救いの手

誰もかれも救いの手は伸ばさない。「お前は大丈夫だろ」、とそう告げる。

救いの手を伸ばしたことはあった。救いの手なんていうと不遜だが、実際に救いになっていたようだ。そんな面倒くさいことをするのは自分のためだ。壊れられると後がめんどくさい、あるいは自分が楽しめなくなる。そんな理由からだ。あとは自分が救ってほしいときに手を差し伸べてほしいという気持ちもあったが、救いの手を差し伸べた時点で優劣関係が生じてしまうので、手を差し伸べられることはありえない。
救いの手を差し出せば差し出すほど、救ってもらえなくなるとは逆説的だ。

逆説的という言葉は嫌いな言葉だ。意味がとりづらい。逆説の意味としては、「その文の論理上は通常こうなるだろうが、実際は逆のことになる」、ということだと認識しているが、これは書き手の認識の読解を暗黙のうちに読み手に押し付けることではないか。
救いの手を少しの見返りを無言で求めて差し出しながら、救いの手が来ないと文句を言っている私が言えたものではないが。

うだうだと述べたが、要は頼れる人が欲しいのだ。一度頼ってしまえば、もはやその人の足かせにしかならないことを知っていながらも。頼れる人さえいれば、まだ、歩いて行ける。
大人と呼ばれる人々は結局こちら側に真に関心を向けることはない。何等かの利害関係がなければ真剣に向き合うことはないのだ。利害関係もないのにこちらに割く時間も体力もない。

結局は独りである。独りぼっちだ。

笑っていても明日への絶望に苛まれ、誰かと一緒にいても心の最低部は凪ぎ、優しい文章を読み感動しても、虚構に虚しさを覚える。「咳をしても独り」のあの寂寥感を味わい続ける。

どうして。救われたいだけなのに。

朝は一日の始まりに悲しさを覚え、昼は他人しかいない世界に虚しさを覚え、夜は独りの時間に、助けてくれる人を希う。

称賛なんて、激励なんて、感謝なんて、いらない。

ただ、ただ、救いの手が欲しい。


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