イタズラなKiss 最終話の続き(つわり編)
「あっ、入江くん。いってらっしゃ~い」
「ああ」
靴を履いていた入江くんが、あたしを振り返って、ぎょっとした。
「お前、大丈夫か」
パジャマ姿のあたしの顔は頬がこけて、真っ青。かろうじての笑顔。
「大丈夫よ~。お母さんもいるし~」
「横になってろよ」
息を吐いて出ていく入江くん。
あたしは、うっと口元をおさえた。
(分かっちゃいたけど、つわりが、こんなにきついものなんて)
ヨロ~と階段をのぼるあたし。
「あらあ、琴子ちゃん。お食事なら部屋にもっていくのに」
お母さんが、大丈夫?と付き添ってくれる。
「ありがとうございます」
「琴子ちゃん、何度もあげちゃって……。だいぶ痩せたんじゃない?水分、ちゃんととれてる?」
「らいじょーぶれす。うぷ」
ほんとは立ってるのもつらい。食べ物をみるだけでも、胸焼けするみたい。
冷たいアイスやフルーツくらいしか、口にいれる気がしないのよね。
(入江くんの姿を見たかったんだ…)
彼はお医者さん。毎日、病院でたくさんの困ってる患者さんを助けてる人。
だ、か、ら、
理美(ママセンパイ)は、まわりに頼っていいつて、いってくれたけど、
あたしは、入江くんには頼れない。ううん。頼ってはいけないのよー!!
“オレは医者になりたいんだ”
“オレに向いてるかどうか分からないけど、初めて興味をもった仕事なんだ”
夢をあたしに打ち明けてくれた日を覚えてる。真剣な横顔だった。
入江くんが悩んだすえに、決めたことなんだもん。きっと、ずっと。心は変わらないんだろうな。
「へへっ」
ベッドでほくそ笑むあたし。あたしだけに、最初に打ち明けてくれたのよね。
(あの時には、あたしにメロメロだったってことよねー)
……でも、すごく医者への道のりは厳しかったんよね。
あの入江くんが、いつも勉強してた。
そーいえば、渡辺くん(入江くんはの高校の同級生)がいってた。
“理工学部で2年勉強したのに、やりたいこと見つけて医学部受け直すなんて、できないよ。なかなか”
“いくら天才でも、みんなに追いつくのは大変だったんじゃないかな。努力したと思うよ”
入江くんは、覚悟したら、必ずやりとげる力のある人だもん。
それなのに、あたしは足ひっぱって。
思えば、新婚旅行のハワイから、
“いい加減にしろよ。おまえ医者になろうって男と結婚したんだろ。ちょっとは自覚しろ!”
“てめえのヤキモチなんか付き合ってられるか!それができないなら、一緒になんかなれない!”
新婚旅行で「一緒になれない」なんて怒られちゃって。
くうう。あたしはあの時の悲しい気持ちを思い出す。
病院実習でトヨばーちゃんに、いびられた時も。
“オレに泣きついたって、オレは何にもしてやらねーからな”
“自分の事は、自分で解決していくしかないだろ”
「ふぅ~」
きびしい言葉が胸にグサッと刺さったわ。さすが、口にナイフを持つ男(理美占いより)
きびしーこといっても、結局はあたしたちのきずなを深めてくれた……。
でも、あの時。急患が運ばれてきて、誰もいなくて、初めて入江くんが執刀医をしたオペの時。
入江くんだって、怖かったんだ。
”よかったね。患者さん助かって。……お医者さんになってよかったね”
“そーだな”
そう。そーなのよ。あたし、そういう入江くんを、まとめて、ぜんぶ、好きになったの。
きびしーこといっても、結局はあたしたちのきずなを深めてくれた……。
あたし顔を覆うのをやめた。
“お母さんってすごいよね。なんか子供守るパワーってすっごいよね”
“そーだな”
“おれはお前を選んでんだから、もっと自信もてよ”
あたし、あたし。
せめて、入江くんの夢を続けさせてあげられる奥さんでいたい。だから、入江くんには頼らず、ジャマせず、で、いいママになりたいっ!
☆彡
あれっ?
朝、あたしは目が覚めてびっくりした。
昨日のつわりの気持ち悪さが……、
なくなってるー!!
