覚となるのである。そして記憶は我が我を知るという立場において可能なるのである。この立場において思惟が直覚と結合し、直覚的なるものを思惟すると言うことができる。構成的思惟の範疇というものは、自覚の立場(知ることを知る立場)において成立するのである。
我々の自覚の根柢には、超意識的統一がある。我々の意識統一はこれによって成立するのだ。昨日の我と今日の我は、意識が断絶されると考えられるにも拘らず、直ちに結合する(故に超意識的統一がある)。この結合は他によって説明することはできない。知識成立の条件である。我々の直覚的統一というのは、この立場においての統一である。我々の直覚はこの立場において一から他に移り行くのである。この立場は判断意識を超越するが故に、この立場において判断意識に対して無限にして繰り返すことのできない「時」の系列が成り立つのである(判断意識を超越することができないなら、繰り返すことのできない「時」の系列は成り立たない)。時とは超越我(知ることを知る我)の歩み行く足跡だ。この立場において、一と他が相異なるのみならず、一から他に変じ行くということを視ることができるのだ。しかしかかる変化が単に我々の意識統一の範囲内における変化とするならば、いかに繰り返されても、働くということはできない。働くもの(自ら変化するもの)は時においての統一(判断的統一)ではなく、時を超えた立場(直観的立場)に立つものでなければならない。我々の自覚の根柢となり、自覚がよって成り立つ立場の上に立つものでなければならない。力とは時を超越したものである。積極的内容を有する時である。
三
働くというには種々の意義がある。完全に何らの目的なく、必然的にある現象にある現象が伴うのを機械的作用という。物理的現象の如きものがそれである。同じ自然科学的現象であっても、生物学的現象の如きものに至っては、その一々の過程は機械的作用と見られるも、全体が一つの目的によって統一されていると考えられる。すなわち全体が合目的的作用を成すのである。我々の心理現象も(生物学的現象のように)全体において一つの統一を持つと考えられるが、その統一が現象そのものの中に内在的なることによって、自然現象とその性質を異にすると考えられる。統一が内在するとは何を意味するか。生物現象においてはその統一は外から与えられたものである。我々が外から斯く見るのだ。有機体の統一というも偶然的であるかもしれない。我々は自己の生理作用の目的すらも自知することはできない。これに反し、心理現象においては、過程と統一は離すことのできない関係を持っている。むしろ統一が要素に先立つということができる。いかに単一な感覚の如きものでも、多との関係を前提としない訳にはゆかない。統一なくして意識は成立しないのである。
すべて精神現象には、統一が内在的でなければならない。すなわち精神現象は誰かに意識されていなければならない。しかし我々は精神現象の中において、また合目的的なるものとそうでないものを区別することができる。感覚の如きは言うまでもなく、連想の如きものであっても随意的ではない。我々の精神現象の大部分は随意的ではない。その目的的統一は意識されていない。ただ、思惟とか意志とかいわゆる統覚作用なるものにおいて、始めて目的が意識され、我々の精神作用が自由と考えられるのだ。我々の精神作用というのも、我に対立する第二の自然であって、我々はこの客観界において自己の目的を実現して行くのである。その中について自己の要求に従える作用のみ合目的的と考えられるのだ。生物現象を合目的的という意味においては、合目的的というのは統一が統一自身に還ること(統一が統一を知ること)でなければならない。統一が自己自身を客観化することでなければならない。思惟も意志も共に能動的統覚と考えられるのだが、私はなおこの点を考えて見ねばならない。アリストートル(アリストテレス)の言う如く、物が変じると言うには変じるものがなければならない。聲が白くなり黒くなるということはない。白くなり黒くなるものは色でなければならない。色とは何であるか。これを単に一般概念と考えるか。一般概念が白くなり黒くなるはずはない。ならば物理学者の如く、その背後に機械的作用を考えるとするか。私はプロチン(プロチノス)の如く衝くとか引くとかいうことがいかにして多様なる色彩を生じるかと言いたい。アリストートルは変じるものは反対のものに移り行くと言うが、二つの性質が相反すれば反するほど、両者の根柢に同一なるものがなければならない。要するに色の識別もこれ(同一なるもの)によって成立するのだ。それはまず判断に対して主語となって述語となることなき本体(実体)と考えられるものであって、我々の精神現象とはかかる統一の発展に過ぎない(例えば、色という統一の発展が視覚作用である)。精神現象においては対象が内在するというのも、この意味に外ならないのだろう。識別されるものが直ちに識別するものである。その間に何らの媒介を容れる必要がないということでなければならない。これ故に感覚的性質が相反すれば反するほど、感覚的意識は明瞭となり、思惟は矛盾律によって明確となるのである。
右に述べた如く作用に種々の意義があるのだが、機械的自然といえども統一がないのではない。ただ合目的的統一がないというのである。カントが純粋統覚の総合統一によって自然界が成立すると考えた如く、自然界は統一された一つの世界でなければならない。自然界は因果の鉄則によって必然的に進み行くべきただ一つの方向に進み行くのである。働くもの(自ら変じるもの)は時において現れるとも、時の中にあるのではない。時を自己の表現となすものでなければならない。自然の客観性はこれ(時を自己の表現となすもの、働くもの)によって立せられるのだ。あるいは機械的因果であっても、合目的的因果であっても、時間的に一つの方向に向かって進み行くのだが、機械的因果においては、始に与えられた条件によって後に現れ来るものが定められると考えられ、合目的的因果においては、後に現れ来るもの(目的)によって、始から現れ来ったものが定められたと考えられるだろう。始から現れたものは手段と考えられるのだ。しかし後に現れるものが始に現れたものを定めたというには、後に現れるもの(目的)が始からあったと考えねばならない。始から働いたと考えねばならない。また始においてすべてが決定されると言うも、その決定は結果において現れるものによって定められるのだ。前にも言った如く原因と結果は一つのものの両面でなければならない。いずれの場合においても、統一そのものは過程と同列的に時間の上に現れるのではない。