西田幾多郎 「自覚に於ける直観と反省」結論及び跋の現代的改定+補足
このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。
※筆者の独断により、“~”、「~」等の記号を付け加えています。
※西田自身が補足としてつけているかぎ括弧は、【】で表しています。
※筆者が分からない部分は?をつけています。お判りになられる方がいたらご指摘いただけると幸いです。
この記事においては、「自覚に於ける直観と反省」の中の、結論及び跋を現代的に改訂し補足したものを抜粋して掲載しています。全文はこちらになります。https://note.com/kind_murre555/n/nf0e74a78b84b
結論
四十~四十一(絶対自由の意志)
四十
多くの紆余曲折の後、私はついに前節の終において、知識以上のある物(真の主観である絶対自由の意志)に到達した。私はこれにおいてカント学派と共に、知識の限界というものを認めざるを得ない。ベルグソンの純粋持続のようなものも、これを持続という時、すでに相対の世界に堕している(思惟により抽象化し対象化されている)。(純粋持続は)繰り返すことができないというのは、すでに繰り返し得る可能性を含んでいる。真に創造的な絶対的実在は、ディオニシュースやエリューゲナの考えのように一切であると共に、一切でないものでなければならない。ベルグソンも緊張の裏面に弛緩があると言っているが、真の持続はエリューゲナの言ったように、動静の合一、すなわち止まれる運動、動ける静止でなければならない。これを絶対の意志というも、すでにその当を失している。真にいわゆる説似一物即不中(禅語。一物を説似せんに即ち中らず。少しでも言葉にしてしまったら、それは違ってしまうという意)である。
現代の哲学において、認識以前の実在とも言うべきものは、あるいはベルグソンの純粋持続のように不断の進行と考えられ、あるいは未だ形成されていない質料のようなものと考えられ、あるいはプラトンの理念の世界のようなものとも考えられている。しかしこれらの考えは、いずれもすでに相対の世界に堕している(思惟により抽象化し対象化されている)。知識対象の世界に堕している。真に直接な知識以前の絶対とは言われない。私はこの点において昔のディオニシュースやスコトゥス・エリューゲナなどのような中世の神秘哲学の考えが、遥かに徹底的ではないかと思う。神は有となすも中(あた)らず、無となすも中らず、神を動というも中らず、静というも中らず、真にいわゆる言得三十棒、言不得三十棒(禅語。言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒。言うも言わないも正解ではないという意)だ。私はエリューゲナの創造して創造されない神は、創造もせず創造もされない神と同一であるという考えに深い意味を認めざるを得ない。あるいは物自体(真に直接な知識以前の絶対)はこのように思慮することのできないものとすれば、それ(物自体)は完全に無用の仮定ではないかという人もあるだろう。しかし「甲は甲である」という命題を成立させるものは、主語「甲」の中にあるのでもなければ、客語「甲」の中にあるのでもない。ならばとてこの二者(主語と述語)を離れてあるのでもない。しかもその全体は、我々が「甲は甲である」ということを考える前に与えられてあるものとしなければならない。連続ということは単に無限に分かつことができるというのではなく、与えられた全体から出立して考えてみなければならない。このような全体(与えられた全体)は認識対象として限定する(対象化する)ことはできないかもしれないが、我々はこれ(与えられた全体)を認識の根底として認めなければならない。分析の上には(与えられた全体に対して)何らの統一を見出すことができないかもしれないが、種々なる要素の関係はこれによって成り立っているのだ。新実在論者は関係に入るものと関係自身は別物であると言うが、何らかの意味において関係に立たないものは、他の関係に対して別物として己を維持することもできない。関係とその要素は相離すことはできない。これらの全体(与えられた全体)を一というも中らず、多というも中らず、変ずるというも中らず、変じないというも中らず、眼は眼を見ることはできず、カメラはカメラ自身を写すことができないように、これ(与えられた全体)を認識というカメラのレンズの中に収めることは不可能だろうか、我々は意志自由の形において直ちにこれ(与えられた全体)に接することができる。カントのいわゆる「汝は斯く為さざるべからず」という道徳的意識(当為の意識)は、認識意識(対象を認識する意識)よりも一層深い直接な事実(与えられた全体)だ。否、単に深いとか直接とかいうばかりでなく、前者(道徳的意識、当為の意識)はかえって後者(認識意識)を包容すると思う。我々の知る世界、否知るべき世界(知識対象界)は広い。しかしこれにもまして我々の欲する世界(意志の対象界)は更に広い。夢の如き空想も我々の意志対象の世界の領域に属するのだ。知識の世界においては虚幻と認められることも、意志の世界においては実在だ。「汝は為さざるべからざるが故に汝は為し能ふ(為すべきでないが故に為すことができる?)」という語も、これにおいては毫も怪しむに足らない。多くの主知論者(感情や意志よりも知性・理性の働きに優位を認める立場)からは、意志の自由ということは単なる錯覚でもあるかのように考えられているが、私はかえって知るということは意志の一部分であって、今日の目的論的批評論者の言うように、認識の根底に意志があると思う。意志の世界は知識の世界に比べて、無限に広くかつその(知識の世界の)根元となる。意志によって知識の世界、必然の世界が成り立つのだ。スコトゥス・エリューゲナなどが、神においては何らの必然も何らの定命(天から定められた運命)もない。定命は神の意志の決定に過ぎないという語に深い意味があるのだ。主知論者が自由意志を空想のように考えるのは、意志を(思惟により抽象化し)対象化して見ているからだ。これ(自由意志)を自然数の世界に投射して見るが為だ。しかし万が一にもこれ(自由意志)を自然的因果の世界に投射した時には、すでに意志というものではなくなる。何らの意味においても意志の背後に因果を認めるのは(自然的因果の世界に意志を投射することは)、意志を否定するということだ。外的必然(自然科学的因果)のみならず、内的必然すなわちスピノーザのいわゆる必然的自由(当為の意識?)ということも、意志と結合することはできないのだ。
意志は創造的無から来って創造的無に還り去るとか、神の意志によって世界が生じるとかいうことは、我々の因果律の考えに対して深い矛盾と感じられるだろう。しかし無から有を生じるということほど、我々に直接にして疑うことのできない事実はない。我々のこの現実において、絶えず無から有を生じつつあるのだ。これを潜在的なものが顕現的となると言うのも、単に空名によって我々の論理的要求を満足し得るのみであって、実際は何物も説明し得たのではない。斯く無から有を生じる創造作用の点、絶対に直接にして何らの思議を入れない所、そこに絶対自由の意志がある。我々はここにおいて無限の実在に接することができる。すなわち神の意志に接続することができるのだ。前に現在は無限な世界の接触点であると言ったが、現在はすなわち意志だ。無限の世界は意志によって結合されると考えることができるのだ。(主知論者のように)空虚な意志から何物も出ないと考えられるのは、意志という抽象的概念を実体化して考えるからだ。このような無内容な抽象的概念からは、何物も出ないのは言うまでもない。中世の一般概念論者が有を世界の根底と考えた場合においても、もしこれ(有)を抽象的一般概念と考えるならば、かかる抽象的概念から何物も出ようはない。しかしこれに反しもしカントが「先験的演繹」において言ったように、先験的自我(純粋統覚?)の統一というようなものを考えてみるならば、我々は少なくともこの形式(先験的自我の形式)によって世界が成立すると考えざるを得ない。そしてこの考えをなお一層進めて、超越的意味すなわち価値というようなものを考えてみるならば、意味または価値によって世界が成り立つということができる。デカルトが神の本質的証明において、我々に「完全」という考え(意味)のある以上は、完全なものが存在しなければならないと言っているが、その存在という語を自然科学的意味の存在(実在)と解すれば、このような議論は概念と実在を混同した幼稚な議論とも言うべきだろう。しかし意味の前に存在があるのではない。存在は当為(意味)に基づかなければならない(存在の前に意味がある)。我々が完全ということ(完全という意味)を考えるからには、絶対的規範意識(絶対的な当為の意識)の存在を許さねばならないというのは、怪しむに足らないのだ。物理学者の性質とか力とかエネルギーとかいうものも抽象的概念に過ぎない。我々は普通にこのような概念(意味)を実体化して、これ(実体化した意味)によって現象の変化が生じるかのように考えているが、これはかえって本末転倒の誤謬だ。直接経験の上では無(意味)から有(存在)を生じるのだ。その変化は互いに分離するものに移り行くのではなくて、連続的推移だ。いわゆる具体的一般者(連続体)の自己実現だ。我々はこの場合(具体的一般者の自己実現)においても無から有が生じると言う外はない。潜在的なものが顕現的となったと言っても、実際は何らの説明も与えられてはいない。直接にはただ内面的必然の推移あるのみだ。我々は断片的な感覚(意識内容、意味)を統一して「赤いもの」とか「青いもの」(存在)とか考える。すなわち一つの連続(具体的一般者の自己実現、連続的推移)を考える。そしてこれ(連続)を客観的実在と考え、これによって我々の思惟の要求を充たすのだが、このようにして客観的実在に到達し得たと思うのはかえって自己の直下に返るのだ。直接にして一層具体的な思惟の創造(自己)に還ったのだ(断片的な意識内容は抽象的であるが、それが具体的一般者の自己顕現、つまり思惟の創造作用として「赤いもの」となったとき、その「赤いもの」という実在は抽象的な断片的な意識内容と比べて具体的な意識であり、具体的な思惟の創造に還ったということができる)。そして思惟が自然的実在を創造するとすれば、更に思惟そのものを創造するものは意志だ。意志は最も直接にして最も具体的な絶対的創造だ。フィヒテが「我」から「非我」を生じると言ったのも、もしこの「我」を相対的我(対象化された我)と考えるならば、論理的必然と因果的必然(概念と実在)を混同したものとしか思われないだろうが、フィヒテのいわゆる絶対我すなわち絶対意志とは右に言ったように我々に最も直接な創造作用でなければならない。ὄν+μὴ ὄν(存在+非存在(アプリオリ)、具体的一般者の全体)でなければならない。意志のアプリオリは知識のアプリオリを包含するのみならず、これ(知識のアプリオリ)に比べて一層深くかつ広い。前者(意志のアプリオリ)は後者(知識のアプリオリ)に対して非合理的と考えられるかもしれないが、普通に合理的と考えられるものの中にも、論理に対して数理は非論理的であり、数理に対して幾何は人為的だ(合理的ではない)。しかも具体的立場においてはこれらのアプリオリの奥に一種の内面的必然を認めなければならないように、意志はすべてのアプリオリを結合する内面的必然だ。
昔ディオニシュースやエリューゲナなどが神は一切であると共に一切でないとか、神は総ての範疇を超越するとか言ったところから、応無所住而生其心(禅語。応に住する所無うして其の心を生ず)と言ったように、忽然として生じ現れ来る直接の経験とはどのようなものだろうか。無論その全豹は思慮分別を絶したものだろうが、私はこれ(直接経験)を絶対自由の意志と見るのが最もその真に近いと思う。すなわち真に具体的な直接の経験は、絶対自由の意志に彷彿たるものであると思う。真実在は無限な発展であると共に、一方においては自由にその元(根元)に返り得る「永久の今」だ。一方においては量(発展)であると共に、一方においては質的(限定的)だ。かつて言ったように、前者(無限な発展)は数の基礎となり、後者(永久の今?)は幾何の基礎となるということができる。一方から見れば反省それ自身が進行(発展)だ。思惟そのものが事実(発展)だ。そしてこれと同時に進行(発展)は目的に向かって進み行くのだ。神は始であると共に終だ。右のような絶対自由の意志は、論理的には矛盾と考えられるだろう。しかしエリューゲナが神は動的静、静的動と言ったように、論理的に矛盾する両方面(発展と限定)を統一したものが、実に我々の自由意志の体験だ。いかにしてこのような矛盾する両方面を統一することができるかは、論理的には説明はできない。しかし論理的思惟は、かえってこのような自由意志を仮定して成立することができるのだ。思惟の三法則というようなものを考えるにも、このような体験(限定即発展、発展即限定である直接的な自由意志の体験)を許さなければならないのだ。いわゆる経験論者はこともなげに自由意志は錯覚などと言うが、これらの人々の考える実在とは思惟の対象に過ぎない。そしてこの考えを徹底すれば、ロッツェの考えたように相互作用の統一というようなものとなり、更にこのような考えを徹底すればかえって絶対の自由意志というようなものに至らねばならないと思う。私はこれまですべての実在を自覚的体系として考えてきたが、自覚的体系の背後は絶対自由の意志でなければならない。実在の具体的全体を得るには、知識的自我の後に実践的自我の背後を加えねばならない(ὄνにμὴ ὄνを加えなければならない)と思うのだ。知識的自我の対象であるいわゆる実在界よりも、実践的自我の対象である希望の世界は広い。前者(実在界)は可能的世界の一部分に過ぎない。前者(実在界)から見れば後者(希望の世界)は非合理的とも考えられるだろう。しかし後者には後者の統一があるのだ。我々の良心と言われるものがそれだ。「汝は斯くせねばならぬ」という定言的命令(道徳的意識、当為の意識)は論理的には不可解であるかもしれないが、我々の論理的要求は良心の一部に過ぎない。知識的自我は実践的自我の上に立つのだ。我々の世界は当為(道徳的要求、良心)を以って始まるのだ。「神、光あれと言ひ給ひければ光ありき」と言ったように、世界は神の意志を以って始まるのだ。オリゲネスが新プラトー学派に反して、世界創造の根底に道徳的自由を認め、物質界を神の最後の流出とせず、処罰の世界としたのは、単なる知的な新プラトー学派に比べて、一層深い所があると思う。神は無から世界を造ったというのは不合理のようではあるが、神は因果を超越して知識的には無でもなければ有でもない。もし知識以前に何らかの因果を認め得るならば、それは道徳的因果でなければならない。アウグスチヌスが神は愛から世界を作ったと言うように、道徳的因果は自然的因果より根本的だ。実在をロッツェの言うように作用そのものと考えたならば、その相互の内面的関係は意志と意志の関係でなければならない。すなわち道徳的でなければならないと言うことができる。自然的因果律はこれ(作用の内面的関係、実在)を外から見た表面的関係に過ぎない。
