【読書感想】『残像に口紅を』
今日は『残像に口紅を』について、書き残したい。
前回に引き続き、図らずも「口紅」続きとなってしまった。
はじめに
この小説は、筒井康隆によって記されたものである。
ストーリーについて大枠を言えば、
「この世の中から言葉が消えるとどうなってしまうのか」
という、音が一つずつ消えていく世界で、主人公ならびに人間にはどうなってしまうのかを描いた作品である。
この小説に対する主な感想は、
「実験的であり面白い」とか、「読みづらいくて面白くない」といったものが目立つ。個々の感想であるため、そこに対して批評するつもりはないが、どちらも惜しいように思える。
まず前者について、確かに実験的ではあるが、それに集約しては勿体無い。
この小説には、筒井康隆の描きたかったと思われるテーマが文章中に記述されている。
このことをテーマとする作品に対して、
単に「音が一つずつ消えていっても、小説たり得るかというゲーム」に留まらせるような「実験的で面白い」という感想は惜しいように思えてくる。
さらに、後者の感想については、
読みづらいのは音が消えている以上当然であり、
「読みづらくてつまらない」という感想は、
この小説のテーマに関連して言えば、言葉足らずである。
つまり、「読みづらさ」が「つまらない」に繋がるのであるならば、
先に引用した文章に書いてある通り、我々は言葉を失いことを惜しいと感じた体験として昇華するべきではないだろうか。
この小説がずるいのは、読みづらさが面白くても、つまらなくても、
このテーマを体感する作品として、我々読者は試されているのである。
記号としての言語とイメージの言語
さて、もうすでに作品について語り始めているが、
改めて自分がこの作品の核だと思う部分について述べていきたい。
まず、作家である主人公「佐治」は、言語表現の問題に行き当たり、
その危機感から「メタフィクション宣言」を掲げるのである。
(「メタフィクション宣言」については後述)
そして佐治は、小説を虚構だという。
そして随筆もノンフィクションを描いた文学作品も、マルクスも、
それらは、言語で表現されている(文字表現である)ため、虚構であるという。
我々は普通、小説を読んだり、誰かの伝記を読んだり、哲学書を読んだりして、感動する。
佐治に言わせれば、虚構で感動するのである。
そして佐治は、その虚構のレベルを高めれば(この表現が適当かは不明であるが)、もはや人ではない、無機物にでも感動するはずであると言う。
評論家であり、佐治の分身とも言われる津田は、
「一般的には、ただの言葉そのものにではなく、その言葉によって描かれるイメージに我々は感動するのである。」と指摘する。
しかし佐治は、
と述べるように、あくまで言葉で表現されたイメージに関しても、虚構に過ぎないと断言する。
佐治が試したいのは、記号表現、記号としての言語そのものに感動できるか、という事象なのである。
といった発言からも、記号としての言葉を対象にしていることが窺えるだろう。
先にも挙げたが、以上の佐治の関心の中で、このテーマへと繋がるのである。
ある言葉が消えた時、我々が今までとは異なる点は、
・適当な表現を言葉で出来ないことによる悔い
・何かそこにあったようなものが思い出せないことによる悔い
どちらか、または両方を体験することになる。
前者が言語であり、後者がイメージである。
言葉は本来、ものや事象が先にあり、それに後から名前が付けられると思われる。
つまり、モノ→言葉なのであるが、
本書では、言葉→モノという
ソシュールの言語観が応用されていると言える。
そして、ソシュールの言語観がなんたるかを説明するまでもなく、
この作品の前提条件(音を消すとものが消える)を
容易く了解できてしまうほど、我々は、言葉を記号として扱っていると痛感するのである。
「りんご」と書いたところで、言ったところで、
私のあなたの指すりんごの形や色は違う。
さらに、実際に木に生えている、りんごそれぞれは形も色も違うのに、
名前は同じである。
これは記号としての言葉とイメージの持つ乖離を示すのである。
ただそれと同時に、記号としての言葉とイメージは共存せざるを得ないのである。
それが言葉である。
この作品を通して、主人公である佐治は、または読者であるあなたは、
「言葉とは何か」改めて考えさせられるのではないだろうか。
現実と虚構
一旦、この小説のテーマをみたところで、「メタフィクション宣言」に戻る。
「メタフィクション宣言」とは、
「現実が小説以上に虚構的になり(=現実が虚構を模倣しはじめたことによって)、現実が模倣し得ないほどの虚構性を追求する宣言」である。
そのことによって、逆に現実への回帰を果たす、要するに、
現実とは何か改めて認識できる、そのような拠点を形成したいというものである。
言語の問題である「言葉」と「イメージ」のみならず、
それらと関連する「現実」と「虚構」についてもまた、本書の核なるテーマである。
この文章は誰でも経験したことがあるのではないかと思う。
好きな人が亡くなってしまった、好きなテレビ番組が終わってしまった
「もう少しこうすればよかった。」
なんとなくいつまでも続くと思っていたのに、
いざ終わりが見えてしまう、または終わってしまった時に、
後悔したりすることは誰でも一度や二度あるかもしれない。
私はその時にこそ、リアルに肉薄する瞬間ではないかと考える。
このセリフは現実的虚構、または虚構的現実なる、「虚構と現実の境界が曖昧模糊として存在する」ものを「真実らしい」と定義している。
祖父が亡くなった時にこそ、祖父を感じる、肉薄したあのときの体感はまさに、現実的虚構、または虚構的現実に近いものだったのではないかと考える。
ここで筒井が言いたかったことの、小説という虚構が何の命題によって「真実」から離れられないかは、正直私にはわからない。
しかし、「真実」こそが「真なる体験/経験」であり、それが人間の本性であるとすれば、
「真実」を求める意味はなんとなくわかるような気がする。
SNSと真実
TikTokで最近注目を集めた本書であるが、
それは単に本の面白さに留まるものではなく、
昨今のSNSで危機感を抱かれている言葉の問題に対して、
本書は現在に何かを重要なことを訴えているからこそ、
再び注目を集めているのではないかと、私は考える。
そしてその重要な意味として「真実」があるのではないかと考える。
SNSは、どこの誰だかわからない、わかりやすい虚構の世界である。
SNSに綴られた言葉で、人が傷ついたりもする。
また、悲惨な事件を扱うSNSに上がる動画や文章は、
単なる「いいね」稼ぎの、空しい、リアルから遠ざかっているものに思えてならない。
虚構が蔓延る世界において「真実」は何を意味するのか。
そしてまた「真実」は我々に何を与えるのだろうか。
それすらも、わからない。
虚構の言葉を積み上げた先に現実はあるのか。
この作品は、虚構の言葉をあえて制限し、
そしてまた世界から消え去った先にある
現実、真実を求めた作品なのではないかと考える。
おわりに
筒井康隆の思考を、
力量不足の私には追うことができなかったが、
私の心にしこりを残したこの作品は、とても面白いものであった。
昔の作品として片付けられるには惜しく、
今を生きる私たちにも刺さる作品である。
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