22年後に気づく「アメリ」の事件、動機、謎の鍵となる3人の人物
「アメリ」リマスター版が22年ぶりに劇場公開されるらしい。
それとは知らずにNetflxで「アメリ」を再見した。久しぶりに見ると、「アメリ」の鍵を握る3人の人物、語り手、ダイアナ妃、ルノワール「舟遊びをする人々の昼食」の「水を飲む娘」が浮かんできた。
1.語り手:「アメリ王国」のニュースを語るのは誰?
映画「アメリ」は、アメリの頭の中と現実がミックスされたパリ・モンマルトル、アメリの仕事先、カフェ・ドゥ・ムーランで起こった様々な事件やニュースの記録だと思う。
「アメリ王国のニュースって何?」と思われるのももっともだ。しかし、この映画の半分はアメリの頭の中である。
映画の冒頭、その事がナレーションで示される。野沢那智(アラン・ドロン、ジュリア―ノ・ジェンマ、アル・パチーノ、クリント・イーストウッドの吹き替えで有名)の吹き替え版ので引用すると、
字幕では簡単に表現されるが、吹き替え版ではかなりくわしい情報がわかる。私は字幕派だが、ときどき字幕版で観るのが飽きたら、吹き替え版でも見てみる。特にタランティーノやティム・バートンの映画はキャラが多様で強く情報量が多く、字幕版でよくわからなかった情報や、多様性のあるキャラの微妙なセリフの違いがわかったりする。
本編のナレーションは俳優アンドレイ・デュソリエ(「赤ちゃんに乾杯」「クリクリのいた夏」「美女と野獣」ベルの父親)だ。野沢那智と同じ、重厚でどこかユーモアと味のある声。
まるでニュースの出来事のように5W1Hが執拗に描かれている。
いつ?1975年9月3日、午後6時28分32秒
どこで?モンマルトルの三番街通りで、
誰が?毎分1万4670回で羽ばたく黒バエが、
何をした?留まった。その後、自動車に轢かれる。
これは現実社会では、誰も顧みない出来事だ。ただここはアメリの頭の中、「アメリ王国」では、人間社会の事だけ考えていないので「モンマルトルの3番街通りで起こった黒バエひき逃げ」が事件になる。
「丘の上のレストランのテラスで、テーブルクロスの下に入った風が、魔法のようにグラスを躍らせた事」もニュースになる。
「親友が亡くなってメモから名前を消す事」も
「金魚が水槽から飛び出した事も自殺未遂」としてニュースになる。
人間社会のニュースの枠組みとは全く違う。
この世界を繊細に深く味わっているがゆえに傷つきやすい王国の女王がアメリだ。彼女の遊びが一人遊びで、五感を刺激するだけの面白さで、心からの感動や感情でない事に切なさを感じる。
こんな繊細で神経質な人物は「現代社会を生き抜く」にはかなりつらい。
というか「無理」なので「排除」されやすい。
アメリはアメリのまま、街の変人・奇人は変人・奇人のまま「排除」されず、生きて行けるのか?
この世界で、その繊細な感情と想像力を思う存分生かし
「他人を幸せにして、自分も幸せにしてみれば?」
この語り手は、もちろん「アメリ王国」の黒幕、ジャン=ピエール・ジュネだ。ディストピアのようなダークなファンタジー世界で、傷つきやすい無垢な心を持つがゆえに排除され、ひねくれ「変人」「奇人」扱いされた者たちのドン・キホーテ的反撃を描いてきた。「デリカテッセン」「ロスト・チルドレン」「エイリアン4」
今までマルク・キャロと共に作った完璧な世界観の中での映画、スタジオセットとCGで作り上げた世界を飛び出し、パリ・モンマルトルの現実に触れ、現実の変人・奇人たちを変人・奇人のまま、いや変人・奇人だからこそ「幸せ」にする事ができるのか?
