電車の窓から20
2020年5月8日
部屋は、押し入れから大量にモノがひっくり返されているだけで、そこまで荒れていなかった。
「中途半端な常識だけ持ち合わせやがって」
「まぁ、その注意散漫のおかげで、ルナが見つからなかったんだけどね」
押し入れの中を指さす。
私のくぐった扉は、見れば直ぐに分かるような扉だった。
「本当に、頭の悪い人」
「ルナ、大丈夫?」
「え?ううん」
涙がぼろぼろこぼれてきた。腹の底に冷たい物が横たわる。
「ルナ」
ヒナは私の名前を呼び続ける。私の名前。私の名前。
「私の名前、本当はみゆうなんだ」
「うん」
「美しくて、優しい。そんな漢字。私への呪い」
「うん」
「美優。嫌いな名前。本当に、本当に、本当の名前はルナがいい」
「ルナだよ。私はルナとしか呼ばないよ」
「ルナはそうでも私は美優。産まれた時の呪い、美しく優しい私。要らない私。他人の妄想の中にだけいる私。本当の私は何者?誰のために生きていくの」
大きく深呼吸をする。
「誰彼構わず媚びへつらって、頭を下げて、もう嫌だった。けれど、ヒナが居た、毎日見かけるヒナみたいに自由に生きていきたかった。だから、あの時、ここに来た」
「ルナ、ねえ、ルナ」
ヒナに促されて顔を上げる。
「私はひとつも自由なんかじゃないんだよ」
ヒナはそう云う。
真っ直ぐに見つめられて、息が止まってしまった。
くらくら、世界が揺らいで、全部、言葉の意味も、気持ちの由来も崩れてしまいそうだった。
足元が歪む私をヒナが抱き抱える。
「私が男なら、ルナのことを精一杯慰めてあげられるのに」
私の荒い呼吸が聞こえる。絡み合うように混ざる体温と涙。間に埋まる様に、鼻をすする音が聞こえる。
「そんなもの、関係なく、ヒナにはそんなことさせたくない」