週刊「我がヂレンマ」<3月11日号>

 まだまだ寒い三月の上旬。春が鼻先まで来ている。そして、来月、アレもやってくる。固定資産税の通知だ。ぶっちゃけて言えば、九万円弱飛ぶ。
 国庫に入る。父親が死亡し世帯主になって十一年、通算で百万円弱払っている。それで何の得があろうか。
 制度ができた経緯としては、幕末の志士達は明治政府を作ったものの、誰もお金を持っていなかった。そこで考え出したのが土地・屋敷を持っている人から金を集める固定資産税。
 ま、一度出来た税制度がなくなることは基本的にない。
 一年に一度、ダイレクトメール送ってくるだけ。納得できない。
 それはそうと、今週のコンテンツ。
<メモについて解説と考察>
<購入した書籍の紹介>
<フリートーーク>
 気合いれます。精神論ゴリゴリ昭和万歳でレッツゴー。

<メモについて解説と考察>

「教則本であり、手本であり、バイブルだった」
 これは今は亡き上岡龍太郎師匠の、或るテレビ番組での言葉。
 若き日のダウンタウンと、島田紳助も出演していた。ダウンタウンの二人が、紳助・竜介の漫才を参考にしていた。との発言をうけての返し。
 言い換えを三つも提示することで、受け取り手に分かりやすく、印象に残るようにしている。あー、弟子になりたーい。

「ロボットの姿形を、人間に似せることはない」
 よくSF映画で人間にしか見えないアンドロイド(レプリカント)を見かけるが、仕事さえこなせれば良いので、似せるメリットはない。無駄なコストであるし、人間と混じると紛らわしい。人権団体が鼻息あらく、デモ活動を始めそうだ。あくまでロマンであって、リアルではない。
 あきらかに人形のような見た目のほうが、むしろ不気味で雰囲気がある。

「厭(いと)う」
 嫌って避ける。嫌がる。
「団体行動を――う」「どんな苦労も――わない」また、「お体をお――いください」のような、健康について。世俗を嫌って離れる、出家するなどの意味もある。漢字検定準1級レベル。常用漢字でないから、やはり、使ったらカッコいい。それだけの理由でメモをした。軽薄。

「無責任な兵器――浮遊機雷」
 とは、機雷の敷設状態の一形態。正または中性の浮力を持ち、風または潮流により水上または水中を自由に浮遊させる機雷を言う。
 敷設箇所より海流・海況に応じて移動するため、その危険地区の予測は、敵・味方とも困難であり、公海上で中立国の商船にも被害を与えるため、敷設後1時間で無害になるように国際法で定められている。
 字面がカッコイイ。それだけの理由でメモしました。使うことはなし。

「つまり枝豆」
 元たけし軍団のメンバーの一人で、芸能界きっての武闘派であり、右翼時代に逮捕された経歴をもつ芸人さんである。それは「つまみ枝豆」さんである。単なる凡庸なモジりであって、特筆すべき点は微塵もない。記してあっただけで、固めのトピックがつづいたため緩衝材として選んだもの。

「ヘレディタリー継承」
 2018年のアメリカ合衆国のホラー映画。監督はアリ・アスター、主演はトニ・コレットが務めた。なお、本作はアスターの長編映画監督デビュー作である。本作はサンダンス映画祭でプレミア上映された直後から絶賛されており、「直近50年のホラー映画の中の最高傑作」「21世紀最高のホラー映画」と評される。
 観たい。だからメモしたのだ。観よう。そのうち。

「八十八ヶ所巡礼」
 日本のスリーピースバンド。レーベルはPsychederic Progressive Revolution(インディーズ)。略称は「八八(はちはち)」、「巡礼(じゅんれい)」。 
 2006年10月8日に結成されたスリーピースバンド。「ちょっとやそっとじゃ想像できないロック音楽」「浮き浮きするプログレの端くれ」と自らの音楽性を称している。マスコットキャラクターは谷口崇の手によるもの。バンド名をはじめ、仏教や神道など、東洋の宗教の世界観を取り入れた楽曲が多い。
 メンバーは、
 マーガレット廣井(Ba.と歌と主犯格)
 Kazuya Shimizu(Gt.と参謀と演技指導)
 Kenzooooooo(Dr.と極道と含み笑い)
『うん。イイ感じに面倒くさい』
『好き』

<購入した書籍の紹介>

「根津権現前より 藤澤淸造随筆集」
                       藤澤淸造 西村賢太・編
「歿後弟子」は、師をかくも敬い、愛していた。
 90年の時空を超えた魂の感応!