「琴子ちゃん、本当に大丈夫?」
「大丈夫です。まだ少し胸がつかえるんですけど、昨日と全く気分がちがうんです」
ああ、ご飯の匂いをかげることって素敵。
頭にも、もやがかからなくて、あたしの頭は、光が射し込む湖みたい!!
何より、
「ほんとにこれでいいの?琴子ちゃん」
「あ、はい」
お母さんが置いてくれたお皿の上には、入江家定番の朝食。
トーストに、ベーコンエッグ。サラダにオレンジ。飲み物には牛乳。
ジーン。
ああ、いつものご飯が食べれるのって、なんてありがたいことなの!?
「ママ、琴子がご飯見て泣いてるよ」
キッ。裕樹のやつめ、このありがたみは、つわりを経験したものしか、分からないのよ。
でも、いーの。そんなこと。
ムッとする霧の中に囚われていた昨日の自分とは、おさらばなのね!!
ふふっ。入江くんのDNAのおかげかな?(昨日のはあたしのDNAのせいかしら……)
「あっ!!」
バンっと机を叩いて立ち上がったあたしに裕樹がビクッとした。
「うるさいなぁ!琴子は。妊婦なんだから、少しは人並みにおとなしくしてろよ」
そうだ!今のうちに入江くんに会いに行こう。もう、病院でお医者さん姿をした入江くんを追うことも、できなくなるもの。
それに、元気になったあたしを見たら……少しでも、入江くんの肩の荷が減るかもしれない!
へへ。今のあたしだけにできる、プレゼントかな。なーんちゃってー。
「ママ。琴子が情緒不安定で怖い」
「うーん。そうねぇ」
☆彡
「えっ!?お兄ちゃんに会いに行く!?」
戸惑うお母さんに
「大丈夫です。ウォーキングは大事だって書いてありましたし」
張り切るあたし。
「入江くんの働く姿……しっかり目に焼き付けときたいんです。しばらく育児で見れなさそうなんで……」
「琴子ちゃ……」
手を取り合う私達を尻目に
「安定期に入ってからじゃだめなのかよ。お兄ちゃん、心配してたぜ」
(あっ……。そうか)
裕樹の言葉にどきっとした。
入江くんが一番心配してたこと。
そーよね。お腹の子が一番だもん。この子を守るのがいちばんのお仕事じゃない。
「ごめんなさい、お母さん。あたしったら、すぐ調子にのっちゃって」
tellll,
電話がなった。
「あ、はいはい。入江です。あっお兄ちゃん?えっ?はいはい。えーと、はいはい。うーん。いーわよ。で、場所はどこだっていったかしら」
あ、入江くんだ。病院からかな。どうしたのかな。
何かメモして、電話を切ったお母さんは、少し考えてから、あたしの方を見た。
「今ね。お兄ちゃんから、必要な書類を病院へ届けてほしいって電話だったの……」
「琴子ちゃん、一緒に行く?」
「え?」
「タクシー呼んで、あたしが付き添うから。そうしたら気分転換にもなるし、琴子ちゃんもうれしいんじゃないかしら」
控えめにいうお母さんに、
「いーんですか?」
「もちろんよ。でもお兄ちゃんにばれないようにしましょ。怒られちゃうから、こっそりとね」
「何回聞いた言葉だか。僕はやめろっていってるんだぞ」
「さあさ、せっかくだから、マタニティ用のワンピースを着て。妊婦さんだって、マタニティライフを楽しむ権利があってよ」
「わー」
「安定期!ばれない格好!」
あたしったら舞い上がっちゃって、裕樹の言葉が頭に入らなかった。
☆彡
「はい、お兄ちゃん」
「ありがとう。助かったよ」
書類を受けとる入江くんをあたしは、壁のすみにへばりついて、盗み見した。
(白衣の入江くん……やっぱりカッコいい)
あたしは少し泣きそうになった。
しばらく見納めかな(裕樹「だから安定期!」)
ふふ。お母さん、いつもこんな風にあたし達を、見守ってくれてたんだ。
「あら、入江さん」
「あっ、主任」
見られた。旦那を盗み見するあたしを。
「えーっと」
「しばらく休職……なのに、まあまあ。マタニティワンピースで」
青筋を立てながら、あたしの姿をじろじろ見た。
「えっ、えへ」
頭をかくあたし。
「入江さん」
「はいっ」
「ママ、頑張ってね。応援してるから」
「しゅ、主任……」
ふだん厳しい先輩の温かい言葉に、あたしは口元を押さえた。
「……早く帰りなさいよ。他の看護婦たちに掴まると大変よ」
「しゅ、主任……主任……あたし……」
「えっ?」
「き、きぼちわるっ……」
あたしはがくっと膝をついた。
「入江さんっ!!」
キャーキャーいう騒ぎ声の中に、あたしは目の前がぐるぐる。
でも、確かに入江くんの声を聞いた気がした。
☆彡
はれ?
