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「敵だからこそ」殺してはいけない


 私はスポーツが嫌いだ。あんなものは愚昧な大衆だけが好むものであると固く信じている。一人で部屋にこもって読書している方が何倍も生産的である。

 だから、私はスポーツに熱狂している人間を軽蔑している。お前がスポーツを嫌いなのは単に運動神経が悪いからだなどと指摘してくるやつに限っては、殺意すら沸いてくる。

 しかし、殺してはいけない。私が道徳的だからではない。彼への同情からでもない。私なりの、スポーツマンシップとやらへの尊敬があるからだ。





スポーツマンシップとは何か


 精選版日本国語大辞典によると、これは、「アマチュアスポーツマンが必ず身につけていなければならないとされる競技精神。フェアプレーの精神と同義で,『公明正大に,全力を尽くす』ことであり,結果的に『負け』ても可とされているが,あくまでも『勝とう』とする努力の精神をさす。競技する相手,審判,競技規則への敬意と尊敬の念はスポーツする者にとって最も大切と考える理想主義がこれを支えている」。

 私はこれを、敵を打ち負かそうとする意志を最大限に発揮しながら、その敵を殲滅することを「自分のために」固く禁じる精神と理解する。となると、スポーツマンシップとは何もスポーツの場面に限らず、あらゆる状況で、あらゆる人間が忘れてはいけない徳ではないだろうか。



ニーチェの力への意志


 ニーチェは私たちに「力の倫理」というものを説いた。「力の倫理」とは、私たちの根本的な衝動欲求である「力への意志」を否定するのではなく、むしろそれに積極的にコミットすることを促す。

 この「力への意志」とは、ニーチェ研究者のレジンスターによると、「抵抗の克服への意志」である。つまり、私たちが自分の欲求や目標を満たすための障害となるものを絶えず克服し、そのことを通して権力感情を味わうことを目指すという、非常にマッチョな意志である。これだけ聞くと、今回のトランプ銃撃事件のような、どんな手段を使っても政敵を排除しようとするテロリズムや、ナチスの武力による膨張主義といった極端なケースでさえ、「力の倫理」からは排除できないような印象を受けてしまう。



敵を殺すことは「力への意志」の否定である


 ただ、「力への意志」には最終的なゴールといったものが無いことに注意しなければいけない。なぜなら、もし仮に抵抗を完全に、最終的に「克服」してしまったら、抵抗を絶えず克服することを通した権力感情さえ、私たちは失ってしまうからである。よって、「権力への意志」にコミットしている主体は、抵抗を克服するたびに、新たな抵抗を絶えず探し続けなければいけない。

 ニーチェの思想を換骨奪胎したナチスが、「敵」であるユダヤ人を一人残らず殲滅しようとしたことは周知の通りである。しかし力への意志が抵抗への克服であり、それが決して最終的なゴールを持たないような性格の意志である以上、「敵を殲滅」してしまっては、克服しなければいけない抵抗を永遠に消去してしまうことになる。これは、力への意志にむしろ反していないだろうか?

 力への意志にコミットしている主体は、自分にとって脅威となる敵を殺してはいけない。むしろ絶えずその敵を打ち負かしつつも、将来の戦いにおいては自分を打ち負かす可能性を常に相手に与え続けなければいけない。よって、敵であるユダヤ人をこの地上から殲滅する「最終的解決」は、力への意志の極端な帰結ではなく、力への意志の否定ではなかっただろうか。たとえ表向きには、ナチスは自分たちこそ「力への意志」を体現していると説明していたにせよ。そして少なからぬナチスの人間が、実際にそう信じていただろうにせよ。



スポーツマンシップ=力への意志


 むしろ、力への意志とは、上に挙げたスポーツマンシップのようなものなのではないだろうか。つまり、相手を試合から追い出して永遠に入場を禁止するのではなく、相手を全力で打ち負かしつつも、相手に将来における試合への入場権利を常に与え続けるようなスポーツマンシップこそ、力への意志に忠実な精神だと言えるのではないだろうか。

 注意しなければいけないのは、この場合、「競技する相手,審判,競技規則への敬意と尊敬の念」は、人として守らなければいけない最低限の道徳や、相手への同情などといったものとは無関係である。それらはあくまで自分のエゴイズムや自分の力への意志を最大限に発揮することからの帰結なのである。

 よって、スポーツマンシップとは非常に過酷なものである。この精神にコミットしている勝者は、一度も本当の意味における「平穏」に到ることがない。彼は、自分が過去に打ち倒した敗者たちからの復讐を絶えず意識せざるをえないからである。敗者にも、一度負けたからといって自分を永久の弱者と決めつけて、戦いの無い世界に逃げ込むことは許されない。「力への意志」であるスポーツマンシップにコミットした敗者は、「戦いの無い世界」など幻想であることを悟り、強者へのリベンジを何度でも再開するよう促されるからである。



敵だからこそ殺してはいけない


 「力への意志」によって方向づけられた世界は、たしかに「弱肉強食」である。しかし、この「弱肉強食」の世界では、誰もが弱者へ転落する可能性があり、しかも常に強者へ再戦する権利を持っている。なぜなら、弱者を殲滅して安心することも、強者との戦いを完全に放棄することも、「力への意志」の観点から否定されるからである。

 敵を憎んでもいい。敵と戦ってもいい。しかし敵を殺してはいけない。打ち負かした敵には常に再戦する権利を与え、敵の復讐を待ちわびるというスリリングな状況を精一杯楽しむこと。抵抗の絶えざる克服を通した快感を失うことのないよう、あえて抵抗の完全で最終的な克服を自分に禁ずること。つまり、「敵だけど殺してはいけない」ではなく、「敵だからこそ殺してはいけない」を自分の信条にすること。これが、ニーチェの「力への意志」から私が読み取ったことであり、この「力への意志」の一つの現れが、スポーツマンシップであると考える。

 繰り返す。私はスポーツが嫌いだ。だがスポーツマンシップを尊重する。人を殺すのは、力への意志を押し通すことではない。むしろ力への意志の否定である。

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