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ガザーリー


 ガザーリーの『誤りから救うもの』『光の壁龕』を読んだ。正確に言うと、『光の壁龕』は第一部まで読んだのだが、そこで止めてしまった。ガザーリーを再び読むことは当分無いだろうが、いつか私も、ガザーリーの如く、俗世を離れて一人で山奥に隠退した暁には、もう一度『光の壁龕』の続きを読み始めるかもしれない。しかし、私はこの老練な哲学者とは異なり、「理性と信仰との架橋しがたき対立」などといった大げさな苦難を背負うはずもなく、きっと「自意識の過剰」とやらに苛まれて、つまり「自己と自己との架橋しがたき対立」というちっぽけな苦難を背負って、ぶつぶつ言いながら、山奥でなくアパートの一室に撤退するに違いないのである。

 しかし、冗談ではなく、「理性と信仰との架橋しがたき対立」のせいで、心身が崩れるほどの精神的危機に悶え苦しんだ、苦しみ得た、ガザーリーの偉大さはいくら強調してもし過ぎることはないのだ。今の日本や世界を見渡して、純粋な思索の結果、つまり思索の副次的結果だとかそんなお粗末なものではなく、ただひたすら知的誠実さを貫徹した結果、食事が喉を通らないほどの精神的危機に到ることができる人間が果たしてどれだけいるであろうか。

 哲学者と聞くと誰もが反社会的人間と決めつけるのが当世の一面であることは間違いないけれど、他面から見れば、「常識を疑え」という空疎なスローガンがここまで幅を利かせている時代もまた珍しいだろう。誰もが「常識」をスタイリッシュにリーゾナブリーに疑っている。しかし、身を裂くような懐疑にも突進していくほどの勇気を持った人間となると、さあ、私はお目にかかったことが一度もない。

 ガザーリーは次のように考えた。私たちはまず感覚というものを信じていた。しかし、徐々に理性的推論の能力を身に着けていくと、感覚というものがどれだけ不確実なものであるかを悟ることになった。あたかも、夢を見ている人間が、目を覚ました後にやっと自分は夢を見ていたことに気づくかのように、感覚という夢の世界を生きていた人間が、理性的推論による鮮明な現実世界へと目覚めたのだという。

 だとしたら、とガザーリーは続ける。理性的推論に満ちたこの鮮やかな現実も、結局一つの夢である可能性があるではないか。この夢が覚めたら、自分たちは高次の世界において、どれだけ理性的推論の世界が突飛な幻であったかについてしみじみと気づく、そうした可能性を決して排除できないではないか。そして、その高次の世界は、宗教的領域、特にスーフィー主義者が経験するあの忘我の世界ではないと言い切れないではないか。こうしてこの偉大な哲学者は懐疑の泥沼へ沈んでいった。

 精神を病んだ彼は、神学者としての絶大な地位をかなぐり捨てることを決心し、数千人の学生たちを擁する講堂を後にして、孤独な隠居生活を始める。彼は神秘的境地において、ついにこの懐疑の泥沼から抜け出すことに成功するのだが、彼が掴んだ結論は、信仰の知識は理性的な知識よりも確かに上位ではあるが、理性的な知識も理性的な世界の領域においては妥当な道具なのだから、それぞれの知識をそれぞれにふさわしい世界で使うべきだ、というものであった。

 荒れ狂う懐疑の波濤の中で、命欲しさに藁にも縋る思いで掴んだものを、あなたは後々「真理」であると自分に言い聞かせただけではないかなどと問うような、野暮な真似はすまい。生産的でないというだけでなく、そうした批判は、「宗教」と聞けば顔をしかめざるをえないほど科学を信じ込んでしまっている私たちの、あまりに「時代に制約された」見方であるかもしれないからだ。

 むしろ、現代においても「アクチュアリティ」を失ってはいないところを積極的に使っていこうではないか。上に挙げた、「理性自体が後に夢であったことに気づくのではないか」という問いも興味深いが、ガザーリーは他にもいくつか面白い見解を述べている。

 例えば、彼によると、哲学は理性的知識の仲間ではなく、むしろ宗教的知識の仲間であるそうだ。もし本当に、哲学が数学や論理学のような理性的知識であるならば、古来、ここまで相反する見解や思想が哲学者によって述べられてきたことは理に合わない。哲学は信仰のように、個人が実際の体験を通して培った確信の要素をどうしても孕むため、理性的知識に見られるような万人に共通する尺度といったものを持たない、という。

 他にも、こんなことが『光の壁龕』に書かれている。

神をその知の極みにおいて知るのは神だけである。すべて知られるものは、なんらかのかたちで知者の支配と統御の下に入るが、そのようなことは神の尊厳と偉大さに矛盾する。

『中世思想原典集成11』p.621


 神という箇所を完全に取り去っても、示唆に富む一節である。私たちは普段、何か物事を知るという営みを、例えばその情報を何らかのやましい目的のために悪用するのでない限り、単なる好奇心や純粋な知的関心によって支えられた、ささやかで無害な行為だと考えている。しかし、たとえそれがそうした純粋な行為だとしても、知る➖知られるという関係の中に、既に支配➖被支配といった不吉な状況が成立してしまっている。知るというのは実は非常に強力な権力の発露であり、たったそれだけで、巨大な像を道端の蟻んこに変えてしまうほどの魔力を秘めているのだ。

 本当な無意識にそれを理解しているからであろう、人は自分の気に入らない人間の前で、そいつの素性を並べ立て、うまく説明のつかない不愉快を感じた相手が腹を立てようものなら、「いや、単に君を『認識』しているだけだよ」などとちゃっかりしているのは。自分のことを相手に知られるという状況は、たとえそれが直接的に自分を脅かすものではないにせよ、すでに相手の軍門に降ることだ、ということを私たちは本能的に理解しているため、「知られる側」に転落しないよう、「知る側」の地位を必死に守ろうとする。そう考えると、たしかニーチェが指摘していた気がするのだが、「認識」というものにはすでに何らかの残虐性が潜んでいるという言葉にも重みが増してくる。

 他にもガザーリーは様々な興味深い議論を展開しているのだが、これ以上は続けまい。あとは、この記事を読んで興味を感じた人間に直接ガザーリーの本を読んでほしい。「イスラーム思想界において公然と哲学を批判し、宗教的知識、特にスーフィ主義者の神秘体験を重視した神学者」といった字面だけを読むと、私たちの諸々の偏見も相まって、いかにも保守的で旧態依然な思想家の姿を思い浮かべてしまうのだが、ここまで見てきたように、ガザーリーの探究の姿は、決して旧態依然な思想家のそれではなく、ましてや狂信家のそれとは対極に位置するものである。彼の円満な人柄や、批判対象さえもまず徹底的に理解しようとする知的誠実さは、実際に彼の著作を手にしてみれば明白である。中世のイスラーム哲学者だなんてそんな「二ッチ」なところには興味ないよなどと言わず、批判するためにもガザーリーの著作を紐解いてみてほしい。

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