この映画はファンタジーだ。だが現実の世界では「アメリ」は世界中で大ヒットし、「エステサロン/ヴィーナス・ビューティー」のポスターに出ていただけの無名の女優オドレイ・トトゥはスターになり、監督は「ロング・エンゲージメント」「ミックマック」「天才スピヴェット」と好きな映画を好きなように撮り続けている。
今まで社会で排除されてきた街の「変人」「奇人」は「変人」「奇人」のままその想像力と表現性を「人をほんのちょっぴり幸せにする」事に使えば「社会ではなく、世界と調和でき、人々と深くつながり」幸せになれる事を、ジャン=ピエール・ジュネとオドレイ・トトゥは証明したのでは?
2.人と関わる動機:ダイアナ妃の事故死とブルトドーの宝箱
アメリの心の中のもう一人の重要人物として、ダイアナ妃がいる。
1975年、8月30日に起こったダイアナ妃の事故死は、アメリが現実世界に飛び出し、積極的に他人と関わろうと決意した重要な出来事。
アメリは引きこもりと言われるが、それは過去であって、現実はモンマルトルの喫茶店「ドゥ・ムーラン」で働き、普通にスチュワーデスの友達もいて、男性とも付き合い、セックスも体験し、普通に暮らしている普通の人だ。ただ「他人と深く関わらなくても、一人で楽しく生きていける術」を身につけて、人や社会に興味が持てない人だ。
そんな人間アメリが、他人と社会に興味を持ち、他人を少しだけでも助けようと思うのは「アメリ」が「ダイアナ妃の交通事故」で深く傷つき、ダイアナ妃が目指した志を引き継ごうとしている点だと思う。
ただの空想好きの女の子が「他人をちょっと幸せにする悪戯をするファンタジー」だけなら、今や「偽善だ、綺麗事だ」と冷笑する人も多く、これほど多くの人々の心を捉えなかったのではないか?と思う。
現実にアメリは、映画の中、TVから流れる「ダイアナ妃の追悼番組」を「アメリ・プーランの追悼番組」と変換して涙を流している。
はっきりと映画では「ダイアナ妃の追悼番組」としては表現されていないので異論がある人もいるだろうが、「ホームレス支援をしたのも、ハンセン病やエイズ患者、地雷除去など人類の苦難という風車に立ち向かったのも、父が肺炎で、心臓発作で亡くなった時、オーストラリアでスキー旅行中だったのも」明らかにダイアナ妃のエピソードと重なる。
私たちも映画やドラマに感情移入して泣いたりする時は、脳の中ではきっと自分自身に変換され、泣いたりしている。
だからアメリは普通の人、ダイアナ妃と自分をシンクロさせながら、アメリ・プーランは「世界の孤独に立ち向かうドン・キホーテ」として死ぬ。
「何もしてこなかったアメリは、切にこのままで死にたくない」と思う。
「なぜ感動しない」アメリが「見知らぬテレビの中のダイアナ妃」に「共感」した「涙まで流す」のか?