・六角精児
 藤澤氏の書いた芝居関係の文章に触れて来て思うのは、この人、かなり味わい深い人だったんじゃないかということ。(中略)何と言えばいいのか・・
 非常に「ブルース」なのだ。正直で人間臭いのだ。そしてその点こそが、西村さんが熱烈に支持し、西村作品に多大なる影響を与え続けた核心なのではないだろうか。
                            「解説」より

 昭和七年一月、芝公園内で窮死した知小説家・藤澤淸造。
 その三十五年後に生まれ、「歿後弟子」を自称した西村賢太は、その作品の文学的価値を説き、顕彰に努めた。
 師の人生をなぞるかのごとき急逝の直前まで、西村はなめるように諸雑誌を収集し、劇評家でもあった藤澤の随筆を拾い出しては、編集・配列を用いつづけた。そうして生まれた本書こそ、まさに時空を超えた「魂の感応」の産物である。

「瓦礫の死角」
                              西村賢太
「私小説? いや、もはや娯楽小説! 全身エンターテイナー、西村賢太、ここに極まれり!」
                           ――真梨幸子氏

 父親の性犯罪によって罪なき罰を背負わされた北町貫多。犯罪加害者家族は一度解体し、瓦礫の中から再出発を始めていた。だが、七年の歳月を経て出所する父の影に慄く日が来ようとは。
――表題作と”不”連作の「病院裏に埋める」ほか、「四冊目の『根津権現裏』」「崩折れるにはまだ早い」を収録の傑作私小説集。

「二度はゆけぬ町の地図」
                              西村賢太
 中卒で家を出て以来、住み処を転々とし、日当仕事で糊口を凌いでいた17歳の北町貫多に一条の光が射した。夢想の日々と決別し、正式に女性とつきあうことになったのだ。人並みの男女交際をなし得るため、労働意欲に火のついた貫多は、月払いの酒屋の仕事に就く。だが、やがて貫多は店主の好意に反し前借り、遅刻、無断欠勤におよび・・・・・。(「貧窶の沼」より)
 夢想と買淫、逆恨みと後悔の青春の日々を描く私小説集。

「人のいない春」
                              西村賢太
 小さなころから執念深く、生来の根がまるで歪み根性にできている北町貫多。中卒で家を飛びだして以来、流転の日々を送る貫多は、長い年月を経てても人とうまく付き合うことができない。アルバイト先の上司やそこで出会った大学生、一方的に見初めたウエイトレス、そして唯一同棲をした秋恵。
 一時の交情を覆し、自ら関係破壊を繰り返す貫多の孤独。
 芥川賞受賞作『苦役列車』へと連なる破滅型私小説集、待望の文庫化。

「どうで死ぬ身の人踊り」
                              西村賢太
 不遇に果てた大正期の私小説家・藤澤淸造。その負の存在に心の支えを見出し”歿後弟子”を目指す男の捨て身の日々。”師”に明け暮れ墓参りを行い、資料探しに奔走して全集作りに注力する情熱は、自らの人生を完全に賭した、不屈で強靭な意志と同義のものであった。
 同人誌発表の処女作「墓前生活」、商業誌第一作の「一夜」を併録。
 現在に至るも極端な好悪、明確な賞賛と顰蹙(ひんしゅく)を呼び続ける問題の第一創作集、3度目の復刊。

「蠕動で捗れ、汚泥の川を」        
                              西村賢太
 こんな青春も、存在する――。
 17歳。中卒。日雇い。人品、性格に難あり。しかし北町貫多は今日も生きる――。無気力、無目的に流浪の日々を送っていた貫多は、下町の洋食屋に住み込みで働き始めた。案外の居心地の良さに、このまま料理人の道を目指す思いも芽生えるが、やがて持ち前の無軌道な性格から、自らその希望を潰す行為に奔りだす――。善だの悪だのを超越した、負の青春の肖像。
 渾身の長篇私小説! 
                           解説・湊かなえ