右に言ったように意志が知識の根底であって、知識は意志によって成立するのだから、知識に対して最初に与えられたもの、すなわち直接の所与は意志の形でなければならない。動的実在でなければならない。ベルグソンが直接経験を純粋持続となし、リッケルトなどが無限に異質的なものを所与となし、歴史を以って自然科学よりもこれ(所与)に近いものとなすのはこれ(直接の所与は動的実在という意志の形であるということ)によるのだ。無論、真実在すなわち神は(動的実在のように)動とも静とも言われないが、これ(真実在、意志)を顧みたものが無限の進行(発展)だ。(自然科学ではなく)歴史が最初の(認識の)対象だ。認識の対象と言えば普通には我に対するものを考えるのだが、我々の認識に客観性を与えるものは、かえって認識作用の背後に横たわる具体的基礎(連続体、具体的一般者)でなければならない。すなわち中世哲学における主体でなければならない。我々が客観的実在を知るのは、自己の根元(具体的基礎、連続体)に返り行くのだ。自己の背後を省みるのだ。この意味において我々の認識の最後の対象は、絶対自由の意志でなければならない。無論絶対自由の意志はどこまでも認識作用を超越して認識対象としては不可得ではあるが、対象としてその最初の相は、絶対作用(意志)でなければならない。あるいはこれに反して、判断作用の意識の前に、超越的意味すなわち価値があると考えられるだろう。しかしリッケルトなどのように考えるならば、超越的意味はどのようにして内在的となることができるだろうか。プラトンの理念はいかにして現実に堕し来ることができるだろうか。我々の体験を反省し分析した上においては、作用と意味を分かち、後者(意味)が前者(作用)を超越すると考え得るでもあろう。しかし我々はその以前に、具体的全体(具体的基礎、連続体)を体験していなければならない。無論リッケルトなどもこの体験(具体的全体の体験)を許しているのだ。自然科学的に考えられた心理作用というようなものに対しては、意味の世界が根本的と考えねばならないだろう。フッサールの言うように事実の世界も、氏のいわゆる本質から成り立っているのだ。しかし我々は意味の世界の前になお、体験の世界を認めなければならない。プラトンの理念の前にプロチヌスの一者を認めなければならない。そしてこの一者はプロチヌスの言ったような流出の根源というようなものではなく、むしろオリゲネスの言ったような創造的意志でなければならない。
絶対的自由の意志が翻って己自身を見た時、そこに無限な世界の創造的発展がある。かくして認識対象として与えられる最も直接な最初の対象は、歴史でなければならない。ベーメの言ったように対象なき意志が己自身を顧みた時、この世界(個人的歴史)が成立するのだ。それでは反省ということは何を意味するか。反省はいかにして可能であるか。絶対自由の意志とは、進む(発展、創造)と共に退く(限定)ことの可能性を含むことだ。creans et non creata(創造と非創造) と共に nec creata nec creans(創造することも創造されることもない) だ。反省というのは、小なる立場から大なる立場(具体的基礎、連続体)に移り行くことであり、自己が自己の(具体的)根元に返り行くことであり、行為とはこれに反して一つの立場から進み行くことだ。自己が己自身を発展して行くことだ。しかし翻ってこれを考えれば、反省それ自身がまた一つの行為だ。(反省において)退くと考えられるのは進むのだ。自己の元に返り行くのは自己を発展する所以だ。斯く考えれば認識も一つの意志となる(退くと考えられる反省という行為も、意志の発展的側面の一つとなる)。すべてが意志の発展となる。単なる反省と考えられるのは、包容された小なる立場から、包容する大なる立場(具体的基礎、与えられた全体)を見た場合に過ぎない。(対象化された相対的意志ではなく)絶対的統一すなわち絶対的意志の立場から見れば、すべてが一つの意志となる。勿論厳密に言えば、絶対的統一すなわち絶対的意志というようなものは、これを対象界に投射して考えることのできないものだから、真の統一は統一と言うこともできなければ、無統一と言うこともできないだろう。これ故に真の絶対的統一(意志、真の主観)においては、すべてが知識であると共に意志だ。アウグスチヌスは神は物があるから知るのではなく、神が知るからものがあるのであると言ったのは、このような体験を言い表したものと考えることもできる。物理学者が超個人的意識の立場に立ち、(超個人的な)物理的世界観の構成に向かって進む時、それは知識の発展であると共に大なる自我の構成作用だ。我々がある物を想像しある事を実行する時、これを内面的に見れば、我の意識がある状態に達しようとするのだ。自己のある状態を知ろうとするのだ。純反省の立場から見れば、心理学者のいうような(相対的)意志も一種の観念連合に過ぎない。主知主義の心理学からはすべてが知識であると考えることもできる。(主知主義の心理学からは)いかなる意識内容の発展が知識と見られ、意志と見られるかは、ただ我々の立場の取り方によるのだ。そしていかなる立場を取るかは絶対意志の自由だ。真に直接な実在は創造的意志だ。創造的であるが故に絶対自由だ。ベルグソンの言うような繰り返すことのできない創造は、すでに内から限定(対象化)されたものだ。創造ではなく発展だ。(ベルグソンの純粋持続とは違い)絶対自由の意志には復帰の方面(思惟においてのように、自己の根底に返る方面)が含まれていなければならない。nec creata nec creans(創造することも創造されることもない) の方面がなければならない。このような意志の立場の自由ということが、我々が具体的経験を随意の立場から見て、種々の概念を作るいわゆる抽象作用として知られるものだ。抽象作用というのは意志の無秩序の方面を示すものだ。我々はある一つの具体的経験を何の方面からでも自由に抽象し得ると考えるのは、抽象作用は自由意志の一部分であるが故だ。
四十一
私は前章において我々に最も直接な具体的経験は絶対自由の意志であると言った。意志と言えば、直ちに決断というような無内容な形式的意志が(一般的には)考えられるのだが、私の絶対自由の意志というのはこのような抽象的意志(形式的意志)を意味しているのではない。我々は考えることができると共に、見ることもできれば聞くこともできる。種々の思想が我の配下に属するように、種々の経験内容も我の配下に属するということができる。視ること、聞くこと、考えること、動くこと、意志はこれらの能力すべての総合だ。この手を右に動かすか、左に動かすか、我において自由と考えられるのは、我はこの手の力であるが故だ。我は右にあるのでもなく、左にあるのでもなく、(我は)左右の運動を成立させるものであるが故だ。普通の考えでは、意志は二つの直線の結合点のようなものと考えられている。二つの直線が与えられて、その結合点が定まって来るように、二つの衝動が与えられ、その競争によって意志(結合点)が定まって来ると考えられている。このようにして意志の自由と必然の議論が起こって来るのだ。しかしこのような考え方はすでに意志を対象化したものだ。一定の方向を有する二直線というようなものが与えられた時、すでにその結合点が与えられているのだ。意志は結合点のようなものではなく、むしろこの関係を成立させる次元だ。意志は種々の動機の競争を決するものではなく、むしろこれを成立させるものだ。ここにおいても、与えられたものは求められたもの(要求されたもの)だ(上の例で言うと、抽象的な意識の断片が「赤いもの」という具体的根元を要求する。「十四」を参照)。始と共に終が与えられるのだ。意志は種々なる作用の成立の根元であるが故に、様々な作用を総合して自由であるのだ。このような統一を人格の統一と名付けることができるならば、実在の根底には人格的統一があるということができる。我々に最も直接な具体的経験は人格的だ。我々の手の動く所、足の踏む所、そこに我々の全人格があると言うことができるのだ。ヘーゲルが概念は直接なものの仮定であると言ったように、意志とか人格とかいうのは、個々の意識の外にあってこれを統括するのではない。これらの意識を成立させる内面的創造力だ。名匠の一筆一刀の中にもその全創造力が宿っているように、個々の意識はすべて我々の意志、我々の人格の創造だ。これ故に我はすべての作用を統一して、我は自由であるのだと言うことができるのだ。我々は神の像のように造られたものだ。
見るとか聞くとかいうような知覚作用も、決して普通に考えられるような受動的作用ではない。フィードレルの言ったように我々が視覚に純一となるとき、そこに無限の発展がある。純粋視覚の世界は芸術的創作の世界だ。フィードレルは他の感覚においてはこのような発展を認めていないようであるが、程度の差こそあれ、私はすべての感覚においても同様であると思う。純なる知覚作用はすべて無限なる発展でなければならない。意識内容それ自身の発展でなければならない。我々の意志とか人格とかいうのは、このような一つのアプリオリからそれ自身に発展する様々な作用の統一だ。知覚であれ思惟であれその直接の状態においては、それ自身に発展する無限の活動であって、これらの統一が我々の意志であり、人格であるのだ。私はこれにおいてかつて論理と数理の間において、また数理と幾何の間において論じた知識の形式と内容の関係についての考えを、経験全体に及ぼして考えてみたいと思う。抽象的立場(例えば、数理に対する論理の立場、赤いものに対する意識の断片)から見れば、すなわち単に対象として考えてみれば、論理に対して数理は非論理的となり、数理の基であるアプリオリは論理に対して外から加わって来ると考えなければならない。しかし具体的立場から見れば、すなわち直接の全体として見れば、数理は論理の根元となり、後者(論理)はかえって前者(数理)によって成立すると考えることができる。論理が己自身を完成し行く時、すなわち主観的(質)から客観的(量)に移り行く時、自ら数理に移り行かなければならない。知識客観性の要求から言えば、数理は論理の目的となるのだ。知識の形式と内容の関係は、形式に対して内容が偶然的に外から与えられるのではなく、形式が内容を要求するのだ。そして形式が内容を得るのは、己自身の根元に返り行くのだ。一言で言えば発生的関係だ。種子と成長する植物のような関係だ。前に思惟体系の発展を論じて、論理から数理に至り、数理から幾何に及び、ついに解析幾何学の対象を以って思惟体系の最も具体的な対象となしたが、純粋思惟の体系からいわゆる経験の体系に移るには、そこに大きな間隙があると考えられた。今この間隙を融合するものは意志の統一、人格の統一であることが明らかとなった。単なる認識対象として抽象的に考えられた純粋思惟の体系から、内容ある具体的経験の体系に移り行くことが不可能と考えられるのは、無理ないことだ。思惟の形式に対して偶然的な経験内容が外から与えられると考えられるのは、やむを得ないことだ。しかし意識の主体に返って、すなわち直接な具体的全体の立場においては、思惟とか知覚とか様々な作用の根底において、一つの意志の統一、人格の統一があることを認めざるを得ない。我々の思惟とか知覚とかいうのは、我々の意志、我々の人格の一部だ。これら作用は皆具体的自我(人格)の一部分として成立するのだ。単にその一部分に過ぎない純粋思惟のアプリオリからは、この全統一(人格の統一)を理解することは不可能だろう。しかし我々には論理以上である自我の統一の体験がある。もしこのような具体的自我の統一の体験がなかったならば、知識の形式と内容の関係はいかなる意味においても考えることは不可能だ(このようなことを考え得るのは、純粋思惟以外のアプリオリが人格の統一の上において存在するから考え得るのだ)。内容は形式に対して偶然的であるということすら考え得ないのだ。知識客観性の要求とは、主観的なものから客観的なものに、抽象的なものから具体的なものに、部分的なものから直接の主体に進むことであり、すなわち具体的全体が己自身を顕現する要求であり、自己が自己自身の根底に返り行く要求であるとすれば、思惟の形式が経験内容と結合するのは我々の意志統一の要求、人格統一の要求、すなわち全自我の要求であると言わねばならない。これ(意志統一、人格統一、全自我の要求)によって我々の知識は具体的根元に返って、その客観性の要求を満足し得るのだ。我々の思惟の体験が経験内容と結合することによって客観的知識となると考えられるのは、これによって理解することができる。コーヘンの言うように、単に主観的と考えられた虚数がガウスによって平面に応用されることによって実在的意義を得たと考えられるのはこれ(意志統一、人格統一、全自我の要求)によるのだ。わたしはかつて真に直接にして具体的な空間的直覚は、心理学者のいわゆる延長の知覚というようなものでもなければ、また数学者の考えるような連続というようなものでもない。ὄν+μὴ ὄν(存在とそのアプリオリ)の全体とも言うべき先験的感覚であると言ったが、今このような先験的感覚とは、経験全体の統一から起こる意志の意識であると言うことができる。我々に直接にして具体的な空間的意識は、それ自身に動的な意志の形(経験全体の統一)において与えられるのだ。「知覚の予料」の原理はこれによって成り立つのだ。この点を一歩離れれば一方は数学者のいわゆる単なる連続の考えとなり、一方は心理学者のいわゆる単なる感覚となるのだ。この二者が実在的となるには、その根元に返らなければならない。ゼノンのような運動不可能論に対して、ベルグソンは真に運動を会得するには、ただ手を動かしてみるまでであると言うように、いかにして数学者の連続の考えと心理学者の延長の感覚が結合するかは、ただこの手を動かす(経験全体の統一)にあるのだ。すなわちフィヒテの事行とも言うべき直接の意志にあるのだ。
我々の「我」というのは様々な作用の総合点だ。「我」は考えると共に見ることもできる。否、これらの作用は実に「我」の統一によって成立するのだ。しかしこの統一(真の主観、意志)は認識の対象となることはできない。そこに認識の限界がある。リップスが表象の世界から思惟の世界に至るには、躍入がなければならないと言うように、認識の世界から意志体験の世界に至るには、そこに一つのエラン・ヴィタールがなければならない。このような統一は理性に対して、非合理的とか偶然的とか考えられるだろう。しかし論理から数理に移るにも、このような偶然性があった。数理から幾何に移るにも、このような偶然性があった。もしリッケルトなどの言うように、厳密に狭く純粋思惟を限定するなら、数理のようなものすら非合理的と言わねばならない(?)。またあるいはこのような統一(意志の統一、人格の統一)は何らの内容なき虚しき概念に過ぎないと考える人もあるだろう。しかし我々が概念的分析によってその内容を明らかにすることができないからといって、無内容な空名に過ぎないと考えるのは誤りだ。我々の自己はいずれも限定される個性を持っている。甲は乙と取り換えることのできない人格を持っている。このような個性が画家や小説家の描写の対象となるのだ。芸術家の有する個性の意識が物理学者の有する電気や熱の意識に比べて、不明瞭であるとか無内容であるとかいうはずはない。(概念的分析によって明らかに出来ない)人格の意識が物理的知識に比べ、限定されたある内容を有する点において、毫も遜色なきのみならず、その実在性を有する点においても、いわゆる自然科学的知識に比べて勝るとも劣ることはないと思う。ある一物体が甲点から乙点まで動いた時、我々はその背後に一つの力というものを考える。しかし力というものは見ることもできねば、聞くこともできない。ならば感覚論者の言うように力とは空しき名に過ぎないかというと、もし力が空虚な概念なら、要素的感覚(視覚、聴覚など)というようなものも空虚な概念に過ぎない。実在はそれ自身にて動くものだ、自然科学者のいわゆる力というのは、この意味において実在的であると言うならば、人格の力というものも同一の意味において実在的であると言わなければならない。(人格の力は)かえってすべての実在に実在性を付与する根本的実在であると言うことができる。
