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映画「はたらく細胞」ミクロからマクロへ、持続可能な幸福への道


1.映画の楽しさを詰め込んだおもちゃ箱

 年末に映画「はたらく細胞」を見た。その流れで、アニメの「はたらく細胞」「はたらく細胞 BLACK」も見た。思いのほか観た後、尾を引く映画だった。
 映画「はたらく細胞」の主人公は私たちの体内の37兆個の細胞。体の中の細菌による異変や病気に擬人化された細胞たちが、どのように対処していくかを描く物語。

 身体にとって深刻な状態に陥る物語をハリウッドの娯楽大作のように描いていく。監督は「のだめカンタービレ」「テルマエ・ロマエ」「翔んで埼玉」の武内英樹監督。
 武内監督は現実ではありえない漫画的キャラクターを生身の俳優の肉体を通して描くのがうまい。主役だけでなく全てのキャストが漫画世界のキャラクターにうまくハマり実に生き生きと演じている。出て来る人出て来る人が適切で面白い。
 特に主人公の酸素を運ぶ赤血球(永野芽郁)と細菌と戦う白血球(佐藤健)が良かった(敬称略)。

引用:「はたらく細胞」日胡(芦田愛菜)の中の赤血球(永野芽郁)と白血球(佐藤健)

 体の中は、現実パートの感情的なドラマとは異なり異世界である。次々と不条理な出来事が起こる。が、感情に左右されず行動しないと生きていけない。これを武内監督はスケールの大きなスラプステックコメディ(ドタバタ喜劇)で描く。
 映画が始まり、まず体の中の細胞の数の多さとそのスケールの大きさに驚く。新米赤血球である永野芽郁はどんな状況に陥っても感情を殺してただただ酸素を運ぶ。細菌と戦う白血球である佐藤健はどんな相手であっても敵であれば命を奪う。行動やアクションを優先しクールに演じる。クールに演じる事で彼女・彼の抱えた感情の葛藤が時にズレ、笑いを生み出し、時に胸に迫り、感動を生む。
 淡々と演じる白血球の佐藤健が、私にはどんな災難にあっても無表情で演じたバスター・キートンや「ウッディ・アレンのSEXのすべて」(1972)で精子を演じたクールで切ないウッディ・アレンのように見えた。

引用:「ウディ・アレンの誰もが知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべて」
7話※「ミクロ精子圏」で精子役のウディ・アレン

※「ミクロ精子圏」ドラマパートの男女のSEXの最中、体の中ではどうなっているかを擬人化された細胞たちで描く。ウディ・アレンは精子を演じ「受精か死か」という運命の中、卵子を目指して出撃していく。ウディ・アレンの映画史上最もバカバカしく面白いといわれている映画。

 スラプステック・コメディにブラックな要素を加えた面白さは、漆崎茂(阿部サダヲ)の体の中「はたらく細胞BLACK」の世界で働く新米赤血球(板垣李光人)先輩赤血球(加藤諒)の演技に切なく面白く表現されていた。

引用:「はたらく細胞」
漆崎茂(阿部サダヲ)の体の中の新米赤血球(板垣李光人)と先輩赤血球(加藤諒)

 キャストに関しては上げると切りがないくらいそれぞれの役に嵌り、ノリノリで演じている。
 ノリノリと言えば、ドラマパートの漆崎日胡(芦田愛菜)先輩・武田新(加藤清史郎)にときめく場面。
 神経細胞DJKOO「DO DANCE」を連発しながら、サンバのリズムで、細胞の世界は爆アゲ状態になる。この場面の華やかなバカバカしさが楽しい。武内監督の最大の魅力はこのバカバカしいところほど手を抜かず巨大なスケール感で描く。全てのシーンに監督の確信と自信が見えその信頼に役者が全力で応える。
 そしてコメディというジャンルに留まる事なく、ミュージカルあり、バトルアクションあり、ハザード映画やパニック映画、SF映画や戦争映画のような悲惨さも取り込んだジャンルミックスの映画。これぞ動く絵(MOVIE)の魅力。「はたらく細胞」は映画の楽しさを詰め込んだおもちゃ箱だった。

2.実生活に介入してくる映画

 しかしこの映画は一筋縄ではいかない。この映画を見る前と見た後では、日々の体に対する感じ方が変化してしまった。
 年のせいもあるが、事あるごとに自分の体の中の37兆もの細胞のことを考える習慣がついてしまった。知らないうちについた膝の青あざを見て「赤血球が皮膚表面まで来ているのか」とか感慨深くなる。
 擦り傷をすると「今あの血小板たちが修繕してくれているのか」と感謝の気持ちがわいてくる。
 ときどき痔の私はトイレに入ると先輩赤血球(加藤諒)のことを考え、赤血球に出会わない事を願う。
 お酒を飲もうとすると漆崎茂(阿部サダヲ)の体内の世界がちらつき「今日は休肝日にしよう」などと考える。
「この仕事は意味があるのか、やりがいがあるのか」と常に考えてしまう自分だが「考えるな、働け」と先輩赤血球の声がする。
 私が単純なだけなのだが、投げやりな気分や落ち込んでしまっても、ふと体の中の細胞が頑張ってくれているから頑張ろうと考えてしまう。
 自分だけでなく自分の体という切っても切れない親友ができたような気分になる。神経が細かく、落ち込みやすい自分だが、そんな気持ちの変化も移り変わる天気のように受け入れられるような気分になっている。

