「この世界は弱肉強食だ」といった言説は何を待ち侘びているのか
昔、「この世界は弱肉強食だ」といった言説にはルサンチマンが潜んでいるという記事を書いた事がある。その時の内容と少し重なる部分もあるのだが、このテーマについてさらに発展させて考えていきたい。
もちろん「この世界は弱肉強食である」という命題は真理ではない。人間界はもちろん動物界においても、相互補助や弱った仲間を助けるといった行為は頻繁に見られるものであり、大体、もし「弱肉強食」という真理が正しいとしたら、それを言っている当人は一体何をしていることになるのだろうか?
「この世界は弱肉強食などではなく、誰もが相手を思いやることこそが大事なのだよ」と周りに嘘を言いふらし、自分が困った時にはお人好しな他人に助けてもらい、他人が困っている時には容赦なく見捨ててライバルを蹴り落とす、などといった態度こそが「弱肉強食」の世界においては最適解であることは間違いない。にも拘らず、彼は「この世界は所詮弱肉強食さ」と言うことで、親切にも他人にこの世の「真実」を伝えることで仮想敵の数を増やし、自ら「弱肉強食」におけるより過酷な競争を選び、自分が弱者へ転落する可能性を高めているのである。要は、それを言うという行為によって言っている内容を自分で裏切っているのである。
よって、「この世界は所詮弱肉強食さ」などと嘯く人間は、何かこの世界の真理や認識を伝えようとしている、と捉えてはいけない。むしろそうした人間のパトスを理解することがここでは重要である。
まず、「この世界は弱肉強食だ」という事態が正しいにせよ正しくないにせよ、その事態を心から肯定している人間がいるとしよう。非常に強い人間であるか、はたまたあまりに能天気なこれらの人々は、ただひたすら「弱肉強食」という流れに淡々と身を任せ、それを常に実行していくであろう。それを意識的に語ることも無く。
それに対して、「弱肉強食」という事態を肯定できない人間は、この世界の原理を「弱肉強食」だとわざわざ語り、それに間接的に異議を唱えようとする。よってこの場合、彼の「この世界は所詮弱肉強食さ」という言葉は、弱肉強食としての外観を呈し始めた自分の世界に対して、そしてその世界を素朴に肯定している人々に対して、道徳的な責めを負わせることで間接的に復讐するという目的のために使われているのである。表向きは「弱肉強食」を肯定しているかのように見えても、である。
場合によっては、この世界が「弱肉強食」であることを素直に認めている人間は、例外や僥倖を求めて、あるいは強者の余裕から、あるいは弱者への素朴な同情心から、「弱肉強食」である世界を解体しようとするかもしれない。
しかし「弱肉強食」という事態を受け入れられない人間は、自己虐待として、弱者である自分が軽んじられる世界の存続を要求する。しかし彼は自分の言動が本当は根底的に間違っていることを完璧な形で説得させてくれるような、そのような「誰か」の到来を実は待ちわびている。「弱肉強食」を軽率な形で否定しようとする人間に対する彼の苛立ちや憎しみは、彼のこの救済されたいという欲求が強ければ強いほど、比例して強く働く。
よって、もし「この世界は所詮弱肉強食さ」と嘲る人間を「包摂」する必要があるとしたら、彼の見掛け上の「弱肉強食肯定主義」をそのまま受け取って批判しても無意味である。
彼の「非道徳性」を非難するのが論外なのはもちろん(彼はむしろ「そうだ。強者である俺は道徳を踏み躙る権利があるのだ」と得意になるだろう)、生物学的・科学的事実を列挙して反論しようとすることもあまり効果的ではない。上に挙げたように、結局彼を救えるのは、「自分の言動が本当は根底的に間違っていることを完璧な形で説得させてくれるような」「誰か」であり、あるいはそうした「誰か」となった彼自身だけである。
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