右に言ったように、我々の意志とか人格とかいうのは単なる抽象的な形式的意志とか形式的人格とかいうようなものではなく、諸能力の統一だ。ポールにもペーターにも当てはまる抽象的意志や人格ではなく、限定された具体的内容を持ったものでなければならない。このような意志は理性に対して偶然的と考えられるかもしれないが、それ自身に動的であって、彼自身の立場においては一つの内面的必然だ。私が前に言った絶対自由の意志というのは、このような意味において宇宙の創造作用であるのだ。私はいまこのような絶対自由の意志と我々の個人的自由意志の関係を考え、これによって一層深く絶対的創造意志の性質を明らかにし、かねて真実在とはどのようなものかを明らかにしてみたいと思う。我々の意識現象を直接に考えてみると、我々の意識現象は一つの自己によって統一されると共に、その一々が自由な作用だ。意識現象の根底となる全体は、その部分を否定する全体ではなくて、各部分の独立、各部分の自由を許す全体だ。我々の道徳的社会がカントの言うような※目的の王国であるのみならず、我々の意識現象そのものが目的の王国だ。
※ 引用 目的の王国とは https://kotobank.jp/word/目的の国-397559
意識現象は道徳的関係(当為の関係)から成り立っていると言ってよい。意識現象においては道徳的当為は単なる当為ではなく、力だ。故に“Du kannst, denn du sollst”(できる、なぜならそうすべきなのだから)である。意識現象においては画家の才が彼自身の作によって発展するように、我の全体が我の部分を創造すると考えられると共に、我の部分が我の全体を創造するのだ。ベルグソンの言うように我の作為するものは我に属すると共に、我の作為が即ち我であると言わなければならない。以上のように考えてみると、我々の意志の自由と絶対自由の意志は相撞着(矛盾)するものではない。我々は絶対自由の意志の中において自由だ。否、絶対的意志は他の独立を許すことによって真に自ら自由となることができるのだ。白人は黒奴を開放することによって、彼自身を自由にしたと言うことができる。両者が相撞着するかのように考えられるのは、意志を対象化して見るからだ。意志と意志の間に対象的関係を考えるからだ。何かの意志をいずれかの意味において対象化して見た時には、何かの意志はその自由を失うこととなる。神を無限の可能と言うも、すでにこれを対象化したものだ。私は意志自由論者が単純に自己の内省に訴えて、直なるものが直で、曲なるものは曲であるというように、意志は自由であるというのも、強ち錯覚として排すべきではないと思う。これを錯覚と考えるのは我々の意識現象を対象化した結果だ。しかし意識の一々の根底には到底対象化することのできないある物がある。いかなる個人的意志も対象界に対しては、その次元を異にしていると言うことができる(個人的意志は次元が異なるため、対象界においては対象化できない)。平面の世界に対する立体の世界のようなものである。我々の意志はこのような意味において一々自由でなければならない。カントの言ったように我々の道徳的意識(当為の意識)がこれを証するのだ。自然科学的因果律に基づいてこれを錯覚と考える人は、自然科学的因果の世界が一種の当為(意味、価値)の上に立つことを考えてみなければならない。我はこの現在において右せんも左せんも自由だ。たとえ、肉体の上において不可能であるとするも、我は我の人格の上にこの決意の事実を印することができるのだ。意志を動かすものはただ意志あるのみだ。アウグスチヌスが神は愛から世界を造ったというのは、自然的因果の本に道徳的因果を認めたものとして、深い意味があると思う。
右に言ったように、我々に最も直接にして具体的な意味においては、その全体の自由(絶対自由の意志)と部分の自由(個人的自由意志)は互いに相撞着することはない。内面的に一つの意志であると共に、その一々が自由の作用だ。無論このように言うも、我々の意志が自然の法則を破って自由に働き得るというのではない。自然界の出来事として対象化された意志は、自然の法則の下にあることは言うまでもない。ただ我々の意志はその根底において(自然科学的世界より)一層深き体験の世界に属している。カントの言うように睿知的世界(intelligible Welt)に属している。この世界においては全体が一であると共に、その一々が自由であるというのだ。真に具体的な体験の世界においては、ヘーゲルの概念においてのように、その一々の部分が全体だ。真の具体的実在は個物だ。非合理性の中に合理性を具し、偶然性の中に必然性を具したものでなければならない。かつて分離数というものは依他的であり主観的であって、連続的なものは独立の実在であると言ったが、厳密に言えば単に連続的なものも未だ真に絶対的実在とは言われない。単に連続的なものはReal+Ideal(実在+理想)として具体的であるかもしれないが、未だ己自身の中に非連続の作用を統一していない。すなわち偶然的実現の方面を含んでいない。要するに未だ意志ということはできないのだ。例えば芸術の作品と芸術家自身と異なるように、芸術の作品は理想と現実の結合であるかもしれないが、それ自身の中に創造作用を蔵していない。真の実在はそれ自身において創造的でなければならない。私がロッツェの相互作用という実在の考えをなお不完全と考えるのもこれによるのだ。真の実在は自覚的でなければならない。すなわちヘーゲルの概念のようなものでなければならない。具体的実在には偶然性ということを欠くことはできない。すべてが合理化されればすべてが非実在的とならねばならない。しかしすべてを合理化する事は不可能だ。偶然的限定は合理的に説明はできないかもしれないが、合理性と偶然性の両方面を統一したものが真実在だ。すなわち我々の意志だ。心理学者のいわゆる心理作用とは、このような実在の偶然的限定の方面を指したものに過ぎない。私はかつて極限点は反省のできない我々の自己のようなものであって、このような極限点の集合が連続であり独立の具体的実在であると言ったが、このような実在はなお知識対象の世界に属している。したがって現実の意識を含むことはできない。現実の意識はこのような実在に対して外面的だ。芸術家の全生命が一刀一筆の中にあるように、一々の限定そのものの中に全実在がなければならない。すなわち肉そのものの中に霊がなければならない。限定作用はどのようにして起こるかと問うべきではなく、限定そのものが意志として直ちに具体的全実在であると言わねばならない。有限の背後に無限を考え、現実の背後に本体を考えるのは、対象化された知識界のことだ。真に直接な意志の体験においては、有限が直ちに無限だ。現実が直ちに本体だ。行かんと欲せば行き、座せんと要せば座す。この間に概念的分析を容れる余地がない。往々直接経験の内容は無限に豊富なもので、我々の知識はその一象面であると考える人もあるが、斯く考えられた直接経験の内容とは、いわゆる概念的知識と同じくすでに対象の世界に属したものだ。いかにその内容が無限であっても、それは相対的無限(対象化された無限)だ。真に直接な体験(絶対的無限)は概念的知識とその次元を異にしたものでなければならない。いわゆる概念的知識と対比してその内容の多寡を論じるべきものではない。我々の現実の意識の背後に本体があると考える時、その本体は現実と共に同一次元の上にある(対象化されている)のだ。意識の真の背後は一々無限な神秘の世界に連なっていなければならない。すなわちスコトゥス・エリューゲナの言う如き神に接していなければならない。なお一直線上の点が一次元の中にあると共に多次元に連なるのと一般だ。我々の一々の意識は多次元の切点と考えることができるのだ。
四十二(思惟と経験)
私は前の二節において、我々に最も直接な真実在は絶対自由の意志であることを論じ、かつこの自由意志は無内容な形式的意志ではなく、豊富な人格的統一であることを論じた。今この立場から、翻って思惟と経験の関係及び精神と物体の関係を考えてみようと思う。
我々に最も直接にして具体的な真実在と言うべき絶対自由の意志は、カントのいわゆる物自体のようなものであって、我々の思慮分別を容れるべきものではない。ディオニシュース・アレオパギダやスコトゥス・エリューゲナなどの神の考えのように、すべての範疇を超越している。いわゆる鼠銭筒に入って技既に窮する所(銭を入れるための細い筒に鼠が入っていき、すっぽり挟まって前にも後ろにも動けなくなった状態)、ただ翻身一回してここ(絶対自由の意志)に至るべきだ。しかし意志はこのように知識を超越するということは、知識と没交渉という意味ではない。知識は意志の一方面だ。意志はその一方面として、知識をその中に含むのだ。ヘーゲルの語を以って言えば、知識は意志の対自の状態だ。意志は発展であると共に復帰(自己の根底に返ること)であるとすれば、知識は意志の復帰の方面を現すものだ。認識対象の世界は、意志がその姿を鏡面に映じたもの(映じたもの=認識対象)だ。すでに影像であるとすれば、その中に本体を求めることはできない。この意味において物自体(本体)は不可知的だ。しかしこの影を映じるのも、この影を見ているものも意志自身だ。意志は己自身の中に影を映じて見るのだ。ベーメの対象なき意志は、己自身の中に反射するのだ。絶対自由の意志は一方においては無限の発展であると共に、一方においては無限の反省だ。いかにしてこのような矛盾が成立し得るかは、反省する自己(発展)と反省される自己(復帰)が同一である自覚の事実が、これを証明している。これを疑う人あらば、疑う人はすでにこの事実(自覚の事実)を認めていなければならない。真に絶対の立場から言えば、一々の意識は行為であると共に直ちに反省だ。発展はすなわち復帰だ。物を離れて影はないが影を離れて物はない。知即行行即知(知=知識、行=行為)だ。我々の一々の意識はあたかも一つの点が無限な次元の連続において考えられるように、無限な※対他の関係を含んでいる。
※ 引用 対他とは https://kotobank.jp/word/即自・対自・対他-1556692#goog_rewarded
自己内返照(自己の内を照らす=自己限定)と同時に他者内返照(他者の内を照らす=他者限定?)だ。意識のある一点が限定された時、直ちに己自身の否定を含んでいる。すなわち止揚の可能を含んでいる。限定された意識の対他的方面が、普通のいわゆる抽象的方面だ。このような意味においてある一つの意識の対他的関係(抽象的関係)が無限と考えられた時、ラッセルが無限の次元は無意義となると言うように、その意識内容はかえってすべての限定を失って単なる抽象的概念となるのだ。このように我々の意識の一々の点が無限な対他的関係を含むと考えねばならないのみならず、意識の一々の点が生きている。すなわち無限の活動でなければならない。一々の点を単に無限の潜勢力と見るのは、なおこれ(点)を対象化したものだ。直接には一々の点が自由な主観でなければならない。無限な対他的関係はこれにおいて、無限な自由でなければならない。無限な対他的方面(抽象的方面)を含むということは、無限の誤謬、無限の罪悪を含むということとなる。真実在は道徳的であるということができる。具体的実在においては、一々の点が絶対として出発点となることができるのだ。
右に言ったように、直接の具体的体験においては、その一々の点が無限な対他的関係を含んでいるばかりでなく、その一々の点が自由な主観だ。すなわち自己の中に自己を否定する(限定する)力を有するのだ。アウグスチヌスが神は最初の人間に自由を与えたと言うように、我々は一々の作用において神に接すると共に、悪魔に接するのだ。このように一々の立場において自己が自己を否定する(限定する)作用が、いわゆる抽象作用であって、すなわち我々の思惟作用だ。絶対自由の意志の否定の方面、即nec creata nec creans(創造することも創造されることもない)の方面が我々の反省作用であり、思惟作用であるのだ。純粋思惟とはこのような方面の極限に過ぎない。純粋思惟の対象(数理など)とはこのような体験の内容を指すのだ。我々が自己自身を意識する時、すなわち自己自身を否定(限定)して消極的統一となった時、我々は思惟主観となるのだ。例えば我々の純粋視覚においては、線は数学者のいわゆる幾何学的線でもなければ、心理学者のいわゆる線の感覚というようなものでもない。その各々の点において直線と曲線の錯綜だ。色もこれと同じく自ら白と黒への傾向を含んでいる。このような純粋視覚の作用は、無論それ自身において完全なものだろうが、我々の全意識は単に視覚だけではない。我は様々な作用を有し、その一から他に移り行くことができるのだから、あたかも純粋視覚において一つの線、一つの色が様々な連続の錯綜であるように、純粋視覚そのものも単なる純粋視覚ではなくて、様々な作用の錯綜であると言わねばならない。そして他へ移り行くということは、それ自身の中に対他の関係を有するということだ。すなわち自己を他において有することだ。換言すれば自己自身の中に自己を否定する(限定する)動機を有することだ。反省の可能を含んでいるのだ。無論純粋意識の立場において、このように一(自己)が他を含むということは、一が他と混合することではない。ある一つの立場を明らかにし、これに徹底するということは、自ら(自己ではなく)他に移り行くことだ。対立を明らかにするのはその統一を明らかにする所以ではあるが、とにかく視覚(作用)とか聴覚(作用)とかいうような純粋知覚においても、これを意識するということ自身がそれ自身の否定(限定)を意味している。換言すれば、これらの作用は更に大なる統一に属しているのだ。このような(大なる)統一の意識が思惟の体験だ。小なる個々の作用に対しては、この立場(思惟による統一の立場)は外から加えられた反省作用と考えられるが、絶対自由の意志の立場から見れば、(思惟による統一の立場は)個々の立場(この場合視覚作用とか聴覚作用などの)成立とともに与えられた約束だ。