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映画「教育と愛国」を観たんだけど

南京虐殺事件はあっただろうか?
従軍慰安婦は存在したのか?
かつて占領した国の民を日本国軍人として採用したことは?
徴用工は本当にいたのか?
関東大震災時の朝鮮人虐殺はあったのか?
もっと些細なことも、私たちの現在の認識は全体としてその肯定否定の間で揺れている。

私はどちらの歴史観に立つか、ということを話したいのではない。ただ、不思議な現象がある。実に驚くべきことだけど、学者、研究者、というものが「ほんとう」を知りたいという探究心を失くすことがあるらしい。
あれ?研究って知りたいからするのじゃないの?きっと子どもでもそう考えるだろう。自分の研究主題との距離を失って、一体化してしまうなんて、なんて非科学的な態度だろう。なんて冷静さに欠ける態度だろう。そう思うけれど、実際そのような人がいる。

「教育と愛国」という映画に「歴史に学ぶことはない」と断言する歴史学者が出てくるんだ。なんだか自己の存在の否定みたいな話で、二の句が継げない。けれど、それが国内最高学府の名誉教授だ。なんかすごいことだと思う。知りたくない人、学びたくない人が学ぶ者つまり、学者だなんて。
それとも彼は歴史「に」学ぶことはないが、歴史「を」学んできたんだろうか?何のために?私にはとんとわからない。しかし映画「主戦場」でも、学者と名のつく人々の一部が本当のことを知ることを投げ出して、自分の立てた結論に向かって脇目も振らず論を進めていく姿を見た。
知らない、わからないという自分の枠から自由になるために「学び」というものがあるのじゃなかったか?ちょっと自分の常識がぐらぐらしてくる。

さて、彼らがやりたいことはふたつある。ひとつは彼らのいう「自虐的歴史観」を是正すること。もうひとつは「愛国心をもった日本人を育てること」である。私はこれは全然否定しない。別に悪いことは言っていない。

 自虐的歴史観とは何か?ということが問題になるのだが、ざっくり言うと「先の戦争のうち加害の側面は無視する」ということである。従軍慰安婦と徴用工、軍人登用などは強制でなく自主的に行われたと言いたいのだ。もちろん南京大虐殺などは無かったことになる。それが正しいのかどうかはそれぞれが調べてみたら良いと思うので、ここでは触れない。ただ、私が不思議に思うのは、なぜ加害の側面を無かったことにしたいのかな?ってことだ。
 
 どんなことでも物事には加害と被害との両面があるはずだ。21世紀の今、悪と正義はきっちり色分けできるような単純なものじゃなくて、グラデーションがある。さまざまな素質と条件下で醸成され、発動されるということは常識だと思う。もう、昔々のわかりやすい対立構造では何事も明かされはしないということは、少年少女でもわかっている。

 例えば彼らの望む「従軍慰安婦から従軍の文字を外す」だが、これは軍隊というものから暴力性や強制性を隠そうとしている作業だ。または男性性というものから、かも知れない。男性には聞きづらい例えだが、現在日本の刑務所に服役している女性受刑者は男性の十二パーセントに過ぎない。アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」を例にとるまでもない。

 男性ホルモンのテストステロンに期待した軍隊というものは、敵の殲滅を目指すためのものでれっきとした暴力装置である。また、自らの命を脅かされている日常では、暴力はいつでも爆発の機会を狙っている。
 仮に慰安婦が従軍でなく、商業目的で軍隊付近に自発的に開業していたとしよう。それでも、その業務取引が双方の合意了解のうちに平和に対等に行われる補償は平時にだって完全にはない。平和な今でさえ、性的搾取の現場では搾取されるのが性だけでなく、命や人権も危険にさらされる可能性は高い。ましてや、明日の命も知れない軍人たちが荒ぶることがないだろうか。また、業者(慰安婦)の側に、もう疲れたから本日の業務はこれで終了、という権利があったろうか。休日の保証はされたろうか。
 暴力装置の軍隊の、それも兵糧も待遇もお粗末な中で、古参兵が強権を発揮して新兵を殴る蹴るなどした話には事欠かない。彼らはそれは否定はしない。そんな軍隊の軍人が、相手がプロフェッショナルだからといって尊重したり、暴力的な行いがなかったなんてあり得ないと私は思うのだ。

 歴史修正主義者と呼ばれる政府を含めた彼らは、「自虐的歴史観のもとでは日本人であるという誇りを持てない」と言う。映画に登場する学者、映画の外でも政治家から何度もその言葉を聞いた。いやいや、これにも私は反論がある。自己を振り返り、反省すべきは反省して再出発することが自己を誇りに思うことの根拠であろう。立脚地点を誤魔化しで糊塗しては良いスタートは切れないよ。

 個人的な経験、つまり失業とか、困窮とか、そういうごく個人的な挫折を何度も繰り返して得た知見で言うならば、むしろ、被害者であることからいかに脱却するか?は事実を受け入れる第一歩であり、それが、自分を癒し、救済し、再生や自立への力強い歩みになる。

 歴史修正主義の人々のように、執拗と言えるほど「自分(日本)は(それほど)悪くなかった」と言い立てるその態度は建設的とは言えない。それだけでなく、加害の側面を小さく見積もることは、この国を取り巻く他の国々の感情を害し、軽蔑を買うことになる。彼らのいう「愛国」とは最も遠い結果を招くのじゃないかと思う。


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