週刊「我がヂレンマ」<1月13日号>
今日は成人の日。無論、私が二十歳の時は参加していない。これは当たり前のことであり、特に準備した記憶や、友人などと話した記憶もない。いや、友人が行ってきた話を聞いた気もする。
「今になって参加しておけばよかった」というような、ナイーヴな感傷はない。過去を振り返って「あの時、こうしていれば」と考えても、生産性はないし、無駄に悲しくなるだけだ。
とはいえ、「今日が人生で一番若い日」とかいう世迷言に励まされるほど馬鹿ではない。
眼前には、現実と、パソコンの白い画面があるだけ。
ひとつひとつ確実に埋めていくしかない。その小さな決意を元に、本日の記事を書いていこう。
今日は休み。昼下がりの午後三時から書きだしたが、「極端に」早く終わることはないだろう。
余裕があれば余裕をカマす。そんな人間です。
今週のコンテンツ(毎週同じです)。
<メモについての解説と考察>
<購入した書籍の紹介>
<月曜、ひとり歌会>
今、全国サッカー選手権大会の決勝見てますが、
サッカーうまいね、みんな。
当たり前だ。
<メモについての解説と考察>
「マジックリアリズム」
日常にあるのものが、日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法で、主に小説や美術に見られる。
幻想的リアリズム、魔法的現実主義と呼ばれることもある。
魔術(magic)の非日常、非現実とリアリズム(realism)の日常、現実という相反した状態が同時に表すこの技法は、しばしばシュルレアリスム(超現実主義)と同義とされることがあるが、魔術的現実主義はシュルレアリスムと異なり、ジークムント・フロイトの精神分析や無意識とは関わらず、伝承や神話、非合理などといった、あくまで非現実的なものとの融合を取っている手法とされ、先行する芸術作品の影響はやはり顕著である。
例えばガルシア=マルケスの小説において顕著なフォークナーやヘミングウェイなどの影響(直接的モチーフ・パロディなど)や、技法の観点からはシュルレアリスムからの影響も容易に見て取れる。
「ゼノンのパラドックス」
エレア派のゼノンの議論で、特にパルメニデスを擁護してなされたいくつかの論駁を指す。多・場所・運動・栗粒等の論があったと伝えられているが、本人の書は失われ、断片が残るだけである。
アリストテレスが『自然学』の中で、ゼノンに対する反論として引用した議論が、比較的詳しいものであり、重要なものとして取り上げられてきた。 そのなかで運動のパラドックスと呼ばれるものは、運動があるとすると、このような不合理が帰結すると論じられた。
シンプリキウスがアリストテレスを注釈しつつ、他の議論に触れているもの、及びその他の断片から、多(多数性 plurality)の議論もいくつか残った。
【多のパラドックス】
・似て、かつ似ていない。
存在が多であれば、果然それは似ていて似ていない、ということにならなければならない。しかしそれは不可能である。
・大であり、かつ小である。
もし多くの事物があるならば、それらは小さく、かつ大きくなければならない、サイズがないほど小さく、制限されないほど大きく。
・限定され、かつ無限定である。
もし多くの事物があるならば、それは丁度あるだけであるモノでなければならない、多くでも少なくでのなく、すなわち限界がある。ところが、事物の間には別の事物がなければならない。すべての事物についてそうなのだから、限界はない。
「自意識課長」
自意識過剰のモジり。平社員にもかかわらず、自意識が「課長」であるため、何かにつけて指示・管理をしたがる。そのくせ自分の仕事は中途半端、大企業なら追い出し部屋行き確定のモンスター社員。
または、働いていないが課長としてオフィスビルに侵入する人間。
こちらは犯罪者である。
「フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー(1613年9月15日‐1680年3月17日)」
フランスの貴族、モラリスト文学者。
名門貴族の生まれであり、多くの戦いに参加した後、いわゆる『箴言集』を執筆した。彼の作品に見られる辛辣な人間観察には、リシュリューと対立して2年間の謹慎処分を受けたことや、フロイドの乱でジュール・マザランと対立したことなどで味わった苦難が反映されているとも言われる。宗教的にはジャンセニスムの立場に近かった。
代表作『考察あるいは教訓的格言・箴言』は、単に『箴言集』や『格言集』とも呼ばれる。1659年頃から執筆を始めたと推測されており、その後いくつか写本も作成された。
印刷物として刊行されたのは1664年のことであるが、これは先行して無許可の海賊版が出されたことに対抗したためである。
その後、箴言は増補される一方で、一部削除され、生前に第5版(1678年)までが刊行された(死後1693年には第6版が出された)。
「高橋是清(1854年9月19日‐1936年2月26日)
日本の政治家。日本銀行総裁。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任:1921年11月13日‐1922年6月12日)。栄典は正二位大勲位子爵。幼名は和喜次。
日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する財政家として知られることから、総理大臣としてよりも、大蔵大臣としての評価の方が高い。
愛称は『ダルマさん』。二・二六事件で暗殺された。
「"技術"によって世界観が変わり、考え方が変わる」
出典不明。
例えばスマートフォンの登場によって、よりインターネットが身近になり、SNSの発展は爆発的な情報の送受信、新たなコミュニケーションを生み、人の在り方が変わった。根拠の有る・無しに関わらず、"情報"に思想、思考、行動さえも影響される。
つまりSFは「技術によって変わった世界観、考え方」を表現するジャンルということになる。
だからこそ、好きなんだろうな。
知的な昂揚感て、いいよな。なーんてね。
「若人と山」
ヘミングウェイの『老人と海』のモジりである。
老人と海は、巨大な魚と老漁夫の死闘の物語。誇り高い人間の栄光と悲劇を描いた名作。ならば、『若人と山』は地球最高峰のエベレストに挑む若者の物語。誇り高い人間の挑戦と悲劇、再起を描いた作品か?
すでにありそう。
山をおっぱいに見立てて、単なるナンパに挑戦する若者の短編ならいけそう。結局ものに出来ず、風俗に行ってしまいそうだが。
<購入した書籍の紹介>
『幽霊奇譚 ドイツ・ロマン派幻想短篇集』
ヨハン・アウグスト・アーペル
フリードリヒ・ラウン
ハインリヒ・クラウレン
識名章喜=訳
――ドイツの古城、妖精の森へようこそ
幽霊の花嫁、妖精の女王、死の舞踏、魔法の鏡、七里靴‥‥‥
E.T.A.ホフマンに影響を与えた伝説のアンソロジーを味わう15篇。
『フランケンシュタイン』
『吸血鬼』を生んだ、そのきっかけの書。
〈ディオダティ荘の怪奇談義〉
1816年夏 スイス・レマン湖畔。
バイロン卿、ジョン・ポリドリ、のちのシュリー夫妻らが
無聊をなぐさめるために思いついたのは、
本書の仏語版『ファンタスマゴリアーナ』の朗読。
大いに震撼させられた4人は、一篇ずつ怪奇譚を書こうと思いつく――。
かくして、『フランケンシュタイン』と『吸血鬼』が生まれ、
ゴシックの本場英国に逆輸入される。
初期英国ゴシックがドイツの深い森の伝説と結びつき、
中世を再発見してドイツ・ロマン派となり花開く。
グリム兄弟と同時代の、伝説の恐怖小説アンソロジーの全貌が明らかに。