この意味においては(統一は)時間を超越していると言い得る。すべての因果関係において、始と終が一つに結合していなければならない。機械的因果においてもかかる統一がなければならない。あるいは機械的因果においては、統一に何らの意義がないと考え得るだろう。すべて自然科学的因果はその要素に分解することができ、その結合は完全に偶然的である。甲と乙の結合からある一定の結果を生じるとすれば、この関係はいかなる結合に入るも同一の結果を生じねばならない。自然法が一般的と考えられるのはこれによるのだ。しかしかくの如き因果関係が成立するというには、その背後に同質的なる物質が考えられねばならない。物質は物質自身の内面的性質、言わばその目的に従うのだ。身体の各部が特殊なる形成をなすことによって有機的統一を完成する如く、物質的自然は各要素が同質的となることによって機械的統一を完成するのだ。これを無目的的と考えるのは有機的統一から見る故に過ぎない。我々は物質的結合を偶然的と考え得るだろう。現実と異なる種々の結合を考えることができるだろう。しかし考えられた自然は与えられた現実の自然ではない。
すべて働くもの(自ら変じるもの)は時において働く。否時自身が既に無内容とはいえ、一種の働きと考えることができる。時は移り行くというが、時の背後に移り行かないものがなければならない。すべて一つの対象界からこれを包容する高次的立場に結合する時、無限なる系列が成り立つ。概念的認識の対象界が高次的なる直観の世界に結合する時、無始無終にして繰り返すことのできない時の系列が成立するのだ。高次的なる直観の立場(知ることを知る立場)は時の系列の起源となりまたその終極となる。時に対して永遠の現在と考えられる機械的自然の世界といえども、それがカントの言う如き直覚に基づく客観界である限り、かくの如き意味(時の系列)が含まれていなければならない。もし宇宙を構成する物や力が有限であって、単に同一の物や力が繰り返されるとするならば、時はすなわち力でなければならない。単に繰り返されるもの(力)は働くもの(自ら変化するもの)ではない。ヂュボァ・レーモンの言った如く運動の起源は不可解である。しかしこの不可解なもの(働くもの、自ら変化するもの)こそ自然をして働くものたらしめるものである。ただ、始に与えられた内容と終に現れるべき内容が同じと考えられる時、いかにそれが無限の系列であっても、時自身が無内容と考えられるのだ。始と終を結合する高次的立場(働くもの)そのものの積極的内容が現れて来ないので、無目的的とも考えられるのである。しかし完全に高次的立場への関係が失われるならば、全く時を離れた思惟の対象界となる外はない。
無目的的と考えられる機械的自然の世界といえども、それが働く世界である限り、その基礎が単なる判断意識(思惟の対象界)を超越する直観の立場の上に置かれ、無限の時において一定の方向に向かって進み行くものと考えられねばならない。自然界が拠って立つと考えられるカントの純粋統覚とは、思惟と直観の総合として時を含んだものでなければならない。しかし純粋統覚とは自己が自己を知るという意識(自覚)に基づかねばならない。自己が自己自身を知るということは、自己が自己を対象としてその内容を知ることである。作用が作用自身を知ることである。これにおいて時の積極的内容が見られ、いわゆる合目的的因果の世界が成立するのだ。目的的因果においては、時そのものが拠って立つ高次的立場(働くもの)の内容が明らかなるが故に、後に現れ来るもの(目的)によって前に現れたものが制約されていた(手段化されていた)と考えられる。時が逆の方向に進み行くとも考え得るのである。すべて現れ来るものは、全体の統一において動かすことのできない関係を持ち、一々の部分が異質的でなければならない。物の世界においては、すべてが一つの中心に統一されると考えられるが、我々の自覚に基づく時の世界においては一々の点が統一の中心となると考えることができる。純粋統覚が図式時を含むと考えられる時、既に自己自身の特殊化の方向を含むのだ。何人の自己でもない自己は自己ではない。単に一般的なる自己は自己ではない。自己は何処までも特殊化されねばならない。徹底した自覚の立場(いわゆる芸術的直観、行為的主観の立場)においては、形式的なる時の統一そのものも失われるのだ。自然の特殊化の根柢には実践我が潜んでいるのである。純粋統覚が自己自身を深めることによって、形式時の統一から、反省的判断力(特殊なるものが与えられ、これに対して一般なるものが見出される判断)による自然の合目的的見方に行き、この方向(合目的的見方)を進むことによって、種々なる有機的統一を見ることができるのである。有機的統一というのは具体時ともいうべき意志の内容に外ならない。右の如き考えによって、我々は有機的統一を自然の目的とも考えることができる。時における自然の進行は生物発展の手段とも考え得るのである。
右の如く考えると共に、自然界においては合目的性は主観的見方に過ぎないということも明らかとなるだろう。純粋統覚によって成立する自然界においては、合目的性は単なる反省的範疇であって、構成的範疇であることはできない。合目的性の範疇というのは純粋統覚が認識作用(という反省作用)として意志の形を取る時、初めて現れ来る範疇でなければならない。自然そのものの範疇(構成的範疇)ではなく、学問の対象として理解されるべく与えられた自然の範疇(反省的範疇)でなければならない。反省的判断の対象界である自然は理解されるべく与えられた自然と言うべきでもあろう。これに反し、いわゆる意識現象界においては合目的性はもはや反省的範疇ではなく、構成的範疇でなければならない。すべて意識現象界とは、純粋統覚が自己自身の中に省みる(自覚する)ことによって、見られ得る対象界でなければならない。純粋統覚が自己自身を省みるということは純粋統覚が働くもの(自ら変化するもの)となることである。意志の形を取ることである。純粋統覚の対象界にはいかなる形においても意志を見ることはできない。意志の自覚は純粋統覚が自己自身の中に省みることによって、現れるのだ。感覚の如きものであっても、それがある人の意識統一に属する意識現象である限り、その根底に純粋統覚の自覚というべきものが含まれていなければならない。精神現象においては統一が内在的であるということは、判断の主語となるものが判断作用自身の基体となることでなければならない。判断意識が精神現象を対象とする時、判断意識は自己自身の中に省みる(自覚する)のである。
