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一眼レフは寂しがり屋のために:旅とカメラとわたし


「きむらくんってひとり旅が好きだよね」


旅は一人に限ると思っています。

でも、カメラは持っていきます。

「カメラを持たずに自分の目でしっかり見た方がいい」というご意見もあるでしょう。でも、わたしにとってそれは「料理を味わうためには目を閉じて食べたほうがいい」と言われているようなものです。

カメラは感覚器のひとつ?


「ねえ、中島みゆきのwithって聴いたことある?」


確かにそういう面もありますが、少し違います。
カメラは「世界と自分の仲を取り持ってくれる存在」です。


「いい曲だよ」


鉄橋を渡る。
きれいな紅葉が目に入る。

カメラを手にしてファインダーをのぞくと、そこには自分が見ていたのとは少し違う風景、別の視点によって純化された世界があります。

それはきらきらと輝き、息遣いまでも伝わってくるようです。

「はじめまして、こんなわたしはどうですか?」

「こんにちは、とてもきれいです」

ファインダーの中での対話があり、世界は彩りを増します。


『誰だって旅くらいひとりでもできるさ でも』


シャッターを押す。

ミラーの音。
一瞬の暗転。

世界とわたしのちいさな物語の完結。


『ひとりきり泣けても ひとりきり笑うことはできない』
(中島みゆき「with」より)


「世界」は自分の中にあります。

でも、閉じた「自分だけの世界」を生きるべきではありません。
だからわたしたちは、小説を読んだり、他者と交流したりします。

写真を撮ることも「自分の世界」を広げてくれます。


一眼レフのカメラを手に旅をしている時、


「自分の世界」の拡張。
その力は、一眼レフを使う時により強く感じます。

もちろん、ライカを一台持って旅をするのも素敵です。
でも、そのファインダーをのぞいて写真を撮る時には「世界との対話」を経ずに、まっすぐにシャッターをきっています。

自分の視点で世界を切り取るレンジファインダー。
世界と対話し、関係を結ぶ一眼レフ。

カメラが変われば世界の捉え方が変わるのです。


わたしは世界と一緒に笑うことだってできます


ひとりの旅路も、一眼レフがあれば孤独ではありません。
ファインダーをのぞけば、そこに対話が生まれるのですから。


寂しがり屋のひとり旅には一眼レフがいいのです。


デジタルになって以降、ファインダーを通して世界と対話する感覚は希薄になりました。闇雲にシャッターをきってしまうせいもありますが、魅力的なファインダーを持つカメラがなくなってしまったことも大きいでしょう。最近の一眼レフのファインダーでは世界はまるで「世界のコピー」のように見えます。生きた世界を見たいなら、そのためにフィルム時代のマニュアルフォーカスカメラを使うというのは十分アリだと思います。使い勝手?解像度?フィルムの値段?そんなものはたいした問題ではありません。写真とは「写ったもの」ではなく「写すこと」なのです。


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kimura noriaki
「科学」と「写真」を中心にいろんなことを考えています。

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