ここは……病室?
あたし……点滴してる。
「うっ」
とたん、気持ち悪さが戻ってきて、あたしは悪魔の霧の中に包まれた。
「うっ。うえ」
エチケット袋、エチケット袋。たしか、ポケットに。
あたしの体の中から、黄色い液体が出てきた。
「……」
だっ大丈夫かな。あたしの体。
赤ちゃんに、ちゃんと栄養届いてるのかしら?
はっ!!
こ、このヒヤッとした感じ。
いやな予感……。
「ひっ!」
パ、パンツが濡れてる!?もしかしたら、もしかしたら……血!?
「ふーっ」
血の気がざーっと引いて、またあたしの記憶がとぎれた。
☆彡
「……とこ!」
「琴子ちゃん!」
へ?おかーさん?泣いてる?
入江くん!?
「あたし……」
あたしはぼんやり、まわりを見回した。
「ごめんなさいねー。あたしっ。あたしが、こんなことを言い出さなければ、もっと気をつけていれば、こんなことには。琴子ちゃんを……」
お母さんはオイオイ泣いている。
「い、入江くん……」
あたし、確か主任の前で、気分が悪くなって……。
はっ!!
ち、血だ!血が出て!?
こ、ここに入江くんがいるなんて……。
「も、もしかして、もしかして……」
でも、入江くんがいて、青い顔して……。
あたしは震える声でいった、
「血が出て……。あ、赤ちゃん、いなくなっちゃった?」
がくがくとおなかに触れた。
「りゅっ、りゅうざ…」
「……」
「な、何か言って!赤ちゃんは……赤ちゃんは……!」
「ばーか」
「えっ?」
「ばかっつったんだよ。このばか!縁起でもねーこと、口にするな!」
「あたしが、悪いのよぉ。お兄ちゃん。あたしが琴子ちゃんを誘ったの。もう、おばあちゃん失格よぉ」
「じ、じゃあ」
入江くんがため息をついた。
「赤ちゃんは、腹にいるよ。お前はつわりと、水分不足からくる栄養失調気味だけど」
「でも、血が」
「血?下腹部からの出血もなかったって聞いたよ。尿漏れか何かと混乱して、早とちりしたんだろ」
(……)
「じ、じゃあ」
あたしは涙をこぼした。
「子供に別状はないよ」
(よ、よかった……)
あたしは、下を向いて声をこらえて泣いた。
「よかったあぁ」
「赤ちゃん、ほんとうに、無事なのね」
「大丈夫だよ」
くぅう。
入江くんの一言。
神様。ありがとう。
神様、ごめんなさい。あたし、欲張りでした。
「琴子ちゃん、つわりには、波がある人もいるみたい。あたしはよくなるばっかりだったから。ごめんなさいね。一歩間違えたら……。二度と、二人に顔向けできないわ」
入江くんがため息をついた。
「おふくろはもういいから。精算して、タクシーの手配してきてくれよ」
お母さんは、肩を落として出ていった。
二人きりになって、
改めて、あたしはガックリきた。
色んな回想。あれが走馬灯かと思った。
ほんとに……。
「ごめんなさい……」
あたしは入江くんに謝った。
「……」
「入江くんにも迷惑かけちゃって。忙しいのに。ママとしても……、妻としても……、失格だわ」
あたしは布団をぎゅっと掴んだ。
これ以上、入江くんを困らせるな。
「これからは、入江くんに心配かけないように気をつける。あたしったら、子供を守る覚悟もできてなくて……ほんと、だめだめだね」
「謝るなよ」
「えっ」
ふーっとため息をつく入江くん。
「でも、入江くんは患者さんを助けるのが仕事で。あたしは、赤ちゃんを守るのが仕事で……あかちゃんが、何より一番大事なのに」
「お前、分かってねーな」
「え?」
入江くんはため息をついて、壁に背中をついた。反省したり、考え込んだりする時の彼のクセ。