四
すべて働くものは時において働き、時は自覚(知ることを知ること)によって成り立ち、自覚の根柢には意志が潜んでいる。無始無終なる時の系列は、思惟の対象界が思惟によって達することのできない立場(直観の立場)に結合する所に現れるのだ。機械的因果と言い、合目的的因果と言うも、根本的にその本質を異にするのではなく、両者共に意志の自覚的形式(意志が意志を知る形式)であって、合目的的因果の方向に進むに従って、意志は自己自身の根底に還る(意志は意志自身を自覚する)と考えることができる。働く(自ら変化する)と言うことを右の如く叶えるならば、これに対して全く時を離れた思惟の対象界とはいかなるものであるか。働く世界(意志の対象界)と働くことなき世界(思惟の対象界)は、いかなる関係において立つであろか。
私はまず永遠なる自然の法則と言われるものについて考えてみたい。自然がそれ自身において独立する一つの実在である限り、繰り返すことのできない一度的なる時の上に立っていなければならない。無論、我々はニュートンの絶対時の如きものを知り得る手段を有しないかもしれない。しかし何処かに唯一なる時を許さなければ、働く実在としての自然の概念は成立し得ない。甲があらば必ず乙があるという仮言的な一般法則を、いかに無限に積み重ねても実在的自然は成立し得ない。一つの物が他の物に働いて現実にある出来事を生じると言うには、何時でも全体との関係が含まれていなければならない。火が火薬に近づくことによって火薬が爆発するというにも、すべての周囲の事情(全体)がこれを許さなければならない。この意味において一つの事件が起こるにも、それは全世界との関係において立つということができる。そしてこの場合、全体との関係を荷うものは唯一の時でなければならない。いわゆる自然の法則なるものが、働く実在の法則である限り、時を離れたものであってはならない。移り行く現在の一点において時と結合していなければならない。すなわち全体と結合していなければならない。一般的法則というのは具体的全体から抽象されたものでなく、ただ特殊の座標に対していわゆる不変群を成すものである。一般的法則の底には何時でも全体の統一(時の統一)が予想されていなければならない。自然の法則を抽象されたものと考えるのは、自然現象以上の具体的実在(精神現象)の立場から考える故である。
無限の時において動き行くと考えられる自然において、一般的法則というのが、右の如く考え得るならば、一般妥当的なる思惟の内容と考えられるものは、思惟作用の世界における一種の不変群と考え得るではなかろうか。人格時においてすべての思惟の内容は相働く、すなわち一々が全体との関係において立っている。いかなる思惟内容も潜在的に人格的時を持っているということができる。人格時(内容ある時)とはいかなるものを意味するか。前に言った如く、時は自覚(知ることを知ること)によって成り立つ。時の背後には自覚があり、自覚の背後には意志がある。意志が意志自身の自覚に還る時、内容ある時、すなわち人格時が成り立つ。すなわち意志的統一の世界が成り立つのである。この立場から見れば、無内容なる時(物理時)の上に立つ自然の世界も考えられた世界となる。そして思想内容として他の思想内容と相互作用の関係に入るのである。先に(物理時において)自然の世界において不変の作用であったものは、今は(人格時においては)一般妥当的なる一般的法則となる。意志の対象界において不変群とも見做されるもの(一般的法則)は何であるか。カントのいわゆる「目的の王国」ともいうべき意志の対象界においては、何処までも特殊化の方向に向かって動いて行くと考えることができる。かくの如き特殊化の方向、言わば人格的座標に対して不変群を成すものは、一般妥当的なる思惟の内容でなければならない。すなわち各人に対して当為の法則となるものでなければならない。一般妥当的なる思惟の内容とは我々の精神的生活を構成する力とも考え得るだろう。人格的時の現在たる我々の内部知覚において、いつでも潜在的に働いているのである。あたかも物理時の現在において全体の関係が働くと考えられ、幾度にても繰り返すことのできる一般的法則というのは、周囲の事情がこれを妨げない(全体と相関する)ということを意味している如く、人格時の現在ともいうべき内部知覚において無限なる思惟内容が時間的に働くと考えられ、他の無限なる関係がこれを妨げないと考えられる時、一般妥当的なるもの(当為の法則)が見られるのである。内部知覚の明瞭(当為)というのは思惟内容の世界においてあたかも物理的実験の意義を有すると考え得るだろう。神の思惟という如きものにおいてはすべての思惟内容は働いていなければならない。あたかも全宇宙において物力が同時に働いていると考えられる如く、すべての思惟は神において現在でなければならない。我々の思惟の作用はかくの如き神の思惟の発現でなければならない。繰り返すことのできない時とは無限に達することのできない高次的立場への結合を示すものである。我々の意識の背後に超個人的なるものがあると考え得る限り、人格時においてすべての思惟内容が働いていると考えることができる。ただ、物理時という如きものを考える場合、永久真理という如きものは全く時と関係なきものとなる外はないのである。【此節に於て述べた所は尚議論の尽さざる所が多い】。
五
時は自覚的統一の上に成り立ち、働くものは時において働く。働くというにも種々の意義があるが、自覚が自己の根柢たる意志の自覚に還り、時が自己自身の内容を充実するに従って現れ来る種々なる変形として考えることができるのである。働くことなき永遠の真理と考えられるものも、前節において言った如く同じ根本的形式の中において考え得るでもあろう。今、表現作用のいかなるものなるかを論じ、種々なる作用との関係を明らかにするため、まず深く自覚的統一の根底に還って考えてみなければならない。