いわゆる経験的知識というのは、純粋知覚をこのような立場(思惟による統一の立場)から反省してみたものだ。我々がこの立場から純粋知覚における線とか色とかいうものを反省して見た時、それが知覚の対象として我々の認識の範囲内に入り来ると考えられる。コーヘンが「知覚の予料」の公理に当てはまって認識界に客観性を得るというのは、この場合を指すのだ。認識以前の所与は、コーヘンの意識状態というようなものではなく、フィードレルの純粋視覚のようなものでなければならない。認識の到達することのできない、しかも認識がこれを目的としなければならない対象は、それ自身に動的な純粋経験でなければならない。コーヘンが内包量として我々の認識の世界に客観性を要求するという所のものは、このような純粋経験の動的方面でなければならない。すなわち絶対的意志の発展の方面でなければならない。ブレンターノの言うように知覚したものを思惟することができ、同一の本質が一方において知覚の対象となると共に、一方において思惟の対象となることができるとすれば、本質とは作用の結合点と考えることができる。そしてこのような本質の発展の方面が直観として客観的知識の対象となり、その否定の方面すなわち反省の方面が概念的知識となると考えることができる。心理学のいわゆる知覚とはこの両方面(客観的知識と概念的知識)の中間に位するものだ。純粋知覚の反省の方面、すなわちその(純粋知覚の)反省された(限定された)形態というのは、その(純粋知覚の)体系と他の(体系の)接触面だ。すなわち(純粋知覚が)他の体系と結合し得るように改造された形態だ。我々の主観的意識と言うのは、このような意味において様々な体系の結合の形式に過ぎない。意識そのものは無内容と考えられ、意識されるということは、意識内容に何物も加えないと考えられるのはこれ故だ。すなわちいわゆる主観的意識とは意志の絶対的否定(限定)の方面だ。あるいは斯く改造されたものは元の純粋知覚ではないと考えられるかもしれないが、無論概念的知識と純粋知覚は同一ではないことは言うまでもない。しかし赤の純粋知覚が反省された時、青(赤の誤記?)の概念となるのではない。本質は同一だ。なぜなら本質とは一つの作用から他の作用に移る結合点とも考えるべきものであるからだ。我々が概念的知識の立場から見て、純粋知覚は達することのできない認識以前と考えるのは、(概念的知識と純粋知覚が)完全にその性質を異にするからではない。前者(概念的知識)が後者(純粋知覚)の中に含まれているからだ。しかしその含まれていると言う意味は、ヴィンデルバントの言うように知識の世界は直接経験の分量的に異なる部分(という意味)ではなく、三角形の一辺(概念的知識)が三角形(純粋知覚)の中に、三角形が(概念的知識)が四面体(純粋知覚)の中に含まれるという意味において、(概念的知識)が部分的次元として(純粋知覚の中に)含まれているのだ。純粋知覚は(認識以前の所与という)絶対意志の形において高次的だ。無論一方から考えれば、思惟そのものがやはり一つの作用であり、一種の純粋経験であるとも言い得るだろう。無限な反省の極限それ自身が一つの中心を持った発展(一種の純粋経験)とも考え得るだろう。あたかも一つの直線が無限の距離に中心を持った円として考えられるのと一般(同様)だ。このようにしてすべてが芸術家のいわゆる純粋知覚と同様の純粋経験であると言い得るだろう。創造する神(発展=肯定の方面)は同時に創造しない神(否定=限定の方面)だ。肯定の意志はすなわち否定の意志だ。これと同様の意味において、純粋知覚の半面において直ちにその経験の思惟が含まれていると考えることができる。リッケルトなどは単に反省の方面のみを見るから、思惟と直観は両断して互いに結合することはできないが、コーヘンの考えでは与えられた直覚の根底に直ちに思惟を見るから(与えられたものは思惟によって要求されたものである)、一層高次的な立場(具体的基礎の立場)から知識そのものの成立を明らかにすることができるのだ。したがって知識は理念の無限な発展進行となるのだ。
以上述べたような訳であるから、我々の思惟とは絶対自由の意志の反省の方面だ。様々な経験の体系を否定(限定)してしかもこれを統一する方面だ。すなわち様々なアプリオリの統一作用だ。様々な経験内容はそれぞれのアプリオリに属するから、思惟自身は何らの内容なき形式に過ぎないと考えられる。あたかも我々の意識内容となる線(経験内容)は皆有限であって、無限の線とは単なる思惟の対象(内容なき形式)であると考えられるのと一般だ。しかし真の無限は単に際限がないということではなく、それ自身において独立ということでなければならない。すなわち己自身を反省するということでなければならない。単なる消極的統一としては、思惟はリッケルトの思惟のように「甲は甲である」という外ないだろうが、絶対意志の反省的方面(否定の方面)が反省的意志として己自身の独立を認めた時、それは一つのアプリオリとして、純粋知覚などと同じく、一つの創造的思惟(純粋思惟)となる。このような思惟が私のいわゆる純粋思惟の対象界すなわち数理の世界を創造するのだ。思惟の統一はすべてのアプリオリの統一であって、対他的関係の極限であるから、すべてに共通であり、思惟対象の世界は不変であり一般的であると考えられるのだが、思惟というようなものも既に一つのアプリオリとしてそれ自身に意識された以上は、もはや(一般的ではなく)特殊的であることを免れない。すなわち(思惟は)絶対意志の一方面であって絶対意志そのものではない。真に創造的な絶対意志は単なる否定(限定)でないのみならず、また何らの意味においても限定されないものでなければならない。無限に貧なると共に無限に富でなければならない。真の絶対意志の統一は、肯定(発展)と否定(限定)の統一、形式と内容の統一、すなわち一言にして言えば人格的統一でなければならない。ここに思惟と経験の統一があり、ここに知識の客観性があるのだ。むろんこのような真の絶対的統一は達することのできないものではあるが、我々はどこまでもこれに近づくことができる。そしてその性質及び程度に従って種々の世界が現れるのだ。我々の絶対意志の経験は二つの方向に向かって発展して行くのだ。一つは種々なるアプリオリの統一の方面、すなわち反省(否定)の方面であって、一つはアプリオリ自身の発展の方面だ。一つは一般化的方面(発展の方面)であり、一つは特殊化的方面(反省の方面)だ。無論これらの二方向の作用は、絶対意志の立場からしては直ちに一つであるが、あたかも三次元の世界において立体に種々の形のできるように、その(絶対意志の)統一に種々の形を見ることができるのだ。絶対的肯定(発展)と見られるべき純粋知覚のようなもの、単なる否定(限定)とも考えられるべき純粋思惟のようなもの、及び両者の間に位する種々の階段ができる。ある一つの内容の絶対的肯定(純粋知覚の発展)が芸術の立場であり、その内容の否定(限定)が思惟の立場であり、否定の否定すなわち全体の肯定(鈴木大拙の言ういわゆる即非の論理)が宗教の立場である。いわゆる知識の立場は否定(概念的知識)から否定(概念的知識の否定=絶対意志の発展の方面に再び還る方面)に行かず、翻って部分的肯定(ある一つの純粋知覚の立場)を統一する立場であると言うことができる。例えば我々が赤色の経験を反省して「これは赤である」と言った時(思惟した時)、我々は一つの純粋知覚の立場を超越し、これを否定したのだ。リッケルトの「所与の範疇」というのは、このような絶対的意志の否定の立場から、ある一つの純粋知覚の立場を統一する形式を言うのだ。すなわち(所与の範疇とは)知識の最初の階級だ。この場合「これは」として主語となるものは絶対意志が肯定から否定に移る回転の点だ。この点を界として知覚の世界から思惟の世界に入るのだ。この点は二つの世界の接触点だ【それで現在と考えられるのだ】。我々の意識は何の点においても、反省の可能を含んでいる。すべての点において知識の世界に接している。このような反省の立場自身が一つの意志として対象界を創造する時、上に言ったように純粋思惟の対象である数の世界ができるのだが、この立場から更に絶対的創造の意志の立場に返る時(否定の否定)、すなわち人格的統一の立場に向かう時、カント学派のいわゆる「経験の世界」ができるのだ。時間空間とは純粋思惟によって経験内容を統一する形式に過ぎない。かつて言ったように、思惟体系の質的方面が空間の基となり、その量的方面が時間の基となるのだ。己自身を省みる純粋自我の立場から純粋経験とも言うべき絶対意志の全体を統一して見た時、そこに時間、空間、物と性質、原因と結果などの範疇によって構成された、いわゆる事実の世界が成立するのだ。自我それ自身の発展が時間の範疇となり、その発展の方向の差別が空間の範疇となり、この両方面(時間と空間の範疇)の統一が物の範疇となる。ポアンカレの生な法則というのは、法則というよりも、むしろ物とその性質とかあるいは物とその作用とかいう範疇によって成立するものと考えるべきだろう(?)。このような事実の世界すなわちいわゆる実在界は、超個人的自我(思惟作用など)の統一によって成る対象界として、各人に共通な所与の客観界と考えられるのだが、上にも言ったように思惟が思惟として意識される時、それはすでに(対象化された)相対的な一つのアプリオリであって、真の統一でないのだから、このような思惟の統一(超個人的自我の統一)によって成立する世界は一方から見ればかえって主観的だ(真の統一、意志によって成立する世界が真に客観的だ)。古来哲学者や科学者がこれらの現象界の背後に本質の世界を求めたのは、これによるのだ。この要求(本質の世界、真に客観的な世界の要求)は思惟に対して外から与えられるのではなく、実に思惟そのものから起こるのだ。カントが「経験の類推」において論じているように、純粋思惟の統一の要求は、ついにすべての物を一実体の相互作用として見ることを要求するのだ。そして絶対意志の一方面即人格の一部分である思惟の要求は、単なる思惟の統一に止まることはできないで、内容を要求してこなくてはならない。すなわち全経験の統一を要求しなければならない。思惟はその根底である自己の全体に返ることを要求する。そこ(自己の全体)に知識の客観性があるのだ。物理的世界観はこれによって出てくるのだ。自然科学者のいわゆる経験界(物理的世界)とは、絶対反省の立場に立って全経験を統一して見たものだ。自然科学者のいわゆる直覚、例えばポアンカレの感官の証明というようなものは、このような立場(全経験、自己の全体の立場)から見たものだ。(感官の証明のようなものは)芸術家の直覚とは、元々その範疇を異にしたものだ。自然科学的知識の発展とは、このような意味の統一の発展を言うのだ。自然科学界における種々なる仮説、ポアンカレの原則というようなものは、このようにして出てくるのだ。しかしこのような単に絶対的反省の立場から人格的内容の全経験を統一することはもとより不可能だ。思惟の立場に対して視覚や聴覚のアプリオリは非合理的だ。これ故に科学の仮説は主観的だ。(科学の仮説は)経験の内容に対しては外からの統一となる。科学者が経験界の背後に求めた本質は、真の本質ではなくかえって我々の主観的概念となる。真の経験内容の統一は、種々のアプリオリの統一である我々の人格の中に入って、これを求めなければならない。すなわち我々の自己の奥に入って、深い内面の自由に求めなければならない。否、未だ我というべきものもなき直接の統一に求めなければならない。純粋知覚の発展とも言うべき芸術家の意識は、この点において科学者のそれよりも一層深い具体的意識であると言わねばならない。すなわち一層内面的な自由な直接な統一だ。この意味において芸術の立場は思惟の立場に比べて、一層自由な立場であるということができる。芸術の立場は単なる肯定ではない。思惟の立場が単なる否定ではなくそれ自身に創造的であるように、形成作用ともいうべき芸術の立場は、それ自身の中に否定の方面を含む具体的立場だ。否定を除去した単に肯定的な抽象的立場は、心理学者のいわゆる知覚の立場のようなものに過ぎない。芸術家の純粋知覚とはこのようなものではないのだ。それで心理的知覚の対象として考えられた色とか音とかいうものは、単に現象と見られるかもしれないが、色や音の自己はエーテルの振動とか空気の振動とかいうものではなく、かえって芸術家の直観のようなものでなければならない。
我々の意識は各々の点において肯定であると共に否定だ。芸術の立場も単なる直観ではなく、思惟の作用も一面において直観だ。我々の意志の体系は意志(絶対自由の意志)の中に意志(個人的自由意志)を許すが故に、その一々の点において自己内返照であると共に他者内返照だ。ヒルデブラントが「形の問題」の中において知覚的「形」を論じて、我々が指だけを見た時、その部分の形と大きさの印象を得、手の全体を見た時、この指を手全体の関係において見る新たな印象を得、手と腕を見た時には更にまた新たなる印象を得ると言っているように、純粋知覚においてもその自己内返照は直ちに他者内返照だ。純粋思惟とはこのような意味において宇宙の純粋知覚とも言うべき絶対意志の否定の方面であり、道徳的意志とはその肯定の方面だ。この両方面(純粋思惟と道徳的意志)を統一した絶対意志そのものの立場が宗教だ。宗教の立場は言わば超越的意識(実在界を超越する意志の意識)の芸術的立場であり、芸術の立場はこれに反し部分的経験体系における宗教の立場(具体的全体の立場)だ。芸術的直観が知覚に比べて具体的であると言ったのはこれによるのだ。芸術的直観の世界は認識的純粋自我の統一の世界に比べて、量的には部分的であるかもしれないが、質的には具体的全体を現しているのだ。時間空間因果などという「実在の形式」によって成るいわゆる実在界とは、絶対的意志の否定的統一の対象だ。(実在界は)知識に対しては直接に与えられた客観的実在と見られるかもしれないが、絶対意志においてはその抽象的一面に過ぎない。この形式(実在の形式)の中に絶対意志全体を入れようとすれば、直ちにアンチノミー(二律背反)に陥るのだ。絶対意志が真に己自身の具体的全体に返るには、このような実在界を超越して芸術の立場、宗教の立場に入らなければならない。斯く知識の立場すなわち否定の立場から絶対的肯定(発展、創造)の立場に移る回転の点が、道徳的意志の立場だ。マーテルリンクの言うように道徳的意志によって過去を現在となすことができるというのは、これによるのだ。いわゆる実在界は量的には客観的であるかもしれないが、質的には主観的だ。芸術の対象界はこれに反し量的に主観的であるかもしれないが、質的に客観的だ。(芸術の立場は)知識の立場を超越して直ちに絶対意志の内面に接触することができるのだ。
四十三(種々の世界)
