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ドラマの台詞で考えたこと

*本記事は「恋なんて本気でやってどうするの」のネタバレ含みます。視聴途中の方はご注意下さい。

 こんにちは、雪猫なえです。
 本日2つ目の記事ですねぇ。やること終わってないのにこんなことぼんやり考えて何やってん自分!って感じですが、まぁいい。明日片付けます(本当?)



「恋なんて、本気でやってどうするの」柊磨の台詞

 「人って同じ場所にずっとはいないんだなって思った、どんなに優しくても」

 この台詞。
 柊磨が、家を出て行った自分の父親に向けて言った言葉ですが、これ聞いて、初見では「うわ悲しい!」って思ったんですが、よくよく考えたら、ちょっと違う感想浮かんできちゃって。



感想の変化

 「いやそりゃそうだよな」

……ってふと思った。まさにさっき。そう思ったんです。

 人って多分、ずっとは留まらない。究極言えば、まぁ死ぬし。誰でも。むしろ死なないと本人が寂しい思いすることになるっていうのは現代では不老不死漫画の定番ネタですね。

 人は同じ場所にずっとはいてくれない。大好きな人も大切な人も、多分いつかはどっかに行っちゃったり、離れちゃったりするんだと思う。悲しいけど、寂しいけど、そうなんだと思う。


 だけど、だからこそ、自分も動くことができるように生まれてきてるのかもって思った。
 自分は地縛霊のように一箇所固定だったら、そりゃ他の人が動いて行っちゃうのはしんどいの極みというか、どうしようもないくらい寂しいことだなって思う。待ってることしかできないし。

 でもそうじゃない。自分にも、一人で動く機能がついてる。だから待つこと以外にも、追いかけたり、一緒に動いたり、もしくは一人で別の場所に向かうこともできるわけで。ただ待ってることしかできない悲しさとおさらばできる可能性を見いだせる、はず。理屈上は。



真意

 正直、脚本家の真意は私みたいな素人にはわかりかねますし、柊磨の本心は彼にしかわかんない。演者の松村北斗さんだって北斗さんの解釈の内でしかわかんない。


 でも、私はこの台詞から、「寂しさ」以上の言葉を受け取ってみようと思いましたね。なんせ、私がめちゃめちゃ寂しがり屋ってことがここ最近で判明したので!!!(笑)

 全然平気だと思ってたし、実際一人で何でもできることにはできるんですよ。でも、正直自分脆いってこと、改めて自覚しました。
 最近は、この愛して症候群どこに起因されてるんだって考えてます。根本的解決を図って、脱出したいんですよ正直。辛いですもん、自分が。
 まぁ治らないだろうなって諦めもあるんですけど。



結局の所

 結局、何が言いたいかって言うと、私がこの言葉にちょっと救われた気がするっていうか。
(何が言いたいのか、の結論なのに釈然としないのやめなさいよ)

 人って同じ場所にずっとはいない。それは事実だし、みんながみんな、離れていっちゃうかもしれない。それはそうかもしれない。

 けど、それは「置いて行かれた」とか「取り残された」とかそういうことじゃない。きっと自分も動けないなりに動いてるし、追いかけることもできるし、一緒に移動することもできるし、要するに大丈夫ってことだ。

 それと、もう一個思ったのは、物理的にずっと一緒にはいられないからこそ、ちょ、クサいこと言いますよ?
(キングダムハーツ信者は笑うんじゃないぞ)

 だから、「心の繋がり」なんて概念も用意されてるのかな、とかね。
(もちろん現代に至っては便利な電子ツールも山ほど有りますが。でもでもあれって結局実際会うことには敵わないんで)



終わり

 なんか、まとまったような支離滅裂なような感じですが、いつものことなので(おい)

それでは今回はこの辺で。また。

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