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AI試論 Ⅵ 独在性は連帯の基礎になり得るか




 前回の記事では、AIのもたらす最も根本的な危機が「人間と本質的に異ならないAIの誕生」であること、しかし、AIですら私の〈私〉という独在性までも消去することはできないことを論じた。今回の記事では、それにも関わらず、〈私〉という独在性が無傷であることは「人間の尊厳の勝利」などを全く意味しないということを述べる。

 さて、前回の記事で既に考察したように、もし将来におけるAIが私の脳の全情報や私の身体性までも再現できるようになれば、〈私〉としての私の本質はいくらでも代替・再現可能となるだろう。今私が書いている文章を、同じ気分で、同じ理由から、同じ思想を持って書くことのできる第二、第三の私だっていくらだって技術的に製作可能かもしれない。しかし、この私こそ独在的な〈私〉であるという点は、そのことによってびくともしない。なぜなら繰り返すように、誰にも伺い知れない私の内面だとか、私の本質だとかが、〈私〉という独在性を形成しているわけではないからである。

 ここまで書いてきたことを、私を完全に再現するAIも全く同じような形で述べるだろう。あなたではなく、私こそその独在的な〈私〉なのだと。しかし、そのAIの言葉を、他者が言った場合と同様、私はどこまでも否定せざるを得ないのである。他人に「独在性」を認めるということの意味が私には理解できないからである。理解できないことは、1+1が3である可能性や、丸い四角が存在する可能性のように、決して存在できないのであるから。

 将来のAIは、人間一人一人の、そして私の本質を根こそぎにすることはできるかもしれない。しかし、そうしたAIですら、私の実存、つまり、「現に」今、なぜかたった一人存在しているのだという独在性に関しては奪えるはずがない。たとえその他の私のアイデンティティの全てが代替・再現されようと、「独在性」だけはAIは担うことはできない。

 しかし、このことは逆に言えば、独在性以外なら完全に代替・再現されうるかもしれないということを意味する。人間の私秘的な内面や本質は完全に無価値化され、AIの圧倒的な進撃を前に「独在性」の領域にまで後退することになる(ここはあくまで比喩として理解してほしい。人間共通の「独在性」などあり得ないというのが、「独在性」の特徴なのだから)。独在性が絶対的に侵犯不可能であることは疑いを容れないが、独在性まで後退を強いられることを人間の尊厳の「勝利」であるとはとてもだが言えないだろう。

 近代において人間は、純数学的、あるいはコギトの領域まで後退することを余儀なくされた。たとえ世界というものがどれだけ不確実で信用ならないものであろうと、1+1=2という真理や、「思惟する私は存在する」という足場だけには縋ることができた。たとえそれが、個々バラバラになったアトム化した人間同士の関係という新たな副作用をもたらしたにも関わらず、である。

 しかし、もはや人間が、私が、独在性にしか自身の唯一無二のアイデンティティを見出せない未来においては、「個々バラバラとなったアトム化した人間同士の関係」どころの話ではない。「独在性」がその性質上、客観的には存在せず、他人への伝達も出来ないものである以上、それが人間同士の新たな「連帯」の基礎となることはあり得ない。「連帯」や「公共化」することをあくまでも拒み続けることが、「独在性」を「独在性」たらしめているからである。

 「私の本質はAIによっていくらでも代替・交換可能かもしれないが、『独在性』を持った〈私〉は無傷である」。確かにその通りである。しかし、ここまで見てきたように〈私〉は客観的には存在しない。客観的に存在しないアイデンティティだけが、AIによって代替・再現されない唯一のものである以上、そのような未来はある意味「無人」の世界である。救いは本当に、この最終的な危機においても育つのだろうか。少なくとも現時点では、見通しがとても暗いと、私は認めざるを得ない。

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