週刊「我がヂレンマ」<8月26日号>
8月が終わろうとしているが、涼しくなる気配など微塵もなく、週の真ん中には台風10号が本州を縦断する模様。
暑く、騒がしく、ほんの一時の秋を越えたらもう年末。気づけば木枯しが吹いて、年末年始となるわけだ。
しかし、今のところ汗は滝である。
痺れと息を切らして自宅に辿り着くと、冷房をつけてシャワー。風呂に入れば再びの滝汗。冷房でクールダウン、パソコンを前にして指を走らす。
そんな晩夏。
暑い、暑いと文句を言いながら一抹の寂しさがある。これは子供時代の夏休み、その終わりの感覚が残っていて、琴線に触れるのだろう。
そして、寂しい淋しいと言いつつ、秋の味覚に舌鼓を打ち、夏のことなど忘れていることだろう。
時は移ろい、歩みは止まらず、今週のコンテンツ。
<メモについての解説と考察>
<購入した書籍の紹介>
<月曜、ひとり歌会>
関東に直撃する見込みの少ない台風10号。そこそこの雨風はあるだろうが、今のところ対岸の火事である。
しかし、進路も規模も不確実性が高いので油断はできないだろう。
そういう意味でも気を引き締めて、書き進めよう。
<メモについての解説と考察>
「The Vidicator(1986)悪魔の改造人間」
は、1986年のカナダのSF映画。古典ホラーのフランケンシュタインを現代風にした作品。
航空宇宙研究社(ARC)の科学者カール・レーマンは同社の長官ホワイトの指揮によって脳と肉体の接続を絶たれる。
彼の肉体は火星着陸用の宇宙服に移植され、遠隔でコントロール装置の支配下に置かれた。一方、脳は人工肉体のコンピュータに接続される。
しかし、コントロール装置の移送中にカールが脱走される。ホワイトはハンターという女性を雇ってカールの確保に向かわせる。何度か確保に失敗した後、ハンターはカールの妻・ローレンを人質に取る。
ハンターとの戦闘で生命維持に必要な体液を何割か失いつつも、カールはARCに現われ、ローレンとともにホワイトへ反撃する。そして、カールは体液をすべて失い、ローレンが見守る中で死を迎える。
「死のう団事件」
は、1930年代に法華教系統の新宗教「日蓮会」の青年部「日蓮殉教衆青年党」(通称「死のう団)を巡って発生した、一連の騒擾事件。1933年7月2日に、集団で「死のう死のう」と叫びながら逮捕されたことに端を発し、当初「死のう団事件」は、この事件のことを指していた。
約3年半のちの1937年2月17日、彼らのうち5名が国会議事堂など5ヶ所で割腹を図る事件が発生するに及び、一層大きな衝撃を社会に与えた。
「無力少年」
スキマスイッチの名曲『全力少年』のモジり。
無力さから無気力になり、自分に都合にあった世界を構築し、現実から逃げてしまう。それが癖となり、大人になってからも何事も続かず、気づけば30歳近く。同級生たちは社会の中核で揉まれ、家庭をつくり、守る自信をもち、忙しくしている。
どこで人生が狂ったか、ボタンをかけ間違えたか、忘れてしまい人生に迷う。子供時代で人生が決まる。なかなか修正はききにくいものだ。
「YESか農家で答えろ」
出典不明。イエスはともかく『農家』は、質問が気になる。
例えば、「漁師になるか?」と訊かれ、イエス。嫌なら農家と答える。第一次産業に就くしかないのか。オラこんな村嫌だである。職業選択の自由が担保された現代は恵まれているのだ。
「一旦、殴らせろ」
出典不明であり、お断りである。暴力反対。何か人物に対し怒りがあって、落ち着いて会話するために一発殴る。
いや、少し時間をおいて落ち着いてから、話せばいいだろうよ。なんで一旦、一発、グーパンチなのよ。感情に支配された状態で、何を話すというのか。自慢じゃないが、本気で人を殴ろうと思ったこともないし、実際に殴ったこともない。
ふん。それは交友関係に乏しいだけだろうが。阿呆め。
「払暁(ふつぎょう)」
明確な語源や由来はありませんが、「払」は払い除ける。「暁」は明け方。この二つが合わさってできた言葉です。
意味は「明けがた」「あかつき」などがあります。大体、夜明けの2時間前あたりのことを意味する。午前3時から6時あたり。
しかし、常用する単語とは思えず、単に「明けがた」でよくないか。まぁ趣きはあるけれど。
「カウェスカル」
ヤーガン語で「イガイを食べる人」という意味。
