妻の友人の遺品は陶器の食器
エピソード1
私達がまだ毛呂山町に来て
日が浅い頃、ご近所で特に親しくお付き合いがあった夫婦がいました。
私達夫婦とほぼ同じ年代ということもあり、話も合いました。
そのご夫婦はとても仲がよく
お隣の越生町まで、夫婦で陶芸を楽しんでいました。
越生町には陶芸専用の窯元があったので、わざわざ車で
通っていました。
その奥さんは四十路を迎えたばかり、突然病気で亡くなられました。
今では家族葬は当たり前になった時代ですが、団地内の家庭で珍しく家族葬を行ない、団地の住民は、班長が弔慰金を集め納めるということで、一般弔問はありませんでした。
しかし、妻は、特別な友人ということで弔問に行きました。
陶器は奥さんが陶芸教室に
通っていた時代に戴いたもので、今では大切な遺品となっています。
夫(つま)嘆く
妻は四十路に
なりしとき
手づくり陶器は
遺品となりぬ
その後ご主人は一人暮らしで定年まで務めあげ、コロナの前までパート勤務されていました。
いまでも妻は、ご主人と仲良く会話をしています。
しかし、私達夫婦二人のとき
ふとした一瞬、寂しそうな
表情が現れます。
無理も無いです。
お二人の夫婦生活より
その後の生活のほうが長いのです。
エピソード2
私達の行きつけの商店で
お子様が次男と同じ保育園に
通っていた関係で、やはり
夫婦二人で仲良くしていたのですが、奥様はなんと三十代で癌の為、亡くなられました。
10前のこと、妻と二人で
その商店に買物に行きました。
ご主人は
「散歩さん夫婦はいつも仲が良いですね。」
妻:「外では見かけがいいけ
ど家では喧嘩ばかり
よ。」
「喧嘩出来るだけ幸せですよ。私には喧嘩する相手もいないですよ。」
その一言で、私達は言葉を失いました。
別段愚痴ではなく、店主は何気なく明るい口調で言ったのですが
その一件から夫婦二人で行くのは遠慮し、私一人で行くようになりました。
エピソード3
団地内の公園を自主的に
清掃する男性ボランティアがいました。
たった一人で雨の日を除いて毎日公園の清掃活動をしていました。
妻と奥さんは知り合いでしたが、ご主人とは話し合ったことは無かったそうです。
60の定年は過ぎていたのですが、そのかたの年金はすでに65歳からの支給でした。
すでに癌の病に侵され、闘病しながらのボランティア活動
周りの人もある程度知っていました。
65歳の年金受給の僅か1ヶ月前、突然亡くなられました。
年金受給前なので奥さんには遺族年金も下りず、死亡一時金だけだったと思います。
生命保険は60歳満期なので
これもなし。
奥さんはパート勤務を続けました。
さぞや無念だった事でしょう。
せめて年金を少しでももらえていたら。
あとは過去記事になります。
若くして亡くなった甥っ子
小学2年で小児癌で亡くなったゆみちゃん
白血病で小学5年生で亡くなったK君。
「余談」
私が多分70歳手前だったと
思います。
あるボランティア活動を
していた時のこと
グループの会長さんは
80歳少し手前。
ちょっとばかり諍いがありました。
会長:「俺ももうすぐ平均
寿命になるな。
残り数年の命か。
まあ、平均寿命ま
で生きられれば
もう未練はないか
ら何時死んでも構わ
ないな。」
私もまだ血気盛んな頃、10年位先輩である会長に説教しました。
「平均寿命というのはです
ね、若くして亡くなった
命も含めた算式なのです
よ。平均寿命がきたから
死んでも良いとは、若くし
て亡くなった命に対する
冒とくです!。もっと命
を大切にして下さい!。」
会長の顔がひきつり
「何を若造が生意気な!」
その時、私は「すみません、言葉が過ぎました。」と
謝ればよかったものを
私もまだボランティア活動に対して精神的に未熟だったの
ですね。
大先輩に謝りもしないまま
時が過ぎていき、グループの中で冷たい空気が流れはじめました。
その空気に耐えられず、やがてそのグループから離脱する
決心をして、ボランティア活動から手を引きました。
時がたち、会長も体調を崩し
戦線離脱。
もう一度帰って来ないかと誘われましたが、辞めた以上、
精神的にも戻れません。
その後、コロナが来てお誘いはなくなりました。
元会長は、風の便りに病に侵されていると聞きましたが
その後、どうなったかは聞いていません。
今ならもっと違う言い方が
出来たかも知れません。
70にしてまだ未熟と悟ったのですが、私の心の中の
考え方は、いまでも変わりません。
75歳も半ば過ぎ、多少の病は抱えていますが、命をかけた大病もなく、今、生あるを感謝するのですね。
男性の
平均寿命が
来たからと
死んでも良いと
言うんじゃないよ
歌はまだ若いね。😅