ハイデガー『カントと形而上学の問題』ノート(序論〜#1)

引用においては、「有」を「存在」、「有るもの」を「存在者」などと断りなく変更します。

序論 研究の主題とその構成

要点:ハイデガーはカントの『純粋理性批判』を「形而上学の根拠づけ」として読もうとしている。そして、「根拠づけ」ということを分析することで、本書の方向性を提示している。

以下の研究はカントの純粋理性批判を形而上学の根拠づけとして解釈することを課題とするが、それは形而上学を基礎的オントロギーの問題として明らかにするためである。

p.11

ハイデガーは、この本を通して『存在と時間』で行っていた基礎的オントロギー(存在者を存在者たらしめる「存在」の意味を解明する視座としての現存在の分析)を、実はカントが『純粋理性批判』という書物の中で行おうとしてたのだ、と述べようとしています。僕にとって、このようにハイデガーがカントを自分の陣営に引き入れるモチベーションが謎なのですが、一旦そこは置いておきましょう。ハイデガーにはカントによる形而上学の根拠づけが基礎的オントロギーの問題として見えているようです。
カントは『純粋理性批判』において人間の理性の妥当な範囲を定めることによって、有意味に思考可能な形而上学の範囲を定めようとしました。これすなわち「『人間の本性に属する』形而上学のための基礎を準備すべきような、有限的人間存在者のオントローギッシュな分析論」(p.11)である基礎的オントロギーに重なるようです。

なお、ハイデガーはここで「根拠づけ」という言葉に注記をしています。第一に、カントが行う形而上学の根拠づけは、人間による形而上学の根拠に関わり、それを取り替えようとするものであること。第二に、根拠づけは土台を設定して事たれりとするのではなく、その上に築かれる形而上学の本質を決定するものであるということ。この二点です。

第一の点はすぐに回収されますが、第二の点がどのように効いてくるのかは今のところわかりません。ハイデガーは『存在と時間』の未公刊部分で存在の意味の問いそのものを扱う予定でした。われわれが今読める『存在と時間』は未完成のもので、あくまでこの存在の意味の問いを問うための準備をしているに過ぎません。上記のように形而上学の根拠づけを現存在分析と重ねて読むのであれば、形而上学そのものは存在の意味の問いに対応するのかもしれません。

さて、第一の点である、人間の形而上学の根拠づけがカントによってどのようになされていくのかハイデガーは読んでいくことになります。この本の章立てはこの方向性に則し、形而上学を考える人間に則して行われています。

1. 発端における形而上学の根拠づけ
2. 遂行における形而上学の根拠づけ
3. その根源性における形而上学の根拠づけ
4. 反復における形而上学の根拠づけ

pp. 12f

正直3. 以降が何をしたいのかわからないのですが、読んでいくうちにわかることを期待します。

形而上学の根拠づけとしての純粋理性批判を解釈することによる基礎的オントロギーの理念の解明

第1章 発端における形而上学の根拠づけ

「なぜカントにとって形而上学の根拠づけが純粋理性批判となるのか」(p.15)がこの章の課題です。課題は①カントが見出した形而上学とは何か②カント以前の形而上学の根拠づけの発端とはどのようなものか③なぜ形而上学の根拠づけは純粋理性批判という形で行われるのか、です。
②についてちょっと補足します。「カント以前の形而上学」としていますが、これに対応するのは「伝承的形而上学die überlieferte Metaphysik」です。この「伝承的」という言葉の意味がピンとこないのですが、überliefernという動詞は「伝える、伝承する、引き渡す」という意味なので、この訳語でいいようです。それで、要はカント以前に考えられてきた形而上学のことだろうということで、「かんと以前の形而上学」と書きました。

第1節 形而上学の伝承的概念

要点:カントは形而上学という分野の歴史を受け止めて、改めて特殊形而上学として捉え直そうとする。

この節では、カントに至る「形而上学」の形成について本質的な部分だけが述べられます。本質的、というのは、ハイデガーは形而上学という名の「学校概念」が形成されてしまい、形而上学の本質が見えなくなっていると考えていたからです。とはいえ、この学校概念に関しては重要性は低そうなので省きます。

さて、「形而上学」と日本語で呼ばれるのはドイツ語ではMetaphysikです。これはギリシア語のμεταφυσικά(メタピュシカ)ですが、これはアリストテレスの講義録などを編纂する過程で、該当部分が自然学(ピュシカ)の後に(メタ)置かれたことの由来します。内容的には、アリストテレスはこの部分で「第一哲学」と呼ぶ議論を行なっています。

第一哲学は「存在者としての存在者の認識」であると共に、存在者が全体においてそこから規定されるところの存在者のもっとも優越した領域でもあるということである。

p.18 ギリシア語の挿入を削除

これらは次のように言えるでしょうか。「存在者としての存在者の認識」とは、ものが「存在する」という点に焦点を当てる探究。例えば、「りんごとは何か」と問う場合には、答えは「赤くて甘く、シャキシャキした食感を持った果実」などとなります。この場合には、リンゴが「存在する」という事態には目が向けられていません。
ハイデガーはこの二つの問題がともに相互に関係する、形而上学のメインの問題であり、アリストテレス以前の初期ギリシア哲学にも通底する問題意識だとします。

ただ、ハイデガーは上記の「第一哲学」の規定では、不十分だとします。

形而上学とは、それ自体としてのそしてまた全体における存在者の原則的認識である。しかしこの「定義」はただ問題の指標として、すなわち存在者の存在の認識の本質はどこにあるのかという問いの指標として妥当するにすぎない。この定義はどこまで全体における存在者の認識にまで必然的に展開するのか。何故この定義はふたたび存在の認識という認識へと先鋭化するのか。

p.18

アリストテレスの第一哲学の規定は方向性を支持するのみで、存在の認識としての形而上学がどう展開されていくのかを示せていないのです。そのため、後世の哲学者たちは形而上学の展開を色々な仕方で行います。ここでは特に特殊形而上学と一般形而上学という区分が取り沙汰されます。

一般形而上学とは、存在者全てを眼中に収めた存在論、すなわちハイデガーの意図するような存在論に近いものと考えて良さそうです。それに対して、カントが意図しているのが特殊形而上学です。
特殊形而上学は、「キリスト教的な世界意識および現存在意識に従って、存在者の全体は神、自然および人間に分類され」ると想定し、それぞれの領域に関して探究する神学、宇宙論、心理学の一部となるものです。カントは『純粋理性批判』のアンチノミー論においてこの辺りの問題を取り扱っています。カントが『純粋理性批判』を書くのは、このような特殊形而上学が常に失敗していたため、人間の理性によってそもそもこれらの特殊形而上学は可能なのかを確定するためだったのです。


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