「海獣の子供」と米津玄師「海の幽霊」命の巡りと祈り
毎日暑くて夏が終わらない。
蝉がいなくなり、夜は虫が鳴いているのに、夏が終わらない。
終らない夏は、ディストピアのSF小説、映画や漫画の世界が、現実になったみたいだ。
2024年9月10日(火)のニュース。三陸沖は海面水温が6℃も上がり、世界一水温が上昇。
1.「海の幽霊」の「椅子の話」:見えないけど確かにいる幽霊
「海獣の子供」と米津玄師の「海の幽霊」(2019)が好きだ。
米津玄師は「18歳の時、漫画「海獣の子供」に出会い大きな衝撃を受け映画化されると聞き、自ら制作に声をかけ主題歌制作を行った」という。
漫画「海獣の子供」は2006年から2011年に連載された。10年以上前の漫画で、私は単なるファンタジーと思っていたが「海の幽霊」を聞くうちに「現代への警告」だと知った。
映画「海獣の子供」のラスト、米津玄師の「海の幽霊」が流れる場面には、部屋の中に木の椅子がポツンと置かれている。
「海の幽霊」の歌詞は、その椅子の話から始まる。
これは漫画「海獣の子供」1巻の第七話「椅子」のメインストーリーとはほとんど関係のない小さなエピソードからの引用だ。
海岸に深海魚である「メガマウス」が打ち上げられる。「メガマウス」だけでなく漁船の網にやたら深海魚がかかる。漁師たちは「大地震の前触れ」と言い、気味悪がる。
そんな時、ジュゴンに育てられた少年の海は、中学生の琉花に話す。
椅子は彼岸(あの世)である海と、此岸(この世)である砂浜の境界に置かれている。
人間は海の向こうは「あの世」で死の国(沖縄のニライカナイ)地上は「この世」で生の世界。
しかし生まれてすぐジュゴンに育てられ海の生き物として生き、皮膚が水中に慣れ、地上では生きられない少年「海」と「空」にとっては、魚が海の中で生き、砂浜で死ぬように、海の中が生で、地上では死となる。
「海獣の子供」では、海の生き物が次々に死んでいく。
様々な貝や魚の死骸、深海魚の死体が浜辺に上がり、水族館から「魚が消える」出来事(「海の幽霊」)が海の異変を知らせ、その謎を核にして物語が展開していく。
下は2023年1月11日のニュース。
このままでは水族館から魚が消えるのも、近い将来現実になりそうだ。
米津玄師は「Lemon」の楽曲制作中、祖父の死を経験したように、「海の幽霊」の楽曲制作中に親友の死を体験する。
漫画「海獣の子供」は、海の声を聴く海女の家系であった琉花が、父の勤める水族館で、ジュゴンに育てられた「海」と兄の「空」に出会い、海と生命に纏わる不思議な神話的体験をする物語。
この神話的ファンタジーをただのファンタジーとして終わらせないために、漫画はメインストーリーとは別の海に纏わる不思議な出来事を語る十の証言が挿入される。この椅子の話はその十の証言には含まれていない。
ただ米津玄師は、椅子の話が「海獣の子供」を象徴するエピソードだと語る。
先祖の幽霊が誰もいない椅子に帰って来て、椅子の上に花や果物を残して去る。
生者と死者がつながり、生き物は、あらたな命を豊かな海の力を借りて生み出し、やがて海で、あるいは地上で死を迎え、自然の中へ、空へと消える。
2.「あたしはゆうれい」と「Lemon」:「心に抱く檸檬」と「苦いレモンの匂い」
そういえば「あたしはゆうれい」(2015)の歌詞の中には果物の檸檬が、「Lemon」(2018)には「苦い匂いのレモン」が出てくる。
大ヒット曲「LEMON」(2018)では、
私は「海の幽霊」の歌詞を考察する前は、「あたしはゆうれい」の檸檬も「Lemon」のレモンも、死と対称的に瑞々しい「生の存在」として描かれているのだと思っていた。
「椅子の話」を知ると、檸檬は「生」を象徴するのではなく、真逆で死者が「存在の証」に置いていく果物のように思えてきた。
「あたしはゆうれい」に関して言えば、私は歌詞の檸檬も気にしないで「恋する相手から見向きもされない幽霊のような存在」の女の子の自虐的片思いの歌だとずっと思っていた。切ない片思いの歌を、明るく踊れるような音楽で勇気づけるPOPな曲。