自覚的統一とはいかなることを意味するか。自己の意識であるという自覚がなくとも、意識はそれ自身において統一を持ったものと考えられねばならない。内面的統一なくして意識はない。感覚の如きものでも、かかる統一においてあるのだ。かくの如き統一(内面的統一)は疑いもなく現在の意識について言い得るだろう。また朝から晩に至るまで、かかる一つの統一が続くとも考え得るだろう。しかし睡眠によって断たれた昨日の意識と今日の意識が直ちに結合するのはいかなる統一によるのだろうか。前のものが終わらない中に次のものが現れるという意味において、両者の間に連続があるとは考えられない。今日の意識から言えば、昨日の意識は明らかに消え去ったものである。消え去った意識が何処に存在して現在の意識に働くのであるか。脳の皮質に痕跡が残っているのだと言えば、それまでかも知れないが、それは本末転倒に過ぎない。昨日の意識と今日の意識が直ちに結合して一つの意識となると言うには、既に無となったもの(昨日の意識)が働くと考えられねばならない。昨日の意識は物質の中に存在したと考えることができないのみならず、無意識に意識されていたというのも自家撞着である。意識の統一は完全に時を離れたものの統一と考えられねばならない。意識においては意味が働くのである。無論いかなる場合においても、関係そのものが関係の項の中にあるのではない。物力にしても物質があるという意味において、力があるとは言われない。しかし物力という如きものは何時でも存在すると考えられねばならない。我々に意識されると否とに関せず、物力は物力として存在しなければならない。何処かで働いていると言い得る。然るに意識現象においては、一たび意識された意識現象という意味を失ったものが、何処かに意識されているとは言われない。少なくも(現在意識と)同一の実在性を有するとは言われない。あるいは潜在意識というものを考え得るかもしれないが、潜在意識と現在意識は、次位を異にしたものでなければならない。物力の潜在と同意義においての潜在ではない。
右の如き訳であるから、意識においては、我々が意識しているという意味において、意識されないもの、即ち意識としては無なるものが、働くと言うことができる。精神作用が創造的と考えられ、自我の流は一度的にして繰り返すことができないと考えられるのは、これによるのだろう。意識は意識自身の中に含まれたこの矛盾を合理的ならしめるため、外に物質界なるもの(例えば、脳など)を考える。しかし物質界というのは、この無にして有なる意識の統一を離れて存するのではない。無の方向に投げられた有の影に過ぎない。かかる意味において、昔プラトーが質料を実在を受け取るものと考え、プロチンが実在を映す鏡と考えたのにも、深い意味を見出し得ると思う。物質界というものが成立するには、自己の影を映し居る光そのものがなければならない。いわゆる自然界とは、超越的自己が自己の内に自己を映し居る影像でなければならない。無の方向というのは、意識の統一を離れることではない。この方向(無の方向)を自己の中に含むことによって、意識統一が意識統一となるのである。プロチンが我々の心は円形運動をなすと言った如く、意識の統一は始となると共に終となるものでなければならない。原因(始)となると共に目的(終)となるものでなければならない。この円形が単なる円形であって、幾度でも同じ回転運動をするに過ぎないと考えられる時、単に自然界を見るのみであるが、この回転運動が螺旋状にして積極的意義を有する時、我々は意識統一の世界を見ることができるのである。意識の統一の根柢には、創造もしない創造されもしないというスコトゥス・エリューゲナの第四の立場の如きもの(?)がなければならない。かかる立場が直ちに第一の創造の立場である時、真の意識統一を見るのだ。意識の統一においては、統一が内在的であって、各々の点が全体の意義を含むと考えられるのも、右の意味に外ならない。意識の統一は一面において無でなければならない。自己自身の否定でなければならない。この点において自己はすべての自己の内容に対して(無として)平等である。しかしこれと共にすべての点においてその原因となり目的となる故を以て、すべての点において働いていると言うことができる。
従来、意識統一というものが考えられる場合、ある一つの中心という如きものが考えられ、更に進んで連続的なる一つの創造作用という如きものが考えられた。しかしかかる創造作用という如きものは、なお見られた影(対象化されたもの)に過ぎない。かかる創造作用が成立するには、創造されもしない、また創造しもしないもの(対象化されないもの)がなければならない。すなわち創造作用の基体となるものがなければならない。形あるものは形なきもの(創造作用の基体、対象化されないもの)の影ということができる。影なき空間において無限の形が成立するのだ。自己自身によって発展する無限の活動と考えられる我々の自己の根柢には、生じて生じず動いて動かざるものがなければならない。これによって我々の意識統一が成立するのだ。あるいはこれを無ともいうであろう。しかしそれは有に対する無ではなく、有を含んだ無である。あるいはこれを潜在とも考えるだろう。しかしそれは単に未だ現れざる現実(潜在)ではなく、無限に現れるべきものを超えたものでなければならない。無限の潜在を含んだものでなければならない。有形無形の万物を包蔵する記憶の偉大さを驚嘆したアウグスチヌスは、忘れるということも記憶の中にあると言っている。フィヒテは我と非我が絶対我において対立するというが、かかる絶対我の根柢には何処までも我を超越したものがなければならない。プロチンの言った如くいわゆる自覚はなお一者ではない。人格的なるものを見るには、超人格的立場がなければならない。人格を否定してしかもこれを自己の中に成立せしめる立場がなければならない。「目的の王国」の如きも実はこの立場において成立するのだろう。無限の人格を超越する立場においてのみ無限の人格を内に映すことができるのである。この立場は一面において無方向であり、無自覚であるということもできる。私がかつて絶対意志の立場と言ったのもかかる立場を意味したのである。
昔プラトーが「パイドン」において、我々は同等自体というものを見たことはない。しかし我々が同等なる物を見るのは同等のイデヤを分取することによってこれを知るのであると言った時、理想主義の動かし難い基礎が置かれたと思われる。しかし判断の根拠はこれ(イデヤ)によって与えられたとしても、知るという作用はこれ(イデヤ)から出て来ない。イデヤがイデヤ自身を見るということを明らかにするには、フィヒテの事行の考えに俟たなければならない。我々はフィヒテの考えによって働くもの(自ら変化するもの)と知るものとの深い内面的統一に到達することができる。自覚においては、真に働くことが知ることであり、知ることが働くことである(事行である)と言い得るのだ。しかしかかる自覚的作用が成立するには、自覚を超越した立場(知るもの)がなければならない。人格的なるものと超人格的なるものとの、我と非我との合一の立場において、人格的内容を対象化することができるのである。かかる立場(知るものの立場)こそ、真の直観の立場ともいうべきである。知るものと知られるものと一であるという一とは、なお対象化された一に過ぎない。無限に生産的なる基体なき作用といえども、なお対象化された作用である。真の一者はかかる意味においての作用の統一をも超えたものでなければならない。※百尺竿頭更に一歩を進めたものでなければならない。