我々に最も直接な具体的経験の真相は、絶対自由の意志だ。種々なる作用の人格的統一だ。種々なる経験体系の内面的結合だ。それぞれの立場の上に立つ経験体系を一つの円に例えてみると、これらの円の中心を結合する線は絶対自由の意志でなければならない。すなわちその(絶対自由の意志の)統一は認識対象として考え得る静的統一ではなく、それ自身に独立な無限の動的統一でなければならない。これを繰り返すことのできない無限の発展と言うのも、すでにこれを対象化したものだ。我々の直接経験すなわち真実在を右のように考えてみると、このような絶対意志の否定的反省の方面、すなわち無限大の半径を有する円の立場のようなもの(円の中に入る物が限定されるものであり、無限大に限定できるということ)が純粋思惟の立場であって、この(純粋思惟の)立場から翻って全経験を見たものがいわゆる実在界だ。すなわち時間空間因果というような構成的範疇によって組織された実在界だ。このような世界が我々の認識の最初の対象だ。意志の世界から知識の世界に移る第一歩だ。両世界(意志の世界と知識の世界)の境界だ。そしてこのような純なる反省の立場(純粋思惟の立場)から異質的な経験を一般的法則によって統一しようとするのが、自然科学的見方だ。マックス・プランクが物理学の目的を「擬人主義からの解放」となすのもこれによるのだ。種々なる作用の統一である人格的経験について、種々なる作用の差別を否定して、いずれの作用の背後にも横たわる共通の反省的立場からすべてを統一しようとするのが、物理学的見方だ。我々の物質界とはこのような見方によって成り立つ実在の一方面だ。絶対意志の否定的(限定的)反省のアプリオリの上に立つ世界として、(物質界は)すべての人に共通な客観的世界と考えられるのだが、一方から見れば否定的反省作用というようなある一つの特殊なアプリオリの上に立つものとして、かえって主観的であると考えることもできる。現代哲学において物理学を主観的と考えるのもこの点に着眼されるようになったのだ。
絶対意志の部分的意志(絶対意志の部分)として肯定(発展)の裏面に直ちに否定(限定)を含む我々の経験体系は、その一々が右に言ったように絶対意志の否定的反省の方面に接触し、いわゆる物質界に属すると考えられると共に、その一々が絶対意志の肯定(発展)的方面に連続し、一大人格の統一の中にあるということができる。例えば我々が色の経験を反省した時(例えば「これは赤だ」)、それ(赤)が思惟の対象として思惟の統一の世界に属し、物質界の一現象とも考えられると共に、色の経験はそれ自身のアプリオリの上に立ち、思惟のアプリオリに対しては(色の経験のアプリオリは)どこまでも非合理的としてそれ自身の独立を維持するのだ。すなわち我々の経験は一方において物質界に属すると共に、その一々が純性質的としてそれ自身の独立を要求するのだ。我々の経験内において思惟と同等のオリジナリティーを要求するのだ。ノミナリスト(唯名論。 中世哲学において、普遍を実在とみなした実念論に対して、物または個体のみが実在し、普遍は個体から抽象した名にすぎないとした理論)の考えのように思惟はかえって主観的な一作用と見なすこともできるのだ。自由意志の形において絶対意志の中に成立する我々の直接経験は、いずれも一方において絶対意志の否定的反省の方面に連なると共に、一方において絶対意志の肯定的発展の方面に連なっていると考えねばならない。前者(否定的反省)の方面から見たものが物質界であるとすれば、後者(肯定的発展)の方面から見たものが心理学者のいわゆる精神現象だ。ナトルプの再構成的方法の立場というのもこれ(精神現象)を意味するのだろう。今これらの立場の関係を我々の内省に訴えて考えてみると、我々の直接の経験例えば芸術的直観というようなものは、認識を超越した具体的意志の立場だ。これを絶対意志の否定の方面から見た時、この経験自身の独立的立場が否定され、統一の中心は思惟の立場に移り、原経験(芸術的直観)に対しては、(思惟の統一は)外からこれを統一すると考えられる。しかし真の絶対意志は否定即肯定(限定即発展)、肯定即否定(発展即限定)でなければならない。無限な否定(限定)の裏面に無限な肯定(発展)の可能がなければならない。否定に対して肯定の立場を省みた時、すなわち否定の否定、反省の反省の立場に立った時、そこにいわゆる精神界がある(例えば、目の前に見えるものは物体界として否定、つまり限定できるものであるが、それは我々の視覚作用によって脳内スクリーンに投射されたものである(否定の否定)と考えると、意識内容における物体界というものはなくなり、精神現象のみとなる)。我々がこの立場に立って見る時、我々は自己の精神現象を反省するというのだ。勿論このような意味における否定の否定は真の否定の否定ではない。このような意味の肯定は真の肯定ではなく相対的肯定(対象化された肯定)だ(精神界を抽象化し対象化している)。真の否定の否定すなわち真の肯定は反省即発展、否定即肯定であって、いかなる意味においても反省することのできないものでなければならない。相対的肯定の立場というのは、否定即肯定である絶対意志の立場に立って、ある一つの経験体系を見た場合だ。全作用の絶対的統一の立場(絶対自由の意志の立場)から翻って部分的作用を見た場合だ。ὄν(抽象的部分)の立場を、ὄν+μὴ ὄν(具体的全体)の立場から見たものだ。μὴ ὄνは一層大なる立場との結合を示すものだ。見るとか、聴くとか、考えるとかいう立場(ὄνの立場)に対して、我々は見ようと思うとか、聴こうと思うとか、考えようと思うとかいうようなすなわち「私は意志する」という立場(ὄν+μὴ ὄνの立場、具体的全体の立場)を考えることができる。すなわち自由意志の立場というものを考えることができる。この立場から種々の作用そのものを対象として見ることができる。この立場から見れば思惟の立場も反省の立場ではなく、ある一つの肯定の立場となる(視覚作用、聴覚作用などの種々の作用と同等な、思惟作用となる)。したがって自然科学的世界は“唯一の”世界ではなく、“ただ一つの”世界となる(唯一の世界ではなくなる)。この立場においては思惟(作用)そのものを否定(限定)しこれを反省することができるのだ。普通の考え方において反省というのはこのような(内界=精神現象を知るという)意味であって、(それとは違い)自然科学的立場を意味する絶対意志の反省というようなことは、かえって外界を知るというように考えられるのだ。これに反し自由意志の立場は絶対にこれを反省することはできない。なぜならそれは他を反省する立場であるが故だ。普通に人格的立場として認識されるものも、厳密に考えればある一つのアプリオリの統一によって成る相対的肯定(限定的発展)の立場に過ぎない。したがって真の我に属するのではなく、やはり外界の一部に属するのだ。真に絶対的意志の肯定に属する世界は、認識の世界に対して神秘の世界でなければならない。ここに芸術の世界があり、宗教の世界があるのだ。かつて「二十四」の終において、反省された作用はすでに作用そのものではないと言ったが、いわゆる知識の立場(ὄνの立場)に立っては我々は作用そのものを反省することはできない。反省されたものはすでに対象であって、作用そのものではないのは言うまでもない。しかし作用の統一である絶対意志の立場からは、作用そのものを対象として反省することができる。すなわち作用を体験することができるのだ(作用の体験=作用の反省)。意志の立場からは反省的思惟そのものを反省することができる。すなわち思惟(作用)そのものを体験することができるのだ。絶対的意志の立場というのは発展即復帰の立場だ。経験体系の発展と復帰はこの立場においては一つであって、かえってこの両方面はこの中において成立するのだ。この立場からは作用そのものを対象とすることができるのだ(例えば、目の前に見えているものという意識内容は、自然科学的立場から見たら「物質」である。しかし「見ようと思う」という自由意志の立場から見ると、「視覚作用」というものが反省される)。
絶対自由の意志の立場からは、右に言ったような作用を対象としてこれを意識することができる。知覚とか思惟とかいうような認識主観の立場においては、その対象界は一つのアプリオリの上に立つ動かすことのできない客観的対象界であり、主観そのものである作用は反省することができないと考えられるのは勿論だ。しかし作用の統一である意志主観においては、その対象は可能の世界だ。種々なる作用すなわちアプリオリそのものを選択の対象として反省することができるのだ。要するに知識の立場は経験体系の固定された抽象的立場であって、意志はその(経験体系の)具体的全体の立場だ。知識の立場から意志の立場を対象として見ることはできないが、意志の立場からは知識の立場を対象とすることができるのだ。このような絶対意志の立場がナトルプのいわゆる再構成的方法の立場であって、この立場から見たものが我々の精神現象の世界だ。我々の精神現象というのは、種々の作用の結合だ。この結合点がリップスのいわゆる意識我とも言うべきものだろう。意識現象は必ず一つの「我」の意識として成立するのだ。種々の円錐曲線を極限概念によって一つの連続として包容することができるかもしれないが、翻って考えてみれば、これらの曲線は皆それぞれのアプリオリの上に立ち、その一々が独立の作用と考えることができる。すべてが二次方程式の曲線として統一されることによって、独立の作用としての性質が消え去るのはない。作用の統一である絶対自由の意志の立場から見れば、作用そのものがかえって最も直接な対象だ。我々が一つの作用の中にある間は、作用自身を対象とすることはできないだろうが、絶対意志の立場によって作用自身を超越することによって作用そのものを対象とすることができるのだ。対象と言えばすべて同一意義に考えられるかもしれないが、一つは知識の対象であり、一つは自由意志の対象だ。精神現象は後者の対象として、後者の立場によって成り立つ実在界だ。自由の意志なきもの(人間以外の動物?)は精神現象を理解することはできない。意志は精神現象のよって以って成立するアプリオリだ。もし実在の階級というようなものを考えるならば、プロチヌス以来ディオニシュースやスコトゥス・エリューゲナなどが神はすべての範疇を超越すると言ったように、何らの意味においても反省のできない絶対自由の意志というようなものが、最も直接な最も具体的な第一次的真実在であって、このような絶対意志の対象として意志的関係の世界、すなわち作用そのものの純粋活動の世界ができる。私はこれを象徴の世界と名付けてみたいと思う。この世界においては空間も時間も因果もない。象徴派の詩人の歌うように視るもの聴くもの尽く一種の象徴(抽象的な思想・観念・事物などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと)だ。「青き花」の里の宴においては科学も数学もコーラス(象徴)となる。今日のカント学徒では、知識はアプリオリによって成立すると考えているが、アプリオリ以前の世界、すなわち絶対意志の対象界では、すべての対象は一々無限の精神的活動でなければならない。この立場からはすべての個々のものが無限な精神作用の象徴だ。私はこのような象徴の世界はアレフ(アレフ数?)を最小数とする無限数の世界と考えることができると思う。無限数というのはかつて言ったようにそれ自身に独立な自覚、すなわち自動的なアプリオリによって成り立つのだ。ただ一つの秩序から成り立つ我々の知識の世界は有限数の世界であって、その極限において己自身を超越して無限数の世界すなわち意志の対象界に入るのだ。カントの言ったような時間、空間、因果の有限数的関係によって真実在(絶対自由の意志)を統一しようとすれば、忽ちアンチノミーに陥る外はない。ただ無限数的である自由意志によってのみ我々は真実在に達することができるのだ。物自体の世界は意志の世界、無限数の世界だ。以上述べたような訳であるから、我々の知識の世界、有限数の世界以前に、時間空間因果の関係を超越した無限数の世界、象徴的対象の世界がある。昔グノシス学徒が根本的精神とこの世界の間に種々の神話的図式を考えたのは、強ち古代哲学者の空想として排斥し去ることはできない。パジライデスの「未在の神」とかヴァレンチヌスの「深底」とも言うべき絶対的意志から現れ出ずる最始の対象は、人格的実在でなければならない。否我々の真の自己は今もなお象徴派の詩人が現実の根底に見る神秘の世界に住みつつあるのだ。
右に言ったように、絶対意志の立場から見た最始の対象界は芸術の世界、宗教の世界だ。この立場からはいわゆる認識対象の世界は一つのアプリオリとして、すなわち一つの作用として対象視することができ、斯くして作用自身の反省されたものがいわゆる意識現象だ。意識現象とは、絶対意志の否定的反省とも言うべき純粋思惟の統一によって成る自然科学的世界と、絶対意志の立場から見た直接の対象界である象徴的世界の接触点であると言ってよい。かつて言ったように、絶対的意志の否定の方面とも言うべき純粋思惟の立場から経験全体を統一して見た時、時間空間因果の範疇によって成るいわゆる実在界ができる。いわゆる精神界と物体界はこの実在界を境界として相接触するのだ。このような純粋思惟の立場からどこまでもすべての経験内容を統一していくことによって物体界ができる。しかし絶対意志においては、一々の作用がエラン・ヴィタールとして、思惟と同等の独立性を要求するのだ。物体界の方へ歩みを進める代わりに、翻ってこの実在界を絶対意志の肯定(発展)の立場から見たものが、歴史の世界だ。歴史の世界というのは、絶対意志の直接の対象である象徴の世界の立場から、いわゆる実在界を見たものだ。すなわちいわゆる実在界を、意志対象の世界との関係において見たものだ。自然科学的見方を意志の対象的否定(限定)の方面とすれば、歴史的見方はその(意志の)相対的肯定(限定的発展)の方面とも言うことができる。これらに対し芸術の立場及び宗教の立場は、肯定即否定(発展即限定)である具体的立場だ。歴史の世界はいわゆる実在界の一種の見方としてなお知識界に属するが、芸術の世界、宗教の世界は完全に知識の範疇を超越している。すなわち作用そのものだ。芸術的見方は普通に主観的とか空想的とか考えられるのだが、右のような意味においてかえって真の客観的見方であるということができる。芸術においては一般の中に特殊を含み、個物が直ちに全体だ。一つのアプリオリの上に立つ自然科学的見方に対して、アプリオリの結合(実在界と意志対象の世界の結合)とも見られるべき歴史の世界は、その(一つのアプリオリの上に立つ自然科学的見方の)具体的根元として客観的実在と考えられるが、芸術の立場、宗教の立場は肯定即否定、一般即特殊として、一層具体的な立場と言わねばならない。歴史の立場も自然科学的立場と同じく、絶対意志の一つの作用である純粋思惟の立場に属している。前者(歴史の世界)はこの立場(純粋思惟の立場)から全経験の内容を統一しようとするのであり、後者(芸術の世界、宗教の世界)は一層具体的な立場から翻ってこれを見るのだ。しかし完全に一つの作用を超越して全人格の立場(絶対自由の意志の立場)に立った時、それが芸術の立場、宗教の立場となる。この立場はアプリオリのアプリオリであって、その一般性は抽象的概念の一般性ではなく、想像力の一般性だ。かつて推論式の形式によって精神と物体の関係を論じたが、単なる一般性を現す大語(大前提)は絶対意志の否定の立場から見た物体界であって、一つの限定性を現す小語(小前提)はその肯定の方面を表す心理的自我であり、判断(結論)は全体の立場から見た意識現象の世界、歴史の世界を表すと考えることができる。そして推論式そのものは具体的全体として、いかなる意味においても対象とならない絶対意志であると言うことができるだろう。
