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女の子たちが秋にまとう香りを覚えているかい?

ふと、村上春樹の小説を読み返していたら、こんな場面があった。

……私は秋の朝の光の中で棚に並んだなべはちや調味料のびんの列をぼんやりと眺めていた。台所は世界そのもののようだった。まるでウィリアム・シェイクスピアの科白せりふみたいだ。世界は台所だ。
 曲が終るとディスク・ジョッキーの女性がでてきて「もう秋ですね」と言った。それから秋に最初に着るセーターのにおいの話をした。そういう匂いについての良い描写がジョン・アップダイクの小説の中に出てくる、と言った。

村上 春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)

ジョン・アップダイク。
良い描写。
知りたい。
何という小説なのか、ページの外のこちらには知りようもないけれども、文章の雰囲気だけでも知りたかったので、調べてみた。
(なお、その描写は確かに存在しているものとする。)

検索をかけたが、それらしい情報は見つけられなかった。
英単語の方で検索をかけて、出てきた小説が、こちら。

“In Football Season” by John Updike (1962).

“Do you remember a fragrance girls acquire in autumn?”
“女の子たちが秋にまとう香りを覚えているかい?” という出だしで始まるこの短篇は、かなり「あたり」ではあるまいか。

各所で引用されている最初の段落を(ちょっと長いが)見てみる。

“Do you remember a fragrance girls acquire in autumn? As you walk beside them after school, they tighten their arms about their books and bend their heads forward to give a more flattering attention to your words, and in the little intimate area thus formed, carved into the clear air by an implicit crescent, there is a complex fragrance woven of tobacco, powder, lipstick, rinsed hair, and that perhaps imaginary and certainly elusive scent that wool, whether in the lapels of a jacket or the nap of a sweater, seems to yield when the cloudless fall sky like the blue bell of a vacuum lifts toward itself the glad exhalations of all things. This fra­grance, so faint and flirtatious on those afternoon walks through the dry leaves, would be banked a thousandfold on the dark slope of the stadium when, Friday nights, we played football in the city.”

“In Football Season” by John Updike (1962)

“女の子たちが秋にまとう香りを覚えているかい?
放課後、女の子たちと並んで歩く時、女の子たちはぎゅっと本を抱きしめて、話に聞き入ってくれてうつむく、そのひそかな曲線からなる三日月が、澄んだ空気を切り抜いて、そうして出来上がった小さな親密な空間には、複雑な香りがある——煙草、白粉パウダー口紅リップスティック、洗ったばかりの髪が織りなす複雑な香り、さらに、嗅いだ気になっているだけかもしれないけど、確かに捉えどころのない匂い、ウールの、そのジャケットの下襟ラペルからでも、セーターのふわふわの毛羽けばからでもいい、まるで、虚ろなる青い鐘のように澄みわたる秋の空が、万物の喜ばしい息吹を抱き寄せる時にウールが放つような、その匂いもする。
枯葉の中を歩く午後には、あまりにも微かで思わせぶりなこの香りは、街でフットボールの試合がある金曜の夜には、スタジアムの暗い斜面で、一千層にも積み重なって香る。”

しろうとの努力なので誤訳の恐れもあるが、機械翻訳よりはましである。

20世紀半ば頃のアメリカの、美しい秋の思い出である。

今とは「煙草」の扱いが違う。当時は、喫煙率が非常に高い。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の中のリック・ダルトンのように、ヒーローは煙草を吸うものと決まっていたし、ローレン・バコールのようなクールな美女が、映画の中で優雅に煙草を吸っていた。少女の喫煙経験率も高かったが、少年の喫煙経験率はそれ以上に高かった。ここに出てくる少女たちが、背伸びして喫煙していたとしてもいなかったとしても、教師や家族や周りの人間が、煙草を吸っているのである。
とはいえ、細部を鮮やかに描く文章のフェティシスティックな印象(女性の体の部位とあらゆる物が同列であるかのように描かれている印象)から推察するに、ここの「煙草」は、「口紅」同様、少女の唇に関わる背伸びのアイテムなのだろう。色々な理由から喫煙率が下がるのは、その後の時代のことである。その頃には、「煙草なんて最初から吸わない方が楽よ、禁煙ってすっごく苦しいんだから」というアドバイスがたびたび聞かれるようになる。