※ 引用 百尺竿頭とは
あるいは無限なる自覚の統一として、超越的なる人格すなわち神の自覚という如きものを考え得るだろう。しかしかかる統一も真に自由なる自覚のアプリオリではない。かかる神はなお相対的たるを免れない。対象化された神である。これ故にかかる神の考えからは、各人の自由は失われ、悪の起源は説明されない。世界史において発展する神の自覚という如きものは、あたかも自然の根柢において考えられる空しき時の如きものに過ぎない。真の神は創造する神ではなく、神秘学者のいわゆる神性Gottheitの如きものでなければならない。物が働くという時、働くものと働かれるものが対立する。能動的なるものと受動的なるものが対立する。知るものが知られるものであり、働くものが働かれるものであるという時、主客合一の純なる作用が成立する。一たびこれを超えた時、働くもの(有)が働かないもの(無)の中に含まれる。かくの如くにして、働かざるものは単に受動的なるものではない。いわゆる認識のアプリオリと言っても、真にそれが客観界を与えるというには、単なる主観ではなく、客観を含んだものでなければならない。単なる形式ではなく内容を含んだものでなければならない。カントの超越的対象は単に超越的主観と同一ではなく、むしろ後者を包むものとも考えることができる。すべて主観的意識に対し客観界と見られるものは、我々の意識の作用を内に包み、これを成り立たしめるものでなければならない。そしてかかる意味において、すべてを内に包み、すべてを成り立たしめるものは、プロチンの※一者の如きものでなければならない。始に言った如く、意識には意識自身の否定(無)が含まれている。意識は自己自身の否定(無)を内に含むことによって成立するのである。
※ 引用 一者とは
六
自覚の統一の根柢が上に述べた如きものであるとするならば、無限に高次的なる立場(直観的立場)への結合を示す「時」は、要するに一者の立場によって成立すると言い得るだろう。プラトーがティマイオスにおいて言っている如くこの世界を永遠なるイデヤの原形に似せるため、「時」が作られたと考えることもできる。機械的作用から合目的的作用に、合目的的作用から意識作用に、自覚的統一がその根底に還るに従って、時の内容が充実されると考え得るならば、表現作用とは自覚自身をも否定する自覚の深き根底において現れ来る作用とも言い得るだろう。これにおいて時は時自身の形を失って永遠の相に入るのである。
私が人と語る時、言語によって私の考えは直ちに他の人に通じ、他人の考えはまた直ちに私に通じる。独我論者にあらざるよりは斯く信じざるを得ない。いかにしてかかる思想の交換が可能だろうか。言語とは物理的には空気の振動と考えられ、心理的には聴覚的現象に過ぎない。かかる言語が我々の思想を運びようはない。我々の精神の中に本質的に共同的なるものがあって、言語という符号によって互いに相認めると考えざるを得ない。表現そのものは非人格的にして両者に共通なるが故に、これを媒介として二つの精神が相知ると考えられるのである。斯く考えれば、表現とは我々の思惟に偶然的な無意義な符号とも考えられるのだが、プラトーが思惟とは心と心の言語なき会話であると言った如く、我々は何らかの意味においての言表なくして思惟することができるだろうか。私の前の心と次の心と相理解し合うには、何らかの意味において言表がなければならない。心と心の私語がなければならない。我々の思惟は言表によって客観化され、客観化されることによって、思惟が成り立つのだ。我々が全く言語の表象によらないと思う場合でも、何らかの表象が言語の代理をしているのである。赤の概念を考える時、赤の表象を思い浮かべるとしても、赤の表象と赤の概念は同一ではない。思想が思想となるには一度、公の場所に持ち出されなければならない。他人との共同の場所でなくとも、少なくも自分自身の心の公の場所に持ち出されなければならない。これが言表である。言表は思惟の結果ではなくむしろその成立条件とも言い得るだろう。我々の思惟は言表によって可能性を得、言表によってその主観性を脱却して客観的となるのである。我々の思惟の根柢には言表の世界がある。かかる意味において、ボルツァーノなどがいわゆる※命題自体の如きものより論理学を始めるべきであるというのは故あることであろう。
※ 引用 命題、論理学とは
思惟の作用とはかかる内容の発展に過ぎない。純なる思想は言語に言い表された命題自体の如きものでなければならない。我々の思惟はこれに始まってこれに終るのだ。フィードレルは言語は思想の外的符号ではなく、思想の発展の終点であると言うが、単にその終点であるのみならず、その出立点でもなければならない。純なる思想は我々の思惟作用の中に含まれているのではなく、むしろ言語の世界に宿っているのだ。言語は思想の身体の如きものである。無論精神のない身体は単なる物質に過ぎない様に、意味を宿さない言語は単なる音声に過ぎないだろう。しかし我々の生命は肉体(物質)の生成によって始まり、その結果はまた物の世界に保持されるのだ。ヘーゲルの言う如き客観的精神は客観的存在(物質)の背後にあるものでなければならない。客観的精神の統一はむしろ外にあるのである。プロチンが言う如く、大理石に刻まれた美しき形(客観的精神)は大理石(客観的存在)の内にあったのではない。以前からあったものである。あるいはそれは芸術家の頭の中にあったと言うでもあろう。しかし芸術家が単に眼と手を有するが故にこれを有するのではない。彼は芸術の理念(イデヤ)を分取するが故にこれを有するのだ。芸術そのものの中には遥かに高き美(客観的精神)がある。それは大理石の中には入らない自己自身の中に止まりながら、自己よりも劣れる形を生じるのである。すべて精神的なるものは自己の中に自己を写すと言い得る如く、客観的精神は言語によって自己の中に自己を写すと考え得るでもあろう。我々の心と心が互いに理会するのは、何時でもかかる客観的精神の立場において可能となるのだ。我々は言語によって客観的精神の中に生きることによって、互いに理解するのである。我々が自己の主観を没して客観の中に生きるには、客観的表現によらねばならない。すなわち言表によって我々は客観的思想の立場に立つのだ。明瞭に考えられた思想は明瞭な言表を持たねばならない。明瞭に言い表すことのできない思想はなお明瞭に考えられてない思想である。我々が物の概念を作るにも言語によらねばならない。赤の表象から赤の概念を作るにも言語の力によるのだ。命名作用によって、我々は表象作用を超越して意味の世界に入るのである。思惟と感覚の結合の如きも言表作用によると言い得るだろう。感覚が思惟の内容となるにはまず言表作用によって意味化されねばならない。赤が赤であると自己自身を言表した時、経験界の市民権を得るのである。