右に言ったように我々の意識現象と物体現象は互いに独立する実在界ではない。意識現象とはある一つのアプリオリの上に立つ対象界を、翻ってアプリオリの統一である絶対意志の立場から見たものだ。純粋思惟のアプリオリの上においては数理の世界が現れ、この立場から全経験を統一することによって自然科学的世界ができる。自然科学的世界はまたそのアプリオリの性質によって物理の世界、化学の世界、生物の世界というように、階級的に分かつことができる。逆に純粋思惟のアプリオリを反省することによっていわゆる規範意識(当為の意識)とか、純粋自我の統一作用とかいうようなものができる。すなわちリッケルトのいわゆる先験的心理学(事実上の知的作用を分析し、真と言われる知識の対象を明らかにして、これによって超越的対象=価値に達する方法)の対象のようなものだ。思惟の立場から経験を統一することによって成立する自然科学的対象界を反省することによって、我々のいわゆる意識現象の世界ができる。例えば色という経験界のアプリオリを反省したものが、視覚作用だ。自然科学的に言えば、眼という感官ができて色の経験を生じると考えなければならないだろうが、直接経験の立場から見れば、眼というようなものよりも、色という経験そのものが一層根本的でなければならない。まず色という直接経験が与えられなければ、眼という物質が特殊な生理的意義を持つことはできないのだ。アプリオリ(この場合視覚作用)のアプリオリ(この場合視覚作用が成立する基)である絶対意志の立場から色のアプリオリ(視覚作用)が反省され、純粋意志の否定的方面を表す同時存在の平面において、他の経験内容との関係において見られた時、はじめて眼という感官が考えられるのだ。絶対意志の立場から見れば、眼というようなものよりも、色の経験のアプリオリ(視覚作用)の方が根本的だ。ここには因果の関係を入れるべき余地はない。無から有(この場合、作用)を生じるのだ。このようなアプリオリを反省したものが心理作用であって、我々の個人的自己とはこのような作用の束に過ぎない。種々なるアプリオリ(作用)の上に立つ経験の体系のある一つの結合、すなわち種々なるアプリオリ(作用)のある一つの統一を絶対意志の上から反省して見たものが、我々の意識的自我(心理的自我)だ。そしてこのような作用の一束、すなわち作用のある統一を、絶対意志の否定的統一の対象界に映じて見たものが、我々の身体だ。ある一種の経験だけをこの対象界に映じて見たものが感官であるように、アプリオリの有限な統一がこの対象界に映されたものが身体だ。有機体とは絶対意志の否定的統一の対象界、すなわち物体界を、絶対意志の直接の対象界との関係において見たものだ。これ故に有機物は物体と精神の結合点とならなければならない。あたかも解析幾何学において正と負の二義を有する一点が、一方において曲線の内部に属すると考えられると共に、一方においてはその外部に属すると考えられるように、一つのアプリオリが絶対意志の肯定面に属するものとして精神作用となり、その否定面に属するものとして有機体となるのだ。自然界の目的論的見方というのは物体界をその具体的根元から見た見方だ。従って単なる否定的統一の上に立つ機械論的見方とは完全に異なった立場だ。機械論的説明を進めて目的論的問題を解決しようとするのは、古き解析家が無限に分かつことによって極限点に達しようとしたのと同様の誤りだ。物体現象の目的はその進み行く先において生じるのではなく、(論理に対する数理のように)始まりにおいて与えられてあるのだ。乙があるには甲が先立たねばならないというように、進行はその手段に過ぎない。ある一つのアプリオリの上に立つ対象界の具体的根元が、この対象界の目的だ。この意味においてロッツェの言ったように有機体は自然の目的となり、精神は有機体の目的となると言うことができる。精神と身体の結合も右のように考えることによって理解することができる。絶対意志の否定的統一の対象界であるいわゆる物体現象が、絶対意志の直接の対象である作用との世界において見られることによって目的論的となり、その統一点が右に言ったように正と負の二義を有し、一方にては生命の中心と考えられると共に、一方においては精神と身体の結合点と考えられるのだ。絶対意志はこの点を通して肯定から否定に、否定から肯定に行くのだ。かつて言ったように有意的行為(意識的行為)によって精神と物体が結合されると考えられるのは。これによるのだ。もしこの点をなお一歩進めて、フィードレルのいわゆる芸術的活動のおいてのように我々の行動が一々表現運動となった時、我々は単なる否定の世界を否定して絶対意志そのものに帰することができる。これにおいては物体界は物体界としての実在性を失い、一々が象徴として見られるのだ。
以上の考えを繰り返して言えば、ある一つの特殊な経験内容を「これは何々である」として絶対的否定の立場に立って見た時、この経験は否定的統一の対象界に入り来って、時間空間因果の範疇によって組織されたいわゆる実在界の事実となる。このような事実界を境界線として、リッケルトなどの言うように一般化的統一と個性化的統一の両方に進むことができる。前者は自然科学となり、後者は歴史となる。自然科学的見方というのは、絶対的否定の立場、すなわち純粋思惟のアプリオリから事実界を統一する見方であり、歴史的見方は翻ってこれ(事実界)を絶対意志の直接の対象界との関係において見たものだ(歴史的見方は、絶対意志の直接の対象である象徴の世界の立場から、いわゆる実在界を見たものだ)。歴史は宇宙精神の伝記だ。これに反し完全に絶対的否定の立場を超越して、人格的統一すなわち絶対意志そのものの具体的立場に還る時、我々は完全に事実の世界を超越して芸術的見方の世界に入るのだ。右のように考えてみると、心理学者のいわゆる意識界というのは歴史の世界と自然科学的世界の中間に位するものと言ってよい。更に詳しく言えば、歴史は事実界における芸術的見方であって、この(芸術的)見方と自然科学的見方の接触点を前者(芸術的見方)の方から見たものが精神現象であり、後者(自然科学的見方)の方から見たものが生物現象だ。精神と身体の平行というのは要するに、一種の公準に過ぎない。心理学者のいわゆる精神現象というのは、身体の基礎において見られた直接経験の内容であり。反対に身体とは精神現象に対応して考えられた物体だ。要するにある一つの立場の否定、すなわち部分的意志の否定が一方において身体の基となり、一方において精神の基となるのだ。それでいわゆる精神現象というものについて、生理心理学においてのように、その生理的説明を徹底して行けば遂に物理現象に還元されねばならない。これに反し多くの心理学者が主張するように、反対に直接経験そのものを忠実に記述しようとすれば、伝記のようなものとならねばならない。ヴントは精神現象はすべて創造的総合の因果律に従うというが、もしこの考えを厳密に徹底すればベルグソンのような純粋持続のようなものとならなければならない。すなわち心理学的法則というようなものを立てることはできなくなるのだ。いわゆる心理学者は歴史的現象と自然科学的現象の中間に、身体的統一に対応する意識我というような作用の一束を定め、この統一によって成立する対象界を意識界と名付けているのだ。このような意識界は意志の活動を否定の方面に写したものであるだけ、それだけ物体的と考えることができる。従って一般的法則というものを立てることができ、生理的現象と相対応することができるのだ。
以上述べたように、心身の現象とは絶対意志が部分的意志【すなわち直接経験のある一体系】を否定することによって成立し、その否定的統一の対象界に映じて見たものが身体であって、これを元状態との関係において見たものが精神現象だ。ベルグソンが同時存在の方面が物体界であり、純粋持続の方面が純精神であり、その接触面において我々の身体と意識が成り立つというのも同意義だ。私がかつて推論式の大前提の方面が物体現象であり、小前提の方面が精神現象であり、大語が物体界を表し、小語が精神を表すと言ったのも同一の考えだ。心身の関係を右のように考えるならば、意識と無意識の関係はどのように考えるべきだろうか。意識と無意識の関係は右に言ったような立場を取るならば、かつて「十七」において言ったようにある一つの意識内容とその背後に横たわる具体的根元、すなわち限定されたものとその基である己自身を限定するものとの関係と考えねばなるまいと思う。この意味においてある一つの限定された線とか形とかに対して、無限の次元のようなものがその背後の無意識と考えることができるのだ。「無意識の作用がある」ということは自然科学的に存在するのではない。すなわち自然科学的原因として働くというのではない。自然科学的原因として対象化された無意識は、生活力などと同じく、我々の客観的対象界に属したもので、一種の物力と異なる所はない。このような意味において無意識的精神などというものがあると言うのは矛盾だ。このような意味の無意識とは、有機体の生理作用と意識我の意識作用の間に、説明のために設けられた一種の仮定的統一に過ぎない。このような無意識が意識の原因として考えられるのは、物体を意識の原因として考えるのと同じく本末転倒だ。真に意識の根元である無意識は、コーヘンのいわゆる根元のようなものでなければならない。このような無意識があるというのは、自然科学的意義において存在するということではなく、プラトンの理念の世界のような意味において存在するのだ。私のいわゆる絶対意志の対象として存在するのだ。世界創造以前の神の思想だ。このような無意識は意識を離れて存立するや否やという問題に対しては、いかなる意味においても完全に限定なき理念、すなわち完全に意識と関係のない無意識というようなものはあり得ないと言う外ない。しかし限定されたある個人的意識というようなものを離れて、理念はそれ自身に存立し得ると考えることができる。人間全体、生物全体というものがなかったとしても、理念そのものは存立すると考えることができるだろう。
四十四(意味と事実)
精神現象と物体現象の区別及び相互の関係を以上述べたように考えることは、かつて「三十六」において論じたように、我々の常識及び自然科学的考え方とは相容れないと言うことができるだろう。我々の常識では、身体が精神の原因と考えられ、眼によって光覚が生じ、耳によって音覚が生じると考えられる。自然科学の考え方においてもこれと同様だ。しかし自然科学的考え方というのは、すでに言ったように絶対意志の否定の立場に立って全経験を統一する見方だ。一度この立場に立って考えてみれば、いわゆる時間空間因果の関係のようなものが動かすことのできない実在の秩序となり、物体現象はすべての精神現象の根底と考えられ、精神現象は宇宙進化のある時期における生物の神経系統に伴う付属物と考える外はないだろう。しかし自然科学的立場においては右のような考えが動かすことのできない真理であるとするも、斯く考える我は自然界には属さない。自然科学的世界はカントの言ったように純我(純粋統覚?)の統一によって成立するのだ。自然科学的世界の根本概念である時空因果の形式を以って(精神界を含む)全実在を統一しようとすれば、忽ち矛盾に陥らなければならない。自然科学的世界は“ただ一つの”世界であって、“唯一の”世界ではない。平面の世界を超越して立体の世界に到るように、我々は自然科学的世界を超越して自由意志の世界に入ることができる。この世界はいわゆる、汝は為さねばならぬ故に汝は為し能ふ(為さなくてはならないから為すことができる、道徳的意志、当為)自由意志の世界だ。夢の如き空想も動かすことのできない事実である世界だ。物理的時の前に現象学的時(内面的創造の順序)とも言うべき価値の時がなければならない。内面的統一に統一される芸術的動作を自然科学的に考えて機械的に説明することもできるだろうが、その極めて直接な内面的意味は自然科学的に説明することはできない。そして自然科学的説明というのも、その根底において何らかこの種の意味(内面的統一、当為)を許さなければ説明は成り立つことができないのだ。我々の精神は一方において身体に依存し、物質界に従属すると考えられると共に、一方においては直ちに宇宙精神の人格的歴史に接続している。神の国への途は何時でも我々の背面に開いている。アウグスチヌスが考えたように、我々は神の国と悪魔の国に属している。この両国は現在の我において相接しているのだ。この意味において真の世界は(自然科学的に)星雲を以って始まるという代わりに、世界は人格の歴史を以って始まると言うこともできる。私の世界は私の生涯とともに始まり、我々人間の世界すなわち人間の対象界は人間の歴史を以って始まると言ってよい。純粋思惟の対象界である物体界よりも、人格的歴史の世界が具体的実在(オン+メー・オン。物体+精神)だ。精神現象は普通に考えられるように時々刻々に生滅するものではない。ベルグソンの言うように記憶は己自身を保存するのだ。我々が推理によって外に物体界が現存すると考えなければならないように、内に歴史的実在が現存すると考えなければならないのだ。普通には前者(物体界)を唯一の実在と考えているが、もし前者を実在と言うならば、後者も同じく、否それ以上に直接な具体的な実在と言わねばならない。正しく言えば、人間の行為というような一つの実在(歴史)は、その結果と動機の和がその全体であるように、すべて具体的実在は物体プラス精神でなければならない。歴史的実在においては現象は機械的因果の法則に従って生起するのではなく、手段と目的の目的論的因果に従って生起するのだ。勿論我々の小なる人格においては全体を目的論的に見ることは不可能だろうが、人格が大なれば大なる程、一層大なる範囲において目的論的に見ることができるのだ。スピノーザの知的愛というような神的性格に至れば、すべてが必然的と見られると共にすべてが目的論的と見られることもできるのだ。このような人にとっては、すべてが「永久の今」だ。自然科学的には時が推移すると考えられても、精神的には同時存在の一平面を転回しているにすぎない。一直線の中にあるものは一瞬の過去にも還ることのできない無限の推移と考えることも、二次元の立場から見れば自由に過去に返ることができると考えることができる。物理的時とは実在の最も抽象的な見方の形式に過ぎない。純粋思惟の統一というような立場に立って見れば、物理的時の順序というようなものが動かすことのできない実在の順序であって、身体が精神の原因と考えられねばならないだろうが、ベルグソンの言うように身体は精神の貯留所ではない。かえって(身体は)その(精神の)切断面(エラン・ヴィタールの尖端と同時存在の平面が交わる切断面?)に過ぎないのだ。
