誰かを家に呼ぶということ
『ハリネズミの願い』を読んだ。
2017年の本屋大賞の翻訳小説部門で第一位に輝いた作品だ。
この小説は連作短編のような作りで、心配性でネガティブな性格のハリネズミが友達を家に呼ぶかどうかで悩み続けるというあまりにもゆっくりした内容。
本当に悩み続ける。そして誰も呼ばないまま、五十話が終わる。
本当にそれだけ。
もちろん最後にはとある形で決着はつくのだが、ついぞハリネズミが友達を家に呼ぶことはない。
ハリネズミが悩んでいる理由は性格もあるだろうが、背中に生えた針にある。
針があるからこそ周りの動物たちに嫌われているのでは、と考えているのだ。
考えすぎてもいる。
読みやすい文体で挿絵も多いため子どもでも読めるだろうが、内容そのものは読む人を選ぶタイプ。
なかにはうじうじしてちっとも動かないハリネズミにいら立つ人もいるだろうし、反対にハリネズミと近い性格の人は思わぬところから刺されてドキッとするかもしれない。
私も友達を家には呼ばない。
今の家には一年くらい住んでいるが、これまでこの部屋に人を上げたのは二人だけ。エアコンや電気の業者を含めれば六人だ。
一人は泊まって帰ったが、お酒に飲まれてほとんど歩けなくなっていたのでやむなく連れ帰ったという理由がある。朝は一緒にしじみの味噌汁を飲んだ。
もう一人は堤防釣りに行った帰り、近所の居酒屋へ行く前に荷物を置いてゆくついでに部屋に上げた。実質二十分も滞在していなかったように思う。
一年間の記録は以上。きっとこれからも来客が増えることはないだろう。
そもそも友達が少ないのでは、との指摘も少なからずあるだろうし、それは的を射ている。あまりにもど真ん中に的中しているのでこれ以上は言及しないことにしたい。
私にとっての自宅や自室は誰からも侵されることのない不可侵領域。
実家の自室は家族であってもあまり入れないようにしていた。友達が比較的多かった頃はそれなりの頻度で招いていた記憶もあるが、今はそれほどのガッツがない。
ではどうして知り合いを家に招かないのか。
私は誰かに何かを知られることが嫌だ。かといって山奥で一人、仙人のように籠って生活できるわけではない。そこで自分なりに折り合いをつけて「見せていい自分」と「見せてはいけない自分」を区別することにした。
今こうして文字を生成している私は見せていい自分。
家にこもってリラックスしている自分は見せてはいけない自分。
誰もがこのような複数種類の自分がいるだろうが、あまり明確に認識しているわけではないと思う。
様々な自分がいて、グラデーションのように移り変わっている。
一人の自分、家族の前での自分、友達といるときの自分、仕事をしている自分。
それぞれ異なるペルソナを場面に応じて使い分けている。
うっかり外に出してしまう仮面もたまにはあるのだけれど、それは本来見せるべきではなかったもの。可能であれば忘れてほしい。
私にとってのハリネズミの針は私にも把握できていない。だからこそ、不用意に突き刺してしまわないように近しい人間を近くに置かないようにしているのかもしれない。
お願いですから、私のことは放っておいてください。
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