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第一灰 『砂のように舞え』


 誰かの脚に絡まって転んだボクは起き上がり、ジンジンと痛む膝にめり込んだ砂を手でこすり取る。その脚の主は大して気に留めた様子もなく、ボクを睨み付けるまでもなく遠ざかって行く。

 人々の怒声、肌に感じる湿度、赤い松明の炎。歩を進める度にはためく粗末な服の裾では小さな砂粒が舞っている。蹴られたり揉まれたりしながら、ボクは大人たちの脚の間を縫って走り、隙間から向こう側をのぞいては叫んだ。

「母さん!」

 女性は振り返り、ボクに視線を向けた。何か言っただろうか。何を言っただろうか。女性は男達に両脇から腕を掴まれ、うずたかく整然と組まれた薪に向かって進む。何が起きているのか、ボクにはまるで分からない。ただ一つだけ、ボクは父さんとの約束を破ったのだ。

 口を開けば熱気が喉に滲みるがそんなことは構わない。

「母さん!母さん!」

 聞こえているのだろうか。女性は淡い笑みを浮かべると処刑台の上に立つ。

 唐突に胃の中のものがせり上がってきて、ボクは呻き、嗚咽を漏らした。死んだ父親の最後の言葉は「母さんを守ってやれ」だった。

「母さんっ!」

 群衆の声が大きすぎる。ボクの未熟な小さな体が絞り出す音はかき乱されて消える。

 女性の表情は穏やかだ。顔を真っ赤に火照らせて喚く人々に彼女は微笑する。

「母さんっっっ!」


 目の前に映るのは消えかかったストーブの火だった。チロチロと揺らめくそれを眺めながら額に手をやりベッタリと貼り付いた前髪を掻き上げる。汗に濡れた手はつい先程まで自らの腕についていたそれよりも数倍は大きい。節くれ立った手で頭を抱えるとこめかみが痛んだ。ズキズキと、扉をノックしているような鈍い音に合わせてその痛みは波打つ。

「――ちょう。――ッカ隊長。ブラッカ隊長!」

 その呼び声でようやく、夢と現の狭間から我に返った。

「どうした?」

 毛布をはねのけ、扉の方に身体を向ける。

「アントスが、森に何かいると申しております」
「何かって?」
「それは……わかりません」

 部下の声はくぐもっている。

「アントスは今どうしているんだ?」
「はい、ただ事ではないと言ったきり、部屋に籠もって震えております」

 そう言う部下もアントスの訴えに些か恐怖しているようである。それは別段驚くことでもない。これまでアントスの透視が外れたことはないのだ。彼が何かがいると言って怯えるのならば、確実に何かが潜んでいる。何か都合の悪いものが。

「わかった。直ぐに行こう」
「馬は外に待たせています」
「助かるよ」

 その返答を最後に部下の立ち去る気配がする。

「アントスを何とか森に連れ出せないだろうか?」

 慌てて付け足すと、部下は衣擦れの音を止める。暫し思案した部下は「善処します」とだけ言い、今度は足早に去って行った。第七部隊隊長、ダーウィ・ブラッカは部下の後ろ姿を想像して一人、苦笑をかみ殺す。一度閉じこもったアントスを引きずり出すのが如何に大変か、知らないわけではない。

 アントスという男、彼は透視の他、予知など様々な超能力に長けていたが、それ故か人一倍臆病でもあった。彼の一族は大概そうらしい。本人曰く、他の奴らよりはマシとのことだが、一族の生き残りは彼だけである以上、今更知る術はない。

 そこまで思い至ったところで、ふとダーウィの脳裏に死んだ母の顔が浮かんだ。慣れ親しんだ土地を離れ、父が死んだ後も懸命に育ててくれたというのに、恩知らずにも国の外れのこんな場所で自ら命を危険に晒している。城の人間に言われるがまま『亜族』の寄せ集めである凸凹部隊の隊長をやっている。自分だけは『純血』であるように見せかけて。両親は何と言うだろうか。父は顔をしかめるかもしれない。一方で母は褒めてくれる気がする。穏やかに微笑んで。毎夜見る遠い記憶と同じように。

 どうも口の奥が乾いて気持ち悪い。しかしベッドサイドのチェストにあるのは火の付いていないランプとマッチだけだ。水瓶は洗い場に忘れてきてしまったらしい。

 ダーウィは水を諦め、チェストの引き出しを開ける。皺のない清潔なシャツに袖を通し、厚手のズボンを履く。外はさぞ寒いことだろう。そう思いながらブーツを引き寄せた。それから上着を取って小屋を出る。

「寒い」

 冷えた空気を吸うと思わず声が漏れた。

 外はまだ暗い。密集して建てられた掘っ立て小屋は月明かりの下で薄気味悪い影を伸ばしている。しかし少し目を上げると見える未開の森の恐ろしい気配は、第七部隊のキャンプの比ではない。森全体がまるで人の存在そのものを拒んでいるかの如く、底気味悪い空気を漂わせている。

「マックス」

 待たされていた愛馬は耳を立て、主人に鼻を向けた。物音一つしない場所で聞こえるのは馬の息づかいだけだ。その背に飛び乗り手綱を握る。馬は幾らか足を弾ませ、ダーウィは首筋に触れる。愛馬の毛を伝う空気は暖かい。一言二言語りかけると、マックスは厩舎に背を向けた。森へ続く道が如何に暗く不気味でも、マックスは怯まない。主人が強く良い馬であれと期待しているのをわかっているのだろうか。

 それほど経たないうちに、道が道でなくなり、喧噪が近づいてきた。黒一色だった眼前にぽつりぽつりと明かりが見え始める。馴染みの人影を見つけ、馬を飛び降り駆け寄る。

「ロージャ」

 ロージャと共に、部下の一人に腕をがっしりと掴まれたアントスも振り返った。松明に照らされたロージャの顔に一瞬驚きが宿ったが直ぐに口許を結ぶと、木々の間に目を戻した。ダーウィの右腕である彼の双眼は移動する影を追っている。

「三時の方向だ。何かが走っている」

 ロージャの声が森の刺すような空気を震わす。するとその影は重なり合った枝を破り、突如として明かりの集まった小隊の前に姿を表わした。男たちは思わず息を呑む。

 体長50センチほどのそれは尖った耳を後ろに倒し、全身の毛を逆立てて牙を剥く。突き出た鼻先からは犬のようにも見えるが、こちらの方が尻尾が太く脚は短い。

「狐か?」

 ダーウィがそう口にすると、あれは何なのかと騒ぎ狼狽える男たちの一方で傍らのロージャは静かに長銃を構えた。

「狩ればわかるさ」

 獣とロージャは互いにギラついた目で睨み合う。しかし、ロージャが引き金を引こうという瞬間、歯をカチカチと鳴らして震えていたアントスが声を上げた。

「ダメです。あれを殺してはいけません」

 かすれた声でそう言い、ロージャの腕にしがみつくと泣き出す。

「どうしたんだよ」

 ロージャは銃を下ろすしかなかった。そして苛立ちを隠しきれない様子で情けなくもボロボロと涙を流すアントスに目を据える。

「もしあれが狐とかいうのだったら城が高く買い取ってくれるぞ。そうしたらお前がションベンで汚したマットレスだって、もっと良いのが買えるんだぞ?」

 息を詰めて見守っていた男たちがくすくすと場違いな笑みをこぼす。

「でもダメなんですよ! あれは、あれは女だ!」

 それでも譲らず絶叫したアントスは、そのまま気を失ってしまった。


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