「いつかきっと」を愛したい
「いつかきっと、幸せになりたい…」
こういう言葉って、あまり世間から好かれていないよね?
たとえばSNSとかでつぶやいたら、「かわいそうな奴」認定されて、ちょっと遠まきにみられるような言葉だよね?
いや、世間とかじゃ、ないか。
わたし自身が、あまり好きな言葉じゃなかっただけ。
嫌った理由はおそらく、
・つまり今不幸なんだね、不幸自慢をするな
・なんか不快だ、みじめったらしいことを言うな
・そもそも幸せって何だと思っているんだ、早く定義しろ
・本当に幸せになりたいなら、今すぐ意思をもって行動しろ
等等等。なんか厳しい。でもたぶんそう思ってた。
当時読んでた自己啓発本とか、恋愛にまつわる指南書とか、そういうものに書いてあったいろいろを混ぜて、辛い気持ちがあるなら抜け出す何かをして、ニコニコ笑うことが正解と思ってた。
5年前のわたしを思い出す。
友人や、勤務先の同期が次々と、出世・結婚していく。
「いつかきっと幸せになりたい」。
こんなメソメソした思いは見せないように、と思っていたのに、家ではひとり、「いつか幸せになりたい」と思っていた。
恋人もいなくて、仕事もうまく行かず、他人をうらやんで深夜、缶チューハイを片手に、泣きながら。
自分が嫌いな言葉を、自分でつぶやき泣いていた。
なんてゆるやかな自己破壊!
*
しかし、今のわたしはぼんやり思う。
「いつかきっと幸せになりたい」と、6畳一間で泣いていたわたし。
自分のことで精一杯で、感情に支配されて自己破壊を続けていたわたし。
そんなわたし、過去一輝いていたような気がするんだよなあ。
何もできないくせに、妄想だけは一人前で、何もできないからこそ、エネルギッシュでパッションにあふれていた、そんなわたし。
今思い返してみたら、惨めで、けっこう可愛かったんじゃないだろうか。
大人になったわたしは、少しだけ気持ちの沈め方がわかってきた。
荒ぶる気持ちに名前をつけて、他人に開示できるようにもなってきた。
そのせいで、「いつかきっと」と思ってめちゃくちゃになる感情そのものを、いくぶん好意的に捉えられるようになったんだと思う。
今はもう、自分の中にうずまく感情のみずみずしさが損なわれるのが惜しいくらい。
言語化すればするほど、この気持ちが自分から離れていくようで、少しもったいなく思う。
先日公開した記事の経験からも、そう思う。
記事を公開して3週間、感情が落ち着くとともに、これは感情が外部メモリ化されたんだな、と思った。
外部メモリに手放して、自分の一部から切り取った。
大事な取捨選択をしている。
でもちょっと、惜しいのだ。
*
また、ああいう感情になりたい。
泣きそうな気持ちになっている時のわたしは、6畳一間時代のわたしとリンクして愛おしい。うずまく感情のみずみずしさを感じる度にわたしは、「おお、またわたし、メンヘラになっている…」と思いながら、「エネルギッシュで可愛いわたしがここにいる」と思う。
効率的によりよい人生を過ごすためには、無駄で邪魔なものなのかもしれないが。
でもたまには、ああいう感情ジェットコースターに乗って、感情テーマパークでアホな顔して着ぐるみと写真撮って、ぜんぶ外部メモリに移してときどき眺めてニヤつきたい。(?)
資本主義至上主義な、この時代。
いつかきっとよりも今、この瞬間に、前進し成長していかないといけないこの時代。
必要なものを取捨選択して、大人になっていきながら、たまには赤子のようにすべてを投げ出して、「いつかきっと幸せになってやる!」とむせび泣けるこのわたしは、わたしの人生の中でだけ価値があって、そしてつまりそれはわたしにとって唯一無二な、貴重で大切なわたしなんだなあ、と思う。
ま、でもやっぱり6畳一間時代のわたしには、もう一生戻りたくないんだけどね。