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ゆったりとした気持ちになる「カムイユカㇻ」の魅力
映画「カムイのうた」、アイヌ文化と「カムイユカㇻ」
映画「カムイのうた」は、文字を持たないアイヌの口承文学である叙事詩「ユカㇻ」をローマ字と日本語訳で表現した知里幸惠さんの19年の生涯を描いたもの。
印象に残ったのは、想像以上のアイヌの人々への過酷な差別と偏見。
そのやり切れない感情を、竹の板と紐の振動で表現するムックリの不思議な音色。
夜の森から見つめるシマフクロウの神秘的な眼差し、風がやみ、雪や太陽の光で輝くキタキツネやタンチョウの美しさ。
中でも強く残ったのは雪原での土葬。北海道の過酷な-20度の吹雪の中で死んでしまったアイヌの人の死体を雪原に浅く埋める。
そしてクワと呼ばれるT字型の墓標を立てる。亡くなった人の魂は、このクワを杖替わりにして、天に上る。「なぜ浅く埋めたのか?」誰かが問う。
「早く鳥たちの餌になるように…」の答え。
そしてなにより、主人公役の吉田美月喜のまっすぐな眼差しと叔母マツ役の島田歌穂が謡う「カムイユカㇻ」が素晴らしかった。
「ピㇱカン♪」等の不思議な言葉が癖になる
映画「カムイのうた」をきっかけに知里幸惠著「アヌイ神謡集」を読み、その世界にはまった。
最初、一読するとよくわからない。私の生きている世界とは、大きく違う世界と言葉。「ユカㇻ」に、ローマ字表記のアイヌ語とその横に日本語訳がついている。もちろん日本語訳はわかる。
ただローマ字の読みがわからない。なぜか?日本語と発音が違うから。見た事もないカタカナの小さい「ㇻr」小さい「ㇱsh」小さい「ㇰk」が出てくる。どう発音していいか、わからない。
そもそもアイヌの叙事詩は「ユーカラ」だと思っていた。
しかし、これはアイヌ語の「ユカㇻ」を聴き「アイヌ語研究」の金田一京助が「ユ」を強調し「yukara ユーカラ」と訳した。
しかし知里幸惠さんは、アイヌ語の正確な発音「ユ」を強調するのではなく「ユカㇻ yukar」「ㇻ」を弱く発音する。
そのため「ra」の母音「a」を省略する。「ラra」ではなく弱く「ㇻr」
この表記方法が、知里幸惠さんがアイヌ語を日本語に翻訳する画期的な方法で、「アコㇿイタㇰ方式」と呼ばれ、アイヌ語表記に使われている。
彼女の日本語訳は、アイヌ語独特のリズムを生かしながら、その発音を正確に文字として表現している。
9世紀から20世紀まで口伝えで伝えられたアイヌのユカㇻ(叙事詩)を、19歳の知里幸惠が、初めて文字にした「アイヌ神謡集」
最初の謡「銀の滴(しずく)降る降るまわりに」を説明する。
実際の「アイヌ神謡集」は、ローマ字表記が左頁、日本語訳が右頁に書かれている。
わかりやすく、カタカナ表記と「♪」その下に知里幸惠さんの日本語訳を重ねてみた。
梟の神の自ら歌った謡
「銀の滴降る降るまわりに」
Shirokanipe, シロカニぺ♪ ranran ランラン♪ pishkan ピㇱカン
「銀のしずく ふるふるまわりに
Konkanipe コンカニぺ♪ ranran ランラン♪ pishkan ピㇱカン
金のしずく ふるふるまわりに 」
Arian アリアン♪ rekpo レㇰポ♪ pishkan ピㇱカン
という歌を 私(梟)は歌いながら
Chiki チキ♪ kane カネ♪ pishkan ピㇱカン
流れに沿って 下り
Petesoro ペテソロ♪ pishkan ピㇱカン
人間の村の上を
sapash サパㇱ♪ aine アイネ♪ pishkan ピㇱカン
通りながら 下を眺めると
このユカㇻを演奏している動画をみつけた。前半、古屋和子さん(説経、平家物語、童話等の語り手の名手)が日本語訳を読み、後半(4分40秒後)東京でアイヌ料理のお店を経営し、アイヌとして生きる宇佐照代さんの「カムイユカㇻ」が始まる。これが素晴らしい。