装幀が美しい。新年初の国書刊行会の書物。あまり読まないジャンルだが、近代のホラーの原点的な作品集ということで、手が伸びた。
実店舗でこその出会い。ゴシックホラーにハマるかもしれない。
『デートピア』
安堂ホセ
第46回 野間文芸新人賞候補作
「強烈な皮肉とクールな文体。私たちの眼差しを切り開く手術(オペ)のよ うな小説。どこへ連れていかれるのかわからず、ひと晩で読み終えた」
――佐藤究
「語りと構造、ストーリーの面白さの中に、資本主義や植民地主義、ウクライナ戦争やガザでの虐殺についての鋭い批判が、当然のように滑り込む。
極めて刺激的なだけでなく、小説的な奥行きと開放性をも兼ね備えている。国境を越えて、世界にリコメンドしたい」
――須藤輝彦(中欧文学/批評)
楽園のルールは崩壊した。
ひとりの女を巡る、世界各国十人の男たちの争奪戦。
欲望と監視の恋愛リアリティショー、
ここに開幕。
安堂ホセの圧倒的最高傑作
舞台は南太平洋の楽園、ボラ・ボラ島。
白人女性"ミスユニバース"を巡って10人の男が競う。
Mr.L.A、Mr.ロンドン、そしてMr.東京――
やがてショーの視聴者たちは
「自分だけのDTOPIA(デートピア)」を編集しはじめ、
楽園の時間は膨張する。
以前から気になっていた作家さんで、YouTubeチャンネル『純文学YouTuberつかっちゃん』のライブ配信で紹介されていて、気になり購入。
まず、「安堂ホセ」の字面がいい。カッコいい。
『月は無慈悲な夜の女王』
ロバート・A・ハインライン
矢野徹=訳
2076年7月4日、圧政に苦しむ月世界植民地は、地球政府に対し独立を宣言した! 流刑地として、また資源豊かな植民地として、月は地球から一方的に搾取されつづけてきた。革命の先頭に立ったのはコンピュータ技術者マニーと、自意識を持つ巨大コンピュータのマイク。だが、一隻の宇宙船も、一発のミサイルも持たぬ月世界人が、強大な地球に立ち向かうためには‥‥‥
ヒューゴー賞受賞に輝くハインライン渾身の傑作SF巨篇!
前々から買おうと思っていたが、700ページ近く、手をこまねいていた。それも終わり。怒濤のハインライン収集が始まるかもしれない。ということは、『異星の客』が次のターゲットか。
何にせよ名作。Amazonレビューにおいて、「訳に難あり」との指摘があるが気にせず読もう。
『時間衝突』
バリントン・J・ベイリー
大森望=訳
そのふたつの文明は、衝突針路にある。
ワイドスクリーン・バロックの鬼才による
奇想天外、驚天動地の時間/宇宙SF
第21回 星雲賞受賞
異星人との戦争で過去の遺産がことごとく失われた地球。
異星人が遺した遺跡を調べていた考古学者たちのもとに、驚くべき資料が届けられた。300年前に撮られた一枚の写真に、現在よりはるかに古びた遺跡の姿が写っているのだ。
遺跡は年とともに新しくなっているというのか?
彼らは異星人の技術を用いてタイムマシンを開発し、過去へと旅立つ。
アイデアの鬼才が放つ究極の時間SF。
手に取るまで知らなかった作家。完全なるSF小説にわかファンである私だが、アイデアの鬼才、というところに惹かれた。「この手があったか~」というのはSF小説の醍醐味のひとつ。
『黴|爛』(講談社文芸文庫)
徳田秋声
明治四四年、夏目漱石の推挙で「東京朝日新聞」に連載し、
自身の結婚生活や師・尾崎紅葉との関係等を徹底した
現実主義を描き、自然主義文学を確立、同時に第一級の
私小説としても傑作と謳われる「黴」。翌々年「爛」では、
元遊女の愛と運命を純粋客観の目で辿り、文名を確立する。
川端康成に「日本の小説は源氏に始まつて西鶴に飛び、
西鶴から秋声に飛ぶ」と言わしめた秋声の、真骨頂二篇。
【Amazonレビューより引用(三沢雅明さん)】
この二編を読むと、異様に重く寂しい気持ちにさせられます。読んでいて何度も中断しました。なんだかなあ、まいったなあ、とうふうに。
