なぜ「自信作」はつまらないのか?:写真の構図の話
「わたしの全てを注ぎ込んだ自信作です」
映画でも音楽でも、作者がそんなふうに言っている作品を「あれ?期待したほどじゃないなあ」と思ったことはありませんか? あるいは、自分が自信作だと思ってSNSにアップした写真があまり評価されない、そんな経験はありませんか?
もしかすると、それは当然のことなのかもしれません。
だれも「他人の物語」や「他人の美意識」に興味なんてないのです。
だから、作者が自分の「完璧」を目指せば目指すほど、作品はだれにも響かないものになってしまいます。
では、なぜわたしは今日も「他人」の書いた本を読み、音楽を聞き、写真を見ているのでしょうか?
それは、それらが「自分の中に」物語を生んでくれるのを期待しているからです。
「作者の伝えたいこと」なんてどうでもいいのです。
「自分の中に生まれるもの」に興味があるのです。
実際、みんなそうなのでは?
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最近、Twitterを見るようになりました。
Twitterの写真の縦横比は9:16です(今は縦長の写真もそのまま表示されるようになったそうですが、PCの画面上では9:16で流れてきます)。だから、縦位置の写真は上下がばっさりトリミングされています。
流れてくる写真を見ていると、いいなと思うものがたくさんあります。それをクリックすると、拡大して全体が表示されます。
そうやって見ているうちに、あることに気づきました。
構図に惹かれた写真の中のかなり多くが「もともとは縦位置の写真」なのです。つまり、上下が勝手にトリミングされた写真に惹かれていたのです。
そして、全体を見てしまうとなんだか平凡に思えるのです。
なぜ?
トリミングされた写真は、作者が見せようとしたものの一部しか見えていません。そのおかげで、写っていない部分を自由に想像することができるのです。
「作者が意図した完璧」が崩されたおかげと言えるかもしれません。
作者がこだわった構図より、機械が無作為にトリミングしたものの方がいい。
なんということでしょう。
ちょっと自分の写真で試してみましょう。
上の2枚は、今、目についた縦位置写真の中心部分を9:16で切り出したものです(トリミング前の写真は下の方にあります)。元の写真より断然いい!とまでは言いませんが、普段は見過ごすような部分に目が行ったり、写っていない部分を想像したりしませんか?
少なくとも「うまくまとまった構図の写真」より少し長く目を留めてしまうのではないでしょうか。
同じようなことは逆の場合、作者の意図よりも広い範囲が写っている場合にも言えると思います。画面に意図しないものが含まれていると、想像の範囲が広がります。「作者が固定化しようとしている物語を切り崩してくれる何か」が写り込んでいるだけで、写真は面白くなるのです。
いずれにしても、作者の思い通りの写真は「うまく撮れているのはわかるけど、印象には残らない」になりがちです。
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表現とは、他者の中に物語を呼び起こすことです。
「自信作」がつまらないのは、作者の伝えたいことが主張しすぎて、それ以外の物語が生まれる余地がなくなるからです。
とは言っても、その「余地」を意識して残すことは簡単ではありません。
ここは「偶然の神様」の出番です。
写真の場合なら、自分で決められることを減らしてみるのはどうでしょう。
1本の単焦点レンズだけを使うとか、「常にカメラを水平に向ける」などの約束事を決めるとか、自分の意図に沿ったトリミングはしないとか。
もちろん、構図だけでなく、ピントや、露出や、シャッターチャンス、それらを思い通りにしすぎないというのもいいと思います。
完璧を目指すのはやめましょう。
いい映画もいい音楽も、その中に未完成な感じが残されていると思いませんか?
追記
見出しの写真は、以前「日本カメラ」の月例コンテストで入賞したものです(上辺側を少しトリミングしてあります)。その選評の中で、選者の横木安良夫さんが構図についてふたつのことを書かれています。「この写真のよさは、主題とそれを取り巻く空間だ。これ以上寄りすぎても、引きすぎてもこの雰囲気は生まれない。」「テーブルの手前に余分な輪のようなものが映り込んでいる。これも写真に魅力を添えている。試しにそれを指で隠して見る。すると、彼女の視線が強くなり、神秘さが薄れてしまう。」写真の印象は、ほんの少しのことで変わってしまう。そのことを教えられた、とても奥深い(感動すら覚えた)指摘です。まず、ひとつめの距離感については、テーブルのこちらから50ミリで撮っているので、これ以外の画角は選ぶことができなかったのです。ふたつめの手前の輪についても、撮影時にはまったく気にしていません。偶然、写り込んだだけです。というわけで、選評で指摘されている構図上の美点は、どちらも自分の意思で得たものではありません。強いて言えば「自分の意思によって画面を整えようとしなかった」ことがわたしの意思です。この入賞のあと、横木さんの選評をもっと読みたいと思ったわたしは、その年の最後まで毎月応募を続けました。そして、毎月のように入賞に選ばれ、年度賞の1位までいただきました。その賞の価値以上に、ひとつひとつの言葉から多くのことを学んだ1年でした。