夏の終わりと弁さんのこと
毎年、蜩が鳴く時期になると思い出す。私が大学生の頃、田舎に帰省していた時の弁さんの事だ。弁さんは、祖父と小学校からの同級生だった。祖父が83歳でこの世を去った時、私の住んでいた村で、弁さんの同級生が一人もいなくなった。
弁さんは町に出る用事がある時はいつも、流行遅れのサイクリング車に乗って、私の家にやってきた。
その自転車は孫がもう乗らなくなったもので、どこかの小学生が宿題の後、ひょいと遊びに来たという風に私の家の前に止まっていた。
弁さんは、いつも玄関を開けると、まるで家人のように立ち止まらずに家に上がってきた。
「まめなかぇー。誰もおらんかぇー」
※まめなかぇー(鳥取弁・意味)元気ですかー
と言う声がしたかと思うと、居間で祖母と二人して座って話をはじめていた。
実際、弁さんは祖父の亡き後、私の家の祖父代わりになろうとしていた。母がビールと簡単な酒の肴を出すと恐縮して
「わしはこん家(ね)のおじいみたいなもんだけぇ、気ぃ使ってもらわんでもええ」
と口癖のように言った。大阪育ちで関西弁の祖母と生粋の鳥取弁の弁さんとの会話は、どこかちぐはぐで通じ合っていないように見えた。
二人は、一区切り話が付くと、どちら共なくテレビを付けた。それは時代劇の再放送であったり、大相撲であったり、夏の高校野球であったりした。弁さんはとりわけ高校野球が好きで、地方予選から決勝までほとんどの試合を見た。
最初は孫の出身校から、地元の高校、やがて地元の高校が負けると、中国地方の高校、それもダメだと西日本の高校を応援した。
弁さんは興奮すると「キーっ」となり、禿げた頭を搔き、お酒で火照った顔を叩いた。その弁さんの一連の動作が、私にはシンバルを叩きながら歯をむき出しにする猿の玩具を思い出させた。
8年後の夏の終わり、私は母と一緒に弁さんの家の玄関にいた。
弁さんの奥さんは元お茶の先生で背筋をしゃんと伸ばし、深々とお辞儀をした。母は手にした御仏前を風呂敷包みから出し、奥さんに手渡した。
蝉の鳴き声が、急に静かになったような気がした。
弁さんの最期はあっけなかった。
うどんを喉につめて救急車で運ばれ、それっきりだった。弁さんは、ひと月前に、胃癌の手術をし、家に帰っていた。
「癌で苦しむより、大好きなうどんを食べて逝ったんです。大往生です」
さっぱりした口調で母をまっすぐ見て、奥さんが言った。
「お宅もお父さんが大変なのに、おじいさんも『見舞いに行かなあかん』と言ってたんです…。いつもいつもごちそうになって、おじいさんは、本当に喜んでいたんです。ありがとうございました」
奥さんは居住まいを正して再び深々とお辞儀をした。奥の部屋で大きな音で電話が鳴り始めた。私と母は少しうろたえたが、奥さんはお辞儀したまましばらく顔を上げなかった。
電話のベルは18回なって切れた。
奥さんの鼻を啜る音が、私と母を動けなくした。外を見ると、物干し竿の白い洗濯物が眩しそうに揺れていた。
私は長い間、弁さんを疎ましく思っていた。私の家で祖父になりすまして、づかづか家にあがってビールを飲む弁さんが嫌だった。
なのに弁さんの事を思い出すと嫌な事が何一つなかった。
「♪富士の高嶺ぇに、降るぅ雪もー♪」と「お座敷小唄」を歌い、流行遅れのサイクリング車に乗り、ビール一杯で赤くなり、高校野球を予選から見て興奮していた。
そんな弁さんが、数年前から呆けてしまった祖母の唯一の話相手だった。
自分の体が癌で危険な状態にありながら、うつ病になって入院していた父の事を心配してくれた弁さん。
私の家で、禿げた頭を掻いたり、顔を叩いたりしてTVを見てビールを飲んでいた弁さんが永遠に消えてしまった。
もう二度と弁さんの流行遅れのサイクリング車は私の家に止まらない。
誰も居なくなった居間でそんな事を考えていた私は、思いがけず広げた新聞の上にポタポタと涙を落とした。
私はどうしようもない気持ちになって体を丸めて膝を抱えた。それでも涙は止まらなかった。
夏の終わりの夕暮れだった。ひっそり「カナカナカナカナ…」と、
蜩が鳴いていた。