宮沢賢治
宮沢賢治の作品を読む度に思うことがある。
それは書き出しから悲しい結末を想起させることだ。
生前に認められなかった彼の生涯への
私なりの思いが
かなり入っていることは否定できない。
例えばよだかの星。
いろいろな鳥からいじめられたよだかが主人公だが
食物連鎖で虫を食べることに自責にかられて、
その頂点にいることに飽き飽きして最初に太陽のところに行くが
夜行性だから星のところに向かうが…、という内容。
そして虔十公園林。知的障害らしい虔十少年の最初で最後のおねだりは
杉の苗だった。それが結果的に地域に多大な貢献をもたらすという内容。
この二作に共通しているのは自己犠牲の精神である。
この傾向が顕著な作品にグスコーブドリの伝記であるが、
長い物語なので今回は触れないことにする。
宮沢賢治が仏教(法華経)に根差した創作活動を続けていた。
代表作に雨ニモマケズがある。その中に次のような節がある。
これを読むと慈経の一説である
「一切の生きとし生けるものは 幸福であれ 安穏であれ 安楽であれ」
を思い出す。家族や友人だけでなく、見も知らぬ全ての命に対して
今自分のできることを何かというのを考える。
慈悲心を持ちたいと言い換えてもいい。
「言うは易く行うは難し」なのは百も承知だ。
意見が違うだけで、相手の全存在を否定しがちな現代に
全ての命に慈しみを持って生きていこうと思う。
敢えてツッコミどころ満載な生き方を選ぶ。
参考
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