徳田秋声、明治四年(1871)生まれ、昭和十八年(1943)没。藤村や花袋とくらべ、自然主義作家として地味な存在でした。しかし徐々に頭角を現し「新世帯」「足迹」など、明治の男女の光明のない暮らしを淡々と描いた作品で名を成しています。
「黴」「爛」はともに作者四十代の作。前者は、作者自身である売れない作家笹村と女中の娘との祝福されざる結婚と、琴瑟相和することのない空虚な夫婦生活が淡々と描かれています。後者では、働き者の男に囲われた元遊女が、狂気を帯びていく正妻との葛藤を経て、やがて自らも男の浮気に苦しむようになります。
安易な解決やご都合主義的な展開はなし。貧苦や子の病気、面倒を持ち込む親戚との煩わしいやり取りも加わり、両作とも、どうにも始末のつかない暗い日々が延々と克明に描かれる。解説の宗像和重氏の書いたように、まさに「陰湿淫靡でジメジメ、ジュクジュクとした作品世界」です。
しかし宗像氏の指摘は、徳田秋声という作家に最高の賛辞を送っているともいえます。自然主義がありのままの人生をありのままに描く。ありのままの苦しみと悲しみは、読者の心を逆に強くする。綺麗ごとでない現実に立ち向かえる、開き直りにも似た力を得られるかも知れません。
書店で発見するまで知らなかった作家。
『黴|爛』という潔い題名に惹かれて購入。変に凝らずに、そのものズバリという雰囲気である。「単語、漢字ひとつ」であることで、読者に余計な想像をさせず、作品世界に誘う効果があるように思える。
それにしても「講談社文芸文庫」は中々、高価(2000円税別)です。
しかし、その価値のあるラインナップで今後も注目。
<月曜、ひとり歌会>
「五・七・五・七・七」「季語はいらない(使用可)」という最低限のルールを守り、言葉を研く目的で始めたこの企画。もうどれぐらい詠ってきたのかも判然とせず、記憶になく、週に一度の習慣と化す。
今一度、新鮮で瑞々しい感覚で詠おう。
と、言ったもののテレビとユーチューブを流しつつ詠っているので、期待はあまりしていない。それでもいくらか真剣に、いつもより時間があるので焦らずいこう。
〇ぶり返す冷たい風でひとしきり 震える心地退くカカト
〇「愛は勝つ」何と戦い暮れなずむ「金で負けてる」自意識降下
〇この雨にやられて饐えた臭いして爛れし午後 消えた青空
〇部屋の隅いつの間にやら埃湧く できる過程を見た人は無く
〇痴漢死ね 田舎の山で熊の餌 糞に変換大地に還れ
〇ドンキいく 時々ゆきてヘッドホン 安物買って周るサイクル
〇道すがら出会ったことにときめいて 忘れることも含めて出会い
〇痛み入り苦しみ染み入り憂いても 腐りの鎖追われ縛られ
〇自由ならあえて自由を求めない 自由の範囲そこは安寧
〇寒冷が僕と君とを隔ててる壁を壊した それで終いだ
いつもなら始めて間もない時間(22:11)に終わろうとしている。
ネットサーフィン、読書、入浴、食事(マグロとつぶ貝)なんかをしていたら、7時間が経過していた。スローペース過ぎる。冒頭に書いた通り、やはり、「極端に」早く終わることはなかった。
時間があれば、その通りのんびりとしてしまう。この精神性と生きる他ないのだろうか。
この襤褸船で人生の荒波を航海する。暗黒の海を見るのは厭だから、暖房のきいた襤褸の中でぬくぬくとしている。非常に暗い感傷に身を委ねるフリをして、のろまに呑気な生活である。
さて。
もう終わろう。
これ以上は蛇足であるし、明日から三日連続でショートショートを書かなくてはならないので、少しはアイデアを出しておこう。
加えて、
そろそろ長篇小説についても考えなくてはいけないだろう。
唾棄すべきモラトリアムの安寧を破砕する。
破砕。
何で?
どうやって?
形ないものを変えることを考えたところで意味はない。
いい加減、終わろう。また明日。