私と311と満州と。
「FUKUSHIMA福島10年ー当事者性を考える」というシンポジウムに参加した。知人がドイツ デュッセルドルフから開催したオンラインイベントっだった。
パネリストである4人の皆さんは、
原発や原爆について発信する活動をされていた。
それぞれの取り組みの中で考える「当事者性」についてお話してくださった。
シンポジウムが終わり、私の心に澱がたまっている。
このもやもやを言葉にしておこう。
目の前の事象をどう「当事者性」をもって引き受けるのか。
時間と場所が当事者とそれ以外の人たちとを切り離す。
時間の経過とともに忘れていく私たち。
生活圏と離れたところで起こることに想像が追い付かない私たち。
それは、たった道一本の隔たりかもしれない。
「まだやっているのか。」
その言葉が当事者性を奪っていく。
逆に「まだやっているのか」と言われるほどにやり続けることが当事者性なのかもしれない。
当事者は、何年たっても忘れない。
忘れたくても、忘れられない。
原発ゼロへと歩みを進めるドイツとの違いはなんだろう。
そんな問いかけもあった。
戦後、ドイツでは、ホロコーストの悲劇を二度と繰り返さないために「当事者性」をもって、家庭でも地域でも学校現場でもあらゆる立場から政治や平和教育に取り組み、実践を積み重ねていることを最近学んだ。
それには、どれだけの苦しみがあり、葛藤した歳月があったことだろう。
きっと、それは今も現在進行形だ。
パネリストの皆さんから語られる言葉は、難しい言葉ではなかった。
だからこそ、私には苦悩と葛藤が伝わってきた。
伝えることの苦悩。伝わらないことの葛藤。
当事者だから伝えられるわけじゃない。
当事者だから全容がわかっているわけでもない。
何がどうなっているのか、当事者の方が教えてほしいくらいだろう。
原発の事故で土地を追われた人々の中には、
満州から命からがら引き揚げて、
戦後フクシマで土地を切り拓き再出発した人たちがいる。
国の政策によって、満州へ渡り、帰国後戦後開拓に汗水をたらし、
そして、終の棲家を追われていく。
何度、追われていけばいいのだろうか。
でも。
満州には、無理やり口減らしのために渡った人もいたけれど、行きたいと思った人もいた。
借金を返せる。兵隊になれなかったけれど、これで国のお役に立てる。
新しい農業試験ができる。無料で看護師の資格が取れる。
海を渡った人の思いは様々だったという。
そして。
フクシマには原発を誘致することを望んだ人たちがいた。
これで出稼ぎに行かなくて済む。安定した収入が得られる。
わが子やその友だちが地元で就職することができると。
だから思う。
あの時代に生きていたら。
その地域で暮らしていたら。
それは、私だったかもしれないと。
やっぱり、他人事にはできないんだよなぁ。