チリ領パタゴニア、ティエラ・デル・フエゴ西部の特にブランスウィック半島、ウェリントン島、サンタ・イネス島、デソラシオン島に住む先住民である。彼らの伝統的な言語はカウェスカル語として知られているが、母語話者がほとんどいなくなり、絶滅の危機に瀕している。総人口は2002年の段階で2,622人程度。
チリ南部やアルゼンチンのヤーガンのように、カウェスカルは、一部の人類学者によって”canoe-people"と呼ばれるノマドの船乗りの人々だった。
彼らは家族と犬を乗せる、長さ8~9メートル、幅1メートルのカヌーを作った。彼らはこの漁業、遊牧民の慣習を20世紀まで続け、土地から土地へ居住地を移動していた。この海洋文化のために、カウェスカルは決して土地を耕作しなかった。そのため「海の遊動民」とも呼ばれていた。
<購入した書籍の紹介>
「ロマン[新装版]」
ウラジーミル・ソローキン
望月哲男/訳
『現代文学のモンスターが描く衝作!!!!!!!!!!!!!!!!!」
『国書刊行会創業50周年、記念復刊』
創造的破壊とはこのことか。文学界きってのデストロイヤーが、小説(ロマン)をぶっ壊し、フィクションの未来を切り拓く衝撃的な大傑作。
トルストイやドストエフスキー、チェーホフといった文豪たちが遺した偉大なる19世紀ロシア文学の名作群。パスティーシュの天才ソローキンはそうした文学の殿堂を忠実に再構築してみせ、しかし、最後の最後で鈴の音を合図にひとつひとつ壊していく。屍体凌辱、カニバリズム、スカトロジー満載の過激なスプラッター描写によって、ロシア文学とエクリチュールの歴史を暴力的に解体していくのだ。
――豊崎由美(書評家)
”彼女”が目を上げ、二人の目は出会った。「どうか教えて下さい」彼女の視線に胸の内に熱い波がわきたち、思わず身が震えるのを感じながら、ロマンは言った。「教えて・・・・・・」彼が繰り返すと、彼女はすべてを悟ってまた目を外した。その頬がさっと赤く染まった。
「ああ、なんと早く!」ロマンの頭にそんな思いがよぎった・・・・・・”
優秀な弁護士としての首都での暮らしにピリオドをうった青年ロマンは、画家として第二の人生を歩むために、故郷の村クルトイ・ヤールへと戻ることにした。旧知の友や親類に囲まれた素晴らしく愉快な日々。
都会では忘れていた人間としての生活に、彼は大きな喜びを感じる。
そして、やがて彼は運命の女性にめぐり会う・・・・・・。
<現代文学のモンスター>の異名をとる作者が、ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーゴリといった19世紀ロシア文学の精髄を戯画化しながら描く、衝撃のスプラッター・ノヴェル。
「百年の孤独」
ガブリエル・ガルシア=マルケス
鼓直/訳
《ノーベル文学賞》
《46言語 5000万部》
『聴け、愛の絶叫を。見よ、孤独の奈落を。』
呪われた一族の目も眩む百年の物語、百年に一度の傑作!
『百年の孤独』とは
ノーベル文学賞受賞作家ガルシア=マルケスの代表作。1967年にアルゼンチンの出版社から刊行されるや瞬く間に世界的ベストセラーとなり、46言語に翻訳された。日本では72年に初訳。「マジック・リアリズム」と呼ばれるその手法は世界文学の歴史を塗り替えたと激賞され、安倍公房は著者を「一世紀に一人、二人というレベルの作家」と評している。
現在、NETFLIXが映像化を準備中。
蜃気楼の村マコンドを開墾しながら、愛なき世界を生きる孤独な一族、その百年の物語。錬金術に魅了される家長。いとこでもある妻とその子供たち。そしてどこからか到来する文明の印・・・・・・
目も眩むような不思議な出来事が延々と続くが、予言者が羊皮紙に書き残した謎が解読された時、一族の波乱に満ちた歴史は劇的な最後を迎えるのだった。
世界的ベストセラーとなった20世紀文学屈指の傑作。
「舞姫」
川端康成
空前のバレエブームに沸く戦後。
バレエ教室を主宰する波子の夢は、娘の品子をプリマドンナにすることだった。だが、夫は家に生活費を入れてくれず、暮らしは苦しくなっていく。追いつめられる波子の心の支えは、かつて彼女に思いを寄せた男、竹原だった――。
終戦後の急速な体制の変化で社会や価値観が激変する時代に、寄る辺のない日本人の精神の揺らぎを、ある家族に仮託して凝縮させた傑作。
仏界、入り易く、魔界、入り難し――。舞台の夢をあきらめた過去の舞姫・波子と、まだプリマドンナにならない未来の舞姫・品子の母子。
もとは妻の家庭教師であり、妻にたかって生きてきた無気力なエゴイストの夫・矢木と両親に否定的な息子・高男。
