当たり前を疑う。当たり前を取り戻す。
『高校生と考える 21世紀の突破口』という本が面白い。
哲学、文化人類学、情報学、料理研究家といったあらゆる分野の第一人者による高校生への講義録で、「その道の最先端にいる人が、未来をどう考えているか」をやさしく学べる良著だ。
とくに、料理研究家の枝元なほみさんの講義は面白く読んだ。
AIに翻弄され、情報の早すぎる変化の波に疲れ気味になっている私たちにとって、正気を取り戻すきっかけになるような問題提起が詰まっている。
枝元さんは、私たちが日々の生活のなかで当然のように享受しているもの=当たり前に疑問符を投げかける。
たとえばAmazonでチョコレートを買うとする。
消費者からすれば、美味しいチョコレートが自宅にいながらすぐ食べられる、このうえなく便利なサービスだ。
だが、売り手の苦労を思い描くことは少ない。
Amazonでは売値の四割近くをプラットフォーム側へのマージンとして払わなければならない。
販売プラットフォームに利益を持っていかれるのはもはや摂理だが、中間マージンが引かれて生産者にほぼ利益がもたらされない現実を知って、それでも便利さにあぐらをかいていられるだろうか。
そもそも、即日や翌日に頼んだものが届くのが当然という世の中は本当に正しいのか。2024年問題も取りざたされているなか、輸送や流通の根本的なあり方も問われている。
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あるいはスーパーで買う納豆のパック。これは納豆よりも容器のほうが高い場合が多いらしい(たしかに冷静に考えると3パックで100円を切る価格は恐ろしいとしか思えない)。パックはプラスチックでできていて、プラスチックの原料の石油は土に帰らず海洋を汚染し、地球環境に甚大な影響をおよぼす。
「安い、便利」の裏側に広がっている闇をそろそろ直視すべきかもしれない。
と偉そうなことをいいつつ、わたしも枝元さんのお話を読むまでは当然のようにAmazonを使い、当然のようにスーパーのパック入り納豆を買う人種だった。
思うに、一度当たり前になってしまったことを疑うことは難しい。
それは、平地の心地いい空気を吸うのをやめて、空気の薄い高山へと昇っていくのに似ている。一度知ってしまった便利さやインフラを捨て去るのには相応の意志や覚悟が必要だ。
だが、それでも未来を考えたときに「便利だからこのままでいい」とは手放しでは言えない。
やせ我慢をして便利さを捨てるというより、大切なもののために出来ることをするという考えかたを少しくらい取り入れても良いだろう。
自分の未来、あるいは子どもたちや大切な人たちの未来を考えたときに、「今の自分が良ければほかはどうなってもいい」といえるだろうか。
人間の理性的な判断や、利他的な行いへのポテンシャルが試されているのかもしれない。
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「当たり前を疑う」という問題提起の一方で、「当たり前を取り戻す」ことの大切さも枝元さんは教えてくれる。
それは、AIによって仕事を効率化しようとする現代の潮流のなかにそっと石を投げ入れる。
AIにできない人間だけの能力とはなにか。
あらゆる識者やビジネスマンが口角泡を飛ばして議論している。
だが、「AIにはかぼちゃひとつも作れない」というたったひとつの事実が、わたしたちに正気を取り戻させる。
人間は自然の中にいるのであり、自然は人間ですらコントロールできないものだ。自然の中で作られていくものを、人間は見守り、その生長を支えることしかできない。
ましてや、人間の道具にすぎないAIにどうこうできる領域ではない。
畑の中でかぼちゃができて、それが収穫され、煮物になって食卓に並ぶ。
そういう当たり前の営みこそが、AIによって決して代替されない生活という人間本来の姿だ。
いかにAIが便利になろうと、その営みの本質は変わらない。
当たり前を疑い、当たり前を取り戻す。
その力が、いま私たちに求められている。
(「次世代の教科書」編集長 松田)