見出し画像

反動的な人間の煮え切らなさ


 私は反動的な人間が嫌いだ。反動的な人間の「古めかしい」価値観が気に食わないからではない。反動的な人間の「非道徳性」が許せないからでもない。反動的な人間にありがちの、あの不徹底な態度が癪に障るからである。彼らの無自覚なダブルスタンダードが気に入らないからである。



「歴史修正主義者」


 例えば、反動的な人間の中には「歴史修正主義者」と呼ばれる連中がいる。彼らは口々にこう騒ぐ。「南京大虐殺は無かった」だの、「慰安婦は存在しなかった」だの、「あの戦争は自衛戦争であり、大日本帝国はむしろ道徳的な国家だった」だのと。

 私はこうしたことを主張する「歴史修正主義者」たちと事実を巡って競争するほど暇ではない。「歴史修正主義者」たちに「正しい」事実を列挙して彼らを抑えこもうとする学者やリベラルな知識人たちがいるが、そうした「ファクトチェック」はもう彼らに任せるとしよう。私が腹立たしく思うのは、「歴史修正主義者」たちの煮え切らない態度についてである。

 上に挙げたような旧日本軍の所業に関して言うと、私にはなぜ「歴史修正主義者」たちが、「日本は謝罪などしなくていい」だの、「祖先が犯した虐殺や拷問といった『デマ』を用いた『反日教育』をやめろ」などといった主張を繰り返すのか理解に苦しむ。本当に自分たちの「伝統」とやらを保守し、「西欧的な価値観」を排したいというのなら、西欧流の人権思想そのものを拒否すればよいではないか。

 「虐殺された中国人が三十万人というのはデマで、本当は一万人だったんだ」などと腑抜けたことを言うのはやめて、「何十万人だろうと何百万人だろうと、弱者に一切同情しなかった私たちの祖先はなんと『男らしい』のだろう」と恍惚感に浸っていればよいではないか。あるいは、「二十万人の慰安婦がいたというのはデマで、数千人の『売春婦』がいただけだ」などとほざくのはよして、「数えきれないほどの女たちを手込めにした私たちの祖先のことを思うと、雄々しい我が国への尊敬がさらにいや増すなあ」などと歓喜していればよいではないか。「戦闘の際も民間人は人道的に扱われなければならない」だの、「女性の尊厳を永久的に傷付けることは許されない」だのといったルールを明文化したのは所詮西欧諸国に過ぎないのだから。しかし、奇妙なことにそこまで言い切る勇気は「歴史修正主義者」にはどうやら無いようである。

 ナチスのしたことを否定しようとする「歴史修正主義者」も同様である。「六百万人も殺していない、実際は数十万人だった」だとか「実はホロコースト自体存在しなかった」などと何を弱気なことを言っているのか。「憎きユダヤ人を絶滅寸前まで追い込んだ私たちの力強い祖先に感謝を捧げよう」と、「戦争には負けたが『劣等民族』を恐怖に陥れた第三帝国民の後継として、私たちはドイツへの愛国心をさらに強める」と、そう言えばよいではないか。なぜそう言えないのか。他国の価値観など意に介さないのならば、早く言ってみろ。




理念の欺瞞を指摘するだけでは不十分である


 要するに「歴史修正主義」とは、素直に事実を受け入れて過去と向き合うことも、「西欧に毒された価値観」を完全に拒否することも、どちらも出来ない煮え切れない連中の最後の隠れ蓑なのである。どれだけ「西欧に毒された価値観」を恨もうと、それに代わる新しい価値観もその価値観に見合った現実的な諸制度も創造することのできない人間が、「いや、実は自分たちこそ西洋人よりも『真理』を知っているのだ」だとか、「いや、実は自分たちこそ彼ら西欧人よりもより『道徳的』なのだ」などと主張しているわけである。「真理が虚偽よりも価値が高いということに根拠はあるのか」だとか「道徳的であること自体には何の価値があるのか」などといった、西欧的な価値観を根本的に転換しそれらを相対化する覚悟も知恵も、彼らには欠けているのである。

 もちろん、西欧流の人権思想とやらに夥しいほどの欺瞞が潜んでいることなどわざわざ指摘するまでもない。そうしたことは、現在も続いているイスラエルによるガザ侵攻が十分すぎるほどあからさまに示していることである。また、今のオリンピックの主催国であるフランスが自由・平等・友愛という理念を掲げておきながら、その背後にどれだけの血塗られた過去を引きずっているかなど、もはや常識の範囲に属する。理念の輝かしい表だけを鵜呑みにすることは確かに愚かである。だが、理念の薄汚れた裏を突いて、その理念自体を転覆させたなどと信じることはそれに劣らず愚かである。



真に反動的である覚悟はあるのか 


 「私はフランス革命のあの『非道徳性』が気に食わないのではない。あの『道徳性』が気に食わないのだ」と言ってのけ、「自由・平等・友愛」といった理念そのものの価値転換を試みたニーチェの闘争を眺めるにつけ、私たちは巷にあふれる「反西欧主義」の皮相さを嘆かずにはいられない。「反西欧主義者」や「歴史修正主義者」たちは無自覚なダブルスタンダードに陥っている。彼ら反動的な人間は、一方では「西欧に毒された価値観」をしっかりと内面化しておきながら、「西欧とは異なった自分たちの価値観や伝統」とやらの無謬性を何とか証明しようとしているのだ。そうした無謀な試みを無理やり可能にするために、過去そのもの、「事実」そのものを捻じ曲げようとしているわけである。

 ああ、何と煮え切らない、何と不徹底な態度なのだろう。はっきりと言っておくが、西欧流の人権思想を受け入れておきながら、自分たちの過去を悔い改めないことなどは無理な注文である。一方を選べば、他方は捨てねばならぬ。血塗られた過去と抱き合い自ら血まみれになる覚悟のある者だけ、「西欧に毒された価値観」を拒否すればよい。



いいなと思ったら応援しよう!