わからないことの恐怖
先週日曜は呼吸の指導者養成スクールでした。
私の場合、「わからないこと」は疎外感、不安、見捨てられた気分になった感があったりするし、すぐに知りたい、教えてくれーとジタバタしたくなります(子どもか?あるいはオレオレ詐欺に近い心理状況です)
わかった時は喜びで、「すごい!」「嬉しい!」と、
これまたジタバタします。(喜びに身悶える感じでしょうか、やっぱり子ども)
昔からそういうところがあったな、
何故にそこまで刺激と感じるのか?と不思議でした。
これ、正解がある無しの教育のせいばかりではなく、
最近、私の身体感覚の特徴に由来するだなと思うようになりました。
身体の差、
例えば私の場合は、身体に柔軟性があり、
皮膚感覚は過敏で、割と聴覚優位。
わからないことは、マネッコで乗り切ってきました。
だから割と視覚も優位。
身体も小さかったので、過剰に力を入れることが癖になっています。
常に一般的な物のサイズ(椅子とか机、洋服)が合わないので、収まりが悪いことに慣れてしまっている。
呼吸の学びは、行間が広いです。
自分の一番のピッタリ、1点を探す方法を伝えるからです。
自分の持って生まれた質や、これまでの背景の違い、
例えば、環境、過ごし方、感覚も違えば、言葉の定義も違うためなのだと。
身体感覚としても共通部分は8割で、
よりピッタリを見つけたいなら、適切な指導者の元で自分であとの2割を埋めるところと伺いました。
呼吸の師や講師陣、諸先輩方や同期の方たちと話しを聞いていると、何か違和感を感じる時があります。
「私のわかってるって違うかも?」
8割の共通部分さえも危うくなり、アワアワしてジタバタ。
わかること、わからないことを刺激にしてしまうと、
毎回こんな反応をすることになる。
なんと面倒なことを繰り返しているかと気がつきました。
それはもう、「私はそういう人なんだ」と容認していくところだなーと。
違和感として気がついたことはラッキーなんですよ。
腑に挙がってこないモヤモヤ段階もあるのだから、落ち込むところではなく、秒で起き上がって食いつくところです。
アドバイスを頂けるような質問を繰り出せばいいのです。
そのために身体部位の知識をつけたり、身体差が起こりにくい部分でお話する術を身に着けたらいいんだなと思った帰り道。
おとなですもの、頭で埋められることもあります。
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