この謡を聞いていると、癖になるほど気持ちがゆったりとして、楽しい気分になる。
「シロカニぺ♪ ランラン♪ ピㇱカン♪、コンカニぺ♪ ランラン♪ ピㇱカン♪…」と、梟の神様になった気分で、つい口ずさんでしまう。
「ピㇱカン♪ピㇱカン♪」という言葉は、物語の展開に関係なく入るお囃子のような意味のない不思議な言葉。
この不思議な言葉の繰り返しが、「カムイユカㇻ」の世界に導く。
その物語る力のすごさを、小学館の「知里幸恵とアイヌ」で小説家の池澤直樹が、解説している。
総じてアイヌは言葉の民である。…中略…
アイヌの場合は言葉の力、物語る力が抜きんでていた。そうでなくてどうしてあれほどのユカㇻ、無数のウウェペケㇾ、様々な神や英雄や動物や美女や悪党の物語が残せるだろう。
アイヌは大廈高楼を作らず、芝居を演ずることなく、具象の絵を描かず、交響の楽を奏しなかった。それらはすべて言葉の建築、言葉の絵、言葉の楽となった。
「カムイユカㇻ」命がめぐる美しい世界
「カムイユカㇻ(神謡)」は、人間を除く神様、梟や狐、兎、狼、獺(かわうそ)蛙や沼貝の動物神、オオウバユリやアララギの植物神、舟や錨の物神、火の神、風の神、雷の神などの自然神が、主人公になって自らの体験を語る形式も持つ。
この「銀の滴降る降るまわりに」の物語を簡単に説明すると、
大地を治める鳥の神のシマフクロウが、陽気な歌を歌いながら空を滑空し、村の子供たちを見ている。 まるで、宮崎駿のジブリのアニメのように、広大な空の俯瞰から村へ、そして子供を通し、人間の暮らしの中へと入っていく。
子供たちは走りながら、梟の神を
「ピリカ チッカッポ(美しい鳥)カムイ チカッポ(神の鳥)」
「神様の鳥を射当てた者は、一番先に取った者は、本当の勇者、本当の強者だぞ」と言い、矢を放つ。
その時の子供の行いで、梟の神は貧乏な子供の矢を受け取り(子供の放つ矢で死んで)貧乏な家族の家に招かれる。
老夫婦は梟の神を拝み
「梟の神様、大神様、貧しい私たちの粗末な家へお出で下さいました事、有難う御座います…中略…今宵は大神様をお泊め申し上げ、明日はただイナウだけでも大神様へお送り申し上げましょう」
と何遍も何遍も礼拝を重ねる。
梟の神は、動物への畏敬と感謝の念を忘れない家族に
「銀のしずく、金のしずくの幸(さいわい)」をもたらす。
哲学者で評論家の梅原猛著「日本人の「あの世」観」という本の中で、
アイヌの世界では、動物も植物も人間も同じ姿をし、同じような家族生活をしているという。
そんな動物や植物は、地上の人間世界に「ハヨクベ(仮装)」して「マラㇷ゚ト(客人)」として現れる。
なぜ動物や植物に仮装するかといえば「ミアンゲ」つまり「みやげ」として、人間にその身(実)を捧げる。
だから動物や植物の行為に感謝して、その身(実)を頂き、その返礼として彼らの霊を天のカムイモシㇼ(神々の世界)へあたたかく送る。
するとまた動物や植物がそのお礼として、人間世界に身(実)を与えてくれる。ユカㇻの世界では、なぜ動物や植物が自然界の神なのか?
素直に理解できる。
だから人間が死ぬと鳥の餌になる、海で死ぬと魚の餌に、土葬して、土や植物の養分となる。
先祖は天の世界で子孫を守り、子孫が天の世界へ来ると、人間世界に再び戻る。
この自然界で、あらゆる生き物の命がめぐりめぐるアイヌの世界。
「シロカニぺ♪ ランラン♪ ピㇱカン♪、コンカニぺ♪ ランラン♪ ピㇱカン♪…」
私は専門家ではないから、学問的な事はよくわからないが「カムイユカㇻ」に触れるだけで、心がゆったりし、人間として必要な何かを教えられ、与えられたような気持ちになる。
「アイヌ神謡集」を残してくれた知里幸惠さんに心から感謝したい。
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