「だいたいは分かっちゃいたんだ。お前の朝の様子を見てたから。でも、目の前でお前が倒れるなんて。頭が真っ白になったよ」
「オペのことも、医者でいることも、子供のことも、全部吹っ飛んでた」
「入江くん……?」
「オレ、医者になる、お前と一緒にいたい、って気持ちは固まってたんだ」
「子供のことは、いつかはほしいって思ってたけど、やっぱり自覚が足りなかった。お前に気遣われるなんてね」
「……」
「オレも父親は初めてだから、分からないこと、あるよ」
「入江くん……」
「でも」
「患者も、医者でいることも、腹の子も。お前を守れなかったら、オレはここにいる資格ないよ」
「そ、そんなこと……!」
「ふ」
「え?」
「いや。ハワイでお前にいったこと、そのまま返ってきて、ざまあねぇなと思って」
“いい加減にしろよ。おまえ医者になろうって男と結婚したんだろ。ちょっとは自覚しろ!”
「え……」
コンコン。
入江くんが、何かいいかけた時、看護婦さんが部屋を覗いてきた。
「入江先生、あの、患者さんのことでいいですか?」
「あ、はい」
あ。
「あっ。いーよ。いーよ。入江くん。あたし、点滴いれてもらって、少し楽になったから。いってあげて」
「……そうさせてもらうよ」
ガタッとイスから立つ入江くん。
やっぱり……あたしって、バカ。
神様、ごめんなさい。
こんな状態でまだ、さみしい、なんて。
「すみません。ちょっと失礼」
「あっ。入江先生」
呼びかける看護婦さんを外に、入江くんがバタンとドアを閉めた。
「なっ何?」
入江くんはベッドに手をついた。
「琴子」
ベッドがきしんで、入江くんが顔をよせてきた。入江くん、髪が濡れてる……。
「もっと、オレに甘えていーよ」
耳元でささやいた後、入江くんはあたしの顔をみた。
「お前が母親の資格ないなら、オレだって父親の資格ないよ」
「そんなっ。入江くんはっ!」
「じゃあ、十分じゃねーの」
頭をぽんと叩かれて、出ていく際に
「お前」
入江くんはにっと笑んだ。
「もっと自信もっていーよ」
「……」
パタンと閉められた病室で、あたしは涙をこらえられなかった。
“自信もって”
うん。
うん。
ありがとう。入江くん。
あたし。入江くんの笑顔、見たかったんだ。
ほんとは、
“琴子”
そばで、励ましてもらいたかったんだ。
あたしは不安を洗い流すように、おいおい泣いた。
自分にふがいなくて、悪魔の霧の中。
でも、ひとりぼっちじゃない。
☆彡
「あらあ、琴子ちゃん、もう起きてきて。大丈夫なの~?」
「えへへ。何だか調子がよくて」
まーまー。愛のパワーかしらねー。いつの間に充電したのかしらねー。
お母さんが笑ってる。
「入江くん。あたしね。ハーゲンダッツのチョコレートとパピコと、あ、クリスピーも。食べたいな~」
「……」
調子にのるな、という冷たい視線に
「なぁ~んて。じょーだんよ、じょーだん」
あたしは笑った。
「と、カバン」
呆れる入江くんがかがんだ時に、こっそり
「いってらっしゃい」
後ろからほっぺにKissをした。
「あ、な、た」
「……!」
いってらっしゃ~い、入江く~ん
今日も元気なあたしは彼を見送った。
後日、あたしは、倒れたあたしを運ぶ入江くん腕の中で、入江家定番の朝食メニューを、全部吐いたことを知る。
意識もうろうとする中、入江くんに、何度も謝りながら。
でも、入江くんは、ゲロまみれのあたしを、一度も離さなかったんだよ。
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