身体なくして精神現象はない。精神現象は必ず身体に伴わねばならないというのは、普通に考えられるように物体というものが精神現象と没交渉に、その(精神現象成立の)以前に存在し、精神現象は付加物としてその上に生じるという意味ではない。精神現象と物体現象の区別は、一つの実在の見方の相違であって、要するに精神と身体の平行ということは思惟の要請に過ぎない。絶対自由の意志とも言うべき我々の直接経験は到る所に反省の可能を含んでいる。すなわち何れの経験もこれを同時存在の平面に映じて見ることができる。換言すれば物質化することができるのだ。眼がなければ視覚的経験がないということは、眼という物質から視覚的経験が生じるという意味ではなく、絶対意志の否定的統一の対象界であるいわゆる物体界において、眼という射影を有しない経験の体系はない、ということだ。これ故に厳密な意味において物体界には精神現象の結びつき様がない。物体現象が目的論的統一によって有機的と考えられ、有機的統一の中心、すわなち知覚神経と運動神経の結合点が精神の座と考えられるのだ。我々の感官というようなものが一方において純物質として単に客観的と考えられると共に、一方においては精神現象の基礎として主観的と考えられるのも、右の理由によって解することができる。要するに神経作用(例えば視覚作用など)というのは絶対意志の否定から肯定に、肯定から否定に移る一段階に過ぎない。否定から肯定に移る順序を言えば、物理的見方(純物質)から生理的見方(有機体)に、生理的見方(有機体)から心理的見方(精神の座)に、心理的見方(精神の座)から歴史的見方(具体的実在)に至ると考えることができ、肯定から否定に至る順序はこれを逆にしたものと考えることができる。神経作用とは前者(絶対意志の否定から肯定の順序)の最初の階段(物理的見方から生理的見方)に過ぎない。これらの現象のすべてを結合するものは、時空を超越した「永久の今」とも言うべき我々の意志そのものだ。この意志の中心が何時でも現在であって、「此(これ)」という語を以って表されるのだ。現在の意志は種々なる世界の結合点となるのだ。「目的の王国」の市民として、それぞれの立場において、絶対自由の影を宿す経験体系は、それぞれの立場において現在を有し、それぞれの立場において種々なる世界の結合点となる。このようにして我々の個人的な心身の結合が成り立つのだ。ただしこれらの背後に横たわる絶対意志は全体を統一して一体系となすが故に、宗教家の考えるように世界は神の人格的顕現となり、いわゆる物体界はその身体であって、歴史はその伝記であると言うことができる。真理の世界は神の思想とも言うべきだろう。
もし思惟と経験の対立とか、精神と身体の関係とかいうものが、これまで論じたようなものとするならば、【かつて「十三」の終において言ったように】実在は唯一の直接経験というようなものであって、合理的と非合理的とか必然的と偶然的とかいうような対立は、要するに経験統一のアプリオリ(作用)の相違に過ぎないと考えることができる。もし純粋思惟(作用)のアプリオリを以って、種々なる感覚のアプリオリ(作用)によって成る全経験を統一しようとするならば、前者(純粋思惟のアプリオリ)に対して後者(種々なる感覚のアプリオリ)が非合理的と考えられ、偶然的と考えられるのは当然だ。しかし厳密に言えば論理に対して数理が非合理的となり、算術に対して解析が非合理的となる。これに反し、マイノングの対象論においてのように、我々の種々の感覚についてそれぞれの先験学が成り立つと考えることができる。例えば色について色の幾何学というようなものが成り立つと考えることができる。一つの立場から非合理とか偶然的とか考えられるのも、他の立場からは合理的で必然的であると言い得るのだろう。つまり合理的とか非合理的とかいうことは、立場(アプリオリ)の相違ということになる。そしてこれらの種々なるアプリオリを統一するものは、絶対自由の意志のアプリオリだ。この立場において我々は思惟と経験と、精神界と物体界と、意味の世界と事実の世界を結合することができる。このようにし考えてみると、ある個人がある時ある場所において、ある真理を考えるということも、絶対自由の意志のアプリオリによると考えることができる。すでに思惟の対象界に移された自然科学的存在に過ぎない心理的自我は、最早一般妥当的真理と結合することはできない。しかし我々の「我」は、これ(心理的自我)を純粋思惟の統一の対象界に映じて心理的「我」と考えられると共に、その一々が絶対意志の面影を宿す自由な人格だ。種々なる作用の統一と見なすべき自由な人格は、種々なるアプリオリの結合点であり、種々なる世界の切点だ。ある時ある場所に限定された個人的「我」が一般妥当的真理を考えると言うのは、絶対意志がこの(種々なる世界の)切点を通じて自由に自然科学的存在の世界(個人的「我」)から他の対象界(一般妥当的真理)に移り行くことだ。同時存在の平面的世界から意志対象の象徴界である立体の世界に移り行くことだ。このようにして我々の精神現象は単なる自然科学的存在ではなく、一般的意味を寓する象徴となるのだ。
右に論じたように、種々のアプリオリによって種々の世界が成り立つことができ、我々は絶対意志の統一を通じて自由にその一から他に移り行くことができる。ある個人がある事を考えるというのは、一層高次的な世界(絶対意志の対象界、象徴界)に移り行くことだ。平面の世界から立体の世界に移り行くことだ。元々自然科学的世界を超越した対象界に属す意味とか価値とかいうようなものは、純論理派の人々の考えるように自然科学的存在である個人的作用を超越したものと考えられねばならない。ある人に意識されるということは内容そのもの(意味、価値)に何物も加えないのだ。ヘーゲルが「哲学全集」において単称命題( 形式論理学で、主辞が単独概念である命題。「この鳥は白い」「この花は美しくない」の類)の主語は一般的であると言い、「精神現象学」の始まりにおいて、「此(この)」とは何ぞや“Was ist da dieses?”を論じて、その直接なものにあらず「媒介されたもの」であると言っているように、我々がこの時この場所ということを意識した時、我々の意識は既にこの時この場所を超越しているのだ。この時この場所ということは一般的意識の対象であって、誰でも考えねばならない思惟の対象であるのだ。「この」として限定されたものは「この」を意識することはできない。「この」ということを意識するには、我々の主観は先験的主観(純粋統覚?)にまで上らなければならない。「この」ということは他人の心理現象の外にあるのみならず、「この」として指された心理現象そのものの中にもないのだ。個人的自己がいかにして一般妥当的真理を考え得るかの疑問は右のように解することができる。しかしなお一層深く考えて、ヘラクレイトスの永久の流にも比すべき純粋持続を離れることのできない自己は、いかにして過去を顧みることができるか。先験的主観の立場に上るということ自身がすでに純粋持続の流れの中に起こる事実ではないかという疑問を呈出することもできるだろう。先験的立場に立つということは自然科学的時を超越するとしても、ベルグソンの言うような純粋持続の真の時を超越することはできないと考え得るだろう。我々の道徳的自由の行為は自然科学的因果を超越するとしても、更に一層深き我々の人格的歴史上の事実だ。人格的歴史の上に印した過去の痕跡は、いかにしてもこれを消すことはできないと考えることもできる。しかしかつて論じたようにベルグソンの純粋持続というようなものは、すでに一つのアプリオリの上に立っているのだ。もはや対象の世界に属しているのだ。一つのアプリオリから自由に他のアプリオリに移り行くことのできる絶対自由の意志の立場においては、いかなる事実でも何らの痕跡も留めることはできない。いわゆる水月の道場に座して空華の万行を行ずるもの(禅語。坐水月道場 修空華萬行)、絶対に能動的なる意志は何らの意味においても受動的とはならない。無限数は有限数に対してどこまでも無限なる如くだ。もし絶対意志が何らかの意味において、行為の為に己自身を限定すると言えば、それは既に対象化された意志だ。真に能動的な絶対意志ということはできないのだ。我々の自覚はその奥底においてこのような絶対意志に接続している。我々の性格として意識するものは経験的性格empirischer Charakterであって、睿智的性格intelligibler Charakterではない。後の性格(睿智的性格)においては我々は何のアプリオリを取るかは自由だ。判断の誤謬ということも、右のように考えることによって可能であると思う。対象化された客観界においては誤謬というものの起こり得るはずはない。これ故に自然科学的見方においては、誤謬の判断も必然的因果の法則によって起こると考えられる。誤謬とは自由な純主観的作用の上に起こるものだ。種々なるアプリオリの統一作用の上において起こるのだ。異なる立場(アプリオリ)の混淆から起こるのだ。ある一つの立場に対して他の立場を混入し来るより生じるのだ。元々誤謬とか罪悪とかいうことは一方において物の不完全なることを表すと共に、一方においてその具体的なこと(物体+精神)を示すものだ。ただ、豊富にして深き実在のみ誤謬と罪悪に陥ることができる。Saint-Cyranの言ったように煙る所から光を放つUnde ardet, inde lucet(光は燃えるものから発せられる?)と言うべきだ。
跋
私はこの書の跋として、この書に於いて述べた考えをカント哲学との関係において簡単にまとめて話してみよう。認識論におけるカント哲学の重要な功績は、真理の考えを一変したことだ。すなわち真理とは実在との一致であるという独断論的真理の考えを一変して、知識は主観の先天的形式によって構成されたもので、我々が一般妥当的な真理を認めなければならないのは、我々はこの形式(主観の先天的形式)を離れて考えることができない故であるといういわゆる批評論的真理の考えを明らかにした点にあるのだ。無論カント自身は明らかに斯く言ったとは言えないとしても、とにかくカント学派の主意はこのようなものであったと言うことができる。今日リッケルトなどが「存在の前に意味がある」ということも、要するにカント哲学の意味を徹底的に言い表したものに過ぎない。
心理は右のようなものであるとすると、これに従って我々は普通に考えているような「物を知る」という考えも変じなければならない。常識では我々の心を鏡のようなものとして、物を知るということは物が鏡に映るというようなことと考えている。多少科学的に考える人は、我々の心は単なる鏡のようなものと考えないで、何らかの特質を有し従って外界の実在を変形して感じるものと考える。とにかくこれらの人の考え方では、我々の知識成立の根底に、何らかの意味において、心と物の間の因果関係というものが考えられていると言わなければならない。だがカントの批評論的認識論の考え方では、知識成立以前に因果律というようなものを考えることはできない。因果律というのは我々の経験界を構成する思惟の範疇に過ぎない。思惟以前に因果律を考えるのは矛盾だ。批評論の考え方では物を知るということは、与えられた経験内容を統一することだ。カント自身も「我々が直覚の雑多を統一した時、対象を認識する」と言っている。対象とは雑多な経験内容の統一ということに過ぎない。カントの中に「直覚の雑多が統一されたものが対象である」という語がある。現今リッケルトなどが認識の対象は当為であるとか、価値であるとかいうのもこの意味に外ならない。
右のように考えてみると、認識以前の物自体というようなものはいかなるものだろうか。カントは先験的感覚論においては物自体を感覚の原因として考えているかのように疑われる点もあるが、カントの立場から厳密に論じて行けば、物自体というものは認識の対象としては完全に不可知的なものでなければならない。すなわち我々が普通に考えるように範疇によって対象を知るという意味においては、物自体は全く不可知的であると言わねばならない。それでは物自体は我々の認識の世界に対して、どのような意味、いかなる関係を持っているだろうか。全然、無内容、無関係と言ってしまえば、物自体というような考えは完全にカント哲学から除き去ってよい。しかし知識はある立場からの構成であるとすれば、与えられたある物がなければならない(与えられたある物から知識が構成されなければならない)。これにおいて物自体とは知識の原因というようなものではなく、概念的知識以前に与えられた直接経験というようなものとならねばならない。現今のカント学徒はこのような意味において物自体を考えていると思う。すなわち与えられた直接経験というようなものは、我々の認識することのできない知識以前だ。我々の知識とはこの豊富な具体的経験(直接経験)をある立場から見たものに過ぎない。西南学派の如きは最もよくこの種の考えを顕したものだ。ヴィンデルバントはこれまで物自体と現象界が質的に異なるものと考えられたのは誤りであって、量的に異なるものと考えねばならないと言っている。これにおいて、現今のカント学派の考えは完全に異なった源から発展し来ったと思われる仏国のベルグソンなどの考えと結合することができる。リッケルトの如きも「自然科学的概念構成」の第二版の始りにおいて、ベルグソンの純粋持続のようなものを認めているのだ。
真理認識、物自体などの考えが右のように洗練されると共に、主観と客観の考えもこれに従って変じられなければならない。普通には我々の心が主観であって、これに対して外界の物が客観と考えられる。しかし少し考えてみれば、我々が内省的経験の対象として「我」と言っているものは、認識主観から見れば、外物と同じく認識対象の世界に属する一つの対象に過ぎない。外物と因果関係に立ち、これと同一の自然界に属する同列の現象だ。もし外物を客観というならば、これも客観と言わねばならない。右のように考えてみると、認識論上真の主観と言うべきものは、ある一つの客観界を構成する統一作用のようなものと考えねばならない。前にある一つの立場またはある一つのアプリオリから経験を統一すると言ったが、このような一つの立場とか、アプリオリとかいうものが、真に反省することのできない、すなわちこれを対象視することのできない認識主観と言わねばならない。カントの純粋自我の統一というようなものがそれだ。真の主観と言うべきものが右のように考えねばならないとすると、主観とは一つの世界の構成作用の中心というようなものであって、客観界とはこれによって構成されたものということとなる。厳密に言えば、主観と客観は一つの実在の両極とも言うべきものであって、相離すことのできないものだ。
右のように考えてみると、我々は種々の立場によって種々の世界ができるということができる。数学者の立場からは数の世界ができ、芸術家の立場からは芸術の世界ができ、歴史家の立場からは歴史の世界ができる。我々が普通に“唯一の”世界と考えている物理的世界のようなものは、このような世界の“ただ一つ”に過ぎない。ということとなる。すなわち唯一の世界ではなくただ一つの世界ということとなるのだ。