我々は言語によって主観的精神を超越して、客観的精神の立場の上に立つと言うことができる。言語という如き客観的現象が主観的内容を負うことによって客観的精神が自己自身を現すのである。これ故に思想は我々の判断作用をも超越すると言うことができるのだ。表現作用においては、意識の中心は意識的自己(主観的精神、意識的我)から超意識的自己(客観的精神)に移り、いわゆる意識作用はかえって身体の上に映された影像となるのである。言語を右の如く考え得るならば、芸術は最も秀でた意味において表現と言うべきだろう。言語においては、意味と言語の間には、内面的統一がない。言語は単なる符号と考えられるのである。物が意味を表現すると言う時、表現される意味と、表現される物と、この両者を結合する作用が考えられるだろう。言語の如きも、既に客観的精神の所作として、単なる意識的我の行為とは言われないが、意味と言語の間に直接の結合を見得ざる限り、別にこれを結合する作用を考えざるを得ないだろう。これに反し、芸術においては、表現される内容そのものの中に、作用が含まれているということができる。意味そのものが働く。意味が実在を含むと言うことができる。画や塑像は言語と異なって意味そのものの直接の表現である。無論、それは芸術家によって作為されたものと言い得るだろう。しかし前に引いたプロチンの語の様に、芸術家が眼と手を有するによって作ったのではなく、理念(イデヤ)を分取することによって作ったのである。芸術家は自己の主観を客観(=理念、イデヤ)の中に没入することによって、作為するのだ。芸術的創作作用には自然の創造に等しきものがなければならない。我々が芸術を見るのもまたこの立場(客観的立場)から見るのである。我々が何物かを作るというには、形と質料とこの両者を結合する作用がなければならない。形が直ちに働くもの(自ら変化するもの)と考えられるが、建築家の頭にある家の心像が直ちに働くものではない。また考えられた家と、建てられた家とは、いかに一々の点が相応じるとしても、同一の実在ではない。彫刻家の頭にある塑像が美なのではなく、大理石の塑像が美なのである。プラトーが等しい物は、同等そのもののイデヤを分取することによって、等しいと言った時、同等そのものは我々の頭にあるのではなく、真理の基づくイデヤたることは言うまでもない。しかしそれ(同等のイデヤ)は真理の根拠であるとしても、実在のイデヤではない。従って我々の作用には無関係ということができる。これに反し芸術のイデヤは自然以上の意味において実在のイデヤでなければならない。作用そのものを通して見られ得る実在の内容である。働くこと(自ら変化すること)によって見られ得る内容でなければならない。芸術家の創作はイデヤそのものの創造作用ということができる。
表現作用においては、いわゆる実在的と考えられるものが非実在的なるもの、すなわち意味という如きものの中に含まれる。実在的なるものが意味顕現の材料となるのである。合目的的作用という如きものにおいても、実在が目的の手段となると言い得るだろう。しかし合目的的作用にありては、未だ理想的なるもの(イデヤ)が実在的なるものを蔽うということはできない。(合目的的作用においては)作用の実在性によって意味の実在性が維持されるのである。表現作用に至っては、なお一歩進んで理想的なるものが自己自身を維持し、実在的なるものはその自由なる表現の手段とならねばならない。プロチンの如く芸術的理念(イデヤ)はそれ自身に止まり、劣れる形を生じるということができる。合目的的作用においては、時が意味を支えているが、表現作用においては時は永遠なるものの影となるのである。言語においては、意味と言語の結合が偶然的なるが故に、表現作用として不完全と考えられるが、一方においてはかえって意味そのものの超越性を見ることができる。思惟の自由性を見ることができるのである。これに反し芸術においては、意味と表現の結合が内面的なるが故に、主観が客観(意味、イデヤ)の中に没し、客観に制約されるとすら考えられるのである。しかし芸術のイデヤは何処までもいわゆる客観的実在を超越したものでなければならない。自然界以上にその根拠を持つものでなければならない。自然界に対して自由の立場に立つのである。そこに芸術的創作作用と自然の合目的的作用の区別があるのだ。作為してしかも作為しない立場において主客合一なるものを見ることができるのである。この意味においてはまた芸術は言語より一層完全なる表現ということができるのである。自然は言語と同じくイデヤの不完全なる表現ということができる。
前にも言った如く、作られた物は何物かから何物かに作られたものである。作るには作る者がなければならない。形は作る者の内にあり、質料は外にあると考えられる。形が作る者の外にあると考えられる場合においても、作る者は形に従って作るのである。これ故に形は働くものとも考えられるのだ。斯く形と質料と作用者が考えられると共に、物が変じると言うには、場所とも言うべきものが考えられねばならない。物が働くというにも、ある場所からある場所へ動くと考えられねばならない。すなわちその位置を変じると考えられねばならない。同一の場所においてその形を変じると考えられる場合でも、物が空間においてその場所の位置を変じるということでなければならない。また物がその形を変じるのではなく、単にその色を変じるとすれば、時においてその色を変じると考えられねばならない。時において物が変じるとしても、なおその物が「於いてある場所」というものが考えられねばならない。直線的なる時にしても、前の瞬間が去って次の瞬間に移るには、その前後を含んで止まる或物がなければなるまい。動き行く現在の背後に、何時でも止まれる現在がなければならない。時が時々刻々に移り行くものとするならば、その結果を維持するものがなければならない。これによってその結果が統一され、一次元的なる時として対象化されるのである。単に一瞬間から次の瞬間に移る生産的作用のみにては、その結果を統一することはできない。作用が作用を見るには作用を離れた立場がなければならない。