「なぜこんなに、会った事もないこの人に心を揺さぶられるのか?」
明らかにジャン=ピエール・ジュネは「アメリ」の造形においてダイアナ妃の生涯、特に子供時代の母に関するエピソードを反映させている。
「[完全版]ダイアナ妃の真実 彼女の言葉による」アンドリュー・モートン著を読むと、ダイアナ妃の母は二人の姉を生んだ後、待望の長男ジョンを生んだ。しかしジョンは重い障害を持って生まれ10時間しか生きられなかった。次こそ健康な男の子を望んでいた両親の元にダイアナは生まれた。
その後、ダイアナ妃の母は、家を出て行き、両親は離婚。
アメリの母も、息子の誕生を願い、毎年ノートルダム寺院で祈った帰り、天から落ちてきた失恋して身投げしたカナダ人観光客に衝突して死ぬ。
自分が男の子に生まれなかったため、母が死んだ。アメリはそんな罪悪感を6歳で抱えていた。
ダイアナ妃事故死のニュースの後の宝箱発見。サッカー選手のブロマイド、ブリキのレーシングカー、自転車競技選手の人形、ビー玉、綺麗な石ころなど。考えすぎかもしれないが、この宝箱の持ち主、ブルトドーとオドレイ・トトゥの名前が似ている。そしてニノ・カンカンポアの破れた証明写真のコレクションは、子供の頃の宝箱に入っていてもおかしくない。
大人になっても子供の頃の宝箱を大切にする人、アメリ、ブルトドーを媒介にして、ニノ・カンカンポアにつながる気がする。
そしてそんな人は世知辛い現実社会ではうまく生きていけない事が多い。
アメリが苦手な現実と人と関わり「他人の人生を少しでも幸せにしよう」と決意した心の中には、いつもダイアナ妃がそばにいたように思う。
3.解けない謎:ルノワール「舟遊びをする人々の昼食」「水を飲む娘」
「アメリ」でアメリと深い関わりをする、ルノワールの「舟遊びをする人々の昼食」を20年来毎年1枚ずつ模写しているレイモン・デュファイエル/ガラス男(先天性の骨の病気、骨がガラス細工のように脆いため、20年以上外出した事がない)がいる。ガラス男が模写している絵のルノワールの「水を飲む娘」はこの映画の3人目の鍵だと思う。
ガラス男は、アメリに絵を描く上で「一番大切なのは視線だ。20年描いていても絵の中央の水を飲んでいる娘がうまく描けない」と言う。
ルノワールの絵の特徴は、移ろいゆく光の中で豊かな色彩と柔らかな筆使いで、人々の幸福な一時を描く。が、たしかに彼女の周りだけ空気が違う。明らかにこの雰囲気や空気になじめないでいる。
よく言われる、単に美しく見える、おしゃれに見える「映(ば)える」絵ではない。この世界の光で「映(は)える/栄(は)える」絵だ。
意味は「光を受けて、輝いて見える、周囲のものとの調和と対称によって、引き立って見える」
「水を飲んでいる娘」は、周囲の幸せそうな人々との対称で、引き立って、不思議な生命の神秘を抱えているように見える。
彼女はいつも、幸せな人々の中で、心に空白(孤独)を抱えているように見える。当時の画家はブルジョア階級がほとんどだったがルノワールは労働者階級出身。この絵の中の人々も、ルノワールの友人で上流階級との舟遊びと昼食。アメリが絵の中の人々を「幸せそうね」と言い、ガラス男は「そりゃそうさ、優雅なもんだよ。昼食は編み笠茸入りの野兎のテリーヌ、子供たちにはジャムつきのゴーフル…」そんな中、ただ水だけを飲む娘。
優雅な暮らしの幸せとは、まるで違う幸せを望む娘。
ルノワールは、多くの人が望む古き良きフランス絵画、愛らしい女性達の楽しい美しい瞬間を描きながら、同時に彼女達の生命の神秘、心の空白も描いていた。
このルノワールの次男にフランス映画の世界的な巨匠:ジャン・ルノワール(「ゲームの規則」「大いなる幻影」「フレンチカンカン」)がいる。
その特徴が父である画家ルノワールの絵にも通じる詩的リアリズム、世界や多様な人間の不思議と神秘を「存在論的生なましさ」を待って描く。
現実主義でありながら、永遠の時間の中の大切な一瞬を描く詩的な世界。 この古き良きフランス絵画からフランス映画に続く精神を、監督ジャン=ピエール・ジュネは引き継いで、映画「アメリ」の謎の中心に、この「舟遊びする人々」の「水を飲む娘」を置いた。
「アメリ」は後半、アメリが女探偵の様になり、ニノの証明写真の謎を解くコメディ調のサスペンスになる。
しかしこの映画「アメリ」本当の謎はこの「水を飲む娘」の中にある解くことのできない永遠の謎「生命の神秘」と「本当の幸せ」のように思う。