『西村賢太が溢れすぎている』
 昨日購入した書籍はすべて、彼のもの。最近、西村賢太ばかり。
 私も名を『ろくでなしのK』としているように、生来の飽き性、逃げ癖、先送り、怠惰あふれる人格。シンパシーを感じても不思議はない。
 先生ほどの底辺かつ下賤の襤褸屑ではないが、ま、似たようなものだ。
 幼少時からスイミングスクール、バスケ部、吹奏楽部、ついでに中学校からも逃げて、分校暮らし。通信制高校は四年で卒業(三年でも出来るよ! 莫迦ではなく怠惰だよ!)、母親が2年11カ月の闘病の末に癌で死亡。アルバイトを転々とし、30歳で底辺正社員。
 気が付けば今年38歳になる。転職はほぼ無理だろう。ろくな資格も職歴もない私に次はない。背後は断崖絶壁。前途は霧がたちこめている。
 だからこそ、西村賢太先生、大好き、である。
 それにしても薄い本が多い。だからこそ、手に纏わりつくような感触があり、それが、私に読め。と、言っているように勝手に感じいる。
 縁なのか。だいぶ黴臭い、小便臭い縁。遠慮して少し、距離をおいて眺めたい。今はその距離感で、これからもそのディスタンスでお願いしたい。
 そんなことを言うと、枕元に立ちそうだ。いや、先生も私に露ほども興味ないだろうよ。艶のある女ならまだしも、やや童顔のアラフォーでは先生のマラの首も垂れること必定。畢竟、先生の作品群を飲み干して、遺伝子の鎖に組み込んでやろう。創作のスタッドレスタイヤになってくれ。
「気持ち悪い」

<フリートーーク>

 昨夜。映画鑑賞の帰りの電車内、水道橋駅で大量のうら若き乙女たちが雪崩れ込んできた(昨日のnote参照)。私はシートの一番端。となりに一人、前に一人と囲まれた状態で、華が半円を描く。
 と、自然と視線を落とす。スカートの裾が、彼女の持つバッグのあいだに挟まり、太ももが広めに露わになっている。当然の如く劣情をたぎらせて、やや細めではあるものの若さ溢れる肌の瑞々しさ、健康的な張りを感じ妄想に羽を伸ばす。桃色の空をゆく。
 実際に手を伸ばしたい。それは犯罪である。無論、それは己の内に収めて性慾をガラス瓶に封じ込める。
(太腿と太腿の間のエリアに住みたい。少しぐらいの匂いならご褒美)
 不快極まりない文章だが、事実である。男ならば一定の色香を纏いだした女性に対し性慾をたぎらす。みなぎらす。視線を対象との間に引く。
 見ていないフリをして、確実に見ている。視姦している(それは言い過ぎ)。出勤時、学生が多いため必然的に、女子中学生および高校生が視界にはいってくる。これには元気をもらっている。
「元気をもらっているといったら、鳥山明先生」
 ドラゴンボールZ、GT直撃世代である私もご多分に漏れず、漫画、アニメを齧りついて見ていた。田舎で再放送を観ている際、持参した漫画をみながら、原作どおりか確認していた記憶がある。
 友達と人差し指と人差し指を合わせて「フュージョン、ハッ!」とふざけたりしてたナ。
 漫画や絵を毎日描いていたし、小学5年生のとき、何か賞をとって美術館に飾られたこともある。16年前あたりから描かなくなっているが、鳥山先生を想って、絵でも書いてみるか。
「描くなら、やはり女体か」
 モデルがいない。
「いくらフリートーークとはいえ、あまりにも雑然とし過ぎ」
「性欲と鳥山明先生に、なんの関連があるのか」
「フリー(自由)という言葉に依拠しすぎ」
「ならば、無理矢理、繋げてしまえ」
 閑話休題。
 鳥山先生といえば、エロと言えよう。
「ギャルのパンツをおくれ」とウーロンが神龍に頼み、亀仙人は歩くセクハラじじぃで、初期はとくにエロネタが多かった。睡眠を極限まで削り、机に向かいながらエロネタを描いていたと思うと、破顔一笑である。
 エロチシズムとは生命力の象徴であり、活力で、生きている証拠なのだ。
 私も見倣って、適度に、不快でない程度に『エロ』を使っていきたい。
 西村賢太先生、鳥山明先生を想って了としたい。
 
 
 


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