「幸せになれるよ」って言われたかった(映画『ミステリと言う勿れ』)
幸せになってね。
幼い頃、母は私によくそう言った。
私が育った家庭は「幸せ」とは言い切れないものだった。
有り体に言えば「機能不全家族」。
結婚したことで不幸になった、と母はよく嘆いていた。
だからせめて娘には幸せになってもらいたいと思ったのだろう。
「今は幸せじゃないかもしれないけれど、いつかは幸せになってね。」と何度声をかけられたことか。
幸せになってね。
おまじないのように繰り返されるその言葉は、いつしか私の心に刻まれた。
いつだって幸せになるために努力した。
どんなに辛いことも「幸せになってね」という願いのためなら乗り越えた。
今の私が、周りから「強いね」と言われるくらいに精神的にタフであるのも、「幸せになってみせる」という執念を支えに生きてきたからだろう。
幸せになってね。
それは母の愛であり、私の拠り所であるはずだった。
映画『ミステリと言う勿れ』を観るまでは。
幸せになれるからね。
という言葉に、作中で出会ったのだ。
これは汐路(原菜乃華)という登場人物が幼い日に、今は亡き父親(遠藤賢一)にかけられた言葉である。
不覚にも涙した。
「幸せにならないと」と意固地になっていた心のどこかが、じんわりと温もっていくのを感じた。
その時に気づいたのだ。
ああ、私は「幸せになってね」じゃなくて「幸せになれるからね」と言われたかったのだ、
と。
思えば「幸せになってね」と言われて自力で幸せになれるほど、幼い日の私は強くなかった。
幸せになれるよ、大丈夫だよ、と守られていたかった。
ひとりで強がってきたけれど、本当は縋れるものが欲しかったのだ。
幸せになれるからね。
その言葉はいつの間にか蓋をしてしまっていたあの頃の私を救った。
あたたかな慈雨のように。