2015年、へし折られた「置き勉」への疑念
今日の朝のニュースで、「学校に置き勉してもいい日ができました!」「タブレットがあるので置き勉しても家で勉強できます!」というささやかな明るい議題を見た。
ああ、置き勉することが負ではない時代が来たのだなと。
時は2015年、わたしが中学校3年生の時だった。
わたしのいた中学校では、期ごとに委員会が示した活動方針に対し質問だの修正案だの色々投げ入れていく「生徒大会」があったのだが、その前段階に生徒大会で取り上げたい質問や修正案をどんどんクラス内で挙げていく「議案書審議」があった。
わたしのクラスでも「議案書審議」で学習委員会の活動について意見を募っている中、1人の男子がこういったのだ。
「置き勉って今だめじゃないですか。何でだめなんですか?荷物重いし、俺は置いてもいいと思うんですけど。」
確かに、置き勉がNGであることによって持ち帰らなければいけない荷物が増える。社会など、地理分野の時は教科書、ノート、問題集、地図帳、資料集と5点セットで非常にかさばる。栄えている場所の学校とはいえ、人によっては2km先から歩いて通学している人もいるのだ。これは、みんな確かに気になるだろう。
ところが、我がクラスで起きたのは共感より失笑だった。
うちの担任は「○○くん、それも分からないの?持って帰らないでもいいって思えるってことは家で勉強しないからでしょ?勉強しなさい」と呆れ、周囲も「○○が勉強しないからやわ」とやれやれな表情。
○○くんはどこか納得できない様子だったけれど、さすがに引き下がった。
今ならわかる。置き勉した方がいい。全部持って帰ったところで結局全部の科目なんてやらないしできないから。
でも、○○くんが言っていたことが正しいことでも、失笑を誘ったのはなんとなく分かる気がする。
それは「置き勉しないことが当たり前」の風潮だったから。当たり前の風潮の論拠を疑うことなんて、誰もしなかったから。
当たり前の風潮に従って、毎日毎日重たいカバンを持って通学していれば、突然「いやです」という人が出てきても否定したくなるわな。みんな頑張ってんだぞ、何甘ったれたこと言ってんだって。
そして先生側の立場。こうした「勉強したくないです」と捉えられかねない議題が生徒大会に持ち出されたら、担任が他の先生から「なぜこんな議題をクラス段階で通したのか」と責められることは容易に想像できる。なら、深く考えずに笑い飛ばすのが1番楽だったのだろう。
今わたしたちが何気なく行っている習慣ももしかすると「しなくていいこと」なのかもしれない。そう気付けた時には意固地にならず、柔軟に対応していきたいなと思えた朝だった。