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もはや冷笑している余裕などない


 もうお分かりだと思うが、私はそもそもリベラルではない。

 私はやはり、リベラル的な理念にはどこか欺瞞を感じてしまう人間であるし、反動的に生きる権利、正義を嘲笑する権利、自分の権利だけを認めて相手には認めない権利というものがかけがえの無いものであることを痛感しているような、そういうどうしようもない人間なのだ。

 だから、私は、時に差別的で露悪的な人間に何となく爽快感を感じてしまう時もあるし、それが長期的には自殺行為であるにもかかわらず、リベラルリズムの理念を蔑ろにしてしまう時もよくあった。いわば、観念の世界における不良少年としての自意識に酔っていたのである。別にそのことを後悔しているわけではないが。

 ただ、ここ数年、具体的にはロシアによるウクライナ侵攻から始まり、ガザでの紛争、欧州における極右台頭、そして今回のトランプ再選へと至る過程で、少し自分の無知と軽率さを反省し始めた。

 もちろん、「罪悪感」を覚えたわけではないが、やはりかつての自分の政治的スタンスや価値観は、体勢に反逆しているつもりで、結局どこまでも体勢順応主義的だったなとしみじみと悟った。

 確かに、私たちは、リベラリズムおよび知性主義の欺瞞性をこれでもかもこれでもかとまざまざと見せつけられている。それらの「お行儀の良い」偽善性に比べれば、まだ正直で暴力的・露悪的な人間の方が信用できる、と判断しがちである。しかし、そうした「不良少年」的なものへの憧れも、近い将来のうちには、結局牧歌的なものであったことに気付かざるを得ない段階へ世界はもう進んでしまっているように思う。

 つまり、「ベタ」にやれ人権だの、やれ「平和」だのと語っていたリベラルの人間に愛想を尽かし、「シラケ」的なものへの偏愛から、反動的勢力を心のどこかで歓迎していたところ、どうやらそうした勢力がこれっぽちも「シラケ」てなどおらず、「ベタ」に反動的なことを始めてしまったというのが、ここ最近の世界情勢なのではないだろうか。

 私は元々、「シラケ」たものを要求していたのだが、どうやら彼らが単なる「ベタ」な反動主義者・前近代主義者であることをやっと理解してしまったので、こうなったら、「ベタ」なリベラルに肩入れするしかないような気がする。

 もはや世界は、「ベタ」なリベラルの圧制と戦い、「シラケ」の抵抗空間を作り出そう!といった、能天気な段階をとっくに過ぎてしまっている。なぜなら、別に「シラケ」の登場を待たずとも、「ベタ」なリベラルがその現力を既に失っているのが現実だからである。

 よって、「ベタ」なリベラルが嫌だからと言って、「ベタ」な反リベラルに肩入れすることは、これは自戒を込めて言うが、やめた方がいい。残念だが、露悪的に振る舞ったり冷笑をしても安全だった世界はもうないからである。明日は我が身であり、いつ自分たちの権利までも奪われるかなど知れたものではない。

 リベラルの「欺瞞性」は、それはそれとして検討しなければならないものだろうが、建前としての理念すらも放棄をし始めた人間を歓迎することはもう慎むべきだろう。

 そもそも、「多少暴力的でもいい。この堕落したリベラルの欺瞞を破壊しろ」という、反リベラルはおろか一部のリベラルの内にすら見られるこうしたスタンスは、実は別に新しい現象では全くない。アーレントが指摘するように、およそ100年前の、衰退していくヴァイマール共和国における知識人たちの間で既に見られたものなのである。彼らはこのスタンスの下、「偽善を破壊してくれる」ナチズムを歓迎するという誤算を犯したが。

 だから、結局のところ、自由や基本的権利を奪われたくない人間は、「ベタ」にリベラル的なものに与するしかないのではないかと思う。もちろん、「ベタ」なリベラル的なものを選ぶからと言って、その目的を達成するための手段や戦略まで「ベタ」である必要はない。「シラケ」のスタンスを維持しても良いし、それがイメージ戦略やレトリックとして有効である時も多いだろう。

 だが、「シラケ」を目的そのものとして標榜することは、残念ながらこの世界ではもはや自分の首を絞めることでしないように思われる。「ベタ」な反動主義者・反近代主義者が跋扈し始めた世界においては。



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