読書記録2025/1/17

2025/01/17
合計: 6 ページ
アメリカ 『 アメリカ短篇24 現代の世界文学 』: 6 ページ

 スタインベックの「菊」。まだこの短い小説の途中なのだが、常識的な倫理・道徳を持ちながら物を書いていると、思いのほか軛が強すぎるのかもしれない、とふと思った。
 この倫理・道徳的軛とは、表面に現れるもののことで、表現者としての、という意味ではない。
 夏目漱石の『文学論』の中で、たぶん有名なんでもあろう、「裸体画問題」およびその文学的応用について書かれている。
 いわく、文学を読むにあたっては、(その他の項目も論じたうえで)道徳心というものを、普段抱いていたり守っていたりするものをカッコに入れて受容するものだ。
 外国人は、道端で裸になることを倫理に悖るとしておきながら、額縁に入った上では、女性の裸体を鑑賞し、フムフム言ってありがたがっている。これは矛盾だろうか。この事実については、日本人の感覚と馴染まない(もちろん当時のということで)とはいえ、芸術を味わうということにはどこかしらこういった要素が絡んでくる。不倫の小説を書くからといって本人が不倫するわけではない。一切暴力的ではない人が暴力的な行為について書く。
 これを説明するのに、「F+f」における「f」つまり読んだ時に起こる感興のうち、倫理・道徳的な要素については、破られることがあってもこれをカッコの中に入れることによって受容されるということがよくある。
 逆に、小説の中の人間すべてに倫理的な行動を求めていたら、なにも面白みのあることを書くことができない。等々。

 スタインベックは、現場作業、農作業、労働者といったものをおそらく理想化している人なのだろうか。「菊」の最初の場面は、農家の植栽の場面から始まる。夫婦で働いていて、妻の方がいろんな道具を身体中に巻きつけながら、立派に咲くはずの菊を育てている、牛がバイヤーにこれだけ売れたのでお祝いをしよう、といったところから始まる。
 だが、まずこの夫婦についての、とくに労働者の妻の理想化が少し目立つ。労働者として正しいことをしている美しい人、というメッセージが前面に出てきている感じがあるので、本当にこの人が目の前にいた場合にはそんな印象は抱かないのかもしれないが、どこか退屈な感じ、倫理的な視線を気にしながら行動している人のぎこちなさみたいなものを覚えた。
 まだ読みかけなのでどんな言いがかりだか知れたものではない、けれども、日本にも似たようなタイプの作家がいたような気がする。文章から同じような空気を感じる人がいるような気がする。
 労働を賛美するために、労働を賛美する人が登場する必要はない。この、対象化せずにその内部に入り込むような作業が、どうやら書くということに付きまとうらしい。そんなことに、今更のように気が付いた。

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