たがいに嫌悪から結びついているような家族の姿の中に、敗戦後、徐々に崩壊過程をたどる日本の”家”と、無気力な現代人の悲劇とを描きだして異様な現実感をもつ作品。
本書「解説」より
およそ通年に反して、川端氏は女に何の夢も抱いていない作家に相違ない。波子の描法はそのことを暗示する。女というものを、これほどただ感情的に女らしく、女に何の夢も抱かずに書いた小説はないのである。
フロオベルは愚かなエマ・ボヴァリイに己れの報いられぬ夢を託したが、川端氏は何ものも託さない。リアリストと私が呼ぶのは、このへんからだ。
川端氏にとっての永遠の美は何か。私が次のようにいうと、我田引水を笑われるに決っているが、おそらくそれは美少年的なものであろう。
――三島由紀夫(作家)
「歌集 遠浅の空」
金田光世
「心より水にしたしい手をもつて水に紛れる心を掬ふ」
金田さんは本質的にこういう浮遊するような感覚を持つひとである。その感覚がこうして歌のかたちに定着できたことはふしぎかもしれない。存在感をつかめない感覚を平明なタッチで掬いあげている。
――花山多佳子
「昼空のなかほどに浮かぶ月が今日漂着物のやうなしづけさ」
金田さんが細大に見つめる空への眼差しを存分に分かち合いたい。歌集を通じて示唆してくれている、それが何か、を細心に感知しなければならないと思う。
――小林久美子
日常生活の身辺に取材し事柄や思いをそのまま歌うといった詠風とは異なっていて。それぞれの小世界を作っている感じがある。この生徒は、ひょっとすると短歌を作り続けるのではないか。
――後藤悦良
「握りの烏賊にわさびの透けて未だ知らぬよろこびのある春の近づく」
感情を表す言葉はそもそも極めて抽象的である。これを具体的に「触れる」ものにするのが詩歌の作用である。読者が、そこに描かれた感情をありありと身の内に再現することができる具体性を得ている。
――澤村斉美
「レテ / 移動祭日」
小俵鱚太
新しい平熱
人は皆、四季の中に生きている。そのことを小俵さんはとても素直に受け止める。花鳥風月を高らかに歌い上げるのではない、さりとて照れることもなく短歌に落とし込む。ときに無駄や余白も厭わないその手つきは「平熱」「等身大」とでも言い表せられるけど、どこか「新しい平熱」とでも呼ばないと気が済まないものがここにある。
――長嶋有
〇夢だから告白できる汀にてあり得ぬほどの桜貝散る
じわじわと胸が熱くなり「ああ、これは祝祭だ」とおもった
江戸雪
〇善人じゃないと気づいて人生はようやく冬の薔薇に追いつく
しずかな場所でたっぷりと時間をかけて読むのがふさわしい一冊
内山晶太
〇海の日は移動祝祭日だから今年のハルは海の日生まれ
ありありとした”本当”として響くに違いない
近江瞬
〇それは別離の、別離のそれは川となる川を渡って家まで送る
淡く現実が滲んでいる
瀬戸夏子
<月曜、ひとり歌会>
マンデーひとり歌会からコーナー名を変えてみました。他意はありません。「五・七・五・七・七」「季語は必要なし。使用可」という最低限の規則を守って、今週もひとり詠っていきます。
言葉を研きたい、の一心ではじめた企画。
短歌は、言葉へと静かに浸り、その雫が心に浸潤する過程を尊ぶ行為だと想う。詠むことも、読むことも。
と、カッコつけて恥ずかしがりながら、まあ詠みますよ。
〇とめどなく噴きだす汗の遣る瀬なさ抵抗やめて溶ける能面
〇窓を開けはいってきてる風の色透明な僕は教室にいて
〇人混みにはいって歩く僕ひとり知らぬ存ぜぬ決め込む孤独
〇ばかやろう心に刻み後ろ指指す方角に見知らぬ誰か
〇影法師ゆらめく土を踏みしめて顔をしずめて沈む夕暮れ
〇ぼんやりとコンビニ行って帰り道夜気を吸いこみつのる静けさ
〇勝手にして好き勝手にして胸騒ぎつなぎとめたい貴女のうなじ
〇のぼり旗冷やし中華はためいてすする清廉うつろう季節
〇きれいごと言ったそばから汚れてく嘘もホントも思考に消えて
〇深更に加速とまなぬ孤独感ネットひらいて閉じる現実
楽しいけども疲れる短歌。ほどよい疲労感。残尿感。巧く詠えてるだろうか。巧く詠う必要があるだろうか。
優れた短歌が醸しだす芳醇さを、ショートショートに落とし込めないだろうかと、ふと思った。それぐらいに言葉を研いて光らせて、良い作品を書きたいと想う深夜。
新たな日がやって来る前に寝てもいいかもと思って、実際は読書とネットサーフィンだろうと予測する。健康的にハツラツとできないアラフォーです。そろそろ終ろうと決心し、「公開に進む」とクリック。