山田太一の手紙とエッセイ、小説から受けとった切実で大切な言葉
1.生きる力と輝きを与える「山田太一からの手紙」
一周忌の特別番組「山田太一からの手紙」を見た(以下敬称略)。
山田太一の荒々しく力強い筆跡が意外だった。
山田太一のインタビューを見ると、冷静で理知的で、笑顔を交えて語る山田太一は、もっと繊細で丁寧な筆跡だと想像していた。
この番組で「ふぞろいの林檎たち」(1983年~)で容姿にコンプレックスを抱く綾子を演じた中島唱子への手紙が印象に残った。
中島唱子は、このドラマのオーディションで、何もする事がなかった。16歳の彼女は、アルバイトで半年かけて習得した「たこ焼きを丸く焼くパフォーマンス」をした。
審査する人の多くが難しい顔をしているのに、山田太一だけが前のめりに見て、時には笑顔になって「たこ焼きを丸く焼くだけで、あんなにうれしそうに自慢する人を初めて見た」と話す。それでオーディションに合格した。
しかし後日、新聞で「ブスが売りもの、ブスオーディション」の記事と自分の写真を見て、親子共々強いショックを受ける。
その心に刺さったわだかまりを抱えたまま、ドラマの本読み、リハーサルを重ねるが、彼女はどうしても我慢できずスタッフに「私が肥っていてぶさいくだから選ばれたんですか?」と問いただす。
その問いは脚本家・山田太一にも知らされ、すぐに彼から送られてきたファックスの言葉。ファックスの文字は消えるので彼女は「山田太一さんからの忘れない言葉」としてノートに書き写していた。
山田太一は、面白半分の新聞報道が、その人にとってどれほど深刻で痛切な状況かをすぐ理解し、切実な言葉を心を込めて届ける。
この山田太一からの手紙の事を話す中島唱子は、今も輝いていた。
2.手紙に通じる山田太一のエッセイ「誰かへの手紙のように」
山田太一作品の評論では、あまり取り上げられないエッセイ「誰かへの手紙のように」から、私が共感した言葉について書いてみた。
山田太一は、小説やドラマを書く時は、家族や親しい友人が読むと仮定すると筆が止まってしまう。
しかし、エッセイを書く時は、手紙を書くように書くと仕上がりがいいと言う。手紙と同じように、生きづらさを抱える普通の人の心の奥に届く大切な言葉がたくさんあった。
3.「勝負の陰影」、「負けたけど勝つ」生き方の大切さ
エッセイ「勝負の陰影」は、長嶋茂雄が試合の解説で言ったという
「この試合は、この先どういうことになるでしょう」と聞かれ
「どうもこれは点を沢山とった方が勝ちでしょう」と答えた言葉に
山田太一が、妙に感動した理由が語られる。
山田太一は続けて、勝負が持つ陰影(ニュアンス)に敏感な人が好きだと語る。
野球に限らず勝負は結果。数字は悪いが勝つなんて事はないというのが今の潮流(2002年)で、それでは「単純が過ぎる」のではないかと山田太一は言う。
特に視聴率で裁かれるTVの世界で生きていると「負けたけど勝った」「勝ったけど負けた」という言葉がもはやどこにもない事に愕然とする。
これを読んで、山田太一の「負けたけど勝つ」という味わい深い考えは戦争や気候変動、様々な災害に襲われる現代こそ、必要な言葉なのではないか、と思った。
「参加する事に意義がある」と言われていたオリンピックは今や「結果が全て」のTVは金メダルの数を競う事しか注目しない。
「負けたけど勝った試合」があった。長い目で見て、評価し応援すべきは、メダリストだけでなく、未来への可能性を見せてくれた「負けたけど勝った」「負けたけど頑張った」人たちではないか。
目の前の勝負、目の前の利益ばかりに目を奪われ、長い目で「負けたけど勝つ」事を考えもせず「勝ち組が勝ち続ける」事ばかり重視する。
今こそ未来に必要な新しい技術革新や、若い人の新しい才能をマイナス覚悟で伸ばしていく事が必要なのに目の前の結果や数値しか評価しない。
私は、山田太一の言葉から、最後まで「心豊かにこの世界と人と交流しいい人生だった」と「負けたけど勝つ」精神を持って生きたいと思う。
4.「明るい話」格好良い弱さや暗さ、セクシーな孤独や不器用
エッセイ「明るい話」で、山田太一は60年代~70年代前半まではちょっと暗い政治の話をする男がモテたという。
70年代後半に明暗が入れ替わり、80年代初め辺りで暗い話が嫌われるようになったと語る。
1960年代、70年代を小中高、80年代を大学生として過ごした61年生まれの私は「暗い」~「明るい」への価値の反転を実感した。
背景には、1965年から続いた1975年のベトナム戦争終結があったように思う。今昭和レトロと言えば、ほのぼのとした世界を思い描くかもしれないが、反面殺伐とした世界が同居していた。
公害があり、学生運動があり、沖縄返還、ハイジャック、安保闘争があり、連合赤軍のあさま山荘事件、三億円強奪事件があった。
1974年、戦後発のマイナス成長になると「政治の季節」と呼ばれた時代から、経済発展重視の社会に変わり、暗い話、政治の話は避けられる。
プロテストソング(ベトナム反戦ソング)だったフォークソングは、「四畳半フォーク」となり、暗さの象徴として排除される。
洋楽を取り入れたシティポップが流行する。ゴダイゴ、YMO、山下達郎、大瀧詠一、松任谷由実、サザンオールスターズ…等、今もリスペクトされ、活躍するミュージシャンが多い。
80年代、学校の校則は厳しく、監視、管理され、学歴社会重視に変化する。その反動のように校内暴力、学生の飲酒・喫煙が横行する。
1983年、高校在学中の尾崎豊が「十五の夜」「十七歳の地図」でデビューし、その抑圧された状況で切実な歌詞を叫ぶように歌う。
山田太一は軽々しく「明るい話」は書けないと言いつつ、「明るさ」も「面白さ」も否定せずそればかりが一人勝ちする社会は息苦しいと語る。
5.死んだ両親からの言葉「異人たちとの夏」と自己肯定
虚構の中ではあるが、自分自身の深刻で痛切な状況を描いたのが1987年の小説「異人たちとの夏」だと思う。
妻子と別れ、仕事にも行き詰ったTVのシナリオ・ライターの私(風間杜夫)は、幼い頃暮らした浅草で死別した両親にそっくりの夫婦(片岡鶴太郎・秋吉久美子)と出会う。
ラスト、すき焼きを食べる別れの場面、死んだ両親の幻影が徐々に主人公の前から消えていく時の両親の言葉が心に響く。
一部を抜粋すると
山田太一の核に、戦争中の小学4年生の時に母を亡くし、終戦を迎え、戦中、戦後と価値観が反転したという体験がある。
私の両親も山田太一と同世代だった。
山田太一は、あらゆる考え方や価値観を安易に信用せず、いつも立ち止まって考えて生きることを教えてくれた。
その時代の偏った価値観で、隅に追いやられ、生きづらさを抱えている人にスポットを当てて、報われないと感じている人こそ輝いて生きる価値があると教えてくれた。ダメな私に自己肯定感を与えてくれた。
だから私は今も自分がダメになりそうな時、山田太一のドラマや映画を見て、シナリオやエッセイの本を開く。