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理不尽とは割り切れなさのことである

 「この世界は理不尽だ」という言葉がある。概ね同意するが、この言葉を頻繁に使う人が念頭に置いている「理不尽」は、どうも歪んでいるような気がする。彼らは「理不尽」な世界を、不幸や苦しみ、人間の醜い面ばかりが蔓延っている世界として理解しているのである。





「負の面にも向き合う現実主義者」


 なるほど、不幸や苦しみ、人間の醜い面などは、この世界では探そうと思えばいくらでも見つけることができるだろう。それらの「負の面」を臭い物に蓋をするかのように無視し、「正の面」ばかりを強調・要求する人間は、得てして「楽観主義者」・「理想主義者」として批判される。反対に、この世界の残酷さや人間の醜い欲望などの「負の面」をことさらに強調し暴き立てようとする人間は、冷徹な「現実主義者」とみなされる。

 「正の面」ばかりを強調・要求する「理想主義者」は、「しかし、かといって理想を捨てたらお終いなはずだ」と「現実主義者」を批判する。それに対して露悪的な「現実主義者」の方は、「所詮この世界は理不尽なのだから、それを素直に認めろ」と批判し返す。前者は後者を「冷笑好きな人間」として非難し、後者は前者を宙に浮いた「楽観主義者」として非難する。

 つまり、「正の面」:「負の面」=「理想主義者」:「現実主義者」=「楽観主義者」:「冷笑家」といった構図がここでは働いている。そして、「負の面」を時に露悪的に「冷笑」する「現実主義者」が、「この世界は理不尽だ」という言葉を頻繁に使っているわけである。




理不尽とは割り切れないことである


 しかし、そもそも何かが理不尽であるということは、本当に何かが不幸や苦しみ、人間の醜さなどの「負の面」に満ちているということなのだろうか。

 理不尽という言葉には、道理を尽くさないことや、すじみちの通らないこと、という意味がある。すじみちとは、「物事がそうなっているわけ」である。そのすじみちが通らないということは、何らかのシンプルな原理や一定の方向といったものがそこでは通用しないということである。

 もっと言えば、一つの公式や法則ではその現実を上手く捌くことができないということである。もし、公式や法則で何かを上手く捌くことができるのなら、それは理不尽ではなく道理に適っているのである。何かが道理に適っている場合、人は納得がいって気持ちがすっきりするので、それを「割り切れる」というわけである。

 つまり、理不尽とは、「人間は常に互いを思いやる生き物だ」や「人間は所詮誰もが卑しい利己主義者だ」といった原理で現実を捌こうとしたときに、それが上手くいかず挫折するといった状況をこそ指しているのである。仮定された原理や法則がこの世界の「正の面」であろうと「負の面」であろうと、それらの原理・法則が常に現実に裏切られていくという事態が、理不尽という言葉の意味である。この理不尽に直面した時、人はこの世界を「割り切れない」ものとして感じるのである。

 よって、「理不尽な世界」とは、不幸や苦しみ、人間の醜さだけで満ちた世界ではない。むしろ、それらに満ちていながら、僥倖や説明のつかない他人の優しさ、涙が出るほど愛おしい理想などにも遭遇してしまう世界のことを指すのである。それらの不意打ちを前に、躊躇し、面食らい、やり切れない・割り切れないという感慨を覚えることこそ、世界が理不尽である理由である。いわば、この「負の面」と「正の面」とのギャップこそ、世界を理不尽たらしめている。「正の面」だけに目を向けて世界を無条件に愛することも、「負の面」だけに目を奪われて世界をひたすら憎むこともできないという、もどかしさ・割り切れなさが、理不尽な世界の正体である。




いわゆる「現実主義者」の無邪気さ


 人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやってくる。

小林秀雄『ランボオⅢ』


 私はこの言葉を次のように解釈する。人なり物なり、ただそれらを憎悪し拒絶することは案外簡単にできるものである。自分が固く信じている原理や法則に反するものを、ただひたすら不愉快な態度で排除していけばいいだけだからである。しかし、たまたま、これまで通り排除すべきものの中に、愛すべきものを見つけた時、見つけてしまった時、本当の意味での苦しみが始まる。もう彼は、自分が大事にしてきた原理や法則の内へ逃げることはできない。全く新しい一面を見せ始めた世界の中で、暗中模索しながら前に進むしかない。世界をひたすら憎んでいればよかった安全地帯はもう破壊され、様々なギャップをどうにか架橋し続けなければならないという、全く新しい苦しみが始まるのである。

 憎悪し拒絶すべきものだけをことさらに探し求め、それらを暴き立て、冷笑することによって、この世界の理不尽さや残酷さについて悟っているつもりの人間は、その実「現実主義者」でも何でもない。愛すべきものや優しいものだけに目を奪われている人間と同様、彼らも結局皮相な「楽観主義者」なのである。「負の面」だけがこの世界の原理・法則であり、それによって現実を捌けると無邪気に信じているという点で、彼らも夢見がちな「空想家」に変わりはない。割り切れないという意味での理不尽に直面したことの無い人間の語る「理想」や「現実」はどれも空しい。しかし、そうした理不尽さにおいてのみ、本当の絶望、本当の苦しみがあるのだ。



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