いずれにせよ、進むのはこの方角で良さそうである。

検索を続ける。

「フットボールの季節に」という短篇が、『ミュージック・スクール』という短篇集に収録されているようだ。(ジョン・アップダイク 著、須山 静夫 訳、新潮社、1970)

残念ながら、長らく品切らしい。
行ける範囲の図書館には所蔵されていなかったが、国立国会図書館のデジタル化資料送信サービスで読むことが出来た。
大変にありがたい。

“秋になると少女たちが身につけるかんばしい匂いを、きみはおぼえているだろうか?放課後、彼女たちのそばを歩いていると、彼女たちは腕にかかえている本をきつく抱きしめ、ぼくたちを喜ばせようとして、ぼくたちの言うことに注意を払い、そこに親密な一つの小さな場が形づくられる。すると、この、暗黙のうちに三日月形に並んだ少女たちによって、澄んだ空気の中に複雑な芳香が彫りこまれる。これは、タバコと、おしろいと、口紅と、洗ったばかりの髪とが織り出す香りだ。そして、もう一つの匂いは、たぶん想像が生み出したものであり、全くとらえにくいのだが、上着の襟の折り返しの中の毛糸か、セーターのけばか、どちらかがつくりだすらしいのだ。あらゆるものが歓喜に満ちた息を吐き、真空の青い鐘にも似た雲ひとつない秋空が、その息を高く吸いあげるとき——そういうときに、この芳香がつくりだされるのだ。午後に、乾いた草の中を歩いて行くとき、このほのかな、浮気な香りがいくえにも積みかさねられ、そして、金曜日の夜、ぼくたちが町でフットボールの試合をするときには、この香りが、スタジアムの暗い斜面に、花屋の匂いのように重く沈んでいる。”

ジョン・アップダイク「フットボールの季節に」須山 静夫 訳(『ミュージック・スクール』より)

確認できた。

作中時点でディスク・ジョッキーが話題にしていたのが、この小説であったとしてもおかしくはない、というところまでは来た。

①秋のセーター、そういう匂いについての良い描写が、アップダイクの小説のどれかの中にあるという。
②アップダイクが小説の中で、秋のセーターの匂いについて描写している一部分が読めた。

一読者としては、これで満足とするしかないな、と思っていたが。



最初に何度か検索をかけた時、村上春樹の別の本、『象工場のハッピーエンド』(1983) にふれているページが出てきた。
あれも好きな本である。
久しぶりに読み返してみたところ、1968年が舞台の一篇、「ジョン・アプダイクを読むための最良の場所」の中で、当時の “僕” が、“バンタムだかデルだかのペーパーバック”、つまり洋書の、“ジョン・アプダイクの『ミュージック・スクール』” を感慨深く読み終える場面があった。

“The Music School”(1966) の最初の一篇が、“In Football Season”である。

須山静夫訳の『ミュージック・スクール』も、「フットボールの季節に」で始まる。

「ジョン・アプダイクを読むための最良の場所」の最後で、須山静夫訳の『ミュージック・スクール』の中の文章が引用されている。

ここに——ページと、読者との間に、あるかなきかのあえかなる思いなしが成立する余地があるのではないだろうか?

もしかしたら、当時の(アップダイクの本が簡単に手に入る、当時の)村上春樹の愛読者には、広く知られたことだったのではないだろうか。

アップダイクと秋の匂いといえば、例えば、あの文章だなと。


 曲が終るとディスク・ジョッキーの女性がでてきて「もう秋ですね」と言った。それから秋に最初に着るセーターの匂いの話をした。そういう匂いについての良い描写がジョン・アップダイクの小説の中に出てくる、と言った。次の曲はウディー・ハーマンの『アーリー・オータム』だった。

村上 春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)


それでは、この曲でお別れしましょう。
ウディー・ハーマンの『アーリー・オータム』です。
どうぞ、良い一日を。


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