私は或物が変じる、或物が働くと言うことと、或物が意味を表現する、意味の表現であると言うことの区別を、働きとその場所との関係において考えることができないかと思う。基体なき働きというのはなお精神作用の如きものに過ぎない。真に作用を超越して実在を自己の表現となすものは、作用を自己の中に成立せしめて、しかも自己自身において止まるものでなければならない。作用に動かされることなく、自己自身の中に自己の作用を見るものでなければならない。建築家が家を建てるという如き場合では、質料が形の外にあって客観的実在と考えられる。生物の合目的的作用といえども、合目的的作用というのは我々の主観的見方であって、質料と考えられるものがその形を変じるのだ。質料から質料に移り行くと考えることができる。ただ、意識作用に至って、形が自己自身を質料として形成して行くということができる。意識作用においては潜在的なるも(質料も)また形でなければならない。しかし意識作用が自己自身を質料として変じ行くと考えられる時、その変じ行く場所という如きものがなければならない。形そのものの変じる場所というものがなければならない。精神作用についても、我々は潜在性というものを考えることができるだろう。しかしそれは作用自身の中に含まれているものでなければならない。未だ発展しない形でなければならない。形の動き行く場所とはいかなるものを意味するか。物質的なるものは単に未来に向かって進み行くと考えられるが、精神的なるものは、既に合目的的作用においても爾(そのように)考えられる如く、過去に向かって進み行くと考えることができる(目的が始からあるので、目的の達成、終は過去に還ると考えることができる)。その元に還ると考えることができる。時を逆の方向に進むのである。斯く精神的なるものにおいて始と終が結合していると考えれば、精神的なるものは、すべて自己(という場所)の中に自己を形成して行くと考えることができる。自己の中に自己を写すという自覚においては最も明らかにかくの如き本質を見ることができるだろう。斯く考えれば精神的なるものにおいては、働くもの(形相)と働かれるもの(質料)が一つであるのみならず、働く場所というものもそれと一つであると考えることができる。精神的なるものは永遠にして動くことなきものとも言い得るのである。しかし我々は意識作用について知的(知識的、反省的)と意的(意志的、発展的)の区別をなすことができる。知的作用においては、一般的なるものが自己の中に自己を実現して行くと考えることができるが、意志においては、我々は自己の意識の圏内を破って、更にその背後のものに結合し行くと考えることができる。プロチンの言う如く、精神は一者を直観すべく努力するのである。一者に向かって動き行くと考えることができる。我々の意識の対象界を自己が自己を映す反省の場所と考えるならば、意志の内容はこの場所に盛り切れない内容でなければならない。言わば我々の意識を外から包むものでなければならない。精神的なるものの根柢となる質料、いわゆる叡智的質料とは意志の内容と考えることができるだろう。かくの如き質料を基礎として精神的なるものが動き行くと考えることができる。プロチンは質料の考えを徹底して、物体も質料ではない。物の形や大きさや、種々の感覚的性質すら形に属する。真の質料とは形を受け取る場所とか、これを映す鏡とかいう如きものでなければならないと言った。かくの如き非有(質料、無)が有となる時、叡智的実在が成り立つのだが、更にかかる叡智的なるものを成立せしめるものが一者でなければならない。プロチンは叡智的なるものは一者に含まれていると言うが、一者は叡智的なるものの空間である。物理的空間上の線がヴェクトルと考えられる如く、一者の上の線は純なる精神作用である。叡智的なるものが一者において動き行くと考えられる限り、それは意志である。意志そのものをも超越してこれを中に成立せしむる一者の立場から見れば、すべてが意味に充ちた表現であるのである。純なる質料が光を映す鏡とするならば、一者は光そのものを見る眼ともいうべきだろう。動き行くものを、場所そのものの立場から見た時、働くもの(自ら変化するもの)は表現となるのである。
プロチンは生成する物の本質は叡智的なるものへの絶えざる運動にある。生成する物から未来を取り去れば、その存在を失う。これに反し永遠なるものに未来を加えれば、かえってその存在を失うと言っているが、時において生成するものはいわゆる実在界でなければならない。生物的発展の作用や意識作用が時の方向を離れることができないのみならず、意志作用すらも時の方向を離れることができない。ただ意志が意志自身を否定してその元に還った時、永遠なる実在となる。これにおいて時は永遠なるものの影となり、作為は不完全なる表現と考えることができる。家を造るという場合も一種の意志の実現と考え得るだろう。建てられた家とは、我々において木や石ではなく家である。しかしこの場合、意志の内容となるものは生存欲である。生存欲とは我々がこの空間時間の世界にその存在を維持しようとする欲望である。意志が自然に従うことによって起こるのだ。実在界を包む意志の内容ではなく実在界に包まれた意志の内容である。自然界がカントの言う如く純我の総合によって構成されると考えるならば、かかる構成作用は或物から或物を作るというのではなく、自己自身の内容を説明することでなければならない。この場合、構成することは自己自身について述語することであり、自己自身について述語することは構成することである。独立なる意志の内容とはかくの如き認識我の背後に見られるものでなければならない。この立場からしては、実在界は意志実現の場所と考えられる。知識我に対しては、反省の場所であったものが、意志我に対しては実現の場所となる。すなわちこの世界は意志と知識の両方の交叉点となるのである。更にかくの如き両方向(知的と意的、反省的と発展的方向)を超越し意志自身を内に含む立場、すなわち直観の立場からしては、この世界は表現の世界となる。言語は不完全な表現ではあるが言語の世界といえどもかかる世界に属するものと考え得るだろう。言語によって表現される意味の世界は、時と人を離れ、それ自身において永遠なる世界である。主知主義者の考える如く全実在界を意味化することができ、全実在界は意味の世界の中にあるとも考えられるのである。しかし家を建てるという如き実用的意志の内容が実在界を含むことができないと反対の意味において、単なる意味の世界は実在界を包むことができない。