しかし、米津玄師の「まんまの言葉を信じてくれ」(「ゴーゴー幽霊船)の歌詞)の言葉に従うと「あたしはゆうれい」は「幽霊」。
「あたしはゆうれい」の「あたし」は、この世界の存在ではなく、あの世の名もなき人の魂。
鏡が椅子と同じ彼岸(あの世)と此岸(この世)の境界だとすると、亡くなって名前も肉体も失った彼岸に消えた主人公を愛する人。
「あたしはゆうれい」の「幽霊」が「ひたすら心に抱いていた檸檬の匂い」だと考えるとレモンは「死者の存在の証」。
恋人を失った「Lemon」の主人公は、部屋で「胸に残り離れない苦いレモンの匂い」を感じている。部屋の中で、亡くなった恋人の存在を傍に感じて、いつまでも立ち直れない人なのかもしれない。
歌詞の最後は「今でもあなたは私の光」で終わる。私はこの光が、亡くなった幽霊の女性が心に抱いていた檸檬の光のように思える。
3.「あたしはゆうれい」「パプリカ」「カイト」:「らるら らりら らったるったったるらいら」「らうらりら」「ラル ラリ ラ」
「あたしはゆうれい」の「らるら らりら らったるったったるらいら」は、主人公からひたすら悪夢を遠ざける祈り。
同じような言葉「らうらりら」「ラル ラリ ラ」が「パプリカ」(2018)と「カイト」(2020)に出てくる。
生者の心に灯る「幽霊(魂、光)」は米津版「パプリカ」MVでは、自然の中で「赤いマントの女の子」が、宮澤賢治「風の又三郎」のような風の精霊となり、空へと女の子と男の子を連れて遊ぶ。やがて、誰もいない船(幽霊船)、鶴、鯨、色とりどりの魚が、空へ導かれていく。
米津玄師は、音楽ナタリーのインタビューで「この曲は“ネオ盆踊り”だ!」と言っていた。
盆踊りは、帰ってきた死者の魂を慰め、供養するために踊る踊り。
「パプリカ」のMVでは人だけでなく、様々な生き物が天に召されて行く。
嵐の歌う「カイト」歌詞の最後にも「ラル ラリ ラ」が出てくる。
嵐の中のカイトにも、風の精霊はいて、歌を歌う。カイトの先のつながった先、地上(此岸)から空(彼岸)へ、この世とあの世のつながり。
「夢よ叶え」と同時に「悪夢よ遠ざかれ」
「生の賛歌」と同時に「死への慈しみ」が同居する。
4.人魂と「海の幽霊」:「誕生祭」と命の巡り
「海の幽霊」の歌詞に戻ると
「海獣の子供」の中で、宇宙から落ちてくる光る隕石を海は「人魂」と呼んでいた。
宇宙から「人魂」が地球の「海」に落ち、
「海」が生まれ、生命が生まれる。
生命は、彼岸の「海」から、此岸のこの世の「地上」へ、
やがて「命」が尽き「空」へ。「空」から「宇宙」へ。
「宇宙」から「人魂」が「海」へ…。
アイヌの人が、琉球の人が、縄文時代の日本人が、世界中のアニミズムを信仰する人々が、かって考えていた生命の循環。
漫画の中で、若き天才海洋学者のアングラードは語る。
単なる空想、ファンタジーと思われた「海獣の子供」は急に現実にこの世界で起こった、あるいは現在進行形で起こっている物語のように思えてくる。
「宇宙の90%を、人間は見る事ができない」
「大切な事は、言葉にできない」
だから、米津玄師の詩的世界は、「この世(此岸)」と「彼岸(あの世)」の境界の存在(幽霊)を表現する。
「見えない世界」を見つめ、宮沢賢治のように記憶と想像力を使って心象スケッチする。
「大切な事」を「言葉」で説明するのではなく、想像力を引き出す「言霊」として、音楽に乗せて響かせる。
「海獣の子供」の中に、巨大鯨の「鯨のソング」が出てくる。
「鯨のソング」を聞きながら、
「海」は、言葉にならない言葉で
「むぉいいいいい。キョウキョ。くおおおん」と鯨に応え、
「空」は、海洋学者アングラードに語る。
「海の幽霊」の歌詞の最後は
この深遠な意味を持つ死と生に纏わる曲を、決して暗く重い音楽にせず、明るいPOPな音楽と、それぞれが楽器を持ちより、何層にも重なるオーケストラで、ダイナミックに美しく表現する。
それはあたかも多くの生き物の魂(光)に包まれた「鯨のソング」と共に「全ての生き物の歌」として、米津玄師を核にしながら広がっていく。
「海の幽霊」は「全ての命を祝福する音楽」であり、古代からの「悪夢を遠ざける祈り」として、この星に響く。