私はこれから種々の世界とその相互関係について少し述べてみよう。右に言ったように知識はあるアプリオリの構成によって成立し、種々の立場によって種々の世界が構成されると考えてみると、未だ何らの立場というようなものを取らざる以前の世界、あるいはすべての立場というようなものを除去した世界、すなわち真に与えられた直接経験の世界、カントのいわゆる物自体というようなものは、いかなるものだろうか。このような世界は、言うまでもなく、我々の言語思慮を超越したものでなければならない。これを思惟すべからざる神秘の世界と言うも、すでに誤れるものかもしれない。思うにこのような光景に直接するのは宗教のこととして、哲学のことではあるまい。しかし試しに哲学の立場から論じてみれば、私はこれを絶対自由の意志の世界と考えてみたいと思う。我々の種々の能力を総合統一して、自由にこれを使うことのできる人格的統一の体験、すなわち絶対自由の意志の体験が我々をして、この世界を彷彿させることができると思う。普通に(普通の考えのように)直接経験は単なる感覚の世界のようなものと考えるのは誤っている。このような世界はかえって作為された間接の世界に過ぎない。この点においてベルグソンが直接経験を純粋自我というのは、既に思惟対象の世界に堕している。真に直接な世界はスコトゥス・エリューゲナのいわゆる止まれる運動、動ける静止の世界でなければならない。それでこの世界(絶対自由の意志の世界)は完全に我々の思惟の範疇を超越している。昔ディオニシュース・アレオパギダやスコトゥス・エリューゲナが言ったように、神はすべての範疇を超越している。神を有と言うのも既にその当を失している。我々の意志は有にして無、無にして有なる如く、この世界は有無の範疇すらも超越している。況やここには空間も時間も因果もない。無から有を生じるのだ。私はここにおいて希臘の終期における新プラトー学派の流出説から、オリゲネスなどの教父の創造説に転じた所に深い意味を認めざるを得ない。最も深き実在の解釈は、これを理性に求めるべきではなく、かえって創造的意志にあると思うのだ。
それではいかにして知識の対象として反省することのできない、しかも我々が認識の根底として認めねばならない直接の実在、すなわちカントの物自体とも言うべき絶対自由の意志の世界から、いかにして種々の対象界が出てくるだろうか。我々は我々の内省的経験において知るように、我々の意志はその一々(部分的意志)が自由なると共に、一大自由の意志(絶対自由の意志)の中に包摂されている。我々の自己は一瞬一瞬に自由なると共に、全体において自由だ。この意味において我々の自己はカントのいわゆる目的の王国だ。ヘーゲルのいわゆる概念だ。一々の作用の中に肯定(発展)と共に否定(限定)を含んでいる。自由ということは肯定の中に否定を含み、否定の中に肯定を含むことだ。意志はこのようにして、その一々が独立自由であることができるのだが、これらはまたすべて絶対自由の意志の立場の中に包容され、絶対意志の否定の立場からすべてを統一して見ることができる。すなわち我々の経験全体を絶対意志の否定的統一の対象界として見ることができる。このような見方によって出来たものが、思惟の統一によってできたすなわち思惟の範疇に当てはまってできたいわゆる実在界だ。我々の自己は一々の場合において自由であって、自己を否定し反省することができると共に、一つの人格として私自身の経験全体を反省して見ることができるように、我々の個人的自己は各自独立自由であるにも関わらず、超個人的意識の立場から全経験を統一して見たものが実在界だ。思惟と言うのはこのような絶対意志の否定の立場だ。思惟は絶対意志の否定作用として独立に考えられた時、それ自身が一つの対象界を持つことができる。数理の世界は純粋思惟の対象界だ。しかし思惟は元々絶対意志の一作用に過ぎないのだから、思惟のみの立場の上に立つ対象界は単に主観的とか抽象的とか考えられ、思惟は己自身を完成するにしたがって全人格の統一に進まなければならない。思惟の立場から全経験を統一して見たものが実在界だ。リッケルトは直接経験の内容がまず所与の範疇に当てはまり、次いで時間空間因果の範疇に当てはまって、実在界ができると言っている。このような純粋思惟の統一をどこまでも進めていったものが物理的世界だ。プランクの「物理的世界像の統一」はこのようにして成立するのだ。我々はある一つの立場(アプリオリ、作用)の上に立っては、その立場自身を反省することはできない。したがってその対象界は動かすことのできない実在界と考えられるのだ。我々は普通にすべての人に共通と考えられる思惟の対象界を“唯一の”世界と考えているが、思惟は絶対意志の一作用に過ぎないので、アプリオリのアプリオリ、作用の作用とも言うべき絶対自由の意志そのものの立場に立っては、我々は思惟そのものを対象として反省することができる。カントの純粋批評の如きもその一つだ。右のような意味において、いわゆる実在界を原経験(直接経験)の形に再び構成して見たものが、歴史の世界だ。自然科学は一般化的方向に進むのに反し、歴史は個性的方向(特殊化的方向)に進むと考えられるのはこれによるのだ。歴史は自然科学の顛倒だ(歴史は自然科学とは逆だ)。このように一方には物理的世界、一方には歴史的世界を両極として、その中間に種々の実在界を考えることができる。歴史学的世界、心理学的世界、生物学的世界、化学的世界、物理学的世界というように、階段的に種々の世界が考えられるのだ。物理的世界から歴史の世界に近づくに従い、意志そのものの具体的経験に近づき、すべてが目的論的となるのだ。そして現在の「我」というのがこれらの世界の接触点だ。我々はこの現在の「我」と通じて自由に何れの世界にも出入することができるのだ。
右に述べたように、絶対意志の否定的立場、すなわち思惟の立場から経験全体を統一して見た世界、すなわちいわゆる実在界だけの見方について見ても、歴史の見方から物理学の見方に至るまで、階段的に種々の見方ができるのだが、否定を否定して何の立場においても独立自由になることのできる絶対意志は、いわゆる実在界を超越して、それ以外の種々の世界を有することができる。ヘラクレイトスが我々は日の中においては共通の世界を持つが、夢においては各人が各人の世界を持つと言ったように、絶対意志が否定(思惟による限定)を否定し、一たびこの実在界を超越した時には、そこに無限な可能の世界、想像の世界の展望が開かれるのだ。この世界においては夢のような空想も一々事実だ。前に種々の立場、種々のアプリオリによって、種々の世界ができると言ったが、種々なる立場の統一、アプリオリのアプリオリとも言うべき絶対意志の立場に対する直接の対象界は、すべての物が一々独立の作用である自由意志の世界だ。この世界においては時間も空間も因果もない。万物はすべて象徴だ。我々が唯一の実在界と考えるいわゆる自然界も、単なる一種の象徴に過ぎない。ある人がザイスの女神のヴェールをあげたら、不思議にも自分自身を見たというように、自然の世界の根底には自由なる人格(絶対自由の意志の対象界)がある。昔グノシス派のヴァレンチヌスなどが、太始的深底というような神からこの世界の創造までの間に、神話的図式(一種の象徴)を考えたのは、この点から見て深い意味があると思う。
以上の考えを纏めて言えば、我々のいかにしても反省することのできない、すなわち対象化する事の出来ない絶対意志の直接の対象、すなわち第一次的世界というようなものは、芸術の世界、宗教の世界だ。この世界にあっては、一々の現象が象徴であり、自由の人格だ。この世界においては我々の思惟は“ただ一つの”作用に過ぎない。したがって思惟の上に立つ真理、思惟の上に立つ世界は、ただ一種の真理、ただ一種の世界であって、唯一の真理、唯一の世界ではない。単に思惟の立場に立って見れば、そこに数理の世界が現れる。数は純粋思惟の世界の実在だ。しかし数理を意志の直接の対象として見れば、一種の象徴だ。ディリシュレがローマにおいて復活祭の音楽を聴き数理の示唆を得たというのも意味あることだ。ただ、絶対意志の統一は深さと広さの両方向に進む。一々の立場はそれぞれの立場において深く純なる方向に進むと共に、人格の一作用としてその全体の統一に向かって進む。これが知識の客観性の要求となるのだ。
右に言ったように、我々が普通に唯一の世界と考えているいわゆる自然界はただ一つの世界であって、必ずしも唯一の世界ではない。我々は自然界が主観的自我を離れて存在すると考えるのと同一の理由を以って、否なお一層深き権利を以って、歴史の世界がが客観的に存在すると主張することができると思う。ベルグソンが言っているように、我々はこの戸を開けて行けば隣に室があるということを信じるのと同じく、過去における出来事を動かすことのできない実在と考えることができるのだ。それだけでなく、物理的真理はかえって歴史的真理に依存するということができる。物理学者は我々の精神現象はその時、その時に消失する虚幻に過ぎないと考える。心理学者も精神現象は繰り返すことのできない時々刻々に生滅する出来事と考えている。しかし物体現象が不変であるというのは、同様の精神現象が繰り返し得るということに過ぎない。物とは「感覚の不変的可能」であるということは、ミルが既に言っている。精神現象が真に繰り返すことのできない永久の流であるならば、物体の不変性も失われてしまうのだ。それだけでなく、我々は単に不変なもの、すなわち何時も現在であるものを実在的と考えているが、このような実在は単なる抽象的実在に過ぎない。真に具体的な実在は過去の加わったものでなければならない。いかなる人も死んで灰となってしまえば、物体としては何の人も変わらないかもしれない。しかし歴史的実在としては各々の人が一あって二なき個性を持った実在であったということができる。同じく零落して乞食になった人であっても、自己の罪によるものもあれば、やむを得ない運命によるものもあるだろう。もし単に外面的な固定的な現象にのみ着眼すれば、これらの差別は尽く虚幻として除去されなければならない。しかし我々に直接な具体的実在は、物体現象のような抽象的実在ではなく、かえって右の如き歴史的実在であると言わねばならない。歴史的世界は自然科学的世界に比べ一層具体的実在と考えらえるが、芸術の世界、宗教の世界はこれにもましてなお一層深い直接の実在であるということができる。とにかく、我々は種々の世界に属し、種々の世界に出入している。アウグスチヌスの考えたように、人間は一方に「神の国」に属すると共に、一方においては「悪魔の国」に属している。我々人間の向上も堕落も悲劇も喜劇も皆ここにあると思う。
以上述べた考えを少し人生問題と結合して考えてみよう。以上述べたように考えてみるならば、物の目的ということは抽象的なものから見て、その背後の具体的全体を指すのだ。前者(抽象的なもの)の立場から見て後者(その背後の具体的全体)がその目的となるのだ。上に言ったように、ある一つのアプリオリによってある一つの客観界が立せられる。数理のアプリオリによって数理の世界が立ち、自然科学的アプリオリによって自然科学的世界が立ち、歴史学的アプリオリによって歴史的世界が立せられる。更に詳しく言えば、算術のアプリオリによって有理数の世界ができ、解析論のアプリオリによって実数の世界ができ、幾何学のアプリオリによって幾何学的図形の世界ができ、また力学のアプリオリによって機械的世界ができ、化学のアプリオリによって科学の世界ができ、生活力のアプリオリによって生物界ができ、心理学のアプリオリによって心理学者のいわゆる意識界ができる。これらの立場は極めて抽象的な論理や数理の立場から、極めて具体的な歴史や芸術の立場に至るまで、順次に抽象的な立場は具体的立場の中において成立し、具体的立場が抽象的立場に対してその目的となるのだ。このような意味において、数理は論理の目的となり、連続数は非連続数の目的となり、幾何は数理の目的となり、生命は物体の目的となり、精神は身体の目的となる。我々に最も直接な絶対自由の意志の立場は、このような意味において、すべての立場の根底となり、すべての立場がよって以って成立する最も具体的な立場であって、すべての立場の目的となるということができる。我々の知識はその内容を得ることによって、客観性を充実するというが、さらに進んで意志とか行為とかに達することによってその終極に達し得たと考えることができる。
それで我々が人生の目的を充実していくということは、抽象的立場からその具体的根元に移り行くことだ。ベルグソンのエラン・ヴィタールということも、このような意味において具体的根元に向かって躍進することであると考えることもできる。論理から数理に行き、有理数から実数に至るのも、一種のエラン・ヴィタールだ。生命という語は曖昧であると思うが、要するに我々の意志を対象界に投射して見たものが生命だ。すなわち客観化された目的論的統一だ。一言に生命と言うも、その内容は目的の内容によって異なってくると思う。例えば単に物質欲の外、理解しない人にとっては、その人の生命は肉体的生命の外に考えることはできないだろう。これに反し深い理想的要求に生きる人は、ポールの言の如く、我もはや生きるにあらずキリスト我において生きるということができる。己自身によって立つもの、真に独立なものが生きたものであって、真の生命とは実在の具体的全体の統一であるということができる。生命の発展とは具体的全体に向かって進むことだ。この意味において単なる抽象的立場の上に立つ肉体的生命というようなものは手段であって、目的そのものではない。キリストが生命を求めるものはかえってこれを失い、我ために生命を失うものはかえってこれを得ると言ったのも、決して単なる道徳的意義のみに解するべきではない。右のような理由によって、真の生命というのは文化意識というものを除いて考えることはできない。「生への意志」は「文化への意志」でなければならない。私はこの点においてフィヒテなどの考えに最も同意を表するものだ。絶対意志は反理智的ではなく、超理智的でなければならない(理智…理性と知恵)。意志が理智を否定し反智識的となるのは、意志の堕落だ。意志が自然化され他律的となるのだ。
右に言ったように抽象的立場から具体的根元に移り行くということは、一方から見れば我々の最も直接な具体的全体に還るということだ。絶対意志というのは我々に最も直接な現実だ。これに反しいわゆる自然界というのは、投射された対象の世界、間接経験の世界だ。現実の具体的生活は立体の世界のようなものであって、自然界はその投射面のようなものに過ぎない。我々に最も直接な絶対自由の意志は「創造して創造されぬもの」であると共に「創造されもせず創造しもしないもの」だ。到る所に己自身の否定を含んでいる。これ故に我々の精神現象は必ず一方に物体現象を伴うと考えられる。精神と物体の結合というのは、一種の公準(ある論理的、実践的体系の基本的な前提として措定せざるを得ない仮定的な命題)だ。それで我々は何時でも精神と物体の両界に属すると考えられるのだが、投射図の意味がその原形本体である原立体の影として理解されるように、肉体的生活の意義は精神生活にあるのだ。肉体的生活は精神生活の手段に過ぎない。物質的生活に偏する文化の発展は、決して真の人生の目的ではないのだ。
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