思惟の内容(意味)は超越的であるが、自己自身の中に表現の質料を有しない。他(言語など)を手段として自己を表現するまでである。自己の外に作用を見なければならない。これに反し芸術的内容に至っては主(作用)客(意味)合一にして、作用そのものが直ちに表現となるのである。時そのものを中に含む永遠なる実在の相を見ることができる。しかし芸術的内容も未だすべての意志を否定し、実在そのものを表現化するとは言われない。芸術的内容が仮相と考えられる所以である。私は※叡智的実在としてカントの叡智的性格の如きものを考えてみたいと思う。我々の身体は叡智的性格を宿す一種の表現と考えることができるだろう。すべての理想的なるものと実在的なるものとの交叉点ともいうべき身体において、表現の内容、作用、表現そのものが一である。身体そのものを表現化することによって、すべての実在を表現化することができる。すべての表現作用は肉体の運動を通じて可能である。道徳的行為とは我々の身体を表現化することによって、全実在を表現化する過程でなければならない。宗教的立場においては、全実在もまたただ一種の表現と見られるのである。
※ 引用 叡智とは
七
以上論じた所を総括して言えば、働くもの(自ら変化するもの)は時において働き、時は自覚の形式であって、種々なる作用は自己が自己の根底に還る(自覚する)ことによって成立すると考えることができ、機械的作用から合目的的作用に、合目的的作用から意識作用に、自己の根底をなす意志の自覚によって、抽象的作用から具体的作用に至るのである。これを時が時自身の内容を得ることによって、種々なる作用が成立するとも言い得るだろう。しかし自覚の最も深き根底には自覚そのものをも否定した立場がなければならない。すなわち意志否定の立場がある。この立場において我々は自己そのものをも対象化し得るのである。この立場がすなわち直観の立場である。この立場からしては、時そのものも消滅して、万物は表現となる。見られるものが見るものより大なる場合(主客対立する場合)は言うまでもなく、見るものと見られるものが一つと考えられる場合(主客合一する場合)も、なお真の直観とは言われない。見るものが見られるものを包む時、初めて真の直観となるのである。かくの如き直観の立場が宗教の立場とも言うべきだろう。自己自身によって存在し、自己自身によって理解される真の実在は、自己自身を表現するものでなければならない。私はすべての作用の終極とも考えるべき直観から出立して、逆にすべて作用といわれるものを不完全なる直観として考え得るではないかと思う。
我々の感覚の対象となる色や音の経験内容というものも、直接の経験として見れば、エーテルや空気の振動という如きものよりも根元的な事実であって、色の経験自身、音の経験自身の自発自転と見る外はない。自発自転と言えば、既に作用の意味が含まれているが、この場合、ただ色が色自身を、音が音自身を見るのである。論理的述語を借りて言えば、自己自身について述語するのである。かかる自己闡明(せんめい。明らかにすること)を自己の立場から感覚作用というのである。しかし斯く言う場合、未だ意識的自己があるのではない。かかる立場はすぐに表現の立場であるのである。無論、なお表現の内容、作用、表現そのものが分化していないが、広義にて自己が自己を否定し自己の中に自己を見る立場というべきだろう。これ故に感覚的内容は直ちに意味の世界に入り、言表作用の内容ともなるのである。純粋統覚の統一によって成るいわゆる経験界の根柢にも、自己闡明の主体がなければならない。純粋統覚が単なる論理的主観ではなく、形式と内容の総合統一であるとすれば、かかる主観は自己自身を証明するものでなければならない。我々が客観的実在を認識するということは、逆に客観的実在が自己自身について述語することである。感覚的経験においては、表現の内容も、作用も、表現者の背後に隠れているが、構成的思惟の世界に至っては、構成するものとされるもの、形式と内容が対立する。ただ作用そのものの内容が顕現的でないから未だ表現の意義が明らかにならないのである。無内容である自覚の形式たる「時」、無内容である意志の形式たる「作用」の語によって表現の内容が消されているのだ。しかし合目的的自然の世界に至っては、表現の内容が単なる作用から独立して作用を自己の中に含むということができる。作用は目的の手段となり、広義における意志の対象界が成立するのだ。無論、合目的的自然の内容と表現の内容は直ちに同一視すべきではないが、芸術の内容となるものは純なる生命の内容でなければならない。また生命の内容が客観的である限り芸術の対象と等しく超知識的立場の上に立つものでなければならない。ただ自然の合目的的作用においては、表現の内容は未だ作用を超越することはできない。生命自身が自己自身において立つということはできない。物によって維持される生命である。形成作用において、質料が形を包む時、なお合目的的自然の作用たるを免れない。基体なき作用ともいうべき精神作用に至って、すべてが形となる。しかし無限なる作用の連続の根柢には、作用を超えた不変の或物がなければならない。内面的質料ともいうべきものがなければならない。かかる内面的質料が形を包む時、形成作用は表現作用となるのだ。自然の世界から表現の世界への転換をなすものは純粋統覚である。純粋統覚の立場を超える時、我々は自然の世界を超越して叡智的実在の世界に入る。これにおいて自然そのものも一つのイデヤとなるのだ。理性が真の芸術や道徳の基と考えられるのもこれによるのだろう。この世界においては、すべての実在が作用を内に包み、各々が自由なる人格でなければならない。作用はその手段となり、不完全なる表現となる。各自が自覚的にして、時を内に包むが故に、各自が時を超越する永遠の実在とも考えられるのである。価値が価値自身を維持する世界は、時のない世界ではなく、むしろ時を内に包む世界である。アリストートルの第一動者の如く思惟が思惟自身を思惟することによって永遠の実在となるのである。自然界が抽象的なる時を中軸として成り立っているとすれば、叡智的世界は具体的なる時によって成り立っているのである。具体時は各自分化の方向に進むことによって、自己自身を維持するのだ。「四」においても言った如く、一般妥当的法則というのはかくの如き方向に対して不変群をなすものである。
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