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『敬具 10年後のあなたより』

10年前の私、お元気ですか。
記憶によれば22の私は元気だったと思います。

今年で私も32になりました。あなたの夢だった図書館司書になって、はや10年です。日々は夕暮れのようで、あっという間に世界を包み、あっという間に消えてなくなります。手の、指の隙間からこぼれ落ちてゆくような感覚です。

今住んでいるところはあなたの想像していたところとは全く違って、海の見えるのどかな町です。ちょうど今カモメが鳴きました。実はこの手紙を書いている部屋の窓からは、海に、テトラポットに、漁から帰ってきた藤浪おじちゃんの磯丸号が波止場に泊まっているのが見えます。

私は田舎の図書館勤めですから、そこまで来館者は多くありません。のんびりと暇を潰しにいらっしゃるご高齢の方と数少ない子供たちが主なビジターです。毎日毎日、本の相手をして、それから顔の見知った来館者のお手伝いをして…
繰り返すのどかな生活には、時折包み込まれるような安心感と、吐き気のするような緩慢や飽きを感ずるものです。
22のあなたも、世の中と将来への不安と、変わりない毎日に苛まれ乱されていたことだろうと思います。唯一の救いは友人と恋人でしたね。

そういえば当時の恋人はお元気なんでしょうか。32になった彼は今どこで、何をしているのかさっぱりです。
安心してね、友人とは時折連絡をとっていますよ。

20で恋をしたあなたは活力に満ちていました。お別れの時期はお伝えしませんが、彼も、あなたも悪くはありませんでした。そういうことだった、と今は思えます。いつか来る不幸や別れを恐れず、どうか今の彼と向き合ってください。

私は近頃、図書館にいらっしゃる年下の(あなたの彼と区別するために彼さんとでもしましょう。)彼さんに惹かれています。研究者で、博士の卵です。この町へは調査のためにやってきました。とても温和で、大人びた方ですが、30になってからは20代の人に惹かれることがなんだか悪いことのように感じます。気持ちは若々しく居たいのにね。
これまでは数週間に1回、調査にこの町に来てくれていましたが、もうその調査は終わるそうで、明日の夕方には東京へ戻ってしまいます。しばらくはこの町にも来れなくなるそうです。

10も若いあなたにお手紙を書いたのは、他でもないこの彼さんのことでご相談があるからです。

私は彼さんに思いを伝えるべきなのでしょうか。

彼さんがこの町にいらした時には何度か食事を一緒にしました。お誘いは私からであったり、彼からであったり。
もう青い、というほど若くはありませんから、彼さんが私に好意を向けていることは分かっています。
それでもやはり躊躇う自分がいます。私はただの図書館司書ですし、ましてや彼さんは東京のご立派な研究者。私はもう結婚が射程に入る頃合ですが、彼さんはきっとまだまだこれからも勉強を続けなさる。横槍を入れたくないのです。
でも彼さんは、あなたと私の間に横たわる10年間で最も魅力的な方なのです。
若かった私に勇気を貰いたくて、こんなお手紙を出してしまいました。

とりあえず、今日の午後4時に駅の前に来て欲しいと言われていますので、向かってみることにします。
結末はきっと、必ずお送りしますから。


ある日突然届いた手紙にはそう書かれていた。
半信半疑ではあったが、字のくせが自分のものと一致しているのを見ると、どうにもその手紙は捨てがたく、そうこうしているうちに1ヶ月が経っていた。

内定をもらい、ひたすらバイトに明け暮れ、くたびれた帰り道。アパートに着き、郵便ポストを空けた。中から磯の香りが溢れ出し、1ヶ月前に届いたあやしい手紙と同じ便箋が投げ込まれている。


黄昏に、魅せられ、焦がれ、逃げられる。
毎夕、憧れは蘇り、残されたことを思いだす。


たった2文が、10年後の私から届いた。



自分のつぶやきにインスピレーションを得るという…

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