 ただ、良い事ばかりではない。 
 年末にこの映画を観、年が明けて朝仕事に行くために満員電車に乗った。ホームから大量の人が押し出されそれぞれの職場へと流れていく。まるで映画の中の赤血球と同じだと思った。人間社会の構造と言う視点から見ると私たちは人間社会を動かす「はたらく細胞」。
 この社会を動かすために、私たちは働きやがて老いて死ぬ。この映画の体の中の世界と現実世界がつながった。
 体の中の世界も現実世界でも不条理な出来事が次々に起き、仲間や友が次々に亡くなる。それでも生き残った細胞は最後まで与えられた仕事をやり切るしかない。
 年齢的にも私の体の中は漆崎茂(阿部サダヲ)の世界に近い。阿部サダヲ演じる茂は娘の学費のためトラック運転手として過重労働をこなしている。すると疲労とストレスがたまる。
 それを忘れ発散するためにアルコールの過剰摂取、煙草、暴飲暴食を繰り返す。体の中はプラークだらけのボロボロ状態。もはや他人ごとではない。
 老後も働き続けるしかない私は慢性的な疲労と先の見えない不安と空虚感を抱えている。まさに「はたらく細胞 BLACK」の世界で働く赤血球の気分の毎日。
 若く健康な日胡も赤血球(永野芽郁)と同じ未来への不安や現実の葛藤を抱えている。
 健康な体の中であっても「考えるな働け」の流れは、私に若い頃の「24時間働けますか」の世界が、今も見えない所で継続されている。
 好意的に見えた神経細胞DJKOO「DO DANCE」も、バブル時代の享楽的なバカ騒ぎのように見えてしまう。

引用:「はたらく細胞」漆崎日胡(芦田愛菜)と漆崎茂(阿部サダヲ)

3.映画から学ぶ持続可能な幸福への道

 広告やメディアは常に「もっと買いたい」「もっと成功したい」という欲望を煽る。多くの人が常に何かが不足しているという欠乏感を持ちストレスと不安を抱える。
 世界の重大ニュースよりメディアは世界で活躍する野球選手の事ばかり流し続ける。多くの人は彼の様な大きな社会的成功を手にする事はない。
 誰も彼も自分はダメ人間だと思い込まされる。
 荒んだ気持ちだけが膨らみ白血球(佐藤健)の「ぶっ殺す」の血まみれのバトルアクションに爽快感を感じる。誰かの罵詈雑言に拍手を送る。
 常に満足できないストレスや不安は病気をもたらす。そのストレスや不安が免疫系に影響を与える。
 人間社会だけでなく、地球という視点で見ると私たち人類は、果たして「地球の命を守るために」行動している「はたらく細胞」なのだろうか。
 地球のあらゆる生物は自然の中で食べて食べられ循環しながら地球の栄養分となる。しかし人類は一方的に自然のあらゆる資源を奪っている。空気中のCO2が増加し、異常気象が起き、洪水や地震が頻繁に起こる。
 ブラックな地球環境では多くの生き物が絶滅危惧種となり消え、食物連鎖は壊れ、草原や森林は消えてゆく。あげくの果てに大規模な戦争や原発事故が起こると放射能が地球を覆ってしまう。
 地球は今病的状態ではないだろうか。
 そして私たち自身も病的な状態に陥ってはいないだろうか。
 私の体の「はたらく細胞」の健康を考える事が、自分自身の健康を守る事であり、体内環境を整える事が、この社会や地球の環境を考える事につながる。
 この映画のラストに流れるOfficial髭男dism主題歌「50%」は、この映画の中の世界観を否定し、50%の生き方を勧める。

ストレスがあっても 耐え抜くことが美学なんていうなら
ここでひと息つこう
競争の義務はない リングもコースもない
だからこそ手にする幸せもあるんだろう
50パーで生きたいのにね100じゃなきゃダメなんて
Oh いつ教わったんだっけ?と

出典:Official髭男dism 「 50%」歌詞

「50%の生き方」は、たとえばメディアやトレンドに流されず自分にとって「本当に欲しいモノはなにか」を考え、行動する生き方。
 人より多く所有する事より、誰かと共有し誰かと体験する事を選択する生き方。
 ただ利益を得るために誰かと戦う労働ではなく、自分が楽しめて誰かを幸せにする労働の在り方を考えるなど様々な生き方の可能性を生む。
 映画「はたらく細胞」は、原作やアニメの「ただ笑って泣いてためになる」コンテンツで終わっていない。
 映画「はたらく細胞」は生身の人間達が演じた事でミクロの世界(体の中の世界)が現実世界(ドラマパート)と結びつき、持続可能な幸福への道に導く深い映画だと思う。  


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